2017年7月25日火曜日

(5)タカ牧師のRR 2017/7/25

今度で2回目なのでまだ「タカ牧師のRR」って何?という方には・・・。

RRとは、Recommended Reading、の略です。

1回目は「中年男性の健康リスク」を話題にしましたが、2回目になる今回の「タカ牧師のRR」はこのブログでも何度か取り上げたことのあるNYT(ニューヨーク・タイムズ)のコラムニスト、
デーヴィッド・ブルックス
青年教育のチグハグ(Mis-Educating the Young)(2017年6月25日)
にしました。

内容はと云うと・・・昔と違って現代の青年には「人生やキャリアを段階を踏んで昇って行く」ようなものがない。

現在の社会はそれだけ「従来の構造がバラケて」しまっている。

それだけ「将来に繋がる教育」が見えにくくなっている

というのです。


良かったら皆さんもどうぞ。

総ワード数: 1000以下
英語レベル: 中(5段階の2~3)

2017年7月23日日曜日

今日のツイート 2017/7/23

久し振りに・・・


解説なしです。よろしく。

※ lit はリタラチャー(文学)ですね。

2017年7月22日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年7月23日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 マタイの福音書 
9:9-13
説 教 題 「行って学びなさい」
説 教 者 小嶋崇 牧師

主の祈りと実践(6)、礼拝と倫理2

2017年7月15日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年7月16日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 4:2-9
説 教 題 「賢い対応、時と言葉」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ(41)/パウロ書簡の学び(158)
 

その他の勧め ② 未信者に対して (コロサイ4:5-6)

2017年7月8日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年7月9日(日) 午前10時30分

朗読箇所 第二コリント 1:15-24
説 教 題 「あなた方に対する私たちのことば」

説 教 者 小嶋崇 牧師

「真理」7


2017年7月6日木曜日

(5)義認論ノート、2

去年の今頃は「N.T.ライトの義認論」(第6回日本伝道会議・分科会)の打ち合わせのため、(神学)ディベートの相手となる橋本氏、それから進行役のJEA神学委員の関野氏、佐々木氏とお茶の水で初顔合わせをしていた(7月1日だった)。

夏の間はライト読書会ブログ上で橋本氏と全部で9回、土俵作りと云うか下準備のディベートをやったのだった。

今になって、少しずつ小出しの印象は否めないが、9月の正味45分の(何と短い)討論会を思い返しながら「準備した資料」を点検し整理してアップしようとしている。

それは2017年、宗教改革500周年を迎えて案外タイムリーなことかもしれない。

あらためて、「義認論」の意義は何なのか、と問うこともいいのかもしれない。


さて下記に多少時系列的な「振り返り」となるが、伝道会議・分科会を前にした7月1日の(1回だけとなった)「打ち合わせ会議」のために、筆者が《神学ディベート・分科会》で想定していたというか、「多分現実的な中身はこんなところだろうな・・・」と考えていたことを紹介しておこう。

○○先生

・・・・・・。
僭越ながら、「ライトの義認論」に関し、討論者自身の満足よりも「日本伝道会議で取り上げる『メリット』をいかに多くするか」、と云う視点から少し「討論の枠組み・方向性」を考えてみました。
何はさておき、「討論における(神学議論的)内容」を4人で議論する前に、「全体で90分と云う時間的制約」、そして想定される参加者(信徒も含む)の「ライトの義認論」に対する理解度の問題、いずれも「外的条件・制限」を優先的に考慮せざるを得ない と思われます。さすれば自ずと選択肢は狭まってくる、とそのように考えます。
(1)90分と云う時間的制約
 フロアとの質疑応答に30分取っておくことを考えると、「イントロのような事柄・・・10分」、「討論・・・45分」くらいの時間配分かと予想します。
(2)参加者の「ライトの義認論」に対する理解度
 牧師・伝道師の方々をメインに考えたとしても、やはり「最近取りざたされているNPPとか、ライトとか大丈夫なの?」くらいの関心がスタートラインと想定した方がいいと思います。「義認論」の、つまりロマ書・ガラテヤ書の釈義的問題等に「入る議論」は無理だと思います。基本
 「『義認論』て何なの?」
 「なぜ論争されているの?」
 「それ日本での伝道や牧会に影響あることなの?」

等の質問に概観的な「見取り図」を提供する「一助」、という位置付けでいいのではないかと思っています。
※個人的には恐らく討論のポイントは、「それ日本での伝道や牧会に影響あることなの?」が一番重要ではないかと思いますが。
一応以上の線で考えますと、《討論・・・45分》のポイントは、
(1)宗教改革時の「信仰義認論」と、(NPP)ライトの「義認論」とをどう整理すればいいのか、という課題
(2)以上の課題を日本で「聖書学・神学」に従事したり、関心を持ったりする方々は、どのように取組み、どのように「日本での今後の伝道・牧会」に応用させれば良いのか、という課題
以上の二つの課題を討論ポイントとして扱えばいいのではないかと思います。
以上、私見ですが、今のところの感想まで。
小嶋
さて以上がほぼ一年前考えていたことであった。

アウトラインとしては、9月28日の発表内容はこの時すでに固まっていた。

ただ、終わってみて思うのは、「(1)90分と云う時間的制約」には予想以上だった。

というのも、義認論に関するアカデミックな材料を大胆に薄める代わりに、「伝道・牧会」という応用面への展開を濃くしよう、と欲張ってしまったのだ。

それで思いのほか「発表内容」の論理的繋がりがかなり理解するのに難しくなってしまった印象がある。

しかし「フロアーとのQ&A」を30分確保したことで、「理解しきれない」問題のほんの一部は解消されたのではないかと思う。

今改めて一年後に「義認論ノート」として発表するのも、この負い目と言うか不足分をいくらかでも補えたらいいな、との期待からである。


さて、では「発題1」の文章にコメントしてみよう。

後半、つまり「伝道・牧会への応用」部分が以下のようになっている。
 「パウロにとって義認は救済論と教会論の両方を合わせたもの」とのライトの議論が正しければ、プロテスタント諸派、特に「福音派」の神学と実践に大きな 問題を投げかけます。
 それは、従来の福音派においては、「救済」においても「敬虔」においても個人的で主観的な視点が強いため、「福音」を正しく伝承し保守するために不可欠な「聖礼典」「職制」、いわゆる「教会の外的しるし」を中心とする伝統的「教会論」がかなり弱体化していることです。
 伝道が実を結ぶためには、「福音」の明証性ともに、福音の伝承を媒介する制度的教会に対する正しい見識が必要ではないでしょうか。
この部分がまことに残念ながら「欲張りすぎ」たのでした。とても5分ではポイントさえ提示するのも困難であった、と。(実際的な設問で、イメージ的にはかなり伝えられると思ったのですが・・・。)

ここで提起しているのは、「福音派の神学と実践」に対して、「ライトの義認論」は(ある意味)問題を自覚して分析させ、また解いて行く方向付けを与えるのではないか・・・ということです。

「救済論」と「教会論」とを一つに見るもの、という「ライトの義認論」の意義は、神学的整理としてよりよい(かもしれない)というポイントにとどまらず、教会の伝道・牧会という実践面への視座を与えてくれる、というポイントとして(日本の教会に限りませんが)宗教改革系列であるプロテスタントの中の特に福音派に対して大きな意義を持っているのではないか・・・という議論にしようと思ったのです。

今回「義認論ノート 2」は既に長くなってしまったので、今後の解説の大枠を提示しておくと、
 (1)救済論(特に『救いの順序(オルド・サリューティス)』の問題)
 (2)教会論(特に制度的教会論に対するアレルギー的反応というか、その蓄積でいわば福音派教会論が弱体化したという問題)

となります。

そしてこれら二つを繋ぐのが(特に「義認」に関連付けて言えば)「洗礼論」ではないかと睨んでいます。

但しその場合の「洗礼論」は単なる神学上の議論としてではなく、教会の成員を生み育てる入口としてどのように「洗礼」は役割ずけられてきたか、という(主に西洋のキリスト教会の)歴史的実践から来る「洗礼」の神学的位置付けの問題、ということになると思います。


ということで、「次回へ続く」


2017年7月4日火曜日

(1)屋上緑化 2017

夏が(ほぼ)やってきた(近づいてきた)。

トップライトからの夏日対策のため屋上に上がるついでに屋上緑化の点検をしてみたら・・・。






2001年新築時に施工した緑化はその後雑草との闘いから一時期かなり弱ってしまった。

2010年7月の「屋上緑化」レポートではかなり回復した様子を伝えたが、今回の点検で健在であっただけでなく、かなりしっかりした定着を観察できたように思う。


4種のセダムのうち細かいタイプのものが絨毯のように敷き詰められた感じになっていてその感を強くした。



さあ今年も、屋上緑化遮光ネット・(そして一昨年に加わった)エアコン、で「暑い夏」を乗り越えるぞ!!

2017年7月1日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年7月2日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 2:41-47
説 教 題 「家々でパンを裂き」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2017年6月27日火曜日

今日のツイート 2017/6/26

ちょっとややこしい内容なので、経緯を少しでも確かめてから・・・と思っているうち一日遅れになりました。

これなんですけどね・・・

よく分からないんですよ。(←昨日の段階。よく分からなかったので少し経緯を確かめた)


こういう経緯らしい・・・

(1)「チャンネル桜の木坂麻衣子氏」という人物が朝日新聞6月23日朝刊掲載記事「パレルモ条約は対テロリズム目的ではない」を解説したパッサス教授の(英語)発言を聞き間違えた(結果捏造した?)と批判した。

(2)その際の朝日新聞記事の当該部分和訳は「テロのように思想に由来する犯罪に対応する目的で作られてはいない。」

(3)この英語発言部分を木坂麻衣子氏は(報道ステーションでも放映された)動画から聞き取り・文字起こしをし、以下のように提示した。
It is not meant to cover idea logically motivated offenses suggest terrorism.
そしてこの文の直訳として与えられたのが
論理的に動機づけされた諸々の攻撃はテロを示唆しているという考えは(TOCには)含まれない
(4)木坂麻衣子氏はこのことを英文メールでパッサス教授に確認し、朝日新聞側の手落ちではないかとのパッサス教授の返事とともに発信した。

(5)この一連の中で何人かのツイッター・フォロワーたちが「木坂麻衣子氏自身が英語の聞きとりを間違っている(朝日新聞の和訳文の方が正しい聞き取りに基づいている)」と指摘し以下のような英文になることを指摘した。
It is not meant to cover ideologically motivated offenses such as terrorism.

(6)(プロの翻訳家である)勝見氏が乗り出してパッサス教授に文意等を含め確認し、木坂麻衣子氏が間違っていることを検証し、彼女に間違いを承認し、番組を削除するよう勧めた。

(7)木坂麻衣子氏は自分の英語聞き取りの間違いであったことを認め、謝罪し、番組は削除された。


大体だが以上のような経過をたどったようだ。

改めてこんなレベルでの「英語聞き取り」でこんな騒動を起こしてしまう「ネット空間」の情報事情のあやうさを思わされた次第。

ちなみに当該発言を含んだ「パッサス教授とのインタヴュー」動画はこれのようだ。

(当該発言部分は1分32秒付近から始まる)

問題を「英語聞き取り」だけに限っていうと、間違いがどちらの方にあるかは明瞭である。
(正) It is not meant to cover ideologically motivated offenses such as terrorism.
(誤) It is not meant to cover idea logically motivated offenses suggest terrorism. 
どういう風に明瞭であるかは「普段英語で文意を追っている」、つまり日常的に英語でコミュニケーションしている者たちにとって明瞭ということだが・・・。(普段英語を使用している人の耳には「上段」のように聞こえる。「下段」のようには聞こえない・・・と思う。つまり英語で文意を追う人はわざわざ意味をなさないようには聞かない。)

仮に間違った方の文(のように聞こえた)としても、文章の構成とか文意から、そして前後の文脈から、殆ど意味をなさない「下段」で意味を通すのは困難なので自分の聞き取りを疑うのが自然と思うが。

スクープネタ発見!? という手柄に誘導された木坂麻衣子氏が「ideologically motivated」リスニングをしてしまったとしたら・・・皮肉なことですね。

この「ツイッターまとめ」を見ると、木坂麻衣子氏に「英語に対する自信過剰」があったようです。

自信過剰が招いた勇み足であったとすると、その自信過剰さはやはりかなり重症と思いますね。
彼女があとから間違いを認め関連記事等の訂正削除がなされたのがせめてもの不幸中の幸い。


ああー何てややこしいことを、と言いたいところですが、プロ翻訳家勝見氏のジャーナリスト精神というかネット世界におけるボランティア活動には敬服です。

2017年6月24日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年6月25日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 ルカの福音書 
20:45-21:4
説 教 題 「神殿礼拝とコミュニティ」
説 教 者 小嶋崇 牧師

主の祈りと実践(5)、礼拝と倫理 1

2017年6月17日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年6月18日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 4:2-9
説 教 題 「私たちのためにも」
説 教 者 小嶋崇 牧師

 

コロサイ(40)/パウロ書簡の学び(157)
 

その他の勧め ① 祈りのパートナー (コロサイ4:2-4)

2017年6月14日水曜日

(5)義認論ノート、1

第6回 日本伝道会議 2」でお断りしたように、このスレッドは今後「義認論ノート」として継続を試みてみようと思います。

前回は、ジョン・ハワード・ヨーダーが1960年代後半に、つまりまだNPPと称して脚光を浴び始めるる前に、新約聖書学(釈義学)で「義認」の社会・倫理的側面に光を当てる研究が出始めていることを指摘していた、ということをノートしておきました。

その研究の先鞭をつけた一人としてヨーダーが名を挙げているのが(誰あろう、カール・バルトの息子の)マーカス・バルトです。 (前回記事の引用英文を参照)


(1)マーカス・バルト(Markus Barth, 1915-1994)について

マーカス・バルトについては既にこのブログでも1度取り上げています。(この記事

残念ながらネット上には「マーカス・バルト」 で検索してヒットするものはありません。
「マルクス・バルト」で検索すると辛うじて一つ二つ見つかるくらいです。
(※ もちろんドイツ語、英語で検索すればそんなことはありませんが。)

というわけで簡単な紹介ですが、マイク・バード(ユーアンゲリオン・ブログ)の「マーカス・バルト」記事のリンクを貼っておきます。

(2)マーカス・バルトの『義認(Justification)』について

 『バルト父子』でも少し紹介しましたが、昨年の「N.T.ライトの義認論」を準備している間もマーカス・バルトの『義認』は念頭にありました。

 「教会共同体的側面を重視した」ライトの「義認論」が決して特異なものではなく、宗教改革伝統の偏りを矯正する(結構大きな)流れにあることを「マーカス・バルト」を関連付けて指摘したかったのですが・・・。

上記マイク・バードの記事にも紹介されていますが、マーカス・バルトにはこのポイントをズバリタイトルにした論文があります。

Jews and Gentiles:
The Social Character of Justification in Paul,”
Journal of Ecumenical Studies 5 (1968): 241-67

マイクが何箇所かこの論文から引用していますが、ここに二つお借りします。
"For Paul one's justification is closely related to the question of Jewish-Gentile unity." (p. 242)

"For the two themes, justification by faith and unity of Jew and Gentile in Christ, are for him obviously not only inseparable but in the last analysis identical." (p. 258)


さて、Markus Barth, JUSTIFICATION、ですがかなり手の込んだというか、普通と違う論述スタイルを取っています。

Introduction:
 1. Justification as a juridical act
 2. The Old Testament as a methodological key
 3. Narration with wonder and admiration

FIVE ASPECTS OF GOD'SJUDGMENT
 The First Day: The Last Judgment Is at Hand
 The Second Day: The Mediator Is Appointed, Acts, and Dies
   Interlude: Black Thoughts About the Death
 The Third Day: The Judge's Love and Power Reverse Death
 The Fourth Day: The Verdict Is Carried Out
 The Fifth Day: The Last Day Is Still to Come
イントロの3で言っていることが気に入ったので引用します。
The form chosen for the body of this study is meant to correspond to the goal and route of the experiment. Instead of a systematic treatment of justification, an "admirer's narration" of the miracle of justification will be given. The more conventional sort of "scholarly" argument will appear only in the footnotes. The action of justification itself calls for a substantive report that enumerates in sequence the ongoing events and changing situations. The footnotes can take no more than a subordinate role. The more dramatic the forensic action, the more the trial itself and the account of it will come to resemble a drama. (p. 21 強調は筆者)
これはなかなか含みのある言葉です。

ヒント的にしか今はコメントできませんが、「義認」ということを組織神学的に叙述することよりも、義認をもたらすドラマチックな出来事を物語る方がより相応しいのではないか、とのバルトの神学的センスだと思います。

神学的に「説明する」よりも、先ず聖書自体に語らせる方法を取っているのではないか・・・と読んでいて感じます。

(その背景であろうと思われることについてはまた別の機会に譲りたいと思いますが、「組織神学的」なことを脚注に置く、と云う選択が示唆的です。)  

もう一箇所考えさせられた箇所を引用します。 『バルト父子』でも引用したのですが、今回は少し付け足します。
[G]od has "made  him who knew no sin for us become sin," he made him "bear the sins," so that he became a sin offering. Thus God has "condemned sin in the fresh": the judgment was carried out on the body of Jesus Christ, the Son of God and the Son of David. With his death he pays "the wages of sin." By doing this he sums up the history, the guilt, the chastisement of Israel. He is in person the full representative of this people.
   This does not mean that the accursed Christ dies in the place of those whom he represents. On the contrary, when the king who typifies all Israel dies, every one of his servants is "crucified with him." ...In turn, since the Israel that Jesus Christ represents is representative of "all fresh," the whole world, every man is also "co-crucified" with Christ. Whether or not all men know yet of this death, whether or not they believe in God and in the Messiah and witness he has sent, they are legally dead. The delivering over of their advocate is fatal for them. His death is their death. (p.46 下線は筆者)
つまり、一般(大衆的も含め)的にキリストの「代償死」を「本来なら私たちが死ぬべきところを、私たちの代わりとなって」と理解しているのですが、

そうではなく、キリストが死んだのは「イスラエルの、そして人類すべての代表として」死んだので、法的にはすべての人はキリストと共に十字架に磔にされて死んだ、のだと。

それは事後的に知ることとなったとしても、あるいは全然知らなくても、客観的にそうなのだ、というロマ書5章6-8節のロジックも支持している(と脚注で)解説しています。

一般的理解としては、(十字架の出来事を福音書で読みながら)「あー、本当だったら罪人である自分があそこで死ぬはずだったのが、イエス様が私の身代わりになって死んでくださった。私が死を免れ生きていられるのはイエス様のおかげなんだ・・・」みたいなことになるのだと思います。

マーカス・バルトはそうではない、確かにイエスは代表として死んだのだが、それは私たちの代表として死んだのだから、私たちもそこでイエスと一緒に死んだのだ」と解釈しているわけです。

この解釈はやはり義認論・贖罪論の「キリスト代償死」に関わる部分がどこか聖書テキストに沿っていないのではないか、と見直しの必要を示唆していると思います。


以上で今回のところは終わりです。

(次回へと継続して行くと思いますが、今回のように「考えるヒント」を提供するくらいが関の山かと思いますが、関心を持って読んでくださる方があれば幸いです。)

2017年6月10日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年6月11日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネ福音書 3:1-15
説 教 題 「新しく生まれる」

説 教 者 小嶋崇 牧師

「真理」6


※礼拝後、昼食会があります

2017年6月3日土曜日

明日の礼拝案内

ペンテコステ主日礼拝
 
2017年6月4日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 2:1-47
説 教 題 「心の集まるところ」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2017年5月27日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年5月28日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 マタイの福音書 19:16-30
説 教 題 「捨てることと受けること」
説 教 者 小嶋崇 牧師

主の祈りと実践(4)、神の国と冨の問題 2

2017年5月23日火曜日

2017 友の会バザー

友の会バザーご案内

日時☆2017年6月8日(木)午前11時~12時20分
場所☆巣鴨聖泉キリスト教会
 豊島区巣鴨1-3-19
     活水工房(教会隣り) 豊島区巣鴨1-3-20

※開始時間前に「整理券」が配られます。

出品物:
 * 友の会ならではの吟味された・・・手作りのパウンドケーキ、マドレーヌ、ごませんべい
 * 丁寧に心をこめて作った・・・エプロン、布巾、ピロケース、鍋帽子
 * 恒例の雑貨、中古衣料など

☆収益金の一部は被災地に寄付されます。
 
主催:東京第一友の会 文京方面
 


2017年5月21日日曜日

今日のツイート 2017/5/21

先ずはこれ。
それから、これ
そして、これ

感じ方は人それぞれなのだが・・・「一流の方」と「神対応」にはちょっと???と思った。

2017年5月20日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年5月21日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:18-4:1
説 教 題 「主に対してするように」
説 教 者 小嶋崇 牧師


コロサイ(39)/パウロ書簡の学び(156)

「キリストにある」生き方⑧
 奴隷と主人  (コロサイ3:22-4:1)

2017年5月19日金曜日

今日のツイート 2017/5/19

(3週間ほど前になる「今日」ですが・・・)

キリスト教会が掲げる「聖句看板」として最も有名な聖句の一つが・・・

しかし、この聖句が「マイクロバスの定員数」(?)とかぶってしまいトホホなことになったみたいです。



2017年5月18日木曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、9

また前回から大分間が空いてしまいました。

遅々として進まず・・・ですが、継続を力として何とかまた一歩。


さて、2回に分けた後半になるわけですが、

 6章 「ファンダメンタリズム」(88-108)
  A 「英米ー明らかに異なる二つの流れ」(88-94)

で、
聖書批評学に対してキリスト教保守(ファンダメンタリズム)は、英では積極的な対応、米では消極的な対応、と異なる二つの流れが生じた
ことを見たわけでした。



6章 「ファンダメンタリズム」(88-108)
 B「ファンダメンタリズムによる聖書信仰の伏流ー前千年期王国論と創造科学」(95-108)


ざっくりしたポイントは、
(1) 無誤論的聖書信仰が教派や他の背景の違いを越えて、広くキリスト教保守派に広まって(浸透して)20世紀初頭のファンダメンタリズムを形成した。
(2) その背景には、「ディスペンセーション主義神学」と「創造科学」が「字義通りの聖書解釈」を実践したが、その理論的根拠を(最初からではないらしいが)ウォーフィールド型の無誤論に求めた・依存した。
というところでしょうか・・・。プリンストン神学と、ディスペンセーション主義神学、通常であれば余り隣近所になりにくそうな二つが繋がったであろう背景を指摘していますね(100ページ)。


筆者は「ファンダメンタリスト連合」に含まれている「ホーリネス諸教派」(95)の系譜にある教会で育ったのですが、実は「ディスペンセーション神学」や「創造科学」の影響は殆ど受けていません。

「千年王国」という用語はもしかしたらどこかから耳に入っていたかも分かりませんが、その諸説に関しては全くといっていいほど無知でした。(現在もさほど変わりませんが。)
 ※そんな程度の経験知ですから「この記事」や「この記事」で書いたことで尽きてしまいます。


「創造科学」はどこかの時点で「ヘンリー・モリス」とその著書くらいは目にしたことがあるかもしれませんが、それでも関心を持ったことは一度もありませんでしたし、その影響を自分の周囲に感じたことはほんのわずかしかありません。

そう「ほんのわずか」、論争の断片を記憶しているくらいです。

父(牧師)が昔「日本福音主義神学会」に少し関係していた頃かと思いますが、創世記の「創造」の記述の「日」を文字通り24時間の一日と取るか否かが「聖書信仰」の試金石・・・みたいな話をしていたのを耳にした程度です。

父は青年期(19歳)にキリスト教に回心していますが、それからまもなくのことと思いますが、信仰的に「疑い」の悩み・問題を抱えた時「聖書と心中する覚悟というか境地に立った」と語ったことを何度か聞いたことがあります。

筆者のように何世代目かのキリスト者となると、そのような「追い込まれた状況での信仰の飛躍」体験はほとんどありません。

神への信頼を通奏低音(丸山真男が日本思想の特徴を描写する時に用いた表現バッソ・コンティヌオの訳語とか)として生きてきた感じで、いちいち(神学)論争の度ごとに自らの信仰態度を決定し・表明する・・・ということには馴染んでいませんしむしろ忌避する傾向があります。

そんな筆者の偏見から見ると、「一日」の解釈を巡って聖書信仰の真贋をテストする・・・ような極端な論争にヒートアップするようなことはもはや「忠誠テスト」であって、解釈の客観的妥当性を巡る論争には思われません。


と、今回は「書評ノート」とは名ばかりの回顧録になってしまいました。

(次回へ続く???あるいはまだ続くかもしれません。)

2017年5月13日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年5月14日(日) 午前10時30分

朗読箇所 創世記 50:15-21
説 教 題 「本当に良かったといえる人生」

説 教 者 小嶋崇 牧師

「真理」5


※礼拝後、昼食会があります

今日のツイート 2017/5/13

格言ですね。

2017年5月11日木曜日

(4)第6回 日本伝道会議 2

先日アップした(3)救いについての「教理」でもイントロに書いたのですが、昨年の「第6回 日本伝道会議」 の「事後報告その1」を書いた後そのままになっていました。

その続きを書こうと思うのですが「紀行」としての続きはあきらめて、「救いの教理」について書いた流れを受け、「義認論ノート」として書いてみます。

「ライトの義認論」をめぐる神学討論会のために下準備として読んで「メモした材料」が色々あるのですが、なかなかまとめて紹介するのは骨が折れるので、「義認論ノート」として小出しで発表しようと思います。

と云う構想はかなり前からあったのですが、(そしてある程度までは書き溜めたのですが)、たまたまその呼び水みたいな文章を読んで、ようやくアップすることにしました。


以上が「序」とでも言うべき部分です。

次に「イントロ」が待ち構えています。
経緯と云うものがあるので即「義認論」にはまだ入れないのです。残念ながら・・・。


(1)5月27日のライト読書会
の案内をブログにアップしたばかりなのですが、今度読むライトのテキストは

A Royal Priesthood?
The Use of the Bible Ethically and Politically
A Dialogue with Oliver O'Donovan

に入っているのですが、この「Royal Priesthood」論集はちょうど3年前に購入してブログでも記事にしていました。

この「Royal Priesthood」繋がりで、ジョン・ハワード・ヨーダーの
The Royal Priesthood: Essays Ecclesiastical and Ecumenical
を同じ時に購入していたのです。 

と言うか、こちらの方が「ヨーダー読書会」のテキスト用に必要で購入したわけでした。
そして「最初に紹介した方の論集」はRoyal Priesthood」繋がりでついでに購入したのでした。

ヨーダーのThe Royal Priesthood、はその後読書会で少し読み進めたのですが、まもなく読書会自体がストップしてしまい積読状態になっていたのです。
 

先日、5月のライト読書会の準備も兼ねて、Royal Priesthood」繋がりで「ヨーダーの方の論集」を少しページをパラパラやっていたら・・・「義認論」関連の箇所に出くわしました。
Few assumptions have been more widely shared in Protestant thought than the identification of the messages of Paul and Luther with the promise of a new hope for the individual in his subjectivity. Luther in his rejection of the cultural religion of the Middle Ages, ..., raised as his banner the pro me of the forgiven sinner. That God is gracious to me is the good news that Zinzendorf, Wesley, Kierkegaard, and today both Rudolf Bultmann and Billy Graham ... have derived from Luther and have labored to keep unclouded by any effort to derive from it ... a social program or any other human work. To safeguard the pure gratuitousness of grace, any binding correlation with human goals or achievements must be studiously kept in second place.
     This assumption ... is now being dismantled under the impact of the exegetical theology of this century. ... Today such scholars as Markus Barth and Hans-Werner Bartsch are finding as well even in the writings of Paul, yea even in Galatians and Romans, a hitherto unnoticed dimension of community extending even into the meaning of such words as justification. (P.73 下線は筆者)
この論文の初出は1967年ですから、まだ「サンダース、ダン、ライトらの名前が登場するNPP論争」が始まる前です。

(もっともクリスター・ステンダールの『The Apostle Paul and the Introspective Conscience of the West』は1963年ですが・・・。)

前段落では、ルターの「福音の再発見」が極端に個人的・主観的なものであり、それがジンゼンドルフ伯爵、ウェスレー、キルケゴール、そして不思議な縁(?)ですが、(20世紀を代表する聖書学者)ブルトマンと大衆伝道者ビリー・グラハムに受け継がれている、と指摘しています。

ヨーダーにとっての問題関心は、この「極端に個人的・主観的信仰」を純粋に守ろうとするばっかりに「倫理的側面、社会的な脈絡」を切り離してしまう傾向なのですが、(次段落では) 近年のパウロ研究(釈義学)がこの主観的信仰の土台とも思われた「義認(justification)」にまで「共同体」のニュアンスが含まれていることを見出し始めている、と指摘しています。

この「義認(justification)」への適用に関してヨーダーは「イエスの政治」(1972年)で展開している議論を参照するよう脚注で述べていますが、確かに第11章「恵みによる、信仰による、義認」でこの新しいパウロ研究の視点を紹介しています。

「イエスの政治」を購入して読んだ当時はこのあたりの論争点にはまったくと言っていいほど無知でした。
We could in fact most properly say that the word "justification" ... should be thought of in its root meaning, as a verbal noun, an action, "setting things right," rather than as an abstract noun defining a person's quasi-legal status as a result of a judge's decree. To proclaim divine righteousness means to proclaim that God sets things right; that it is of his nature and the nature of his covenant that he is a right-setting kind of God. (P.229)
と、かなりライトの「義認」解釈と重なると言うか、むしろライトが改革派神学との整合性を保持しようとするニュアンスがあるのに対して、「共同体」ニュアンス方向に舵を切っている印象です。 

(2)マーカス・バルトの義認論
(この続きに関しては「義認論ノート」で、次の機会に・・・) 

今日のツイート 2017/5/11

スマホがあれば・・・


「あと40年で到着」
「そんなわけないだろ!!」 

という「荒野でGPS」というなんともな設定

2017年5月6日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年5月7日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 2:41-47
説 教 題 「熱心にしていたこと 3」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

(3)救いについての「教理」

昨年9月、第6回日本伝道会議での「N.T.ライトの義認論」の事後報告もまだ終わってないのですが・・・

この3月『Salvation By Allegiance Alone(救いはアリージャンスによってのみ)』、という「宗教改革三大原理」の一つである「信仰義認」の「信仰(ピスティス)」解釈を巡って書かれた挑戦的な本が出版されました。

Salvation By Allegiance Alone、とは、「救いとは、信仰により、恵みによってのみ(Salvation By Grace through Faith Alone)」という公式的言い回しをもじって付けられた本のタイトルなわけです。


この『Salvation By Allegiance Alone』という本に関しては、既に幾つかのブログなどで取り上げられ紹介されています。(このことについては、N.T.ライト読書会ブログで扱っていく予定です。)


さて、この投稿では「救いの教理」をどう取り扱うか、という問題について「初歩的」なことを書いてみたいと思います。

初歩的といってもここでいう「初歩的」とは、宗教改革の伝統に立つプロテスタント教会の中では初歩的と考えられている「人が救われるのは、自分がする良い行いの功徳によるのではなく、神の一方的な恵みによってであり、ただそれを信ずることでいただけるのである。」という救いの基本的な理解 に関わることなので「初歩的」としました。

以下に「救いについての『教理』」を考えるためのテストケース を一つ紹介したいと思います。

これは「実際にあった」こととしてある場所で報告されたものです。
投稿者の許可を得て使用させていただく文章であることを予めお断りしておきます。


私は、26年ぐらい前にパプア・ニューギニアの奥地に伝道に行きました。そこでマーティンという男性と出会ったのですが、彼は、重病にかかり、骨と皮だけになり、もう立つことも座ることもできず、ただ、死ぬのを待っていました。

彼は、それまでキリストについて聞いたこともなく、教会に行く人間を軽蔑していました。しかし、私は、彼のそばに行って、イザヤ書40章の最後の部分をピジン語で読み、次のように言いました。
「昔、イスラエルという国に来られたイエス・キリストは、良い業を行い、多くの人を助けたけれど、人に理解されず、殺された。しかし、蘇って今も生きている。あなたがイエスの名を呼べば、イエスは必ずあなたのところに来て、あなたを救う。」
そして彼の体を抱きかかえるようにして祈り、彼にイエスの名を呼ぶように促すと、彼もイエスの名を呼びました。そして、私に言いました。「私は、私自身をイエスに差し出した。私は、イエスが私を救うことを信じる」と。

彼は祈りました。Bigpela hamamas Bigpela hamamas. Tankyu tru Jesus=Great joy! Great Joy! Thank you very much, Jesus.

彼は、立てなかった足で立ち上がり、家の周りにいた野次馬に向かって言いました。Jesus Krais emi stap laip=Jesus Christ is alive

彼は、その3日後に天に帰りましたが、その直前まで家族や訪れてくる人たちにイエスを信じるように語り続けました。その姿は多くの村人に衝撃を与え、イエスを求めて多くの人がやってくるようになったのです。

オーストラリアに帰って、ある保守的福音派教会でこのことを話した時、次のように言われました。「あなたは、イエスの十字架の代罰をその人に伝えなかったし、その人はイエスの代罰を信じたわけではないから、彼は救われていない。地獄に行ったと考えるのが妥当だ。

日本に帰国してからも同じように言われたことがあります。(強調は筆者)
さて、はたしてこのマーティンという方が「救われた」のかどうか・・・どちらなのでしょうか、という初期設定で「救いについての『教理』」を考えてみたいと思います。

この方(投稿者)がマーティンを「伝道」したやり方を、「救われるためのステップ」としてまとめると次のようになると思います。
 (1)イザヤ書40章の・・・読み
 (2)イエス・キリスト(がどういう方かを福音書のアウトライン要約でまとめ)
 (3)「救われる」ためにイエスの名を呼ぶことを示し
 (4)マーティンを信仰の応答に祈りで導いた

これに対し「(マーティンは)救われていない(だから地獄へ行った)」と判断した人の根拠は
 (1)イエスの十字架の死が(マーティンの罪の)代償であることを示さなかった
 (2)マーティンの信仰はこの「代償死(の教理)」に基づいたものではなかった
ということになります。

ここで一つ背景を明かします。

2016年10月に「第5回N.T.ライト・セミナー」を開催したのですが、テーマである《福音理解をめぐって》で以下のような質問をパネラーにしました。
 余り説明していることが出来ない限られた状況、危機的状況にある人に、ズバッと福音を伝えなければならない。どうしますか。
マーティンのケースはちょうどそんな具体例ではないかと思います。

信仰の《対象》と《応答》をどこに絞って福音を語るか、提示するか・・・という問題を討論するために敢えて「極限状況での福音伝達・提示」を問うてみたのです。

マーティンの場合、個人伝道した方(投稿者)は
 (1)福音の提示は・・・かなり省略し(アウトライン程度)
 (2)福音への応答 を・・・イエスの名を呼ぶに絞りました。

これと比較すると批判した方は
 (1)福音の提示は・・・「イエスの十字架の死」に重きを置き、
 (2)福音への応答 を・・・「イエスの十字架死が代償であった」と信ずることに絞りました。

※簡潔なレポートなので「細かいニュアンスの問題」は省略して論じています。

一体「人を救う」のは何によるのか、というのがこのレポートが問いかけるものです。

二つの問題をそれぞれ独立させて論じることが出来ると思います。
 (1)提示される福音の核心は何か?
 (2)提示された福音に対して応答する「信仰の対象」は何か?

これを以下のように比較点を強調してまとめてみます。
 (1)福音の核心は、
  (A)イエスの十字架の死なのか、
  (B)(イスラエルのメシアとして宣教し、十字架刑に処せられたが三日目によみがえらされた)イエスその人なのか。

 (2)信仰の対象は、
  (A)「イエスの十字架の死が罪人を救う代償であった」という教理なのか、
  (B)(十字架にかかって死なれたが今や復活して天におられる)主イエス・キリストなのか。

筆者がこの問いを解くのに大事だと思っているのは・・・
 (1)「福音」とは何か、という問いが基本的なものであり、
 (2)その「福音」に応答するにあたっての、
  (A)福音の「提示」の仕方や、
  (B)提示された福音に応答する時の「信仰」のあり方は、
  「『福音』とは何か」という「福音の核心」の理解に従属する
 というものです。

今回は「問題提起」だけにとどめます。

しばらくは、N.T.ライト読書会ブログでの『Salvation By Allegiance Alone(救いはアリージャンスによってのみ)』を書評したブログ記事を紹介することで、「問題の所在」や「神学的整理の仕方」を探ってみたいと思います。

2017年5月4日木曜日

今日のツイート 2017/5/4

久しぶりの「今日のツイート」

「今朝のツイート」と言いたいところですが・・・

今日一日が清清しい日でありますように

shirin yoku 森林浴はいかがでしょう


2017年4月29日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年4月30日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 マタイの福音書 19:16-30
説 教 題 「隣人愛、(そして)神と冨」
説 教 者 小嶋崇 牧師

主の祈りと実践(3)

2017年4月26日水曜日

(5)ペテロの役割

ほとんど毎日のように、昼食後1時間程度の散歩に出る。

たいてい散歩のお供となるのが「音声ファイル(mp3)」だ。

音楽ではなく、様々な講演を歩きながら聴く。

ジャンルはある程度限られていて、多分一番多いのは聖書学、特に新約聖書学の講演だ。


今日はベイラー大学(アメリカ、テキサス州)に招かれて講演した、マーカス・ボックミュール教授


という題の講演だ。(聴きたい方は→音声ファイル

これを聴いたわけだが思いのほか面白かったので記事にしてアップすることにした。

ペテロが「イエス伝承」と「パウロ伝承」を繋ぐ役割を持っていたのではないか、ということを4人の高名な研究者(エド・サンダース、ジェームズ・ダン、ドミニク・クロッサン、N.T.ライト)の多大な研究の中からペテロのこの可能性を割り出すための資料を取り出し、それを評価する・・・という内容の講演だ。

個人的な印象を言うと、
新約聖書研究というと幾つかの独立峰的研究課題(ヨハネ文書、黙示録、ヘブル書、など)を除くと、大半は(キリスト教の成立の二大貢献者と目される)「イエス研究」と「パウロ研究」になり、いわばこの二つがメジャー・トピックのようになっている。 

だからボックミュールのこの二大人物を橋渡す役割を果たしたと思われる「ペテロ研究」は、半分メジャーで面白いのではないか・・・などと思った次第。

さて、英語を「聴く」のはダメな方は、この講演の内容が出版された本の1章として納められている。


Markus Bockmuehl,The Remembered Peter: In Ancient Reception and Modern Debate.
(WUNT I 262; Tübingen: Mohr-Siebeck, 2010). 
 
ちょっと専門的な内容なのでなんだが、ざっと概観するだけなら、二つの書評を参考にすると良いのではないか。
 
(1)簡単な方の書評(セメリオス所収) 
 
(2)かなり本格的な書評(このうちの[6]がこの講演に該当するもの)

2017年4月22日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年4月23日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:18-4:1
説 教 題 「主にある妻夫、子親関係」
説 教 者 小嶋崇 牧師


コロサイ(38)/パウロ書簡の学び(155)


「キリストにある」生き方⑦
 妻と夫、子と親  (コロサイ3:18-21)

2017年4月21日金曜日

今日のツイート 2017/4/21

口角泡を飛ばして
地球は平らか丸いか
言い合う喧嘩


最後にどちらが真理か
を決めるのは
議論のやり方の上手い方


*ブロデリック・グリアーさんは牧師。自分のウェブサイトを持っていて、ガーディアン誌やハッフィントンポスト誌などに寄稿しています。

2017年4月15日土曜日

明日の礼拝案内

イースター主日礼拝

2017年4月16日(日) 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 17:22-31

説 教 題 「命と息とすべてのもの」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※持寄り昼食会があります

2017年4月8日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年4月9日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネ福音書 12:12-16
説 教 題 「真の『ユダヤ人の王』とは」

説 教 者 小嶋崇 牧師

「真理」4

2017年4月7日金曜日

今日のツイート 2017/4/7

まーちょっと首をかしげる向きもあるかもしれませんが・・・。


2017年4月4日火曜日

(5)ひょんなことから繋がった

いつもよりさらに雑文の類になるがあしからず。

今朝たまたまYahooのニュースを見ていて眼に入ったのがこのニュースだった。

Guam Catholic Church sees a "perfect storm" of controversy

実は目に留まったのは「パーフェクト・ストーム」という表現だった。(カトリック教会内の問題ではなかった。 )

というのも、この4月から「N.T.ライトFB読書会」では『シンプリー・ジーザス』を読み始めたのだが、その3章に「パーフェクト・ストーム」と題が付けられているのだ。

それで、こちらのYahooニュースの場合はどのようにこの比喩表現を使っているのだろう、と興味が湧いたのだ。

読み進めるとすぐ、the Neocatechumenal Way lay group(以後 The Wayなどと略称が用いられている)、というのが出てくる。

はて、初耳なのかなー、と調べずにそのまま読み進めたが、このグループ/運動が世界大でカトリック教会内に様々亀裂や混乱をおこしているらしいことが感じ取れた。

では日本ではこの動きはどのように紹介されているのだろう・・・と先ずは「Neocatechumenal Way」の訳語を探してみた。

定訳なのかどうかは分からないが、「新求道期間の道=新求道共同体」、が求める訳語らしかった。


検索して幾つか記事を読んでみたが、その中で「カトリック高松教区の問題」がどうやら様々な記事の震源地らしいことが分かった。

問題が起こった期間司教であった「深堀司教」から、問題解決のため後任となった「溝部司教」への経緯を次ぎの二つの記事(説教スピーチ?)からうかがい知った。
・『お別れの言葉

・『溝部脩司教様基調講話

特に溝部司教のまるで「プロフェッショナル 仕事の流儀」ばりの「ミッションを遂行する」明晰さに感じ入った。

へーこんな人がいたんだ。もっと早く知っていればなー・・・と思って今度は「溝部司教」をターゲットに検索して行くと色々面白いことが分かった。

溝部司教は最後に京都で「望洋庵」という施設を作り、特に青年たちを指導した、ということ。

その間「京都新聞」の『ソフィア』というコラムに何本か短いエッセイを寄せていること。

もう一度行きたい土地(2012年12月23日)
「共同体」に燃えた青春(2013年9月1日)
出会いは偶然か、必然か(2013年12月20日)

面白い出会いがあった日であった・・・。

2017年4月1日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年4月2日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 2:41-47
説 教 題 「熱心にしていたこと 2」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2017年3月25日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年3月26日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 マタイの福音書 6:5-15
説 教 題 「罪の赦しの宣言」
説 教 者 小嶋崇 牧師

主の祈りと実践(2)

2017年3月18日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年3月19日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:1-17
説 教 題 「キリストの体として集る時」
説 教 者 小嶋崇 牧師


コロサイ(37)/パウロ書簡の学び(154)
 

「キリストにある」生き方⑥
 教えと諭しと賛美と感謝と頌栄  (コロサイ3:15-17)

2017年3月16日木曜日

(5)タカ牧師のRR 2017/3/16

以前「タカ牧師のセブン」というのをやっていました。
(別にもうやめてしまったというわけではありませんが・・・。)

最近筆者と年齢の近い友人と会食しながらの話題の中で「英語を読む機会が減った」みたいなのがありました。

彼らはビジネス畑の人たちで、英語のものを読まないわけではないのですが、それでもやはり「ビジネス関連」からトピックや記事を探すことが多いみたいです。

というわけで牧師でありながら(かなり激しい)雑食系である筆者が時々「これ面白いよ。読んでみたら」と(高い確率でネットからの)推薦記事をお約束しました。

これって「タカ牧師のセブン」のカスタマイズ版ですね。

それならこの際ブログにも・・・と思った次第。

推薦記事のポイントは:
英語記事
②ビジネス畑の人へ異視点を提供するような
(どちらかというと)中年男性が読みたそうな
を規準に選んでみます。

ところで「タカ牧師のRR」のRRとは、Recommended Reading、の略です。

さて最初の記事なのですが、ジャンルから言うと《メンタルヘルス》になりますか・・・。

中年男性の健康リスク問題の第一

The biggest threat facing middle-age men isn’t smoking or obesity. It’s loneliness.


ということだそうです。


良かったら皆さんもどうぞ。

総ワード数: 約2500
英語レベル: 中(5段階の2~3)

2017年3月11日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年3月12日(日) 午前10時30分

朗読箇所 エペソ人への手紙 5:6-20
説 教 題 「光の子として歩む」

説 教 者 小嶋崇 牧師

「真理」3


あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――
          (エペソ人への手紙5章8-9節、新共同訳)
 

今日のツイート 2017/3/11

東日本大震災から6年のこの日。

ですが、ツイートは何か反・緊張です。

駅のプラットフォームに「Seven Sisters」という看板が見えます。

シスターたちが何人いたのか知りませんが、看板に合わせて七人でフレームしたのかも分かりません・・・。

いずれにしても「偶然のなせるわざ」なのでしょう。

「Seven Sisters」とは何なのか・・・場所だとするとここではないかと思います。

2017年3月9日木曜日

今日のツイート 2017/3/9

デーヴィッド・コンドン(この記事でも紹介しました)が「ツイッター神学校」というのを始めました。


第一回目は合計50個のツイートです。

テーマは「伝統(tradition)」

主に北米における福音派の神学的動向を幾つかの主要な要素(「聖書無誤論」「文化戦争」)を軸に分析し、プロテスタントの「反・伝統」的な性格が(今や)伝統に傾斜・回帰し始めている「神学的現在地点」を捉えています。

そこで「伝統」とどう対峙するか、という問題提起にルドルフ・ブルトマンの「ケーリュグマ的視点」を参照しています。(ツイートでいうと#41~#50)

非常にコンパクトにまとめられていて参考になります。
※しかし筆者の個人的な印象から言うと、分析と現状把握(#6~#40) は優れていると思いますが、「ブルトマンの扱い方」(#41~#50)に移行するにはまだかなり距離があるように思われます。

いずれにしても、(筆者の勝手なレッテルですが)「ポスト福音主義」の若手神学者の台頭株の一人と目されるコンドンの「神学的問題の捉え方」は傾聴に値すると思います。

2017年3月6日月曜日

(1)あなたは「神学者」ですか?

(警告: これはかる~い読み物です。)

あるいは「あなたも神学してますか?」と言い換えてもいい。

でも誤解を避けるために・・・

 (1)「なぜこうなのか」と物事の由来や因果関係を考える時に「神」ファクターを(ある程度)当たり前のように入れて考える(意識する)

 (2)上記の思考習慣を職業的に専門的に行っている

と整理すると、(2)が「神学者」と呼ばれる人たちで、(1)がその他多くの方々、となるのではないか。

(1)は拡大解釈すれば特に「信仰」や「宗教」を持たない方も、時と場合によっては「神学している」ことになると思う。

(1)のタイプの方々の「神学的思考」は生活の隅々で発生したりもするが、時間をかけて工夫して考える(省察する)までに至らないので未発達・未整理のままということが多々あろう。

これに対して(2)のタイプの方々は様々な方面から浮上してきた「神学的問い」をその方々が属する伝統に蓄積された文書類を参照しながらそれらの問いを深め、関心を持つ方々にその成果を問う・・・ことを生業としていることが多い。
※英語の方の表現で、「神学者は(生きている人よりも)(神学書を残した)死んだ人々と仲良くしている人たちだ。」のような言われ方がある。

これ以外、つまり(1)でも(2)でもない方々は差し詰め「世俗主義」下の温室育ちで、意図的にそうしているのではなく、たまたま「神」ファクターが全く選択肢にない人々、ということになろうか・・・。
※そのような方が実際にいることを電話カウンセリングで知りました。

2017年3月4日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年3月5日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 2:41-47
説 教 題 「熱心にしていたこと 1」
説 教 者 小嶋崇 牧師

彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(使徒2:42、新共同訳)
They all gave full attention to the teaching of the apostles and to the common life, to the breaking of bread and the prayers. (KNT)
※聖餐式があります。

2017年3月1日水曜日

(3)隠れキリシタンになる前に 余波1(続)

この「隠れキリシタンになる前に」シリーズ第3弾目の記事となります。


第1回目では、最後に「今後の展開では、後日談や発展的考察が出てくるかもしれません。」と書いておきました。

一応少し動きがあり、何人かが集まって「この事態」をどう見るか意見交換する連絡会のようなものを構想しています。今月にはその最初の集まりが計画されています。

(もしこのシリーズ記事をご覧になり、「中に入って」日本の教会の将来を考えたい、という方がありましたら「先ずは」是非ご連絡ください。問合せ: sugamo_seisen*yahoo.co.jp)


前回(余波1)最後に予告のようなことを書きました。
「牧会の現場」から上がってくる「ケース(例証)」で巨大ジグソーパズルの一ピースを埋めることが出来るかどうか試してみたい。
どちらかと言うか、ほとんどと言うか、筆者は大局的な物言い(要するに「大風呂敷」)が多いです。

具体的なケース(例証)で補強するのが得意ではない。(要するにモノグサ)

今回トライするのは事実具体例なのですが、相談を受けた者の守秘義務に抵触しない範囲で表現しなければなりませんので、予めご了承ください。

(1) Aさんのケース

仮にその方をAさんと呼びます。

Aさんは地方の出身で数年前東京での暮らしにあこがれ、職も得ようと希望を持って上京しました。

数ヶ月もしないうちに、目的も殆ど達せないままに、東京暮らしのストレスに疲れ果て、その悩みを誰にも相談できずに、ある日憔悴しきった表情で教会にやってきました。

その後実家に戻りましたが、地元での「良い」就職は難しく、依然として東京での暮らしと仕事の希望を持ち続けて何回か上京し、その度に教会にやって来ては様々な話をするようになりました。

先日も就職のための講習会のようなもののために上京し、終わってからやってきました。

既に何回も会って話しているので気心が知れてきたのもあったと思うのですが、「実は今回お話したいのは(仕事とかそういうものではなく、宗教的なこと)・・・」と語り始めました。

ある日の夕方、ふと海と空の風景を眺めていたとき、突然「こんな美しい風景を眺めている自分はそのうち消えてなくなるのだ」と鋭く自分と言う存在のはかなさに目覚めた、というのです。

つまり、そう言う夕暮れ時の予想もしない瞬間に「必ずくる死」の自覚が突如彼を襲ったわけです。

おそらく一瞬背筋が凍りつくような恐怖であったと思います。

彼はその恐怖の体験を誰に話すことなく、彼の身近にいる人物の中では唯一の「宗教家」である筆者にその体験を告白してみたわけです。

(2)現代人の霊的リソース

打ち明けられた「宗教家」として先ず彼に語ったことは、それは特段驚くような体験ではなく、誰でも実存的に直面する危機的瞬間であること、しかし普段はそのことを構わないように、回避したり抑圧したりしているのだ、といったような説明をして安心してもらった。

逆に筆者が興味を持ったのは、彼にはそのような基本的「宗教的疑問」に対処する「霊的リソース」が備わっていなかったのか、身近に「参照する人物(リソース・パーソン)」はいなかったのか、ということ。

彼の実家は仏教だが、仏事の習慣がある他は殆ど実存的意義はないようだった。

親しい友人ともそんな話題は話せないようだった。

相応しい類の本や教えも(その時は)思いつかなかったようだ。

彼は特に教養があるという風な感じではなく、ほぼ平均的「霊性」の持ち主のように思う。

そんな彼に突如襲った「人生のはかなさ」に対処する手立てなく狼狽しなければならない「現代の日本」とはいったい何なのだ、というのが筆者の側の疑問である。

(3)来るべき霊的荒野の風景

第1回目で「寺院消滅」を紹介した。

曲がりなりにも日本社会における現代人の霊性を支えている寺院がそして神社が今後どんどん消滅して行くとすると、Aさんのような「人生の根源的問い」「生と死の問題」がふっと沸いた時、誰が相手をすることになるのか・・・。

余波1で若年層の「孤独死」を紹介した。

筆者はそれを「事故死」になぞらえた。

Aさんの三世代前までの「霊性」は、その次の(Aさんの親)世代で次第に希薄化し、三代目で殆ど有名無実になり、より弧独に生きる若年層の「霊性的な悩み」に直接答えられるような「霊的リソース」ではなくなっている現状をどうしたらいいのか。

最近流行の「パワー・スポット」「スピリチュアル」現象の要因のひとつは、葬儀や墓という「死」に伴う儀礼的宗教として「世代間を繋いできた」仏教や神道の若年層における空洞化をあらわしているのではないか・・・。

この現代的状況を「カルトの問題」と合わせて考えると、ある一つの像がおぼろげながら浮かんでくる。

今回はほんのり示唆するだけにとどまるが、既に「オウム真理教」関連で書いていることを挙げてく。


 (1)大田俊寛の指摘(筆者のブログ記事からの抜粋と、東洋経済誌記事の抜粋)
大田の「宗教学的人間観」が、第1章 近代における「宗教」の位置、1 そもそも「宗教」とは何か、で紹介されている。

 人間は、生まれ、育ち、老い、最後には死を迎える。死によって肉体は潰え、すべては無に帰るかのように見える。しかし、実はそうではない。死んだ人間が生きているあいだに作り上げた財産や、彼が伝達してきた知識は、残された者たちのなかでなおも生き続けるからである。この意味において人間の生は、その死後もなお存続すると言わなければならない。
 このように一人の人間の一生は、その誕生で始まり、肉体的な死を持って終わるわけではない。その人生は実は、生まれる前からすでに始まっており、死後もなお継続される。人間は、他者との「つながり」の中で生きてゆく存在なのである。(強調は著者、28ページ)

オカルト思想が栄え続けるワケ

――では、最後の質問です。霊性進化論というオカルト思想は、なぜ社会に蔓延し続けるのでしょうか?
大きな原因として、現代社会における霊魂観の貧困化、より具体的には、霊魂観の個人主義化、さらにはオカルト化、といった問題があると思います。
古今東西の諸文化の中で、「霊魂」に相当する概念を持たなかったものは存在しないと言っていいでしょうし、また近代以前の社会では、さまざまなバリエーションがあったにせよ、宗教と社会、宗教と政治が、なんらかの形で密接に関連していました。人間が死んだらどうなるのか、死者をどのように弔い、彼らの遺産をどのように継承していくのかといった事柄に関して、社会的な合意やルールが存在していたわけです。

――つまり、「死」がよりパブリックなものであったと。
はい。というより、むしろそれは、公共性の中心を占める事柄でした。ところがヨーロッパにおいて、宗教改革後の16~17世紀に宗教戦争が頻発し、それまで信仰によって一体化を保っていた社会が、むしろ信仰をめぐって争いを起こすという事態が引き起こされてしまった。そうした中で、どのような形の信仰が正しいのかを公的には決定しないという合意が成立し、それが近代における「政教分離」原則のバックボーンになっています。以降、霊魂観や信仰をめぐる問題が、公の場で議論されることは少なくなりました。
ただ、忘れてならないのは、現在のように「死後の世界」や「弔いの作法」に関する社会的な共通了解が存在しない状況というのは、長い人類の歴史においても、きわめて特異的な事態であるということです。政教分離をはじめ、近代の諸原則は、確かに一定以上の必然性や必要性から生みだされたものであり、それらを軽視することはできません。しかし、そこになんの問題も存在しないかといえば、そうではない。個々の人間の死に対して社会がどう向き合うのかということは、今も決して避けて通ることができない問題です。

――その空白を突いているのが、オカルト思想ということでしょうか?
そうですね。こうした状況に対して、本来であればまず、宗教の歴史や構造についての体系的な認識方法を提示し、問題の所在を明らかにする必要があるのですが、残念ながら現在の宗教学は、その任を十分には担えていません。その結果、一部の人間が考え出した恣意的な霊魂観が大手を振ってまかり通るという状況を許してしまったのです。霊性進化論は、そうした霊魂観のひとつであると言えます。そこでは、霊魂の存在が、社会や共同体という具体的基盤を喪失して個人主義化するとともに、「宇宙」や「霊界」という抽象的存在と直結するものととらえられるようになった。たとえば「宇宙における私の魂の霊的ステージ」などといった考え方ですね。こうして現代の霊魂観は、誇大妄想的でオカルト的な性質を帯びるようになったのです。
このような霊魂観を克服するためには、「魂とは何か」という問題をあらためて公に論じ合い、社会的合意を形成しなければならないでしょう。しかしそれは、いつ、どのような仕方で可能なのか。率直に申し上げて、現状では、私にも見通しがあるわけではありません。ただ、その前段階として、先ほど述べたように、現在の社会が抱えている困難や弱点の構造を、可能なかぎり明確化しておく必要があるのだろうと考えています。

 (2)オウム真理教に入門した「宗形真紀子」の宗教環境

宗形の育った宗教教育環境の欠如、「霊性的空白」がオウムに追いやったのではないか、と書いた。


(まだ続くと思う)

2017年2月25日土曜日

今日のツイート 2017/2/25

トランプ大統領となって一ヶ月が過ぎた。

初期の混乱がひと段落して鎮静化・・・に向かうとはとても思えない。

トランプ支持の「キリスト教原理主義=福音派」が定着して行くのではないか、と危惧しているところ。



明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年2月26日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 マタイの福音書 6:5-15
説 教 題 「祈りと実践」
説 教 者 小嶋崇 牧師

主の祈りと実践(1)

2017年2月24日金曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、8

また前回から大分間が空いてしまいました。

実は先日『聖書信仰と諸問題』を購入しました。

この書はいま解説している『聖書信仰』をかなり意識して出版された本です。

今後の解説は、表立って言及はしないと思いますが、多少なりともこの聖書信仰と諸問題』を意識して書き進めることになるかと思います。


さて 、今回扱う6章「ファンダメンタリズム」は脚注も入れると20ページあり、少し長いので2回に分けようと思います。

6章 「ファンダメンタリズム」(88-108) 
 A 「英米ー明らかに異なる二つの流れ」(88-94)

イントロに
・・・1920年代、保守的な神学者たちが宣言した「五つのファンダメンタル」となった。後の十二冊からなるトラクトシリーズ『ファンダメンタルズ』は、篤志家の協力を得て、無料で全世界に三百万部供給されたが、自由主義に対抗するファンダメンタリズムの基本的な教えを説明している。(88ページ)
とあるのですが、恐らく名前としてはその存在を知っている人でも、「現物」を所有していたり、見たことのある人は少ないかもしれません。(ネットには画像がありますが・・・。)


実はこの『ファンダメンタルズ』のⅦとⅧは筆者が(確か)このことと縁の深い某神学校の古本市で入手したものです。(一冊が25セントでした。)

ついでに目次のところをスキャンしたものをお見せします。



前々から「自慢したかった」のですが機会がなかった。(一体何の自慢になるのだ、と言われそうですがやはり「歴史」を証言するハードな証拠をもっていることはそれなりに・・・。)

さて、英米での違いを浮き彫りにする「証言」として、ジェームズ・オアが紹介されています。(90ページ)
神の啓示の書物としての聖書を守ろうとして「微細なデータに至るまで聖書には『誤りがない』と実証しなければ、啓示宗教への信頼全体が崩れてしまうとまで主張するのは、きわめて自殺的な行為である。」
と引用しています。

脚注によると、この引用は『啓示と霊感(Revelation and Inspiration)』(1910年)からだそうです。(リンクはオアーの著作の全文、フリーです。)

以下は周辺も含めた原文の引用ですが、オアの議論は「霊感の教理」は「啓示の事実・真実」に基づくのでありその逆ではない、というものです。

もしそれを逆転させて、しかも「無誤論」のような形で「キリスト教の真理性」を主張・証明しようとするならば、もしそれが実証されない時、「無誤論」とともに「キリスト教の真理性」の主張まで崩壊してしまう、という危惧に聞こえます。

オアが「the right method」に対して「The older method」と呼んでいる「霊感を先に論証することで啓示を証明する」アプローチのいわば名残のようなものとして「無誤論」が紹介されています。

そしてこのthe right method」を取るならば「無誤論」を必要としないことを「福音書」のケースに即して語っています。

福音書記者がたとい「霊感」されたとしなくても、彼らが記述した「人物」が、確かに「超自然的主張」をしそれが言葉と行いによって確かめられた「人物」として記録されているならば、(私たちは)福音書を通してその「人物」を信じることが出来るし、その方が「霊感された福音書を先ず信じた上でその人物を信じる」よりもはるかに無理がない。


「無誤な聖書」を主張していたホッジやウォーフィールドでさえ、「新約聖書」という「啓示の記録」より「イエス・キリストの啓示の事実」の方が先に存在し、そして仮に神が「完璧に無誤な啓示の記録」を与えなかったとしても、啓示の事実に基づくキリスト教は、そのような霊感された書物の存在に左右されずに成立したはずだ、と脚注[1]で言及しています。
I. Revelation and Inspiration — Their Relations.

1. It will have been seen that it is sought in the preceding pages to approach the subject of inspiration through that of revelation. This seems the right method to pursue. The doctrine of inspiration grows out of that of revelation, and can only be made intelligible through the latter. The older method was to prove first the inspiration (by historical evidence, miracles, claims of writers), then through that establish the revelation. This view still finds an echo in the note sometimes heard — ' If the inspiration of the Bible (commonly some theory of inspiration) be given up, what have we left to hold by ? ' It is urged, e.g., that unless we can demonstrate what is called the ' inerrancy' of the Biblical record, down even to its minutest details, the whole edifice of belief in revealed religion falls to the ground. This, on the face of it, is a most suicidal position for any defender of revelation to take up. It is certainly a much easier matter to prove the reality of a divine revelation in the history of Israel, or in Christ, than it is to prove the inerrant inspiration of every part of the record through which that revelation has come to us.

Grant the Gospels to be only ordinary historical documents — trustworthy records of the life of Christ, apart from any special inspiration in their authors — we should still, one may contend, be shut up as much as ever to the belief that the Person whose words and works they narrate was One who made super-human claims, and whose character, words, and deeds attested the truth of these claims. [1] It is assuredly easier to believe that Jesus spoke and acted in the way the Gospels declare Him to have done, than to prove that Mark and Luke possessed an exceptional inspiration in the composition of their writings — though, as has been already stated, there is the best reason for believing that they did.

[1] This has often been put as strongly as it can be by the stoutest defenders of the infallibility of Scripture. Cf., e.g., Bannerman, Inspiration: the Infallible Truth and Divine Authority of the Holy Scriptures, pp, 18 ff. Drs. Hodge and Warfield, arguing for an 'errorless Scripture,' write: 'Nor should we ever allow it to be believed that the truth of Christianity depends upon any doctrine of inspiration whatever. Revelation came in large part before the record of it, and the Christian Church before the New Testament Scriptures. Inspiration can have no meaning if Christianity is not true, but Christianity would be true and divine, and being so, would stand, even if God had not been pleased to give us, in addition to his revelation of saving truth, an infallible record of that revelation absolutely errorless by means of inspiration' (Presby. R$v. t April 1881, p. 227).
藤本氏は他にも「英米二つの流れ」の由来や背景を指摘していますが、やはりこの辺を丹念に検証しながら、聖書の性格や意義・役割を考えて行く必要があるのではないか、と思わされた次第です。

(次回へ)

2017年2月22日水曜日

(3)隠れキリシタンになる前に 余波1

昨日、筆者が所属する教会のグループである聖泉連合の教役者会があった。

昨日の場合は普段より議題が多かった。

しかし北から(盛岡)南から(名古屋)集まる面々の会議に滑り込むペースはいつものように殆ど変わらなかった(遅かった)。

(そのときは余り意識していなかったが)筆者が司会を買って出て、会議のペースを上げるため矢継ぎ早に冗談めいたことや、いくらか挑発的なコメントをした。

弾みをつけたかったのだと思う。

「普段と違う!!」ということで何人かの人から「今日は○○先生は元気がいいですね」と驚きとも皮肉とも取れる感想をいただいた。

結局5時間ほど6人の教役者の方々と一緒に時間を過ごしたわけだが、その間何度か言われた「普段と違う!!」「元気がいい!!」類のコメントを家に持ち帰って反省する羽目になった。

明け方うつらうつらしながら一つの解を得た。

と思ったので、この記事を書き始めたのである。

つまり、筆者の「普段と違う」言動、その雰囲気を意識下で醸成していたのは、先日ブログ記事で「隠れキリシタンになる前に」と書いた事柄にある、と。

初めは最近意識するようになった「老人性イライラ」がハイテンションに形を取って出たのかな、と思った。

でも考えているうちに、「教会が衰退して行くのをただ傍観している現状(事実と言うよりそのように見える状態)」に対する腹立たしさのようなものがふつふつと沸いていたのかもしれない、と思い至った。

そこまで思い至って過日の言動を省みるに、どうやら筆者は何らかの「目を覚まさせる」ような物言いを画策していたみたいだ。

(少々失礼な言葉で)仲間の教役者たちのほっぺたを引っ叩くような・・・。

 「このまま事態を放置していていいのか!舟は沈み始めているぞ!」

普段は至って「常識を大事にする人」のように振舞っているのに、突然「覚醒者」ぶったことを言うのは憚られた。それで通路を変え、別なトピックで仲間たちに発破をかけるような言動をしたのではないかと・・・。



さて導入が長くなりすぎた。

(1) 幾つかの線が交差する

(3)隠れキリシタンになる前に」では「ある方」が属する「一プロテスタント教会の衰退」とその取り組み(あるいはその無策)を聞いた範囲で、しかし幾らか筆者の知見を付加・脚色してまとめた。

書いてから思ったのだが、まだ別の幾つもの事象から線を引っ張ってきて「この事態」がかかえている問題に交差させることが出来る、と。

 (A)「お一人様」現象

 ※かつてこのブログでも「お一人様クリスチャン」で書いた事柄。

 (B)「シーライズム」(ロバート・ベラー他『心の習慣』、ミヒャエル・フス『愛の力に祈る――宗教間対話の現状について』8頁の脚注20に簡単な「シーライズム」の紹介がある。)
 
 (C)「新宗教の信者激減 10年後に消滅する教団も

 「・・・日本の新宗教が信者を増やしたのは、高度成長期に地方から都会に出てきた人を取り込めたことにある。希薄になった人の繋がりを宗教に求めたからだ。しかし、現代の若者は何か困ればスマホがあり、人間関係はSNSで築く。それでは宗教の出る幕がない・・・」

 (D)「東京23区だけで238人 20~30代の『孤独死』なぜ増えた

 「・・・若者の孤独死が増えたのは契約、派遣社員、フリーターの増加も一因です。彼らが数日間、無断欠勤したぐらいでは、会社は心配してくれない。・・・一人っ子が増え、一人でいる方がラク、友達関係も希薄という若者が増えたせいもある。」

(2)「既成宗教団体」の衰退(あるいは消滅)がもたらすもの

(1)で挙げた「引っ張ってきて交差させることが出来る線」はまだあるが、要するに「隠れキリシタンになる前に」でも紹介した中外日報の「人口減少社会」記事にもあるように、
今回の国勢調査で、高齢者や外国人のほかに5年前と比較して増加しているのは世帯数だ。総人口減少にもかかわらず、世帯数は2010年の時点より145万世帯増えて、1世帯当たり2・38人となった。1970年は3・45人だから、世帯規模も著しく縮小した。
人口減少にもかかわらず「世帯数の増加」つまりそれは「お一人様」現象として出てきていることの社会構造変化面でもあるだろう。

しかし「お一人様」現象が単に「個人のライフ・スタイル」選択にとどまらず、戦後の高度経済成長期の都市化、人口集中という構造変化、さらにポスト経済成長期・ポストバブル期の人口の大都市一極集中という社会構造的変化と重ね合わせると何が言えるだろうか。

一方で既成宗教団体の衰退・(近未来の)消滅(可能性)があり、もう一方で「個人化・孤独化」の深化がある。

つまり、人と人を結ぶ絆帯の役割を担ってきた伝統的宗教(仏教寺院・神社)が近代化によって次第に衰退し、代わって様々な新興宗教が近代社会のひずみを吸収してきた。

しかし、ここにきてそれらの新興宗教ももはや「既成宗教」となり、新しい社会の動向に相応しく人々の宗教的ニーズに対応しきれていない状況が明確になって来ている。

(殆どのキリスト教団体の趨勢はこの流れの中で左右すると思われる。)

衰退して行く既成宗教、そして新興したが今や既成となった宗教団体が対応できずに、口を開けた隙間がどんどん広がっている(ように見える)。


この隙間を埋めるように様々な新々宗教が参入するが、一部巨大化・カルト化するが残り多くは泡沫現象として消えて行く。

既成宗教を置き換えるような勢いにはなっていかない。

(1)(D)の「若者の孤独死」増加はいわば「パックリ開いたクレバスに落下する事故」のような印象で筆者には受け止められた。



そんな図が(以上挙げた点を結んだだけでも)描けるのではないか・・・。


もちろんこれは「単なる図」であって、「説得力のある絵」ではない。

真実はディテールで検証されなければならないことは言うまでもない。


次回「牧会の現場」から上がってくる「ケース(例証)」で巨大ジグソーパズルの一ピースを埋めることが出来るかどうか試してみたい。

2017年2月20日月曜日

(5)『スキャンダル・オブ・ザ・エヴァンジェリカル・マインド』の今

米国福音派はトランプ大統領の隆盛と共にもはや「キリスト教原理主義」とほぼ重なって見えるようになってきている観がある。

実際はもっと複雑な内部事情があると思うのだが、恐らく「外の人」にそれを説明することはかなり困難になって来ているかもしれない。

そんな兆候の一つともされかねないのが小論壇誌『ブックス&カルチャー』の閉巻だ。
このツイートによれば「大衆福音主義迎合タイプの映画は続編を出すが、一級の(小)論壇誌は廃刊に追い込まれる。」、ということになるのだろう。

実はツイッターを始めて間もなく、この『ブックス&カルチャー』のツイッター・アカウントをフォローしてきた。

しかし、やりくりが大変そうなのが伝わっていた。

ツイートの数がかなり減って行った。

そして2016年を最後に「店を畳んだ」。

そういった事どもを思い返したのは、このツイートだ。

(順番から言えば最初にこのツイートを掲げるべきなのだが・・・。)

いやー、この記事本当面白かった。

こんなツイートもしたくらい・・・。

この記事の中で、ジョン・シュマルツバウアーが、『ブックス&カルチャー』を編集に携わってきたジョン・ウィルソンが(標題に使った)マーク・ノルのThe Scandal of the Evangelical Mind (1995年)に言及している部分を紹介している。

Like many little magazines, Books & Culture was a response to a problem. As Wilson remarked in a recent podcast, "It was not accidental that The Scandal of the Evangelical Mind came out in '94 and the first issue of B&C in '95." Lamenting the persistence of anti-intellectualism within American evangelicalism, Scandal was an "epistle from a wounded lover," articulating Mark Noll's "hope that we American evangelicals might yet worship God with our minds."
どうやら『米国福音主義の知的生活・文化』は退潮傾向にあるといわねばならないのだろう。
 

2017年2月19日日曜日

(3)隠れキリシタンになる前に 20年後(?)の日本の教会を見据えて

論文の題めいた投稿記事ですが、先日ある方のところに行って聞いた話を基にしています。

いくらか脚色がないわけではありませんが、この種の物言いは余り正面切って話されることがないので、多少は許されるかなと思っています。

「20年後」としましたが、10年後かもしれないし、あるいは逆に30年後かもしれない「近未来予測」というか悲観的予測に基づいたシナリオと申しますか・・・。


その方はあるプロテスタント教会の教職をしています。

その教会の近未来に対してかなり悲観的な展望を持っておられます。

話を聞きながら、このプロテスタント教会の「辿りつつあるコース」、そして「待ち受ける将来」は半周か一周遅れで(多分カトリックも含めた)他のキリスト教会諸派の上にも降りかかるかもしれないと思っていますし、この方は自分の所属する教派だけでなく「日本のキリスト教会全体の将来」として懸念・危惧されていることを感じました。

(1)既に悪循環は始まり、それは悪化の一途を辿っている

仮に「20年」というスパンで見てみるとします。その方の教団は既に20年前に「教勢」の衰退を自覚していました。

大きな背景的要素は: 「教職者と信徒の高齢化と減少」と「青年層信徒の不在」でした。後者は「教職者候補の減少・枯渇」となって現れました。
 ※教団が特定されないように「教職者」という一般名で表記しておきます。

これらの大きな課題に対して「対策」を施さなかった訳ではないのですが、如何せんそんな簡単には状況を変えることは出来ませんでした。

教職者数が足りなくなり、一人の教職者が幾つかの教会を兼牧するようになりました。

高齢化して行く教職者に負担増となって行くことにより、教職者たちは現状維持に手一杯になり、将来の展望を拓く様な構想を抱いたり、将来への布石を打つようなことが出来なくなりました。

それから20年後、衰退が目に見えてはっきりしたところで、もう一度「打開策を練る会議」が持たれました。

しかし、20年間の不振を、打開策の不備を、客観的に分析・検証するようなことは出来ず、また今となっては「より根本的(出直し的)対策」が必要なはずなのに、会議をリードする「キーワード」や「コンセプト」は20年前から何も変わりませんでした。

20年後の打開策会議は(空洞化と言いたいところですが)「頭がストップしたまま」推移した、とのことです。(「失われた○十年」というフレーズが思い浮かびます。)

(2)別な道の模索

数値データから言っても、教団指導部の姿勢から見ても、もはや「教勢」挽回は不可能と見たこの方は悲観的な予測に基づく「生き延びる」対策を練り始めました。

それは「今ある教会の姿」を記録に残し、それをアーカイブすること。

そして「次世代」あるいは「次々世代」に生まれてくるかもしれない信仰者が(ネット経由で)これらのアーカイブされた記録を基に集会を復活させる、というものです。

このために残された時間はそれほど多くはないだろう、とこの方は見ています。

今のうちにできるだけ「日本というキリスト教信仰不毛の地」で生き延びたキリスト信者たちの「生きた信仰の記録」を残しておきたい、とこの方は考えています。

(3)話を聞いた筆者の感想

筆者もどちらかというと「悲観的予測・観測」を基に将来を構想する方ですが、この方ほどでは・・・と感じつつ話を聞かせてもらいました。

将来というのは本当に分からないことがあります。

西洋近代とともに当然と考えられた「世俗化(セキュラリゼーション)」は明らかに修正を迫られ、いまや「ポスト・セキュラー」がポストモダン西洋の合言葉となりつつあります。

ただ個々の既成宗教団体の将来を予測させる最も基本的データの一つである「人口動態変化」とそれに伴う(既に社会に定着した)宗教団体の変化は「連動する」と見ていいでしょう。

既に日本においては仏教寺院、特に地方の中小の寺は急速に消滅して行くと観測されています。


主に仏教界のニュースを扱う中外日報も、「人口減少社会」という社会のインフラからくる構造的変化を「宗教的真理の価値は変わらないとしても、伽藍や教団制度などを支える社会的基盤の変化を無視できない。」と警鐘を鳴らしています。

将来は分からない。しかしある程度分かっている社会的構造変化にはかなり抜本的な教会の構造変革を少なくともイメージしたり構想したりしておくことは必要だ、と筆者は考えています。

残念ながら、キリスト教会(だけの)「全体の推移」については統計やデータを揃えるのですが、それらを「教勢」変化とだけ捉えて、社会の動向と「連動した変化」として捉えない傾向が依然としてあるように思います。(たとえばこのようなデータ

やはり日本においてはキリスト教はあまりにも弱小すぎて、日本社会(の動向)から遊離したところで「セルフ・イメージ」や「将来像」を描きすぎているのではないか・・・と思ったりするのです。

(今回のレポートには、今後の展開では、後日談や発展的考察が出てくるかもしれません。しかし何度も言うように、将来は分からない。)

2017年2月18日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年2月19日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:1-17
説 教 題 「寛容を身に着けるとは」
説 教 者 小嶋崇 牧師


コロサイ(36)/パウロ書簡の学び(153)
 

「キリストにある」生き方⑤
 メシアの民の性格  (コロサイ3:12-14)

2017年2月11日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年2月12日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネ福音書 8:31-47
説 教 題 「真理は自由にする」
説 教 者 小嶋崇 牧師


「真理」2 
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31-2、新共同訳)
 

今日のツイート 2017/2/11

日米首脳会談でのマリーン・ワン機上の両首脳の写真に対するツイートの一つです。



上の画像では安倍首相をちゃんとファーストネームで呼んでいますが・・・

(国内では)「ポチ」と揶揄されたり・・・

(英国視線からは??)「誘拐された(日本は身代金を払わなければならない???)」と皮肉られたり・・・

いろいろありますね。

[追記: 約43分後]

どうやらビル・クリストフ記者は安倍首相の姓と名とを取り間違えたと見ているようです。当方てっきり親しみをPRするためにそうしたのかと思いましたが・・・。

2017年2月9日木曜日

今日のツイート 2017/2/9

映画『沈黙』が引き金となったのかもしれないツイート。




残念ながら、最初に入信した『集団』での体験が、『福音派』で括られて次ぎの警告ツイートとなっている。

2017年2月8日水曜日

今日のツイート 2017/2/8

セオロジカル・ディファレンシズ・・・神学的見解の相違から解雇される、ということだが、
確かに出版社の雇用条件には社の神学的立場に同意することを求め、更にそれを毎年更新するという条件がウェッブサイトに掲げられてはいるが。

Hiring Considerations

The status of InterVarsity Christian Fellowship/USA as an equal opportunity employer does not prevent the organization from hiring staff based on their religious beliefs so that all staff share the same religious commitment.
Pursuant to the Civil Rights Act of 1964, Section 702 (42 U.S.C. 2000e 1(a)), InterVarsity Christian Fellowship/USA has the right to, and does, hire only candidates who agree with InterVarsity's Statement of Agreement: Purpose and Doctrinal Basis.

The Hiring Process

If you are hired, each year you will be asked to re-affirm and sign InterVarsity's Statement of Agreement.

確かに彼の神学的立場はいわゆる福音派のものとは異なっているとは言えるのだろう。恐らく問題はその相違をどの程度厳密に規定して雇用条件として運用するかではなかろうか。



というのも編集者が余りにも雇用者の神学的立場に合致することだけを戦々恐々やっていたら必要な冒険もできないだろうと思うからだ。


福音派の場合「神学的見解の相違」で神学校の教師が解雇される等の事件は度々起こるが、その度にこのようなコントロールの実質的意義はなんだろうか、と考えさせられるのだ。