2017年11月20日月曜日

クリスマス・バイブル・リーディング(2017)

初めての企画です。
CHRISTMAS BIBLE READING

次のような思いをしている方のための企画です。

クリスマスだなー、なんか教会にでも行ってみたいなー
 でもちょっと敷居が高いんだよな・・・。
聖書を読んでみたいなー
 でもどこから手をつけたらいいのか・・・。
英語に関心があるんだけどなー
 でもテキストを使って勉強みたいなことは面倒くさい・・・
 (英語に触れる、雰囲気を味わう程度でいいんだけど)

そういう方のための
CHRISTMAS BIBLE READING
のご案内です。

《日時》
第1回目
 12月1日(金) 午後1時30分~(1時間ていど)
 ※テーマは《ゴスペル》 ゴスペルとは「グッド・ニュース」のことです。

第2回目
 12月8日(金) 午後1時30分~(1時間ていど)
 ※テーマは《メサイア》 メサイアとは「ユダヤ人の王」のことです。

《プログラム》
大体次のような内容になります。
(※クラスではないので全部やらなければならないと言うことはありません)
 ・英語の聖書の「福音書」からクリスマスにちなんだ箇所を拾い読みします。
 ・選んだ箇所にちなんだ音楽を聴いてみます。
 ・お茶とクッキーを頂きながらゆっくりします。

《会場》
場所は教会ではなく、その隣にある工房のティールームです。


《費用など》
読む聖書箇所はプリントしたものをご用意します。
茶菓代と合わせ一人500円お支払ください。

《お問合せ・申し込み》
各回の2日前までにお申し込みください。
 ・メール、sugamo*yahoo.co.jp(*をアットマークに替えて)
 ・電話、03-3946-8035



 巣鴨聖泉キリスト教会(1965年創立)
170-0002 東京都豊島区巣鴨1-3-19
牧師 小嶋 崇

2017年11月18日土曜日

明日の礼拝案内

収穫感謝 主日礼拝

2017年11月19日(日) 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 14:8-18

説 教 題 「恵みの循環」
説 教 者  小嶋崇 牧師


※礼拝後、持ち寄り昼食会があります。

2017年11月17日金曜日

今日のツイート 2017/11/17

こんなツイートに出遭った。


イップスってなんだ?
が先ず最初の反応。
イップスは誰もがかかってしまう可能性のある精神的な症状です。
ゴルフ、野球だけでなく様々なスポーツ(メンタルが重要なもの)で、思い通りのプレーがどうしてもできず、症状として表れてしまうことです。(「イップスとは?」)
人文社会系・・・と断るのはこのツイート主がそこに属していて同僚である方々の観察から得られたものか、それとも見聞か・・・。

そう言えば、先日、内田樹が「大学教育は生き延びられるのか?」と自身のブログでかなり悲観的な観測を書いていた。(ある程度大変な状況は察せられたが・・・。)

どうもあちこちで制度疲労と云うか、機構改革が進まず労働者の心身にしわ寄せが集る実態を個別ケースで聞くようになった。


2017年11月11日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年11月12日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 4:15-18
説 教 題 「恵みが共にある」
説 教 者 小嶋崇 牧師


コロサイ(45)/パウロ書簡の学び(162)
手紙の締めくくり (コロサイ4:15-18)

2017年11月4日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年11月5日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 2:41-47
説 教 題 「毎日救われる人々が加えられた」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2017年10月28日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年10月29日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 4:1-22

説 教 題 「キリストのみ」
説 教 者 小嶋崇 牧師


宗教改革原理(4)

2017年10月26日木曜日

今日のツイート 2017/10/26

今日は(東京は)いい天気ですが、少しうら寂しいツイートです。
この方が通っていた教会の建物が売りに出され、それがコンドミニアムに改修されるというのです。

教会は「会衆」のことであると分かっていても、建物自体は「サンクチュアリー」というように地域コミュニティーにとって目に見える「精神的な意義」があるではないか、と訴えています。

教会建物が別の用途に改修される「トレンド」を数字で参照しています。

 ・2010-2015年に教会建物が売りに出される例が倍増した。
 ・別の用途に改修されるケースが2014-2015年で見ると三倍増。
 ・ワシントンDCだけでも31の別用途改修申請がある。

英国の同様のトレンドは話には聞いていましたが、新大陸でもそのようなことが進行している様子です。


2017年10月21日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年10月22日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 ローマ人への手紙 12:1-8
説 教 題 「一つの体と異なる賜物」
説 教 者 小嶋崇 牧師

主の祈りと実践(9)、礼拝と倫理5

2017年10月17日火曜日

(5)義認論ノート、7

どうやら「義認論ノート」は毎月1回ペースのアップになっています。

何とも時間のかかる連載になっていますが、目標としたところに着地するまでは続けるつもりです。


今回は「義認論」と「教会論」を教会史的に振り返るきっかけを与えてくれた論文を紹介したいと思います。



D. G. Hart, "The Church in Evangelical Theologies, Past and Future" in Mark Husbands & Daniel J. Treier eds. THE COMMUNITY OF THE WORD: TOWARD AN EVANGELICAL ECCLESIOLOGY, 23-40.


著者のダリル・G・ハートに関しては詳しいことはあまり知らないが、改革派のウェストミンスター神学校書店の紹介ページから17冊もの著作が販売されている。

現在のプロフィールとしては「外交政策研究所(F.P.R.I.)」というシンクタンクのアソシエート・スカラーとなっている。
感じとしては「アメリカ宗教史(プロテスタント/福音派)」研究から国防・外交に関わるアメリカの国家アイデンティティーとしてのキリスト教史研究へと多少シフトしているのかもしれない。
ハートの論文のテーゼをざっくり言えば、「(アメリカ)福音主義の教会論は無きに等しい。敢えて言えば「反・教会」論のようなものである。」という感じだ。

ここで言う教会論とは「職制」「聖礼典」を基礎とした制度的教会論のことで、宗教改革者第一世代から伝統として受け継いだものだ。

しかしその後ピューリタンたちが北米に移民して教会を形成して行く過程で、この伝統的教会論は「個人の宗教経験の真正性」を原則とする教会形成に次第にシフトして行き、19世紀の信仰復興運動によってもはやその枠組み自体が見えなくなるほど衰退して行った、と概観している。

かなり長い時間の間のシフトを論証するわけだから、スケッチのような叙述になるわけだが、ハートのテーゼをある意味シンボリックに示すある人物の自伝を通して、この大きなシフトを印象付けている。

その人物とはチャールズ・ホッジ(1797-1878)とほぼ同時代の人物、ジョン・ウィリアムソン・ネヴィン(John Williamson Nevin, 1803-1886)。

ハートの構図では、ネヴインは(保守の代表と目される)ホッジの対極にある、宗教改革者の伝統的教会論を受け継ぐ正統派なのである。

ちょっと長くなるがハートの論文からネヴィンの「生い立ち、信仰訓練背景」について書いているところを引用する。


He had as a boy at Middle Spring Presbyterian Church been reared “according to the Presbyterian faith as it then stood.” For Nevin this meant a form of piety that was covenantal and churchly, begun in baptism, and sustained by catechesis in the broadest sense to include family instruction and public worship, with the end of such nurture being communion in the Lord’s Supper. As Nevin summarized it,“In one word, all proceeded on the theory of sacramental, educational religion, . . . holding the Church in her visible character to be the medium of salvation for her baptized children.”1
This system of churchly devotion received a significant challenge when Nevin went off to Union College in New York. There he encountered a rival piety in which the individual and the pursuit of conversion and holiness had made the church virtually superfluous. According to Nevin, the revivalist-driven faith of New England Puritanism “brought to pass, what amounted for me, to a complete breaking up of all my previous Christian life.” He explained:
I had come to college, a boy of strongly pious dispositions and exemplary religious habits, never doubting but that I was in some way a Christian, though it had not come with me yet (unfortunately) to what is called a public profession of religion. But now one of the first lessons inculcated on me indirectly by this unchurchly system, was that all this must pass for nothing, and that I must learn to look upon myself as an outcast from the family and kingdom of God.2 (様々な強調は筆者)

ネヴィンが育った「伝統的教会論の枠組み(ハイ・チャーチなどとも称される)」と「個人的回心を最優先するリヴァイヴァリズム」、つまり chuchly vs. unchurchly、の対立が彼の中で火花を散らすように受け止められたわけである。
※この二つのシステムの対立に関して、ネヴィンの薫陶を受けた長老教会宣教師が宮城学院の歴史に関係していて、『宮城学院資料室年報』(2015年度)に出村彰氏が「合衆国衆国改革派外国伝道局50年略史」の解題で背景的なことを書いているので参考にしてみてください。(特に41-44ページ辺りのところにネヴィンのことが書かれています。)
ネヴィンは、前回義認論ノート 6で取り上げた「Aタイプのクリスチャン」ということになります。
 (A)(クリスチャン家庭に育ち)気がついたら「クリスチャンかなー、まだかなー」、と実ははっきりした自覚がないまま過ごしてきました。でも洗礼も受けていますし、クリスチャンといえばクリスチャンだと答えています。
ハートの論文では時系列的に、ジョージ・ホィットフィールド、ジョナサン・エドワーズ、チャールズ・フィニー、チャールズ・ホッジ、エドモンド・クラウニーを取り上げて論じます。

ネヴィンを規準としてみれば、これらすべての説教者・神学者たちは、新大陸でのキリスト教の発展・形成を、ルターやカルヴィンの宗教改革遺産の保持ではなく、個人的・体験的な方向にシフトしたイノベーターということになるわけです。

洗礼と結びつく「義認論」と「教会論」の関係でいうと、ハートの論文が示唆する重要なポイントは、新大陸におけるキリスト教が聖霊による直接的な恵みとして「個人の救いの体験」を強調することによって、(カルヴィンやルターが保持していた)制度的教会がサクラメントによって媒介する神の恵みという視点を弱めたということ。

つまりサクラメントである洗礼の意義がキリスト者の体験において弱められることによって、教会論と義認との繋がりは弱まり、個人の救いを明確化する「救いの順序」救済論との関係が強められるようになった(のではないか)ということです。


※英語で読むのを厭わなければ、ハートの論文はネットにて読めますので一読をお勧めします。

2017年10月14日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年10月15日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 4:7-14
説 教 題 「エパフラスの祈り」
説 教 者 小嶋崇 牧師


コロサイ(44)/パウロ書簡の学び(161)

同労者たち ③ エパフラス、ルカ、デマス (コロサイ4:12-14)

2017年10月7日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年10月8日(日) 午前10時30分

朗読箇所 Ⅱテモテ 4:1-5
説 教 題 「真理から耳をそむける」

説 教 者 小嶋崇 牧師

「真理」9

2017年9月30日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年10月1日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 2:41-47
説 教 題 「好印象を持たれる」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2017年9月23日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年9月24日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 ローマ人への手紙 12:1-8
説 教 題 「キリスト者生活は礼拝」
説 教 者 小嶋崇 牧師

主の祈りと実践(8)、礼拝と倫理4

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 (ロマ12:1、新共同訳)

So, my dear family, this is my appeal to you by the mercies of God: offer your bodies as a living sacrifice, holy and pleasing to God. Worship like this brings your mind into line with God’s. (KNT)

2017年9月20日水曜日

(5)義認論ノート、6

義認論ノート、5で以下のような「アウトライン」的なものを提示しておきました。

    今後の展望
     (1)教会員の資格問題
     (2)(聖礼典、特に)洗礼と教会員資格問題
     (3)教会史の流れ

これから書こうとしていることは筆者にとって「依然としてかなり込み入って見えている」ことがらです。

はたして読者にどれだけ伝えられるのか・・・あまり自信はありません。

しかし、概観的にボンヤリとでも何かが見えてくれば御の字としたいと思います。


(1)最初に押さえておきたいこと

それは、
「義認」と「洗礼」は、一世紀のキリスト教会において《体験》としても《認識》としても、ほぼ同じか密接に繋がっていた
であろうということです。

「パウロがロマ書やガラテヤ書で論じている義認は『救済論』でもあり『教会論』でもある」というN.T.ライトの立場を支持して「義認論」を考えてきた筆者としては「バプテスマ」を「義認」と結びつけることには大きなメリットがあると考えています。

それはバプテスマ(の体験)が、
 (A) 「義認(罪人を無罪と宣言し赦免する=罪の赦しを与える)」という救済論の側面と、
 (B) 「(バプテスマを受けて)教会員となる」という礼典、つまり教会論に関わる側面と
両方を最も自然に繋げてくれるように思うからです。

しかし、「義認」を「洗礼」と繋げて議論するのはそう簡単ではない。というか却って渦中に栗を拾うようなことになりかねない。そのような理由と言うか背景が実はあるのです。(実際このノートが遅々として進まないのは、あっちでこっちでこんがらかった糸をほどくような苦労をしているからです。

筆者は(どこかに書いたと思いますが)教派的には「ウェスレアン・アルミニアン」という流れに属します。ということはプロテスタントの大きな流れでいうと「英国国教会=聖公会」と「改革派」になります。

しかし19世紀末頃日本に伝わってきた「きよめ派」の背景で言えば、リバイバリズムや伝道優先的な体質で、ウェスレーのように礼典を重んじたりする点や、改革派のような信仰告白に基づく教理と神学の伝統も、あまり受け継いでいません。

要するに「義認」にしても「洗礼」にしても掘り下げて論ずるDNAが殆どないのです。つまり最初からハンディキャップがかなり大きかったと言えます。

「義認論」のため様々な資料を読んできましたが、自らの体験と比較照合することが殆ど出来ないばかりか、次々に新しい要素に遭遇してそのたび新規に学習しなければならないことが多々ありました。

ですから「知ったような顔で書いている」ように見えても、結構辻褄の合わないことが見つかると思います。そのあたりご寛容のほどよろしくお願いします。

それは簡単に言えば新約聖書の時代と、その後の教会史で「洗礼の意義や役割がかなり変化してしまった」ということです。(そしてそのことは、ライトが指摘したように、義認もまた新約聖書での意味から離れ拡大して運用されるようになったこととも並行しているのではないかと思います。義認論ノート、3参照)

ルターの宗教改革は、カトリック教会に定着した「サクラメント(洗礼はその中の一つ)」が孕んだ問題から出てきた腐敗や行き過ぎに対してあったわけですが、確かにルターは「信仰義認」の原則は打ち立てましたが、その原則で「洗礼」が関わる問題を一挙にクリアーしたわけではありません。

ご存知のようにルター派教会や改革派教会は依然として「幼児洗礼」を維持してきました。(しかし改革派の場合は後述するようにリバイバリズムの影響で礼典を重んずるハイチャーチの伝統はかなり後退します。)

それに対し急進派とされた再洗礼派は「成人洗礼」に徹することで新約聖書時代の教会の洗礼のあり方に戻ろうとしました。

混乱はいまも続いています。(先鋭化して論じられることはなくなったようですが・・・。)



(2) 身近な例を使って

「義認論」の問題を教会論(端的には「洗礼」)の角度から探るために、昨年の日本伝道会議分科会「ライトの義認論」でも使った「設問」をここでも使ってみようと思います。

念頭にあるのは、ライトが指摘した「義認の教理とはつまるところ『救いの確証』のためである」というポイントです。信仰生活、教会生活の背景が異なると「洗礼」と「救いの確証」が対照的な関係になることを示してみたいと思います。
 あなたは以下の二つのうち、どちらのタイプのクリスチャンですか?

 (A)(クリスチャン家庭に育ち)気がついたら「クリスチャンかなー、まだかなー」、と実ははっきりした自覚がないまま過ごしてきました。でも洗礼も受けていますし、クリスチャンといえばクリスチャンだと答えています。
 (B)ある伝道集会みたいなところで(「招き」とか言うのがあって、何となく前に出て行ったらいろいろカウンセリングがあって、最後に「イエスを個人的な救い主と心に受け入れます」と祈りました。その後、どこか教会に繋がる様にと勧められたので、近所の○○教会に通っています。はい、自分はクリスチャンです。
A タイプのクリスチャンとは、教会史的に言えばカトリック教会、そしてプロテスタントの中でも依然として「国家/社会と教会とが同心円的関係」やその名残のある教会です。幼児洗礼がスタンダードでしょうから成人してから「クリスチャン」とは何か???と悩んだり、あるいはただ習慣で教会に通うタイプです。

このタイプの(特に真面目な)クリスチャンは、「救いの確証」問題を抱える比率が高いと考えられます。(ルターやウェスレーが思い浮かびます。)

B タイプのクリスチャンとは、先に挙げた再洗礼派がさきがけといえますが、むしろ現代の福音派教会で伝道を通してクリスチャンになる方により多く見られると思います。

このタイプは「明確な回心」を経て教会に加わることが多いので、逆に洗礼とか教会とかは「後付のもの」に感じられる比率が高いと考えられます。

この「設問」のポイントは「洗礼」と「キリスト者の自覚」とが離れていることです。

A タイプでは自覚の伴わない洗礼(特に幼児洗礼)が大きな要因と考えます。

B タイプでは「回心主義」の福音派教会に典型的ですが、「個人の信仰(の決断)」が重要視され、先ず「回心=救いの体験」があって後「洗礼」がいわば「外面的なしるし」として追加的になされる傾向があります。これらの教会は「非典礼的」な傾向が強く、押しなべて教会論が弱体化しています。


以上がうまく「今後の展開」のイントロとなってくれるといいのですが・・・。

もしピンと来ることが少なかった場合は、このブログで書いた「福音のパラダイムシフト」を読むようオススメします。

高い比率で問題意識が共有されていますし、「洗礼」と「回心体験」とを近接させる必要を指摘しています。(特に、福音派のパラダイム・シフト②

また説明が足りていないですが、回心主義福音派で「洗礼」が「罪人の祈り」に典礼的側面を乗っ取られてしまったと テルフォード・ワークが Evangelical Sacraments: Supporting Cast for the Sinner's Prayerでズバリ指摘しています。

2017年9月16日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年9月17日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 4:7-14
説 教 題 「ユダヤ人同労者」
説 教 者 小嶋崇 牧師
コロサイ(43)/パウロ書簡の学び(160)

同労者たち ② アリスタルコ、マルコ、ユスト (コロサイ4:10-11)

割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です。(4章11節、新共同訳)
These three are the only fellow Jews I have among my colleagues working for God’s kingdom, and they have been an encouragement to me. (4:11, KNT)

2017年9月9日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年9月10日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ローマ人への手紙 4:13-25
説 教 題 「約束を実現される神」

説 教 者 小嶋崇 牧師

「真理」8


今日のツイート 2017/9/9

「デジタル・カラーリスト」って言われてもよく分かりませんが、こう言う風に突然出されると「えっ」とびっくりさせられます。



たとえば、白黒の(オリジナルの?)と両方並べて出されたらどう感じるのだろう・・・。

2017年9月3日日曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き3)

さて、できればこの回で終わりにしたいのだがはたしてうまく行くだろうか・・・。

(6) Peter Ochs, Another Reformation: Postliberal Christianity and the Jews (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2011)


去年の6月に購入して多分1ヶ月くらいかけて読了した。

実は「ディスカウント・プライス」で選んだわけで、手に届くまでは内容は殆ど分からなかった。

タイトルが『アナザー・リフォメーション』とあるので宗教改革500周年も控えているし・・・と思ったのもある。

さて読んでみるとかなりエンゲージング(力が入っている)なものでした。

 Contents
 1. Introduction: Christian Postliberalism and the Jews
Part 1: American Protestant Postliberalism
 2. George Lindbeck and the Church as Israel
 3. Robert Jenson: The God of Israel and the Fruits of Trinitarian Theology
 4. Arguing for Christ: Stanley Hauerwas's Theopractic Reasoning
 5. The Limits of Postliberalism: John Howard Yoder's American Mennonite Church
Part 2: British Postliberalism
 6. Finding Christ in World and Polity: Daniel Hardy's Ecclesiological Postliberalism
 7. Wisdom's Cry: David Ford's Reparative Pneumatology
 8. John Milbank: Supersessionist or Christian Theo-semiotician and Pragmatist?
 9. Conclusion: Christian Postliberalism and Christian Nonsupersessionism Are Correlative

(購入した時点では認識に入っていませんでしたが)著者はユダヤ人の方で哲学者です。プラグマティズムという米国の哲学の学統(スクール)がありますが、そのうちの一人チャールズ・サンダース・パースの論理学を特に研究したようです。


ユダヤ人の哲学者がなぜ何人ものキリスト教神学者の著作と取り組むのか。しかも単に概観するのではなく彼らの神学のロジックみたいなものを丹念に分析するわけです。

分析のポイントとしているのは(こちらは今度は自然なことですが)「置換神学(supersessionism)」をこれらの神学者たちがどのように意識し、どの程度「彼らの神学のロジック」で乗り越えているかということです。

しばしば「リペアー(修復)」と云うことが出てきます。「置換神学(supersessionism)」を乗り越えるとは、神学をどのように修復的にやっているかと言う事でもあるようです。

サブタイトルに「ポストリベラキリスト教」とありますが、著者はイェールで博士号を取得したのでそのことも関係あるみたいです。(ポストリベラリズム神学自体が特別に対象とされているわけでもないようです。)


筆者はこれまでそれほど「置換神学」を意識していませんでした。(この辺のことに敏感なのはリフォームド系やディスペン系だと思いますが。)

しかし一番印象に残ったのは「置換神学」が神学的に大きな比重を持っているみたいだ、ということです。

それは単に「キリスト教とユダヤ教関係改善」のために重要と言うだけでなく、「分裂(schism)」と云う問題に痛みを感じその痛みの出所を見極め修復する意思を持つ。そのために対話するという姿勢のゆえに重要だ、ということのようです。



(7)R. Kendall Soulen, The God of Israel and Christian Theology



こちらも「置換神学(supersessionism)」を問題にしています。

というかキリスト教の神学者として深くこの問題を掘り下げています。

200ページに満たない著作ですが、よく議論が練り上げられ、俎上に乗せる神学者も選びぬかれ、論点がはっきりするように書かれています。

最初にソウレンの名前を耳にしたのは、ロバート・ジェンソンのこの動画だったと思います。


しばらくウィッシュ・リストに置いたままにしていましたが、「読書の流れ」が段々とこちらの方向に来るようになったところで購入しました。(今年です。)

個人的に重要だと思った論点は(この本をちゃんと読めていればですが)・・・
「置換神学(supersessionism)」に影響を与えたのは、単に個々の神学者の教理的構築作業にあるのではなく、2世紀の教父たち、殉教者ユスチノスとエイレナイオスの正典聖書観が「標準的」になったことにある
というものです。

つまり、旧約聖書と新約聖書との繋がり方の捉え方が問題の基底にあるということです。

かなり啓発的な本でしたが、まだ把握し切れてない点も多く、再読が必要かと思います。


(8)David Rudolph & Joel Willitts, eds., Introduction to Messianic Judaism


ついにここまで来たか、という感じです。

なんのこっちゃと言われるでしょうが「メシアニック・ジュー」に関してはもう何年も前にジョゼフ・シュラムの「シオンとの架け橋」や、つい最近でもフルクテンバウム等、○○タイムで活躍する○川○一牧師らの「ヘブル的(ユダヤ的)○○」の連発を耳にして「どんなもんかなー」と思っていました。

これまで「面白そうな内容を持っていそうだぞ」という好奇心と、「なんか怪しそうだ、あぶなかしそうだ」との警戒意識と両方あったのですが、後者の方が優っていました。

しかしそんな見方を大きく変えたのがメシアニック・ユダヤ教(Messianic Judaism)の指導的神学者、マーク・S・キンザー(Mark S. Kinzer)でした。まだつい最近のことです。

「メシアニック・ジューとは何か」、今ここでしっかり取り組む必要がある・・・と思って適当な入門書を探していたのですが、これにしました。(キンザーの論文も入っています。)

まだ半分までしか読んでいませんが、勘は当たっていると思います。(置換神学の問題を含めて、キリスト教・ユダヤ教関係と云う大きな問題を理解する鍵を握るのがメシアニック・ジューではないかということ。)

「今後何らかのグループなり読書会なりを立ち上げて勉強したいテーマ」になるのではないか・・・と思っています。


2017年9月2日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年9月3日(日) 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 15:1-21
説 教 題 「信仰のみ」
説 教 者 小嶋崇 牧師

宗教改革原理(3)

...the Gentiles should hear the word of God and believe. And God, who knows the heart, bore them witness, by giving them the holy spirit just as he did to us. ...he purified their hearts through faith. (Acts 15:7-9 Kingdom New Testament)

2017年8月30日水曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き2)

宗教改革を越えて、ぼんやりと意識していた地平は「古代教父時代」だったわけですが、その地平はあまり深堀せず次に向かったのが「第二神殿期ユダヤ教」の地平でした。

第二神殿期ユダヤ教については筆者の見えている範囲でちょこちょこと書いたことはあるが、一番まとまっては第二神殿期ユダヤ教 ということになるみたいだ。

前回はこの中で最近(と言っても日本で、しかも保守的なキリスト者の中でということになるが)話題となってきたNew Perspective on Paulについて書いた。

「最近の読書に見る流れ」というタイトルで書いているので、具体的に本を取り上げていこう。

(3) Oskar Skarsaune, Reidar Hvalvik 編著、JEWISH BELIEVERS IN JESUS: THE EARLY CENTURIES (2007)
(4)ダニエル・ボヤーリン『ユダヤ教の福音書: ユダヤ教の枠内のキリストの物語 (2013)
(5)Amy Jill-Levine and Marc Z. Brettler eds., The Jewish Annotated New Testament (2011)



(3)についてはこの記事この記事で少し紹介した。

今回紹介するにあたっての関心事は、初期「キリスト教」と「ユダヤ教」との関係、そして「ユダヤ人キリスト者(民族的にはユダヤ人だがイエスをメシアと信じた者たち)」の歴史だ。

新約聖書時代はキリスト者、特に指導者は総じてユダヤ人であり、パウロの伝道を見ても地中海都市にあったユダヤ人会堂が舞台となっていた。

ざっくり言えばキリスト教はユダヤ教の一派であり、数世紀かかって二つは「分離(the parting of the ways)」したのだ。

原始キリスト教会の「ユダヤ教とキリスト教の関係」そしてある時から「二つが袂を分かった(the parting of the ways)」ことについては、最初にそれとして関心を持ったのは、Graham N. Stanton, A Gospel for a New People: Studies in Matthew を読んだ時だった。

スタントンはこの本の「パート2」でマタイ福音書(マタイ教団)の背景としてユダヤ人会堂からの分離問題を取り上げているのだが、この「分離」がほぼ一世紀中には終了している風な印象を抱いた。

しかしスカルサウネ編論文集を読むと場所にもよるが、その後数世紀に渡って関係が続いたと言うことを知った。

それまでキリスト教会は異邦人世界に浸透するに従い、ユダヤ人信者の存在もユダヤ教の影響も急速に衰退した・・・というイメージだったので、大幅にではないが、二つのグループの相互交渉・影響が数世紀続いたと言うことを知って何かほっとした感じだった。

(4)とボヤーリンについては既に紹介している。(この本は購入してではなく図書館で借りて読んだ。)

そしてその本の中の議論が使われている動画を「マルコ7章16節」問題として数回にわたって連載した。


ある意味この辺から「キリスト教」と「ユダヤ教」の境目が段々と微妙に映るようになって来た気がする。そしてユダヤ人(学者)が福音書に接する時の距離感の近さに対して、(現代の)異邦人学者の距離感の遠さに対する自覚のなさ、みたいなことを思ったりした。


(5)は前々から気になっていてずーっと「ウィッシュ・リスト」に入ったままだったが、「この流れ」が強まってきてついに最近購入した。

編著者の一人、エイミー-ジル・レヴィンについてはここで簡単に紹介している。(発音はレヴァインではなくレヴィンが近い。)

新約聖書についてユダヤ人の学者たちが多数集って「註解」や「関連論文」を執筆すると言うことは(本人たちの弁によれば)画期的なことだという。本当に最近になってから可能になったプロジェクトで、30年くらい前だったら想像も出来なかった、とこのポッドキャストで述懐している。

エイミー-ジル自身、メソジスト系のヴァンダービルト大神学部の教授を務めていて、「時代の変化」を表しているのだが、近年の「史的イエス」研究や「パウロ研究」でのユダヤ人学者たちの貢献はどんどん増えてきており、(いい意味で)刺激を与えているように思う。


いまの所は「へーそんなもんか」でやり過ごしているが、これらのユダヤ人学者たちが「新約聖書文書は(ある意味)ユダヤ教文書でもある」として研究を積み上げてくると、ちょっと意外な展開が将来起こってくるのではないか、とも感じている。


《次回予告》
いよいよ昨年から今年に入って読んできた3冊を紹介する(うち1冊はまだ読んでいる)。
これを書いておかないと「義認論ノート」の終わりの方に書くことがピンボケになるかも知れないので、それでこう言う形で書いて置くことになったわけだ。

2017年8月28日月曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き1)

前回紹介したのは

 (1)ロバート・ウェーバー『コモンルーツ』
 (2)ウィリアム・エイブラハム他編著『カノニカル神論』

の2冊だが、これら二つは宗教改革後の福音主義神学が理性主義に傾きすぎて、教会生活・信仰生活が(日本語でそれらしき表現を使うと)「情操」的に貧弱になってしまったと言う反省から生まれたものと言えるだろう。

その「欠落した」何ものかを宗教改革以前、特に「古代教父時代の遺産」に遡って探したわけである。

この記事は自分が購入して読んだ(読んでいる)本を軸に書いているのだが、それで言うと読んだことがないので話は逸れるが、この時点で紹介しておきたいのがトーマス・オーデンであろう。

彼はリベラル陣営の神学者でありながら、相対する福音派のロバート・ウェーバーとほぼ同時期にウェーバーと同じように「近代」から「古代」へとUターン した人物である。(オーデンの紹介記事としてインターバーシティ出版社サイトCTの記事をリンクしておく。)

この二人を比較対照するのは結構面白いことではないだろうか。

近代プロテスタンティズムの発露として「神学的リベラリズム」があり、それに対抗するように「キリスト教保守主義・正統主義」が位置するわけであるが、構図的には対立するウェーバーとオーデンが神学的には違う経路を辿りながらも、古代教会と云う同じ場所にUターン したわけである。

リベラル神学にせよ、(しばしば反・近代と思われている)福音主義神学にせよ、どちらも近代主義から来る「欠落」があり、それを自覚し、修正を求めて「古代教会の遺産」に向かったと言うことは、現代プロテスタンティズムを考える上でやはり一つの大事な動向であろう。
※当ブログで取り上げたゴードン・T・スミスの『福音派のパラダイム・シフト』⑤では福音派のアイデンティティーの一つである「回心主義」の背景となるリバイバリズムの歴史の見直しが指摘されており、その関連でウェーバーとオーデンが言及されていた。

New Perspective on Paulの地平

宗教改革を越えた地平の一つ目が「古代教会」とすると、次に取り上げる地平は「NPP(パウロ神学への新視点)」ということになるだろう。

NPPに関してはこのブログでも、N.T.ライト読書会ブログでも度々関連記事を書いたのでここでは特に取り上げようとは思わない。

ただ次に紹介する地平「第二神殿期ユダヤ教」に繋げる橋渡し的なことをメモしておきたい。

(1)OP 対 NPP

NPP自体は1970年代からの動向と見たり、W.D.デーヴィスの『パウロとラビ・ユダヤ教』(1948年)やクリスター・ステンダール(1960年代)を含めて言及したり少し幅があるが、新約聖書の背景としてのユダヤ教諸文書の研究の積み上げの中から出てきていることを見る必要がある。

パウロの「義認」理解に関し、宗教改革の伝統的解釈(をOPと呼んだりする)に対して「新しい視点(NPP)」を提案したのは、このアカデミックな研究の積み上げからの一つの例、一つの適用と云う点が理解される必要があると思う。

しかし伝統的解釈の立場の者たち(主にリフォームド)はこれをあたかも「OP 対 NPPの直接対決・全面対決」のような受け止め方をする傾向がある。

その理由は幾つかあると思うが次の二つは大きいだろう。

 (a) NPPはパウロの「義認」理解のために新約聖書正典外 の様々な情報を多く採用する。
 (b) OPの伝統的「義認」理解を支持する者たちは宗教改革以来の聖書解釈原則である「聖書テクストの自明性(perspicuity of Scripture)」)に依拠した神学、教理的解釈に終始する傾向がある。

つまり(a)と(b)はコインの裏表のような関係であり、聖書テクストへの光の当て方において方法論的対立を抱えていると言える。(もちろんそれが全てではないだろうが・・・。)

さらなる対照として、NPPの方はより「歴史的文脈に即した聖書テクスト理解」を志向するのに対し、OPの方は「『義認』に対して与えられている教理的・組織神学的意味を保全する聖書テクスト理解」を目指しているように見える。

以上は昨年「N.T.ライトの義認論」で討論をした当事者としての体験から感じたことで、やはり方法論的アプローチの違いが大きいと思う。

(2)「教理」対「聖書(スクリプチャー)」の関係

パウロの「義認」とその関連語で織りなされている聖書テクストをどう読むかと云う問題は、ある立場から言えば「教会の存立基盤」に関わる最重要教理問題であり、単なる(というと語弊があるが)一聖書テクストの解釈問題では済まないのである。

しかしその認識が強すぎるために、教理的拘束性が聖書テクスト解釈の幅を制限していないか、との問いは立てられてしかるべきだろう。

完成形、と思われた教理的構築物である「(信仰)義認」をもう一度パウロの手紙の中に解き放ち、歴史的文脈が指し示す「地平」(一世紀ユダヤ教の文脈にあるパウロの福音の全体像)を見渡してもう一度再構成する、そのような「宗教改革を越えた」試みが求められているのではなかろうか。


というわけで、次はいよいよ「第二神殿期ユダヤ教」に関わる本の話題に入って行きたいと思います。



2017年8月26日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年8月27日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 使徒の働き 4
:32-5:11
説 教 題 「善い行いと欺き」
説 教 者 小嶋崇 牧師

主の祈りと実践(7)、礼拝と倫理3

2017年8月25日金曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ

英語のタイトルにすれば、Horizon(s) Beyond the Reformation 、とでもなるだろうか・・・。

今年は宗教改革500周年でこの1~2年いろいろな関連で宗教改革を改めて考える機会があった。

礼拝説教でもいつもの年より余計に取り上げている。

しかし(ここで標題に戻っていくのだが)ここ1~2年(プラスさらに1~2年)の購入図書の中で目立ってきているのは、宗教改革に戻るよりもその先の事柄ではないかと思っている。

「宗教改革に戻るよりもその先の事柄」ってなんかあまりよく分からないなー。

確かに。

つまりこう言うことではないかと思っている。

昨年は日本伝道会議の分科会で「N.T.ライトの義認論」と取り組んだ。

「(信仰)義認」は宗教改革の基本原理であり、宗教改革を記念するとなると「信仰義認」の再確認・・・ということが大切なことなのだろう。

しかし、昨年の会議でも一緒に話題となった「NPP(パウロ神学への新視点)」が一つの例だが、500年前の「原理」を再確認するとは「一世紀に生きたユダヤ人パウロの『意味の地平(horizon)』」にまで遡らなければならない、ということではないか。

21世紀の地点に立って500年前を見るとき、ルターやカルヴィンなど宗教改革者の生きた時代は(あまり深入りしなければ、そして焦点を500年前に合わせるだけであったら)独立峰に見えてしまうかもしれない。

しかし少し立ち入って調べて行くと独立峰に見えたものが周辺に幾つものピークを持つ結構入り組んだ山容に見えてこないだろうか。

パウロが使った「義認」という言葉(関連語)も、宗教改革の伝統に基づいて構築された「義認論」の景色から目を「一世紀ユダヤ教の諸相」に焦点を合わせると、「行為義認vs信仰義認」の対立というそれまで一本に見えていた山の稜線 が、背景にある山容の複数の稜線と実は重なって一本に見えていた のだということに気づく。と、そういうことがあるのではないか。

そういったような「対象との距離の取り方や背景との遠近による見え方の違い」を「地平(ホライゾン)」にたとえてみたのだ。

そして「対象に近づいていくと、(その背景の)地平も変化する」ということだ。(この辺のことはもっと具体的に説明して行く必要があるだろうが・・・。)



さて前置きはその辺にして最近(購入した本の)読書で変化してきた「地平」を紹介してみよう。

(1)Robert E. Webber, COMMON ROOTS



上のものが初版で、まだ米国留学早々の頃に出版されたのを購入していたが、読む機会がなかった。

帰国後牧師となり、周辺で「福音主義の霊的枯渇」みたいなことが囁かれ始め、ヘンリー・ナウエンなどが読まれるようになってロバート・ウェーバーの「宗教改革前、教父時代への遺産への意識」みたいなものが少しずつ「いつか読まないとなー」になっていた。

しかし結局読むことになったのは、下の方のデーヴィッド・ネフの序言が付いた改装版を廉価で見つけ購入したからだった。

ネフの序言にはウェーバーがこのような教父時代への「Uターン」をするきっかけがまさに自分自身の「福音派としての霊的枯渇の自覚」からだったことが綴られている。

『コモン・ルーツ』には巻末付録に「シカゴ・コール」(1977年)があるが、翌1978年の(聖書の無誤に関する)「シカゴ声明」との関連とズレが微妙にネフによって指摘されています。(ちなみにウェーバーがこの本を出版後まもなくあのハロルド・リンゼルを義理の父とする、というのも一種の皮肉ですかね)
  Here is something very important. Harold Lindsell, an iconic figure of the midcentury evangelical movement  who was to become Webber's father-in-law shortly after the publication of Common Roots, saw the content of the Chicago Call (which formed the backbone of this book's theological reflection) as a defense against the subjectivism of liberal theology. That was the battle that he, Carl F. H. Henry, and others among the charter members of the Fuller Seminary faculty had fought. By contrast, Webber saw the content of the Chicago Call as a way of renewing and reawakening people to the Spirit amid the objectivism of evangelical rationalism. (p.11)

(2)William Abraham, 他編著、Canonical Theism: A Proposal for Theology & the Church


こちらは購入したのは数年前だが、同著者の「正典」と「認識論(エピステモロジー)」の関係を説いた、William J. Abraham, Canon and Criterion in Christian Theology: From the Fathers to Feminismこの本の紹介記事)を読んでいたので迷わず購入した。

こちらはウェバーとはアプローチが多少異なるが、福音派神学と実践の限界を見通した上でその前(宗教改革前)のカトリックの教父たちの構築した聖書に限らない「正典的」遺産に注目している。(キャノンとはリストのこと。正典聖書のリスト以外にも、聖徒たちを建徳し、救いの恵に保持する様々なリストがある。)


(どうやら一回では終わりそうにない。継続とする。)

2017年8月24日木曜日

(5)トランプ政権と福音派キリスト教

「ドナルド・トランプと福音派キリスト教」というタイトルで何回か投稿した。

まだ日本で宗教的背景が良く知られていない共和党大統領候補としてのトランプを追跡してみようと思って20158月から始めたのだが、大統領になって以降は更新していなかった。

初めから「?」が沢山付く候補だったからこそ、その素性・人となり・(特に)宗教的背景や傾向に対する米国福音派の関心や支持に関するメディア情報を追跡してみた。

はっきりしたことは、大統領候補者としての人間的・人格的な資質がキリスト教的に見ても疑問点が多い候補者なのに、結果的に福音派から(一般が驚くほど)高い支持を得て大統領に当選したことだ。(福音派が当選させた、という意味ではなく・・・。)

これによって米国福音派への見方がトランプに対する見方とより密接に繋げられるようになったことは明らかだろう。

就任からしばらくは「選挙戦中の過激な言動も大統領の仕事をする中で収まっていくだろう」との期待があったが、混乱につぐ混乱で、まもなく「いつ弾劾手続きが取りざたされるようになるだろうか」に変わった。

トランプを大統領候補として支持することと、大統領となった後その働きぶりを見ながらなお支持し続けることの違いが、福音派と自称する方々の間でも「良心の痛み」計でいうと我慢の限界点に達したことを表明する記事が出てきている。

その幾つかを紹介するが、最初のものだけ少し解説する。

ピーター・ウェナーは引用した中にもあるように、政治の世界でキャリアを積んだ方であり、レーガン(父)ブッシュ大統領に仕え、(子)ブッシュ政権では大統領の演説草稿作成部のナンバー2だった人とのこと。その発言内容はそれなりの重さを持つものと思われる。

三箇所引用したが、二番目の引用では(筆者強調部分)「政治」の限界を踏まえつつ政治を通してどのような努力がなされるべきか述べている。

その政治観からしても、トランプ政権の数々の逸脱や規範無視といった振る舞いは目に余るものであり、もはや支持し続けることは福音派自身の信頼性を危険に晒す域に入っている、と警告している。

では、なぜ福音派(の多くが)落第点続きのトランプ政権を支持し続けるのか。それはトランプ共和党への党派的忠誠と既得権力への固執を自分たちのキリスト教信仰が求める行動基準よりも優先させているからだ、との見方を示している。

Evangelicals, Trump and the politics of redemption
By Peter Wehner | August 11, 2017

But the worry is that now that the election is over and there is no binary Trump-Clinton choice, many evangelical Christians have lost the capacity to hold the president accountable when he transgresses norms, violates principles and acts in malicious ways. In fact, they have become among his most prominent and reliable public defenders.

Ive worked in politics much of my adult life, including in presidential campaigns and at the White House. I understand that governing involves complicated choices, transactional dealings and prudential judgments. No one ever gets things exactly right, and all who choose to serve deserve our prayers for wisdom. Politics is certainly not a place for the pursuit of utopia and moral perfection; rather, at its best, it is about achieving the best approximation of the public good, about protecting human dignity and advancing, even imperfectly, a more just social order. That is why Christians shouldnt exile themselves from politics.
But with political involvement come temptations and traps, and it is the responsibility of Christians to act in ways that maintain the integrity of their public witness. And that is why this moment is so troubling. It seems clear to me, and I think to others, that many evangelicals, even unwittingly, are subordinating the Christian faith to partisan loyalties and political power.

Im speaking out at this time because Im a Christian who places himself in the evangelical tradition and senses that some important lines have been crossed, some significant damage is being done, and some substantial repair work needs to take place. I hope others who share these concerns who might feel anguished by what they perceive as the abuse of their faith will take a stand in their own lives and in their own way. We can all be part of a politics of redemption.


以下は、ワシントン・ポストのサラ・ポズナー記者、牧師であり政治社会問題への発言も豊富な現オーバーン神学校副学長のポール・ラウシェンブッシュ、そしてポールが記事の中で言及した『ホワイト・キリスト教・アメリカの終焉』を2016年著したロバート・ジョーンズの『アトランティック誌』への一部抜粋です。



白人福音派、白人キリスト教、と多少キリスト教諸派のくくり方は異なりますが、トランプ現象への視点としてはそれぞれ共通していると思います。

By Sarah Posner August 17


White evangelicals have long demanded that political figures display piety, religious fluency and a clear commitment to a biblical worldview.
Yet evangelicals have jettisoned these requirements in favor of Trumps combativeness. Why?

Paul Brandeis Raushenbush

Robert P. JonesJul 4, 2017

 

2017年8月21日月曜日

(5)義認論ノート、5

義認と教会論: 一世紀のキリスト教会においては

「義認」を救済論との関連で論ずるのを不思議がる人はいないと思いますが、さて教会論との関連 だとどうでしょう・・・。

ということでそもそもの発端である「N.T.ライトの義認論」にまた戻ってみます。


ライトの立場を支持する筆者のテーゼは: パウロの義認の教えは「救済論」と「教会論」(と、ライトは理解している)、というものでした。

用いた資料義認論ノート、3で紹介したマクゴワン論文と同じ論文集『Justification In Perspective』にライトが書いたNew Perspectives on Paul から引用した特に次のパラグラフです。
このサブセクションの主要論点の第一は、これら二つのこと(罪の赦しを与えられた罪びとを正しいと宣告し、そして、多民族による一つの家族の一員であるこ とを宣告する)はパウロの脳裏では緊密に連携している、ということである。さらに言えば、後者の論点(家族への所属)がロマ書3章やガラテヤ3章ではとて も重要であると主張することが、前者の論点(神の法廷で義と宣言された者の一人とされる)の重要性を軽減するものではない、ということである。

このポイント(契約神学が下敷きになっている)は多少見えにくいが決定的に重要である。すなわち、神がアブラハムと契約を結んだのは、[旧約]聖書の大枠 から言っても、パウロにおいても、アダム来の「罪」とその影響を除去し、良き創造のわざそのものとして完成に導くためである。かくして、神が罪の赦しを宣 言し、また契約の民の一員と宣言することは、詰まる所、二つ別々の事柄ではないのである。
恐らく「厳密に言えば(義認の釈義的許容範囲内に限定すれば)」義認は「罪人を(キリスト・イエスのゆえに)義しい」と赦免する宣言であり、一世紀以降の異邦人キリスト者がマジョリティーとなっていく教会のコンテクストでは第一義的には救済論的に扱われるのが自然になったのだと思います。
 
しかしライトが主張し、指摘しているのは一世紀の教会において、アブラハム契約の祝福を約束された「神の民」はユダヤ人だけでなく、異邦人も含まれており、「アブラハム契約」の視点からそれまでは「ユダヤ人(イスラエル民族)」と「異邦人(諸民族)」という二つの異なる契約関係にある者たちが「キリスト・イエスにあるという原則」において同じ一つの民になる、ということなのです。
 
この契約関係的に「イスラエル民族と諸民族」という二つに分かれていたものが「メシア共同体(メシアのからだ)」を通して一つになったのはいかなる根拠・いかなる原理によるのか・・・を説明するために取られたのが、「律法の行い」ではなく「(福音に対する)信仰」の原理において、という議論であったということです。
 
引用したライトの論文では、この義認に関する「契約関係における民族間の問題」が前面にあることをロマ書3章の次の箇所を指摘してさらに続けて訴えています。
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(ローマ3:29-30、新共同訳)
 
しかし、長い間(約1800年くらい?)キリスト教会からこの「一世紀における二つの民を繋ぐ」問題が消えていました。そのためパウロがロマ書やガラテヤ書で主張した「(信仰による)義認」をこの「民族の契約関係調整」の視点から具体的に考察する機会がありませんでした。
 
「キリスト・イエスにおいて更新された契約」に入る(言わば)長子の権利を主張する(できる?)人々(ユダヤ人) が長い間出てこなかった、とも言えます。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒2:39、新共同訳)
あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」 (使徒3:25-26、新共同訳)
そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。(使徒13:46、新共同訳)
「義認」の教義的理解にとっても最重要であったこの「一世紀の教会における民族関係問題」という歴史的文脈が視界から遠ざかった後は、教会論は次第に義認論の表舞台から退場していったように見受けられます。
 
宗教改革になって救済論が神学的議論の主役を演じるようになると、義認論はもっぱら救済論との関係で論じられるようになり、宗教改革の第二・第三世代以降(プロテスタント正統主義の時代)は、教会論の弱体化も手伝って、もっぱら「個人の救いの体験」(「救いの順序」)における諸懸案(義認と新生、信仰と新生、義認と聖化、など)との関連で論じられるようになったようです。

 
今後の展望
 
「義認」と教会論の関連をさらに論じて行くにあたり、二つの重要な関心事項があります。
 
(1)教会員の資格問題
 中世カトリック教会や宗教改革後の国教会のような「国家社会と教会」が同心円のような関係にあったいわゆる「クリステンダム(キリスト教文明)」の条件の下での「義認と教会」を考察する必要があります。
 
(2)(聖礼典、特に)洗礼と教会員資格問題
 宗教改革以降、聖礼典に与ったような“外面的”な教会員の教会ではなく、救いの体験を持った「聖徒たちの教会」へと改革を推し進めて行く中で「義認と教会」の関係を見て行く必要があります。
 
(3)教会史の流れ
 
 これらの関心事項を以下のような教会史の流れと関連させながら概観して行きたいと思います。
 
一世紀の教会では、ロマ書やガラテヤ書で論じられたように、「義認」はイスラエル民族と異邦人諸民族がどのような原理原則で「一つの神の民」となるか、という問題でした。
 
しかし、二世紀以降、さらにキリスト教がローマの国教なると、ノミナルなクリスチャンと聖徒らしいクリスチャンとごっちゃになったような教会をどうしたらいいか、という方向に「教会員問題」は向かいます。
「教会らしい教会」をと改革運動が進む中で宗教改革が起こります。
しかし、国教会的なシステムでは「聖徒だけの教会」は難しく、再洗礼派のような急進的な改革は一部に限られます。
 
英国国教会から逃れ、新大陸に移ったピューリタンたちが改革路線を進めますが、この時「教会員」を「救いの体験」を証しすることが出来る者に限定する制度が定着していきます。
この流れは「リバイバリズム」運動とも重なって、個人の救いの体験を重視することにより、組織的・制度的教会を軽視しする流れが強まります。
すなわち「パイエティズム・信仰復興運動」の背景を持つ福音派の「教会論」が後退して行きます。
 
このような流れの中で「洗礼」と「義認」の密接な繋がりが見えなくなり、教会の実践において「回心」と「洗礼」が分離していきます。
 
大雑把に言えば・・・中世のカトリック教会的教会形成原理から、宗教改革原理を徹底した自由教会形成原理へと移行して行く中で「義認」の意味・位置が変化して行くことを辿ってみたいと思います。
 
いわば「義認」の「教会論的文脈の変化」を「マクロな(=大風呂敷な)視点」から追跡した雑多な思いつきの寄せ集めに過ぎないですが、例証・傍証取り混ぜながら述べて行きたいと思います。



2017年8月19日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年8月20日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 4:7-14
説 教 題 「心が励まされる」
説 教 者 小嶋崇 牧師
コロサイ(42)/パウロ書簡の学び(159)
 

同労者たち ① テキコとオネシモ (コロサイ4:7-9)

2017年8月17日木曜日

今日のツイート 2017/8/17

カトリックの学者の方らしいが・・・恐らく悪意は殆どないと思われるが・・・何かしら「対立的で、少し挑発的な響き」を感じたので・・・取り上げさせていただきましょう。

プロテスタント側には「30、000の教派」がある。
「(それだけ多いと)一括りにできるようなものではない」。
「カトリックではない」という定義がプロテスタントの「最大公約数的なアイデンティティ」。

ですか・・・。

真っ先に思うのは(筆者がプロテスタントだからですが)、「ルターがカトリック教会から破門された」ことが引き金となってプロテスタント(教会)が生まれたということでは、カトリック教会は(3万のプロテスタント諸派の)今日的状況と無関係ではない、ということ。

やはりその辺りの当事者意識が余り感じられないような物言いは注意が必要だろう。

次に「30、000の教派」だが、これはカトリック側が(主に?)プロテスタント教会の信頼性を損ねる目的でしばしば使われるポイントだと言う。

つまり「カトリックvsプロテスタント」という対立的な構図での「数字による攻撃」で、プロテスタント側も「数字で反撃」している。(余り建徳的だと思わないので引用紹介は控える。)

次にカトリック教会の「本家意識」は無理もないと思う。「キリスト教の正統を護ってきた」自負はそれなりに認められてしかるべきだと思う。

しかしその場合でも「本家から分岐したグループ」をそれなりに把握する歴史意識は大切だと思う。


次に正教会側の「本家意識」をどう考えるのだろうか。
Due to a variety of complex circumstances, the Western church, known today as the “Roman Catholic Church,” split from the Eastern Orthodox Patriarchates of Constantinople, Jerusalem, Alexandria, and Antioch in the 11th century. Roman Catholics, however, see it from the opposite perspective, namely that the Orthodox Church broke communion with the Roman Catholic Church.
カトリック教会は正教会側が分離したと考えているが、カトリック教会が正統である東方正教会から「分岐」したのではないか・・・。

と、このサイトではそのあたりの歴史事情をさらに資料に当たって調べるように奨めている。


その中の一冊として、ティモシ・ウェアー『正教会入門』(新教出版、2017年)があがっているのでオススメだろう。

さらにユダヤ教/イスラエルとの関係ではどうなるだろう。


もともとがユダヤ人ではなかったキリスト者(の教会)は総じて「接ぎ木された野生のオリーブ」の意識でいる方が健全ではなかろうか。(ローマ人への手紙11章17節)


と、そんなことを思わされた午後であった。

2017年8月14日月曜日

(3)神学ジョーク、2017年 N.T.ライト


かつて「神学的ジョーク」の冒頭で書いたことですが
ジョークと言うのは英語圏でのパブリック・スピーチにおける必須なものです。
シリアスな内容の講演でも、その導入にちょっとしたジョークを入れることで聴衆の食いつきが良くなりますからね。
その中でも「神学的なもの」となるとやはりTPOになり、どうしても「宗派・教派の違い」をネタにすることが多くなるようです。(アリスター・マグラースの場合は“浸礼派”バプテストでした。)

今年5月の“Discerning the Dawn: Knowing God in the New Creation"という講演の冒頭、ライト師が使ったのが「神論」に関わるジョークでした。


(ジョークは1:00~2:10くらいのところ)

引き合いに出されたのは、John W. Bowker(著名な学者です)。

彼がある時忙しい合間を縫って招かれていた米国のどこかの講演に行ったときのこと。


講演題が・・・『今日の世界で「神」を語る』(Speaking of God in Today's World)・・・みたいな感じのことで、飛行機の中で一応内容をささっとまとめて颯爽と会場に出向き、何とか時間にも間に合い講演を始めました。

講演を締め括るに当たって
If the doctrine of Trinity didn't exist, we'd have to invent it.
と高らかに宣言し講演壇を離れました。

すると聴衆からは雷鳴のごとき拍手喝采。

隣の席の(別の)講演者が、「いやー、勇気ある、踏み込んだ発言でした。」

(ボウカー)「別にそんなこと言っていませんよ。しごく教理的にオーソドックスではないですか・・・。」

(隣席)「いや、ボウカーさん、この会議はユニテリアンですよ。」

(ボウカー)「じゃ、なぜみんな拍車喝采しているのですか。」

(隣席)「いや、ボウカーさん、彼らはあなたのアクセントが気に入ったんですよ。」



というわけで、ライト師のアクセントがアイリッシュか???みたいなところから始まったジョークでした。

2017年8月13日日曜日

(4)キリスト教原理主義と福音主義

先日、「(3)藤本満『聖書信仰』ノート、10」を書いたばかりだが、その前の「(3)藤本満『聖書信仰』ノート、8」と「(3)藤本満『聖書信仰』ノート、9」で「ファンダメンタリズム」を扱ってから、あらためてジョージ・マースデンの『Fundamentalism and American Culture』を読み直している。それも結構ゆっくりと。

今回書くことは「『聖書信仰』ノート」に入れても良かったが、風呂敷を広げすぎて(筆者も読者も)混乱するといけないので、独立させた。(なお「アメリカ宗教史」研究、関連の展開は「宗教と社会小ロキアム@巣鴨」プログにて取り上げようと思っている。)

昨年から今年と、トランプ大統領がもたらした旋風は米国福音派だけでなく、日本の福音派にとっても「パブリック・イメージ」の問題だけをとっても結構大きな意義があるように思う。

※たまたま今朝ツイートしたこの記事は的確にその辺の事情を捉えていると思う。


「ファンダメンタリズム」や「福音主義」のような基本的用語の整理ももっとしていく必要があるだろうなー、などと思っていたら意外なことに「日本の福音派のアイデンティティー」に関し長らく研究発表してきた宇田進氏の文章が「いのちのことば社」のウェブサイトにあるのを見つけた。

ここにリンクを貼っておこう。

「原理主義」と「福音主義」 第1回 ファンダメンタリズムの原点は?(前半)

「原理主義」と「福音主義」 第3回 エバンジェリカルをめぐって─アメリカ教会と日本教会(前編)

「原理主義」と「福音主義」 第3回 エバンジェリカルをめぐって─アメリカ教会と日本教会(後編)


冒頭
   このたび、4回にわたり特に「キリスト教原理主義」について拙文をつづることになったが、正直言って≪戸惑い≫を覚えている。
とあるのだが、「第2回」というのが見つかっていない。

一読して(この文章が書かれたのが割合最近だとすると)次の部分がやはり気にかかる。
 ブッシュ政権の“在り方”については大いに論ずべきであるが、ことファンダメンタリズム・福音派に関する著者の見方は、従来から日本のメイン・ラインの教会の中に広く流通してきたものの反復にほかならない。結局、忌避・拒絶 以外の何物でもない。
 以上のようないわば“定説”とも言えるネガティブな見解とは対照的な“稀なる見解”が最近登場している。それは、一定の理解と評価をともなった古屋安雄氏(聖学院大学)の見解である。
 古屋氏は前掲書の中で、一章を「日本の福音派」にあてている。種々問題を論じながらも福音派の成長に注目し、「日本においても福音派に期待するのである。日本基督教団をはじめとするいわゆる主流派の諸教会がいつまでも混迷と混乱のなかにあるならば、福音派の諸教会がそれこそ〈主流〉となる日がやってくるかもしれない」と“オープンで前向きな見解” を披瀝している。
 かつてウィリアム・ホーダーンは、エバンジェリカルはリベラルなものを一生懸命学ぼうとするが、その逆はほとんどみられないと指摘したことがある! また、プリンストン大学の社会学者ロバート・ウスナウは「リベラル派と福音派の両者とも、互いに相手の最も悪い面ばかりを前面に押し出し、それぞれの“よい部分”をまったく見ようとしない」とも批判している(『アメリカの魂のための闘い─福音派・リベラル派・世俗主義』(1989)。日本のキリスト教界はまさにその典型である!(強調は筆者)
過去に(もちろん今でも尾を引いているが)対立した自由主義、根本主義/福音主義両陣営がそれぞれに対する見方をすり合わせながら共に学ぶような機会がまだまだ少ないのだと思う。


以上、不要で不幸な混乱に巻き込まれないためにもなるべく正確な歴史知識を積み上げて行きたい。