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2016年3月25日金曜日

(4)『霊性』を神学する 2

極めてアバウトな『霊性』についての神学的文章を書き付ける・・・という趣向で始めたが、昨年11月に「1」を書いたままになっていた。

一応前回定義らしきものを掲げたので、まず再掲。

霊性とは、「生活の深みに達する実践的宗教の訓練(ディシプリン)」のことである。
その後「霊性」の教会史的発展を段階的にスケッチしてみたが、それも再掲。

(1)垂直的(神への信仰)なものと、水平的(隣人への奉仕)なものとが「固く噛み合っている(分離していない)」あり方・・・モーセの十戒、トーラー・律法、預言者の社会正義観、山上の垂訓、「律法の要約」、などに現れているものと捉えることができる。
(2)修道的生活、瞑想、神との合一
(3)神秘主義、観想的生活
(4)奉仕と宣教の修道(フランシスコ)
(5)脱修道、宗教改革者ルター
(6)世俗内禁欲、職業の宗教化(カルヴィニズム)
最初から種明かしをするのも何だが、実は筆者の関心ある『霊性』は定義にも匂わされている様に、何か特別な修練や修行を必要とするものではなく、「日常」を深くするような、そんなところに表されるものを考えている。

言ってみれば「反・達人主義」といった感じである。

別にそれほど反感があるわけではなく、恐らくプロテスタントの環境に育ったためそう言う因子を知らずと抱えているからだろう。

で、(1)の聖書に見られる『霊性』とは、生活における「神と人に対する従順と奉仕」に統合的に現れているものと考える。(これについてはまだ詳細は論じない。)

聖書的『霊性』は特別な霊的生活を必要としない、という視点がまずあり、それが巡りめぐってプロテスタントの「世俗内召命」に還流した、と見る見方を取っているのである。


さて、そんなあてずっぽうな神学的洞察をいい加減な補強の仕方で取り繕おうと物色していたら、たまたまこんな文章に遭遇した。
映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」
  『あるとき神父様から、あなたにとって
祈りとは何ですかって聞かれたときに、
私はとっさに「生活です」って答えたんです。』
________森のイスキア主宰 佐藤初女
 これはあるブログ記事だが、佐藤初女さんの訃報(2016年2月1日)を紹介したものだ。

祈りとは・・・生活です

まさに筆者が思い描いている非達人的霊性を言っているのではないか、と思った。

ではこれを題材に『霊性』を神学するの(2)を書こうと思い立ち、図書館から何冊か佐藤初女さんの本を借りてきて読んだのだが、このことズバリを言っている箇所を見つけられないままになっている。

まっ、紹介したブログ記事で示されているように、映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」を見ればあるのだろうが、似たようなことは他の本の中でも言っていそうなもの・・・とページをめくってみたわけだが・・・。


実は佐藤初女さんのことは、この文章に出会うまで知らなかったわけではない。

いや、実は会ったこともある。

このブログでも何度か紹介したことがあるが、「ジュリアの会・作品展」のフラワー・アレンジメントのジュリアの会を主宰するYさんの知人が佐藤初女さんと親しく、千葉だったかの講演会の帰りに、作品展に寄ってくれたのだった。

今回このような形で佐藤初女さんの文章を読むようになるとは想像しなかったが・・・。

改めて本を読みながら、生活の場面に表される「霊性」を垣間見せて頂いたような気がする。

特に「食」を大事に考えておられ、「食」という人間の「動物的生理」をベースにした人間観、食を中心にした人間の暮らし・営みのありようから「森のイスキア」を訪ねてくる人たちの「悩みや迷い」に答えるその姿勢にうなずくことが多い。

その一端を紹介しておこう。
 食べることというのは、訊く人は“えっ?”というような表情になりますが、食べ方を見ていると、その人のこころが伝わってくるものです。こころの中が詰まっている人は、なかなか食べることができません。それでも、ひとくち、ふたくちと食べ進み、“おいしい”と感じたとき、心の扉が徐々に開いていき、それまで胸の奥にため込んでいたものを、ぽつぽつと吐き出していくんですね。
 そういうとき、私は、自分からあまり話さないで、聴くことを大事にしております。先入観を持たず、自分の中を空っぽにして、その方の身になり、こころを置き換えて、一心に耳を傾けるのです。(佐藤初女『いのちの森の台所』集英社文庫、20-21ページ)

  本当の奉仕とは、自分のいいと思うことをするのではなくて、相手が望んでいることを自分で感じ、チャンスを見てさりげなく差し出すことだと思うんです。それはたとえるなら、道端に置いて通り過ぎるようなもの。振り返りもしないで。振り返るということは、何かを求めているということになります。ですから、置いたままさりげなく通り過ぎるということを、いつも考えています。(佐藤初女『いのちの森の台所』集英社文庫、159ページ)

今回は以上です。(次回に続く)

2015年11月26日木曜日

(4)『霊性』を神学する 1

昨今「霊性」とか、より一般的には「スピリチュアル」とか、すなわち人として生きるときの「内面的生活」の充実が宗教的な伝統から省みられる動向がある。

教会に通う信徒の場合はそれほど意識しなくても、なにがしかの自覚はあると思う。

さらに「熱心なキリスト者」の場合はこの取組みをより自覚的に追求する。聖書を読んだり、祈ったり、いろいろ霊想書を読んだり、いわゆる「デボーショナル」と呼ばれる「個人的敬虔」を訓練するわけである。

筆者はプロテスタントの中で「パイエティズム」と「リバイバリズム」の伝統の強い流れの中で信仰を育まれたのであるが、この年になってその「内面的生活」が様々変化してきたように思う。

どちらかといえば「変わらない」ことが望ましいのであろうが、変化についても積極的に評価できる場合があるのではないかと思う。

そんなことを反省するために、極めてランダム(そしていつもの如く気まぐれにであるが)随想的に「内面的生活」の神学的反省を綴ってみたいと思う。

名付けて「『霊性』を神学する」

別に参考とする本や人物もない。ただこれまでの体験的蓄積を基にして書きつけていこうと思う。(その中には多分に読書や人物観察からくるものがあるだろうと予想する。)

第一回目は「霊性」の定義について。

思いついたポイントは、二千年の教会史の、その時代・時代の異なる(模範的あるいは典型的)「キリスト者生活」をどのようにすれば概観できるか、という問いから出てくる「霊性定義」の問題、を取り扱おうと思う。

※以上のことから明らかなように、この「神学」的よれよれ文章は試論も試論、いや試論の序論程度のものであろう。恐らくその域を出ることは先ずない。

さて、霊性をどのように定義したら二千年の様々なスタイルのキリスト者の内面的生活を、一つの視点から眺めることができるだろうか。

念頭にあるのは4世紀、キリスト教が国教となり「殉教者」という「理想」が非現実的になったときに出てきた「砂漠の荒野への隠遁」による「修道生活」を一方の極に持ち、もう一つの極に宗教改革後の「万人祭司」神学による「世俗内召命」、すなわち「職業従事それ自体が神への奉仕である」という、二千年の歴史の中で二つの対極的なアプローチを眼下に納めるという課題である。

それで試みに、霊性を次のように定義してみることにする。
霊性とは、「生活の深みに達する実践的宗教の訓練(ディシプリン)」のことである。
これを用いて「教会史的発展」を順を追ってまとめると以下のような概略が得られる。
(1)垂直的(神への信仰)なものと、水平的(隣人への奉仕)なものとが「固く噛み合っている(分離していない)」あり方・・・モーセの十戒、トーラー・律法、預言者の社会正義観、山上の垂訓、「律法の要約」、などに現れているものと捉えることができる。
(2)修道的生活、瞑想、神との合一
(3)神秘主義、観想的生活
(4)奉仕と宣教の修道(フランシスコ)
(5)脱修道、宗教改革者ルター
(6)世俗内禁欲、職業の宗教化(カルヴィニズム)
※およそラフスケッチなので、これから論をどうするかまでは考えていない。そのうち展開が見えたら続きを書くことにしよう。

2013年9月15日日曜日

(4)福音派のパラダイム・シフト⑧(完)

ゴードン・T・スミスの小論
The New Conversion: Why We 'Become Christians' Differently Today 
 
を要約・粗訳し終って感じていたのは、いささか大風呂敷であることと(紙面の制約から仕方がないことだが)各論への詳述が足りなさ過ぎ、と言うことだった。

2回に渡って「個人的所見」を述べてはみたが、何となく終えた感じがしない。
夏の間は放置していたが、ここらでちゃんと締めくくりたいと思う。

最後に筆者が試みたことは、もう少しスミス自身について知り、また聞いてみたい、と言うことだった。

幸いゴードン・T・スミスは自身のHPを持っている。

動画の方は「回心」に関連しそうなものは見つからなかったが、音声ファイルの中に適当なものがあった。

The Conversion Experience and the Intellectual Vocation.
  1. Track 1
  2. Track 2
  3. Track 3
  4. Track 4
  5. Track 5
  6. Track 6 
この講演では特に知識人の「回心体験」を自伝的にか伝記的にか「ナレーティブ」として残されたものを丹念に追跡し分析を加えている。

古典的なオウグスティヌスやジョン・ウェスレー、幾らか最近では、G・K・チェスタートンやC・S・ルイス、もっと最近ではヒトゲノム解析を指揮したフランシス・コリンズらの名前を挙げているが、実際に論評しているのは次の4人である。
1. ブレイズ・パスカル
2. シモーヌ・ヴェイユ(彼女の場合はキリスト者への回心は未完であった。)
3. George Grant
4. Paul Williams
スミスは「仕事として」沢山の「回心体験物語」を読むと言うが、これらの知識人たちの「知的問題を含んだ霊的遍歴」から「回心」と言う、個々人にとってはユニークな体験でありながら、神学的に見た「共通要素・過程」を跡付けられるのではないか、と言っている。

なるほどこれを聞くと、スミスはこの小論において、ただ色んな人物の名前を挙げているだけでなく、「回心体験」を学際的にしかし統合的に捉えようとしているのかが窺い知れる。

スミスは思いの外雄弁であったし、よくリサーチしている、と言う印象を受けた。

「福音派のパラダイム・シフト」と言うネーミングはちょっと眉唾に聞こえたかもしれないが、肝心なポイントは、19世紀から20世紀のリヴァイヴァリズムの「回心」を導いたり(「四つの法則」「爆発する伝道」)、あるいはそれによって得られた体験を記述した言語は「型枠」で限られていて、「回心」における知的・霊的複雑さや深さを捉えきれない・・・と言うことを実証したかったのではないかと思う。

少し乱暴にまとめれば「回心体験」とは、実に霊的に深い体験だ、ということだろう。

自身の体験としてこの講演の中でも語っていたが、1970、1980年代「回心」を神学的に講義するための教科書はリチャード・ラブレースのものしか見当たらなかったが、1990年代以降どんどん面白い研究が出てくるようになった、と述懐している。

スミスはどうやら「体験」の神学の可能性と有用性を提唱しているようだ。

と言うわけで、8回かけたこのシリーズもこれにて終幕としよう。
お付き合い下さった読者の皆様に感謝。

2013年8月16日金曜日

神戸・小豆島・高松旅行②

2013年8月11日(日)

K氏宅に泊めていただき、ゆっくり休んで起きました。

朝食は定番のベーグルサンド。ちょっとBLT(ベーコン・レタス・トマト)風。
久し振りにヨーグルトを頂き、朝も例のイチジクを食す。

9時過ぎにはK氏夫妻とK氏のお母様と、車で芦屋恵キリスト集会へ。
(ご子息は全国模試とやらで朝から晩まで外出。)

芦屋恵キリスト集会は(プリマス)ブレザレンの流れを汲む群れで、牧師はいない。
教会とは呼ばず、集会と言う。
会衆に選ばれた長老がリードする。

小さなビルの1階と2階合わせて170㎡(?)を占有するので、大分余裕を感じる。
入ると既に集まっていた方々が迎えてくれる。
あちこちで元気な声の会話が飛び交っていて、これが「関西」か・・・と言う印象。

今朝の集会をリードするT長老が早速挨拶をしてくれる。
名詞を頂き、それとなく講師(筆者)の関心・趣味などについててきぱき質問。
趣味では「木工」が特に興味を惹いた模様。

まず聖餐式が始まる。
式文はないが、毎週のことなので淡々と進む。

パンとぶどう液に与る時、それぞれ別な信徒が祈り(自由祈祷)をささげる。
(祈るのはいずれも男性。女性は集会をリードするようなことはせず、頭に被り物をしている人も何人か・・・。)

少しの休憩の後、「聖書のお話」に。

筆者の用意した題は「いま キリストに従う」。
同じプロテスタントといえども、かなり背景の異なることを念頭に、「共有」するテーマとして選んだ。

最初は皆さんに質問してみる。
皆さんは自分を言い表す時、次のうちのどれを用いますか。
 ①クリスチャン
 ②キリスト者
 ③イエス/キリストの弟子
やはり①が大多数。

この後は巣鴨教会HPのスローガン「わたしたちは、聖書からじっくり学ぶ、キリストの弟子たちの群れを目指しています」と、芦屋恵キリスト集会パンフレット掲載文とを比較しながら、「いま キリストに従う」に繋げていく。

40分近く話させて頂いたが、やはり盛り込みすぎた観が強い。

「キリストに従う」ことの、①個人的な側面(主に使徒パウロの生き様が、キリストの苦難を模範としたことを例に挙げて)と、②共同体的な側面(教会として建て上げられる)、とを聖書箇所を読み上げながら進めていった。

「キリストに従う」ことの具体的目標を「聖化」(聖徒として召され、完成される)と言うテーマに見ながら、二つの側面の普段の実践を、「神への献身と、神の御心を絶えず探り求める」(ローマ12章1、2節)から説き起こしてみた。

最後は「聖化」が自分の達成目標と言うよりも、「神の作品」として御霊によって完成されると言う風に見ることの重要性、さらには「主の祈り」にある「御国がなりますように、御心がなりますように」と言う祈りの姿勢・追求が「キリストに従う」ことを持続していく鍵となるものであることを強調させて頂いた。

多分3回くらいに分けて話すべき主題であったろう・・・。

終わると、この後控える「福音の再発見」感謝デーイベント会場へと急ぐ。

昼食は会場近くの丸亀製麺へ。

かなり混んでいた。
すだちおろし大と鳥の天麩羅。
この旅行初のうどんを食す。
(講評は旅行記最後の巻で)

イベント(福音の再発見ファンサイトで後日報告予定)も終わり、ようやく今回の旅行の公式部分が終了。

K氏夫妻と夕食のため少し山の手方向にあるパン屋が経営するレストランへ。


ここもなかなかリーズナブルであった。
とにかくスペース的にゆったりしていて、その辺がかなり東京と違うところかな。

ゆっくり食事をした後で近くの駅まで送ってもらい、そこでお別れ。
(ほぼ2日間、色々お世話になりました。)

新快速で姫路まで。
その日の宿はヴィアイン姫路

駅からすぐとは言え夜なのでちょっと探した。
ぐだぐだ半沢直樹を見たりして時間を過ごす。

(次回に続く)








2013年7月18日木曜日

(5)福音派のパラダイム・シフト⑥

さてゴードン・T・スミスの『新しい回心』論文を要約・簡訳(簡略な訳)連載後に「個人的所見を述べる」とアナウンスしてきたので、それをここでやりたいのだが、難易度ランクを(5)としたように、かなり長い文章になるのではないか、と懸念している。

確認事項(1)
パラダイム・シフトの参照点が「リバイバリズム」であることについて

福音派のパラダイム・シフト①
スミスが「現在福音派に起こりつつあるパラダイム・シフト」を語る時、その念頭には(19世紀から20世紀にかけて大きな影響を持った)「リバイバリズム」を「参照点」としていることが分かる。

(「福音派はこの『リバイバリズム』を過去のものにしつつある」、がパラダイム・シフト論の基本的認識だ。)

実は『リバイバリズム』に(かっこ)して「信仰覚醒運動」と訳を入れたが、これがなかなか曲者だ。

スミスの念頭にあるのは「19世紀から20世紀にかけて発展・制度化したリバイバリズム」で、先行する17世紀ピューリタニズム、18世紀の(エドワーズやウェスレーらの)『大信仰覚醒運動(The Great Awakening)』とは区別されている。

区別されてはいるが、その歴史・社会的背景の変化には余り言及しないままになっている。
ここに先ずスミスの論述の言い足りない部分があるように思う。(辞典の方では言及しているのかもしれないが・・・。)

簡単にポイントを挙げよう。

17世紀ピューリタニズムは、英国国教会から逃れてきたキリスト者集団による、自覚的に、純粋に、キリスト教信仰を基盤とする共同体形成を目指した運動だった、と筆者は理解している。

このような歴史的文脈で、「回心」はあくまでも信仰共同体を形成するべき「まともなキリスト者」を育成することを念頭にしたものであったと言えるだろう。

宗教改革的に言えば、「教会のノーマリゼーション(本来あるべき姿に戻る)」の一環であり、未信者への伝道や海外宣教はまだまだその視野の中心には入っていなかったと言える。

18世紀の『大信仰覚醒運動』の時点では、ピューリタニズムの理想は崩れ始め、「中途半端な契約」が抱えていた「二世、三世キリスト者を、如何に契約共同体である(明確な回心体験を必要とする)教会員とするのか」という問題が背景になっていた。

その意味で信仰覚醒運動は起こるべくして起こった「教会の内発的運動」、と言う面がある。
20世紀のクルセードに見る様な、一般大衆を相手にした大々的伝道活動のような、(少し語弊があるかもしれないが)「人工的にプログラムされた運動」ではない、と言う点で趣を異にする。
(スミスはそのような歴史的文脈の相違を、それほど意識していないように思う。)

しかし、18世紀の『大信仰覚醒運動』は単に信仰を基盤とする信仰共同体内の問題だけではもちろんなかった。
教会外の社会経済的問題も当然背景にあった。

農業を中心とする第一次産業中心の伝統的社会から、次第に産業構造が変化し、「投機的商人」や「炭鉱労働者」など人口の流動化、大衆化が進み、教区教会(パリッシュ・チャーチ)の外に大量の未信者(unchurched people)を発生させた。

つまり「教会外伝道」と言う新しい伝道ニーズが生まれてきていた。

ジョン・ウェスレーの例を挙げれば、教会(という建物)の枠外にいる労働者大衆に対して、時の英国国教会は最初彼らを「キリスト者化する」する関心も態勢も取れていなかった。

しかし(ジョージ・ホィットフィールドの影響によって)この伝道ニーズに目覚めたウェスレーは、巡回伝道・街頭伝道という革新的働きを強力に推進した。

またウェスレーは、街頭での即興的伝道説教によって大量の「回心」者を作るだけでなく、「回心」した庶民を「組会」と言うスモール・グループのフォロー・アップシステムを通して「信仰の成長」を促し、「救いの完成」へと育成するシステムも開発していった。


またそのような育成システムは単に(霊的)信仰訓練に留まらず、識字教育、教養発展と言う今なら「成人教育」に類するようなものにまで導入・開発されたのである。(ウェスレーはただ回心者を生み出す伝道者ではなく、彼らをキリスト者として育成する牧会者でもあり、そのような育成の仕組みを作り出すオーガナイザーでもあったのである。)

と言う訳で、最初の懸念が当たったしまったようである。
既に長くなってしまった。
とても1回の所見では終わりそうもない。

今回の所見のポイント、「パラダイム・シフトの参照点が「リバイバリズム」であること」、を要約する。

スミスが念頭におく「リバイバリズム」、つまり20世紀に制度化され、普及した「『四つの法則』を用いるような簡略化され、矮小化された回心体験」は、先行する17世紀ピューリタニズム、18世紀の(エドワーズやウェスレーらの)『大信仰覚醒運動(The Great Awakening)』とは単に区別されるだけでなく、もう少し立ち入った比較検討が必要である

これら二つの「リバイバリズム」の比較検討において、
①回心体験の内容、
②回心体験を引き出す伝道(説教)
を取り巻く歴史的文脈に相当留意して「パラダイム・シフト」を主張すべきである。

「教会内vs教会外」の位相が時代を経るにつれて変化してきた問題にしても、教会外に発生した「未信者大衆」の歴史、社会的背景の相違にしても、二つの「リバイバリズム」では「回心体験」の文脈が異なることを視野に入れた「パラダイム・シフト」分析が必要ではないだろうか。

(※個人的所見は更に続く、と言うことになる。読者の皆様、もう少しこのシリーズにお付き合いください。)


2013年6月14日金曜日

福音派のパラダイム・シフト②

引き続き、ゴードン・T・スミスの論文、
The New Conversion: Why We 'Become Christians' Differently Today

から要約・抄訳します。

(回心を取り巻く)「伝道」、「洗礼」、「弟子となること」、等関して、福音派は『回心と救いの体験』を根本的に見直す方向に来ている。

回心とは(注:ここは重要ポイントなので引用して解説します。)
conversion is a complex experience by which a person is initiated into a common life with the people of God who together seek the in-breaking of the kingdom, both in this life and in the world to come. This experience is mediated by the church and thus necessarily includes baptism as a rite of initiation. The power or energy of this experience is one of immediate encounter with the risen Christ—rather than principles or laws—and this experience is choreographed by the Spirit rather than evangelistic techniques. (下線は筆者)
(※イニシエーションは宗教人類学用語としては「通過儀礼」と訳されたりするが、その点には余り引っ張られないようにした方がよろしいと思う。

 回心のポイントは、「その後のライフスタイル全体に入る通過点である」と言うこと。
 回心とは(ウェスレーが用いた表現をちょっと借りれば)、キリスト教の入り口であり、その後に「宗教そのもの」(ウェスレーで言えば聖化の経験)が待っている・・・と言うこと。
② 次に大事なポイントはリバイバリズムの回心がしばしば個人的・瞬時的体験として終始してしまう傾向にあったのに対し、新しい視点では、終末の「神の民」への招きと参加、と言う、共同体的で広い射程を持った体験である、と理解される。

③ だから回心は(パラチャーチや伝道団体のような組織を通してではなく)本来「教会」によってなされるものであり、洗礼がその手段として位置づけられるべきである。

④ 回心は「四つの法則」や伝道パンフレットに簡略にまとめられた「救いの道」のようなテクニックを用いて起こるようなものではなく、復活のキリストに直に「出会う」ところにその活力がある。その鍵となるのが聖霊の働きである。

これらのポイントは実は宗教改革の遺産に戻ることでもあり、神の恩寵と聖霊の働きとが回心体験において優先的であることを認識し直すことである。

このようにリバイバリズムの伝統を見直す機運に影響を与えた人物として、例えばC・S・ルイス、A・W・トーザー、J・I・パッカー、そしてジョン・R・ストットらの名が挙げられる。

しかし大事なことは目下進んでいる「回心・救い体験」の見直しは単なる部分的なものではなく、新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れるような、そんな言語的、神学的入れ物自体の「入れ替え」に相当するものだ。 

このような「回心体験」理解の枠組みの見直し・入れ替え作業を進行させている要因を幾つか挙げてみる。

(1)聖書学関連
新約聖書学者の名を挙げれば、ジェームズ・ダン(英国ダラム大学)、ゴードン・フィー(カナダ、リージェント・カレッジ)、N.T.ライト(セント・アンドリュース大学)、旧約聖書学者としては、クリス・ライト(注:ローザンヌ運動、2010年ケープタウン会議で神学的指導力を発揮した方として覚えておくべき方、リンクはここ) などだ。

彼らの神学的作業の重要性は、聖書を貫く(回心・救い体験に関わる『信仰義認』を)「キリストにおいて神が義となられる」と言う 大きな枠組みで捉えようとしていることであり、単に聖書箇所の寄せ集めで提示しようとしているのではない点だ。

このようなより大きな救いのドラマから導き出される回心体験理解は、単に「いついつどこで“救われた”」と言うような断片化された経験から、過去から未来に向かって伸びる神の救いの計画の中に位置づけられ、生涯的変革を伴う、共同体的、宇宙論的側面を持った『救い』として位置づけられるようになる。

(次回に続く)

2012年10月19日金曜日

日本のクリスチャン・ブログ

今週は更新が無いまま週末になってしまった。
ちょっと「間」を埋める位の軽い記事を書こう。

日本のクリスチャン・ブログ界はキリスト教人口に比例するようにかなり小さい、と筆者は思う。
そんな中でアクセス数(多分)ダントツなのが水谷牧師の命と性の日記だろう。
とにかく良くぞネタをひねり出して毎日記事を連発するのに脱帽。

先日『某牧師の「クリスチャンブログ・ベストテン」に選出されたぞ』 という記事があった。
中澤信幸牧師の中澤信幸的なクリスチャンブログ・ベスト10のことである。

七つは名前を知っていたがそのうち筆者が定期的(毎日か数日おき)に巡回するのは四つだ。
先ほども言ったが日本のクリスチャン・ブログ界は狭い世界なのでそれだけ重複しても何の不思議も無い。

当ブログでは「英語圏(クリスチャン)ブログ」を紹介するシリーズ記事があるが、彼我の違いは単にブログ数やアクセス数に留まらない。(クリスチャン人口が多いのだからそれは当然だ。)
羨ましいのは一括りで「クリスチャン・ブログ」で片付けるのではなく、様々なカテゴリー別に専門化が進んでいることである。

・聖書関係ブログ(これもさらに新約聖書、旧約聖書、パウロ研究などに分かれていたりする)
・神学関係ブログ
・教会史関係ブログ

いやこんな分け方はあくまで一つの例で、実に様々なブロガーがいる。
とても一律にはカテゴライズできない。
複数のライターで運営するブログも多数ある。

日本では多分行なわれていないが、キリスト教関連ブログのランキングを発表するサイトもある。
やれベスト50とか、ベスト100とか・・・。

ブログ・ランキングに関連して、英語圏ブログ界で一つの現象が最近話題に上るようになった。
それは女性のブロガーが取り上げられない、と言うことである。
どうも英語圏ブログ界は男性偏重のようである。

と言ってもクリスチャン女性ブロガーがいないわけではない。
ただ男性のそれと比べて少ないだけだ。
観察して見るとアクセス数の多いブログでコメントの書き込み数が多いブログでも、女性のコメントはやはり少ない印象は否めない。

日本語圏ではどうなのだろう。
似たような傾向はあるのだろうか。


まっ話題が日本から英語圏に移ってしまったので元に戻る。

中澤牧師的ベスト10、みたいな記事は面白い試みだと思う。
やはりその人の関心や何やらで選択するものが違ってきた方が面白い。
単にアクセス数などでランク付けするのはそれなりに役に立つのかもしれないが、「面白いブログ」を発見するにはどうなんだろう。

最後に「小嶋牧師的クリスチャンブログ・ベスト10」と行きたいところだが、それほどリサーチしていないのでできない。
ベスト10などと言うからには恐らくその5~10倍位は知っていないとならないだろう。

と言う訳で軽ーい記事で失礼しました。

2012年1月3日火曜日

お一人様クリスチャン

先ず2012年初投稿記事なので、新年のご挨拶から。

主の年2012年、新年明けましておめでとうございます。
本年も「大和郷にある教会」ブログをよろしく(お引き立て?)お願いします。

さて、巣鴨聖泉キリスト教会の今年の標語聖句を。
愛によって互いに仕えなさい。
ガラテヤ5:13(新共同訳)

ところでこの聖句が示唆するようにキリスト者として生きるとは、キリストの体である教会、つまり信仰共同体を前提としている。
カトリック的なイメージまで行かなくても、プロテスタント教会においても「信仰者の母」としての教会は受け入れやすい印象だろうと思う。

しかしスコット・マクナイトの「王なるイエスの福音」 でも
今迄「福音」として聞いてきたものが、実は聖書的に忠実に語られた福音ではなく、「サルベーション・カルチャー」と定義された、「個人的救いに特化された神学とその適用」だった、とこの本は分析するわけです。
と指摘したように、今私たちキリスト者が生きる時代環境は新約聖書時代の「社会対個人」の構図より一層個人化していると思うのです。

プロテスタント原理(救済に関し如何なる人的権威も神と人との間に干渉する権利を持たない)の延長線上に、このような個人的救いに特化した「サルベーション・カルチャー」が可能となり、近代の落とし子である「個人化(伝統とそれを抱合する社会に対して独立する個人を析出させた近代化の諸相)」の波に晒されながら現在のキリスト者は“教会生活”を送っているのではないでしょうか。
教会史的に見るとプロテスタント教会の中の「自由教会」の伝統では、教会は一見「救われた個人」が任意で形成する社会であり、地縁、血縁、日本的に言えばムラ社会や義理社会の原理を否定しているかのように見えて実はそれほどスッパリとは異なる原理・原則で動いているわけではない。やはり混在しているのが現実の教会だと思うのです。

とまあ何やらややこしい説明をごちゃごちゃ書いていますが、要するに指摘しようとしているポイントは・・・様々複雑な諸相を呈していても、今の教会は人間関係の“絆”が脆弱化する方向に向かっているのではないか、と言うことです。

たまたま昨年は東日本大震災という出来事を通して人と人との絆と言うことを考え直し、生活インフラが崩壊した時に如何に都市で生活する個人が脆弱であるかを感知する機会となったように思います。
だからと言って教会やその他の中間的自由社会が巨大化したマス消費主義社会で行過ぎた個人主義に生きる人々の「絆作り」の受け皿となりうるかどうか、と問われるとそれはなかなか難しいだろうと思うのです。

以前このブログでも書きましたが(「一%の壁」)、2006年に行われた宗教意識調査で、日本人の特に青年層の「キリスト教支持」が6%と高かったことを指摘しました。
(この記事のギャラップ調査結果に関するリンクは現在有効ではないようです。こちらをご参照下さい。)

つまり長い話を短くつづめて言えば、(日本の)既成教会は人間関係が固定化し、新来会者が受け入れられやすい態勢になっていなかったり、また教会内の様々な習慣に馴染めなかったり、またひどい場合には献金の強制や集会・奉仕の強調など「個人の自由」を脅かすように感じられるものがあったり、と程度や内容にかなりな幅があるとは言え「自称クリスチャン」が教会に留まるのを阻害する要因が教会側にあるのも否めないわけです。
そして更に本記事の標題に掲げたように、ネット社会の出現によって(それが直接の原因ではないかもしれないが)、集会や礼拝がバーチャルに、気安くできる態勢が整いつつあるように思うのです。
特に生身の人間関係構築が苦手な若年齢層によってこのトレンドが今後定着していくと仮定すると、「日曜日に教会へ行く信者」(今や1%を切っているだけでなく斬減していく傾向にあると思う)と、教会のような“組織”に繋がっていない(教会の人間関係や習慣に躓いたりして教会へ行くのをやめた人々も含む者たちはかなり増加傾向にあると思う)「お一人様クリスチャン」との間に大きなギャップが発生し、特になかなか顕在化しない後者のタイプの「自称クリスチャン」がサイレント・マジョリティーとして今後の日本のキリスト教の方向に結構影響を及ぼしてくるのではないかと予感する。

元旦礼拝の牧会祈祷では「一人で礼拝しているクリスチャン」(その中にはなかなか行きたくても教会の公同礼拝に参加できない者たちを含むのだが)、特に上記に掲げたような理由で「お一人様クリスチャン」の礼拝を捧げているかもしれない者たちも念頭に、「聖なる公同教会」の「聖徒の交わり」を意識しながら祈った。

※「お一人様クリスチャン」などと言う題を掲げたが果たしてその実態(様々な様相があるに違いなかろうが)についてそんなに具体的に知っているわけではないのであくまでも「多分こんな風に物事は進んでいるのではないか」と言う想像的な文章と思ってお読みいただけるとありがたい。

2011年7月28日木曜日

ジョン・ストット(1921-2011)

ビリー・グラハムと並んで、戦後福音主義を代表する人物であったジョン・ストットが天に召された。90歳だった。


不思議なことに筆者は殆んど何もストットに関する縁というかつながりを持っていない。著書を一冊も持っていないし覚えている限り彼の著作と言えるものを何一つ読んだことがない。

彼の講演を聴いたこともない。

と言うわけで、これを機に師の訃報を伝える記事をあちこち見ながら改めて師の人柄や業績を学んでいる次第である。

少し遡るが、ストット師が熱烈なバードウォッチングの愛好者であること。それを切り札に日本伝道会議の聖書講演者として招くことに成功した次第を、「のらくら者の日記」ブログが紹介している。(「二つの書物」

先ずストット師の業績を概観する記事として「クリスチャニティ・トゥデー(オンライン)」のティム・スタッフォード記者の文章、John Stott Has Died、を読むことをお勧めする。
記事の最後に彼の人柄をこうまとめている。
He was known all over the world, but when you met him he was a most devout, humble Christian man. His private life was no different from his public life. It was the same person. That's another way to say that he had integrity. There was no posing."
筆者が回覧している英語ブログで一番早く訃報を伝えたのは、デニー・バークのブログだった。

やがて次から次へと哀悼のメッセージや彼の影響を語るブロガーたちの記事に接した。
マイケル・バード「ユーアンゲリオン」
スコット・マクナイト「ジーザス・クリード」
(以上は右側のリンクを参照あれ。但し「ユーアンゲリオン」の新しいアドレスは新しくなっているので、古い方からジャンプしてください。)

マイケル・ゴーマンの「クロス・トーク」ブログでは、Thoughts on the death of John Stott、と言う記事でストット師から受けた影響(主に著作を通して)を紹介している。

と言うわけで、個人的にはジョン・ストット師と殆んどつながりを持たない筆者だが、彼の残した影響は色んな形を通して筆者にもやって来ているのだと思う。

改めて幾つかの訃報記事を読んで筆者が惹かれたのは、ストット師のキリスト者としての人柄だ。伝えられるところによると、彼の「謙遜さ」、「表裏のないこと」、「大げさじゃない」、「知的誠実さ」、そんなところだろうか。
しかし人柄だけでなく、何よりも福音の宣証に対する熱心さ、その福音の意味を社会的広がりにまで広げた、ローザンヌ誓約をまとめあげた人間関係を大切にするリーダーシップ、が印象に残る。

さて遅くなったが彼の本を何か一つ読んでみようかな。

2011年2月11日金曜日

キリスト者のゴール

しばらく続いた「のらくら者の日記」さんとの対話も、
「私の方は昨日書いた文章でほぼネタ切れなので、どうかこれ以上振らないようお願いいたします!」と言うことなので、一先ずこのシリーズはおしまいです。残念!

さて、教会のブログ、牧師のブログ、と言うと「説教」が掲載されていることが多い。
筆者の場合はこのブログ上で「説教」を掲載することはないと思う。
あるとしたら「ネット、ブログ読者」に対するメッセージになるだろう。
その場合やはり教会の中でなされる「説教」とは大分趣が違うであろう。

そんなことを言ってはいるが、ネット上にある他の牧師の説教を読まないわけではない。
その場合余り鑑賞する意図ではなく、どんな説教をしているか、どんな内容か、どんな釈義をしているか等、分析・検証するためであることが多い。

今回標題のようなものを検索してみた。

検索してみると「キリスト者人生にはゴールがある」と語りつつ、そのゴールは何なのか具体的に言及しないものも結構ありました。

具体的に言及したものを、その部分だけ抜粋して以下に紹介しますと、
① キリスト者のゴールは、再臨のキリストにお出会いすることです。それが最高最大の希望です。
② キリスト者のゴールは、この世にあるのではなく、天の御国です。この世に望みがあるのではなく、天の御国にこそ、キリスト者の目標があります。
③ (2)栄化の恵み
 ではそのような私たちの聖化の歩みはいつまで続き、どこが到達点、ゴールなのでしょうか。聖書は私たちの聖化の歩みのゴールはこの地上ではなく、天の御国であり、そこで到達する完成の姿は、実に、イエス・キリストと同じ栄光の姿に変えられることであると教えます。これを教理の言葉で「栄化」、「グローリフィケイション」と言うのです。
①は、終末論の一モメントである「キリストの再臨(パルーシア)」 に言及しますが、ポイントは「キリストと会う」あるいは「キリスト共にある」と言うことかもしれません。
②は、いわゆる天国です。この場合の「天の御国」は「神の国」のマタイ福音書表現のことではないようです。このような簡単な表現から推し量るのもなんですが、「この世にあるのではなく」と限定していますので霊肉二元論的な背景があると言っていいでしょう。
③は、三つの中では一番教理的な表現となっていますが、救済論的伝統表現である。いわゆる「救いの順序(オルド・サリューティス)」に基づくものと言って差し支えないでしょう。

三つに共通するのは、終末論にしても、救済論にしても、個人的な側面しか視野に入っていないこと、そして「この世」を否定的に取ること、ではないかと思います。

恐らく一般的説教としてこのような二つの特徴的視点で終始する説教は未だに多いと思われます。
改革派の神学的伝統では「契約の神学」があり、また新・カルヴィニズムの影響によって「被造世界の救済」と言う視点は残っていますが・・・。

「キリスト者のゴール」の問題は、「個人的」か「被造世界全体」か、と言う二者択一ではなく、どう関連付けるかの問題だと思います。

つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。(ローマの信徒への手紙 / 8章21-23節)
パウロの救済観では「栄化」は「身体のよみがえり」であり、被造物全体が「滅びへの隷属」から解放されること結び合わさっています。

その意味で非身体的栄化、非物質的被造世界の回復はパウロにとっては神学的論理矛盾となるでしょう。個人的終末論・救済論が「この世のものではない」「地上のものではない」と主張する時は、この点に注意する必要があります。意図せずにパウロの終末観・救済観を否定することに繋がるでしょう。

長い間大衆的なキリスト教に埋め込まれてきた「霊肉二元論的」に解釈されたキリスト者のゴールが、個人の魂の問題や、個人の死後の問題に極小化されていないかどうか点検する必要があるでしょう。

「神の救済のグランド・デザイン」をエペソ書1章やコロサイ書に見られる「宇宙論的キリスト論」の視点から今一度検証してみるよう同労の牧師、説教者たちにお奨めします。

2010年8月30日月曜日

ブログとは何か

最近はツイッターの方が話題になっているようです。

筆者がツイッターを始めたのはつい二ヶ月前です。最近ようやく「ついっぷる」というアプリでリツイートにコメントするのを覚えたり、ネットアドレス、URLを短縮するアプリを知ったり、まだ使ったことはありませんが、「ツイットピック」と言う簡単にツィッターで画像を添付するアプリがあるのを知ったり・・・、まさにまだノーヴィスとしては、ツイッターの世界は筆者にとってワンダーランドです。

さて同時期に開始したブログですが、こともあろうに、O型の筆者がほぼ連日ブログをポストしています。(血液型と性格の関係については本ブログに『性格と品性』と言うタイトルでポストしました。)

これは予想もしなかった夏の珍事です。

そんなに毎日書くこと無いだろうと思ってはいるのですが、PCに向かい、少し気持ちを向けると、何かしら書くことを思いつきます。

牧師ですから、放っておくと信仰とか教会とか、宗教的な話題になってしまうかと思いきや、そうでもありません。トピックが似たり寄ったりにならないよう少し自制していますが・・・。

さて筆者にとって「ブログとは何か」

「大和郷にある教会」のタイトルが示すように、主に教会を紹介したり、教会とその回りにある社会(世間)とのインターフェイスを目指しています。

ですからトピックは一方で社会にある「教会」の自己確認です。
『福音』『伝道』などのラベルのついたポストは、そのような意味合いで書かれています。

もう一方で、個人のブログにとって一般的トピックである『身辺雑記』のようなポストも織り交ぜています。

教会の身辺雑記より、牧師個人の身辺雑記の方が多いかもしれませんが、この辺はうまくバランスを取っていかなければなりません。

木工に関するポストは、そう言う訳で、筆者のパーソナルな『身辺雑記』の一部です。

ブログを始めて二ヶ月経とうとしていますが、他のブログにも“遊びに行く”ようになりました。
つい先日は、かの有名な『はちことぼぼるの日記』ブログにお邪魔して、初コメントを残したら、丁寧なご返事と、『NTライト読書会』をブログリストに掲載していただく、と言うお土産まで頂戴しました。

キリスト者間の交流としてはこれも益なのですが、筆者はツイッターでクリスチャン同士の相互フォローがかなり高い印象を受けていますので、もう少し雑種交流にも手を伸ばせないかと思っています。

英語ではBlogsphereという表現がありますが、徐々にブログスフィアーの『奥地』や『秘境』探検にも出かけたいなー、とまあ今のところは思いだけですが・・・。

今後も読者諸氏、よろしくお願いします。

2010年7月6日火曜日

クリスチャンとキリスト者

教会内外で「イエス・キリストを信じる人」を『クリスチャン』、あるいは『キリスト者』と呼びます。
多分『クリスチャン』と言う呼称を使う人が圧倒的に多いと思います。
“ノン・クリスチャン”の方はもとより、“クリスチャン”の方でもそうだと思います。
双方に意味の相違はありませんが、このブログ上では筆者は敢えて『キリスト者』をより多く採用することにしたいと思います。

主観的印象になりますが『キリスト者』の方が『クリスチャン』より通俗的に聞こえない、『キリスト者』の方がより自覚的に自己を「キリストに属する者」と捉えているニュアンスがある、と言う余り説得的ではない理由からですが・・・。

「あの方クリスチャンですってねー。」
「あの方キリスト者ですってねー。」

少しニュアンスの違いをお感じになりますか。
であれば少しは上に書いたことに同意していただけるかもしれません。

もう一つもっともらしく聞こえそうな屁理屈にお付き合いください。

仏教、イスラム教、ヒンズー教、etc.と数々ある宗教の中の一つとしてキリスト教があります。

「どの宗教に属していますか。」
と言う問いに、
「私はキリスト者です」と答えるより、
「私はクリスチャンです」と答える方が多いのではないでしょうか。

『クリスチャン』は「どの宗教に属するか」と言う質問に答える自己同定(アイデンティティー)語として使われることも多いと思うのです。

それに対して『キリスト者』は自分が何者かをもう一段掘り下げて用いる自己同定語ではないかと思うのです。

このブログでは「伝道」「福音」「信仰」を初歩に戻って考え、紹介して行きたいと思っています。

『クリスチャン』と『キリスト者』と言う同意味のしかし少しニュアンスの違う呼称についてここまで書いて来たのは、「イエス・キリストを信じる」と言うことは諸宗教の中でキリスト教を選択する以上のことを必要とする、と言うことを言いたかったためです。