2017年8月21日月曜日

(5)義認論ノート、5

義認と教会論: 一世紀のキリスト教会においては

「義認」を救済論との関連で論ずるのを不思議がる人はいないと思いますが、さて教会論との関連 だとどうでしょう・・・。

ということでそもそもの発端である「N.T.ライトの義認論」にまた戻ってみます。


ライトの立場を支持する筆者のテーゼは: パウロの義認の教えは「救済論」と「教会論」(と、ライトは理解している)、というものでした。

用いた資料義認論ノート、3で紹介したマクゴワン論文と同じ論文集『Justification In Perspective』にライトが書いたNew Perspectives on Paul から引用した特に次のパラグラフです。
このサブセクションの主要論点の第一は、これら二つのこと(罪の赦しを与えられた罪びとを正しいと宣告し、そして、多民族による一つの家族の一員であるこ とを宣告する)はパウロの脳裏では緊密に連携している、ということである。さらに言えば、後者の論点(家族への所属)がロマ書3章やガラテヤ3章ではとて も重要であると主張することが、前者の論点(神の法廷で義と宣言された者の一人とされる)の重要性を軽減するものではない、ということである。

このポイント(契約神学が下敷きになっている)は多少見えにくいが決定的に重要である。すなわち、神がアブラハムと契約を結んだのは、[旧約]聖書の大枠 から言っても、パウロにおいても、アダム来の「罪」とその影響を除去し、良き創造のわざそのものとして完成に導くためである。かくして、神が罪の赦しを宣 言し、また契約の民の一員と宣言することは、詰まる所、二つ別々の事柄ではないのである。
恐らく「厳密に言えば(義認の釈義的許容範囲内に限定すれば)」義認は「罪人を(キリスト・イエスのゆえに)義しい」と赦免する宣言であり、一世紀以降の異邦人キリスト者がマジョリティーとなっていく教会のコンテクストでは第一義的には救済論的に扱われるのが自然になったのだと思います。
 
しかしライトが主張し、指摘しているのは一世紀の教会において、アブラハム契約の祝福を約束された「神の民」はユダヤ人だけでなく、異邦人も含まれており、「アブラハム契約」の視点からそれまでは「ユダヤ人(イスラエル民族)」と「異邦人(諸民族)」という二つの異なる契約関係にある者たちが「キリスト・イエスにあるという原則」において同じ一つの民になる、ということなのです。
 
この契約関係的に「イスラエル民族と諸民族」という二つに分かれていたものが「メシア共同体(メシアのからだ)」を通して一つになったのはいかなる根拠・いかなる原理によるのか・・・を説明するために取られたのが、「律法の行い」ではなく「(福音に対する)信仰」の原理において、という議論であったということです。
 
引用したライトの論文では、この義認に関する「契約関係における民族間の問題」が前面にあることをロマ書3章の次の箇所を指摘してさらに続けて訴えています。
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(ローマ3:29-30、新共同訳)
 
しかし、長い間(約1800年くらい?)キリスト教会からこの「一世紀における二つの民を繋ぐ」問題が消えていました。そのためパウロがロマ書やガラテヤ書で主張した「(信仰による)義認」をこの「民族の契約関係調整」の視点から具体的に考察する機会がありませんでした。
 
「キリスト・イエスにおいて更新された契約」に入る(言わば)長子の権利を主張する(できる?)人々(ユダヤ人) が長い間出てこなかった、とも言えます。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒2:39、新共同訳)
あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」 (使徒3:25-26、新共同訳)
そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。(使徒13:46、新共同訳)
「義認」の教義的理解にとっても最重要であったこの「一世紀の教会における民族関係問題」という歴史的文脈が視界から遠ざかった後は、教会論は次第に義認論の表舞台から退場していったように見受けられます。
 
宗教改革になって救済論が神学的議論の主役を演じるようになると、義認論はもっぱら救済論との関係で論じられるようになり、宗教改革の第二・第三世代以降(プロテスタント正統主義の時代)は、教会論の弱体化も手伝って、もっぱら「個人の救いの体験」(「救いの順序」)における諸懸案(義認と新生、信仰と新生、義認と聖化、など)との関連で論じられるようになったようです。

 
今後の展望
 
「義認」と教会論の関連をさらに論じて行くにあたり、二つの重要な関心事項があります。
 
(1)教会員の資格問題
 中世カトリック教会や宗教改革後の国教会のような「国家社会と教会」が同心円のような関係にあったいわゆる「クリステンダム(キリスト教文明)」の条件の下での「義認と教会」を考察する必要があります。
 
(2)(聖礼典、特に)洗礼と教会員資格問題
 宗教改革以降、聖礼典に与ったような“外面的”な教会員の教会ではなく、救いの体験を持った「聖徒たちの教会」へと改革を推し進めて行く中で「義認と教会」の関係を見て行く必要があります。
 
(3)教会史の流れ
 
 これらの関心事項を以下のような教会史の流れと関連させながら概観して行きたいと思います。
 
一世紀の教会では、ロマ書やガラテヤ書で論じられたように、「義認」はイスラエル民族と異邦人諸民族がどのような原理原則で「一つの神の民」となるか、という問題でした。
 
しかし、二世紀以降、さらにキリスト教がローマの国教なると、ノミナルなクリスチャンと聖徒らしいクリスチャンとごっちゃになったような教会をどうしたらいいか、という方向に「教会員問題」は向かいます。
「教会らしい教会」をと改革運動が進む中で宗教改革が起こります。
しかし、国教会的なシステムでは「聖徒だけの教会」は難しく、再洗礼派のような急進的な改革は一部に限られます。
 
英国国教会から逃れ、新大陸に移ったピューリタンたちが改革路線を進めますが、この時「教会員」を「救いの体験」を証しすることが出来る者に限定する制度が定着していきます。
この流れは「リバイバリズム」運動とも重なって、個人の救いの体験を重視することにより、組織的・制度的教会を軽視しする流れが強まります。
すなわち「パイエティズム・信仰復興運動」の背景を持つ福音派の「教会論」が後退して行きます。
 
このような流れの中で「洗礼」と「義認」の密接な繋がりが見えなくなり、教会の実践において「回心」と「洗礼」が分離していきます。
 
大雑把に言えば・・・中世のカトリック教会的教会形成原理から、宗教改革原理を徹底した自由教会形成原理へと移行して行く中で「義認」の意味・位置が変化して行くことを辿ってみたいと思います。
 
いわば「義認」の「教会論的文脈の変化」を「マクロな(=大風呂敷な)視点」から追跡した雑多な思いつきの寄せ集めに過ぎないですが、例証・傍証取り混ぜながら述べて行きたいと思います。



2017年8月19日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年8月20日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 4:7-14
説 教 題 「心が励まされる」
説 教 者 小嶋崇 牧師
コロサイ(42)/パウロ書簡の学び(159)
 

同労者たち ① テキコとオネシモ (コロサイ4:7-9)

2017年8月17日木曜日

今日のツイート 2017/8/17

カトリックの学者の方らしいが・・・恐らく悪意は殆どないと思われるが・・・何かしら「対立的で、少し挑発的な響き」を感じたので・・・取り上げさせていただきましょう。

プロテスタント側には「30、000の教派」がある。
「(それだけ多いと)一括りにできるようなものではない」。
「カトリックではない」という定義がプロテスタントの「最大公約数的なアイデンティティ」。

ですか・・・。

真っ先に思うのは(筆者がプロテスタントだからですが)、「ルターがカトリック教会から破門された」ことが引き金となってプロテスタント(教会)が生まれたということでは、カトリック教会は(3万のプロテスタント諸派の)今日的状況と無関係ではない、ということ。

やはりその辺りの当事者意識が余り感じられないような物言いは注意が必要だろう。

次に「30、000の教派」だが、これはカトリック側が(主に?)プロテスタント教会の信頼性を損ねる目的でしばしば使われるポイントだと言う。

つまり「カトリックvsプロテスタント」という対立的な構図での「数字による攻撃」で、プロテスタント側も「数字で反撃」している。(余り建徳的だと思わないので引用紹介は控える。)

次にカトリック教会の「本家意識」は無理もないと思う。「キリスト教の正統を護ってきた」自負はそれなりに認められてしかるべきだと思う。

しかしその場合でも「本家から分岐したグループ」をそれなりに把握する歴史意識は大切だと思う。


次に正教会側の「本家意識」をどう考えるのだろうか。
Due to a variety of complex circumstances, the Western church, known today as the “Roman Catholic Church,” split from the Eastern Orthodox Patriarchates of Constantinople, Jerusalem, Alexandria, and Antioch in the 11th century. Roman Catholics, however, see it from the opposite perspective, namely that the Orthodox Church broke communion with the Roman Catholic Church.
カトリック教会は正教会側が分離したと考えているが、カトリック教会が正統である東方正教会から「分岐」したのではないか・・・。

と、このサイトではそのあたりの歴史事情をさらに資料に当たって調べるように奨めている。


その中の一冊として、ティモシ・ウェアー『正教会入門』(新教出版、2017年)があがっているのでオススメだろう。

さらにユダヤ教/イスラエルとの関係ではどうなるだろう。


もともとがユダヤ人ではなかったキリスト者(の教会)は総じて「接ぎ木された野生のオリーブ」の意識でいる方が健全ではなかろうか。(ローマ人への手紙11章17節)


と、そんなことを思わされた午後であった。

2017年8月14日月曜日

(3)神学ジョーク、2017年 N.T.ライト


かつて「神学的ジョーク」の冒頭で書いたことですが
ジョークと言うのは英語圏でのパブリック・スピーチにおける必須なものです。
シリアスな内容の講演でも、その導入にちょっとしたジョークを入れることで聴衆の食いつきが良くなりますからね。
その中でも「神学的なもの」となるとやはりTPOになり、どうしても「宗派・教派の違い」をネタにすることが多くなるようです。(アリスター・マグラースの場合は“浸礼派”バプテストでした。)

今年5月の“Discerning the Dawn: Knowing God in the New Creation"という講演の冒頭、ライト師が使ったのが「神論」に関わるジョークでした。


(ジョークは1:00~2:10くらいのところ)

引き合いに出されたのは、John W. Bowker(著名な学者です)。

彼がある時忙しい合間を縫って招かれていた米国のどこかの講演に行ったときのこと。


講演題が・・・『今日の世界で「神」を語る』(Speaking of God in Today's World)・・・みたいな感じのことで、飛行機の中で一応内容をささっとまとめて颯爽と会場に出向き、何とか時間にも間に合い講演を始めました。

講演を締め括るに当たって
If the doctrine of Trinity didn't exist, we'd have to invent it.
と高らかに宣言し講演壇を離れました。

すると聴衆からは雷鳴のごとき拍手喝采。

隣の席の(別の)講演者が、「いやー、勇気ある、踏み込んだ発言でした。」

(ボウカー)「別にそんなこと言っていませんよ。しごく教理的にオーソドックスではないですか・・・。」

(隣席)「いや、ボウカーさん、この会議はユニテリアンですよ。」

(ボウカー)「じゃ、なぜみんな拍車喝采しているのですか。」

(隣席)「いや、ボウカーさん、彼らはあなたのアクセントが気に入ったんですよ。」



というわけで、ライト師のアクセントがアイリッシュか???みたいなところから始まったジョークでした。

2017年8月13日日曜日

(4)キリスト教原理主義と福音主義

先日、「(3)藤本満『聖書信仰』ノート、10」を書いたばかりだが、その前の「(3)藤本満『聖書信仰』ノート、8」と「(3)藤本満『聖書信仰』ノート、9」で「ファンダメンタリズム」を扱ってから、あらためてジョージ・マースデンの『Fundamentalism and American Culture』を読み直している。それも結構ゆっくりと。

今回書くことは「『聖書信仰』ノート」に入れても良かったが、風呂敷を広げすぎて(筆者も読者も)混乱するといけないので、独立させた。(なお「アメリカ宗教史」研究、関連の展開は「宗教と社会小ロキアム@巣鴨」プログにて取り上げようと思っている。)

昨年から今年と、トランプ大統領がもたらした旋風は米国福音派だけでなく、日本の福音派にとっても「パブリック・イメージ」の問題だけをとっても結構大きな意義があるように思う。

※たまたま今朝ツイートしたこの記事は的確にその辺の事情を捉えていると思う。


「ファンダメンタリズム」や「福音主義」のような基本的用語の整理ももっとしていく必要があるだろうなー、などと思っていたら意外なことに「日本の福音派のアイデンティティー」に関し長らく研究発表してきた宇田進氏の文章が「いのちのことば社」のウェブサイトにあるのを見つけた。

ここにリンクを貼っておこう。

「原理主義」と「福音主義」 第1回 ファンダメンタリズムの原点は?(前半)

「原理主義」と「福音主義」 第3回 エバンジェリカルをめぐって─アメリカ教会と日本教会(前編)

「原理主義」と「福音主義」 第3回 エバンジェリカルをめぐって─アメリカ教会と日本教会(後編)


冒頭
   このたび、4回にわたり特に「キリスト教原理主義」について拙文をつづることになったが、正直言って≪戸惑い≫を覚えている。
とあるのだが、「第2回」というのが見つかっていない。

一読して(この文章が書かれたのが割合最近だとすると)次の部分がやはり気にかかる。
 ブッシュ政権の“在り方”については大いに論ずべきであるが、ことファンダメンタリズム・福音派に関する著者の見方は、従来から日本のメイン・ラインの教会の中に広く流通してきたものの反復にほかならない。結局、忌避・拒絶 以外の何物でもない。
 以上のようないわば“定説”とも言えるネガティブな見解とは対照的な“稀なる見解”が最近登場している。それは、一定の理解と評価をともなった古屋安雄氏(聖学院大学)の見解である。
 古屋氏は前掲書の中で、一章を「日本の福音派」にあてている。種々問題を論じながらも福音派の成長に注目し、「日本においても福音派に期待するのである。日本基督教団をはじめとするいわゆる主流派の諸教会がいつまでも混迷と混乱のなかにあるならば、福音派の諸教会がそれこそ〈主流〉となる日がやってくるかもしれない」と“オープンで前向きな見解” を披瀝している。
 かつてウィリアム・ホーダーンは、エバンジェリカルはリベラルなものを一生懸命学ぼうとするが、その逆はほとんどみられないと指摘したことがある! また、プリンストン大学の社会学者ロバート・ウスナウは「リベラル派と福音派の両者とも、互いに相手の最も悪い面ばかりを前面に押し出し、それぞれの“よい部分”をまったく見ようとしない」とも批判している(『アメリカの魂のための闘い─福音派・リベラル派・世俗主義』(1989)。日本のキリスト教界はまさにその典型である!(強調は筆者)
過去に(もちろん今でも尾を引いているが)対立した自由主義、根本主義/福音主義両陣営がそれぞれに対する見方をすり合わせながら共に学ぶような機会がまだまだ少ないのだと思う。


以上、不要で不幸な混乱に巻き込まれないためにもなるべく正確な歴史知識を積み上げて行きたい。

2017年8月12日土曜日

明日の礼拝はお休みとなります

巣鴨聖泉キリスト教会での明日、

8月13日の主日礼拝はお休み となります。

どうぞお間違えありませんようにお願い申し上げます。


※今年は比較的過ごしやすい暑さの中ですが、熱中症等 健康にはくれぐれも留意してお過ごしください。 


(5)義認論ノート、4

義認論ノート、3」はかなり長い記事となってしまいました。

そのため「(2)なぜ義認論にとって『救いの順序』は問題なのか」が充分言い尽くせないで終わってしまいました。

「議論の流れ」を簡単に整理するとこんな感じです。 

「義認」を論ずる枠組みは何だろうか。

宗教改革以降、プロテスタント諸派で顕著なのは「義認」を「救済論」の中で論ずることだ。

特に「救いの順序(ordo salutis)」の枠組みを参照して論ずることだ。

しかし、それが余りにも(時系列的にも、論理的にも)詳細な点に渡ってまで整合させようとして聖書テクストの読み(釈義)を歪めさせている・・・

と言った辺りまでやってきました。


アンドリュー・マクゴワンの『義認と救いの順序』を用いてこの辺の整理をしようとしました。

「義認論」が抱える様々な問題点を「救いの順序(ordo salutis)」からくる問題に絞って指摘しても全部が解けるわけではないと思います。

伝道会議・分科会の議論の組み立てでは、(1)救済論の枠組み、に(2)教会論の枠組み、をプラスすることによって「義認」を「『救いの順序(ordo salutis)』のみ」の縛りから解き放つ方向を示唆しようとしました。


でも(2)教会論の枠組みに行く前に・・・

義認論ノート、3」で、「救いの順序(ordo salutis)」を使って「義認」の教理的な位置を解明しようとする(主に改革派系の)神学者の中に、「救いの順序」とは別の(パウロ神学)概念を用いて「義認」を論ずる流れ(school、学派)があり、これが影響力を増している(らしい)ことを指摘しました。

「キリストとの一体(union with Christ)」
です。(マクゴワンの論文ではordo salutis methodに対してunion with Christ methodとなっています。)

バルトの「救いの順序に拘泥すると、救済論が余りにも人間論になってしまう。もっとキリスト論的視点に戻すべきだ。」みたいな批判を紹介しましたが、実はアンドリュー・マクゴワンの『義認と救いの順序』論文にはもう一人(筆者から見て)重要な修正視点を提供した方がいます。


昨年80歳を迎えたウェストミンスター神学校の名誉教授のリチャード・ガフィン・ジュニア(Richard B. Gaffin, Jr.)は、1969年に同校で Resurrection and Redemption: A Study in Pauline Soteriology と題した博士論文を書きます。これが後に The Centrality of the Resurrection: A Study in Paul's Soteriology として出版されます。
ガフィンの主張は、パウロの救済論において「キリストの復活とキリスト者の復活とが密接にリンクしているゆえ、『キリストとの一体』が支配的である」ということです。

この視点から伝統的な「救いの順序」救済論の欠陥が指摘されます。
 (1)終末論的視点が欠落している。
 (2)「救いの順序」の各要素を独立した「行為(アクト)」と見るのは問題だ。

Nothing distinguishes the traditional ordo salutis more than its insistence that the justification, adoption and sanctification which occur at the inception of the application of redemption are separate acts. If our interpretation is correct, Paul views them not as distinct acts but as distinct aspects of a single act.(強調は筆者)

 (3) 「新生(regeneration)」が「信仰」より前に来る見方はパウロ的でない



(マクゴワンの論文にはバルトら新正統主義神学の立場の解釈との違いの指摘もありますが)このガフィンの主張はウェストミンスター神学校の中で受容され、救済論における「キリストとの一体」の主導のもと、「法廷的『義認』(forensic justification)」も堅持しながら、なお議論が進展しているとのことです。


以上「救済論」から「義認」を見た場合の「救いの順序」の限界と、パウロ神学的に見た場合の「キリストとの一体」の中心性・重要性をマクゴワン論文から見てきました。

特に、「キリストとの一体」強調において、ガフィンが指摘した「復活」すなわちパウロの「終末論」的視点は今後の「義認論」を修正して行く上で重要な意義を持っていると思います。


話題が少し離れますが、「義認論ノート」と並行して書いてきた「Salvation By Allegiance Alone」を先日完結し、その最後に「中間考察」の一つとして書いたことですが、ガフィン/ウェストミンスター神学校の義認論における動向はある意味「組織神学的救済論」から「新約聖書(パウロ)神学的救済論」に重点を移したもの、とも捉えることができるのではないかと思います。

かつてこのブログで、リチャード・ガフィン・ジュニアがライトと義認論について議論した動画を紹介したことがありますが、その時と比べ、このマクゴワン論文を読んだあとでは、「ライトとの違いはそれほど大きくない」というのが筆者の印象です。

むしろ、「復活/終末論的視点」の重要性、「救いの順序」の問題性、そして「法廷的『義認』(forensic justification)」の堅持、等において二人はかなり近いように思います。

読者の印象はどうでしょうか・・・。


(次回に続く)