tag:blogger.com,1999:blog-5893791479497784663.post507682910517583648..comments2022-03-05T11:07:21.589+09:00Comments on 大和郷にある教会: 「科学」と「信仰」の対話Unknownnoreply@blogger.comBlogger5125tag:blogger.com,1999:blog-5893791479497784663.post-70812416168214096872011-03-02T13:43:46.021+09:002011-03-02T13:43:46.021+09:00初めまして、三休と申します。「科学」と「信仰」の対話と言うタイトルに見せられて投稿しました。偶々、去...初めまして、三休と申します。「科学」と「信仰」の対話と言うタイトルに見せられて投稿しました。偶々、去年の年末にThe Physics of Christianity と言う本を読んで、著者Frank J. Tipler ニューオーリンズのTulane大学の数理物理学教授が聖書は量子力学、相対性理論、標準分子物理学と全く矛盾しないと言う議論に、門外漢の私も目から鱗の状態で、長年キリスト教に対して抱いていた疑問(蟠り)ー神のキリストに於ける顕現、処女懐妊、イエスの蘇り、永遠の命ーが、一挙に崩されてゆく開放感を味わう事が出来ました。それはまるで、現代にキリスト教徒、ガリレオが再出現してくれた様な感じです。もし、まだお読みでなければ、是非お読みになって、感想などをお聞かせ下さい。宜しく。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5893791479497784663.post-12967590626754118732010-09-21T15:50:29.491+09:002010-09-21T15:50:29.491+09:00よくお出でくださいました。コメントありがとうございます。
少し言葉不足だったようですね。「無前提の解...よくお出でくださいました。コメントありがとうございます。<br />少し言葉不足だったようですね。「無前提の解釈」は当然「不可能」と言うべきでしょう。社会科学の方法論で自然科学に倣って言われてきたのは「価値中立」でした(解釈者の主観、信仰・信念を持ち込まない)。それが客観的知識を保証するように言われてきたのが、どうも違うんじゃないか。むしろ解釈者の「意味地平」は自覚され、解釈の要素に加わるべきではないか、と言ったようなニュアンスです。<br />簡単な例が「聖書の“奇跡”解釈」にリベラル(ナチュラリスト)と根本主義的福音派(スーパーナチュラリスト)とで解釈が分かれるのは、まさに自分の世界観の影響があるからで、聖書箇所を字義的、歴史的、批評的に客観的に解釈するだけでは解決できない、と言う問題です。<br />「眼鏡」は当然たとえです。「解釈の準拠枠」は対象を見る時に“自覚されない”程「自然KoGf1https://www.blogger.com/profile/17896187841471755533noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5893791479497784663.post-403690526286957872010-09-21T10:17:52.873+09:002010-09-21T10:17:52.873+09:00また少しだけコメントします。
>少なくとも人文科学系の場合、自己の立場(世界観)は
>...また少しだけコメントします。<br /><br />>少なくとも人文科学系の場合、自己の立場(世界観)は<br />>「事柄を解釈する」要素として、積極的な<br />>取り扱いを受けるようになるだろうと思われます。<br />>何故なら「無前提の解釈」<br />>「自己の世界観を捨象した対象へのアプローチ」<br />>は解釈学的に言って不十分だからです。<br /><br />不十分かつ、不可能では。<br /><br />>よりはっきり「見る」ために時に、<br />>「眼鏡」を外して、曇りを取ったり、<br />>レンズの強度を変えたりする用意が必要です。 <br /><br />「眼鏡」をはずしたり、レンズの強度を変えたりする、ということも、かなり難しいように思います。<br />ただ、パウロはあのとき「眼鏡」が落ちたの木人http://d.hatena.ne.jp/ecclesiastes/noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5893791479497784663.post-80707481833184901182010-09-20T16:18:14.288+09:002010-09-20T16:18:14.288+09:00かわむかい様、
大変Encouragingなコメントありがとうございます。うまく「信仰」と「学問」あ...かわむかい様、<br />大変Encouragingなコメントありがとうございます。うまく「信仰」と「学問」あるいは「公的立場」を分離して調整できれば、それはそれで良いこともあるかと思います。何しろ両者を調和させることはかなり難しい交通整理がいりますからね。<br />でも単純に「宗教音痴」は政治家にしても、マスコミ関係者にしても、法曹関係者にしても、困り者です。この場合はしばしば「無知」の問題であって「分離」の問題ではありませんね。<br />まあそんなこと言って、誰でも無知の領域は沢山ありますから、発言する時は何についてどこまで発言できるのか一考しなければなりませんね。<br />以前ハーバーマスについて言及しましたが、以前私が留学中ハーバーマスを読んでいた頃は、一体彼は宗教をどう考えているのか殆ど分かりませんでした。ところが最近教皇と対談したり、「信仰」を現在の「世俗化時代」のKoGf1https://www.blogger.com/profile/17896187841471755533noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5893791479497784663.post-71445051830500999152010-09-20T07:53:22.383+09:002010-09-20T07:53:22.383+09:00ミーちゃんはーちゃんことかわむかいでございます。大変Encouragingな記事をありがとうございま...ミーちゃんはーちゃんことかわむかいでございます。大変Encouragingな記事をありがとうございます。<br /><br />「キリスト教国アメリカでも、キリスト教系大学でないセキュラーな大学では、アカデミックな立場とは自分の宗教・信仰を持ち込まない、と言うのが暗黙の了解です。」<br /><br />この表現、非常に、感じ入りました。<br /><br />いまだに、「信仰と学問の分離」の雰囲気が強いのではないかと思います。「信仰と学問の分離」で、「人格的なかい離が起きている」に近い感覚を持ったりすることは、私自身も感じました。この結果、ミーちゃんはーちゃんは、技術的分野に逃げ込むことで信仰のメガネと学問のメガネを掛け替えることで、この問題から逃避したのでした。同じような違和感を感じておられる方がおられることを知り、心強く思ったのでした。とはいえ、我が国の公的機関が設立した学校にミーちゃんはーちゃん AKA かわむかいhttp://voiceofwind.jugem.jp/noreply@blogger.com