ラベル ヘブル語聖書 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ヘブル語聖書 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年5月15日火曜日

今日のツイート 2018/5/15

久しぶりの「今日のツイート」です。

「キアスムス(交差並行法)」
 旧約聖書によく見られる「文芸的(リタラリー)技法」のことですが、ジェームズ・ジョーダンと云う方が「6書(ヘクスタチューク)」を交差並行法の視点で分析した結果がこうなったというツイートですね。

※「キアスムス(交差並行法)」についてはこの紹介などいかがでしょう。

2015年3月29日日曜日

(3)英語圏ブログ紹介⑭

こちらも久し振り。

たまたま今朝[注、もう書き始めて2週間が経ってしまいました]目にした記事が簡単で良かったので・・・。

ピーター・ライトハート(Peter J. Leithart)



FIRST THINGSという"America's most influential journal of religion and public life"と自分で謳うほどのカトリック論壇誌でブログ(コラム)を持っている神学者です。

最近始めた「英語圏神学者」に加えてもいいかもしれませんが、コラムの記事は殆どが「短い断想」系でその点で少し規準に合わないかなと思いますので「英語圏ブログ」でご紹介・・・。

義のための器官
We die to sin in baptism, Paul says. Liberated from sin, we are to devote the members of our bodies to God and His righteousness. We already participate in Jesus' resurrection; His resurrection power is already at work in our bodies (Romans 6).
私たちはバプテスマにおいて「罪に死」んでおり、罪から解放された私たちはその体を神と神の義のささげものとする、とパウロは言います。私たちは既にイエスの復活に与っているのであり、その復活の力が私たちの肉に働いている、と言います。(ローマ人への手紙6章)

では「私たちの体・器官が義のための道具になっている」とは一体どんな感じのことを言っているのでしょう・・・とライトハートは問いかけます。


(と、ここで早くも道草)
何代か前の自民党首相で「言語明瞭意味不明瞭」 と言われた方がおりました。

単に日本語で読めるからと言ってその意味がいつでも明瞭か、と言うとそうではありません。

言葉の意味はその言葉だけでは成立せず、最低でも一つの文章と言う「意味の単位」に置かれた中で明瞭となります。
(実際には意味の単位はなるべく「大きく構える」ことが大切であることを、たった2回で中断してしまった『聖書入門』シリーズで書きました。特に「分かるようで分からない聖書入門、2」参照。)

小学校5年生で受洗した時に聖書をもらい、それから段々と通読も含めて聖書を読むようになったのですが、日本語で読めるということは聖書を理解する時にしばしば勘違いを起こしやすいのではないかと長い経験から筆者は思うのです。

単に字を読めたことを「理解」と勘違いしやすい、ということです。

通読などしていると、ほぼそんな感じで読んでいることがしばしばです。
理解しようとして読んでいないのですね。

理解するためには、読んでいる箇所をある程度意識的に「解釈」する(=意味を定める)必要があります。

これは訓練が必要です。
「一体パウロはここで何を言っているんだ」、と読んで分かったつもりにならないで、「意味を問う」ステップを作るのです。


(と、ここで本題に戻って)
「私たちの体・器官が義のための道具になっている」とは一体どんな感じのことを言っているのだ?

このようにライトハートが読者に「意味を問う」ているわけです。

ライトハートの提案は「体の器官」に注目して、聖書中に「文学的繋がり」を探す、と言う手法です。

言葉は文学(神学も文学ですが)的な表現になればなるほど、背景となる、あるいは参照枠となる他の文学表現があるものです。

パウロの書簡も含めた新約聖書の場合、最も緊密な関係にあるのはヘブル語聖書ですから、その中で類似の表現や思想を探して参照する、と言うのがオーソドックスなやり方です。

ライトハートが提案するのは詩篇15篇です。
15:1 主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。

Our feet walk perfectly (v. 3)
 それは、完全な道を歩き、

and our hands work righteousness (v. 4).
 正しいことを行う人。

Our hearts are true (v. 5).
 には真実の言葉があり

We don't misuse the tongue (v. 6).
 には中傷をもたない人。

Our eyes make appropriate judgments, despising a reprobate and honoring those who fear the Lord (vv. 9-10).
 主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び

Our tongues swear and we keep our oaths, even to our own loss (v. 11).
 友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
この後は「体の諸部分」から、その「延長」としての 「富の使用」へと移行する。

「義のために体の器官をささげる」」とは、利息を取ったり、賄賂を受け取ったりしない、と言う意味になります。
金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。

※新共同訳から引用。





2015年1月13日火曜日

(5)マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか、②

さてマルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか①から一週間が経ってしまった。

今回は動画でのボヤーリンの解説を紹介することになっている。
まだ十分咀嚼出来たとは言えないが、「まあこんなもんだろう」的なものに結局なるであろう。


United Bible Societies編のギリシャ語新約聖書では16節を本文から削除しているわけであるが、ボヤーリンは明らかに「16節はもともと本文に含まれていた」との見地から(『陰謀説』を含めた)議論を展開している。

そのことを先ず肝に銘じておく必要があるだろう。

議論・解説は大ざっぱに言うと、2つの部分からなっている。

一つは7章全体(実際は1-23節の部分と思われるが)の受け取り方について。
もう一つは15節と17節を繋ぐべき16節の意義について。

※ボヤーリンは戦略的に「大きな文脈」から自説を展開するが、ここでは「小さな文脈(15-17節)」から見てみよう。

①小さな文脈(7章15節から、17節辺りにかけて)
外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。(新共同訳7章15節)
そして「消えた16節」が続き、17節
イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
では、とボヤーリンは問いかける。
一体「たとえ」はどこにあるのか、と。

ここで16節を見てみようではないか、とボヤーリンは提案する。
聞く耳のある者は聞きなさい。
ボヤーリンは、これが「たとえ」を導入する時の定型句であることを強調する。
それ故ボヤーリンは結論する。「15節はたとえだ。たとえに違いない。」

※さてこれに続く説明が理解に苦しむものとなるので、果たして読者の皆さんを納得させられるか甚だ自信がないが、とにかくやってみよう。

以下先ずはその部分を逐語筆記したたものを提示する。
The literal sense is exactly what it says in the book of Leviticus and the book of Deuteronomy.
A person does not become impure by putting things into the body but by the things that come out from the body.
And then he says, "Let him who has ears to hear hear," which means this is a parable and has a figurative meaning.
 「その後イエスは弟子たちに『まだこのたとえが分からないのか』(と言い)
and he explains, the things that go into the body don't make us impure but the only things that come out to TEACH US SOMETHINGS, namely, to teach us the MORAL and RELIGIOUS POINTS that when we think evil thoughts...when we do evil things, when we speak evil things, that we are behaving in a wrong way.
となっている。

ボヤーリンが言わんとしているのを推理してみると・・・、
(1)(15節の言は)レビ記と申命記にある通りの意味だ。
(しかしイエスのポイントはそこで終わらず、それを梃子にして・・・)
(2)イエスが指摘しようとした比喩的な意味は、(人の中に入るものではなく)人から出るもの・・・人を教える道徳的や宗教的教え・・・が「悪い思い・行い・言葉」となって出る時、それらは間違ったものとなる。

と言う風になっているようだ。

この辺でもうこんがらかってきたので、次回に譲るが、(1)の「レビ記と申命記にある通り」は何を指すのかがちょっと疑問だ。

恐らくレビ記11章、申命記14章の「汚れた動物」とそれに関連する「食物規定(カシュルート)」のことだと思うのだが、その場合
「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
という言はこれらの二つの箇所に「そのままある」のではなく、「字義通りの意味」として、レビ記11章、申命記14章に見られる「食物規定」が指すとおりのものである、と言うことではないかと思う。

補足すれば、・・・おっとこれでは歯止めがかからないのでヤメ。

次回に。





2014年6月9日月曜日

(2)分かるようで分からない聖書入門、1

 突然「一つの聖書入門」シリーズを始めることにします。

 守備範囲は以下の如く。
①キリスト者
②「ヘブル語聖書」も含めた「キリスト教聖書」に関心ある方
③「世界文学」として『聖書』に関心ある方

 つまりはどんな形にせよ、 「キリスト教聖書」を手にとって読まれる方を対象にした、適当に広く、時々深い「聖書読者入門」と言うことでよろしくお願いします。

 「聖書の専門家でもなく、たかが一牧師の分際で、なぜ入門の手ほどきが出来るのよ?」と言う声が聞こえてきそうです。

 確かに一牧師は「聖書の専門家」と言うにはおこがましい。
 あくまでも一牧師として、実際に人に教えて来た者としての実験的、実際的『入門』と言うことでご了解いただければ・・・。

 あのー、それから断っておきますが筆者の「入門」は親切ではありません。

 入門的な事柄を網羅しません。

 あくまでも筆者の独断と偏見による「これは知っておいていいよ」と言う程度のものであります。

 で、取り扱う事柄には大分バラつきがあることを前もって予告しておきます。

 引用したりする場合は、日本聖書協会の『新共同訳聖書』を標準とします。(必ずしもこの訳の方が良いと言う意味ではありません。)


 以上前置きはそこまでにして・・・。

 では先ずごく簡単な殆ど誰でも知っていること。
3×9=27
※もし「なぜ数式から始まるのか?」、と思われた方がいましたら、こんな聖書入門をやった甲斐があったというものです。

 キリスト教聖書にとっては、「新約聖書」とともに「旧約聖書」と呼ばれる「ヘブル語聖書」を合わせて一つの聖書とする立場からは、この数式は「聖書の中には幾つ本があるの」かを覚える昔から使われてきた一種のあんちょこなのです。

旧約聖書は全部で39書
新約聖書は全部で27書
新旧合わせて全部で66書

となるわけでございます。

 これでお分かりでしょう、3×9=27は聖書にある本の数を新旧と分けて暗記するためのものであることが。

 これで終わると「なんと簡単な聖書入門。読むだけ無駄。」と思われるかもしれません。
 別にそれでも構いませんが、少しだけ尾ひれをつけて第1回目を閉じることにしましょう。

 正典聖書(ここでのポイントは「典」ではありませんのであしからず。)

 正典(カノン)とは「リスト・目録」のことを言います。

 つまり教会が信徒を教導するのに適した権威ある「聖書の本」はどれとどれか、と言う正典を定める過程を経て、現在のようにプロテスタントですと全66巻となった・・・と言うことなのです。

 ちなみにカトリック教会では全73巻と7つ多いのですが・・・。

 ところでこんな数覚えて何の役に立つの、と言う疑問を持たれた方の為に。

 正直別に試験があってそのために覚える・・・みたいな必要はないから「関係ない」とも言えそうなのですが、やはり膨大な聖書を「イメージしておく」ために便利だと思うんです。

 まっPCのハードディスクにデータを入れる時に「仕分け」される時のシステムみたいなものに似ている感じとでも言いましょうか。

 「あっ、あのデータはどこにあったっけ」みたいな検索が必要な時、頭の中に66巻の「書名」とか「章数」が入力されていると、後々整理が楽なのですよ。

 と言うわけで最初は余り気が進まないかもしれませんが、適当に覚えて行って下さい。きっと役に立ちます。

 ところで、余談ですが、筆者が北米の神学校に入学する直前の夏休み、学校の方から「入学前の準備」として聖書全巻、「各章毎の要約」を書いておくように、と言う指示がありました。

 全部で何章ある?

 例えばグーグルで「聖書全体で何章」で検索しても答えがありそうなページは見当たりません。

 英語で、How many chapters in the Bible?ってググると、すぐ出てきます。

 で、自分で計算しないで(暗記していないので)そちらからの情報をお借りして記しますと、

 旧約聖書・・・全929
 新約聖書・・・全260
 合計・・・1,189章、となります。

 へー、一夏で1,189章分の要約を書いたんだあの時・・・。

2014年5月9日金曜日

(5)トマス・C・レーマー教授講演会

今日ICUでの講演会へ行ってきた。

元はと言えばこのツイートが始まり。

もしかしたら面白いかも・・・と思って早速サーチしてみたが、値段を比較したら英訳書より邦訳書の方が幾らか安そうだったので、筆者としては珍しく「旧約聖書」関連の「邦訳書」を入手することにした。(筆者にはこれでもかなり高い!)

しかし、と言うかやはり、入手後積読状態になっていた。

今年に入って少し4月付近から余裕が出てきたところでパラパラと読み始めていた折、このツイートが。


で行く前に、少しコレージュ・ド・フランスのウェッブサイトでレーマー教授のご講義をうつらうつらしながら聴いてみた。(今日、本人の英語を聞いて、やはりこちらのサイトでの英語は別の人のものだと思った。)

講演のタイトルである、Dark God: Cruelty, Sex, and Violence in the Old Testamentは既に英訳されて昨年発売になっていた。(アマゾン北米、なお簡単な要約書評。さらに講演での「性(ジェンダー)」に関わる唯一神観の問題と講演タイトルにある「ダーク」に関してはレーマー教授の論文が別にあり、ここで要約と論文を入手できる。これもかなり刺激的。)

講演はそのダイジェスト版のようなもので、パワーポイントのプレゼン資料が用意されていた。(後でネットで提供されると聞いた。)

このようなタイトルの本が刊行される背景としては、脱キリスト教文明のヨーロッパにあっても、「暴力」と繋がる「ユダヤ・キリスト教神観」を提示する(旧約)聖書は放っておけないらしい。

最近でも英国の「急進的」福音派と目されるスティーブ・チョーキが「刑罰代償説(penal substitution)」を、"cosmic child abuse"、と表現して北米ニオ・カルヴィン主義者たちの顰蹙を買った。

詳細は今後ネットに紹介されるだろうプレゼン資料に委ねるとして、筆者のざっくりとしたレーマー教授の研究態度や業績の初期印象を述べる。

現在ヨーロッパで、しかもコレージュ・ド・フランスのような高等研究機関で、聖書学「だけで」研究を続けるのは大変なことなのではないか。

先に紹介したウェッブサイトの講演題を見ても、如何に現代人に関心を持ってもらえるか、その切り口を工夫しなければならない状況、を感じた。

かと言ってレーマー教授が興味本位に研究していると言うことではなく、むしろかなり幅広く、横断的に資料や情報を整理して著作や講演にまとめている。その点かなりコミュニケーション能力が優れている。

古代中近東の文献や考古学的業績を渉猟しながら、現代人に関心持てそうなものを上手く救い上げて提示してくる。

その時の聖書解釈の視点が、時にやや強引に感じなくもないが、とにかくチャレンジングな視点を提供してくれる。

今回の講演における「性」や「暴力」は、しかしレーマー教授が開拓したのではなく、読者からの要請でまとめたのだと言うことだ。


とにかく旧約聖書の編集史(マルティン・ノートの学説の現代的適用可能性の見極め)から始まり、新たに発掘される情報を総合しながら、幅広く「ヘブル語聖書」の歴史と世界を「解釈学的にチャレンジングな形で」提示してくれるレーマー教授は、キリスト者向きと言うより、より一般(大衆)読者向き、の文脈にいるのかもしれない。


その点は本人自身の信仰の保守性はさておき、新約聖書学におけるリチャード・ボウカムの博識と学問的業績に似ているかもしれない。


質疑応答の時間の途中でICUの知人と会うため退席したが、久し振りの緑豊かなキャンパスでののびのびした時間を楽しむことが出来た。

(次回は「トマス・C・レーマー教授講演会・補遺」とでも題して、この知人との話を記事にしたく思っている。と言うのも筆者にとってはこちらの方が内容的に刺激が多かったからだ。)