2013年5月30日木曜日

20世紀のキリスト教書ベスト10

昨日の読書会の余波みたいなネタです。

読書会に出席したのはもう一つ目的があって、筆者が出版企画に関わった(このブログの常連読者嫌になるほどご存知の)スコット・マクナイト「福音の再発見」をプロモーションすることと、税抜き販売することでした。
昨日は筆者も入れて14名参加しましたが、なんと4冊も購入して頂きました。

ところで参加者の一人がリチャード・B・ヘイズの新約聖書のモラル・ヴィジョン

のことを話していたので、その本が果たして筆者が購入した、Richard B. Hays, The Moral Vision of the New Testament と内容的にどう重なるのかを調べていたわけです。

そうしたら何とヘイズの1998年刊のこの本が、クリスチャニティー・トゥデー誌の行なった「20世紀のキリスト教書ベスト10(100)」にランクインしていたのです。さすがにベスト10には入っていませんが、100の中に入っていたのです。Books of the Century

ちょっと驚きでした。と言うのも、筆者がこのブログでも盛んに名前を出す、N.T.ライトでさえまだ一冊も入っていないのに・・・。
(※新約聖書学者としてのキャリアはヘイズが少し先行するとは言え、ほぼ切磋琢磨するようにして現在の英語圏新約聖書学の重鎮としての地位を築いた二人です。)

と言うわけで、調べたついでに「ベスト10」についてツイッターで連ツイしました。
以下にまとめます。

1. C. S. Lewis、Mere Christianity
・・・読んだがそんなに強い印象は持っていない。

2. Dietrich Bonhoeffer, The Cost of Discipleship
・・・これは印象深い。So absorbing

3. Karl Barth, Church Dogmatics
・・・残念ながら手に取る勇気がない。(内容ではなく、ボリュームの問題)

4. J. R. R. Tolkien, The Lord of the Rings (trilogy)
・・・これは読んでいないが映画でいいんじゃないかしら。(ファンに怒られそうだが)

5. John Howard Yoder, The Politics of Jesus
・・・文体的には少々読みこなすのに難がある(似通うテーマのボンヘッファーのCofDと比較して)、でも考えさせる本。

6. G.K. Chesterton, Orthodoxy
・・・これこそクラシック、てやつだろうね。でもまだ読んでいない。最近Kindle版をただでゲットしたのでそのうち。

7. Thomas Merton, The Seven Storey Mountain
・・・これは縁がないなー。マートンの名前は以前から良く聞くのだが・・・。

8. Richard Foster, Celebration of Discipline
・・・これはアズベリー神学校での同級生からプレゼントしてもらったので目を通した。それなりに得るところはあったように記憶する。

9. Oswald Chambers, My Utmost for His Highest
・・・霊性関係の本が続くが、敬虔主義/ホーリネスの背景で育つと少し辟易感があるのだよねこの種の本。でも必要。

10. Reinhold Niebuhr, Moral Man and Immoral Society
・・・読んだ頃はその洞察に深く感銘したが、今は少し距離を置いて読めるかな。


ところでこの「ベスト10」についてのもっと丁寧な紹介をあめんどうのクレオパさんがブログでアップしていますので、こちらをどうぞ。

それからリチャード・B・ヘイズの新約聖書のモラル・ヴィジョンRichard B. Hays, The Moral Vision of the New Testamentとの関係については、こちらが参考になるでしょう。

別に頼まれたわけではありませんが、N.T.ライトが英国を代表する新約聖書学者の一人とすると、デューク大学のリチャード・B・ヘイズ教授は米国を代表する新約聖書学者の一人と言って良いでしょう。

是非お買い求めください

2013年5月29日水曜日

昨日の読書会

昨晩は某読書会の月例会であった。

某読書会と書いたが、この読書会には一昨年から出席していて、時々このブログでも書いているので、どんな読書会かは「読書会」で検索して頂ければすぐに分かってしまうだろう。

記憶が新鮮なうちに昨日の読書会でのディスカッションの断片を書き残しておこうと思う。

今読んでいる本は「教会の変革」についての本だ。
著者はオーストラリアで神学教育を受け、アジアの神学校で教鞭を取った後、カナダで神学校の教授となり引退した。宣教学が主なフィールドだが、社会学や政治・社会運動にもかなり関心があり、自身のキリスト教信仰の遍歴を反映させた教育やミニストリーをしてきたことが本からもうかがわれる。

昨日は「教会の変革」に必要なこととして「聖書を批評的(クリティカル)に読む」ことや、「私たちが置かれている歴史的文脈を視野に入れながら聖書を読み直す」ことを提言している章であった。

解釈学(ハーメニューティックス)的な関心を射程に入れた文章の脚注には、ガダマーの「真理と方法」も入っており、「意味の地平」が紹介されていた。

「教会」のモデルを新約聖書から探す時に、様々なメタフォーがある中で、何が支配的なモデルかを見きわる、と言う方法論についても言及していた。

聖書解釈のコンテンポラリーな問題として特に扱われていたのは、「奴隷制」と「フェミニズム」であった。
もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。 (ガラテヤ3:28、新共同訳)

婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。  なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。 しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。 (Ⅰテモテ2:12-14、新共同訳)

ガラテヤの方の箇所を著者は『パウロ・マニフェスト』と呼んでいる。
聖書は「状況に即して書かれた文書」であることに留意するよう促している。

この二つの表面的には対立するように見えるパウロ(Ⅰテモテの著者問題は扱われない。正典の範囲だからろうが。)のどちらを採用したらよいのか、と言うような疑問が出てくる。
私たちは「どちらが支配的なモデル」となるかの選択を迫られる、と言うのである。

フェミニズムの問題は日本の(福音派の)教会ではまだまだ論争的には取り扱われていない。
出席者の中で女性も複数いたので意見が求められた。

一つはより伝統的な(男性に服従的な)女性の立場を一概に否定できない気持ちがある、と言う意見。

更に聞かれると、社会において指導的な立場を求めない志向がある、と率直な観察を述べる方もいた。

筆者は聞きながら、しばらく前に読んだ内田樹の『下流志向』を思い出していた。

男女平等と言っても、単に形式的、制度的な平等だけでは複雑な社会構造への回答にはならないだろうな、と思った。

努力に見合う報酬が、より指導的な立場についたからと言って得られるのか。
より組織に組み込まれ、過剰な責任を負わせられるだけではないか・・・。
そんな現実を覚めた目で見ているのが「下位に位置する」者達の計算ではないか。

誰が好んでPTA会長や、学級委員長や、マンション理事会長になるだろうか。
単なる名誉のためだけに「貧乏くじ」を引く人がいるのだろうか。

そんなことを「フェミニズム」の話題に関するディスカッションを聞きながら思っていた。

※ところで「解放の神学」にとって聖書的モチーフとして最も重要である「出エジプト」、英語でエクソダスそのままのタイトルの本(J. Severino Croatto著)が脚注に発見された時は、懐かしい思いがこみ上げた。
プリンストンでギブソン・ウィンター教授のクラスの課題テキストの一つだったのだ。
あれから30年。
そんなに意味の地平は動いていない面もあるのかな。

(つぶやきの様な、備忘録の様な、散漫な書き物に終わってしまった。)




2013年5月27日月曜日

米国福音派と聖書

英語圏ブログ紹介③で紹介したティム・ゴンビスが、Evangelicals & the Bibleと言うタイトルでシリーズ連載している。

簡単に紹介すると、彼が自分が教える神学校や、他の場所での講演などで(主に)学生、つまり福音派の学生が決まって同じような反応を示すのだと言う。

授業や講演が終わって、ゴンビスに、「そんなこと今まで一度も聞いたことがない。」といかにも「それは果たして聖書的か」と言う雰囲気で不満そうに反応を示すのだそうだ。

ゴンビスは最初そのような反応を「若者特有の傲岸さ」の現われだとそれほど気にしていなかったそうだ。
しかし同様な反応に度々遭遇し、「これは福音派に特有なものではないか」と思い注意して観察するようになったようだ。

どうやら福音派に育った青年は「自分たちは聖書に関し知るべきことは既にみな知っている」と言う態度を持っているようだ。
それが極めて判然と現れたある授業(福音派ではない環境)でのエピソードをゴンビスは紹介している。

授業の後のコメントは殆んどが以下のようなものであったと言う。
This is so interesting. Thank you, I’m really enjoying this and learning a lot.
 しかし一人だけ全く違う反応をしてこう言ったという。
 I've never heard this before.
 この人がまさに福音派だった、と言うのである。

何か新しいことを学んだら、嬉しい、楽しい、面白い・・・と言う反応が返ってくるはずのところが、こと聖書に関しては福音派の人たちはフラストレーションを覚える
これは一体どうしたことか。

と言うわけで、ゴンビスの『米国福音派と聖書』 ブログ記事シリーズが始まったわけである。

Evangelicals & the Bible, Pt. 2
I think that the most decisive factor in shaping warped postures toward the Bible is evangelical involvement in the culture wars.  Some of us have been told that “we” are the ones who are faithful to the Bible while “they” (“liberals,” “the media,” “skeptics,” etc.) are attacking the Bible.  We need to defend the Bible, “uphold biblical values,” and advance the “biblical” teaching on this or that issue.

The intensity of the culture wars—the feeling that there’s so much at stake—can frustrate us when our understanding of Scripture is challenged.
Evangelicals & the Bible, Pt. 3
I wonder if much of our evangelical rhetoric about our role in culture and an evangelical posture toward the world perverts our posture toward the Bible.
Evangelicals & the Bible, Pt. 4
I was struck that some students weren’t necessarily trying to understand notions in Scripture and integrate them with aspects of lives.  Their first concern was to know what to say in conversations or debates with others.
Evangelicals & the Bible, Pt. 5
We don’t have the Bible for the purpose of fighting and squabbling, strategizing so that “our side” might dominate “their side.”  God gave his word to his people that we might gain a heart of wisdom, that we might love and serve God, loving and serving one another with gladness and singleness of heart.
と、ほんの一部だけを抜粋しながら紹介してみたが、ゴンビスは米国福音派の青年(だけに限らないだろうが)にしばしば見られる「歪んだ」聖書への態度は「カルチャー・ウォー」の文脈から出てくる特徴と感じているようである。

自分たちが保持している聖書解釈を守らなければならない。
そんな「自己防衛反応」が、聖書の新しい解釈に遭遇した時、「そんなこと今まで一度も聞いたことがない。」と言うように現れてくるのではないだろうか。

だとすると30年以上も前の、ハロルド・リンゼルのThe Battle for the Bibleの時の「聖書無誤論争」と何か相通じるメンタリティーがあるのかもしれない。

とにかく関心のある方はどうぞご一読を。

2013年5月25日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

5月26日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ピレモンへの手紙 1-25
説 教 題 「キリスト者の相互交換」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(107)
コロサイ・ピレモン(10)

2013年5月24日金曜日

5月24日は何の日だ?

当ブログ「大和郷にある教会」の正式名称は、巣鴨聖泉キリスト教会。

先日の「フープン・チャーチ案内」でも少し説明したが、インマヌエル綜合伝道団から離脱してできた「聖泉キリスト教会連合」に所属する。(簡単な経緯についてはこちら

と言うわけで当教会は「アルミニアン・ウェスレアンの流れを汲む単立キリスト教会」 なのであります。

このウェスレアン(あるいはウェスレヤン)の語源が、ジョン・ウェスレー(1703-1791)と言う18世紀の英国国教会にありながら信仰覚醒運動を展開した伝道者なのであります。

で、「5月24日は何の日だ?」ですが、このジョン・ウェスレーが「心温まる経験」をした日であり(1738年5月24日)、彼にとっての「福音的回心」の記念日とも言える日であります。

ウェスレーはこの日のことをこう日記に書き記しています。(冒頭だけ)

In the evening I went very unwillingly to a society in Aldersgate Street, where one was reading Luther’s preface to the Epistle to the Romans. About a quarter before nine, while he was describing the change which God works in the heart through faith in Christ, I felt my heart strangely warmed. I felt I did trust in Christ, Christ alone, for salvation; and an assurance was given me that He had taken away my sins, even mine, and saved me from the law of sin and death.
 (※彼の回心体験がどのようなものであったかについては藤本満師の「『アルダスゲイト』解釈をめぐって」という論考があります。)

まっこの「アルダスゲイトの回心」が余りに有名で、その中身については一般には余り考えないでしまいますが、やはり彼の文化歴史的背景と個人史に即した「体験」として捉えないと、一般的な「回心体験」の枠にはめて理解したと思ったらそれはちょっと違うんではないかな・・・とは思います。

もちろん共通要素はあるわけですが。

(同様なことはパウロのダマスコ途上での体験を「回心」と呼びならわすことにも言えると思いますが・・・。)

さて後はおまけ。



筆者も良くは知りませんが、ジョン・C・ライルが書いた、Christian Leaders of the Eighteenth Century (1869)の「ジョン・ウェスレー」の章を朗読した動画(静止画)です。

2013年5月23日木曜日

6月6日バザー

☆バザーのご案内☆
日時☆2013年6月6日(木) 
午前10時30分~12時15分


(昨年のバザー)
場所☆巣鴨聖泉キリスト教会 豊島区巣鴨1-3-19
出品物:
* 手作り食品
* 手作り品
* 雑貨・中古品・その他
主催:東京第一友の会 文京方面(雑誌「婦人之友」愛読者の集まり)
 

2013年5月21日火曜日

説教者はイケメンがよろしい?

筆者が唯一所属している学会が日本福音主義神学会だ。

最近は研究会をサボっている。
学会誌も真面目に読んでいない。

最新号(第43号、2012年12月)のテーマは「説教」だ。
幾らか興味はあったが「積読」状態が続いていた。

前にどこかで仏教との関わりについて読んだことがある、大和昌平氏(東京基督教大学)の論文がこの号に収録されているので、ようやくそれを取っ掛かりに読んでみた。

大和昌平『日本の説教文化とキリスト教の説教』

 大和氏は、そもそも説教とは仏教に由来する語であり、伝統であることを確認するところから論を始める。

 そう言えば最近ではフェイスブックの方で神学談義を交わすことが多い「のらくら者の日記」さんも読書で取り上げている
  『笑う親鸞 楽しい念仏、歌う説教』
  (伊東 乾(けん)著  河出書房新社 2,200円+税)

を筆者も最近たまたま読んで、なかなか面白い印象を持った。
 講談や落語などの大衆芸能が仏教の説教を由来ととしていることなどはこの本で「そーか」と思ったものである。

 この論文を読んでいてふむふむニヤリとした部分は例えばこんな箇所。
平安時代の王朝貴族の間で学僧による説教の法会は社交場でもあった。美形・美声の説教師がもてはやされ、高座における説教批評も行われていたという。教養ある王朝貴族の間で説教の聴聞は娯楽的要素を多分に持っていたのである。日本の説教に影響を与えた中国仏教においては、「声(しょう)・弁・才・博」のある説教が求められた(『高僧伝』巻十三)。すなわち、声がよく、弁舌に優れ、機知に富んだ、博識の説教者をよしとしたのであり、これはオーソドックスな説教の評価基準だと言えよう。これに対して、平安の宮廷では、「一声、二節、三男」と言われた。つまり、説教師は美声で、節回しよろしく、美男であることが求められたのであり、より世俗的な説教の展開が日本では見られたのである。
その例として大和氏は、清少納言が枕草子でなぜ説教師が美男・美声がいいか、それは「見惚れて聞き入り、仏の教えをより感得できるから」と引用して説明している。
(しかしこのような傾向が日本の説教文化にあることを大和氏は「大衆の人気を博することに走る逸脱の可能性」のあることとして警告している。)

 まっここにメモしたことは大和氏の本論と言うよりは、筆者が面白がった部分、と言うことなので誤解なきよう。

 とにかく大和氏は「説教の何たるか」を講ずるのに、日本の仏教の説教文化が一役買うのではないか、と問うている。

2013年5月18日土曜日

明日の礼拝案内

ペンテコステ主日礼拝

5月19日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ピレモンへの手紙 1-25
説 教 題 「聖徒一同に対する愛」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(106)
コロサイ・ピレモン(9)

聖書クイズ

アメリカのテレビ番組に出場したシスターに与えられた問題。

「この6人のうち士師記に登場する3人は誰。」

ってちょっと簡単すぎない?


2013年5月17日金曜日

「キリスト教霊性の欠如」をどう見るか

大分古くなった記事だが、福音派は今どこには今でも「人気投稿」(左側コラムの下の方をご覧ください)の6番目に頑張っている。

ちょうどこの記事にコメントが寄せられたので、コメント欄にではなく投稿記事にすることにしました。


中川様、
初めまして。コメントお寄せくださりありがとうございます。


筆者がこの記事を書いた時点では、まだ「教会のカルト化」については具体的なことはそれほど知りませんでした。今でもそんなによくは知らないのですが、筆者がこの記事で特に意識したのは「プラグマティズム」の問題です。

とにかく教会に人を集めてなんぼ、みたいなまるで福音宣教をそのための道具のような扱いに(知らず知らずのうちに)なっている、と言う事態です。
N. T. ライトという人の名前をたびたび耳にするようになりました。
まだ、翻訳はされていないはずですが、どんな方なのでしょう。
N.T.ライトについては右側コラムの「ラベル」にかなり関連記事がありますし、同じく「Myサイト」のところに筆者が主宰する、N.T.ライト読書会のリンクがありますので、そこから「紹介」へ行ってくださると少し古くなりましたが少しお分かりになると思います。


翻訳本は一冊だけ、コロサイ、ピレモン註解書(ティンデル・シリーズ)出ています。間もなく幾つか邦訳書が出てくると思いますのでご期待ください。
福音派に大きく欠けてしまっていることの一つに「キリスト教霊性」があると考えています。
なぜ「キリスト教霊性」が欠けているかといえば、福音書に見る受肉の思想が、キリストの十字架と受苦に吸収されてしまっているからではないかと。
もちろん、受肉とは福音書にあるイエスさまの姿ですから、福音書が失われているということにもなってしまいます。
受肉の欠如の問題は、ご指摘のように福音書を「十字架」だけに(贖罪論的)集中して、「(受肉から始まる)神の国」のテーマを放置してしまうことから来ると言えるかもしれません。
ライトの新刊How God Became Kingで「(受肉から始まる)神の国」のテーマと「十字架」を一つの神学的ナレーティブとして捉える試みが展開されています。

こちらの本を昨年から今年にかけて、フェイスブック上のバーチャルな読書会で読み合いました。
右側コラムの「Myサイト」にN.T.ライトFB読書会のリンクがございますので、ご関心あればそのディスカッションのコメント(膨大ですので遡って読むのはかなり根気がいると思いますが)お読みください。

ただしフェイスブックに登録していることと、「非公開」ですので「申請」していただく必要があります。
(「申請」はただリンクをクリックしていただけば自動的になります。)

最後になりますが、このサイトでも度々ご紹介しているスコット・マクナイト「福音の発見」をお読みくだされば、本来の福音とはずれた形で継承されてきた「個人的救いに特化したソテリアンな福音」の問題として「キリスト教霊性」の欠如が提示されているのを知ることができると思います。

今回は貴重なコメントありがとうございました。

2013年5月15日水曜日

「福音の再発見」発売

スコット・マクナイト「福音の発見」(キリスト新聞社)が印刷上がり。

  
書店店頭にならぶのは、早ければ都内で、17日ごろ、地方で、20日過ぎになる予定・・・とのこと。

ただ今、著者スコット・マクナイトをこちらのブログ で紹介中。

関連記事は右側コラムにあるラベルから「キング・ジーザス・ゴスペル」で選んでお読みください。

 

2013年5月13日月曜日

2013オープン・チャーチの様子②

DVD映写会はお客さんが三々五々やってきたので、3回やりました。

まだ室内が明るかったのでなかなか顔を判別するまでは見ることができなかったようですが・・・。

この日は活水工房前のバラ棚のつるばら、バタースコッチがかなり満開。


手前の(名前忘れた)何とかホワイトも咲き出していました。


大した手入れもしていないのですが、四季咲きのつるばらは最初に咲く5月のときが見事です。
(これら3枚は当日のものではなく、後日満開になった時のをアップしています。)





アップにしてみましたが、二種類のつるばらの違いが少しは分かるかな。


当日お見えになった方の中には、ご近所さんや、キリスト教入門(聖書)講座に通っておられる方や、






教会と関係深い方々など。

と言うわけで入れ替わり立ち代りですが、皆さん3時近くまでのんびり過ごしていかれました。

2013オープン・チャーチの様子① 

 先日5月5日(日)に持たれたオープン・チャーチ、天候にも恵まれ気持ちの良いプログラムとなりました。

 礼拝が終わるとまずはお弁当
    

何人かお客さんが集まったところでDVD映写会。
プロジェクターは荒川聖泉キリスト教会からお借りしたもの。
スクリーンはシーツで代用。

DVDの内容は、1965年5月5日は創設された(当時はインマヌエル綜合伝道団)巣鴨教会の特別伝道集会の様子。
(川口市にある現オリーブの木キリスト教会の故中野貞行牧師が)開設特別集会の様子を8ミリカメラに収めた映像です。

せっかく頂いたのですが一度も映写されることなく眠っていました。
それで、今年のオープン・チャーチに合わせて、DVDに変換し、プロジェクターで映写しよう・・・となったわけです。

長さ4分程度の無音声。
創立当時のアパート経営用に建て直した木造モルタル2階建ての建物。
少々貧相な白い木製の十字架。
特別集会案内のポスター。

そしていよいよ、特別伝道集会を案内する路傍伝道前の祈祷会の様子(司会するのはM田牧師)。
先頭は照明が入った四角い提灯のような手持ち看板。

後に続くは太鼓やラッパのブラスバンド(総勢20名近く)。

その後ろにはチラシ配布のご婦人方や子供たち(筆者も含む)。

最後尾はまるで選挙の宣伝カーのようになったインマヌエル綜合伝道団の聖宣神学院の自動車を含む車2台。

とにかく華々しい行列です。

次に映っていたのは5晩続いた集会の様子。

メッセージをした筆者の祖父、荒川聖泉キリスト教会牧師だった故山本岩次郎牧師や司会をした、中京聖泉キリスト教会牧師であった故秋山光雄牧師、インマヌエル高津キリスト教会の藤本栄造牧師、インマヌエル磐田キリスト教会の竿代忠一牧師。

会衆席には筆者の祖父母、故小嶋八郎、故小嶋まつの顔が見える。

それにしても「今から48年前という時代」がかなり古く感じました。

※続きは「2013オープン・チャーチの様子②」でどうぞ。(ここクリック)

2013年5月11日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

5月12日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ローマ人への手紙 3:21-30
説 教 題 「キリストの尊い血」
説 教 者 小嶋崇 牧師


《キリストの十字架》4

2013年5月9日木曜日

ダラス・ウィラードとギザ・バーメッシュ

相次いでキリスト教学界で影響のあった方が亡くなった。

キリスト教倫理、キリスト者の霊性と成長について数々の著作があるダラス・ウィラード。

死海文書の研究家であり、史的イエス研究でもユダヤ人の視点からよりユダヤ的イエス像を提示したギザ・バーメッシュ。
(Geza Vermesはハンガリー語の発音ではこのようになるらしい。ネットでこの表記で検索したが一つもヒットしなかったと言うことはあるいは別の表記で知られているのかもしれない。いやもしかしたら日本では一部の学者以外には殆んど知られていないのかもしれない。)

とにかく筆者のツィッター・アカウントのTL(タイム・ライン)は二人の訃報で賑わっている。

二人の追悼(ブログ)記事と動画をブライアン・ルポート(NearEmmaus)がまとめているので、こちらをクリック。

ダラス・ウィラードに関しては、あめんどう社から出ている『心の刷新を求めて』の翻訳者でもあるはちこさん(ミルトスの木かげで)が記事にまとめているので、 こちらをクリック。

2013年5月6日月曜日

2013年5月4日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

5月5日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 14:15-31
説 教 題 「すべてのことを教える聖霊」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

オープンチャーチ
午後12時30分~2時30分


ぜひどうぞ

2013年5月3日金曜日

5月5日はオープンチャーチ

風薫る新緑も爽やかな今日この頃。
5月5日のオープンチャーチも間近となりました。
あらためてご案内させていただきます。

日時:2013年5月5日(日)、
   午後12時30分-14時30分
場所:巣鴨聖泉キリスト教会
地図及びアクセス





ちょうどバタースコッチ(つる薔薇)が見頃です。




立て看板の案内も出しました。




5月5日は巣鴨教会の創立記念日


近くにお立ち寄りの際は是非どうぞ。

(※当日のプログラムについてはこちらをクリック。)

2013年5月1日水曜日

スコット・マクナイト紹介①

いよいよスコット・マクナイト「福音の再発見」が出版される5月になった。(こちらをご覧下さい。)

筆者もこの本の出版にあたって少し関わっているので「応援」を開始しよう。

と言うことで、著者のスコット・マクナイトをこちらのサイトで紹介していく。

残念ながらこのサイト(JUGEM)、使い勝手が今ひとつ分からず動画埋め込みができないので、こちらで紹介しておく。



解説はこちらでどうぞ。