2011年5月30日月曜日

講演メモ

当プログでも案内させて頂いたキリスト教世界観ネットワーク

2月26日(土)午後、御茶ノ水クリスチャンセンターで持たれた会合で筆者が行った講演の概要(当日配られたプリントに少し修正・加筆したもの)が「キリスト教世界観ネットワーク」サイトに掲載されました。(リンク  ※右コラムにある「マイブログリスト」の同サイトをクリックして頂いても結構です。)

多少粗雑な議論で分かりにくいかと思いますが、大衆的福音理解の神学的構造を分析し、その非歴史性、抽象性を指摘しながら、これをライトによる歴史的アプローチと対比させようとしたものです。

ご興味ある方はご覧ください。

2011年5月28日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

5月29日 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの手紙Ⅱ 1:1-13
説教箇所 ヨハネの手紙Ⅱ 1:1-13
説 教 題 「真理と愛」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2011年5月27日金曜日

バザーご案内

日時☆2011年6月9日(木) 午前11時~12時30分
場所☆巣鴨聖泉キリスト教会(地図豊島区巣鴨1-3-19


出品物:
  • 手作り食品(パウンドケーキ、マドレーヌ、クッキーなど)
  • 手作り品(シルクスクリーンのふきん、枕カバー等、エプロン、袋物)
  • 雑貨・中古品・その他
主催:東京第一友の会 文京方面(雑誌「婦人之友」愛読者の集まり)

2011年5月25日水曜日

キリスト教世界観

数年前、ある方とのメールの交換でキリスト教世界観について以下のような文章を書いたことがある。

《引用始》
「キリスト教世界観」というのは私見では、「『啓蒙主義以降、ヒューマニズムに侵食され外見はキリスト教に見えるがその実は啓蒙主義・人文主義を駆動力とした文化的キリスト教』つまり世界観的な次元では啓蒙主義・人文主義が中心になっているキリスト教に対抗して出てきた動き」と感じています。
端的には19世紀末から20世紀初頭の新カルヴィン主義(アブラハム・カイパー、ハーマン・ドーイウェルト)らの運動です。
彼らが「世界観的な次元でもキリスト教に貫かれた思想と文化を(衰退していく西洋キリスト教文明に)回復しよう」としたものが大雑把な意味で「キリスト教世界観」と言っているものだと思います。つまりキリスト教思想運動としては一世紀経っています。
世界史的には「西洋キリスト教文明」は明らかに衰退しており、ほぼ「脱・キリスト教文明」段階に入っていることは誰もが認めるところではないで しょうか。つまり新カルヴィン主義のルネッサンス運動はオランダとその文化圏に一時期影響を及ぼしたけれども大勢は変えなかったのだと思います。

アメリカ福音主義でも表面上の福音主義の文化的復興・隆盛の陰に隠れて余り意識されてこなかった「キリスト教国アメリカにおける脱キリスト教化」 が懸念されるようになり、キリスト教系大学などで「キリスト教世界観」が主張されるようになっています。ようやく啓蒙主義・人文主義の影響をキリスト教的 にどう整合させるかと言う思想的大問題が「大学教育」レベルでの切実な問題になっていることが伺われます。
アメリカでは福音主義の影響が表面上は大きかったのでこのような問題をまともに受け止めてこなかったのではないかと思います。

しかし、いずれにしても、新カルヴィン主義運動は啓蒙主義・人文主義に対する哲学的アンチテーゼとして『聖書の思想的枠組み』の中に「キリスト教 世界観」の祖形を求めた観があり、必ずしも原始キリスト教の福音そのものを動力とするに至っていないのではないか。まだ思想的哲学的アンチテーゼとして対 抗しようとしているのではないか、と私は思っています。

しかしここに来て「聖書学」が没落していくキリスト教アカデミズムに結構深い影響を与えてきているのではないか。そのような1人が私が関心を持って追跡している「N.T.ライト」です。
彼のようなアプローチまで来ると、『聖書の思想的枠組み(創造・堕落・贖い)』の中に哲学的に対抗しうる「世界観的何か」を抽出しようと言う神学 的関心・解釈を越えて、より本格的に「使徒的福音」そのものの世界観的構造に遡ろうとしている、と見ています。アプローチ的には歴史学ですが、その関心は 原始福音を基点と考えるキリスト教です。だから歴史学的にならざるを得ないわけです。途中にギリシャ的二元論の影響や啓蒙主義以降の文化的キリスト教の影 響が入っていますから・・・。
詳論を省いて言えば、新カルヴィン主義のキリスト教世界観とライトが目指すキリスト教世界観の違いは、前者がアンチテーゼ的であったのに対し、ラ イトの方は「原始キリスト教の福音、使徒的福音」そのものの回復・修復を目指している、ということでしょうか。そして使徒的福音が提示するキリスト教世界観が現代でも、いやむしろポストモダンの時代に復権すべきアプローチではないか、と言う主張であると思います。
《引用終》

先日、筆者の属する教会連合の牧師たちの集まり、研鑽の時があった。
発表者は最近の自身の牧師としての働きを省みながら、特に「説教」に対する自信のなさを反省していた。そしてその原因を「福音理解」の甘さにあるのではないか、これまでちゃんと「福音」と言うものを(神学的に)突き詰めてこなかったからではないか、と述懐していた。

筆者も似たような経緯を通ったことを、リバイバル・ジャパン誌で文章にしたが(当ブログ掲載記事「ご案内」参照)、他にも似たような悩みの中を通っているキリスト者があるいはいるかもしれない。
そのような方々に新カルヴィン主義の「キリスト教世界観」的アプローチは一つの提案になるだろう。
そしてN.T.ライトの使徒的福音の世界観を歴史的に再構成するアプローチは非常に魅力のある試みではないだろうか。

2011年5月23日月曜日

「教会における聖書の解釈」②

カトリック教会の教皇庁聖書委員会の文書「教会における聖書の解釈」(和田幹男訳)のコメントの二回目です。

今日は『第1部 聖書解釈の方法と近づく道』についての感想です。

先ず第一部のアウトラインをご覧になって頂ければ大体どんな感じかイメージできると思うので載せてみます。

A. 歴史批判学的研究方法
1. 研究方法の歴史
2. 研究方法の基本原理
3. 研究方法の概略
4. 評価
B. 文学性に注目して分析する新しい研究方法
1. 修辞分析(Analyse rhetorique)
2. 語りの分析(Analyse narrative)
3. 記号論分析(Analyse sémiotique)
C.伝承を基礎として近づく道
1. 正典論的に近づく道(Approche canonique)
2. ユダヤ教的聖書解釈の伝統を援用して近づく道
3. 聖書本文の影響史によって近づく道(Wirkungsgeschichte)
D.人文科学を用いて近づく道
1. 社会学的に近づく道(The Sociological Approach)
2. 文化人類学的に近づく道(The Approach through Cultural Anthropology)
3. 心理学的に、精神分析的に近づく道(Psychological and Psychoanalytical Approaches)
E.社会的文脈から近づく道(Contextual Approach)
1. 解放の神学から近づく道(The Liberationist Approach)
2. 女性解放運動から近づく道(The Feminist Approach)
F.ファンダメンタリズムによる解釈

まっざっと見てもらって分かるように「聖書解釈」に関する批評学的方法や解釈アプローチの概観になっています。
時代的に古いものから順に並んでいるとともに、カトリック教会の評価から見て最も評価の高い定着したものから並んでいる、とも言えます。
各研究方法あるいはアプローチの紹介と評価に割かれる紙数も大体それを反映しています。

「歴史批判学的研究方法」は聖書が歴史的文書であることを踏まえた上で欠くべからざるものとしてほぼ全面的にその研究方法の妥当性が認められる。
しかしそれは「歴史批判学的研究方法」で聖書解釈が十分にできると言っているのではなく、本文批評から始まり様式批評のような細かい分析的な手法によって聖書本文そのものの持つ意味が見失われることのないよう、編集史的批評や、《共時的》批評を加えるにことによってバランスされる必要がある。
まっどちらにしてもこの後紹介されている様々な方法やアプローチと比較して「歴史批判学的研究方法」がカトリック聖書解釈の中心になっている印象は否めない。

「文学性に注目して分析する新しい研究方法」では、修辞分析、語りの分析、記号論分析、の三つが紹介されているが、筆者がよく引き合いに出すN.T.ライトやR.B.ヘイズらなどは積極的にこれらの研究方法を新約聖書解釈に援用している。カトリックの学者たちも概ねその可能性に好感を持っており、この研究方法の援用に期待している様子が伺える。

「伝承を基礎として近づく道」も同様「歴史批判学的研究方法」を補完するものとして位置づけられている。特に正典論的アプローチに関しては、
 これは聖書をその全体において受けとめるという信仰の明示的な枠組みから出発して、まさに神学としての聖書解釈の責務に取り組もうとする。
との評価をしている。
(蛇足だが正典論的アプローチで紹介されている、ブレヴァード・S・チャイルドは、Brevard S.Childではなく、Childsである。)

「人文科学を用いて近づく道」と「社会的文脈から近づく道」あたりになってくると、その方法論的有益性をある程度認めつつも、どの程度聖書解釈に貢献できるか問題点の方も具体的に指摘される。概ね一定の評価を与えつつも、あくまで補助的な解釈方法と見ている印象である。
しかし解放の神学アプローチとフェミニスト聖書解釈アプローチに一定の評価を与えていることは、保守的に見えるカトリックとしてはかなりリベラルな見方、と言う感じがする。 


さて、最後に残った「ファンダメンタリズムによる解釈」だが、これは頭から否定的な聖書解釈アプローチとして取り上げている。「・・・ファンダメンタリズムの信奉者の聖書読書法・・・は聖書解釈のあらゆる方法論的努力を拒む。」
筆者の印象では、ここだけ分析と言うか描写と評価が粗雑な感じを受ける。根本主義と言ってもプロテスタントの一部を形成するイデオロギーとしてではなく、宗教改革を根に持つすべてのプロテスタントの聖書解釈に影響を及ぼしているような印象を与える書き方になっていないか。
背景にはこのような反知性主義的「聖書読書法」がカトリック信徒にも影響を及ぼしていることがあるようだが・・・。

さてアウトラインだけ見ると「歴史的批判学的研究方法」と(ファンダメンタリズムは別にして)「最近台頭している解釈技法」の簡単な紹介と評価のように見えなくもないが、これらの解釈技法にある程度の知識がない人には少々不親切な入門紹介と映るだろう。

2011年5月21日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

5月22日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:1-31
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:3-5
説 教 題 「わたしたちを神の子と」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(60)
ガラテヤ人への手紙(48)
・4:1-7 子であり、相続人である

2011年5月20日金曜日

ホーキング博士の天国

めったにインタヴューに応じない人らしいが、つい先日英国ガーディアン紙が行ったホーキング博士とのインタヴューが記事になっている。(Stephen Hawking: 'There is no heaven; it's a fairy story.'

難病で20代で余命僅かと言われた人が69まで生きてきて人生観(死生観)を語ると言うわけだからそれなりに重みがある。しかも博士は一大宇宙物理学者だ。その発言がニュースになるのも頷ける。

さてメディアで一番注目されているのが以下の質問と答えだ。
You had a health scare and spent time in hospital in 2009. What, if anything, do you fear about death?
I have lived with the prospect of an early death for the last 49 years. I'm not afraid of death, but I'm in no hurry to die. I have so much I want to do first. I regard the brain as a computer which will stop working when its components fail. There is no heaven or afterlife for broken down computers; that is a fairy story for people afraid of the dark.
一見普通の無神論者が「宗教は心の弱い人が抱くもの」みたいに聞こえるが、人間をコンピューターになぞらえているところが徹底して物質主義的と言うべきか。

彼の言う「ヘブン(天国)」や「アフターライフ(死後の命)」は大衆的キリスト教の一般概念のように思う。神学的にニュアンスされた「身体の復活」「死者からの復活」のような意味は含んでいない。

キリスト教からは当然反論が起こる。特に「復活」をキリスト教信仰の中核と見る者にとっては、ホーキング博士のこの言は中途半端で満足行く議論ではない。(例、Ross McKenzie

またキリスト者かどうか分からないが「イエスの復活」の事実(可能)性から反論している方もおられる。この方はホーキング博士と同じ病気を持つ人であるが、インタヴューが短い会話にならざるを得ず、ホーキング博士が必ずしも言いたいことを尽くしているとは思っていないが、妥当な反論を試みている。(一読者のコメント、I'd stake my life that Stephen Hawking is wrong about heaven
Strangely enough, my theory that there is a form of life after we die is not some sort of wishful thinking. It's based on evidence. If the brain is a computer, then, when I was studying where Stephen Hawking now teaches, I came on a mass of data of which the most convincing, the neatest, explanation was that death is not the end of life. It wasn't the most comfortable nor most obvious of conclusions, but the forensic case was forceful and beautiful, providing "simple explanations of phenomena or connections between different observations". The best exposition I found was by the then director of the Institute of Advanced Legal Studies in London, Professor Sir Norman Anderson, in The Evidence for the Resurrection (later republished as part of Jesus Christ: The Witness of History). My disturbing conclusion was that, if it happened once, as seemed beyond reasonable doubt, then I needed to revise my whole world view. What you see is not all you get.
少なくともホーキング博士のこの度の発言で、「天国」というふわふわした大衆的キリスト教観念を鍛え直す機会になればそれもまたよし、ではないだろうか。

2011年5月19日木曜日

ツルばら

手持ちに余りネタが見当たらないので、今日は画像で埋めよう。

教会隣の工房の前にはツルばらが這わせあります。
去年はそれほど咲きませんでしたが、今年一回目の開花(四季咲き)は豪勢です。
種類はバタースコッチとホワイト・スノウ。まさに色のまんまの名前です。


ちょっと紫外線が強すぎて色の違いが分かりにくいですが、右側がバタースコッチ、左側がホワイト・スノウです。


これだと色が分かるでしょう。バタースコッチです。


そしてこれがホワイト・スノウ。
特にホワイト・スノウは2年前工房改築の時移し変えたので、もう一度この場所に植え直した時は木も枝も細く大丈夫かと思っていました。
意外や意外沢山の花をつけました。

後ろ側にはヤマホロシが生えているのですが、それと重なってと言うか、絡まっている割には勢いが取られませんでした。

大した手間をかけていません。蕾にアブラムシが付くので木搾液(木炭を作る時に出る液体で殺菌力があります)を噴霧しましたが。

バラと言うと赤という印象が強いですが、こういう淡い色もいいものです。特に沢山咲いた時には却ってどぎつくなく軽やかで楽しめます。

2011年5月16日月曜日

『教会における聖書の解釈』①

既に、連載ではないがと断って、この教皇庁聖書委員会による文書にコメントすることをお約束してあった。
これが第一回目となる。

最初の印象はそのボリュームである。
ゆうに一冊の本になるだけの内容であるから、つまみ食い的にコメントするだけでは不十分であろう。
荷が重いが文書の目次に従って順次感想を述べていくことにしよう。

筆者はこの文書の和田幹男神父による邦訳英訳の両方を参照しながら進めていくつもりである。断りがなければ引用は和田神父のものを使うが、時に英訳も適宜引用するかもしれない。

《教皇庁聖書委員会の文書への序》
1993年当時、枢機卿であったヨセフ・ラッツィンガー(現教皇ベネディクト16世)による短い文章だが、この文書の意義を簡単に理解させてくれる良い序文だと思う。

教皇レオ13世の1893年の回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』 から始まり、教皇ピオ12世の1943年の回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』へと、カトリック教会の聖書学における“近代化”即「聖書の歴史的批判学的方法」が一定の留保をつけながら次第に積極的に取り入れられ、その路線は第2ヴァティカン公会議の1965年、神の啓示に関する憲章『デイ・ヴェルブム』において一層強化された次第が簡潔に述べられている。

しかしこの後の30年間の聖書学の“進歩”は新たな聖書学の評価と聖書解釈への指標を要請する事態となったことを指摘している。
興味深いのは今回はこのような文書を「教導職の一環」としてではなく、教会の指導的立場を自覚した聖書学者たちの委員会にその責務が委託された点ではないかと思う。

次に導入部について簡単にコメントする。

導入部
A.現在の問題点

この部分では、古来聖書解釈の問題は認識されていたが、現在は学問的方法も多岐にわたり、それがもたらす混乱も生じていることが指摘される。
例えば、歴史批判的学問方法、《通時的》研究方法に対して、《共時的》研究方法(「哲学的に、心理分析的に、社会学的に、政治的になどと聖書本文を現在の時点に置いて問う傾向」)が競合するような状況である。
さらにこのような学問的論争の結果、信仰に否定的な側面を醸成するという指摘も出てきた。
学問的聖書研究はキリスト教的生活の促進ということになれば、その性格として不毛である。それは神の言葉の生ける泉に、より容易く、より確実に近づくようにする代わりに、聖書を閉じた書にしてしまい、その解釈はいつでも問題とされ、技術的な洗練を必要とし、これにより一部の専門家に保留された領域にされてしまう。
要するに「聖書を解釈する」ということが学問的にしろ、より素人的な「霊性的(主観的)」なものにしろ、「混乱」と言う問題を引き起こしている。その状況に分け入り今まで積み上げた学問的獲得を失うことなく、しかしその限界を冷静に指摘し、「聖書解釈の問題」に交通整理をしよう、と言うのがこの文書なわけである。

これはカトリック教会だけでなくプロテスタントにおいても同様である。ただ聖書の学問的研究に関してプロテスタントの方がより開拓的であり急進的だった歴史がある。

B.本文書の目的
このような状況で委員会がこの文書で目的としたことは
・・・人間的であると同時に神聖な性格をもつ聖書に、できるだけ忠実に解釈するようになるため、いかなる道を取るべきかを指摘すること・・・聖書本文に含まれるすべての豊かさを効果的に活用するのに貢献するものとして受け容れられ得る諸々の研究方法を検討することである。こうして神の言葉がその民の一人一人にとって常にいっそうその霊性の糧となり、信仰と希望と愛の生活の泉となり、また全人類にとって光となるように(啓示憲章第21項)するためである。
聖書の「神言性」と「人言性」の両面を認識し、どのようにしたら単なる言葉の解釈ではなく、信仰者の糧となり、世界に対する啓示となれるのか、「諸々の研究方法」を評価しようと言うわけである。

「神のことば」としての聖書の受け止め方はプロテスタントもカトリックも共有するものであり、その意味でこのような基盤で書かれたこの文書はプロテスタントの読者にも有意義である。

筆者は以前共観福音書講解説教で「ルカの福音書」を取り上げた時、アンカー聖書註解シリーズのジョゼフ・フィッツマイヤー教授の註解を用いさせて頂いた。どうもフィッツマイヤー教授はこの文書の作成に関わった一人のようである。
それで改めて思うのだが、彼の註解はまさに「歴史的批判学的方法」を綿密に用いたものであった。ただ彼の註解を使っている中で感じたのだが、「過去に遡ってその意味を確定する」ことと、その「現代的な意味を語る」こととは教授をもってしてもなかなか容易ではない、と言うことである。筆者の印象ではフィッツマイヤー教授の註解は大半が前者に紙面が用いられた感が否めない。

振り返って、筆者の説教の事を顧みても、やはり同様な印象である。
神のことば」である聖書を「現代」に語られた言葉として解き明かすのはなかなか容易ではない。

2011年5月14日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

5月15日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:1-31
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:1-2
説 教 題 「父の定めた日まで」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(59)
ガラテヤ人への手紙(47)
・4:1-7 子であり、相続人である

2011年5月10日火曜日

9.11とビン・ラディンの死

9.11の同時多発テロからまもなく10年と言うところで、首謀者とされるテログループ、アルカイダ指導者のビン・ラディンがパキスタンのアボタバードと言う、首都イスラマバードから50キロのところにある隠れ家でアメリカ軍特殊部隊の急襲に遭い射殺された。

まもなくこのことが大統領官邸での会見でオバマ大統領によって報告、説明された。(ビデオ

アメリカ国内ではこの報に、すぐさま通りや広場に出て歓喜で沸き返ったと言う祝祭ムードの反応と、その後次第に、いきなり射殺と言う手段に対する是非、及びパキスタンの主権侵犯と言う国際法上の問題などを含んだ批判的反応も出てきている。

一方国際社会では国連事務総長やダライ・ラマらの歓迎のコメントの一方、ビン・ラディンを生け捕りにして司法による裁きを介さずに射殺にしたことに対する批判など、アメリカと言う唯一のスーパーパワーの飛び抜けた軍事力による独断的正義遂行に対する懸念もかなりの方面から表明されている。((ウィキ『オサマ・ビン・ラディンの死』)

以前、3.11大震災を受けて、筆者がしばしば閲覧している英語ブログで殆んどこの惨事がスルーされたことに対して淋しい感じを抱いたことを述べたが、今回彼我の差でこのことをスルーしないためにも一言述べておこうと思い、こうしてまとまらぬ文章を書いている次第である。

以下、オバマ大統領のスピーチに絞ってコメントする。

スピーチの流れ、
①作戦遂行によってビン・ラディンが殺されたことを述べた後、直ちに2001年9月11日の同時多発テロの惨事を物語る。そしてその歴史的出来事の中でアメリカは、We were united as one American family、と人種や宗教の違いを越えた「一つの家族」としてこの悲劇を潜り抜けてきたことを強調する。
②次にこの惨事を引き起こしたテロ・グループのアルカイーダ壊滅を、アメリカ国民の安全と世界の平和のために一心不乱に推進してきたことをアッピールする。特にビン・ラディンに関してはその捕縛と殺害(kill)を最優先事項としてきたことを強調する。
③次にアルカイーダ壊滅作戦の中核となるビン・ラディンの居場所特定の情報が2010年8月にもたらされて以降、周到な用意をもって今回の作戦が遂行されたことを述べる。
そしてこの20年間と言うものアメリカを、世界を、常にテロの恐怖に晒してきたアルカイーダの存在を特筆し、ビン・ラディンの死が、そのアルカイーダ壊滅の最も重要な成果であることを強調する。
④次にアルカイーダに対する警戒は今後も続くことを述べ、彼らがイスラム世界の指導者ではなく、この対アルカイーダ戦略がイスラム世界に対する抗争ではないことを強調する。
具体的にパキスタンに言及しながら、アルカイーダは多数のイスラムの人たちを殺害(murder)し、対アルカイーダ戦略においてパキスタンとは協力関係にあるため、パキスタン自身がアルカイーダの攻撃対象であったことを述べる。
そして、作戦遂行後直ちにパキスタン大統領と電話会談し、一大成果を相互に確認したことを述べる。
⑤テロとの戦争は国家が信奉する価値を守るため、固い決心で継続されてきた。この10年間多くの犠牲を伴った。戦争遂行の過程で家族を失った者たちにビン・ラディンの死をもって、Justice has been done、と報告できる。
⑥この戦いに従事してきた諜報部員と作戦遂行を担った軍事隊員の働きへの感謝。
⑦9.11で家族を失った者たちへのメッセージ。あの時の一体感を思い出そう。アメリカはやろうと決心したことは必ず遂行できる国だ。そして以下の言葉で締めくくる。
Let us remember that we can do these things not just because of wealth or power, but because of who we are:  one nation, under God, indivisible, with liberty and justice for all.
全体として、アメリカと言う国が10年と言う歳月をかけて「一体となって」このことを成し得た、と言う点を高調していると思う。

このスピーチの中で度々justiceと言う語が使われた。
bring those who committed this vicious attack to justice
get Osama bin Laden and bring him to justice
Justice has been done
the result of their pursuit of justice
liberty and justice for all
筆者は「ジャスティス」と言う語で、近代市民社会では法廷において、あるいは法によって、「正しく裁きをつける」と言うくらいの意味であると理解している。
オバマ大統領は「ジャスティス」を対アルカイーダ、対ビン・ラディンには法廷で裁くことなく、戦争状態にあるため彼らあるいはビン・ラディンを直接殺害(kill)することで「ジャスティス」がなされたと理解しているのだ。

特に9.11で家族や愛するものを奪われた者たちにとっては、それは「報復的正義(retributive justice)」のニュアンスも含んでいるだろう。

オバマ大統領のスピーチに示唆されている世界観では、アメリカとその同盟国はアルカイーダと言うテロリスト・グループ(多数の無実の者達を殺戮、murder、してきた悪の存在)との正義の戦争を行っているのであり、自分たちに宣戦布告し無差別にテロ攻撃を仕掛けるテロリストたちを殺害(kill)することは即「ジャスティス」を遂行することなのだ。

ただ最後の、 liberty and justice for all、 のところの「ジャスティス」だけは今回のビン・ラディン殺害作戦で用いられた「ジャスティス」とは異なる意味を持つ。
すべての人が持つべきジャスティスとは人権的理念を指すだろう。
その中には市民的権利として、法によって適正に裁かれる権利を含む。

残念ながら今回のオバマ大統領の視点からは、ビン・ラディンにも、テロリストたちにも、その権利はない。
なぜなら彼らは戦争状態における「敵」であり、市民ではないからであろう。
彼らを法によって裁く選択肢はアメリカの大統領(ジョージ・ブッシュ、バラク・オバマ)には最初からなかったと思われる。

※このポストを書く前に英語、日本語の特にキリスト者関係のブログを幾つか読んで、彼らが「人道的な扱い」をビン・ラディンにも与えられたのではないか、との議論を目にしている。
上掲のウィキ記事にも詳しく「法的」なことがまとめられている。
筆者は敢えてこの議論には立ち入らないことにしたことをお断りしておく。

2011年5月7日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

5月8日(日)、午前10時30分より

ヘブル書の学び(20)

聖書朗読 ヘブル人への手紙 3:1-4:13
説教箇所 ヘブル人への手紙 3:6
説 教 題 「キリスト者生活の持続」
説  教 小嶋彬夫牧師

《説教メモ》
モーセより偉大なイエス(3:1-6)④

※礼拝後、昼食会があります。

2011年5月5日木曜日

教会創立記念日

5月5日はこどもの日。
であるとともに、巣鴨聖泉キリスト教会の創立記念日。

先週からブログ更新をお休みしていて、大分休みグセがつきそうになっている。
この間少し体調不良もあったのだが、ちょうどGWだし、まっいいか・・・とそのままにしていた。

で、今日はたまたま父と会話をしていたら、「今日で36年目」と一言。
「えっ何のこと」
「教会創立記念日」
「あっそーか。」
「えっ、36年目じゃないでしょう。46年目でしょう。」
と、計算違いをしている父に説明。

父は「昭和」年号で創立記念日を覚えているらしい。単純な計算ミスなんだけど。
やはり西暦で計算しないとややこしくなる。
こっちは「創立記念日、1965年5月5日」で覚えているので計算は簡単。

ところで巣鴨聖泉キリスト教会、もともとは「インマヌエル綜合伝道団巣鴨教会」でスタート。
その4年後にわけあって離脱したのだ。
それまで父は仙台の教会を開拓。数年で教会堂建築。
教会が安定した頃父の両親が老齢になってきたので両親の住む巣鴨に戻って又教会開拓からスタートした。

当時筆者は小学校4年生。生まれ育った仙台を離れると言うことはピーンとこなかったが。まあしょうがない。
転校して来てすぐずーずー弁をからかわれ、たちまち抜けてしまった。

祖父母は自分の家の一部を間借りさせたり、二階をアパートにしたり、不動産で生計を立てていた。教会といってもそのうち三部屋くらいをぶち抜いて一間にしたスペースのベニヤ壁の会堂。
当時の窓はサッシではなく木製桟のガラス戸だった。

離脱までの4年間はそれほどこれと言う思い出がない。
と言うより中学2年で迎えた「離脱事件」はそれなりにインパクトがあった。
このことを通して子供らしい無垢な見方から、信仰の世界、と言っても別にそんなに世界を幾つもの部屋に分けて整理していたわけではないが、やはり人間と言うのは限界があるのだ。偉い大人も過ちや失敗を犯すのだ、と言うことを深く念じた。

あれから46年、あるいは42年。(綾小路きみまろみたいな響き?)
年を取ったものだ。

と言うわけで、今日は「教会創立記念日」だったのだー。