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2015年11月29日日曜日

(4)タカ牧師のセブンー6

何と最後に「タカ牧師のセブン」を投稿したのは三ヶ月以上も前でした。

その間「候補記事リスト」はたまるばっかり。

でも少しずつ在庫整理するしかない。


1. The Problem of Irrational, Unteachable Christians
  『頑固でわからずやのクリスチャン、という問題』

 PATHEOSというブログを集めたサイトがあるのだが(右側コラムで言うとジーザス・クリードとかユーアンゲリオン)、同じ「福音派」カテゴリーにあるのがロジャー・オルソンのブログだ。カリスマ派の出自で、カルヴィニズムに対抗する論陣を張ることで知られる。
 日本では今年「反知性主義」が話題になったが、クリスチャンの中でオープンな議論を頑固に拒否して持論に居座り、馬鹿馬鹿しいと非難されても一向に構わないようなタイプの人たちのことを論じている記事。

2. Fundamentalists and Scholarship
  『根本主義者と学術研究』

 これも上と同じサイトにあるジェームズ・マグラスのブログ記事。
 熱心で敬虔なクリスチャンの中には「聖書の学術的研究など必要ない。自分はただ聖書を読むだけでいい。」などとうそぶく向きがあるが、その見識の浅はかさを「図」を用いて解説しているところが味噌。(誰か日本語に置き換えてくれないかな。)

 (『根本主義者がいかに学術研究に依存しているか』を示す図)

3. Chagall's Jewish Jesus
  『シャガールが描くユダヤ人イエス』

 ハシディック派ユダヤ人であるシャガールの絵画を解説している(動画)。
 ナチ政権下の1938年、シャガールはユダヤ人イエスを描くようになった。「ユダヤ人迫害は実のところクリスチャンの迫害に等しい。彼らのイエスはユダヤ人だから。」と絵画で訴えたのだ。

4. Are We Mormons a Cult?
  『モルモンってカルトなの?』
 モルモン教のライターは昔バプテストの信者との会話の中で「カルト」呼ばわりされたことがある。では、「カルト」とは何か・・・ポイントを挙げながら、該当する点、該当しない点、を整理してモルモン教がカルとではないことを弁明している。

5. 102-Year-Old Finally Awarded Ph.D. She Was Denied Under Nazis
  『102歳で、ナチ政権下で中断させられた博士号をついに取得』

   すごいです。もちろん視力等衰える中、仲間の助けもあり、オンライン情報を駆使して完成。取得の挨拶では「私のようなことをナチのために断念させられたりした方々のためにも」とその喜びを語っていたそうです。

6. 「相手の心に刺さる言葉はどう選ぶか」

 心に刺さるコトバは、ツイッターでフォローする某キリスト教雑誌編集長が使っていた表現で気になった。で、グーグルしてこの記事に。

7. 「井上達夫『リベラルのことは嫌いでも・・・』を読んでしまった」

 イスラーム研究がご専門の池内恵(さとし)東大教授のブログ記事。同じく東大教授の法学研究者井上教授へのオマージュを込めた著作紹介読書暦を綴っている。


2015年10月6日火曜日

(5)英語圏ブログ紹介⑯

第4回N.T.ライト・セミナーが終わり一息ついているところです。

ブログの更新が一月ほど滞っています。

再開というほどのことではありませんが、手始めに『英語圏ブログ』シリーズの更新から。


THE JESUS BLOG、という新約聖書学専門のブログがあります。

寄稿者というか「複数で運営するブログ」の中でも、(新約聖書学で)現在最も充実しているブログではないかと思います。

クリス・キースとアンソニー・ルダンという若手に英語圏ブログ⑫で紹介した、少し先輩のジェームズ・クロスリーも加わり、最新の英語圏研究情報や動向を次々記事にしています。

 ※アンソニー・ルダンは、筆者のアズベリー神学校1年生のときのルームメイトが教えるUnited Theological Seminaryの新約学教授です。

最近(ここ数ヶ月)目に付いた記事の中では、

(1)Richard Bauckham Responds
(2)Hidden from the world in German Higher Education
が目に付きます。



(1)Richard Bauckham Responds

 最初にアンソニー・ルダンが書いた記事が、Are Firsthand Accounts More Reliable?

 そこでアンソニーは、たとえ「目撃者の証言」であっても記憶というものがときに信頼性がないのだから、いつも確かとはいえない。という見方を示します。

 その記事のコメント欄で誰かが、ボーカムの本、『イエスとその目撃者たち:目撃証言としての福音』を引き合いに出したわけです。

 今では重鎮の域に入ったかと思われるリチャード・ボーカムが、「目撃者の記憶の信憑性」を問われたことで、ディスカッションに参入するという面白い展開となったわけです。

 それを後日改めてボーカムの反論コメントを軸に構成しなおして記事にした、というわけです。

 ボーカムは、このブログ記事でも紹介したように、ときどきブログ上の討論に参加することがあります。

 といっても、ハータド(表記はフルタドとしていますが、発音は殆どハータド)のブログにしても、このジーザス・ブログにしても、かなり専門的なものなので、慎重なボーカム氏も登場したわけでしょう。

 こういう学術的な応酬がときどき見られるのが英語圏ブログの面白いところだと思います。

でも、まとめに使われたボーカムのコメントの最後の部分には目を留めておく必要があると思います。
Thank you, Chris, for your detailed attention to my arguments. I'm glad that we are in agreement about a lot of things. As you know, I esteem your work. We are both (and Anthony) facing up squarely to the key question: Where do we go now that form criticism has collapsed?
「様式批評学は倒壊した」という前提をボーカムも、クリスやアンソニーも共有した上で、『記憶』を梃子にした再構成アプローチに前進する、ということなのでしょうね。

 つまり福音書研究、史的イエス研究の方法論的方向の一つとして。


(2)Hidden from the world in German Higher Education

 こちらはジーザス・ブログについ最近加わった、クリスティン・ジャコビ (Christine Jacobi)
の初投稿記事です。

 ドイツ語圏で訓練されたクリスティンのスタンスはブルトマン再興を予感させるものらしいことを言っています。
Being a newcomer and researching, hidden from the world, in German higher education, I was able to meditate on and investigate these and other exegetical, theological and philosophical questions and surprisingly, many of my insights turned out to be very close to the theses of this famous man shown above. So I find myself asking: Are we living in a Bultmann-revival-era?
彼女がこれからどんな記事を発表するのか、今後注目したいと思います。

2015年8月11日火曜日

(3)英語圏ブログ紹介⑮

すっかり忘れないうちに、このシリーズも追加しておこう。

⑬マーク・コーテーズ
⑭ピーター・ライトハート

と来て、今回は新約聖書学に特化したブログです。

右コラムの「マイブログリスト」にもありますが、
マシュー・モントニーニのNew Testament Perspectivesです。

なぜこのブログを思いついたかというと、最近「のらくら者の日記」ブログにアップされた英国学者主教の伝統のことを書いていたからです。
(記事のタイトルはもっと物騒なものなので書きませんでした。)

ドイツのチュービンゲン学派に対抗する英国の学派は一世紀以上前のダーラム主教を務めたライトフットやウェストコットによって作られた・・・と紹介しています。

今話題となっているN.T.ライトがやはりダーラム主教を務めましたが(2003-2010年)、この記事を書いて以降問い合わせがあり、「・・・日本の福音派の人たちがあまりにも J. B. ライトフットや B. F. ウェストコットらについて知らないことに驚いている。彼らとその業績を知らなくて、どうして N. T. ライトを語れるのだろうか?!」と別の場所で嘆いておられました。


モントニーニのブログはある意味玄人好きのするサイトで、ライトフット、ウェストコットのような昔の学者や現在活躍中の人たちもいろいろカバーしています。

結構渋い名前もあり、とにかく新約聖書学者のフーズ・フー(Who's Who) という感じです。

ちょうどライトフットとウェストコットに焦点が当たりましたが、
Lightfoot did, however, continue to take notes on John's Gospel, which Ben Witherington III discovered at the Durham Cathedral Library in the spring of 2013. With this discovery and its future publication (The Gospel of St. John: A Newly Discovered Commentary; Dec. 2015; InterVarsity Press Academic; 384 pp.), perhaps Lightfoot's name will be placed alongside the pantheon of the great British commentators on the Fourth Gospel.
とのらくら者さんが別なところで紹介していたベン・ウィザリントンⅢアズベリー神学校教授の発見がきっかけで本となる、ヨハネ福音書註解のことを書いています。(Lightfoots Commentary on the Gospel of John)

日本ではとても有名な(故人ですが)F.F.ブルースについても音声ファイルのアーカイブを紹介しています。

まっ個人的には一番スリリングだったのは、N.T.ライトのメンターであった(博士論文指導教官だったが残念ながら完成前に亡くなった)G.B.ケアードの『新約聖書神学』のもととなった講義の音声ファイルが見つかり、公開されている。

この『新約聖書神学』は、筆者にとってとても思い入れの強いものなのです。 

2015年5月11日月曜日

(4)タカ牧師のセブン-1

またまた性懲りもなく新しいシリーズをば始めます。

シリーズ名はトレヴィン・ワックスのTrevin's Seven/TGCからのパクリです。


近頃まとまった文章を書くのが面倒くさくなりました。

かと言って読んだものを紹介したい気持ちはあります。

簡単な紹介コメント程度で、幾つかまとめて、アップ・・・方式はやりやすいと思って採用します。


英語ものが多いと思いますが、限りません。

ジャンルも神学関係が多いと思いますが、限りません。


記念すべき1回目ですが、特にこれと言うわけではありません。

では前口上はその辺にして・・・。


1. 10 Things I Wish Everyone Knew About Jesus
  『イエスについて、これだけは知ってて欲しい10のこと』
  ジェームズ・マーチン神父による、史的イエス超入門(2014年11月)

2. The Good News Hasn't Changed But How We Proclaim It Must
  『福音が変わるのではなく、伝え方が変わるのだ』
  ジェームズ・スミス(カルヴィン大学哲学科教授)のによる「テイラーの読み方一例 」
  ポスト世俗化の宗教は『何を』ではなく『どのように信じるか』が問題だ。伝道、牧会の専門家たちは、テイラーのこの診断を見過ごしにすべきではない。(2014年11月)

3. The Backward Culture
  『退行する文化』
  福音の土着化によって、キリスト教文化が出来上がってきたのに、今やネイティヴィティーがパブリックから排除されたりしている。何と言う反キリスト教文化の動き・・・。とカトリックの方が嘆いておられます。 (2013年4月)

4. Christocentric Hermeneutic Part 1: Against Principlizing
  『キリスト中心的解釈論、パート1 原則化に抗する』
  女性ブロガーのレスリー・キーニーさんが、クリスチャン・スミスの『The Bible Made Impossible』が標的にしたビブリシズムの問題・・・即ち聖書をあたかも「真理体系のマニュアル」が如きものとみなして行ってしまう“科学主義”的な聖書解釈アプローチ。それへの修正案・対案として「キリスト中心的解釈論」を提示するにあたっての緒論・試論的な考察。(2011年11月)

5. Christocentric Hermeneutic Part 2: Can A Narrative Be Authoritative
  『キリスト中心的解釈論、パート2 ナラティブは権威となるか』
  キーニーさんの「キリスト中心的解釈論」を提示するにあたっての緒論・試論的な考察のパート2。ナラティブとしての聖書は「権威」として機能しうるか、の問題を論じる。(2012年1月)

6. 外国人に話しかけられた時の衝撃の一言
  ぐっと趣向が変わって、笑いもの。(Naverまとめ)(2012年5月)

7. [東京版2015年] 美味しいワンコインランチ特集 [秋葉原編/食べログ]
  食べる方も一つ。場所に関してはオススメと言うわけではありませんが。とにかくワンコインの魅力で。


  

2015年3月29日日曜日

(3)英語圏ブログ紹介⑭

こちらも久し振り。

たまたま今朝[注、もう書き始めて2週間が経ってしまいました]目にした記事が簡単で良かったので・・・。

ピーター・ライトハート(Peter J. Leithart)



はFIRST THINGSという"America's most influential journal of religion and public life"と自分で謳うほどのカトリック論壇誌でブログ(コラム)を持っている神学者です。

最近始めた「英語圏神学者」に加えてもいいかもしれませんが、コラムの記事は殆どが「短い断想」系でその点で少し規準に合わないかなと思いますので「英語圏ブログ」でご紹介・・・。

義のための器官
We die to sin in baptism, Paul says. Liberated from sin, we are to devote the members of our bodies to God and His righteousness. We already participate in Jesus' resurrection; His resurrection power is already at work in our bodies (Romans 6).
私たちはバプテスマにおいて「罪に死」んでおり、罪から解放された私たちはその体を神と神の義のささげものとする、とパウロは言います。私たちは既にイエスの復活に与っているのであり、その復活の力が私たちの肉に働いている、と言います。(ローマ人への手紙6章)

では「私たちの体・器官が義のための道具になっている」とは一体どんな感じのことを言っているのでしょう・・・とライトハートは問いかけます。


(と、ここで早くも道草)
何代か前の自民党首相で「言語明瞭意味不明瞭」 と言われた方がおりました。

単に日本語で読めるからと言ってその意味がいつでも明瞭か、と言うとそうではありません。

言葉の意味はその言葉だけでは成立せず、最低でも一つの文章と言う「意味の単位」に置かれた中で明瞭となります。
(実際には意味の単位はなるべく「大きく構える」ことが大切であることを、たった2回で中断してしまった『聖書入門』シリーズで書きました。特に「分かるようで分からない聖書入門、2」参照。)

小学校5年生で受洗した時に聖書をもらい、それから段々と通読も含めて聖書を読むようになったのですが、日本語で読めるということは聖書を理解する時にしばしば勘違いを起こしやすいのではないかと長い経験から筆者は思うのです。

単に字を読めたことを「理解」と勘違いしやすい、ということです。

通読などしていると、ほぼそんな感じで読んでいることがしばしばです。
理解しようとして読んでいないのですね。

理解するためには、読んでいる箇所をある程度意識的に「解釈」する(=意味を定める)必要があります。

これは訓練が必要です。
「一体パウロはここで何を言っているんだ」、と読んで分かったつもりにならないで、「意味を問う」ステップを作るのです。


(と、ここで本題に戻って)
「私たちの体・器官が義のための道具になっている」とは一体どんな感じのことを言っているのだ?

このようにライトハートが読者に「意味を問う」ているわけです。

ライトハートの提案は「体の器官」に注目して、聖書中に「文学的繋がり」を探す、と言う手法です。

言葉は文学(神学も文学ですが)的な表現になればなるほど、背景となる、あるいは参照枠となる他の文学表現があるものです。

パウロの書簡も含めた新約聖書の場合、最も緊密な関係にあるのはヘブル語聖書ですから、その中で類似の表現や思想を探して参照する、と言うのがオーソドックスなやり方です。

ライトハートが提案するのは詩篇15篇です。
15:1 主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。

Our feet walk perfectly (v. 3)
 それは、完全な道を歩き、

and our hands work righteousness (v. 4).
 正しいことを行う人。

Our hearts are true (v. 5).
 心には真実の言葉があり

We don't misuse the tongue (v. 6).
 舌には中傷をもたない人。

Our eyes make appropriate judgments, despising a reprobate and honoring those who fear the Lord (vv. 9-10).
 主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び

Our tongues swear and we keep our oaths, even to our own loss (v. 11).
 友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
この後は「体の諸部分」から、その「延長」としての 「富の使用」へと移行する。

「義のために体の器官をささげる」」とは、利息を取ったり、賄賂を受け取ったりしない、と言う意味になります。
金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。

※新共同訳から引用。





2014年12月2日火曜日

(3)英語圏ブログ紹介⑬

このシリーズ、また前回から間が空いてしまいました。

と言うことで恒例の「これまでのまとめ」。

① Chuck De Groat (The New Exodus)・・・ブログの新アドレスはこちら
② Rachel Held Evans 
③ Tim Gombis (Faith Improvised) 
④ Larry Hurtado 
⑤ Andy Rowell 
⑥ Michael Gorman (Cross Talk)・・・リンク戻りました。 
⑦ Jason Goroncy (Per Crucem ad Lucem)
⑧ Andrew Jones (Tall Skinny Kiwi)・・・ブログの新アドレスはこちら
⑨ Chris Tilling (Chrisendom)
⑩ Nijay Gupta (Crux Sola) 
⑪ Ben Meyers (Faith and Theology)
⑫ James Crossley (Sheffield Biblical Studies)

と、ここまで来ています。

ところで、12番目に紹介したジェームズ・クロスリーは、現在クリス・キースとアンソニー・ル・ダンが始めた、The Jesus Blog、に加わっています。

最近は、このように、複数のブロガーで運営するサイトがかなり増えています。
日本ではこの傾向は殆どありませんが。

さて、今回紹介するホィートン大学のマーク・コーテズは2013年にウェスタン神学校から移ってきた方で、筆者がブロガーとして知っているのは殆どウェスタン時代です。

どちらかと言うと「軽い話題」の多い「神学ブログ」と言う印象でした。

ホィートン大学と言えば「ホィートン神学会議」 と言うのがあり、2010年にはN.T.ライト(当時はダラム大聖堂主教)一人をテーマにした異例の会議がもたれました。

今年、2014年は「聖霊」をテーマにした会議で、コーテズ教授にとっては地元開催の余裕もあってか、5本の記事に纏めてレポートしています。

聖霊についてのホィートン神学会義2014
 WTC14 Spirit 1
 WTC14 Spirit 2
 WTC14 Spirit 3
 WTC14 Spirit 4
 WTC14 Spirit 5

ちょっと斜め読みですが、1番目のサンドラ・リクター(現在はホィートン大学ですが、以前アズベリー神学校でも教えていました)の「聖霊についての聖書神学」は事前になってピンチ・ヒッターでこしらえた講演だったようですが、幾つかのインサイトがあるようです。

(2番目と3番目はスキップして)4番目の「ペンテコステ派」についての講演レポートは結構分量が多く、コーテズさんも関心が高いものだったようです。

ペンテコステ派の由来や、歴史、世界大への広がり、などが講演では語られたようです。

5番目は「聖書解釈における聖霊の働き、照明」と言うことで、ケヴィン・ヴァンフーザー教授。
これも結構面白そうだったようです。


以上講演レポートの内容まではとてもご紹介できませんでしたが、(最近は余り訪れていないながら)英語圏ブログの紹介でした。

2014年6月20日金曜日

(4)雑想 2014/06/20



実は、(4)「『パウロ研究』の新しい視点」の整理、と言うタイトルで用意していたのだが、どうにも余りまとまりがよくないので、『雑想』で投稿することにする。

 今週月曜日に行われた、「『パウロ研究』の新しい視点」をテーマにした講演会の様子を簡単に紹介したまま更新が滞っている。

 実はこの講演会の前後から少し「自分なりのまとめ」の取っ掛かりみたいなものをこちょこちょ始めたのだが、少し風呂敷を広げすぎて今のところ収拾が付かない状態。

 せめて「覚書」程度でもいいから書き残す、と言うことで・・・。


 恐らくこの「ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ」議論については、日本においても研究書や論文がこれから出されていくだろうが(そんな反響の一端を既に耳にしている)、それが「今後どんどん続く」とは個人的にはどうも思われない。

 まっそんな観測はどうでもいいが、念のため一応の整理を「新約聖書学者ではない、一素人」の視点からに過ぎないが、書き残しておこうと思う。

 ①用語の整理
 今後ずっとこの「語用法」で一貫できるか自信はないが、現時点ではNPPとか「ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ」としている用語を、
「『パウロ研究』の新しい視点」で置き換えようと思う。

 これは先日の研究会で発表された伊藤明生(東京基督教大学)教授が採用したものである。伊藤教授はライト読書会の方で、発表の骨子を

いわゆるNPP「『パウロ研究』に関する新しい視点」とは、特別の神学的立場のことではなく、サンダース以降の新しい、1世紀のユダヤ教理解に基づく「パウロ研究」のことである。

とアナウンスされていた。そのことに関し同教授と少しやり取りしたのだが・・・。

 しかし忘れてならないのは、日本では既に「パウロ研究の新しい視点」と言う訳語が、ジェームズ・D.G.ダン『新約学の新しい視点』(山田耕太訳、すぐ書房、1986年)、と言う本で使われていた、と言うことだ。
 (この本の書誌学的なことについては、「のらくら者の日記」さんの
この記事参照)
 
 
 「パウロ研究の新しい視点」は、ジミー・ダンの、the New Perspective on Paul、と言う論文に対する訳語としてはそれでいいと思うが、そのままでは今後問題も出てくるのではないか。

 やはり、NPPの訳語を統一する必要があるのではないか、と言う素人観測で述べておく。

 今やNPPで総称されるが、それはかなり色んな議論が混じっていて、あっちこっちに飛び火などして色々異なる文脈が出来ているように見えるのだ。
 (試しにSociety of Biblical Literature、の過去10回の学会プログラムをthe New Perspective on Paulで検索なされるとよい。)

 だからもし(たとえば)「義認論」の問題としてNPP議論に入っていくと、伊藤教授が暗に示唆しているように「特別の神学的立場」に関わる議論だと短絡しかねないのではなかろうか。
 (と言っても改めて全容を見渡すほど知りもしないので、あくまでも印象的な言に過ぎないのだが・・・。)

 「パウロ研究の新しい視点」論文を書いたジミー・ダンの『律法の行い』解釈も、それがどう言う意味で核心的な問題なのか、も再考する必要があるのではないか。
 
 (かと言って、ダンの論文を読んで見なければこれもやはり憶測で終わるだろう。つまり筆者のように「NPP議論」の推移だけを見て来た者は、サンダースやダンは実際には読んでいない。ただNPP論客の一人とされてきたN.T.ライトを通して間接的にサンダースやダンの議論の筋立てを垣間見たような気になっているだけの話だが。)

 既にご紹介したが、「NPP議論入門」としては、The Paul Pageの『
イントロ』辺りから入るのが近道ではなかろうか。

 ダンの「パウロ研究の新しい視点」論文のリンクも貼られているが、今は切れている。現在はマーク・グッドエイカーのNT Pageから入手できる。

 
 さて、そんなことを手始めに、いよいよ「用語の整理」について。

 NPP、あるいは「ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ」は、どう訳されるべきか。

 「パウロ研究の新しい視点」だと、既にダン論文に対応してしまっているし、そもそもこれでは一枚岩的議論の印象を与えかねない。それを避けるために別の鍵括弧をプラスした。
「『パウロ研究』の新しい視点」
 このように『パウロ研究』を括弧で括ると、「パウロ研究」が新約聖書学の一分野であることが何となく伝わってくる。それによってNPPはこの分野における一つの貢献であると言う見方ができる。

 だとすると、「パウロ研究」と言う歴史と伝統を持った研究領域にもたらされた「新しい視点」が、サンダースの研究であり、ダンの論文(ロマ書注解)である、と言う構図が理解される。

 なぜこのような面倒くさい説明を試みているかと言うと、「パウロ研究」にとっては背景に過ぎなかった「ユダヤ教」の比重が幾つかの要素により大分変容しつつあるように見えるからだ。(そのことについてはまた別の機会に。)


 とまあ、かなり近視眼的というか、ドン・キホーテ風な切り口になったが、少しでも「現在」の状況に接近しようとの意図で乱暴なことを言っているので、大目に見てやってください。

2014年5月20日火曜日

(4)英語圏ブログ紹介⑬ ニア・エマオ

ただ今ブラウザー(ファイアー・ォックス)がクラッシュした後、再立ち上げでこの記事を書いています。
少し制限がある中での文章ですので、ご寛容のほど。

さて今回取り上げるのは、本日、5月20日を持って閉鎖となる「聖書ブログ(Biblioblog)」です。
Near Emmaus
(名称の由来は、ルカ24章の「エマオの旅人」から来ています。「近辺」というところも味噌ですが。)

ブライアン・ルポートが中心となって5年前から始めた「グループ・ブログ」が、本人が「余り興味を持てなくなった」と言う理由で閉鎖するそうです。

米国時間ではまだ暫くありますが、間もなく最後の記事がポストされて、閉鎖・整理に入るとのこと。

でも書き溜めた記事は整理されて今後も閲覧できるそうです。

さてブライアンは、まだ(新約聖書)学者ではありませんが、スコット・マクナイト、ニジェイ・グプタ、等、新約聖書学者でブログをやっている方々からも一目置かれる「情報通」です。

いち早く目ぼしい情報をアップしたり、書評を掲載したり(今はそれで忙しいようですが)、ネット界への貢献度はかなり高かったように思います。

そう言う意味では少々「バーナウト」気味になったのかもしれません。

別に浅田真央さんの「休養宣言」に時期を合わせたわけではないと思いますが・・・。

ブログ紹介(というより送別の辞でしょうか)ついでに、最近の記事を一本紹介。

最近「キリスト教神学」で言うと『キリスト論』が盛んです。

まだこのブログでは取上げていませんが、日本では『捏造された聖書』である程度名が知られたバート・アーマンの最近刊、How Jesus Became Godへの書評が福音派内からも幾つか出ています。

アーマンは元々は福音派の信仰から出発して、懐疑主義に辿りついた学者で、ルートは違いますが、『グノーシス福音書』の著者、ハーバードのイレイン・ページェルスと似た背景があります。

いずれにしても福音派内からはある種のバイアスがかかった批評(批判)的学者と見られています。
(しかしアカデミックな内容からは、バートン・マックなどとは一線を画す、それなりの実績を示していることでほどほどの尊敬も受けています。
N.T.ライトも2008年頃?だったかアーマンと討論しています。このリンク参照)

マイク・バードはいち早く反応し、How God Became Jesusを他の3人の学者たちの協力を得て出版しました。

筆者はバードは過剰にアーマンに反応しているな、との印象を持ちましたが、仲間内での書評は概ね好評のようでした。

しかしアーマンに対してアカデミックなレベルで公正ではない、と言う福音派内からのかなり厳しい批判的書評が「ストーリード・セオロジー」ブログ(未紹介)のJ・R・D・カークによって提出されました。(この記事)

と言うことでかなり遠回りになりましたが、「ニア・エマオ」ブログでもまたもう一本バード本批判の書評記事が出ています、と言うことです。

ダニエル・マクレラン(モルモンの背景の人かもしれません)が書いた記事です。
Bird, et.al, How God Became Jesus 書評、パート1

ゲスト・ポストとなっているので、ブライアンが要請したか、ダニエルの方が申し込んだか、・・・その辺のところはよく分かりませんが。(マクレラン本人のブログを見ると後者のようですね、多分。)


しかしまだ「パート1」なのに、閉鎖となってしまってマクレランさん残念でしたね。(余計なお世話ですね。)

2014年4月24日木曜日

(4)英国はキリスト教国

 昨日「英語圏ブログ紹介⑫」で埋め込んでおいた、英国キャメロン首相のイースター・メッセージに反発の声が上がった模様だ。

 それを受けてキャメロン首相はChurch Timesに見解を提出した。
 先ず要旨を見てみよう。

 「世俗化した社会でこのような発言は不適切ではないか」、との意見に対し
I completely disagree. I believe we should be more confident about our status as a Christian country, more ambitious about expanding the role of faith-based organisations, and, frankly, more evangelical about a faith that compels us to get out there and make a difference to people's lives.
以下この要旨に沿って見解を展開している。

 特に゛政治的中立」に関して、
People who, instead, advocate some sort of secular neutrality fail to grasp the consequences of that neutrality, or the role that faith can play in helping people to have a moral code. Of course, faith is neither necessary nor sufficient for morality.
Many atheists and agnostics live by a moral code - and there are Christians who don't. But for people who do have a faith, that faith can be a guide or a helpful prod in the right direction - and, whether inspired by faith or not, that direction or moral code matters.
単に社会的安定を保つためではなく、社会改善と変革の力の源と見做している。
THIRD, greater confidence in our Christianity can also inspire a stronger belief that we can get out there and actually change people's lives, and improve both the spiritual, physical, and moral state of our country, and even the world.
この後自身の英国国教会の信徒としての信仰が名前だけ(ノミナル)ではないことをアッピールしている。

 このキャメロン首相の見解発表を受けて、カンタベリー大主教、ジャスティン・ウェルビーはキャメロン首相擁護のメッセージを発表した。

 「中世の異端審問の再来」のようなイメージをちらつかせる反対者たちに対し、ウェルビー大主教はモンティー・パイソンやイースター直後によくあるようなトンデモ話題を引き合いに出しながら極めて冷静に事態の推移を見ているようなコメントを出している。
It's all quite baffling and at the same time quite encouraging. Christian faith is much more vulnerable to comfortable indifference than to hatred and opposition. It's also a variation on the normal "Sword and Grail discovered" stuff that seems to be a feature of Easter week news. - See more at: http://www.archbishopofcanterbury.org/blog.php/20/a-christian-country#sthash.P4tWUg6h.dpuf
It's all quite baffling and at the same time quite encouraging. Christian faith is much more vulnerable to comfortable indifference than to hatred and opposition. It's also a variation on the normal "Sword and Grail discovered" stuff that seems to be a feature of Easter week news. - See more at: http://www.archbishopofcanterbury.org/blog.php/20/a-christian-country#sthash.P4tWUg6h.dpufIt's all quite baffling and at the same time quite encouraging. Christian faith is much more vulnerable to comfortable indifference than to hatred and opposition. It's also a variation on the normal "Sword and Grail discovered" stuff that seems to be a feature of Easter week news.
It's all quite baffling and at the same time quite encouraging. Christian faith is much more vulnerable to comfortable indifference than to hatred and opposition. It's also a variation on the normal "Sword and Grail discovered" stuff that seems to be a feature of Easter week news.
世俗化がより進んだヨーロッパで、そして声高な無神論者が人気を博す英国で、キャメロン首相が発した「英国はキリスト教国」メッセージは、普段は冷ややかにキリスト教に対している国民(の一部)に反発を起こしたことをむしろ歓迎しているかのようである。

 この雰囲気から言うと、昨日のジェームズ・クロスリーの分析はいささか表面的な印象とならざるを得ないのではないか。

2014年4月23日水曜日

(4)英語圏ブログ紹介⑫

今回ご紹介するブログは
Sheffield Biblical Studies


ジェームズ・クロスリーがブログ主だ。

まずは最近のポストからご紹介しよう。

この動画をご覧あれ。


現英国首相、キャメロンのイースター・メッセージだ。

キリストの名前を出しながら「隣人愛」をそれとなく話題にしたり、「アルファ・コース」と言うニッキー・ガンベル牧師が開発し今や全世界で用いられている伝道プログラムが服役者の更生に役立っていたり、貧困者や弱者救済など、宗教の社会的役割を支援する、と語っている。

宗教(キリスト教)と政治、と言えば北米の「大統領就任スピーチ」や他のスピーチでしばしば「God」に言及されることはよく知られていることだ。

クロスリーは歴代首相の政治的スピーチで「キリスト教」、特に「隣人愛の教え(欽定訳が用いられる!)」のようなものに言及されるのは、キャメロン首相に限ったことではなく、ほぼすべての首相がそうしてきた、と指摘している。David Camerons Latest Bible

最近40年の間ではマーガレット・サッチャー首相が特にそうだったと言う。
Thatcher was the most explicit and influential political user of the Bible among political leaders over the last 40 years.
よりあいまいな「アルファ・コース」も含め、キャメロン首相の聖書やキリスト教を動員するスピーチの狙いは、本来(福祉)国家がなすべき役割を、敬虔なキリスト者たちが肩代わりしてくれ、と言う信号だ、と分析している。

新約聖書学が本職ながら、現代政治の文脈でどのように聖書やキリスト教が用いられているのかを分析するジェームズ・クロスリーのような研究は、宗教社会学が専門とするところだが・・・。

とにかく大学で宗教/キリスト教を教えるとは、このような領域でもその学問的関連性(relevance)を発揮することを求められているのかもしれない。

※二つ目の動画はミスター・ビーンの保守政治家をパロディーにしたもの。相変わらず笑える。

2014年3月28日金曜日

(3)MLJとJS、JSとBGのガチンコ

現在でも「福音主義の歴史」を語る時に忘れてならない人物がいる。

タイトルはその人物の頭文字であり、20世紀後半からの福音主義運動が世界的に拡がって行く役割を担った。

しかし大立者は時に指導権を競って厳しい対立もした。
ガチンコとはその3人の対立のことである。

先ずJSとは誰か。
既に故人となったジョン・ストット(1921-2011)である。


そして彼のガチンコ対決の相手は


マーチン・ロイドジョンズ(1899-1981)である。

次のようなエピソードが残っている。

1966年ロンドンでのとある会合で二人は教会論争で激しくぶつかった。
ロイドジョンズは神学的に雑多な人々が混じっている英国国教会を嫌い、福音派の人たちを引き連れて出よう、と言うようなことを主張した。

しかしそのすぐ後登壇したストットはその動きに抗議したのであった。
その抗議の仕方が表面ではロイドジョンズを称えるような言葉で実は彼を「貶した」のであった。

このようなキリスト者として少し疑問符がつくような手を使ってでも、ストットは福音主義運動がリベラルが混ざった英国国教会から分離して行くのを阻止したわけであった。

もう一つのガチンコの相手は誰であったか。
かの大伝道者ビリー・グラハムである。

グラハムがストットの協力を得て1974年に立ち上げたローザンヌ運動の方針を策定するべく、翌1975年、メキシコ市で5大陸から福音主義指導者たちを集めて会議が開かれた。

グラハムは「伝道(エバンジェリズム)」一本で推進しようとしたが、ストットはそれに反対した。
ストットは、ローザンヌ運動が「社会的行動」も含めたものとして進めるのでないなら、自分は辞める、と「圧力」をかけた。

声明発表文に「伝道」と「社会的行動」をどのように盛ったら良いか両者の間で息苦しい綱引きが続いた。
このような文章作成を大得意にしていたストットは主導権を取るため、散々書いては改め書いては改めの神経戦に持ち込んだ。
グラハムはくたびれはてて音を上げてしまい、伝道一本路線を別な形でやることとなった。


以上は、「ジョン・ストット」の学術的伝記を著した、アリスター・チャップマンをブロガーのトレヴィン・ワックスがインタヴューした記事からつまみ食いしただけのものである。


要するに権力を巡る対立において、ストットのような皆から尊敬されるようなキリスト者の指導者であっても、時に首を傾げるような策を使ってでも主導権を得ようとした、と言うことである。

「野心」の問題は、自分の光栄を求めるものなら空しいものだが、神の賜物を最高潮に用いて目的を遂げるのであれば・・・。

しかしその場合でも自己吟味の結果は苦い味も混じるものであることをストットは経験したようだ。

昨今のカルト牧師問題のようなパワハラ被害は権力の問題と言っても全く低レベルだが、福音の前進のために、と言う大義がかかった路線対立では、高度な倫理的問題となることを示唆している。

良心に照らして、権力や能力の行使に自覚的であればあるほど、成し遂げようとする過程においてそれは厳しい自己吟味を要求するものなのだろう。

イエスの荒野の誘惑ではないが、権力の行使における動機の複雑さに直面することは、霊的な自制・自省を高度に要求する、と言うことではないか。

そのような修羅場を潜らないと、本当の意味で「権力」の誘惑とはどのようなものかを知ることはないのかもしれない。


Godly Ambition: John Stott and the Evangelical Movement

2014年3月23日日曜日

(4)ジェンダー・イシューズ(性差問題)

北米福音派教会では、カルチャー・ウォーと呼ばれる価値観の対立を軸にした「保守対リベラルの二極化現象」が続いている。

今回取り上げるのは「ジェンダー・イシューズ(性差問題)」関連でここ数年熱く議論されている「男女の性差による役割分化」の問題だ。

どう言う対立かと言うと、
(保守)・・・男女は性差によって社会的に役割が異なる。その異なる同士は相互に助け合うことにやって社会の秩序が守られる。
(リベラル)・・・男女の性差は社会的役割分化を強制するものではない。(ちょっと控えめに言えば。)

保守の立場には『コンプリメンタリアン』 と言う語が使われ、リベラルな立場には『エガリタリアン』と言う語が用いられる。

背景となるのはキリスト教国家(一応そのように見立ててください。実質は結構複雑なので、どのような意味でか、と言う限定を加える必要があるのですが、そんなことしてたら投稿できないので・・・。)アメリカが次第に世俗化してキリスト教の影響力によって伝統的に守られてきた価値観が一つまた一つと社会的に支配的な立場から退場していく過程です。

ウーマンズリブ(女性解放運動)は1960年代位からだったでしょうか、最初にメインライン教会から浸透して行ったリベラルなジェンダーに対する価値観は、最近20年くらいのうちに(アバウトです)聖書の権威を高調する神学的 に保守的であった福音派教会の中にも浸透してきます。

今や福音派教会内で「保守対リベラル」の対立が表面化してきました。
先ほども書いたように「熱く議論される」ようになってきたのはここ数年といってもいいと思います。

クリスチャニティー・トゥデー誌の報道によると、つい先日セダーヴィル大学の新学長となったトーマス・ホワイトは、「今後女性教員が教える『聖書コース』履修は女子生徒に限定する」、明らかに従来より保守な方、コンプリメンタリアンな方向に舵を切った、としています。

早速保守を代表する著名ブロガー(南部バプテスト)、デニー・バーク氏は「ホワイト学長よくやった!」と記事にしています。

一方どちらかと言うとこの「ジェンダー・イシューズ(性差問題)」に関してはリベラル(福音派内でのどちらかと言えばリベラルであることをお間違いなく)な立場を取るように見える、スコット・マクナイト(そうです、あの『福音の再発見』の著者です)氏は、ホワイト学長が主張する「聖書的な立場」に疑問符を投げかけます。リンク
(※記事自体はただクリスチャニティー・トゥデー誌報道を紹介しているだけですが、コメントセクションを見ると彼がどのような見方をしているのかが伺われます。)

今回の件で一番問題だと思われるのは、この方針転換を「聖書が言っていることをそのまま言うだけだ」とあたかも「解釈」抜きで「聖書の権威」を根拠にしていることです。
In his March 10 chapel talk, Thomas White discussed the concept of headship based on 1 Corinthians 11:2-16. “We operate with the presupposition of inerrancy. So what I tell you today is not something that I wrote, I made up, or I started,” he said. “I’m just going to preach to you what the text says.”
※学校の運営母体が保守路線を強めている南部バプテストの影響下に入ってきているのではないか・・・との見通しもあります。(ジーザス・クリードのコメント・セクション)

いずれにせよ、一連の福音派内における「カルチャー・ウォー」問題では、『聖書無誤論』と『聖書解釈の実際』との関連の問題がクローズアップしてきています。

既に本ブログでも紹介した、クリスチャン・スミスのThe Bible Made Impossible: Why Biblicism Is Not a Truly Evangelical Reading of Scriptureが、聖書の権威に訴えれば訴えるほど分裂が深まるのは社会学的な観察だけでなく、論理的にそうならざるをえない、と指摘するように聖書の「解釈」が問題であることを直視しないと、対立は深まるだろうと思います。

※「聖書主義(ビブリシズム)」、「聖書主義(ビブリシズム)続」参照。
※アンドリュー・ウィルソンのThe Biggest Theological Debate of the NextTwenty Yearsも有益。

2014年3月1日土曜日

(3)英語圏ブログ紹介⑪

時々しかこのシリーズ更新しないので、毎回何回目だったか忘れてしまいます。

それでまたリストを作って確認。

① Chuck De Groat・・・ブログの新アドレスはこちら
② Rachel Held Evans 
③ Tim Gombis 
④ Larry Hurtado 
⑤ Andy Rowell 
⑥ Michael Gorman・・・リンク戻りました。 
⑦ Jason Goroncy
⑧ Andrew Jones・・・ブログの新アドレスはこちら
⑨ Chris Tilling
⑩ Nijay Gupta (Crux Sola) 

今回紹介するのはサイドバーにもある、Ben MyersのFaith and Theology。
今回取り上げたのは、最新記事が宮崎駿アニメ作品の寸評が出ているから。
Hayao Miyazaki In Praise Of Air 

宮崎監督を誰と比較しているかと言うと、
Lover of all that flies or that dreams of flight or that flies only in dreams! Of the four mythical elements, Tarkovsky made films out of Earth, Kubrick made them from Fire, Orson Welles from Water – but to you belongs the consummate artistry of Air.
と言うわけです。

原初世界は四元素からなっていた、と言う神話の世界を映画では
タルコフスキー・・・地
キューブリック・・・火
オーソン・ウェルズ・・・水
と来た後に
宮崎駿・・・空
となるのだそうです。

以下その記事で取り上げられている宮崎作品は
  1. 風の谷のナウシカ
  2. 天空の城ラピュタ
  3. となりのトトロ
  4. 魔女の宅急便
  5. もののけ姫
  6. 千と千尋の神隠し
  7. ハウルの動く城
  8. 崖の上のポニョ
  9. 風立ちぬ
となります。

どうやらバルトなど難しい神学書を読むベンが愛しているのはイマジネーションに溢れたアニメなのですかね。
少なくともベンは宮崎アニメファンのようです。

2013年9月9日月曜日

(3)南部バプテスト連盟

これはたまたまの記事です。

まっそれ自体は大したことない、などと言うとバプテスト連盟の方から顰蹙を買ってしまうので、説明しますと、

「大したことない」のはこれから紹介することではなく、筆者が単に英語圏ブログを巡回してて見つけた記事、と言う点が「大したことない」と言う意味です。
記事の中身が「大したことない」のではなく、筆者がたまたま見つけたこと自体が「大したことない」と言うだけです。

なんかかなりくどい説明から入って申し訳ありません。

北米のプロテスタント教団で最大のものは、the Southern Baptist Conventionです。

その理事長に初めてアフリカ系アメリカ人がなった、と言うのが昨年の大会でのニュースですが、そのフレッド・ルーター・ジュニア牧師は2013年の大会で再選され、それが筆者が巡回する「英語圏ブログ」の一つであるトレヴィン・ワックスのキングダム・ピープル・ブログで紹介されていました。(この記事)

実はなぜ記事にしたのかと言うと、次の表現に引っかかったからです。
His ascendancy to the presidency in the SBC grew from decades of service within the denomination.
この後文章は、フレッド・ルーター・ジュニア牧師どのようにして理事長にまで選ばれるかその経緯を説明しています。

気になったのは、ascendancyと言う語です。
訳せば「(理事長職に)登り詰めた」とでもなるのでしょうが、教会と言う「組織のトップになる」と表現することはそれほど不自然ではないのかもしれませんが、「アフリカ系アメリカ人初」と言うことも合わせて「強調」されているように感じます。

たまたま昨日の午後、近くの巣鴨ときわ教会(日基)で「荒井献講演会」があり、話を聞いてきたのですが、その中で「下に上る」と言う話をしていました。

詳細は忘れてしまったのですが、ピリピ2章6-11節のような「ケノーシス」 的理解で行動することを言っていたのだと思います。
そのような行動を取ることを「下に上る」と表現したのだと思います。

別にトレヴィン・ワックスが「権威主義的な人」とか言う話ではありません。
ただ彼が、フレッド・ルーター・ジュニア牧師が南部バプテスト連盟理事長に「なる」ことを、ascendancyと表現したことに筆者が違和感を感じただけ、と言うほどの「大したことない」話なのでした。

※ 南部バプテスト連盟に所属する日本人の牧師でしょうか、2012年の大会でのこの「歴史的出来事」を簡潔に報告しているブログ記事です。

2013年6月25日火曜日

英語圏ブログ紹介⑩

このシリーズ始めて何回目になるのか・・・、もう自分でも分からなくなっていました。
先ずは整理と言うことで以下にこれまでの紹介を順にまとめました。

① Chuck De Groat・・・ブログの新アドレスはこちら
② Rachel Held Evans 
③ Tim Gombis 
④ Larry Hurtado 
⑤ Andy Rowell 
⑥ Michael Gorman・・・現在リンクが切れております。(事情は不明) 
⑦ Jason Goroncy
⑧ Andrew・・・ブログの新アドレスはこちら
⑨ Chris Tilling

こうして見ると結構常連しているブログがカバーされていないことを発見。
まだこのシリーズは続けられる。ネタ元が見つかって助かった。

さて今回登場していただくのは、Nijay K Gupta(大体、ニジェイ・グプタと発音するみたいです。)さんのCrux Solaです。
現在一番充実している新約聖書学ブログのひとつと言っていいと思います。
ですから専門研究者向けの情報が多いです。

さてニジェイさんとは実際にはお会いしたことはありませんが(上記の誰とも会ったことないのは皆同じだからわざわざ断る必要はないのですが)、 先月18日と25日に持たれたEcclesia and Ethicsと言うオンライン神学会義に参加し、ニジェイさんの発表を聞くことが出来ました。
スカイプでの通信を想像して頂くと(なんて自分ではスカイプやっていませんが)その親近感・臨場感を分かって頂けるかもしれません。

さてニジェイさんをどう紹介したらばいいかというと、やはりN.T.ライトを引っ張ってきた方がいいかな。

現在N.T.ライトの影響を受けて(主に)新約聖書・初期キリスト教を研究している方々は大変多いですが、その中でブログをやっている方に絞って紹介すると、少し弟分的な同僚クラスで言えば、ベン・ウィザリントン(未紹介)、スコット・マクナイト(未紹介)、マイケル・ゴーマンなどがいます。少し間が開きますが、もっとブロガー世代の研究者たちの中に、マイク・バード(未紹介)やJ・ダニエル・カーク(未紹介)、そしてティム・ゴンビス、クリス・ティリングなどがいます。

それより下の世代で、博士号を取り少し神学校等で教え始めた若手研究者の中の一人が、ニジェイさんです。

(なんかこの辺のことはNTライト読書会ブログねただね。)

さてニジェイさんのブログの最新記事から以下紹介します。

10 Lessons Learned About Publishing As An Editor

ニジェイさんがマイク・バードさんと共同編集している学術雑誌、Journal for the Study of Paul and His Letters (Eisenbrauns)の実務経験から、もし自分の書いた学術論文が雑誌の編集者に読まれ、且つ掲載されるようになるにはこの辺のことを注意した方がいいよ、というご親切な忠告「10項目」です。

この中の特に第7項目、Interact internationally (and beyond English-language literature only)が目に留まりました。
おや果たしてどの程度ニジェイのレーダーはカバーしているのだろうか、と。

そうすると主要英語文献を別にすると、次はドイツ語の主要文献、それから英語文献でも二次的なものを広く渉猟せよ、と言うわけです。
例えば、南アフリカ、オーストラリア、スカンジナビア(特にスェーデン)・・・と言うわけです。

あーやはりアジアも(当然日本も)、アフリカも、南米もレーダーの外なんだなー、と思いました。

ニジェイは北米ですが、マイク・バードはオーストラリアです。日本の研究者ももっと頑張ってトライして欲しいな・・・と思いました。
やはり発信力がまだないのだなと思いました。

でも先ほどのEcclesia and Ethicsではメインスピーカー以外に大学院生や博士課程の学生がたくさん論文を投稿していました。(時間的余裕がないので彼らの発表までは手が回らないのですが・・・。)
その中には何人か韓国人の名前があったように思います。

もしこのブログの読者の中に聖書学を研究している方がいたら、日本の学会だけでなく、英語の学術雑誌にも掲載されるようチャレンジして欲しいなと思います。
誰か一人でも日本での研究を紹介すれば、少しはレーダーの中に入れてもらえるのではないかと・・・。

その時にはこの忠告「10項目」を是非参照してみてください。

(※さっきN.T.ライトFB読書会に入会したての方から、筆者のブログを読んではいるのだが「難しい」と評されました。今回のもそっちの方だな、こりゃ。) 


2013年6月3日月曜日

「神の王国」、福音、社会変革

たまたまN.T. Wrightで検索していたら、ライトの「キリスト教起源と『神』問題」シリーズ第4巻目「パウロと神の真実(Faithfulness)」について、ライトがインタヴューに回答しているブログ記事に出会った。

このブログ、Learning In the Grip of Graceは初めてだったので、ちょっと他の記事にも目を通してみたら、ライトの記事のすぐ後に、
Piper, Carson, DeYoung, and Keller on Did Jesus Preach the Gospel?
と言うパネル・ディスカッションの動画が紹介されていた。

実は、「イエスは『福音』を説教したか?」、と言うのは、このブログでも回数を重ねて紹介してきたスコット・マクナイト「福音の再発見」(原題は「キング・ジーザス・ゴスペル」・・・右側コラムの同名ラベル参照のこと)でも提起された問題なのだ。

以下、同書から引用する。


事例B
 アメリカで最も影響力を持つ牧師であり著者の一人であるジョン・パイパーは、2010年4月に持たれた、ある大きなコンファレンスで、次のような問いを発した。「イエスはパウロの福音を宣べ伝えたのか?」 この問いに答えるにあたり、パイパーはルカによる福音書18章のパリサイ人と取税人の話を取り上げた。この箇所では、福音書の中でほんの数回だけ使われている「義と認められ」(14節)という表現が登場する。パイパーはその箇所を指し、イエスは「信仰による義認」というパウロの福音を確かに宣べたと結論づけた。(中略) 
 しかし…… そもそも、ここには順序、つまりどちらが先か、という問題がある。イエスがパウロの福音を語ったのか、と問うよりも、パウロがイエスの福音を語ったのか、と問うほうが重要ではないだろうか? さらに、もう一つ問題がある。パイパーは、信仰義認こそ福音である、という前提の上に立っていることだ。米国のカルヴァン派たち(福音派の間におけるカルヴァン主義の再台頭の背景には、パイパーの影響が強くある)は、福音を「信仰による義認」という短い公式で定義してきた。しかし、使徒たちは福音をそのように定義していたのだろうか? 使徒たちが福音を宣べ伝えたとき、彼らは何と言っていただろうか? 本書ではこれから、これらの問いに答えていきたいと思う。(下線は筆者)
 その2010年4月のパイパーの講演(説教)の動画がこれではないかと思う。

 
イントロでは『十字架』に至る福音書全体のストーリーの大切さを強調しているが、『信仰義認』というパウロの福音(パウロの福音という語自体用い方には注意が必要だと思うが・・・)を「窓」として福音書、つまりイエスの福音を掴もうとしている意図は明らかだと思う。

さて先に紹介したパネル・ディスカッションであるが、新約聖書学者ドン・カーソンを司会者/進行役に、三人の牧師、ジョン・パイパー、ティモシー・ケラー、ケビン・デヤングが「イエスは福音を伝えたのか?」と言うまさに同じ問題で討論している。

1時間に及ぶディスカッションなので大雑把な感想しかここでは記すことはできないが、やはりパネリストたちの間にある種の問い直しがあるのだと思う。(そう思いたい。)
果たして自分たちの福音に関する聖書神学的方法論があるいは偏っている面があるのではなかろうかと・・・。

パネリストたちは、基本的には改革派の伝統的(どこまで遡るのか筆者も厳密には知らないが)教理的解釈に沿った立場を擁護しているように聞こえる。

しかし冒頭でケラー牧師がリベラル派背景から福音派カルヴィニズムの立場で回心した経験を述懐しながら言っている、「個人的救い」と「社会正義」は二つの対抗する見方とするべきではなく統合が必要なのだ、と。

ただパネリストたちの討論を聞いていると、「神の国」に関する聖書神学的吟味が何かとても初歩的なレベルで留まっていて、なかなか核心に入っていかない(入れない?)ので聞いている筆者は大変もどかしく感じたのも事実だ。

背景としては、近年若い世代のキリスト者の間に「社会正義」よりの福音、ソースを辿れば「神の国」の強調と言う福音理解が影響していることがある。
そのことを十分意識してのこの企画だとは思うのだ。

討論の中ではその影響力が誰から出ているかは伏せられているようだが、ところどころ引用しているので、ググればあるいは名前が掴めるかも知れない。

何はともあれ「福音」の原義的な、原初的(使徒的と言うことになろうが)な見直しはもっと議論されてしかるべきものと思う。

2013年5月27日月曜日

米国福音派と聖書

英語圏ブログ紹介③で紹介したティム・ゴンビスが、Evangelicals & the Bibleと言うタイトルでシリーズ連載している。

簡単に紹介すると、彼が自分が教える神学校や、他の場所での講演などで(主に)学生、つまり福音派の学生が決まって同じような反応を示すのだと言う。

授業や講演が終わって、ゴンビスに、「そんなこと今まで一度も聞いたことがない。」、といかにも「それは果たして聖書的か」と言う雰囲気で不満そうに反応を示すのだそうだ。

ゴンビスは最初そのような反応を「若者特有の傲岸さ」の現われだとそれほど気にしていなかったそうだ。
しかし同様な反応に度々遭遇し、「これは福音派に特有なものではないか」と思い注意して観察するようになったようだ。

どうやら福音派に育った青年は「自分たちは聖書に関し知るべきことは既にみな知っている」と言う態度を持っているようだ。
それが極めて判然と現れたある授業(福音派ではない環境)でのエピソードをゴンビスは紹介している。

授業の後のコメントは殆んどが以下のようなものであったと言う。
This is so interesting. Thank you, I’m really enjoying this and learning a lot.
 しかし一人だけ全く違う反応をしてこう言ったという。
 I've never heard this before.
 この人がまさに福音派だった、と言うのである。

何か新しいことを学んだら、嬉しい、楽しい、面白い・・・と言う反応が返ってくるはずのところが、こと聖書に関しては福音派の人たちはフラストレーションを覚える。
これは一体どうしたことか。

と言うわけで、ゴンビスの『米国福音派と聖書』 ブログ記事シリーズが始まったわけである。

Evangelicals & the Bible, Pt. 2
I think that the most decisive factor in shaping warped postures toward the Bible is evangelical involvement in the culture wars.  Some of us have been told that “we” are the ones who are faithful to the Bible while “they” (“liberals,” “the media,” “skeptics,” etc.) are attacking the Bible.  We need to defend the Bible, “uphold biblical values,” and advance the “biblical” teaching on this or that issue.

The intensity of the culture wars—the feeling that there’s so much at stake—can frustrate us when our understanding of Scripture is challenged.
Evangelicals & the Bible, Pt. 3
I wonder if much of our evangelical rhetoric about our role in culture and an evangelical posture toward the world perverts our posture toward the Bible.
Evangelicals & the Bible, Pt. 4
I was struck that some students weren’t necessarily trying to understand notions in Scripture and integrate them with aspects of lives.  Their first concern was to know what to say in conversations or debates with others.
Evangelicals & the Bible, Pt. 5
We don’t have the Bible for the purpose of fighting and squabbling, strategizing so that “our side” might dominate “their side.”  God gave his word to his people that we might gain a heart of wisdom, that we might love and serve God, loving and serving one another with gladness and singleness of heart.
と、ほんの一部だけを抜粋しながら紹介してみたが、ゴンビスは米国福音派の青年(だけに限らないだろうが)にしばしば見られる「歪んだ」聖書への態度は「カルチャー・ウォー」の文脈から出てくる特徴と感じているようである。

自分たちが保持している聖書解釈を守らなければならない。
そんな「自己防衛反応」が、聖書の新しい解釈に遭遇した時、「そんなこと今まで一度も聞いたことがない。」と言うように現れてくるのではないだろうか。

だとすると30年以上も前の、ハロルド・リンゼルのThe Battle for the Bibleの時の「聖書無誤論争」と何か相通じるメンタリティーがあるのかもしれない。

とにかく関心のある方はどうぞご一読を。

2012年9月28日金曜日

「イエスに妻」? コプト文書断片

最近イエスに妻がいたことをほのめかす文章を含んだコプト語で書かれたパピルス断片が発見されたと話題を呼んでいる。

日本でも少しは報道されたが(朝日デジタル)、一過的な話題で過ぎそう。

欧米圏ではもっともっと波紋が広がっている。
報道も続々、ブログでも多く取り上げられている。
研究者たちも書かれている内容だけでなく、パピルス断片の物理的な性質(インクや字体)についてつぶさに分析している。

最初は「発見」として話題が先走りした観があった。
故に独身制のカトリック教会の屋台骨を揺るがす可能性が云々された。

しかしその後の様々な分析が示唆するのは、この断片は偽ものの可能性が高いと言うこと。

断片を受け取ってその内容をローマの学会で報告したハーバードのカレン・キング教授はその内容をHarvard Theological Journalにも発表しようとしているのだが、編集側ではまだ承認していないとのこと。インクの検査を待ってと言うこともあるらしいが、多分に断片に対する疑わしさを持っているようにも聞こえる。

ご関心のある方は「ニア・エマオス」のブログ主がずーっとこの件を追跡しているようなので、まとまった情報が整理されているのでどうぞ。
最新の記事は、Near Emmaus

もし多くの識者たちの指摘通り、この断片が偽物だと早くに判明すれば、案外この騒ぎは遠からず収束するかもしれない。

2012年9月20日木曜日

英国新約聖書学会でのシセルトン教授

先日「ハーメニューティックス(解釈学)」の投稿記事で紹介した、アントニー・シセルトン教授が、去る9/6-8、キングス・カレッジ・ロンドンにて開催された「英国新約聖書学会(2012年度要綱)」での主題(プレナリー)講演で「新約聖書における『聖霊の神性』」について語ったことがアンドリュー・ウィルソン氏によって報告されている。(ここをクリック)

講演の実際のタイトルは、
Must we rest content with binitarianism in New Testament studies?
である。

講演の内容についてはウィルソン氏の報告に譲るが、シセルトン教授が 「binitarianism(バイニタリアニズム)」と言う用語を使って言わんとしていることは、要するに新約聖書で「神」として崇められているのは「父なる神」と「(子なる神)イエス」までで、聖霊は「神」の中に含まれないと言う見方に疑問を呈し、聖霊も「神」として認められている、ということのようである。

さて 「binitarianism(バイニタリアニズム)」を展開している学者としてラリー・フルタド教授(エディンバーグ大学)の著作を引用してシセルトン教授の講演はなされたらしいのだが、矢面に立ったフルタド教授は後日自身のブログで「バイニタリアン」の意味するところを明確にしようと説明を試みている。(ここをクリック)

講演ではシセルトン教授は何度も声を張り上げて(rant)「シセルトン節」を唸ったらしいことを、ウィルソン氏は楽しそうに報告している。
どうやら充実した学会だったようである。うらやましい。

筆者も一つだけ「学会」と言うものに30年以上加わっているが、全般に低調で講演テーマも余り魅力的ではないものが続き、ここ数年はご無沙汰している。

何はともあれネット上でこのような学会の様子が報告されているのを読むことができるだけでも感謝しなければならないだろう。
ウィルソン氏(博士課程の学生)やフルタド教授のブログに日本からお礼を言いたい。

2012年9月2日日曜日

科学と哲学を区別することによって

久し振りに「英語圏ブログ紹介」を兼ねて。

ロス・マーッケンジーのsoli deo gloriaブログ。

彼の最近の投稿記事、 Distinguishing Science From Philosophyがちょっと面白いのではないかと思った。
「科学と哲学を区別することによって」と訳したが、ロスの記事では「哲学」には宗教も含めた「世界観」的解釈を持つ思想が意図されている。

先ず「科学」だが、簡単に定義すれば「科学的知識」と「哲学的主張」の違いは、
Scientific knowledge is something that is experimentally testable, open to confirmation, and can be agreed upon by a wide range of parties. Philosophical claims do not have these qualities. They are not testable in a laboratory.
まっこれは余りにも教科書的で珍しいものは何もないが、次にロスが挙げる例(科学と哲学の相違)が分かりやすくしてくれる。

(1)
科学:「地球は太陽系惑星の中心ではない。」
哲学A:「人類は特別な存在ではない。」
哲学B:「地理的位置は物事を意義付ける尺度ではない。」

(2)
科学:「太陽は1700億を数える銀河の一つ、『天の川銀河』にある2000億個の星の一つである。」
哲学A:「人類は宇宙においては全く無意味な存在である。」
哲学B:「人間は非常に有り得ないほど偶然の存在である。」
哲学C:「人間はその固有性と有り得なさの故に高度に意義深い存在である。」

(3)
科学:「人間のDNAとチンパンジーのDNAは97%同一である。」
哲学A:「人類は他の動物と何ら異なるところはない。」
哲学B:「動物の命は人間の命と平等に価値がある。」
哲学C:「(チンパンジーとの)3%の違いに如何に人間が固有で特別な存在であるかが示されている。」


このように対比してみれば、「科学的知識」と「哲学的主張」の違いが良く分かるのではないか、とロス・マッケンジーさんは申しております。

皆さんはどんな印象をお持ちになりましたか。