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2018年2月21日水曜日

(5)タカ牧師のRR 2018/2/21

RRとは「リコメンディド・リーディング」のことで、「推薦ネット記事」ということです。

今回が3回目となります。

イントロには、2017/3/16の記事をお読みください。
二本目は、2017/7/25の記事でした。

三本目は、英国ガーディアン誌「メンタルヘルス」欄の、
How burnout became a sinister and insidious epidemic「燃え尽き症候群の蔓延がひどくなっている」

グローバリゼーションによる就業・産業構造への影響か、(主に?)働き盛りの世代にこの症状が広がっている。

筆者の周りでも程度の差こそあれ、この記事に登場するサラ・コックスのようにSOS発信寸前だったり、ギリギリで「エクソダス」挙行だったりする方がいる。

そんなわけで内容は一本目と同じく「メンタルヘルス」で、なかなかシリアスなものだ。
ボキャブラリーや中身の濃さからも前2本より難しいと思う。

 ☆総ワード数: 約2600~2700
 ☆英語レベル: 中上(5段階の2) 

読むには「20分くらい」はかかるかもしれないが、時間がある方はチャレンジしてみてはいかがか。

2016年6月19日日曜日

(4)『霊性』を神学する 4

さて、続きをば・・・。

前回は以下のように予告して終わりました。
次回はバースが指摘している現象を、もう少し歴史神学的に緻密に考証している動画と資料を紹介したいと思います。
バースとロブ・ベルは「もう今の時代は、天空高く、遠くに離れた神ではなく、近くにいます神だよね」と共鳴していたわけですが、従来の「垂直方向」で概念化された神観から、「水平方向」で概念化された神観への移行・・・という問題提起のもとに(インタヴューで)討論していたわけです。

その辺のことを「霊性」問題との関わりで考えていた時、リチャード・マウの動画に出会いました。
Engaging Religious Pluralism
 


リチャード・マウはこの動画で、「宗教多元主義」状況での、他宗教とのエンパシック(共感的)な取り組み方・・・を講演しているのですが、その中で「モルモン教」との取組みを例に出します。

ネイサン・ハッチ(改革派のアメリカ宗教史家)の本からモルモン教の設立者ジョゼフ・スミスの生い立ちなんかに言及していますが、当時(19世紀初頭)のアメリカの教派乱立状態と競合状態の中で、人々が宗教に求めていたのは「本に書いた啓示」というよりは「(霊によって)繰り返し与えられる新しい啓示」であったのではないか、と指摘しています。
 
さてしばらく後のくだりの中で、ジョゼフ・スミスと並んで、ほぼ同時期北米の同地域(ニュー・イングランド)に現れた、似たような霊性的傾向を象徴する二人の有名人へと話を進めます。
 ・ラルフ・ウォード・エマーソンの「超越主義」
 ・メリー・ベーカー・エディーの「クリスチャン・サイエンス」
all shared "common religious motivation. Each of them wanted to bring the realm of divine nearer to ... us [humans] , to reduce the distance between god and human beings.
宗教観も、さらにいえば形而上学的神観も、大きく異なる三者(スミス、エディー、エマーソン)が、しかし「神と人との間の距離の近さ」を主張した背景には何があるのか・・・。

マウは、それはニューイングランド「高カルヴィニズム」の神学的宗教性、つまり

it often fostered an unhealthy spiritual distance between Calvinist deity and its human subjects

この「カルヴィニズムの遠くはなれた神」に満足できず、「霊的な渇き」を埋めようとして新しい宗教的試みが起こったのではないか、とマウは推理しています。

この「霊的距離感の問題」について、特にニュー・イングランド・ピューリタニズムの神学的強調である「神の主権性」について、当時の正統的カルヴィン主義神学の中に二つの対照的な傾向があったことを、ジャニス・ナイトの『マサチューセッツの正統主義(神学)』を参照して論証します。

Janice KnightOrthodoxies in Massachusetts: Rereading American Puritanism
 

一方で正統派のウィリアム・エームズのように「神の主権」を「主人としもべ」のような権力関係のイメージで捉えるものと、他方リチャード・シブス(Richard Sibbes)のように「力の神」というよりも「憐れみの神」「親しい(intimate)神」のイメージの方向で捉えるものと、正統的カルヴィン神学(orthodoxy)が一つではなく複数(orthodoxies)あったことをヒントにしています。

さて、マウのトピックは「霊性神学」ではなく、どのように「他宗教との対話」をするか、ということですが、「キリスト教正統主義」しかもそれがある程度「正統的カルヴィズムの神観」を要因として「新興キリスト教」の流れができたとすると、「神学」類型と「霊性」とのあいだにある程度の相関関係を推理してみることは妥当ではないかと思います。

恣意的に「神学的内容」を変更することは妥協・迎合となりかねませんが、少なくともある種「神学的強調」が(たとえば「神の主権」)偏ったもの、バランスの欠けたものになる時、それに呼応した「霊性的欠乏感」を生じさせるとも限らない、ことは考えてみた方がいい。そう感じました。


(次回へ)
※もう少しこのテーマを追ってみます。

2016年5月23日月曜日

(4)『霊性』を神学する 3

先日、現代の英語圏神学者⑤、で取り上げたダイアナ・バトラー・バースの記事の最後で
ではダイアナ・バトラー・バースの紹介はここまでにして、別の連載シリーズ「霊性を神学する」で彼女の「神観」を取り上げたいと思います。
と予告していました。少々遅くなりましたがお約束通りこの記事で取り上げたいと思います。



あのロブ・ベル(の『ラヴ・ウィンズ』)がホストを務める「ロブ・キャスト」という個人放送局があります。

そのエピソード67でアメリカ宗教史(特に信仰覚醒運動)が専門のダイアナ・バトラー・バースがゲストで招かれ、既に現代の英語圏神学者⑤で紹介したバースの著書『グラウンディド』から多彩な話題でおしゃべりを展開している。





教会とその文化・時代環境とのディスコネクトの問題

 (10分過ぎくらい)北米東海岸ヴァージニア州チェサピーク湾にある小島の「タンジー島」を比喩にしながら、いくら歴史があり、代々島民たちに豊かな奉仕を提供してきた教会でも、温暖化で島が海面下に消えてしまった、地面がなくなってしまったどうなるか?と問題提起している。

 教会自体は良い教会だが、その教会が建っている土地(グラウンド)が消えてしまったら・・・。それがこの本のタイトルの背景イメージとなったのだ。
バース自身が経験した「従来の神観」が現代史の出来事と突合せて行くときに段々と疑問が深まっていったことを語っている。
 
 第一次大戦、第二次大戦(ホロコースト、原子爆弾)、・・・、そして9・11.

 悲惨な出来事がお許しになる(天高く座して歴史をご支配なさる)神は、はたして「愛の神」なのだろうか・・・。

 そのような「疑いの思索」で特にリードした疑問視が Where だった。
 Where is God in this? Where is God in that?

 そういう「苦難の中で神の居場所を捜し求める」思索の結果たどり着いたのが「神の臨在(God is WITH US)」であり「神の居場所の転換(垂直方向で天に離れている神、から、水平方向で共にいる神、from Vertical to Horizontal)」だったと語っています。

・・・とまあ、動画のテーマは主に神観を「垂直方向」で概念化するか、「水平方向」で概念化するか、と云う問題、前者が従来の神観を支えてきたのが今その枠組みが文化的に時代的にディスコネクトしてきているのではないか、と云う問題提起になっているのだと思います。(ディスコネクトの他にも「認知的不協和」などと表現しています。)



かなり不十分な紹介ですが、バースが問題にしているのは「霊性」と「神観」の問題であり、タンジー島の比喩で言えば、「霊性」は教会、「神観」が島/地面、と云うことになるのだと思います。

いずれにしてもあまり緻密な神学議論というよりも、もっと感性的な問題のキャッチの仕方から来ているように思います。

ただこの問題の設定の仕方、「『霊性』とそれに見合う『神観』」はいろいろ考えてみるに値するテーマではないかと思っています。

次回はバースが指摘している現象を、もう少し歴史神学的に緻密に考証している動画と資料を紹介したいと思います。(乞うご期待)

2016年3月25日金曜日

(4)『霊性』を神学する 2

極めてアバウトな『霊性』についての神学的文章を書き付ける・・・という趣向で始めたが、昨年11月に「1」を書いたままになっていた。

一応前回定義らしきものを掲げたので、まず再掲。

霊性とは、「生活の深みに達する実践的宗教の訓練(ディシプリン)」のことである。
その後「霊性」の教会史的発展を段階的にスケッチしてみたが、それも再掲。

(1)垂直的(神への信仰)なものと、水平的(隣人への奉仕)なものとが「固く噛み合っている(分離していない)」あり方・・・モーセの十戒、トーラー・律法、預言者の社会正義観、山上の垂訓、「律法の要約」、などに現れているものと捉えることができる。
(2)修道的生活、瞑想、神との合一
(3)神秘主義、観想的生活
(4)奉仕と宣教の修道(フランシスコ)
(5)脱修道、宗教改革者ルター
(6)世俗内禁欲、職業の宗教化(カルヴィニズム)
最初から種明かしをするのも何だが、実は筆者の関心ある『霊性』は定義にも匂わされている様に、何か特別な修練や修行を必要とするものではなく、「日常」を深くするような、そんなところに表されるものを考えている。

言ってみれば「反・達人主義」といった感じである。

別にそれほど反感があるわけではなく、恐らくプロテスタントの環境に育ったためそう言う因子を知らずと抱えているからだろう。

で、(1)の聖書に見られる『霊性』とは、生活における「神と人に対する従順と奉仕」に統合的に現れているものと考える。(これについてはまだ詳細は論じない。)

聖書的『霊性』は特別な霊的生活を必要としない、という視点がまずあり、それが巡りめぐってプロテスタントの「世俗内召命」に還流した、と見る見方を取っているのである。


さて、そんなあてずっぽうな神学的洞察をいい加減な補強の仕方で取り繕おうと物色していたら、たまたまこんな文章に遭遇した。
映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」
  『あるとき神父様から、あなたにとって
祈りとは何ですかって聞かれたときに、
私はとっさに「生活です」って答えたんです。』
________森のイスキア主宰 佐藤初女
 これはあるブログ記事だが、佐藤初女さんの訃報(2016年2月1日)を紹介したものだ。

祈りとは・・・生活です

まさに筆者が思い描いている非達人的霊性を言っているのではないか、と思った。

ではこれを題材に『霊性』を神学するの(2)を書こうと思い立ち、図書館から何冊か佐藤初女さんの本を借りてきて読んだのだが、このことズバリを言っている箇所を見つけられないままになっている。

まっ、紹介したブログ記事で示されているように、映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」を見ればあるのだろうが、似たようなことは他の本の中でも言っていそうなもの・・・とページをめくってみたわけだが・・・。


実は佐藤初女さんのことは、この文章に出会うまで知らなかったわけではない。

いや、実は会ったこともある。

このブログでも何度か紹介したことがあるが、「ジュリアの会・作品展」のフラワー・アレンジメントのジュリアの会を主宰するYさんの知人が佐藤初女さんと親しく、千葉だったかの講演会の帰りに、作品展に寄ってくれたのだった。

今回このような形で佐藤初女さんの文章を読むようになるとは想像しなかったが・・・。

改めて本を読みながら、生活の場面に表される「霊性」を垣間見せて頂いたような気がする。

特に「食」を大事に考えておられ、「食」という人間の「動物的生理」をベースにした人間観、食を中心にした人間の暮らし・営みのありようから「森のイスキア」を訪ねてくる人たちの「悩みや迷い」に答えるその姿勢にうなずくことが多い。

その一端を紹介しておこう。
 食べることというのは、訊く人は“えっ?”というような表情になりますが、食べ方を見ていると、その人のこころが伝わってくるものです。こころの中が詰まっている人は、なかなか食べることができません。それでも、ひとくち、ふたくちと食べ進み、“おいしい”と感じたとき、心の扉が徐々に開いていき、それまで胸の奥にため込んでいたものを、ぽつぽつと吐き出していくんですね。
 そういうとき、私は、自分からあまり話さないで、聴くことを大事にしております。先入観を持たず、自分の中を空っぽにして、その方の身になり、こころを置き換えて、一心に耳を傾けるのです。(佐藤初女『いのちの森の台所』集英社文庫、20-21ページ)

  本当の奉仕とは、自分のいいと思うことをするのではなくて、相手が望んでいることを自分で感じ、チャンスを見てさりげなく差し出すことだと思うんです。それはたとえるなら、道端に置いて通り過ぎるようなもの。振り返りもしないで。振り返るということは、何かを求めているということになります。ですから、置いたままさりげなく通り過ぎるということを、いつも考えています。(佐藤初女『いのちの森の台所』集英社文庫、159ページ)

今回は以上です。(次回に続く)

2015年11月26日木曜日

(4)『霊性』を神学する 1

昨今「霊性」とか、より一般的には「スピリチュアル」とか、すなわち人として生きるときの「内面的生活」の充実が宗教的な伝統から省みられる動向がある。

教会に通う信徒の場合はそれほど意識しなくても、なにがしかの自覚はあると思う。

さらに「熱心なキリスト者」の場合はこの取組みをより自覚的に追求する。聖書を読んだり、祈ったり、いろいろ霊想書を読んだり、いわゆる「デボーショナル」と呼ばれる「個人的敬虔」を訓練するわけである。

筆者はプロテスタントの中で「パイエティズム」と「リバイバリズム」の伝統の強い流れの中で信仰を育まれたのであるが、この年になってその「内面的生活」が様々変化してきたように思う。

どちらかといえば「変わらない」ことが望ましいのであろうが、変化についても積極的に評価できる場合があるのではないかと思う。

そんなことを反省するために、極めてランダム(そしていつもの如く気まぐれにであるが)随想的に「内面的生活」の神学的反省を綴ってみたいと思う。

名付けて「『霊性』を神学する」

別に参考とする本や人物もない。ただこれまでの体験的蓄積を基にして書きつけていこうと思う。(その中には多分に読書や人物観察からくるものがあるだろうと予想する。)

第一回目は「霊性」の定義について。

思いついたポイントは、二千年の教会史の、その時代・時代の異なる(模範的あるいは典型的)「キリスト者生活」をどのようにすれば概観できるか、という問いから出てくる「霊性定義」の問題、を取り扱おうと思う。

※以上のことから明らかなように、この「神学」的よれよれ文章は試論も試論、いや試論の序論程度のものであろう。恐らくその域を出ることは先ずない。

さて、霊性をどのように定義したら二千年の様々なスタイルのキリスト者の内面的生活を、一つの視点から眺めることができるだろうか。

念頭にあるのは4世紀、キリスト教が国教となり「殉教者」という「理想」が非現実的になったときに出てきた「砂漠の荒野への隠遁」による「修道生活」を一方の極に持ち、もう一つの極に宗教改革後の「万人祭司」神学による「世俗内召命」、すなわち「職業従事それ自体が神への奉仕である」という、二千年の歴史の中で二つの対極的なアプローチを眼下に納めるという課題である。

それで試みに、霊性を次のように定義してみることにする。
霊性とは、「生活の深みに達する実践的宗教の訓練(ディシプリン)」のことである。
これを用いて「教会史的発展」を順を追ってまとめると以下のような概略が得られる。
(1)垂直的(神への信仰)なものと、水平的(隣人への奉仕)なものとが「固く噛み合っている(分離していない)」あり方・・・モーセの十戒、トーラー・律法、預言者の社会正義観、山上の垂訓、「律法の要約」、などに現れているものと捉えることができる。
(2)修道的生活、瞑想、神との合一
(3)神秘主義、観想的生活
(4)奉仕と宣教の修道(フランシスコ)
(5)脱修道、宗教改革者ルター
(6)世俗内禁欲、職業の宗教化(カルヴィニズム)
※およそラフスケッチなので、これから論をどうするかまでは考えていない。そのうち展開が見えたら続きを書くことにしよう。