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2020年2月7日金曜日

(4)ジョージ・スタイナー(1929-2020) 追記

※当ブログで以前「ジョージ・スタイナーと由良君美」という記事を書いたことがあり、その追記としようと思ったが、少し文字数が多くなりそうだったので(最近更新回数めっきり減ったので気が引けたが)別記事とした。   
『バベルの後に(After Babel)』の著者、ジョージ・スタイナーが亡くなった。

◆訃報・追悼記事(オビチュアリー)
 ・ニューヨーク・タイムス
 ・ニューヨーカー
 ・ワシントン・ポスト

「ジョージ・スタイナーと由良君美」では由良君美が仕掛けたという「スタイナーと加藤周一の(激論に沸騰した)対談」について興味を抱き、だらだらといろんなことを書いてしまった。

それにしてもこの訃報を目にするまでスタイナーが生存中の人とは思っていなかったのである意味びっくりした。生年1929年であれば2年前に亡くなった筆者の父より一年遅いわけで、十分存命中であってよかったわけだが…。

さて「追記」にしたかった部分は、ツイッターで目にした例の「山口昭雄氏、1974年スタイナー・加藤対談の回顧録」である。


 
ついでに、と言っては何だがワシントン・ポストの記事にスタイナーの幼児期のことが書いてあった。(出生時の身体的障害で靴紐を結ぶのにえらい苦労したという。それによって困難を克服する不屈の精神を養うことができた。それが転じて「勉学における『早道・早分かり』の類に対する深い疑念」を持った、とのエピソード。)
The future scholar credited his mother with instilling in him the fortitude to overcome a birth defect that made his right arm 9 inches shorter than the left.

“From her came the conviction that if it’s difficult, it must be fun and worth doing,” he told the London Guardian. “Today the rule of benevolent therapy is to buy shoes with zippers. I could have had them. It took 10 months for me to learn to tie a lace; I must have howled with rage and frustration. But one day I could tie my laces. That no one can take from you. I profoundly distrust the pedagogy of ease.”

2016年8月24日水曜日

今日のツイート 2016/8/24

生活の細部に(も)宿る「美」を垣間見るには・・・。
 一日の仕事を終えて帰宅する。その日、起こった物語を話す。テレビやラジオでさらに物語に耳を傾ける料理をしたり。食卓を整えたり、家族のために何百と行う、単純でしかも深みのある儀式のことである。そして言う。「これが私たちだ。」「(独身であれば)これが私だ。」「ここがまさに私たちが私たちである場所だ」と。そして一輪の花を飾り、家をきれいにする。折々にそのすべての意味を語り合う。(N.T.ライト『クリスチャンであるとは』第4章「美」から)

2016年1月13日水曜日

(3)教養の危機かなー

ここ1-2年、ツイッターのTLを眺めながら通奏低音のように響く問題の一つが「教養の危機」ではないだろうか。

グローバリゼーションが叫ばれ、「国際競争生き残り」が至上命題みたいに印象づけられる中、大学の「一般教養」がどんどん解体され、実学志向が明瞭となり、「哲学いらない」「文学いらない」「人文科学もいらない」風になっているようだ。

人文科学って「ヒューマニティー」ですよ。
人を人たらしめる精神的伝統を軽視するんですか。
といっても西洋ルネサンスの態度を、文化を明治期に輸入しただけ、といやそうなのかも知れませんが・・・。

 

今日はたまたまこの本の書評がツイッターで紹介されていた。

[2016/2/28追記 シノドス・ジャーナルで著者の音楽ジャーナリスト・菅野恵理子が「ハーバード大学は『音楽』で人を育てる――アメリカのトップ大学が取り組むリベラルアーツ教育」と題して短い紹介記事を書いている。]

翻って日本の大学は、実学中心へと方向転換しつつあり、「文学部不要論」まで出る始末だ。けれども、ビジネスや外交の場において信頼や共感を得るにも、教養に裏打ちされた人間的魅力は不可欠だと思う。
評者の松村由利子さんは元新聞記者の歌人だ。

「教養の危機」に対するささやかな抵抗を込めたコメント、と受け取った。

さらに以前このブログで取り上げた北川東子氏の教養についての文章を再読したが、「教養の危機」はやはり深まったように思う。
私のセンサーがとらえた兆候のどれもが、「二一世紀的教養」とは、国際的な破壊の流れのなかで生き延びていくための人類的な智慧のことであり、あるいは少なくとも、この智慧を可能とする知的戦略であることを暗示している。

昨年「イチオシ」で取り上げた水村美苗『日本語が亡びるとき』も、インターネット・英語連合軍というグローバリゼーションに対する日本語・日本文学という土着教養伝統の危機を警鐘し、防衛戦略を提示するものであった。


段々組織的な抵抗を考えていかないとなー・・・。

2015年6月17日水曜日

(3)雑想 2015/6/17

本を一冊読み終わったので何か書こうと思った。

書評とは呼べないので雑想としておいた。



『A Wild Haruki Chase 世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫)

国際交流基金の企画で、アジアや欧米から村上春樹の翻訳者を一堂に集めたイベントが2006年に持たれた時の記録である。

本の紹介はこちらやこちらにおまかせして、ここでは単刀直入に筆者が面白く感じたことを二点だけ。

(1)リチャード・パワーズの基調講演

 これが圧巻だった。最近の脳科学の発見に引き付けながらムラカミ・ワールドを解いていくのだけれど、読んでいて「最近の脳科学」が面白いのか、ムラカミの小説世界が面白いのか、何か混乱してしまった。

 最近の脳科学についてはとても面倒くさくて説明できないので『認知神経リハビリテーション学会』のブログに掲載されていた書評をご参考まで。

 一箇所だけ短く引用しておく。
 村上春樹の小説を読む上での大きな楽しみのひとつは、日常的リアリズムと地下の幻影、この二つのミスマッチされた世界のあいだにいったいどんな関係が生じていくのかを想像するところにあります。これらの別個の、しかし密接に結びついた二つの世界は明らかに、蝶番でつながれたかのように依存しあっているわけですが、その蝶番とは、多くの場合、物語のプロセスそれ自体です。(50ページ)

(2)村上不在の中で翻訳者たちによって熱く語られるムラカミ・ワールド

 本の最後のところに、(国際交流基金)企画担当の佐藤幸治が「『春樹をめぐる冒険』舞台裏報告」を書いている。
 昼夜を分かたず、春樹談義は止まない。あいにくご本人は海外滞在中で参加がかなわなかったけれども、コヴァレーニンさんが、「村上さんはいないけれど、私たちが、まるでそこにいるように彼のことを話すことで、いるのと同じことになったんですよ。これこそまさに村上ワールドです!」と言い、みな納得顔で頷いた。(302ページ)
と言うところで(実際したわけではないが )ひざを打った。

 この「彼」を「イエス・キリスト」に置き換えれば、それはまさに礼拝であり、キリスト者生活であり、伝道・証じゃないか、と。

 
 
 

2015年6月14日日曜日

(5)現代の英語圏神学者②、クリスチャン・ワイマン

『英語圏神学者』シリーズの名誉ある(?)トップバッターにスタンリー・ハウアーワスを選んでからもう3ヶ月が過ぎました。

実際はその後、余録、と余録・続(完)、をアップしているので「開店いきなり休業」ではなかったのですが・・・。


今回選んだクリスチャン・ワイマン、Christian Wiman(1966- )は、「神学者」と言うカテゴリーには当てはまらないかもしれません。

だから「番外」でもいいのかもしれない。

しかし、問題はこれから紹介するワイマンのインタヴュー記事での発言にあるように、「現代」に神学(的なこと)を語れる資質として「詩人」の持つ意義は大きいのではないかと考えます。それでワイマンを2番目に持ってきました。

(実はごく最近彼のことを知りました。)


現代と言う時代

早速宣伝になって申し訳ありませんが、ようやっと出版に漕ぎ着けたN. T. ライトの『クリスチャンであるとは』の第1部は、ライトの「キリスト教入門」の文化的文脈である、ポスト・クリスチャン、ポスト世俗、ポストモダンを分析しています。

その上でキリスト教とのフレッシュな接点を探っていると思います。(このポイントについての簡単な紹介はこちらの記事をお読みください。)

現代の「霊性」の課題とは、特に西洋圏では、聞き慣れた「キリスト教言語・シンボル」を過去のもの(ポスト・クリスチャン)として現代を漂流する人たちが、その霊性の渇き(ポスト世俗)をどのように満たして行くのか(ポストモダン)・・・、とまとめることが出来るかと思います。

キリスト教圏の宗教遍歴

余り風呂敷を広げるのもなんですから、極近い例で言いますと、筆者が米国遊学中に学んだ先生たちの中で典型的なのは、「保守キリスト教信仰」→「信仰喪失」→「潜り抜けた信仰回復」のパターンです。

「潜り抜けた」とは上手い表現がないので暫定ですが、英語で言うとseasonedやweatheredと言うことばが少ししっくり来るように思います。要するに人生の波風にさらされて試されそれを乗り越えてきた信仰、といった感じです。


信仰を持つ者が「疑い」を抱え込み、苦闘の末一旦は信仰を放棄するが、別な経路から啓示や示唆を受けて新たに信仰に目覚める、と言うパターンです。


大事なのは、信仰を持つことによって抱え込むことになる「疑い」と真摯に向き合い、信仰内容に様々な問いを発しながら納得のいく回答を得ようと「議論した(reasoned)」過程の上で新たに信仰に目覚める、というダイアレクティック(弁証法的)な「信仰の軌跡」を刻まれていることです。

これは「最初の確信」をそのまま(殆ど疑問もなく)維持するスタティックな信仰とは対照的です。


具体例①・・・ロバート・ベラー(1927-2013)の場合は、途中マルクス主義に転向した後聖公会に回心します。(Beyond Beliefの序を参照。)


具体例②・・・レイチェル・ヘルド・エバンスの場合は、神学や教会の伝統を柔軟な形で受け止めるやり方で信仰回復し、今はやはり聖公会の信者になっています。

※もちろん信仰回復しない例(バート・イァーマンとか)や、他宗教へ改宗する例も沢山あるでしょう。(断定すると「沢山挙げてください」と言われると困るので。笑)

クリスチャン・ワイマンの場合



この動画ではワイマン自身の『回心体験』を(18分過ぎから)語っています。

バイブル・ベルトでほぼ100%宗教的な環境で育ち、大学以降文学と深く親しむ中で様々な「無神論・懐疑主義」と接する中でたましいの遍歴があったようです。

そしてある種の「回心」に導かれると言う経過を語っています。

ワイマンのケースは典型的ではないかもしれませんが、ある程度、「保守キリスト教信仰」→「信仰喪失」(ここの詳細は不明)→「潜り抜けた信仰回復」のようなたましいの軌跡であったように思います。

そう言う意味でワイマンは以下のように言えるのだと思います。
“I have no illusions about adding to sophisticated theological thinking. But I think there are a ton of people out there who are what you might call unbelieving believers, people whose consciousness is completely modern and yet who have this strong spiritual hunger in them. I would like to say something helpful to those people.”

「信じていない(と思っている)実は信仰者」への神学者として詩やエッセイを書いて行くワイマンに注目したいと思います。

では次は誰を選ぼうか・・・。(乞うご期待。)

[追加、2015/06/15]
※ワイマンがビル・モイヤーの番組で自身の(白血病の一種)ガンについても語っています。




[追加、2016/04/22]
※「信仰遍歴」についても語るインタヴュー記事。

2015年6月10日水曜日

(5)タカ牧師のセブン-3

これで3回目になります。

もう少し続けば慣れてくるかな。

では今回は日本語も3本です。

1. Adela Collins: Overcoming Obstacles to Shed Important Light on the Bible
  『アデラ・コリンズ:女性聖書学者、壁を乗り越え聖書学の前進に貢献』
  最近ではこのブログでも何度か取り上げたと思いますが、エイミー-ジル・レヴィン(ヴァンダービルト大)やベヴァリー・ガベンタ(ベイラー大)など性別に 関係なく尊敬されている学者が出てきています。いわばそのパイオニア的存在のアデラ・コリンズ教授(イェール大神学部引退教授)の紹介記事。

2. Interview: Elizabeth E. Shively
  『エリザベス・E・シブリー教授インタヴュー』
  Women Biblical Scholarsというサイトです。その名の通り、女性の聖書学者をフィーチャーしたサイトです。シブリー教授などは第3世代ということになるのでしょうね。

3. Why Sermons Often Bore
  『なぜ説教がつまらなくなってしまうのか』
  ニューヨークの有名牧師、ティム・ケラーの説教ワークショップに参加した方のレポートです。TGC(ザ・ゴスペル・コーリション)という改革派の人たち中心のグループなので、どっちかと言うと「頭でっかち」な説教してしまうのに対し、もっと「ココロ」に語りかけましょう、と言う方向をオススメしているようだ。

4. Best and Worst Graduate Degrees for Jobs in 2015
  『修士・博士学位別将来収入ベスト/ワースト2015年』(フォーチューン誌)
  学位獲得後の収入を学位別で調べた結果を報告している。収入が良いのは統計学やコンピューター関係。良くないのはばらばらだが、神学はワースト11位だって。これが日本だったら・・・。

5. 集団的自衛権はコスパが悪い
  今国会で論戦たけなわの話題に関する記事です。少し古いですが。元防衛官僚の目から見た政府案の疑問点を具体的に取り上げています。

6. 祝!国際アンデルセン賞受賞。担当編集者が語る上橋菜穂子(前編)
  読んでそのままの記事です。結構読み応えあります。たまたまフェイスブックでR大卒と知ってから読み始めたのですが、上橋さん、なかなか面白い人だと思います。

7. 後編
  一つズルした感じになりますが。ごめん。


以上です。

2014年12月28日日曜日

(3)「いぶせき」考 2014クリスマス

今年も数日でしめくくり。
先日のクリスマスの礼拝から出た「いぶせき」 にまつわるエピソードをご紹介します。


2014クリスマス礼拝、にお招きした北方奈津子さん。


アルト・リコーダーで『グリーン・スリーブス』を演奏する時に披露してくださったクリスマス・エピソードを少し紹介する。

グリーン・スリーブスの旋律に付けられたクリスマスキャロル、What Child Is This、日本語では「みつかいうたいて」。
その2節の歌詞に「いぶせきうまやに 生まれし君こそ」とあるが、この「いぶせき」とは何だろう。
それで国語の先生に聞いてみた。
そしたら、鼻を押さえながら「臭いような場所のこと」だよ、と教えてくれた。
と言うわけで、クリスマスと言うと綺麗なものが一杯のイメージがあるので、何かそんなものだろうと思っていたら、意外にもそのようなみすぼらしい、不衛生な場所で一人お産をしたマリアのことを思い、ひとりごイエスがそのように身を低くして来られたクリスマスの意義に圧倒された(以上概要)・・・
と言ったようなお話だった。


この話を聞いていたHさん曰く、「この『いぶせき』が気になって、気になって…。」


Hさんは「俳句結社銀化」の同人で「葡萄の会」で作句している。

それでその句会に「いぶせき」を使用した俳句を作った。

そしてその句が(思いがけなく?失礼!)銀化主宰に特選に選ばれたのだった。
(今朝その報を伺ってこの記事を書くことを思い立ったわけ。)

いぶせける厩に生まれクリスマス
※この句は早速「銀化句会速報」の葡萄の会(平成26年12月24日)で発表されています。

特選にした選者、中原道夫氏の評は
いぶせける厩は、キリストの誕生の厩。 また、思い通りにならない誕生のひとこま。
だったそうです。


HさんはNHK.BSの「俳句王国」で中原道夫氏が主宰の時ゲスト出演したことがあるそうです。それが縁で「・・・中原先生が、結社立ち上げのときに参加」したそうです。

Hさん曰く、「銀化の句会は、全国に21ヶ所あり、『葡萄の会』は、本八幡で開かれています。葡萄の会の名称も、教会ブログには良いですよね!」とのことです。

中原氏が縁で・・・と言うことでは、この方もそうなのですね。 


ところで 「いぶせき」もそうですが、賛美歌には文語というか昔のコトバがいろいろ残っています。
最近新しい賛美歌が幾つも出てくるようになりましたが、かなり歌詞が口語表現に直されている感じがします。

ゲストの北方さんとも後で話したのですが、この「理解するのにヤサシイ表現改訂」が必ずしも音楽的ではないのではないか・・・。

賛美歌の歌詞というのは「理解するのにヤサシイ」よりも、歌う時の音感が大事なのではないか・・・と言う見方ですね。
 
また「いぶせき」のように少々ムズカシイ言葉や表現があっても、却ってそれが歌詞の意味を深く考える機会になるかもしれません。・・・とは後から思ったことですが。


2014年11月19日水曜日

(5)エマニュエル・カレール『Le Royaume(神の国)』

このブログで朝日新聞が出す日曜版の一つ、GLOBEからのネタは三つ目となる。
価値観の違い
ピアノ調律

最近は新聞には一応目を通しても、斜め読み程度で終わってしまうことが多い。
時々面白く読むこともあるが・・・。

このグローブ版はテーマが雑誌風で面白く読めることがままある。

終わりの方のページには海外のベストセラーの紹介があるが、今回はフランス編だった。

浅野素女(もとめ)『書くことはさまようこと』 
が紹介している文学作品の3冊の中で(ノーベル賞受賞のパトリック・モディアノをさしおいて)筆者の目を惹いたのは、
エマニュエル・カレール『Le Royaume(神の国)』
であったのは題名からして当然であろう。

「テレビや映画でも活躍する多彩な中堅作家」であるカレールの『神の国』は
ある時期の3年間、神を信じて熱心にミサにも通ったという作者が、自身の姿を掘り下げつつ、キリスト教の真髄に迫るエキサイティングな試みだ。
イエスの死から聖書が成立するまでのキリスト教初期は神秘に満ちている。磔刑(たっけい)にかけられたひとりの男の惨めな死。そこに端を発して、キリスト教は不滅のローマ帝国を内部から侵食し、3世紀の間に覆してしまった。
これは、一体どういうわけなのか。カレールは探偵のように、歴史資料を縦横に駆使しつつ、2000年前の物語を現代に引きつけながら検証していく。
と、解説されている。

初期キリスト教が成立する歴史的背景としてカレールが焦点を当てているのは(浅野氏によると)、パウロとルカという二人の聖書記者らしい。

ユダヤ教の枠を越えて、キリスト教が広くローマ世界に浸透して行く鍵としてこの二人に注目するのは至極当然ではあるが・・・。

カレールの『神の国は』
宗教を材料にした娯楽小説でも、信仰の書でもない。それでいて信仰というものにがっぷり正面から取り組んだ野心作である。
と結ばれている。

少し読書欲をそそられた。
が、これだけでは余りにも浅すぎる。

フランス語は読めないし、現代フランス文学についても皆目何も分からないが、ネットととグーグル先生がついているのでとにかく検索開始。

どうやら日本語では何もそれらしき情報にはヒットしない。

著者名と本のタイトルをフランス語で検索するとそれなりに出てくる。

ビデオや記事を幾つか見てみたがやはり言葉の壁て何が何だか分からない。

そんな中、アマゾン英国にフランス語でだが読者書評が一つついていた。

最初これをグーグル翻訳で日本語に訳してみた。
結果は惨憺たるもの。(おためしあれ)

ちょっとあきらめかけたが、別な方法を思いついた。
それは英語に翻訳する、と言う方法だ。
This book covers the first fifty years of Christianity. Emmanuel Carrère conducted a fascinating study on the first disciples of Christ, including the four Evangelists and the groups they formed. Or how the message of Christ is re-translated, edited, published in the first communities around the Mediterranean. We are witnessing the different recruitment strategies of the first disciples, rivalries and alliances, the adventures of these far-traveling evangelists, all described in detail. Often Carrère imagine how it could have happened in the absence of documents or records accurate enough, but when he invented it has the honesty to say. Always with comparisons with events and actors of the modern era (Ben Laden, Lenin, Trotsky, Stalin) which, while avoiding anachronisms, allow to understand the events of 20 centuries old but have helped shape our history. Certainly books more competent, more scholars have been written on the subject. I tried to read one or the other, but these works have fallen from my hand after a few pages. This big book one, I devoured from beginning to end. An extraordinary evocation of what could be the atmosphere and life of the time, you'd be there....

いやー書評の内容はともかく、グーグル翻訳でこれだけ「読める」英語だったら、先ずは合格。

何でこれまでこの方法を試さなかったのだろう。

グーグル翻訳の便利な使い方を一つ習得した。(早速ドイツ語にも試してみた。)


先ほどの佐野氏の書評と比較すると、『神の国』が、厳密に歴史的な検証と言うより、より文学作品的洞察が先導しているのではないか、と思わせる書評だ。

幾らか読書欲は減退したが、しかし今まで越えられないとあきらめていた「フランス語の壁」が、グーグル翻訳である程度解決できることを知ったと言う収穫は大きい(今のところ)。



2014年11月9日日曜日

(3)キリスト者の短歌

丸っきり柄でもないことを・・・。

たまたまこのツイートが目に入った。

佐野豊子さんと言う歌人は(当然ながら)存じません。

ググって見ましたらプログをやっておられました。
佐野豊子の短歌

プロフィールにはこうあります。
わたしのルーツは沖縄ですが、台湾でうまれ、東京の府中で育ちました。
祖母、両親の影響がつよく、沖縄舞踊、短歌、クリスチャンと3つの草鞋をはいています。
「汎神的土俗」と「一神教」が混ぜこぜのようですが、すべての背後にあるキリストの愛をみつめています。
「汎神的土俗」と「一神教」が混ぜこぜ・・・と言うところに興味を惹かれました。

過去(アーカイブ)ちょっと見させていただきました。

冒頭の句でシリアスな句を予想してましたが、そう言うのは少なかった。

何となく目に留まったのは以下。

還暦もすぎてようやく折り返す神のまにまに捨て舟の見ゆ

日高屋はおひいとりさまが多すぎておふたりさまのテーブルにざす


今日はネットサーフィング。遊んでみました。

2014年9月22日月曜日

(3)水村美苗『日本語が亡びるとき』②

ほぼ2ヶ月経っての『続き』となります。

でも先日「加藤周一記念講演会」と題して更新しましたので、ある意味③と数えた方がいいかもしれません。

水村さんの『日本語が亡びるとき』は現在英訳が進んでいます。


The Fall of Language in the Age of Englishはコロンビア大学出版社から、2015年1月発売予定です。

この英訳をなさっている方の一人が吉原真里さんと言うのですが、1968年ニューヨーク生まれで日米両国に在住したと言う水村さんと似通った背景の持ち主です。(吉原真里略歴)

たまたまこの方のブログ(Dot Com Lovers)を読んでみたのですが、なかなか充実した記事が満載で面白いです。

ご本人は既に何冊も御著書をお持ちですが、多くの記事(特に開始した2008年から数年)は幾つかのテーマに絞った米国時事関連エッセイ集として十分お金の取れる文章をお書きだと思います。

最近は色々とお仕事の関係もあるのか更新頻度は大分落ちていますが、自分の著書の感想文コンクールを主催するなど、非常に啓蒙意識、知的意識の高いブロガーです。

一応水村関連と言うことで、
『日本語が亡びるとき』
水村美苗+梅田望夫 
の二つの記事のリンクを挙げておきます。

是非他の記事もご一読を。


2014年9月20日土曜日

(3)加藤周一記念講演会

加藤周一記念講演会なるものに行って来た。
(フランス文化講演シリーズ第280回)
第5回加藤周一記念講演会
「私の知っていた加藤周一さん」
水村美苗(作家)
日時:2014年09月19日(金曜) 18:00
会場:日仏会館ホール - 渋谷区恵比寿3丁目
 
開始30分前には会場に着いたが、もう20-30人くらいの人がホールで待っていた。
事前予約だが、なんでも「120名」定員のところ応募が多く180名くらいを見込んでいるとの係りの人の言。
 
日仏会館は初めてだったが、近づいていくと何やら少し変な建物のように感じられた。
 
それはどうでもいいとして、会場となる1階のホールは別に何の変哲もないが却ってそれが良かった。割合くつろげる感じ。(建物の外観は余り感心しないが、内側はいい感じだ。)
 
予想通り中高年が多かった。
定員オーバーなのは加藤周一のこともあるが、講演者の水村さんが割合知名度が高いこともあるのと、女性と言うこともあるかもしれない。
 
事前に朝日新聞で最近(8/11~)連載された『人生の贈りもの』のプリントコピーがイントロ代わりに配られた。
 
講演者の水村さんも「私の知っていた加藤周一」を余りまとまりなく、断片を寄せ集めて綴るような話だったが、この報告もそれに準じる。
 
 
加藤周一の人となり
 
1. やはり第一に言及されるのは加藤の「知性」。
2. ユーモア
3. 品性
 
確かもう一つあったが、とにかく加藤が人間として第一級、上等な人間であった、と言うことをエピソードを色々交えとつとつと語った。

水村さんが親しくなったのが加藤であったため、日本の知識人を測る標準を加藤にして、その後日本に帰国してから知った日本の知識人、文士たちとの落差にえらく戸惑ったとのこと。
 
水村さんを挟んだ加藤との人的交流では、水村の夫岩井克人、矢島翠、丸山真男、辻邦夫、磯崎新、らの名前があがった。
 
講演は50分ほどで終わり、フロアーからの質問となった。
 
質問は割合活発だったが、その中で信仰・宗教・キリスト教に絡むものをメモしておく。(質問は加藤だけでなく、講演者についてもオーケーとのことだったので、ほぼ半々くらいの割合になった。)
 
①加藤の死直前のカトリック洗礼
 質問者が自分の周りの人たち多くが「えっ」と思い不可解に思ったので加藤と親しかった水村さんが何か事情を知っているか聞いてみたかったとのこと。
 
 水村さんも驚いたと言うし、(初耳だったが加藤の知人らしい)石黒ひでも驚いたと言う。つまり多くの加藤を知る人が驚いたと言う。
 葬式はごく内輪の者達でなされたと言うが、知人たちはこのことをマスコミには伏せておいた方が懸命ではないか、と取り沙汰したらしい。
 
 どうやら経緯から言うと、晩年加藤がかなり意思表示が難しくなったような段階で加藤の家族の者達の意向が主導的となってカトリック洗礼へと物事が進んだらしい。
 
 その辺を反省した矢島翠が、暫く後、加藤の遺骨をあるお寺に分骨したとのこと。
 
②水村自身のキリスト教との接点
 (水村は12歳までは日本、その後海外に住んだ。)小さい頃は学校がミッションスクールだったり、教会学校に通ったりして、それなりに聖書の教えやキリスト教に親しんでいた。
 
 しかしその後青年期で出会ったり、触れたキリスト教は作家仲間たちの殆どがユダヤ人であったりもしたせいで、かなり日本の人たちが知っているキリスト教とは異なるものであった。(説明しにくいみたい。)
 
 
 散会のあと持参した「日本語が亡びるとき」にサインをしてもらった。 
 

 

2014年7月24日木曜日

(4)水村美苗『日本語が亡びるとき』①

「この本は読むべき」とした本をさらに紹介。

そう言う性分なのです。
誰か「これは」と思う人が見つかると集中的に読む。

しかし水村さんはウィキでは1951年生まれ、とあるからそんなに年齢違わない。

ご本人のウェブサイトには余り個人的なことはなかった。


ところで、なぜ今頃「水村美苗」なのか。

あるいは、なぜ出版から(当時かなり話題になったそうだが)6年も経った今頃になって「日本語が亡びるとき」なのか。

偶然です。

取っ掛かりは「加藤周一」でした。

(フランス文化講演シリーズ第280回)
第5回加藤周一記念講演会
「私の知っていた加藤周一さん」
水村美苗(作家)
日時:2014年09月19日(金曜) 18:00
会場:日仏会館ホール - 渋谷区恵比寿3丁目
先日、この講演会の案内がツイッターのTLに流れてきたので、早速申し込みました。
 
その時点で水村さんの名前は存じ上げていましたが、加藤周一とのコネクションについては知りませんでした。
 
申し込みも終わり、さて講演会までまだ時間的余裕もあるし、何か水村さんの本でも読んでみようと思ったのです。
 
「続明暗」についても、小説を作ることがライフワークらしいこともある程度分かっていましたが、敢えて評論やエッセイを読んでみようと思いました。
 
それで先ず読んだのが「日本語が亡びるとき」。
久し振りの「インパクトを感じる」読書でした。
「せいぜい数年に一度くらいあるかないか」のインパクトでした。
 
早速何人かに「これこれ、読んでみて」と声をかけました。
 
図書館から借りて読んだのですが、早速ネットで購入しました。
中古ですが状態いいやつを入手することができました。

他に借りていた水村さんの本を続けて読みました。
「日本語で読むということ」
「日本語で書くということ」
加藤周一についてのエピソードには読んでいて「ウルウル」しました。


しかし迂闊にもこの本が出版された時かなり話題になっていたのですね。
全然気がつきませんでした。

WEB進化論の著者、梅田望夫との対談が出版後間もなくあったのですね。

(次回に続く)

2014年7月21日月曜日

(4)これは読むべき!!

最近更新がないので「夏休み」にでも入ったかな・・・と思われた方も多いと思います。

突然復帰です。

それは左サイドバーの一番上に新しく登場した「一押し!」コーナーを兎にも角にも説明して置いた方が宜しかろう、と思って。

水村美苗『日本語が亡びるときー英語の世紀の中で』
一章 アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々
二章 パリでの話
三章 地球のあちこちで<外の言葉>で書いていた人々
四章 日本語という<国語>の誕生
五章 日本近代文学の奇跡
六章 インターネット時代の英語と<国語>
七章  英語教育と日本語教育

水村美苗は、多分夏目漱石の未完「明暗」を「続明暗」で“完結させた”作家として話題になったことで少し有名かもしれない。

昨日借りてきて今日読了し終えたばかりなので、少しせっかちな評価かもしれないが、一種の「必読書」だと感じている。

どんな人に対して「必読書」か、という説明を試みる前に、一章から少し引用しておく。
 私たち作家にとっては、<自分たちの言葉>が「亡びる」ということは、私たちがその担い手である<国民文学>が「亡びる」ということにほかならない。
 私たちみんながその担い手の一人である<国民文学>。
 その<国民文学>がひょっとしたら「亡び」てしまうかもしれないのを、ほかの作家たちはなんと考えているのだろう。あるとき歴史のなかで生まれた<国民文学>。その<国民文学>がすでに最盛期を迎え、これから先は「亡びる」しかないかもしれないのを他の作家たちはなんと考えているのか。これから、百年、二百年後、<国民文学>が形としては残っていても、そこに今までのような命が脈々と息づくことはないかもしれないのを・・・・・。
 かれらは、英語という言葉が<普遍語>になりつつあることの意味を、いったいなんと考えているのだろうか。
 そもそも、そんなことについて考えることがあるのだろうか。(52-3ページ)
水村が参加した世界のあちこちから集まった「作家たち」との交流の中で次第にある疑問が形成されていく。

作家と言う言葉を糧にして生きる者たちが、このような国際交流(英語を母語としない者たちがそれぞれ自国語の文学を担うと言う共通意識で接する環境)を通して持つのではないかと思われる「自覚的・先鋭的問題意識」が共有されているのかどうか・・・・・・。
 アイオワの青い空のもと、街路樹の葉が少しずつ黄ばんでいくなか、かくも熱心に、<自分たちの言葉>で書く作家たちと暮らすうちに-しかも、その作家たちが、自分も含め、「亡び」ゆく人々かもしれないと思うようになるうちに、「une literature majeure」というその言葉が、何を私に語りかけていたか、少しずつわかるようになっていった。そして、振り返るようになっていった。そして、振り返るようになるにつれ、その言葉は、その言葉を口にした人の意図を超えて、私にとって深い意味を持つようになっていった。それは、日本に日本近代文学があった奇跡を奇跡と命名する勇気を私についに与えてくれた。だが、その奇跡は、そのまま喜びに通ぜず、その奇跡を思えば思うほど、ふだんからの悪癖に近い「憂国の念」がいよいよ私の心を浸していった。
 日本近代文学が存在したという事実そのものが、今、しだいしだいに、無に帰そうとしているのかもしれない・・・・・・。(強調は筆者、56ページ)
そして日本の近代化という特殊歴史状況のもとで成立した「日本近代文学」が次第にはっきりした輪郭を持って掴み取られていく過程が始まったことを示唆している。

一読して分かると思うが、一作家の「個人的体験」に根ざしながら、言葉・文学を巡る考察を中心にした「文化・文明」論にまでなっている。

しばしば説明の要に引用されるのは、夏目漱石の時代的・文化文明的意義である。

それは文学作品だけでなく、彼が留学から帰国後東大の英文学教官の立場をラフカディオ・ハーンから継承した後に彼が到達しようとしてある意味できなかった英語と日本語のハザマから出てくる文明的役割の難しさの問題についての指摘によって浮き彫りにされている。

とても一言では要約できない、問題群が的確な用語の整理と、明晰の議論の積み重ねで、説得的にまとめられている。
なるほど書き終えるのに5年を要しただけのことはある。

いずれにしても次のような方々には一読をオススメする。

①これからの日本、特に「国際化」の問題について考える必要を覚えている人。
②ビジネスにしても何にしても、組織の指導的役割にあり、どう言う将来像のもとに戦略的実践を積み重ねるか考えている人。
③教育、特に国語と英語の教育問題を総合的に考える必要がある人。
④翻訳、特に英語からの翻訳に従事している人。
⑤少し飛躍だが、大学の一般教育、従来「教養」という概念が担っていたものとは何か、を考える必要がある人。
⑥また(ちょっと斜に構えた物言いになるが)、子供の将来にとって「英語」は必須であると強迫観念を持っている人。

などである。


とにかくこの本の中で、指摘され、分析され、議論されている事柄は長期的視野で策定するべき国家戦略に関わる重要問題であることは確かだろう。
それについて書いた人物が単なる「女性小説家」の一人であるかどうかは本質的問題ではない。(その属性についての好き嫌いの問題ではない。)

2014年6月16日月曜日

(5)ジョージ・スタイナーと由良君美

 先日、粉河哲夫について投稿した。

 その時「検索していて」出遭ったのが、文学批評を専門にしているらしいqfwfqの水に流してというブログ。

 そのブログのスタイナーの続き、あるいは由良君美と山口昌男(2012年6月23日)と言う記事に粉河がコメントを寄せている。
・・・スタイナーの加藤批判は、ある意味で岩波・朝日文化人の硬直さを鋭く指摘しており、論争を仕掛けることになった由良さんは、このときばかりは、してやったりという顔そしていました。・・・
これに対してブログ主(服部と言う方なのか)はこう切り返す。
・・・やっぱりね、由良君美も人がわるい。スタイナーこそ、いい迷惑でしたね。・・・
筆者がR大学で「ひたすら勉強しない」努力を傾けていた時、後に彼方米国遊学中に勉学・研究のため関心を持つことになる加藤周一等「日本の現代知識人」の思想状況を垣間見せる、「スタイナーと加藤周一の口論」構図は以下のように描写されている。
 ときは1974年、パリ五月革命後の急速に沈滞してゆく西欧の反体制運動の気運のなかで、コミュニスムの理想はいかに実現可能かをめぐって、ふたりは鋭く対立した。スタイナーのペシミスムにたいする加藤周一のオプティミスム。むろん、加藤周一のオプティミスムは、「英知においてはペシミスト、だが、意志においてはオプティミストたれ」とグラムシのいう「意志としてのオプティミスム」である。
先のコメントによると、どうやらこの「口論」を演出したらしい由良君美なる人物に関心をそそられた。

 ネット検索して見ると、粉河哲夫ほどではないが、 由良君美も至って「マイナー」な存在に見える。しかしやはり「加藤・スタイナー」が日本で公開討論するのを仕掛けた人物としてもっと知りたい。

 と言うことで昨日図書館から借りてきたのが、四方田犬彦「先生とわたし」 だ。先生とはもちろん四方田にとっての先生であった由良君美のこと。

 いやー、なかなか面白い。筆者が不勉強を通しているほぼ同時期に、非常な知的興奮を覚えていた人たちがいたのだ。

 しかしそれは「東大」であったからではなく、多分にこの東大にあっては異色の「教養人」、由良君美に負っているのが読んでいて伝わってくる。

 四方田が研究の進路を「宗教学」(その頃東大では柳川啓一教授が面白かったらしい)の方に取ろうとしていたのを由良は推したのだと言う。

 また由良は四方田たち学生にエリアーデを読ませていたらしいし、四方田には個人的に北畠親房の「神皇正統記」を「隠れた」比較神話学のテキストとして紹介したとのこと。


 と、ここまで書いてきてタイトルに挙げた「ジョージ・スタイナー」についてはまだ何も書いていないのに気付いた。

 スタイナーを最初に耳にしたのは何時だったか。すくなくとも「ちゃんと知った」のは、プリンストン神学校でのダニエル・ジェンキンス教授の「神学と言語」みたいなタイトルの講座だった記憶している。

 その講座ではテキストの一つに使われたのが、Gerhard Ebeling, Introduction to a Theological Theory of Language、だったが、副読本に挙げられていたのがGerge Steiner, After Babel: Aspects of Language and Translation、だった。

 ジェンキンス教授は英国の親バルト神学者で、この時は客員で教えていたのだ。(ベン・マイヤースのこの記事が少し参考になるか・・・。)

 何はともあれ、ペーパーバックの大著に見えたスタイナーの『アフター・バベル』にはかなり気圧された感じで、結局手をつけていない。


 しかし「先生とわたし」と入れ替えに返却した『知の○○○○○○○』(ヒント、○はすべてカタカナ)は期待とは逆につまらなかった。

 日本の人文系の若手たちが思想史から中世・ルネサンス期を見直す論文を書いているのだが、「パトスがない」、というか一様に「のっぺり」していて気味が悪い感じがした。仕掛け人(らしくある)のH・Hは一体何をどうしたいのだろう・・・と思ったのだった。

[追記]
Daniel Thomas Jenkins (1914–2002)については、Oxford Dictionary of National Biographyの項を参照。 上記「客員」と書いたが正確には「3年間契約」での教授職だったらしい。

2014年5月27日火曜日

(3)ことば/コトバ考:聖書と文学 3

今回3回目となります。

ご案内してきた「ヨナ書の表現よみ」と言う催しが、間近になりました。
※まだお席あります。今すぐ、予約どうぞ!!!(詳細は上のリンクをクリック!!!)

2014年5月30日(金)、午後2~3時半
巣鴨聖泉キリスト教会
今回は「表現よみ」をしてくださる、ゲストの渡辺知明さんへのインタヴュー記事です。

*  *  *  *  *  *  *  *

(1)渡辺さんがよく「表現よみ」している文学作品と比較して、『ヨナ物語り』は何か共通しているものがありますか。
(2)あるいは「違和感」はありましたか。あったとしたらどんなところでしょう。
――もちろん文学としての共通性はありますが、表現よみはおもに小説を読みます。ヨナの物語は、物語ですので寓話のような傾向があります。違和感というよりも、このあたりが基本的なちがいでしょう。

(3)渡辺さんは作品を声に出して「表現」することを「表現よみ」と呼ばれていると思うのですが、その際「解釈」が様々な形で反映されると思います。
「ヨナ物語り」を「表現よみ」するに当たって特に工夫した箇所などありましたか。
――物語の場合には、小説とは違って、人物の「内言(内面の言葉)」の表現があまりありません。ですからリアルに読むためには、人物の感情に「はいる→なりきる→のりうつる」という表現の工夫が必要だと思います。
(4)ヨナ書では、ヨナの預言と呼べるようなものは3章4節の「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」くらいで殆どありません。
だからヨナ物語り、などとよく呼ばれるのだと思いますが、現代社会で「預言」と言ってもぴんと来ませんね。
むしろ大川隆法のような怪しげなものになってしまいます。

現代では人々が「はっ」と我に帰って生き方の方向を大きく変えるような警句とはどんな形で「来る」のでしょうか。

私が昔好んで聞いたサイモンとガーファンクルの歌に「預言者のことばは地下鉄(駅)の壁に書いてある(サウンド・オブ・サイレンス)」と言う歌詞がありましたが・・・。
――キリスト教においては「預言」が神からの指令のような意味を持つのでしょうか? 現代においては自らの意思による自主的な行動になるような気がします。そのための前提になるのが、真実の認識と情報の開示なのでしょうが、マスコミによる秘密がそれを妨げているような気がします。
(5)「表現よみ」はパブリックな場でのスピーチやシュプレヒコールのようなものにはどんな意見を持つでしょうか。

「特定秘密法案反対」と賛成できるものであっても大抵一本調子で絶叫タイプで、「表現」としてかなり稚拙、非洗練ではないかと思うのですが。

またヘイトスピーチも、そして政治の場での「発言」も、しばしば絶叫・罵声・罵倒・怒声になってしまうのはどう思われますか。

政治の場、パブリックな場での「表現よみ」の適用は何かありますか。
――表現よみの基本は「オーラルインタープリテーション」だと考えています。つまり、ことばを理解するための自分にとっての表現です。表現を目指すことによって理解が深まるという考え方です。
ですから、他者に向けた言葉の表現においても、自らの認識やモラルが問われるのだと思います。
(6)今回「文語訳」で「表現よみ」なさることにしたのはどんな意図でしょうか。現代語訳では不足があると思われますか。
――「文体そのものがは思想のかたちである」という考えが前提です。現代語訳と文語訳では、厳密に言うと思想がちがのだと考えています。それは情報伝達のレベルではなく文学思想の微妙なところです。
(7)文学作品を「表現よみ」なさる場合もそうだと思うのですが、その作品がどのような視点(誰の視点、主人公の視点、第三者の視点、一人称、三人称、などなど)で語られているか、と言うのを意識することが大事だと思うのですが、ヨナ物語りはどうだったでしょう。
――聖書というものの語り手の立場を考えました。ある意味で「説教」ということになります。日本の文学で言うなら、芥川龍之介「蜘蛛の糸」などは典型的なものです。次に問題になるのが、作品構成における聞き手の設定です。だれがだれに向かって語るのかということが、いわゆる「視点」の立体化になると思います。
(8)今まで「表現よみ」なさった作品の中には、ヨナ物語りのように「一定のメッセージ、教訓、道徳訓」のようなものを内包するものがありましたか。
――作品の教訓というよりも、関連する作品をいくつか思い浮かべました。
太宰治「人魚の海(新釈諸国噺)」での船が荒れる場面。
丸山健二『白鯨物語』(2013眞人堂)にヨナの物語の引用があります。もともと「白鯨」に書かれているものでしょう。
また、中島敦「文字禍」は、アッシリアやニネベを舞台にした話です。
*  *  *  *  *  *  *  * 

④で、「キリスト教においては「預言」が神からの指令のような意味を持つのでしょうか?」、とありましたので簡単ながら・・・。
「預言」はどちらかと言うと旧約聖書で主要なものです。新約聖書(キリスト教)はその「預言」が成就した、と言うところにポイントがあります。

「預言」は、予言のこともありますし、指令のようなこともありますが、そのような具体的内容に関わらず、起源が神の言葉である、と言うことがポイントだと思います。

ですので「預言」、つまり「神の言葉」を預けられた預言者は、自分の好きなようにその言葉を改変することが出来ませんし、また都合が悪いので言わないでおくと言う選択肢もありません。
彼は「預言」せざるを得ないのです。たとえその内容が聞く民に怒りを引き起こし、預言者を殺そうとするような厳しい警告のような性格のものであっても。
丸山健二『白鯨物語』(2013眞人堂)・・・と言うご指摘は日本現代文学に全く疎い筆者にはありがたいものです。
当初「ヨナ書」を題材にした日本現代文学は、丸谷才一の『エホバの顔を避けて』しか見当たりませんでした。(一応読みました。)

確かにメルヴィル『白鯨』はヨナ物語の引用どころか、重要なモチーフになっています。
それもこれもヨナを飲み込んだ魚が鯨と想定されているからですが。

メルヴィルは北米東部地方の捕鯨船の船乗りたちの逸話などを集めて物語を作ったようですが、その中には、
「鯨の胃液でヨナは生き延びれなかったはずだ。」
「地中海で鯨に飲み込まれたとして、イラク付近で吐き出されるまでには三日以上かかったはずだ。」
「鯨の回遊路としては喜望峰を回ってインド洋に入る方が自然だ。 (その場合さらに日数がかかったはずだ。)」
と言ったようなヨナ書を史実に基づいた物語として読んだ場合の難点が物語の中で議論されているのだそうです。

また船に乗り込んだマップル神父がヨナ物語りを聴衆に回想させながら、ヨナが鯨に飲み込まれる前の様子を、詩篇18篇を引用して描写しているくだりがあるそうです。
ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。
死の縄がからみつき/奈落の激流がわたしをおののかせ
陰府の縄がめぐり/死の網が仕掛けられている。
苦難の中から主を呼び求め/わたしの神に向かって叫ぶと/その声は神殿に響き/叫びは御前に至り、御耳に届く。(詩篇18篇4-7節、新共同訳)
※以上は、Moby-Dick Summaryウェブサイトの「各章要約」を参照。

以上、渡辺さん、『インタヴュー質問』への回答ご協力ありがとうございました。
当日の「表現よみ」と対論のお相手もよろしくお願いします。