2010年8月31日火曜日

無神論

現在活躍中の著名な無神論者ご存知ですか?

日本で沢山の訳書がある神学者のアリスター・マグラスが近年対談した相手、リチャード・ドーキンスなどはその筆頭でしょう。(「ドーキンス対マグラス、パート1」)
その他、良く名前を聞くのが、クリストファー・ヒッチェンスや、少々古いですが、マデリン・オヘアー女史など。

近世ヨーロッパでは、啓蒙主義が覇権を握り、科学興隆後はキリスト教信仰を始め宗教は没落する、と言う世俗化論が一般的でした。
この見方では無神論が増々市民権を強めるはずでした。
しかしポストモダンの文化状況で既成宗教は弱体化を示していますが、広範なスピリチュアリティーへの関心は高まるばかりのようです。

ドーキンスのような攻撃的無神論者はこの状況に大分いらだっているようです。

さて、筆者はツィッターを始めてから、色々な人をフォローしてますが、その中に無神論者を名乗る方がいます。
沢山ツイートをする人で、ユーモアとウィットも感ずる人で、面白く読ませていただいています。
でも信仰者には手厳しい、と言うか毒舌っぽく聞こえるのは致し方ないですね。

昨日、やはりツイッターの情報から、30代くらいの男性が「無神論者は増えている」と言う記事を読みました。(「セキュラー・ヒューマニズムの将来は明るい」)
記者のお国はアメリカだと思いますが、20代から30代の若い人たちの中に増えている、と言う報告をしていました。
キリスト教国アメリカで肩身狭い思いをしてきた無神論者が気軽に“カミングアウト”出来る状況になっていると報告していました。

このような「宗教者(神の存在を信ずる人)」対「無神論者(神の存在を否定する人)」の構図は、日本には少し縁遠い感じがします。
そもそも「神論」が盛んではないからです。
日本では「無宗教」で事足ります。敢えて論ずるまで関心が無いように見えます。

筆者が多くのことを学ばせていただいている、カナダの哲学者・社会学者、チャールズ・テイラーは、先ほど掲げたような単純な世俗化論ではなく、ポストモダンの文化状況では、宗教者も、一定の枠に収まらないスピリチュアリティー関心者も、そして無心論者も、市民社会で共存するような社会が到来していることを、著書「世俗化時代(A Secular Age)」で分析しています。

異宗教間対話も難しいですが、無神論者との対話も今後必要になってくると思います。
日本においては無宗教と言う、その獏とした宗教性をお持ちの方々との対話と言う、また次元の違った難しさもあります。

イエスかノーかの議論ではなく、なぜそのように考え、そのように行動するのか、相手の懐を理解しようと言う意思から始めなければならないでしょう。

宗教者が自分の蛸壺の中で自己の宗教を実践する時代から、市民的対話、市民社会、へと開放されていく時代が来ているのではないでしょうか。

2010年8月30日月曜日

ブログとは何か

最近はツイッターの方が話題になっているようです。

筆者がツイッターを始めたのはつい二ヶ月前です。最近ようやく「ついっぷる」というアプリでリツイートにコメントするのを覚えたり、ネットアドレス、URLを短縮するアプリを知ったり、まだ使ったことはありませんが、「ツイットピック」と言う簡単にツィッターで画像を添付するアプリがあるのを知ったり・・・、まさにまだノーヴィスとしては、ツイッターの世界は筆者にとってワンダーランドです。

さて同時期に開始したブログですが、こともあろうに、O型の筆者がほぼ連日ブログをポストしています。(血液型と性格の関係については本ブログに『性格と品性』と言うタイトルでポストしました。)

これは予想もしなかった夏の珍事です。

そんなに毎日書くこと無いだろうと思ってはいるのですが、PCに向かい、少し気持ちを向けると、何かしら書くことを思いつきます。

牧師ですから、放っておくと信仰とか教会とか、宗教的な話題になってしまうかと思いきや、そうでもありません。トピックが似たり寄ったりにならないよう少し自制していますが・・・。

さて筆者にとって「ブログとは何か」

「大和郷にある教会」のタイトルが示すように、主に教会を紹介したり、教会とその回りにある社会(世間)とのインターフェイスを目指しています。

ですからトピックは一方で社会にある「教会」の自己確認です。
『福音』『伝道』などのラベルのついたポストは、そのような意味合いで書かれています。

もう一方で、個人のブログにとって一般的トピックである『身辺雑記』のようなポストも織り交ぜています。

教会の身辺雑記より、牧師個人の身辺雑記の方が多いかもしれませんが、この辺はうまくバランスを取っていかなければなりません。

木工に関するポストは、そう言う訳で、筆者のパーソナルな『身辺雑記』の一部です。

ブログを始めて二ヶ月経とうとしていますが、他のブログにも“遊びに行く”ようになりました。
つい先日は、かの有名な『はちことぼぼるの日記』ブログにお邪魔して、初コメントを残したら、丁寧なご返事と、『NTライト読書会』をブログリストに掲載していただく、と言うお土産まで頂戴しました。

キリスト者間の交流としてはこれも益なのですが、筆者はツイッターでクリスチャン同士の相互フォローがかなり高い印象を受けていますので、もう少し雑種交流にも手を伸ばせないかと思っています。

英語ではBlogsphereという表現がありますが、徐々にブログスフィアーの『奥地』や『秘境』探検にも出かけたいなー、とまあ今のところは思いだけですが・・・。

今後も読者諸氏、よろしくお願いします。

2010年8月29日日曜日

福音書の朗読

どの教会の礼拝式でも「聖書交読」「聖書朗読」があると思います。
個人的に「デボーション」や「聖書通読」で聖書に親しんでいる場合でも、公同の礼拝で共に聖書を読んだり、聖書の朗読に耳を傾けることは大切なことです。

伝統的な教会ではその主日に読まれる聖書箇所が予め決められている場合があります。
英語でレクショナリーと言う習慣は、ある人たちにとっては退屈なものかもしれません。

長い教会の伝統から“自由に”なって礼拝を守る教会グループは、逆にその時その時聖書箇所が選ばれることになるでしょう。
これも場合によっては聖書の一部だけに偏る弊害があると言えるでしょう。

やはり教会は聖書全体を受け止める姿勢が必要だと思います。


さて「福音書の朗読」、また特定の福音書の朗読に限らず、キリスト者が旧新約聖書全体を朗読する時、どのような自覚が必要なのかを考えて見ます。

それは「実現した」と言う自覚です。
神が(旧約)聖書で約束し、預言者によって証しされていた事柄が、ナザレのイエスにおいて「実現した」と言う自覚です。

これは先ず主イエスご自身の自覚でした。
ルカ福音書4章21説によれば、イエスは会堂で、手渡された巻物(イザヤ書)の中にある「ヨベルの年の解放」を朗読された後、聴衆に対してこの御言葉があなた方の中で「実現した」と宣言されたのです。
有名な「ガリラヤ宣教マニフェスト」と呼ばれる箇所です。

イエスは神の国は、特にイザヤ書40-55章的解釈による神の国は到来した、あるいはご自身のわざにおいて到来している、と同福音書の中で主張されています。

私たちは「まだ」と言う面も承知しながら、神の国が「既に」到来した、神の約束は「実現した」、と言う自覚のもとに聖書を朗読する必要があります。

2010年8月28日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

8月29日 午前10時30分

朗読箇所 マタイの福音書 1:18-25
説 教 題 「福音書の朗読」
説 教 者 小嶋崇 牧師

聖書と朗読セミナー(4)
※礼拝は通常通り午前10時30分から。通常より短い礼拝です。
  礼拝後、用意したマタイ福音書1:18-25を使って朗読練習をします。

2010年8月27日金曜日

夏休み子供木工体験教室

昨年建物の方は一応完成した活水工房。しかし内部の建具は完成までまだ少し。

未完成ながら、一応工房は見切り発車。
木工教室の希望者には試験的に対応している。

夏休みは格別子供の宿題を何とかして欲しい親の希望もあり、今回の企画ができた。
小学生三人、どう言う訳かみな女の子。
作るものは『抽斗付き小椅子』。
殆どキット状のものを、部分的に鋸、鑿、鉋、インパクト・ドリル・ドライバーを用いて製作する。

一回目、二人組みの方は、木のパズルや、蝉の抜け殻や、に気を取られて製作が滞りがち。
一応出来て記念写真。

二回目、小学三年生の小さな女の子。最初は恐る恐る道具を扱っていたが、慣れると結構器用に作る。
こちらは一人なので一緒に遊ぶ子がいない分、木工に集中。
予想ペースを上回って完成。

夏休み課題は学校に展示されるらしい。
まあまあの出来だから、大丈夫でしょう。

みんな抽斗には何を入れるのかなー。

2010年8月26日木曜日

発声準備

あえいうえおあお
かけきくけこかこ
させしすせそさそ
・・・・
わえいうえをわを

牧師の仕事の一つ、と言うか
プロテスタントの教会では「説教」がメインである。
別に礼拝に集う人々が「説教」を聴きにやって来る、と言う意味ではない。
ただ礼拝時間に閉める説教の割合は大きい。
最近では説教が短くなる傾向だが・・・。

聴衆に声が届くための条件は幾つかある。
特に当教会のようにPAがないと、肉声で届かせなければならない。
声量、滑舌、間・・・など。

どれ一つ満足にできるものはない。
声量が足りない。
ちゃんと腹式で発声していない。
滑舌が悪い。

毎回注意されるわけではないが、自分でも少し意識して、礼拝前の時間、準備する。
冒頭のように繰り返し何回か発声してみる。
少しは違いがあるようである。

声はその場の空気を震わせて、相手の耳に届く、と言う物理的な面がある。
しかし声量だけで聞く人の心に入るわけではない。
(説教中、睡魔が襲う場合もある。)
聴衆が説教者に対して耳を傾けていると、説教者の声から微妙にその時の心理や気合を聞き取るものである。
ちょっと準備不足で自信無げだな・・・。
内容のまとまりが悪いな・・・。
力入っているな、聴き所だな・・・。
などなど。

説教はその時・その場限りの“旬”のものである。
原稿だけでない準備も必要と思うようになってきた。

2010年8月25日水曜日

酷暑

猛暑、炎暑、酷暑

どの表現がお気に入り?

「冗談もいい加減にしなさい、このくそ暑い時に!」
と、言われそうですね。
とにかく暑さが付きまとっている今日この頃、暑さを意識しないではいられません。

ちょっと昔話を一席。

米国留学開始時、先ずは語学研修から、と行った先は米国カンザス州。町の名前はピッツバーグ。
いえ鉄で有名なペンシルヴェニア州ピッツバーグではありません。

バスでピッツバーグに着いたのはちょうど真昼間。気温はまさに猛暑のレベルでした。
大学に向かって適当に勘で歩き出したまでは良かったが、何十分歩いても目的地に着きません。
もう一度バス停留所のある町の中心部に戻り、今度はちゃんと見当をつけて歩き出し、無事に大学に着くことができました。
全部で要した時間は二時間ほど。炎天下二時間の歩行は苦行でした。
でもまだ新しい地、新しい経験のスタートで緊張していたのか、それ程暑さで参るということはありませんでした。

カンザス州はアメリカのほぼ中西部に位置し、北からの冷たい気流と南からの暖かい気流がぶつかりやすい平地に位置します。
それはトロネード(竜巻)が起こりやすい土地柄、ということです。

滞在していた七月、八月は夕方になると突然空が真っ暗になり、間もなく土砂降りの雨。という毎日でした。

そんな中、八月だったか、突然サイレンが寮の建物中に響き渡りました。
全員地下室に避難しろ、と言うことでした。
ついに「トロネード警報」発令に出くわしたのです。

初めてのことで筆者はただ皆の後を追って行動するだけ。
トロネードを見たことも、被害に遭ったこともない筆者としては、ただきょとん、という感じでした。

地下室に避難すること約一時間、警報は解除されました。

今地球上で酷暑の地や、洪水の地や、異常気象にさらされているところが多くあります。

日本の炎暑被害も、熱中症による死亡者数などかなりの数に上っています。

暑さにはかないませんが、何とか被害なく過ぎこしたいものです。