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2018年9月3日月曜日

(3)「次世代教会」を展望して、6

一応このシリーズの「6」としましたが、実際には「5」の「付け足し」、そして今日のツイート 2018/8/31の「解説」みたいなもんです。

Danté Stewart (Stew)さんはご覧のようにアフリカ系アメリカ人の方のようです。 彼のツイートで引用されている画像の文章の作者は、ある福音派系神学校卒業生ですが、その方が、「世界大にキリスト教の遺産を保存したのは、白人西洋・ヨーロッパ社会のクリスチャンたちだ」 と主張しているんですね。
彼はそれを「人種差別的発言」と受け取られかねないことを承知の上でどうも「白人」と云う部分をあえて強調しているみたいです。

詳細な文脈は分からないので、多分にアバウトな論評から入ってしまいますが、この方には客観的な歴史から見て
(1)正統的キリスト教を保守し、
(2)原語(ヘブル語、ギリシャ語)での旧新約聖書の保存し、
(3)プロテスタント諸派が米国そして世界の隅々に広まる
のに貢献したのは「白人・西洋・ヨーロッパ」のキリスト教社会だ、というわけです。

確かに大雑把な物言いであればこのような見方にそんなに目くじらを立てる人はいないでしょう。問題は「白人」ですね。これが不必要に人種差別トークの印象を強めたと思います。
案の定、このツイートに延々と付けられた「リプ」は人種差別的であることに対する非難と反論です。

しかしここからが本論なのですが、「大雑把な物言い」と云うのはその発言をする人がその「知識分野」についてどれだけ広範で詳細な情報を把握しているかで「信頼性」は全然違ってきます。

私も含めてそうですが、つい関心あるトピックだと話題を拡げるために生半可な知識で大風呂敷なことを言ってしまうもんです。
その後トピックのテーマや内容を絞り、より確実な範囲に意見交換を狭められれば、最初の大風呂敷な物言いも「導入」として許されるのだと思います。

さてこのツイートの後にグレン・パッキャム牧師(英国ダラム大だったと思いますが博士号を取得したばかりです)が反論を試みますが、「礎(ファウンデーション)」という部分を捉えて(白人)ヨーロッパ中心主義的なキリスト教史に楔を打とうとしています。

即ちキリスト教が世界大に進展する歴史を源流まで遡れば、初期数世紀は北アフリカ地域や東方教会の歴史があるわけです。だから新約聖書の時代、使徒パウロのキリスト教から一挙に宗教改革者(ルターやカルヴァン)に飛躍してしまうような神学校の教育は改められるべきだ、というような主張になっています。

さて前回5」で「教会史」の学びは「神学」より優先するのでは、と言いましたがそれはやはり「今」の時代の文脈をどう捉えて神学教育をデザインするかという問題です。

たとえ日本と云うローカルの場で、そしてさらに小グループ信徒伝道者・指導者のための神学教育であっても、わざわざ何十年遅れで「西洋キリスト教」の「神学テキスト」を翻訳して使っていていいのか、という問題です。

現実的には簡単に解決できる問題ではありませんが、「ヨーロッパそして北米」もポスト・キリスト教時代に突入し、キリスト教の勢いが「アフリカ・南米・アジア諸国」に移っている歴史的文脈を考えると、問題意識は持つ必要があるかと思います。

さてこれ以上大風呂敷な発言は控えることにして、上記のツイートに付けられたリプの中から「面白い教材」がありましたので、それを紹介しておきましょう。

マイケル執事(Michael the Deacon)
Michael the Deacon was a deacon in the Ethiopian Orthodox Church in the 16th century A.D.[1]
In 1534, Michael the Deacon travelled to Wittenberg and met with Martin Luther, the founder of the Lutheran Churches and leader in the Reformation.[2][3] During the meeting, the two compared the Lutheran Mass with that used by the Ethiopian Orthodox Church and found that they were in agreement with one another.[1][4] Michael the Deacon also affirmed Luther's Articles of the Christian Faith as a "good creed".[3][1] As such, the Lutheran Churches extended full communion to the Ethiopian Orthodox Church.[5][1]
エチオピア正教会のマイケルさんが、1534年にルターに会いに来たというエピソードです。つまり「新しく出来たルター派教会」と「聖餐」についての神学的共通性を確認しようとした、いわば「エキュメニカルな働き」だったようです。

へー、そんなことあったんだ。全く知らないことが多いです。

(続く)

 

2018年8月28日火曜日

(3)「次世代教会」を展望して、5

さて今回は「教会史」の学びをどう取り入れるか、について書いてみる。

小グループの信徒伝道者の神学教育で恐らく最も重点がかかるのは「聖書」ではないかと思う。

しかしその次に実際的に必要になるのは(神学ではなく)「教会史」ではないか。そして教会史の学びの中に「神学」、つまり様々なキリスト教グループが存在するようになった理由の一つとして「教理」や「神学」の違いを理解する必要に迫られるのではないかと思う。

ざっくり言って「プロテスタント諸派(教派、デノミネーション)」宣教師団体が、第二次大戦後日本で伝道を展開し(いわゆるキリスト教ブーム)、その後の「高度経済成長期」に合わせて順調に「教勢」を伸ばし、特に1960年代終わりから1970年代にかけて「福音派」が 新改訳聖書や日本福音同盟(JEA)、日本福音主義神学会などを立ち上げて「成長」していた時期(せいぜい1980年代までか・・・?)を過ぎると、全体に停滞から徐々に退潮へ向かって行き、そして21世紀に入ってしばらくするとシリーズ1でも指摘されたように明確な「頭打ち」傾向、「閉塞状況」が意識されるようになった。

ざっくりと書いたが、要するに「今の文脈」を捉えるとき、一つの傾向として「教派」の比重が軽くなったことを指摘したい。

教派間の競合が減っただけではなく、「自由派対福音派」の対立さえも先行き困難な諸教団にとってはかなり意味合いが変わってきた印象がある。

 「困難な日本の伝道をどうするか」、
 「どうやって教会が生き延びるのか」、
という大きな課題の前には優先順位が低くなってきた観がある。

この流動的状況が、今後小グループの信徒伝道者・指導者に及ぼす影響を考えるとメリットとデメリットがそれぞれあると思う。

《メリット》
 教派主義が相対的になり、自由派対福音派の対立を余り意識しなくなることによって神学教育のための「教材選択」がかなり自由になる。つまりテキストの著者の教派的・教理的背景に左右されて選択肢が狭くなる状況は減るだろう。内容が良いテキストを幅広く選べるようになる。
《デメリット》
 反対に「教派的違い」や「教理的特色」に対する、つまり「歴史的キリスト教」に対する意識がなくなり、神学教育のテキスト選択、教材選択の基準がはっきりしなくなる可能性が強まる。

フラットでネット空間のコンタクトから小グループが形成されるようなシナリオを想定すると、集ったキリスト者の相互理解がどのようになされるのか、極めて興味深い状況となるのではないか。

なるべくシンプルな「キリスト教信仰」を志向する機会が増えると同時に、「歴史的キリスト教」の無知無関心の故、かなり偏った聖書解釈や信仰理解に引っ張られていく可能性もある。(ネット情報にはその辺のことを解決してくれる信頼できるリソースがどれくらいあるか。日本語の場合はそもそもキリスト教情報が少なすぎるのでかなり限られているように思う。)

以上の理由で、小グループの信徒伝道者の神学教育で「聖書」の次に重要になるのは「教会史」ではないかと思う。

しかしこの学びをどのように進めるかに関しては工夫が必要だろう。
よく「歴史」を学ぶのに「現代史」から始める意義が言われるが、教会史の場合もそれで良いように思う。
つまり上にざっくり書いた「第二次大戦後の日本のキリスト教、特にプロテスタント史」を軸にして進めて行くのでいいのではないか。

その時さらに強調点として加えると、(教派色が後退しつつある)現代のキリスト者として、(1)「自分のルーツを掘り下げる」方向の学びと、(2)「(分裂・分離を繰り返して)キリスト信者のグループが拡散したのを追跡する」方向の学びと、両睨みの関心を維持することが大事ではないか。

両方とも「少しずつ」深めていけばよい。避けたいのは「タコツボ」にいることに無知な状態てはなかろうか。


(1)ルーツ掘り下げ型
 簡単に言えば、自らがキリスト者になった《経緯・経路》を特定したり、自分の信仰的理解や神学的理解がどのようなキリスト教の歴史的影響のもとにあるのかを見て行く学びである。
 実際は様々な要素が複雑に絡んだことではあるだろうが、たとえば戦後のキリスト教の代表的人物や関心ある著作家の伝記などを通して目ぼしい「運動」「出来事」「人物」など《指標/マーカー》を増やしていけばよいのではないか。そのプロセスで自分に絡んだ事柄が一つや二つ出てくるだろう。




(2)拡散追跡型
 ※本当は「エキュメニカル」を使いたいところだが、「リベラル対エヴァンジェリカル」対立の名残がまだ尾を引いていると思うので、ここでは使わないことにする。

 歴史を学びながら、自らの信仰生活で使用する「言語」や「習慣」にいくらかでも自覚的になり、そのうちの幾つかは「キリスト者に広く用いられている」ものと、そのうちの幾つかは「キリスト者の特定のグループに特徴的である」もの、というふうに「共通点と相違点」にどれだけ敏感になれるかが大事だと思う。
 ただものによってはニュアンスの違いが微妙すぎて「なぜそんな違いに拘泥したのか」みたいなこともあるだろう。つまり「カトリックとプロテスタントの違い」も良く知らない人のレベルからスタートすることになるわけで、「違い」を面白がり知りたがることが大事ではないか。(分散した状態であることをよしとする意味ではないことはもちろんである。)
 これは小グループで集ったキリスト者間での「相互理解」という面で実際的な知識になるだろう。 

以上、次回に続く。

2018年8月23日木曜日

(3)「次世代教会」を展望して、4

今回は「今日のツイート」みたいな感じで始めたい。



既にご存知の方も多いと思うが、米国ペンシルバニア州大陪審の調査によって当地のカトリック教会の司教・司祭たちによる長年の児童・青少年性虐待が明るみに出た。(カトリック中央協議会

その事態を受けてこのツイートになっている。

まだ日本語で読めるものではこのカトリック教会の一大不祥事(というような表現ではとても収まらない深刻なものに思われるが)の波紋がどの程度のものかは殆ど分からない。

しかし英語で検索すれば事態の深刻さは充分うかがい知れる。
この問題はローカルなものではなく、今後の展開ではおそらく全米各地にその波紋が広がり新たな報告や追及が続いて出てくると思われる。

問題は構造的であり、ヒエラルキー的教会政治構造・独身司祭制度に関わるため「膿を出す」とか「改革を継続する」ような認識で果たして済むのか予測するのが難しい。

かなりの迅速さで改革が進まないと信徒の脱会に歯止めがかからなくなる恐れは充分にあるだろう。

さて今回は「米国ペンシルバニア州大陪審調査報告」に関するものではないので、カトリック教会のことはそこまでにする。

(1)教会の聖化
このツイート主が指摘したポイントは的を射ている。
福音宣教プログラムが充実し、大勢教会に人が来ても、教会が罪にまみれたままなら「ざるで水を掬う」ようなものに違いない。

ホーリネス(聖化)は教会にとって本質的問題であり、いまや窮地に立つカトリック教会だけでなく、新興宗教然の多くのプロテスタントの教会でも苦難に喘いでいる問題である。

(2)「キリスト者の成長」を視野に入れたグループ形成
前回、小グループ指導者として、(1)(キリスト者の)召命、(2)柱となる活動についてヒントとなる聖書箇所を提示した。

詳細は置くが、伝道の困難な時代にあって既存の教団・教会が衰退している中、「次世代教会」が果たさなければならない役割はやはり「宣教(ミッション)」であると思う。単なる生き残りでは「継続の目的」として不十分と言わざるを得ない。

ただ「不振の時代」になってこそ注目が集まるのは「信徒による伝道」や「フラットな人間関係構築とネットワーク形成」、そしてそれを助ける「インターネット環境」であり、それらの要素をヒントにした「信徒指導者のための神学教育」のようなものを今このシリーズで少しずつ考えているわけだ。

最初にカトリック教会という歴史的にも世界的にも巨大な組織にとって、「聖化」の問題がいかに難しいかに注目した。しかし考え違いをしないようにしたい。

教会の歴史で腐敗した(母)教会から分離して新しいグループを形成すれば、その反省を生かして「聖化」の問題をクリアーできるかと言うと、そう簡単ではない。

「聖化」の問題は教会が「巨大」かどうか、「組織的・制度的」かどうか、「教会権威構造がヒエラルキー的」かどうかでは収まらないものであり、キリスト者であることの本質的なことに関わるものであることを肝に銘じておきたい。

ここでもやはり「召命」が問題を捉えるスタートラインだ。

ただ「聖化」を「道徳的純潔」の面だけで捉えると、「世からの分離」に拍車がかかり、「世に出て行く」宣教的姿勢が鈍る傾向がある。

たまたま筆者のフェイスブック友達が「音楽ジャンル」としてロック(特にヘビー・メタルのような)をどう考えるか、みたいな話題を挙げてそれに多くの方がコメントしていた。

悪魔崇拝やドラッグ・カルチャーのような悪影響から教会音楽を守るため排除した方がいいのか。
若者(に限らないかもしれないが)文化の中に入り、クリスチャン・ロックというメディアを作って行く事によって、福音を文化の内側から浸透させる方法もありうるのか。
そんな問題である。

この辺の問題は「聖俗二元論(永遠vs世俗=テンポラル/temporal)」という視点で長年考究されてきた問題で、それこそ教会史を貫くものであり、どっちを選ぶかといったような簡単に片付くものではない。

脱線してしまったが、「聖化」の問題はキリスト者の「召命の『完成』」に関わる問題であり、新約聖書の書簡が繰り返し具体的に取り上げている問題であることをまず認識しておきたいと思う。

ということで小グループ指導者の「神学教育」として、「宣教(アウトリーチ)」と「教会の聖化」は両輪として視野に入れて学ぶべきではなかろうか。
すこし欲張りだが「宣教」的視点から聖書を学ぶことや、「聖化」の視点から新約聖書書簡を学ぶ、みたいな焦点を絞ったコースがあってもいいのではないかと思う。

(続く)


2018年8月21日火曜日

(3)「次世代教会」を展望して、3

前回、「次世代神学教育」みたいなことを話し始めました。

少し続けます。

既に2回引用した中にあった「次世代教会」の形態として
 (1)小グループ、家庭集会型
 (2)専門職を置かない自給型
がラフな特徴として言えると思います。

かなり簡単・曖昧なイメージですが、しばらくこれで引っ張ってみます。

このようなタイプが「次世代教会」の主流になるかどうかは別にして、制度的教会が弱体化し、ネット文化によりますますフラット志向に社会が動けば、このような形態のキリスト者のグループが増えて行くことは充分考えられます。

既に米国その他の地域で、制度的教会に対抗する教会のあり方として「イマージェント」と呼ばれる、いわば草の根運動が1990年代辺りから起こりました。
※ 「イマージェント」については過去の記事で簡単に説明した
 彼らはキリスト教会の様々な制度面に対し否定的態度を取る傾向が強い。
スモールグループで、集会や聖書研究を行い、自分たち自身のキリスト教表現に忠実であろうとする傾向が強い。さらに、「社会正義」「環境問題」など保守的福音派が余り正面から取り組んで来なかった問題に関心が強い。
「イマージェント」のような場合、小グループ型「次世代教会」の指導者になるよう「召命」や「志し」を持つ方は既成の教会に対する幻滅や批判を通して小グループを始める、と言うケースが多いと思います。

そのような小グループから会衆が増え、会堂を取得し、専門ワーカーを雇って「教会」のようになるケースも出てくるかもしれませんが、(日本の場合は殆ど考えにくいので)あくまで小グループのまま存続することを前提して、そのようなグループ指導者となる方に相応しい神学教育はどんなものかを考えて行きたいと思います。

(1)(理想的には)召命(Call)を意識
現実にはなかなか難しいかもしれませんが、(筆者が影響を受けているN.T.ライトさんの主張を活かせば)そのような指導者は「福音」と「召命」を出来る限り明確に意識していることが望ましいと思います。
主イエス・キリストの福音が宣言されるとき、聖霊の自由な働きによって「召命(call)」がなされ、それに応答する「信仰の従順」を出発点とする。
キリスト者のグループはどんなタイプのものであれ、「召命(calling)」に基づいて形成されるのが望ましいと思います。その際「召命(calling)」は教会のために働く専門職に就くという意味での召命ではなく、福音によって「呼び出された者たち」すべてに適用されるものです。

換言すれば、小グループ指導者は、仲間のキリスト者たちと共に、「召命」に対する自覚と理解を深め、「召命」に相応しく生活することを継続的に集って学ぶよう励ますことが出来るよう訓練する必要があると思います。

(2)グループの「柱となる活動」への理解
小グループと云うのは多分に自然な流れで形成される「仲間」のような傾向が強くなるのではないか。アットホーム、くだけた、ナチュラル、親しみやすさ、などグループ形成に多いに長所となる反面、中心となるもの、そもそもなぜ集るのかという目的や使命がいつのまにか曖昧になりやすい。そのバランスが崩れないように敏感にグループダイナミクスの方向を察知し、「中心に戻す」能力が指導者には求められると思います。

つまり、一にも二にも「召命を受けた者たち」のアイデンティティを自らもそして仲間も保持するだけの粘り強さが肝心かと・・・。

そういう意味では活動として中心になるだろう「共同聖書研究」で使徒の働きを読むことが相応しいのではないかと思う。

先ず「グループの柱となる活動」については、使徒の働き2章41~47節を時間をかけてじっくり学ぶことがいい。

次に「アイデンティティ保持」に関しては、使徒の働き20章のパウロの決別説教から多くの示唆を受けることが出来るだろう。

2018年8月16日木曜日

(3)「次世代教会」を展望して、2

さてどの辺りからトピックを立てて行こうか・・・。

ざっと言うと今念頭にあるのは、(恐らく小グループの)信仰共同体をリードする「牧師」にせよ「信徒」にせよ指導者の「神学教育」はどのようになされるのか、と云う課題。

前回紹介したあるブログ記事の引用からスタートします。
既存の教会制度が崩壊していく中で、間違いなく主流になっていくのは、一人一人の信者の自発的な働きによる、ホームチャーチや小グループです。
ネット環境さえあれば、いくらでも聴けるメッセージがあります。何十人、何百人も集めようとしなければ、個人宅で十分です。
一つの教会で、一人の専任の牧師を置くというこれまでのあり方をやめて、自給伝道を中心にしていくならば、経済的な負担も、比較にならないほどに軽減されます。
インターラクティブ・ラーニング

上記の引用で集会のときに聞くメッセージはネットから・・・ということが言われています。
恐らく既に牧師が常駐していない「小さな教会」や「伝道所」そして「家庭集会」のような集会ではそのような方式が取られているのだろうと思います。

しかし問題は「現状の日本の教会が縮小して行く過程でどう対応するか」ではなく、「次世代教会のリーダーシップをどうやって作るのか」という課題です。

簡単に言えば、教団立の神学校でさえ尻すぼみになっている現状でどうしたら神学教育を現代文脈に沿った方で整備できるのかと云う二重の問題です。

一つは日本の神学校の神学教育の現状は「伝統的科目」をこなすことさえ人員・資料/図書館的に不十分・追いついていない、ということです。(日本の神学校で教育を受けたわけではなく、また神学教育に携わったわけでもないので、伝え聞くところと間接的な観察によるところとの印象でものをいっています。)

もう一つより重要なことは「次世代」の教会が担うべき神学的課題をどう把握しどうアプローチするか、という「神学的リーダーシップ・イニシャティブ・イノベーション」が神学教育に携わっている層からまだまだ出てきていないように見受けることです。

そんな中でネット社会が急速に進み、キリスト教界でも「動画を用いたオンライン神学教育」を開発する動きが出てきました。

自前の神学校施設を持たずとも、ネット環境を使ってよりインターラクティブな教育にシフトして行くのではないか、と思います。

神学コース・カリキュラム
せっかくの機会(危機でもあり機会でもある)ですので、伝統的神学教育科目(聖書学・組織神学・実践神学)を「次世代」の視点から再構築するようなアプローチが求められるのではないでしょうか。(いつか考えてみたいトピックです。)

神学リソースと教材
ここでも思うのですが、英語で得られるリソースを組み入れられるのならかなり豊富になるのですが・・・。

読書会
N.T.ライト読書会をリアルでもフェイスブックでも主宰してきた経験から言うのですが、現時点で日本語でのインターラクティブ・ラーニングはやはり「きっかけ」や「入門」の域を出るのは難しいと思います。

もし「次世代」の「リーダーシップ」層を発掘し・コーチするとなるとやはり実際に顔を合わせて「テキストを読み」「ディスカッションする」ことができる「定期的小グループ・ミーティング」を構築する必要があると思います。

おそらく「次世代」というテーマがプルとなって更なる「学習トピックや領域」が見えてくるのではないかと思います。



以上「次世代神学教育」はこんな感じじゃないかなーとおぼろげながら見ていることの輪郭の一部をご紹介しました。

2018年8月13日月曜日

(3)「次世代教会」を展望して、1

今年に入って更新回数がめっきり減ってしまった。

お世話している読書会や読書会関係の働きもお休み中だ。

そんな状況なので「『次世代教会』を展望して」を連載してみようと思っているが極めてランブリング(rambling)なものになること請け合いだ。

しかしやろうと思うだけの切実な状況はひしひしと感じている。

「『次世代教会』を展望して」これまで考えてきたことをどれだけ整理して一回一回の記事にアウトプットできるかはもう出たとこ勝負でやることにしよう。

しばらく右往左往トピックが変遷するかも分からないが、筆者の頭の中ではそれら乱雑なトピックも一応繋がっているのだろうな、と云う希望的観測の元に読み進めてほしい。

発端はどの辺りに?

 時系列的に見て近い方では以下の三つの記事が今回「『次世代教会』を展望して」を連載することに関わってきます。

隠れキリシタンになる前に 20年後(?)の日本の教会を見据えて(2017/2/19)
隠れキリシタンになる前に 余波1(2017/2/22)
隠れキリシタンになる前に 余波1(続)(2017/3/1)

この最初の記事で取り上げた「某教団の聖職者」が一年経ってあるプロジェクトを開始し、先日その報告のための会を開いた。
詳しいことは書けないが、そのプロジェクトは記事で書いたものとは大分様相が違っていた。
日本全国の教会の現状を現場に赴いてリサーチしそれをまとめる、と云う段階をスキップして、むしろ「次世代教会」のモデル構築に具体的に着手したわけである。

次世代教会とは何か?

 それは一定数の信徒を集め、彼らの献金によって専門ワーカー(牧師とか伝道者とか)が施設(教会堂/牧師館)に定住して宣教する…という《従来型》に対し、農業に従事する共同体を形成して伝道する…という《自給型》だ、と云う説明であった。

 その話を聞きながら「勇気あるなー」「開拓者精神がすばらしい」と心の中で思いながらも釈然としないものも多く残った。

 会の後半の質疑応答で「釈然としないもの」の中の一つは語ったが、もはや問題はその方のプロジェクトの是々非々ではなく、現在日本で伝道に従事している「我々一人一人」がどう「次世代」の教会の課題を引き受けたらいいのか、ということだと思った。

あるブログ記事


 日本基督教団の将来を予測してそれを「2030年問題」として捉え、どのように対応したらいいか、ということをある方が書いています。
 その中で以下のような展望を掲げています。
既存の教会制度が崩壊していく中で、間違いなく主流になっていくのは、一人一人の信者の自発的な働きによる、ホームチャーチや小グループです。
ネット環境さえあれば、いくらでも聴けるメッセージがあります。何十人、何百人も集めようとしなければ、個人宅で十分です。
一つの教会で、一人の専任の牧師を置くというこれまでのあり方をやめて、自給伝道を中心にしていくならば、経済的な負担も、比較にならないほどに軽減されます。
すでに・隠れキリシタンになる前に 20年後(?)の日本の教会を見据えて(2017/2/19)で書いたように、日本の人口動態予測や少子高齢化社会等、構造的変化を見据えればある意味現実的な対応と言えるかもしれません。

ただまだまだ議論の中心に見えてこないのは将来的にキリスト教グループが日本社会に生き延びるとしても、そもそも「何のために生き延びるのか」。生き延びるだけの「使命・ミッションは何なのか」が問われていないように思うのだが・・・。


まずはそんな切り口で始めて行きたいと思います。

2018年1月10日水曜日

(3)新年近況報告

当ブログも、漸減というかなんというか、最近更新回数が減っています。

シリーズものの記事も幾つかあるのですが、ストップしたまま2018年を迎えました。

雑多な内容が入り乱れますが、新年挨拶がてらまずは近況報告です。

(1)巣鴨聖泉キリスト教会の2018年標語聖句
従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。(エペソ2:19-22、新共同訳)
の特にオレンジ色部分が標語聖句となります。

取られたのはエペソ書ですから自ずからテーマは「教会」ということになるわけですが、
21世紀のグローバル化して行く世界でどのように「教会」を捉えて行くか考えて行きたいと思っています。

(2)イスラエルの問題、民族の問題

 昨年後半に4回に分けて書いた 宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ というのがありました。(1234)そこで触れたように、今浮上している一つの意義深い神学の問題は「教会」の問題であり、それは歴史的に言うと宗教改革の起こった16世紀ではなく、(まだ「キリスト教」とか「ユダヤ教」というような用語も認識もなかった)1世紀が焦点だ、ということです。

 キリストの教会が誕生した1世紀からコンスタンチヌス帝のミラノ勅令の4世紀まで、ユダヤ教シナゴグとキリスト教エクレシアはある種ある程度共生関係にあったのではないか・・・。言い換えれば、「parting of the ways」はまだ明確に確立したものではなかった(のではないか)。

 そういう展望からあらためて1世紀の(あえて使うと)“キリスト教”というものを見直す必要があるだろうと思い始めています。

 そうするとパウロが手紙を書いた教会における「ユダヤ人」と「異邦人」の関係の問題がより一層活き活きしたもの(live issue)に捉えられるように思います。

 キリストの教会が、ローマ帝国下にあって、キリストを主とするグローバルなヴィジョンを内包する信仰共同体として息づいていたことをより具体的に想像できるし、その際、一世紀ローマ帝国の多民族社会の統合原理・方法論に(かなり意識的に)対抗しながら、民族・性別・社会経済階層等の壁を乗り越えようとしていたのではないかと思えてきます。
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、
 ユダヤ人もギリシア人もなく、
 奴隷も自由な身分の者もなく、
 男も女もありません。
あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
   (ガラテヤ2:27-8、新共同訳)
そこには、もはや、
 ギリシア人とユダヤ人、
 割礼を受けた者と受けていない者、
 未開人、スキタイ人、
 奴隷、自由な身分の者の区別はありません。
キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
   (コロサイ3:11、新共同訳)
小アジア「エペソにあった教会」(コロサイ教会と地理的に近い)について言えば、
標語聖句のある2章11-22節がピンポイントに取り上げている「民族間の壁」はユダヤ人と異邦人です。

 そしてこの構図、イスラエル対諸民族の関係、は「福音」が初めから視野に入れていた問題です。
聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。   (ガラテヤ3:8、新共同訳)
それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。 (ガラテヤ3:14、新共同訳)
しかし、問題は二十一世紀のキリストの教会がこのような「福音」をどのようにグローバル化している多民族社会で実現して行くのか。その辺りのことも視野に入れて学んで行きたいと思っています。

今年もよろしくお願いします。

2017年4月4日火曜日

(5)ひょんなことから繋がった

いつもよりさらに雑文の類になるがあしからず。

今朝たまたまYahooのニュースを見ていて眼に入ったのがこのニュースだった。

Guam Catholic Church sees a "perfect storm" of controversy

実は目に留まったのは「パーフェクト・ストーム」という表現だった。(カトリック教会内の問題ではなかった。 )

というのも、この4月から「N.T.ライトFB読書会」では『シンプリー・ジーザス』を読み始めたのだが、その3章に「パーフェクト・ストーム」と題が付けられているのだ。

それで、こちらのYahooニュースの場合はどのようにこの比喩表現を使っているのだろう、と興味が湧いたのだ。

読み進めるとすぐ、the Neocatechumenal Way lay group(以後 The Wayなどと略称が用いられている)、というのが出てくる。

はて、初耳なのかなー、と調べずにそのまま読み進めたが、このグループ/運動が世界大でカトリック教会内に様々亀裂や混乱をおこしているらしいことが感じ取れた。

では日本ではこの動きはどのように紹介されているのだろう・・・と先ずは「Neocatechumenal Way」の訳語を探してみた。

定訳なのかどうかは分からないが、「新求道期間の道=新求道共同体」、が求める訳語らしかった。


検索して幾つか記事を読んでみたが、その中で「カトリック高松教区の問題」がどうやら様々な記事の震源地らしいことが分かった。

問題が起こった期間司教であった「深堀司教」から、問題解決のため後任となった「溝部司教」への経緯を次ぎの二つの記事(説教スピーチ?)からうかがい知った。
・『お別れの言葉

・『溝部脩司教様基調講話

特に溝部司教のまるで「プロフェッショナル 仕事の流儀」ばりの「ミッションを遂行する」明晰さに感じ入った。

へーこんな人がいたんだ。もっと早く知っていればなー・・・と思って今度は「溝部司教」をターゲットに検索して行くと色々面白いことが分かった。

溝部司教は最後に京都で「望洋庵」という施設を作り、特に青年たちを指導した、ということ。

その間「京都新聞」の『ソフィア』というコラムに何本か短いエッセイを寄せていること。

もう一度行きたい土地(2012年12月23日)
「共同体」に燃えた青春(2013年9月1日)
出会いは偶然か、必然か(2013年12月20日)

面白い出会いがあった日であった・・・。

2017年2月19日日曜日

(3)隠れキリシタンになる前に 20年後(?)の日本の教会を見据えて

論文の題めいた投稿記事ですが、先日ある方のところに行って聞いた話を基にしています。

いくらか脚色がないわけではありませんが、この種の物言いは余り正面切って話されることがないので、多少は許されるかなと思っています。

「20年後」としましたが、10年後かもしれないし、あるいは逆に30年後かもしれない「近未来予測」というか悲観的予測に基づいたシナリオと申しますか・・・。


その方はあるプロテスタント教会の教職をしています。

その教会の近未来に対してかなり悲観的な展望を持っておられます。

話を聞きながら、このプロテスタント教会の「辿りつつあるコース」、そして「待ち受ける将来」は半周か一周遅れで(多分カトリックも含めた)他のキリスト教会諸派の上にも降りかかるかもしれないと思っていますし、この方は自分の所属する教派だけでなく「日本のキリスト教会全体の将来」として懸念・危惧されていることを感じました。

(1)既に悪循環は始まり、それは悪化の一途を辿っている

仮に「20年」というスパンで見てみるとします。その方の教団は既に20年前に「教勢」の衰退を自覚していました。

大きな背景的要素は: 「教職者と信徒の高齢化と減少」と「青年層信徒の不在」でした。後者は「教職者候補の減少・枯渇」となって現れました。
 ※教団が特定されないように「教職者」という一般名で表記しておきます。

これらの大きな課題に対して「対策」を施さなかった訳ではないのですが、如何せんそんな簡単には状況を変えることは出来ませんでした。

教職者数が足りなくなり、一人の教職者が幾つかの教会を兼牧するようになりました。

高齢化して行く教職者に負担増となって行くことにより、教職者たちは現状維持に手一杯になり、将来の展望を拓く様な構想を抱いたり、将来への布石を打つようなことが出来なくなりました。

それから20年後、衰退が目に見えてはっきりしたところで、もう一度「打開策を練る会議」が持たれました。

しかし、20年間の不振を、打開策の不備を、客観的に分析・検証するようなことは出来ず、また今となっては「より根本的(出直し的)対策」が必要なはずなのに、会議をリードする「キーワード」や「コンセプト」は20年前から何も変わりませんでした。

20年後の打開策会議は(空洞化と言いたいところですが)「頭がストップしたまま」推移した、とのことです。(「失われた○十年」というフレーズが思い浮かびます。)

(2)別な道の模索

数値データから言っても、教団指導部の姿勢から見ても、もはや「教勢」挽回は不可能と見たこの方は悲観的な予測に基づく「生き延びる」対策を練り始めました。

それは「今ある教会の姿」を記録に残し、それをアーカイブすること。

そして「次世代」あるいは「次々世代」に生まれてくるかもしれない信仰者が(ネット経由で)これらのアーカイブされた記録を基に集会を復活させる、というものです。

このために残された時間はそれほど多くはないだろう、とこの方は見ています。

今のうちにできるだけ「日本というキリスト教信仰不毛の地」で生き延びたキリスト信者たちの「生きた信仰の記録」を残しておきたい、とこの方は考えています。

(3)話を聞いた筆者の感想

筆者もどちらかというと「悲観的予測・観測」を基に将来を構想する方ですが、この方ほどでは・・・と感じつつ話を聞かせてもらいました。

将来というのは本当に分からないことがあります。

西洋近代とともに当然と考えられた「世俗化(セキュラリゼーション)」は明らかに修正を迫られ、いまや「ポスト・セキュラー」がポストモダン西洋の合言葉となりつつあります。

ただ個々の既成宗教団体の将来を予測させる最も基本的データの一つである「人口動態変化」とそれに伴う(既に社会に定着した)宗教団体の変化は「連動する」と見ていいでしょう。

既に日本においては仏教寺院、特に地方の中小の寺は急速に消滅して行くと観測されています。


主に仏教界のニュースを扱う中外日報も、「人口減少社会」という社会のインフラからくる構造的変化を「宗教的真理の価値は変わらないとしても、伽藍や教団制度などを支える社会的基盤の変化を無視できない。」と警鐘を鳴らしています。

将来は分からない。しかしある程度分かっている社会的構造変化にはかなり抜本的な教会の構造変革を少なくともイメージしたり構想したりしておくことは必要だ、と筆者は考えています。

残念ながら、キリスト教会(だけの)「全体の推移」については統計やデータを揃えるのですが、それらを「教勢」変化とだけ捉えて、社会の動向と「連動した変化」として捉えない傾向が依然としてあるように思います。(たとえばこのようなデータ

やはり日本においてはキリスト教はあまりにも弱小すぎて、日本社会(の動向)から遊離したところで「セルフ・イメージ」や「将来像」を描きすぎているのではないか・・・と思ったりするのです。

(今回のレポートには、今後の展開では、後日談や発展的考察が出てくるかもしれません。しかし何度も言うように、将来は分からない。)

2015年11月8日日曜日

(4)英国の今時キリスト教事情

英国での「キリスト教」に関する調査(対象数4000余)の結果が先ごろ報告され、一般メディアでも報道されました。(解説は後ほど)

ところで、その中の一つの質問(の結果)についてみなさんに予想していただきたいのですが、
    英国において、「イエスを実在の人物とは思っていない」人は全体の何パーセントだと思いますか。
     ※要するに「架空」とか「伝説上に過ぎない」とかそんなところ。
        1. 10%
        2. 20%
        3. 30%
        4. 40%

結果をお知らせする前に、少し背景をお話しましょう。

元ダラム大聖堂主教、現セント・アンドリュース大学教授で世界的な新約聖書学者であるN.T.ライトの一般的啓蒙書『クリスチャンであるとは』(2006年、邦訳は2015年)は、英国も含む(かつては)キリスト教文明圏であった西欧諸国が脱・キリスト教化している事実を念頭に書かれています。

英国(そして西欧諸国はもっと進んでいる)の現状を
 ①「ポストモダン」、
 ②「ポストキリスト教」、
 ③「ポスト世俗主義」
というキーワードで捉え、現代西洋人のキリスト教との距離(隔たり)をどのように埋めるか、と言うことを『クリスチャンであるとは』の課題としています。

衰退する英国国教会だけでなく、他のキリスト教諸派(特にペンテコスト派を除く福音派)も英国の脱・キリスト教化の深刻さを問題としているのですが、その深刻度を知りたいということで、
 (1)イエスについての認識(perceptions)
 (2)キリスト者に対する認識
 (3)キリスト者による伝道に対する認識
についてのオンライン世論調査をバーナ・グループ等に依頼して実施しました。


そしてこれがその結果です。



この中にも出てくるように

10人中4人が、「イエスを実在の人物とは思っていない」という結果でした。

一体これが何を意味するかはさておいて、一般メディアにとってもこの結果は少しショックだったようです。

BBCニュースは、Jesus 'not a real person' many believe、と見出しを付けています。

この結果に関する、少し詳細な分析がこちらのブックレットに掲載されています。

やはり年齢が下がるほどイエスの史実性への認識は低くなる傾向にありますが、35歳以下でもアフリカ系やアジア系英国人は、逆に79%が「イエスは実在の人物」という認識を持っている結果が出ています。

と、筆者が報告できるのはここまでですが、今後この調査結果全体への時間をかけた分析が行われるでしょうから、その報告を待ちたいと思います。


筆者の「やぶにらみ」として一言添えれば、やはり「イエスを実在の人物とは思っていない」と思っている人が4割を占めるという結果は、「どのような伝道アプローチを取ればいいのか」ということに自ずと方向性を与えるように思います。

2015年4月23日木曜日

(1)巣鴨聖泉キリスト教会創立50周年、1


 今年、5月5日が来ると、巣鴨聖泉キリスト教会は創立50周年となります。
 半世紀です。

 昨年そのことを思って計画を始めたのが、「創立50周年記念」プロジェクトとしての「内外整備工事」でした。

 一つは少しずつ懸案となっていた「玄関アプローチ」の整備。

 2001年の建替え工事で出た庭石大小を、筆者が並べ替えて飛び石状に置いたのですが、その後様々なイベントで足元のおぼつかない方も来会され、少しずつ心配になっていました。

(2001年11月23日)

(2003年8月24日)

(2005年11月15日)
近い将来には車椅子の対応も必要だろう・・・と言うことで、『車椅子対応玄関アプローチ整備工事』が一月の教会総会で決まりました。

 工事は3月に入って。

コンクリート洗出しのため下地を整備

ゆるくカーブをかけ
入口は花崗岩を並べ
もう一つの工事は「冷房設備」。

 実は会堂には冷房設備がなかったのです。

 初期の目論見は「屋上緑化」で何とかなる・・・でしたが、なかなかそれだけではうまく行きませんでした。

 それでこちらも一緒にと言うことで。
 
穴を開ける壁の厚さは24センチ

まあまあすっきりと収まりました
と言うわけで、3月一杯で全工事終了しました。

 
 

2013年8月7日水曜日

また少し本を買ってしまった

読書の秋はまだ程遠いのに、
そして暑い夏なのに、
また少し本を買ってしまった。

書棚はほぼ一杯。
机の上や床の上に、積読状態が始まっているのに。

一つには、第2回N.T.ライト・セミナーで、
基調講演 「神殿(仮題)」のリスポンデントをすることになっているので、
そのために「神殿」関係の本を購入した。

①ジョン・ウォルトン、The Lost World of Genesis One: Ancient Cosmology and the Origins Debate



創世記1章を「古代テキスト」として、古代文明における創造神話を参照しながら、解明する本だ。
物質的宇宙の創生」と言うフレームではなく、「被造物が一つの大きな秩序の中にどのようにその働きを定義されているか」、と言うフレームで理解すべきだと言っている。

(基調講演者の鎌野直人氏によるとこのウォルトンの本はイントロにすぎないと言うことで
Jon D. Levenson, Sinai and Zion、を購入。
 
(これはウォルトンが終わってから読む。)
 
 
Jack Levison, Fresh Air: The Holy Spirit for an Inspired Life
は前々から買いたいと思っていた本。
N.T.ライトとスコット・マクナイトの推薦もある。
 
Lloyd Pietersen, Reading the Bible After Christendom
Ryan K. Bolger(編), Gospel after Christendom, The: New Voices, New Cultures, New Expressions
とともにAfter Christendomと言うところに共通の関心がある。

最近連載している「福音派のパラダイム・シフト」より大きな文明史的転換を自覚したものかどうか、まー試しに読んでみよう・・・と言うことで購入した。
 
Ulrich Beck, World at Risk
は大分前から「ウィッシュ・リスト」にあったのをやっと購入した、と言う感じ。
最近は殆んど聖書学・神学関係しか買わないが、時々社会学系などにも目配りはしている。
 
⑦トーマス・C・レーマー「申命記史書―旧約聖書の歴史書の成立」
 
 
これはたまたまツイッターから入手した情報から調べてみて面白そうだったので購入した。
フランス語の原書は英語に訳されているが、アマゾンでは法外な値段。
 
それで邦訳書にしたのだが、鎌野先生の情報で見た(オンライン)本屋では30ドル以下。
注文した後だったので、残念。 

2010年10月1日金曜日

「教会」のヴィジョン

「本を枕に‐スピリチュアルな日々」

というブログ(クリスチャンの間ではかなり有名だと思いますのでわざわざ筆者などが紹介する必要のないことと思いますが)で、最近刺激を受けたのが(教会の)ビジョンに関わる二つの連載ポストです。

ビジョンだけで充分ですか

ビジョンに含まれる「目的」「イメージ」、「付随する価値」 


牧師ではなく、信徒の方がこのようなことに深く関心を払われていることに敬意を表したいと思います。(信徒に対して差別的なニュアンスに響いてしまうと心外ですので、一応念のため書き添えておきます。)

同感させられるところが幾つもありました。

たとえ人数が少なくても一つのグループ・組織として機能するためには単なるビジョンやスローガンだけではなく、それを実践し遂行するに至る様々な過程においても、言語化したり、イメージ化したりすることが必要であることを指摘されていると思います。

さらに「究極的な到達地点」が何であり、どのような価値観に基づくものであるかを評価するモメントがないと、途中の実践や・努力が異質の手段に堕してしまう陥穽があることを指摘していると思います。

実は、筆者が当教会の主任牧師になって今でも(足りない)頭を悩ましている問題です。充分突き詰めて答えを出すには時間がかかる問題だとは思いますが、なかなか継続的に考えるのが大変に感じることがあります。

筆者が当初キーワードにしたのは「キリストの弟子」と言うフレーズでした。それで教会の方のウェッブサイト(このブログではありません)の方に、以下のような一文章で表しました。

わたしたちは、聖書からじっくり学ぶ、キリストの弟子たちの群れを目指しています。


筆者が属する群れは、福音派と称する前は、ホーリネスの流れを汲む、リヴァイヴァル運動の影響を色濃く持っていました。ですから何よりも「個人的回心」が前提となり、そして「聖潔の経験」へと「救いの階段」を登って行くよう勧められたわけです。
この“体験的”キリスト者の成長観は、メソジストの祖ジョン・ウェスレーまで遡るものですが、やはり一つの時代神学的枠組みが背景にあると思います。もちろん“聖書的”であることには違いないのですが、「聖書的である」と言う規準は大変巾が広いものです。

それで筆者が考えるようになったのが、より原始教会的、使徒的枠組みで見るとどうなるのだろうか、と言う問題意識でした。
そのような枠組みから半ば直観的に導き出されたのが「弟子」と言う言葉でした。
キリストの弟子は、ある意味一生涯変わらない視点です。
段階的、体験的発展、のようなものを除外しませんが、本質的に弟子であることは、その始まりから終わり(終わりがあるのかどうか分かりませんが)まで終始一貫変わらないものだと思います。

「キリストの弟子たちの群れ」を目指す、と言う表現自体は分かりやすいと思いますが、それ程自明ではありません。それこそ多様な人たちが自称「クリスチャン」と言えるように、中身の問題を取り払って、「レッテル」だけのことにしたら、これだけでは不十分です。

言葉を補ってより明瞭にしていかなければならないと思って付け足したのが、「聖書からじっくり学ぶ」と言う部分です。このことは「キリストの弟子たるために聖書が不可欠である。あるいは聖書を読みながら自己の弟子たる姿を明確にして行くことの必要性を意図した文です。

現在この文章をさらに膨らました「教会のビジョン」文章を、既に教会ウエッブサイトに掲載していますが、その紹介はまたの機会に譲ることにいたしましょう。

2010年7月12日月曜日

ツイッターで伝道?

最初のブログ投稿に書いたように、私はツイッターを「伝道のツール」にできないかと思っています。

「最初からそんなこと書いて。まだ大してツイッターしてないくせに・・・。」

仰るとおり。始めて10日経ちましたが、目下何がどうなっているのか「フォロー」「リツイート」「ハッシュタグ」「ピック」「省略形・短略形」と入ってくるツイートを読みこなすだけでも大変。
いやそんなに真面目には目を通していません。物理的に無理です。はい。

でも依然として考えています。どうにか「伝道のツール」にならないかと・・・。

左のツイッター欄に英語で呟いていますが、ポストモダンの時代、既製教会はあまり人の来るところではありません。こちらの教会、あちらの教会と彷徨している人はいますがね・・・。本当の求道者、本格的な求道者が教会に来ることはまれです。

ポストモダンと書きましたが、かなりな程度は時代・文化の影響だと思います。ポストモダンにおける人の宗教性は多分に私的な関心・感性に左右され、既成の組織に属して吸収しようと言う人は例外的です。個々人の今流行の「スピリチュアリティー」に従って私用の宗教を、宗教・アート・エコ・音楽等様々な要素から作り上げている状態です。
近代化が進めば、科学知識が発展すれば、宗教・信仰は駆逐される、と言う短絡的な「世俗化論」はほぼ間違いであることは現在の状況から見れば明らかです。

教会の中で会員の老齢化が進み、少子化で青年・子供がいなくなり、聖職者を志す人が減り、一体これからの教会はどうなるのでしょうか。これはキリスト教会に限ったことではなく殆どの宗教組織に言えることではありますが・・・。

手をこまねいてこの状況を静観しているのでしょうか。
「○○○○○○」とか「○○○○」をやってとにかく集客(お客じゃありませんけど)して、お客がなるべく長く教会の中で夢中になっているように次から次とイベントやって、何とかミニストリーやって引き止めておくのでしょうか。

どちらの選択肢も取れない教会はどうしたら良いのでしょう。「何かしなくちゃ。でも何もできない。」

このような思考循環は即ち問題の渦にはまっている状態です。このままでは解決の方向には向かえません。

何が必要なのか。

そもそもなぜ教会は存続しなければならないのか。
教会は何のために存在するのか。

この問いに答えなければ後は単なるサヴァイヴァルのための方法論に堕してしまいます。

教会は「神の宣教」のために遣わされている。

遣わされている、と言うことは遣わした方の意図と目的に立ち戻って現状を把握しなければならないはずです。
教会はポストモダンという新しい文化変革状況の中で「神の宣教」の視点に立ち戻らなければなりません。そうでなければ買物リストもなくお金もないまま立ち往生するだけです。お使いになりません。

ツイッターが「伝道ツール」になるかどうかは、この宣教の視点の把握如何にかかっています。

「それじゃ、あなたは把握しているの?」

十分ではありませんが方向感覚は少しずつはっきりしてきていると思います。
でも実際に「出て行って」現場で試行錯誤し、検証を繰り返さなければなりません。

2010年7月5日月曜日

どんなブログになるのかな

巣鴨聖泉キリスト教会は45年の歴史があるけれど、思い出してもこの16,7年受洗者は出ていない。

牧師の私はまだ洗礼式をしたことがない。大変残念に思っている。

それで今肝に銘じていることは受洗者が出現するように教会全体で期待すること。
頭数が増え、会堂が賑わうことが目的ではない。

真性に福音を宣べ伝えている限り、主の体に加わる者が出現するのを期待することは当然であろう。

何が欠けていたのだろうか。
反省しながら主イエス・キリストの宣教に従事する態勢を段階的に整えようとしている。

第一段階は宣べ伝えるべき福音の再確認である。これは徐々に確立しつつある。

第二段階は福音を聞くべき人々をどのように教会にお迎えするのか、である。これが目下の課題。具体的にはそのお膳立てをする「伝道のためのツール」を色々開発中。
・教会パンフレット
・この教会ブログ
・ツイッター
は「伝道のためのツール」に入る。

と言うわけで、このブログは狙いとしてはまだ福音を十分に聞いていない方々のための導入の役割を担うはずである。

よろしくね。

2010年7月4日日曜日

教会パンフレット

教会の今年の目標だった「教会パンフレット」が出来上がった。早速今朝の礼拝後皆さんに手にとってもらった。

「どうですか出来上がりは。」
「結構立派に出来ましたね。」

今年の教会目標は「自己PR」。

ただの「自己宣伝」ではなく「キリストの僕」として自己を推薦すること。

その目的は「キリストの福音の前進」に寄与すること。
私たちは小さな教会。

でも福音を携えて地域に出て行く使命は変わらない。

「小さい」と内に閉じこもっていないで「キリスト・イエスを主と推薦」しよう。

(下段右側は教会に隣接する木工房・活水。牧師の私が主宰してます。と言うわけで、これは教会と工房のジョイント・パンフレット。)