2011年3月30日水曜日

「終末」を想像して現在を捉える

キリスト教の終末論(「世の終わり」)には大きく分けると二つの異なる解釈がある。
一つは地球(宇宙)・人類の絶滅と取る聖書のより字義通りの解釈(よく参照されるのがⅡペテロ3章10節)。
もう一つは、質的な変革を通るが、今ある地球(宇宙)・人類が「新しい天と新しい地」に再生されると言う解釈。
勿論大衆的キリスト教でどちらの解釈が支配的イメージかと言えば前者の方である。

前者は基本的に神の被造世界を霊肉二元論的な世界観で捉え、物質的存在には終わりがあり、永続性を持つのは霊的世界(天)だけと考える。
後者は「世の終わり」は物質的被造世界は「世の終わり」を通して変革されるのであり、消滅させられるのではない、と考える。その根拠となるのは神の被造世界に対するコミットメント(契約に基づく慈愛)である。(個人主義的救済観の十八番のような聖書箇所であるヨハネ福音書3章16節は、むしろこのような理解を補強するものだと思われる。)

今回の東日本大震災にあたって、大惨事を目の当たりにして、脳裏に「世の終わり」がイメージされたキリスト者は少なくないと思われる。
大衆福音派の一般的受け取り方は「緊急祈祷課題」の最後に「霊的覚醒」や「伝道の機会」が付け足されることが多いように、「キリストの再臨」が先ず念頭にあるようだ。

しかし非キリスト教的、ポストモダン的日本における「終末」に関する言説は、このような大衆福音派のイメージとはかなりかけ離れている。

2011年3月8日のNHK「視点・論点」で、社会学者の大澤真幸は『"正義"を考える―裏返しの終末論』(リンク)で、
 しかし、私は、物語の機能障害、人生が物語化できないということ、物語の中で人生を意味づけられないこと、これが現代社会に特徴的な困難であると考えて います。物語の中で意味づけるということは、自分が、あるいは自分たち共同体が、最終的にはよい、価値のある目的へと向かっていると解釈できるということ です。現在は、いろいろな不幸や失敗や困難があるけれども、最終的にはよい結果に至ると見なせるとき、人は、自分たちの人生を物語として想像できるので す。しかしながら、現代社会を生きる多くの人が、自分の人生をこうした物語の一部として解釈できずにいます。何かよい結果へと向かう過程であると見なすこ とで、自分の今の不幸を、克服できずにいるのです。
と指摘する。そういう中で大澤は「物語の困難そのものを逆手に取る、人生や社会に対する立ち向かい方」を提唱する。
物語が働かないということは、よい終末、よいゴールは想像できないけれども、悪い終末、つまり破局であれば、思い描くことができる、ということです。そこで、まず、未来において、その破局は起きてしまっている、と仮定してみるのです。ということは、その未来の方を「現在」とする時点において、その破局までの過程が、必然であり、不可避の宿命だったと感じられているということです。その「破局までの過程」、つまり未来にとっての過去に、私たちの実際の現在が 含まれていることが大事です。
ここで、今述べたばかりの、偶然の選択が必然性を産み出すという原理が効いてきます。つまり、未来に想定された破 局の位置からは、その破局に至る宿命自体が、未来の破局にとっての過去--つまり私たちの実際の現在--の自由な選択の産物である、と見えているというこ とです。ちょうど、中東での政権崩壊という必然的な政治のブロセスが、ある自殺をネットでとりあげるという自由な選択の所産であるように、です。
ところで、「自由な選択」であるということは、現在、私たちは別のようにも選択できる、ということです。それは、「『破局』を帰結するような宿命」とは別の選択肢です。私たちは、その「別の選択肢」の方を採るべきです。
つまり、わざと破局的な終末が到来してしまったと想定し、逆に、その終末を回避するような選択肢への想像力を回復する。私は、これを「裏返しの終末論」と呼んでいます。物語が困難な時代の「正義」への第一歩は、この裏返しの終末論にあります。
果たしてこの「裏返しの終末論」とやらがどれだけの力を持ちうるのか、その説得力は未知数だが、実はキリスト教にとってポストモダン時代のライバル的福音に聞こえなくもない。
現在の大衆的キリスト教が「個人的終末(死んだら天国に行ける・・・という救いの提示の仕方)」に焦点を絞るのであれば、終末イメージは異なるけれども「裏返しの終末論」の方が現在をどう生きるかという課題に対してはより説得力を持つのは否めない。

筆者は未読だが伊坂幸太郎のSF小説「終末のフール」もやはり「終末」を逆手に取った現在の生き方、人生の意義付けを提案しているようである。(「カウンセリングルーム:Es Discovery」さんの書評 を参照させて頂いた。)
その意味では、『終末のフール』は小惑星の衝突という『非日常的な事態・近未来の破滅』を呈示しながらも、逆説的に、小惑星が衝突することが分かった途端に『生きる価値を失うような人生・日常』を送っている“今現在の生き方”に警鐘を鳴らしているようにも読める。
未来のどこかに自分の幸福や安らぎがあるはずと想像するだけではなく、現時点において繰り返される日常や家族関係、人間関係の中に、最大限の幸福や価値を見出す努力をしたほうが良いという話である。小惑星が衝突しないとしても、人間の生命というものは『明日をも知れない側面』があるのだから、『繰り返される日常』を無為のままに何も楽しみや意義を感じずに過ごすことは好ましくない。
現在原発事故による危機が進行中だが、「安全神話」が虚構であり、現に起きている「想定外」の破綻が初めから想定すべき「破局」的状況であった、との認識が人々の間に浸透しつつある。

現実が「終末」的様相を帯びてきているこの時代に、キリスト教の福音を如何に提示するか。
従来の「死んだら天国(あの世)に行ける救い」的伝道メッセージで現代人のハートを掴めるのか。

少なくとも、逆説的に終末を想像して充実した“いまを生きる福音”、終末を逆手に取った“破局のシナリオを回避する正義の努力”の方が、現実に対する“しなやかさ”という点で勝っている、と筆者は見るが、このブログの読者の方々は如何であろう。
教会にとってなかなかチャレンジングな時代だと思いませんか。

2011年3月28日月曜日

苦難の僕

去る土曜日、今年第一回目の「N.T.ライト読書会」を持った。
課題に挙げていたのはライトの説教で、教会奉仕者(牧会補助者)を任職する際のものである。
Comfort, O Comfort My People
時奇しくも東日本大震災後、慰めのメッセージと具体的支援が人々の一大関心事になっている時であった。
ライト主教は、牧会補助者となる者に三つの役割を、イザヤ40-55章全体を流れるメッセージから導き出した。
①悩む者の傍にいる友(waiting companions)
②賢い証言者(wise witnesses)
③傷ついた癒し人(wounded healers)

特に③の説明で、イザヤ40-55章が「苦難の僕」に焦点が絞られ、主イエスご自身の“代償的な”受苦にキリスト教において結び付けられていることを指摘して言う。
Part of the point of Isaiah 40—55 is that the people of God are suffering the pain and desolation which somehow brings into focus the pain and desolation of all the world, so that their exile is the focal point of the world’s exile and their suffering is the dark centre of the world’s suffering. The Servant, representing Israel, comes to the place where that suffering is at its worst, and takes its full weight on himself so that first Israel and then the world may be comforted, may be assured that exile is over, may receive as fresh good news the promise of new creation.
ライトのここにおける「苦難の僕」のキリスト論的解釈は「イスラエルとの契約」の枠組みにおける解釈であり、イスラエルのストーリーがイエスの十字架の死(捕囚)と復活(捕囚からの帰還)において、申命記28-30章の契約の《呪い》と《回復》が実現したことを、イザヤ預言成就に見ているのである。

その意味で「イエスの死」は象徴的であり、その「代償的意義」は第一義的にイスラエル、しかしイスラエル自体が神の贖いの計画において、世界を代表する意味での選びであるから、その象徴的意義の中には普遍(世界)的意味が含まれる、と言う二重の代表意義なのである。

そしてさらに「イエスの死」は単なる象徴的解釈ではなく、歴史的にローマという敵国による捕囚を具体的事実として持っている。
ライトの「イエスの死」の解釈は抽象的贖罪論ではなく、イスラエル契約の枠組みと、ローマによる被支配という政治史に沿ったものなのである。

先日のポストで「のらくら者の日記」さんにエール送り、「是非今後も、現在の『福音派の福音』が『聖書の福音』に照らしてどのように逸脱しているのかを検証していただきたい」とお願いしたが、早速答えていただいて、「『聖書の福音』への手探り」と言う文章を掲載して頂いた。

以前何回かブログ誌上討論みたいなものをさせていただいたが、「もう振ってくれるな」とのことなのでモノローグとしてこの文章を書いているが、その文章の中で「十字架の矮小化」の問題を指摘されていた。
これは実は不思議なほど福音派自身で神学的に検証されていない大きな問題である。
筆者の表現を使わせて頂けば、福音派の「イエスの死の救済的意義」理解は、①至って個人主義的であり、②イスラエルの契約の歴史とは接点がなく、③著しく非歴史的な理解になっていると思う。
先ずこの点に気付き、しかる後に、①聖書(特に福音書)に沿って、②実際のイエスの歴史に沿って、「イエスの死の救済的意義」、特にその「代償意義」の理解を深めて行って欲しいと願う。

斯く言う筆者もライトなどを助けにしながら、歩みは遅いがずーっとそのことと取り組んでいる。

のらくら者さん、牧会で忙しいこととは思いますが今後も「聖書の福音」についてブログ読者を啓発してください。(これって「振って」ないですよね。)

2011年3月26日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

3月27日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 3:1-29
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 3:27
説 教 題 「キリストを着る」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(56)
ガラテヤ人への手紙(44)
・3:23-29 一つの信仰、一つの民

※礼拝後、役員会。

2011年3月25日金曜日

明日については不明です

まん前の公園に設置された拡声器から、毎日2回東電の計画停電についての案内がアナウンスされる。
「今日の停電はありません。」
「明日については不明です。」
「引き続き節電にご協力ください。」

東北関東大震災から二週間。
刻々被災規模が大きくなって行くのを聞いてきた。
今日の時点で確認された死者数は一万人を越えた。

この間様々な情報(誤報も含めて)をメディアを通して提供され、ネットを通して探索し、そのたびに様々な感情の中を通過してきた。
大震災だけであれば被災地との地理的距離のゆえそれなりの平静さを保てるが、今度の場合ぱ原発事故のこともあり、今まで余り知らなかった、ヨウ素131やセシウム137、シーベルトやベクレルなどの単位で情報提供され、ますます「専門家の意見」に一喜一憂する事態となっている。

二週間これだけの規模の災害とその後の二次的・三次的影響の中で右往左往していると、ある程度神経がおかしくなってくる感じがする。
深刻な事態に関する情報を、意図的にせよ何にせよ一定量受けると、これは心理的な一種の被曝のような感じがしてくる。
情報被曝と言う造語が出来ているかもしれない。

情報を求めすぎるのは無理もない。かなり不安な中にあるから。
不安になるのも無理はない。しかるべく情報がすぐに明確に提示されないから。
でも生身の人間、正しい情報を取捨選択して身を守ろうとしてもある程度までしか物理的に無理だ。

より正しい情報。より正確な情報。より専門的な情報。それらをかき集める努力は必要だと思う。ツイッターを使っていると刻々それらしい情報が目の前を流れていく。
時間も能力も限られているからクリックするかどうか判別するのにも気を使う。
そして少しずつ疲れて行く。

昨日あたりから「情報被曝」が一定量に達したのではないか、少し自粛して情報を追うのをやめるべきかもしれない、と思い始めている。

ここでマタイの福音書の一節。
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(6章34節)
不明なことはたくさんある。しかし「明日については不明です」と言うのも明日に向けての一つの態度ではないかな。(東電の停電策を支持しているのではありません。不便を被っている人は本当にお気の毒です。)

さて「平時のポスト」らしいものを二つほど付記させていただきます。

①愛読している「くらくら者の日記」さんが「神学校教師を辞職された」経緯について書かれている記事(「改めて全文をアップしてみました」)に接し、少し複雑な感じを抱かされました。
辞められた経緯の中に「現在の日本の福音派教会」が介在していることが文面で言われているからです。
筆者もこのブログで何回か、間接的に、時にやや直截に、福音派の問題についての苦言のようなことを書いてきました。
のらくら者さんが辞めるにあたって仰っていること、「有賀寿先生の言葉を借りるなら、「福音派の福音ではなく、聖書の福音」(『かごの鳥と見るな』参照)を探求したいのです。」について共感を覚えます。
くらくら者さんには是非今後も、現在の「福音派の福音」が「聖書の福音」に照らしてどのように逸脱しているのかを検証していただきたいと願っています。

②私事になりますが、筆者が「リバイバル・ジャパン」誌に寄稿した『自伝的「新約聖書学」最近研究状況レポート N・T・ライトを中心に』(「ご案内」参照をブログで取り上げて論評してくださった方がおられます。ありがたいことです。
久保木牧師のブログ、「小嶋牧師の文章からN・T・ライトを考える」
少しずつでもN.T.ライトに関心を寄せてくださる方がおられる様子を見て励まされる思いです。
未訳の論文についても言及されていますので、なるべく早く期待に応えたいと思っています。

2011年3月22日火曜日

自然災害と終末論的解釈

ここ数日ブログの更新をしなかったのは心が重かったことと体調がすぐれなかったこと。
そしてもう一つ東北関東大震災以外のトピックで記事を書こうと散々考えたのだが、どうしてもこのことに戻ってきてしまうことだった。

心が重い理由の一つは、これだけ多くの人の命が奪われ、惨憺たる情景を目の当たりにして、ことばを失い茫然自失となるのが自然だと思いきや、自分も含めて、案外平静としている、淡々としている人間が多いこと。
これって人間としてまともか・・・と言う疑問。(大惨事に当たって冷静でいられることは半面悪いことではなくむしろ賞賛すべきことであるが。)

もう一つはこれほどの大災害であっても彼我の差を非常に感じたこと。彼我の差とは、筆者が常時閲覧している英語ブログと日本語ブログでの取り扱いの差のことである。
一つ二つ例外はあるが、英語ブログではまるで何もなかったように神学やキリスト教の話題についてブログが更新されて行った。

気になったこともある。
例の福島原発関連の祈祷要請メール。
先日ちょっと書いた「命と性の日記」にこのチェーンメールについて警鐘を鳴らしているので筆者としては何も付け加えることはないが、エステル書を参照して「国難」緊急祈祷委員会気取りであちこちに祈祷要請しなければならないほど「総動員」をかけたいのか。依然としてそのメンタリティーにあきれる。個々の教会(教団、組織)はそれぞれの良識と知性と霊の導きによって祈る、そういう自主性に任せておいていいではないか。もしその輪を広げたいのであればこれだけネット環境が出来ているのだから、草の根的ネットワークのやり方、ボトムアップでやって欲しい。いきなり自称「中央」が出来上がってトップダウン、と言うのはいただけない。

さて本題に戻る。
先日「自然災害と宗教的解釈」と言うポストをしたばかりであるが、今度はそれを狭めたトピックである「終末論」的解釈との関連での発言が飛び出した。
米国の著名な大衆伝道者ビリー・グラハムの息子で、サマリタンズ・パースと言う慈善団体の総裁も務めるフランクリン・グラハム師。
昨年は大阪で大伝道集会を開いた。
今回はいち早く義援金と救援物資を送ってくれたことは感謝だが、無言でと言うわけには行かなかった。

この度の日本での地震と津波は「終末のしるし」であるかもしれない、との発言をしたと報道されている。(CNN宗教ブログ
What are the signs of [Christ’s] second coming? War and famine and earthquakes … escalating like labor pains. ... Maybe this is it, I don’t know. We should pray and be vigilant. The Bible teaches us Jesus is going to return someday. Many of us we believe that day is sooner rather than later.
先の石原発言とは宗教的背景は異なるが、「キリストの再臨」を地震のような自然災害と絡めて取り沙汰されるのは何も今に始まったことではない。
ちょっとでも不穏な空気な中にさらされるとすぐ「再臨」を叫ぶメンタリティーは筆者が育ったキリスト教の中でもよくあったことだ。
今回の問題もまた、そのような宗教的、神学的解釈を施した発言をするのに適切な時だったのか、と言うことである。

共感福音書におけるイエスの「終末」の教えに関する解釈は様々である。
文字通り解釈に慣れた根本主義、福音主義の大半は、このオリブ講話(マルコの記述は『小黙示録』と呼ばれる)における天変地異的アポカリプティック表現をそのままキリスト再臨前の兆候と解釈する傾向が強い。
筆者はその解釈の可能性を全部否定するつもりはないが、歴史的に言って、イエスの預言者的使命とその行動の文脈から解釈するのならば、弟子たちの想像をはるかに超えた「キリストの再臨」と言う事態について懇々と説諭したと取るのは不自然だと思う。何しろ弟子たちは三度に渡る十字架と復活の予告さえ理解不能であったのである。その彼らにイエスが時間的にはるかに先の事態を果たして説明できたであろうか。
ルカの並行箇所で明らかなように、イエスの「終末の黙示」はもっと近い将来、イスラエルにとっての政治的危機・混乱を指し示していたことが見て取れる。ずばりローマによる神殿とエルサレムの破壊である。
これが最も自然な歴史的、文学的解釈であると思う。

問題は「終末の始まり」と「終末の終末」の間を生きる教会がこの箇所をどう解釈するか、である。

詳論する余裕はないが、先ほどのメンタリティーの問題としてみるならば、使徒の働きを見る限り、初代教会が「再臨」がいつ来るか、いつ来るかと気にしながら宣教している様子はみられない。
彼らはイエス・キリストおいて「終末」が到来したこと、つまり新創造が開始したことを根拠にして世界宣教に勤しんだのである。

キリスト者の使命は「再臨の時」を占うことではなく、神の国のわざを着実に進めることである。
時が良くても悪くても。
大恐慌の時でも好景気の時でも。
大災害があった時でも平時の時でも。

2011年3月19日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

3月20日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 3:1-29
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 3:26
説 教 題 「あなたがたはみな神の子」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(55)
ガラテヤ人への手紙(43)
・3:23-29 一つの信仰、一つの民

2011年3月18日金曜日

一週間経っても・・・

2011年3月11日

から一週間が経った。
被害の輪郭はほぼ掴めて来たが、まだ全貌は見えていない。
原発危機は進行中であるし、せっかく生き延びた避難者たちの生活条件は不便、苦渋、不安等に満ちている。

今だから語るべきことは色々あるだろう。
様々な情報が必要とされている。
しかし深く悼む時間的心理的余裕が少ない。

確認できた遺体数より不明者数の方が何倍も多い。
そんな中でも可能な限り「死者の弔い」が丁重に出来るようにと願う。

一週間経って公的に発言すべき人が発言していない。
東京電力のトップはまだ公式な場でコメントしていない。
この不在は何を意味するだろうか。

一方聞こえてくることばは・・・
・不安や錯綜する情報を沈静化しようとすることばがある。
・救援物資が届かない孤立した被災地の人々の叫びのことばがある。
・被災者を慰め励ますことばがある。
・お互いの安否を確認しあうことばがある。
・今次の災害で露呈した制度やシステムの様々な脆弱性を指摘することばがある。
・再建に向けた厳しい評価と希望のことばがある。
・卒業式をキャンセルして式辞をメッセージにして発信している校長のことばがある。

激甚災害も日が経っていくうちにいつしか記憶は遠のいていくであろう。
今どんなことばを、どんなイメージを記憶に刻んでおくべきか、注意深く選別しておこう。

2011年3月16日水曜日

自然災害と宗教的解釈

都知事4選出馬を決めたのかどうなのか放言癖のある石原都知事が今回の大災害を日本への天罰だと言い放ったそうだ。

一応文脈からは被災者への同情はあるが、背後に石原氏の「宗教的解釈」があるらしい。
 発言の中で石原知事は「アメリカのアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等。日本はそんなものはない。我欲だよ。物欲、金銭欲」と指摘し た上で、「我欲に縛られて政治もポピュリズムでやっている。それを(津波で)一気に押し流す必要がある。積年たまった日本人の心のあかを」と話した。一方 で「被災者の方々はかわいそうですよ」とも述べた。
石原知事は最近、日本人の「我欲」が横行しているとの批判を繰り返している。(朝日コム
 宗教学者の島田裕巳氏によればこの石原発言の背景となる宗教思想は日蓮宗・法華経なのだそうである。(島田裕巳の「経堂日記」
法華経を釈迦の本当の教えが唯一説かれた経典ととらえた日蓮は、法然念仏宗などの邪教が広まるのが放置されている限り、日本は異国から攻められ、国内では 政治的な反乱がおこるだろうと予言した。その予言は、蒙古の襲来に寄って的中することにもなるが、そこから日本の法華信仰、日蓮信仰には、災難に意味を求 めようとする傾向が強くある。日蓮は、相当に規模の大きかった正嘉の大地震に鎌倉で遭遇しており、その体験から天変地異に邪教が広まっているあかしを求め ようとした。その傾向が、現代にまで受け継がれ、おそらくは石原知事にも影響を与えることだろう。
島田氏の分析を云々する知識は筆者にはないが、少なくとも石原氏の天罰発言は今回の大地震そのものに対するものではなく、日本の今の政治事情に対する「憂国士」的発言ではないかと感ずる。その意味では被災者に対する同情的コメントは付け足し的なもので、むしろこの時期に大災害に絡めてこのような発言をしてしまうセンスが(相変わらずと言えばそうなのだが)疑われる。

ある著名クリスチャンブログでは、石原天罰発言や韓国のチョ・ヨンギ牧師の「神様の警告」発言を受けて、災害に対する正しい態度として、ルカの13章1-9節を参照するよう忠告している。(「命と性の日記」
しかし、イエス様は二つの災害についての正しい解釈をされます。ピラトによるガリラヤ人流血事件という「人災」、シロアムの塔倒壊18人死亡事件はどちらかと言えば「天災」でしょうか?どちらの災害についてもイエス様は「被災者が他者より罪深いと思うのか?」と私たちが抱きがちな因果応報思想をチェックします。

そして、イエス様の正しい解釈は、明確。5節にあるように、「あなたがたも悔改めないなら、みな同じように滅びます」なのです。ガリラヤ人流血事件報告者に、そして、今日聖書を読む私たちに、災害についての正しい解釈を示しています。
筆者はこの聖書箇所が「今日聖書を読む私たちに、災害についての正しい解釈」を提供しているとは思わない。
イエスのこの発言はルカ9章51節から始まる「エルサレム行」の大きな文脈に位置し、「イスラエルの預言者のエルサレムでの受難の不可避性」(13章31-35節と19章37-44節)を自覚した「イスラエルの預言者」的発言と取らなければならない。
この歴史的背景を理解した上でルカ13章1-9節を考える時、悔い改めの必要も、滅びの不可避性も、イエスと同時代のイスラエルに対する警告として解釈されるべきであろう。

ではその時代的制約を越えて「私たちに」何を語るか。
一番の矛先はイスラエルと今同じ立場にある教会に対する警告であろう。
但し当時のイスラエルへの警告とはイスラエルがローマに対して武力で対抗しようとするなら「滅びる」と言う具体的な予告であった。
警告の焦点は、引き合いに出された「災害(天災にしても人災にしても)」ではなく、イスラエルの政治的選択なのである。

さて私たちはたとえ自然災害であってもそこに何かしらの意図や意味を汲み取るものである。特に宗教的、神論的世界観からはこれは自然なことであろう。

アメリカではまだちゃんとした思想も持ち合わせていない少女が、日本の地震を引き合いにして、無神論者たちに「神様がいる」ことを証明した(神が日本を揺らした、と表現している)、私たちの祈りに即答えてくれた、と有頂天になっているビデオを投稿し話題になっている。
そしてそのビデオを取り上げた「進化論的キリスト教」のデーヴィッド・ダウド氏(過去ポスト参照)はこの少女のような「単純な聖書主義信仰」を嘆き、進化論的な解釈が如何に必要であるかを力説する。(進化論的キリスト教ブログ

島田氏はこのポストを「今回の大災害に意味を見出すことを、とくに法華信仰やキリスト教の信仰をもつ人たちは戒めるべきだろう。地震も津波も自然災害であり、宗教的な意味などあるはずはない。」と締めくくっているが、逆にそれでは唯物論的な、自然主義的なリダクショニズムを押し付けることにならないか。
必要なのは起こったことを冷静に受け止め(自然災害であること)、そして被災した人たちを助けることである。しかしこのような大きな出来事を単なる自然のプロセスとだけ受け止めるほど人間は単純ではないことも弁えるべきだ。

出来事はむき出しの事実だけでは済まない。
人は出来事をそれぞれの世界観に従って解釈する。
人が出来事に意味を求めること自体は避けられない。

ただその解釈を公に発言する時、特に災害を被った者たちへの配慮もなく、ただ自己の世界観の正しさや正当性を主張することに懸命になるのであれば、それは適切さを欠いている。

ヨブの苦難を前にした三人の友人たちは先ずことばを失っていた。
筆者もブログで発言するよりも哀悼の意と祈りを持って黙っている方が良いかもしれない。
しかし、もしことばを発する時は、適切な「ことば」を弁えなければならない。

2011年3月14日月曜日

備えと想定外

地震から三日経った。

巣鴨聖泉キリスト教会は昨日の礼拝でほぼ来られる状況のメンバーがすべて礼拝に顔を揃えることが出来た。感謝。
礼拝後それぞれ地震の時の様子や帰宅難民の様子を分かち合った。

海外のメディアはこれだけの規模の災害に見舞われながら、冷静に対処し、整然と列を作って電車を待ったり、コンビニで買物している姿を、信じられないと言うようなニュアンスで報道しているようだ。「日本は備えが出来ている国だ」との評。

被災の激しかった地域では、過去の被災経験から、地震にも、津波にもそれなりの準備をしていた。
しかし今回の大地震、大津波は想定外の規模であった。
備えはあったが間に合わなかったのだ。
そして備えは無駄であったわけではなく、被災規模が大きくなるのをそれなりに抑制したはずである。

残念ながら、多数の人命、財産の損失が見込まれるが、関連した被災の中でとりわけ人々の関心を集めているのが東京電力の福島原発だ。

地震への対応は出来たようだが、津波の対応までは想定外であったようで、バックアップ用の電源が作動しなかったとのこと。
一にも二にも安全運転が至上命令の原発であればこそ、災害対策は万全・・・とは行かなかった。現在想定外の事態に対して懸命の策を講じている。
被害を最小に食い止めることを祈るのみだ。

今人々は予想される余震や想定される様々なインフラ制限・機能不全による影響から生活を守ろうと食料や防災用品を買いに走っている。
これもまた災害への備えではある。

これからしばらくは被害の全体像を把握することと、被害後の二次的、三次的影響に対応するのに注意を払うことになるであろう。
同時に被災地域に対する復興支援をして行くことになる。

今回の激甚災害から、特に大型地震を想定している地域の関東・東海の者たちは色々学ぶことになるであろう。
しかし数々の教訓とともに、「現実(自然災害はその代表的なもの)はしばしば我々の想定を超える」 ことを肝に銘じなければならない。

その時に必要となるのは、冷静さ、知恵、機転、判断力、慈悲、親切、勇気、などという徳である。これらは人に自然に備わっているのではなく、訓練して身につけるものである。
その意味で様々な物質的備えとは別に、普段から私たちが心がけることが出来る備えとなる。

2011年3月12日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

3月13日 午前10時30分

説教箇所 ルカの福音書 24:44-53
説 教 題 「これらのことの証人」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《聖霊と教会》①

※礼拝後、昼食会です。

2011年3月11日金曜日

来たー地震!

普通のブログポストを書こうと思っていたが、今日は特別。

その時何をしていたか。

事務室でパソコンで仕事をしていた。
揺れが長引くにしたがってこれは大きな地震と思った。
テーブルの下に隠れるとかはしなかった。
外に出ようともしなかった。
窓から公園が見えるが、公園の入り口にいる男性が立っていられないかのように辺りに掴むものを探していた。
とにかく推移を見守った。
何かしらコンクリートの建物なので大丈夫ではないかと勝手にそう思っていた。

早速ヤフーで情報入手。
段々地震規模情報が修正され、最後はマグニチュード8.8となった。
テレビをつけて見ていると、今回の地震の震源は点ではなく400キロに渡るプレートがずれたものとのこと。予想される東海沖地震や東南海沖地震と似た構造だそうである。

目下は渦中で一喜一憂しているが、落ち着いたら今後想定される地震に対する準備となるであろう。

余震が続いたが夕方になったので止まっていたガスを復旧させ夕食準備。

夕食後ようやく教会関係者やその他関係者に被害はなかったか情報収集。
聖泉連合の教会の中では最も震源に近い仙台教会や盛岡教会からはまだ連絡は来ていない。恐らく自分の教会員の安否を確認するだけで大変なのだろう。

当方の被害は別段なかったが、工房の方で立てかけてあった木材が倒れたり、棚の上に無造作に乗せてあった棒材などが束になって落下していた。
震度5ともなるとやはり何か押さえのようなものがないとこうなる、と言うことが分かった。

事務室の方は3メートル高の天井に向かって本棚が上まで伸びていて、棚は本で埋まっていたのだが、不思議に一冊も落っこちてこなかった。
やれやれ。地震の時は落っこちてくるなどとも思いもしなかったが・・・。

それにしても大量の帰宅難民、今夜をどうやって過ごすのか。外気はまだ寒い。地震で被害に遭われた方ともども適切な助けがあるよう祈る。

2011年3月9日水曜日

牧会と心理学

筆者が北米の神学校で学んでいる時、既に「牧会カウンセリング」は専門コースになっていた。
カウンセリングという臨床のベースになる心理学だが、セキュラーな心理学を牧会的現場に応用するような形で取り入れられていたように記憶する。

当時は「実践神学」部門がどんどん領域が広がり、古典的な神学科目の履修が削られていく趨勢にあった。
いわゆる「神学」とその周りに隣接する諸科学の問題は、神学と哲学の対峙・対話・吸収と応用から始まってずーっと続いているのだけれども、最近は色々な学問が神学教育の中に入ってくるようになった。
例えば「宣教学」と言えば「文化人類学」があり、と言うように。

そう言う訳で「心理学」も世俗の学問でありつつ「牧会学」と言う「実践神学」と接点を持っている。

さて、ここでがらっと話は変わるが、今年第一回目となる「N.T.ライト読書会」の案内をしておこう。

3月26日(土)
●午前10時~昼食まで・・・昼食後解散(付近で外食・・・自由参加)
●会場:巣鴨聖泉キリスト教会(地図)
●お申し込み、ご質問等は 小嶋まで
●テーマ:

2011年1回目の読書会は、《牧会・カウンセリング》について。
課題図書(説教)はライト師の説教
Comfort, O Comfort My People
Isaiah 40.1–11; 2 Corinthians 1.3–11
といたします。
説教の中身はライト主教(当時)のpastoral adviceと言う感じですが、イザヤ書の釈義があったり、それなりにライトの考え方のミニチュア版みたいなものが詰まっていると思います。
討論のテーマは
①pastoral ministry/careについて
②pastoral couselling とsecular psychology/psychotherapyの違いについて
などでしょうか。
二番目の方(サブテーマ)に関しては余裕があったら
Ellen T. Charry, "Augustine of Hippo: Father of Christian Psychology"
が結構関連すると思いますのでお読みください。
特にエレン・チャリーのこの小論には目が開かれた思いがした。詳細は読んで頂くこととして、キリスト教的角度からは心理学の対象、あるいはカウンセリングの対象となるのは、近代の自己(セルフ)ではなく、より全人的な、と言うか包括的な人格として捉えられる「魂」へのケアーであると言うこと。

そして世俗の心理学・カウンセリングが「ノーマル」な状態を前提して心の「機能不全」や「疾患」を考えるのに対し、キリスト教心理学の方は「神から離れた状態(アウガスチヌス的罪理解)」そのものが「霊的な病」にあると言う洞察を前提している、と言うこと。

現代様々な「癒し」が叫ばれているが、多分に精神衛生上のことや、ストレス発散、気分転換のようなものも含む。
しかし「心」の捉え方によっては、世俗の心理学に対しキリスト教心理学がより包括的・全人的なケアーへと視野を広げる働きをすることが出来る。

チャリーの提言はそんな興味深い視点を提供してくれる小論です。

2011年3月7日月曜日

価値観の違い

朝日新聞朝刊に週一回だか
The Asahi Shinbun Globe
と言う数ページの記事が挟まっている。
紙の色も白くなっていて、何か雑誌のようなスタイルで、それとはなしにページをめくるのだが、ついぞまともに中身を読んだことがなかった。
今朝たまたまその中の The Author と言うコラムを読んだ。

Sophia Raday, Love in Condition Yellow: A Memoir of an Unlikely Marriage (「黄色信号の愛:ありそうもない結婚の記」)
の著者ヘのインタヴュー記事だ。

サンフランシスコ近郊で、バリバリの民主党支持女性が、ガチガチの共和党支持男性と恋に落ちて結婚し、それが10年も続いた、と言うことを書いた本である。

今の日本だと支持政党の違いでどれだけ価値観が違うか、と不思議に思うのだが、現在のアメリカでは人種の違いより、大きな溝を生むのだと言う。
--- 同じアメリカ人で同じ白人。そんなに意見が違うのはなぜですか。
根っこにあるのは世界観の違いだと思います。彼みたいな筋金入りの保守派は、ひと言で言うと、「家父長制」社会を理想視します。指導者は厳父タイプで、人々は権威に従い、秩序を重んじる。私のようなリベラルは、逆に「慈しみ合う社会」が理想。権威や階層を嫌い、弱者に救いの手をさしのべる平等な社会を目指す。今の米国では、多くの市民が二派に別れ、いがみ合っているのが現状です。
--- 保守とリベラルの溝はそんなに深いのですか。
外国の方々には、米国で最も深刻な問題は「白人と黒人の対立」と思われているかもしれませんが、実際には保守とリベラルの対立の方が深刻です。・・・
--- ご夫婦は価値観の違いをどうやって克服したのですか。
数え切れない衝突から学んだことは、彼は彼のゴーグルを通して世の中を見ているし、私の視界も実は私のゴーグル越しのものだということ。以前は「彼は変な色のゴーグルを着けてるから、あのゴーグルを奪い取ってまともな人間に変えてやる」と思い込んでいました。でもそういう自分も決して「裸眼」ではなく、すっぽりとゴーグルを着けていたんです。口論の連鎖から抜け出すため、互いに反論せず、説得もしないで、じっと相手の話を聴くように努めました。
このインタヴューから二つの大事なポイントが示唆されている。
①口論し合っている地点から一歩引いて、その状況を解釈論的地平で捉え直す。彼女の言では「ゴーグル」という比喩が用いられているが、相互に一定のフィルターを通して世界を見ているのだ、と言う状況を認識すること。
②対話の姿勢。第一歩は相手の言うことを先ずじっくり聞くこと。

これに関してはアメリカ文化と日本の文化とかなり違いがあって、アメリカはやはり自己主張が出来て何ぼの文化だ。議論が好きで、相手を打ち負かすことに熱心になりやすい。日本人はと言うと論理的に自己主張することが余り得意ではない。相手の言うことを承認できなくてもマナーとして肯定するのが礼儀みたいに感ずる。

どちらにしてもこのインタヴューから現在のアメリカ保守派事情、特に「グレン・ベックGlenn Beck (Wiki)現象」や「茶会運動Tea Party movement (Wiki)」を連想させた。

2011年3月5日土曜日

ご案内

今年1月にポストした「キリスト教世界観ネットワーク」のコメント欄でご希望がありましたので筆者が書いた記事の掲載雑誌をご紹介します。

記事タイトル:「自伝的『新約聖書学』最近研究状況レポート、N.T.ライトを中心に」
掲載雑誌:リバイバル・ジャパン誌、「神学交歓」シリーズコラム。
発売日:3月6日発売、3月20日号

内容は「自伝的」とあるように、筆者がどのような背景の福音理解で育ち、その福音理解で壁にぶち当たり、N.T.ライトの(聖書に対する)歴史的アプローチによって言ってみれば第二の(知的)回心に導かれたか、と言ったものです。

新約聖書学の最近研究状況に関しては、①「史的イエス」研究と、②「パウロ研究の新パースペクティブ」、に絞ってリポートしています。

記事は全部で7400字くらい。A4サイズで4ページほどの量です。

一部380円だそうです。

ご関心ある方はお手にとってご覧ください。
さらにご購入された方で、記事内容に関しご質問があれば遠慮なくコメント欄からでもお寄せください。

明日の礼拝案内

主日礼拝

3月6日 午前10時30分

説教箇所 ヨハネの福音書 15:1-10
説 教 題 「わたしの父は農夫」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。
※次週、食の日です。募金に協力お願いします。

2011年3月4日金曜日

神学的ジョーク

ジョークと言うのは英語圏でのパブリック・スピーチにおける必須なものです。
シリアスな内容の講演でも、その導入にちょっとしたジョークを入れることで聴衆の食いつきが良くなりますからね。

最初のジョークはノーベル平和賞を受賞したデズモンド・ツツ主教のものです。
When the missionaries first came to Africa, they had the Bible and we had the land. They said, "Let us pray." We closed our eyes. When we opened them, we had the Bible and they had the land.
宣教師たちが初めてアフリカに来た時、彼らは聖書を持ってきました。私たちは土地を持っていました。宣教師たちが「ではお祈りしましょう」と言うので、私たちは目をつぶりました。そして目を開けてみると、私たちは聖書を手にしていて、宣教師たちは土地を手に入れました。
まっ、これは神学的ジョークと言うより、キリスト教がらみのジョークでした。

今度は神学的ジョークと言えるものです。

「宗教(キリスト教信仰)と科学の対話」での第一人者と呼んでいいかと思いますが、ジョン・ポルキングホーン卿のです。
        There is a man who is caught by a flood, and he has to go up to what you would call the second floor of his house, and he is looking out of a window and a man comes along with a ladder and says you climb down and I’ll carry you from your house. And he says no, no, no, God will look after me, I don’t need that. So the man goes away and the waters continue to rise. Somebody comes in a boat and says come on jump in the boat, I’ll take you away. The man says  no, no, no, God will look after me. Eventually he’s up on the roof things are getting so desperate and a helicopter hovers overhead …  no, no, no, I don’t need that, God will look after me.

        He drowns.

        When he appears before the Lord he says Lord, why didn’t you look after me?

        God says to him, I sent you a ladder, I sent you a boat, I sent you a helicopter. What more do you want?

要約しますと、洪水で家に取り残された男を助けに、梯子を持ってきた人にも、ボートで助けに来た人にも、最後は屋根に逃げていたこの男にヘリコプターで助けに来た人にも、この男は「助けはいらん。神が助けて下さる。」とすべて断った。 そしてこの男は溺死してしまった。
(天での会話。)
(男)「主よ、なぜあの時私を助けて下さらなかったのですか。」
(神)「私は最初に梯子を、次にはボートを、そしてヘリコプターまで送ったじゃないか。お前はそれ以上何が欲しかったと言うのか。」


レッスンは「神は信ずる者に奇跡のようなわざを通してだけではなく、多様な人的助けを通しても働かれる」と言うもの。

ポルキングホーンのジョークは3月3日のJesus Creedのポストからでした。

2011年3月2日水曜日

佐藤優「キリスト教神学概論」

名前は聞いたことがあるが雑誌や本での佐藤の言論を読んだことはない。

ちょっとネタ探しをしている所で、たまたまネット上で読める「キリスト教概論」なるものを見つけた。
で、読んでみた。
マス・メディアは彼のことを結構面白い表現で持ち上げているのでさぞかし鋭い分析が読めると思ったら当てが外れた。

ただ、忙しい中殆んど走り書きのようにして書いた「概論」なのではないかと思う。
余り内容を期待せず、「キリスト教神学」に関する彼自身のメモ程度と捉えておいた方が失望は少なくなるのではないか。

著者略歴では
1960年生。起訴休職外務事務官・作家。同志社大学神学部卒業。同大学院神学研究科終了。緒方純雄教授に師事し、組織神学を学ぶ。
となっている。同志社神学部のことは余り知らないが、書いてあることを読むとやはり同志社の神学的伝統を汲んでいるのだろうな、と推測する。

失礼ながら、余り本格的に内容を吟味する気はないので、適当にジャブを入れてみたい。

第1回 「神の場所(1)-はじめに」(ページサイト)
率直に言うと、全世界的に見て、キリスト教自体が「斜陽産業」なのです。近代の特徴は、聖なる領域がだんだん狭まって、俗なる領域に移行していくところにあります。キリスト教神学や、宗教学では、この傾向を世俗化と言います。
欧米諸国に関しては世俗化は進んでいると言える。しかし問題はその定義だ。彼の「世俗化」の定義は啓蒙主義、科学主義に影響された近代史観による単純な図式だ。
ヨーロッパが脱・キリスト教文明時代に突入していることは明らかだが、スピリチュアリティー(霊性)も含めたポストモダンの宗教の在りようはそう単純ではない。(Charles Taylor, A Secular Ageの分析を読むことをお勧めする。)
キリスト教の聖書は、27巻の新約聖書と39巻の旧約聖書から構成されています。実は、それ以外に11巻のユダヤ教関連文書があるのですが、これを聖書に入れるか否かについては、キリスト教の教派間で見解の対立があります。この旧約聖書続編をあわせて読んだ方が、ユダヤ教とキリスト教の連続性がよくわかります。
旧約聖書続編は、筆者が神学生の頃は「中間時代の神学」のような名称のコースで勉強したものだ。現在は先日もポストした「第二神殿期ユダヤ教」資料として(正典に入れないプロテスタントのキリスト者には)重要である。

第2回 「神の場所(2)-キリスト教とは何かページサイト
私は、「教会に行くな」と言っているのではありません。私は、いまの日本の教会に行っても、私はそこに神を感じることができなくなってしまった、つまり教会の建物の中に入っても救いを感じないので教会に行っていないという自分の気持ちを素直に述べているだけです。しかし、私は、イエス・キリストを頭とする「見えない教会」の一員であるという意識は強くもっています。
なぜ、私がこのようなことをくどくどと述べるかというと、キリスト教は、個人の救済を基本とする救済宗教だからです。キリスト教の本質は、教義、神学、道徳、倫理、文化などではなく、キリスト教を信じると言うことで「救われた」と感じることにあるのです。
このように最初の二項は佐藤氏のキリスト教信仰遍歴のような事柄が多く書かれていてそれはそれで興味深い。
「キリスト教は、個人の救済を基本とする救済宗教」は宗教学的な定義で通るが、キリスト教の自己認識とは言えない。特に聖書全体の思想から言えば、「死者の復活」(身体のよみがえり・・・使徒信条)も一個人に起こる出来事ではないし(キリストにある死者全体)、「秘造世界全体の贖い(新天新地)」が視野に入っているからである(ローマ8章)。

(※又暇な時、ネタがない時、戻ってくることにしましょう。)