2013年9月21日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月22日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ピレモンへの手紙 1-25
説 教 題 「受容力」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(114)
コロサイ・ピレモン(17)

2013年9月18日水曜日

佐藤優「キリスト教神学概論」その後

最近、佐藤優「キリスト教神学概論」へのアクセスが多い。

このブログでは上記タイトルで3回記事にした。
第1回
第2回
第3回

残念ながら、この記事が参照しているリンクはすべて削除されたようである。
わざわざ当ブログを訪れた方に申し訳ないが、こちらとしてはどうしようもない。

余計なことかもしれないが、やはり言論界の人としては、一旦ネットに掲載したものを、気に入らないから(かどうかはよく分からないが)と言って書き改めるにしても、あれだけ連載したものは、アーカイブとして残しておくべきではなかったか。

現在は、前シリーズと同じく、webheibonサイトで、日本人のためのキリスト教神学入門、として再開されている。

当ブログでは「主に神学ブログ」を時々アップしているが、念のためこの佐藤優氏のブログも候補に入れておこうかどうか考慮してみたい。

と言う訳で、ご報告まで。

訂正とお詫び

昨日のブログ記事「(2)明日から『イエス入門』読書会」としましたが、一日間違えてしまいました。

18日(水)からではなく、19日(木)から開始です。

ご迷惑をおかけした方にはお詫び申し上げます。

以上、訂正と、明日19日(木)から開始の『イエス入門』読書会のご案内でした。

2013年9月17日火曜日

(2)明日から「イエス入門」読書会

今日は気持ちのいい秋晴れの日。

明日からリチャード・ボウカム「イエス入門」読書会が始まる。

読書会を始めるにあたって、日本語で読まれている「イエス」についてのベストセラー本2冊と、最近の「史的イエス研究」を反映しているかもしれない論考とを手にしてみた。

先日は若松英輔氏の『イエス伝』(中央公論連載中)を紹介した。

「イエス」についての本は日本語でも沢山あるのだろうが、先日図書館から借りてきた「ベストセラー本2冊」とは、

遠藤周作「イエスの生涯」(1963年、新潮文庫)
荒井献「」イエスとその時代」(1974年、岩波新書)

である。

小説家と古典文献研究家の書いた「イエス」である。
多分どちらもかなり売れた本だと思う。
(筆者はどちらも読んだことがなかった。)

2冊ともボウカムの「イエス入門」と比較した場合、さすがに最近の「史的イエス研究」と言うことで言えば古いと言わざるを得ないが、何かしら拾ってみようと思う。

小説家遠藤の「イエスの生涯」では「誕生」のことは触れられていないが、「復活」については触れられている。

エマオに旅する弟子たちの物語(ルカ福音書24章)から、彼らの心のうちに「イエスは生きている」と言う感情が湧き上がった事は事実に相違ないが、弟子たちの生前のイエスへの思慕だけからは「イエスを神の子と神格化する」その後の歴史は成立し得なかったはずだ。

弟子たちには、「別の次元から何か筆舌では言えぬ衝撃的な出来事が起こったと考えるより仕方がない。」

と遠藤は推論する(248-249ページ)。

イエスの復活を目撃しなかった我々は、以上のべたような謎をふしぎに思う。なぜ弟子たちはたち直ったのか。なぜ弟子たちは荒唐無稽な、当時の人々も嘲笑した復活を事実だと主張しつづけたのか。彼らを神秘的幻覚者だとか、集団的催眠にかかったのだときめつけるのはやさしいが、しかしそれを証拠だてるものも何ひとつない。謎はずっしりと重く我々の心にのしかかるのである。(250ページ)
遠藤には「謎」として残ったこの「復活」について、ボウカムは次のように言う。
イエスに起こったことについて原始キリスト教徒たちに同意するには、彼らを取りまく宗教的世界観のいくばくかを少なくとも受け入れることが求められる。・・・でなければ、せいぜい次のようにいう程度にとどまってしまうだろう。イエスの死によって深く幻滅していたイエスの弟子たちに、神が彼を死人の中からよみがえらせたと信じさせるような非常に特別なことが起こったに違いない、と。日本人作家の遠藤周作が彼の作品『イエスの生涯』(1978年)の中で語ったように、・・・。(178ページ)

ここまででやや息が切れてきた。
荒井献「」イエスとその時代」(1974年、岩波新書)についてはまた別の機会があれば取上げよう。



2013年9月15日日曜日

(4)福音派のパラダイム・シフト⑧(完)

ゴードン・T・スミスの小論
The New Conversion: Why We 'Become Christians' Differently Today 
 
を要約・粗訳し終って感じていたのは、いささか大風呂敷であることと(紙面の制約から仕方がないことだが)各論への詳述が足りなさ過ぎ、と言うことだった。

2回に渡って「個人的所見」を述べてはみたが、何となく終えた感じがしない。
夏の間は放置していたが、ここらでちゃんと締めくくりたいと思う。

最後に筆者が試みたことは、もう少しスミス自身について知り、また聞いてみたい、と言うことだった。

幸いゴードン・T・スミスは自身のHPを持っている。

動画の方は「回心」に関連しそうなものは見つからなかったが、音声ファイルの中に適当なものがあった。

The Conversion Experience and the Intellectual Vocation.
  1. Track 1
  2. Track 2
  3. Track 3
  4. Track 4
  5. Track 5
  6. Track 6 
この講演では特に知識人の「回心体験」を自伝的にか伝記的にか「ナレーティブ」として残されたものを丹念に追跡し分析を加えている。

古典的なオウグスティヌスやジョン・ウェスレー、幾らか最近では、G・K・チェスタートンやC・S・ルイス、もっと最近ではヒトゲノム解析を指揮したフランシス・コリンズらの名前を挙げているが、実際に論評しているのは次の4人である。
1. ブレイズ・パスカル
2. シモーヌ・ヴェイユ(彼女の場合はキリスト者への回心は未完であった。)
3. George Grant
4. Paul Williams
スミスは「仕事として」沢山の「回心体験物語」を読むと言うが、これらの知識人たちの「知的問題を含んだ霊的遍歴」から「回心」と言う、個々人にとってはユニークな体験でありながら、神学的に見た「共通要素・過程」を跡付けられるのではないか、と言っている。

なるほどこれを聞くと、スミスはこの小論において、ただ色んな人物の名前を挙げているだけでなく、「回心体験」を学際的にしかし統合的に捉えようとしているのかが窺い知れる。

スミスは思いの外雄弁であったし、よくリサーチしている、と言う印象を受けた。

「福音派のパラダイム・シフト」と言うネーミングはちょっと眉唾に聞こえたかもしれないが、肝心なポイントは、19世紀から20世紀のリヴァイヴァリズムの「回心」を導いたり(「四つの法則」「爆発する伝道」)、あるいはそれによって得られた体験を記述した言語は「型枠」で限られていて、「回心」における知的・霊的複雑さや深さを捉えきれない・・・と言うことを実証したかったのではないかと思う。

少し乱暴にまとめれば「回心体験」とは、実に霊的に深い体験だ、ということだろう。

自身の体験としてこの講演の中でも語っていたが、1970、1980年代「回心」を神学的に講義するための教科書はリチャード・ラブレースのものしか見当たらなかったが、1990年代以降どんどん面白い研究が出てくるようになった、と述懐している。

スミスはどうやら「体験」の神学の可能性と有用性を提唱しているようだ。

と言うわけで、8回かけたこのシリーズもこれにて終幕としよう。
お付き合い下さった読者の皆様に感謝。

2013年9月14日土曜日

(1)近況報告2013年9月

一年の中でも色々波はあるものです。

4月半ば頃でしょうか、冬眠から覚めて少しずつペースを掴み始め、6月から7月にかけてピークを迎えた後、なだらかな下降線に入ったと思っておりましたら、9月間近になる頃でしたか、何かじわじわと疲れのようなものが出てまいりました。

そんなことでブログの更新もここに来てかなりスローペーストなっております。

こう言う時は慌てず騒がず、あまり背伸びをしたような記事は狙わない方がいいかもしれないと少し思っております。

読書のペースもかなり落ちましたね。
必要以外のものにはなかなかてが出ません。

どちらにしても、もう大分前から「勢いで何かをやるような年」ではないので、その辺りどう自分を調整していくか上手くやって行きたいのですが、やはり年齢を重ねながらその都度探って行くことなのでしょうね。

年頭「メリハリ」「オン・オフ」を目指して少し冒険もしたいと思ったのですが、夏の小旅行でそれはある程度実現できたと思うのですが、まだまだとも思うのです。

ともすると「あれもしなければならない、これもしなければならない」と言う思いになりやすいのですが、その辺もう少し「気持ちの整理」をすることで、現実は変わらなくとも受け止め方によって少しでも「心の余裕」を確保できるようになりたいものです。

最近少し読み出した本で、Jack Levison Fresh Air: The Holy Spirit for an Inspired Life


があるのですが、前々から読みたいと思いつつそのままにしていたのですが、やっと購入しました。

すぐ読み通す必要はないと思っています。
何らかのヒントをくれればそれでもいいと思っています。

今のところのヒントは、ブリージング、息をすることです。
息をすることに意識を向けるみたいなことと先ずは受け取りました。

もちろん「息」はヘブル語でルーアッハ。
ルーアッハは霊でもあり、風でもあります。

読んでから、時々「息をすること」を「霊」のことを考えたり、思ったりしています。
まだ微弱な「思い巡らし」ですので、「なるほど」などと言うことはありません。

三日坊主系ですから、ただ「思い返したように」息をすることを霊と絡めて・・・でいいかなと。

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月15日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ピレモンへの手紙 1-25
説 教 題 「兄弟として回復される」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(113)
コロサイ・ピレモン(16)

2013年9月9日月曜日

(3)南部バプテスト連盟

これはたまたまの記事です。

まっそれ自体は大したことない、などと言うとバプテスト連盟の方から顰蹙を買ってしまうので、説明しますと、

「大したことない」のはこれから紹介することではなく、筆者が単に英語圏ブログを巡回してて見つけた記事、と言う点が「大したことない」と言う意味です。
記事の中身が「大したことない」のではなく、筆者がたまたま見つけたこと自体が「大したことない」と言うだけです。

なんかかなりくどい説明から入って申し訳ありません。

北米のプロテスタント教団で最大のものは、the Southern Baptist Conventionです。

その理事長に初めてアフリカ系アメリカ人がなった、と言うのが昨年の大会でのニュースですが、そのフレッド・ルーター・ジュニア牧師は2013年の大会で再選され、それが筆者が巡回する「英語圏ブログ」の一つであるトレヴィン・ワックスのキングダム・ピープル・ブログで紹介されていました。(この記事

実はなぜ記事にしたのかと言うと、次の表現に引っかかったからです。
His ascendancy to the presidency in the SBC grew from decades of service within the denomination.
この後文章は、フレッド・ルーター・ジュニア牧師どのようにして理事長にまで選ばれるかその経緯を説明しています。

気になったのは、ascendancyと言う語です。
訳せば「(理事長職に)登り詰めた」とでもなるのでしょうが、教会と言う「組織のトップになる」と表現することはそれほど不自然ではないのかもしれませんが、「アフリカ系アメリカ人初」と言うことも合わせて「強調」されているように感じます。

たまたま昨日の午後、近くの巣鴨ときわ教会(日基)で「荒井献講演会」があり、話を聞いてきたのですが、その中で「下に上る」と言う話をしていました。

詳細は忘れてしまったのですが、ピリピ2章6-11節のような「ケノーシス」 的理解で行動することを言っていたのだと思います。
そのような行動を取ることを「下に上る」と表現したのだと思います。

別にトレヴィン・ワックスが「権威主義的な人」とか言う話ではありません。
ただ彼が、フレッド・ルーター・ジュニア牧師が南部バプテスト連盟理事長に「なる」ことを、ascendancyと表現したことに筆者が違和感を感じただけ、と言うほどの「大したことない」話なのでした。

※ 南部バプテスト連盟に所属する日本人の牧師でしょうか、2012年の大会でのこの「歴史的出来事」を簡潔に報告しているブログ記事です。

2013年9月8日日曜日

(4)神学遍歴⑨

プリンストン神学校時代で忘れてならないのは、神学校の方だけではなく、プリンストン大学での聴講だった。


(上の文章は神学遍歴⑧のイントロと同じもの。)


前回は
もう一人のプリンストン大学の名教授の一人、ポール・ラムゼイ教授のことは次回に回します。
(て言うか、正直言うと、一度に名教授二人について書くのは大変だからです。笑)
で終わったので、その ポール・ラムゼイ教授について。

彼についてググッても、「現代的実存と倫理 (1970年)と言う邦訳書がヒットするだけで、ウィキ記事もないようだ。

では何か書くことに意義もありそうだ。






Paul Ramsey (December 10, 1913 – February 29, 1988)は著名なキリスト教倫理学者であり、H・リチャード・ニーバーの弟子の一人でもある。

筆者がプリンストン神学校に在籍したのは、1981-2年なので、彼のクラスを聴講した時はもう引退間近の頃であったかもしれない。

クラスの名前は忘れたが、かなり大教室のような記憶がある。
多分アンダー・グラジュエートだったのだろう。

探せば当時の講義録がどこかに残っているはずだが、面倒くさいので、記憶に残っていることだけを書く。

多分プリンストンに来る前から、彼の名前は知っていたはずだ。
ただどのようにして彼のクラスの聴講許可を取ったのかは覚えていない。
チャールズ・ウェスト教授(この記事参照)のTA(ティーチング・アシスタント)の一人が仲介してくれたのかもしれない。

ラムゼイはキリスト教倫理学の教科書としてもよく使われる、Basic Christian Ethics、「義戦論」や「生命倫理」、などで有名だが、なぜかこのクラスの熱っぽく語っていたのは、ジョナサン・エドワーズだった。


The Nature of True Virtue
Love, the Sum of All Virtue

辺りから講義をしていたのであろう。

とにかくエドワーズを絶賛していたように思う。

残念ながら当時の筆者には「ジョナサン・エドワーズ? 誰それ?」、と言う感じで、余り印象には残らなかったのだが・・・。

そんなことも合わせてこの追悼記事が参考になるだろう。

デューク大学に寄贈された「ポール・ラムゼイ・コレクション」の書簡の中には、
Roland Herbert Bainton,
Emil Brunner,
Daniel Callahan,
James M. Gustafson,
Richard A. McCormick,
Rollo May,
H. Richard Niebuhr,
Reinhold Niebuhr,
等の他に
Richard M. Nixon,
Eunice Kennedy Shriver,
Sargent Shriver
等の名前もある。(リンク) 

2013年9月7日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月8日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ローマ人への手紙 5:1-11
説 教 題 「私たちを義とする神」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《キリストの十字架》⑦

2013年9月4日水曜日

(4)カトリックと聖書⑥(完)

とうとうここまで長引かせてしまいました。

最初に、Vital編集長・世古淳さんに掲載をお願いしてから2ヶ月が経ってしまいました。


ここのところ少々夏ばてかすっかり勢いがなくなってしまっています。(ぼやき)

さてとにかく気合を入れてこのシリーズを終わらせたいと思います。


『信仰年』ーー聖書を取り戻した公会議  (2013年6月)「神との出会いの場」の残り(最後)の部分を引用します。

 しかし公会議は、一部の保守派が望んだ、「啓示の源泉は聖書と聖伝の二つである」という言い方には組みせず、むしろ啓示の源泉は神であって、この二つはそこから流れ出て、一体をなすものだとしています。これが意味することの一つは、私たちが出会う、また出会わなければならない、「神のことば」とは、聖書の字面ではなく、キリスト自身だということです。だから聖書を読むということは、「お勉強」をするということではなく(それも必要でしょうが)、人によって、また同じ人でもその時の状況によって、違った見え方、聞こえ方のする聖書のことばを通して、神様が今、「私」に語りかけるかもしれない、そのような出会いが待っているかもしれない空間に足を踏み入れる、ということなのです。
 公会議はこのように、神様との貴重な出会いの場のひとつを、私たちの信仰生活に取り戻してくれたのです。     
 世古 淳(せこきよし) (Vital編集長)
近代的(と言う表現にも些か問題があるかもしれませんが)聖書学に対する取り組みはプロテスタントに遅れを取ったかもしれませんが、第2ヴァチカン公会議以降のカトリックの歴史批評学の分野での聖書学との取り組みは貧しい筆者の知識から言ってもなかなかのものであります。

レイモンド・ブラウン神父、ジョセフ・フィッツマイヤー神父、ジョン・P・マイヤー神父などの名前がすぐ挙がります。

しかしある意味後発だからこそ、「聖書の権威」を高調するプロテスタントが近代化の過程で格闘するはめになった「聖書の闘い」のような、字義主義的聖書主義の問題や、聖書解釈を巡る哲学的問題の整理などを慎重に進めることができたように思います。

もちろん何の論争もなかったということはないでしょうが、プロテスタント内での「聖書論」を巡る激しい闘争は避けてこられたのではないでしょうか。

聖書そのものを『神の啓示』とほぼ同一視するかのように思われる極端な「聖書主義(ビブリシズム)」を念頭に置きながら、啓示の源泉を「神/キリスト」に遡らせ、聖書と言う文書群を客観視する視点を確立しようとしていることが上記の引用にも現れていると思います。

このような態度は「穏健な聖書学の学風」を持つ英国聖書学者であるN.T.ライトにも共通します。
ライトはその著書、The Last Wordで、聖書の「間接的な権威」を次のような表現で定義しています。
the phrase “authority of scripture can make sense only if it is a shorthand for “the authority of the triune God, exercised somehow through scripture.” (Last Word, p.23.)
(「ライトの聖書観」についての筆者のある場所での「発表」については、ここにまとめておきました。)

既にこのブログでも取上げましたが、
『教会における聖書の解釈』① 
『教会における聖書の解釈』② 
『教会における聖書の解釈』③ 
『教会における聖書の解釈』④ 
『教会における聖書の解釈』⑤ 
『教会における聖書の解釈』⑥ 
「聖書の字面」と表現されているように、「聖書を取り戻す」過程で克復しなければならない問題として、聖書の歴史的・文化的背景を無視するような、平板な解釈をする『ファンダメンタリズム聖書解釈』が反面教師となっているように思います。
 
カトリックが『ファンダメンタリズム聖書解釈』をかなり問題視していることについては、①と⑥に書き留めておきました。

以上、最後は息切れで青息吐息のまとめになってしまいましたが、改めて記事の全文掲載と論評を快く許可してくださった世古さんに感謝します。