2026年2月4日水曜日

ある読書会でのこと(覚書)

先日あった牧師たちのZOOM読書会でのことを記しておく。

取り上げられた本は牧師による説教集のようだ。
「ようだ」というのは、筆者はオブザーバーのような参加なので購入もしていなく読んでもいないので。当日は用意された発表者の感想なような文章を事前に読んで参加するだけ。いわば気楽な立場。

イエスの復活の記事(ヨハネ福音書20:24-29)からの説教だが、次のような部分がある。(引用はこの発表者のものではなく、ネットにある書評から。)

もう一つのショックは「傷によって共に生きる」(本書24頁以下)の中で語られている「傷」に対する捉え方である。聖書個所はイエスが疑い深いトマスに現れ、ご自身の傷口を示した個所である。この個所から北口牧師は語る。
「わたしたち誰もが傷を負っているのです。そしてその傷は、よみがえられたイエスに傷が残っているように、癒えても残りつづけます。誰もが生きる中で傷を負い、残る傷がある点で、わたしたちは兄弟姉妹であり、家族であります。」(30頁)。「キリストが傷を残してよみがえられたのは、それぞれに傷を持つわたしたちを『傷によって共に生きる』という生き方に招くためだったのではないでしょうか。わたしたちには傷があります。なら、その傷によって共に生きることはできないのでしょうか。傷によって傷付け合うのではなく、それに対して思いやりをもって、愛し合うことはできないのでしょうか。決してそうではないと信じています。」(31頁)とある。

この部分もそうだが説教集のタイトルにもある「傷」ということに一番の焦点が当たっていることが分かる。

さて、他の牧師たちが一通り感想を述べた後、筆者もコメントを求められた。
実はそうは言わなかったがこの著書についてはある程度耳にしていた。著者のこともそれなりに耳にしていたので本の内容も推察していた。

発表者の感想に次のような一文があった。

著者は自分の弱さを徹底的にさらけ出して語っている。それがこの書の魅力だが、わたしの○○年の牧師としての歩みは、あまり自分のことを語らなかったように思う。聖書が何を語ろうとしているのか、それを今生きているわたしたちはどのように受け止め、生きていけば良いのかを語ってきた。

この「自分の弱さを徹底的にさらけ出して語っている」という部分に自分(発表者)とは対照的な説教アプローチであることを感じ取っていた。

筆者のコメントは、まずこの点についてのものだった。
つまり「自分を語る」という点。

筆者が見るところ、この「自分を語る」傾向は神学にも出てきているように思う。何かを客観的に語るだけでは説得力がないように感じられ、自伝的なエピソードも交えて語ることで、信憑性が増すように思う傾向である。
英語で言えば「lived experience」。要は体験された真理が真正性の証明と受け取られるような傾向である。

近・現代の聖書解釈の流れにおいても、解放の神学やフェミニスト神学のように、解釈者自身の体験をテキストに持ち込むようなアプローチが有力になっているが、その背景には「真正な自身(authentic self)」を追い求める思想的背景(その時には用いなかったが大雑把に言えばロマンティシズム的背景、現代では「expressive individualism」文化)があるのではないか、とコメントした。

次に筆者がコメントしたのは「イエスの復活」について。

この説教においてイエスの復活は全体として後景に退き、ただ復活のキリストの「傷跡」が抽出され、説教者自身の「傷」と結びつけられ、それがメッセージとなって聴衆も抱えているだろう「傷」体験と響き合うよう語られている。そのような印象を持った。

それでコメントで指摘したのは次の2点だった。

(1)身体的復活
 ヨハネの「イエスの復活」の記述で「傷跡」が持つ意義は、まず「復活のからだの身体性」にあるだろうということ。
(2)復活前と復活後の身体の連続性
 さらに「傷跡」はコリントⅠ15章(35節以降)で「復活の体はどのような体で来るのか」と議論されているように、復活前と後の身体には「連続性」があることの示唆になるだろうということ。(またその傷跡が単なる生前の生きた証のようなものではなく、「十字架刑の傷」であることも安易な感傷的共鳴を退けるのではないだろうか。)

以上覚書として書いたことはまだ思いつきにすぎず、深められる必要があることは言うまでもない。


2026年1月31日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2026年2月1日(日)午前10時30分

朗読箇所  ピリピ人への手紙 3:1-11
説 教 題  「
福音と肉に頼ること
説 教 者  小嶋崇 牧師

 

2026年1月24日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2026年1月25日(日)午前10時30分

朗読箇所  
ローマ人への手紙 1:1-6 
説 教 題  「
メシアとローマ帝国
説 教 者  小嶋崇 牧師

2026年1月17日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2026年1月18日(日)午前10時30分

朗読箇所  
ヨハネの黙示録 21:1-2
説 教 題  「
新しい創造とエコトピア
説 教 者  小嶋崇 牧師

2026年1月10日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2026年1月11日(日)午前10時30分

朗読箇所  ピリピ人への手紙 3:1-11
説 教 題  「観察しなさい」
説 教 者  小嶋崇 牧師

2025年12月31日水曜日

元旦礼拝案内

元旦礼拝

2026年1月1日(木)午前10時30分
 
朗読箇所  
ピリピ人への手紙 3:1-11
説 教 題  「絶大な価値
説 教 者  小嶋崇 牧師

2025年12月27日土曜日

退会届

 日本福音主義神学会(東部部会)を退会した。(届の日付は、2025年9月19日)

「入会」は確か北米遊学から帰ってきてしばらくしてだから1990年頃ではないかと思う。ざっと35年間お世話になったわけだ。

退会のきっかけは筆者の年齢(70歳を超えたところ)ということもあるが、今年5月の(久しぶりの対面での)研究会が有料(会費1000円)となったことがあった。まっこれについてはいろいろ事情もあるだろうから何も言わないが、会員として年会費(4000円)を納入していながら参加費を要求されるのであれば何かしら断り(説明)があってもよさそうに感じた。

せっかくだから思い出のようなエピソードを二つ三つ書き残しておこう。

入会当時(1990年代)活躍しておられたのはU田氏やM山氏などウェストミンスター神学校で学ばれたことのある方々だった。「正統改革派」といった印象が薄く割合自由で柔軟な感じの方々だった。研究姿勢はアカデミックな手堅さと敬虔な信仰者の面とを併せ持つバランスの取れた感じであった。

それからしばらく経った頃ペンテコステ系のS理事長の時代があった。多分この頃は最初期以降の勢いがひと段落して学会的には緊張感に欠け仲間意識の方が優先するような雰囲気であったかと思う。まだ尻すぼみではなかったが将来的にはどうだろうと感じていた印象がある。ただし断っておくとS理事長は人柄的に物腰も低く庶民的で決してリーダーシップに欠けていたわけではなかったが…。

こんなことがあった。新約聖書学が専門のU田氏の発表の時であったか、筆者が質疑応答で「翻訳聖書の場合でも『釈義』をするという表現は使えますか」的な質問をしたことがある。

少し背景を言うと筆者が学んだアズベリー神学校では「英訳聖書」という一連のコースがあり、原典聖書(ヘブル語・ギリシャ語)釈義とは別に英語に翻訳された聖書を帰納的(inductive)に学ぶメソッドが確立していて、広い意味ではこれも「釈義」に準ずる作業と筆者などは理解していたからだ。

さてU田氏の答えは予想通りというか「厳密には翻訳された聖書を解釈する作業は『釈義』とは呼ばないと思う。」と答えられた。
筆者としてはもやもや感はあった答えだった。区別は必要ではあるとは言え(神学校で原典釈義を学んだ者たちでも)ほとんどの牧師は毎週の説教作成で実際には原典聖書で釈義をするわけではなく、翻訳聖書のテキストで作業することを考えるとやはり「釈義」の一環として捉えた方がいいのではないかと思っている。(そのくらいの注意深さをもって翻訳聖書のテキストを扱った方が良い、という意味。)

話は変わるが福音主義神学会では最初の頃は割合海外からの講演者が多かった印象がある。しかし途中から海外で研究してきた「若手研究者」を育てる意味もあって、外部からの講演者がめっきり減ったように思う。どうもこのような「内輪で研究する」的な雰囲気が根を下ろし始め、以降段々と緊張感に欠ける学会になっていった一因を作ったのではないかと考えるがどうであろう。

近年で記憶に残る外部講師はルター研究の鈴木浩氏であった。これについては当ブログでも記事にしたので興味のある方はどうぞ。
鈴木氏はやはり専門研究家というか長年蓄積した研究の成果を興味深くかつ学際的研究を刺激するポイントにまとめられていたと思う。
やはりできるだけ「外部」との接触がある/多い学会であったら良かったのにな、という思いが強い。

以上、退会に際して思ったことをパラパラと書き留めてみた。