一応前回定義らしきものを掲げたので、まず再掲。
霊性とは、「生活の深みに達する実践的宗教の訓練(ディシプリン)」のことである。その後「霊性」の教会史的発展を段階的にスケッチしてみたが、それも再掲。
(1)垂直的(神への信仰)なものと、水平的(隣人への奉仕)なものとが「固く噛み合っている(分離していない)」あり方・・・モーセの十戒、トーラー・律法、預言者の社会正義観、山上の垂訓、「律法の要約」、などに現れているものと捉えることができる。最初から種明かしをするのも何だが、実は筆者の関心ある『霊性』は定義にも匂わされている様に、何か特別な修練や修行を必要とするものではなく、「日常」を深くするような、そんなところに表されるものを考えている。
(2)修道的生活、瞑想、神との合一
(3)神秘主義、観想的生活
(4)奉仕と宣教の修道(フランシスコ)
(5)脱修道、宗教改革者ルター
(6)世俗内禁欲、職業の宗教化(カルヴィニズム)
言ってみれば「反・達人主義」といった感じである。
別にそれほど反感があるわけではなく、恐らくプロテスタントの環境に育ったためそう言う因子を知らずと抱えているからだろう。
で、(1)の聖書に見られる『霊性』とは、生活における「神と人に対する従順と奉仕」に統合的に現れているものと考える。(これについてはまだ詳細は論じない。)
聖書的『霊性』は特別な霊的生活を必要としない、という視点がまずあり、それが巡りめぐってプロテスタントの「世俗内召命」に還流した、と見る見方を取っているのである。
さて、そんなあてずっぽうな神学的洞察をいい加減な補強の仕方で取り繕おうと物色していたら、たまたまこんな文章に遭遇した。
映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」これはあるブログ記事だが、佐藤初女さんの訃報(2016年2月1日)を紹介したものだ。
『あるとき神父様から、あなたにとって________森のイスキア主宰 佐藤初女
祈りとは何ですかって聞かれたときに、
私はとっさに「生活です」って答えたんです。』
祈りとは・・・生活です。
まさに筆者が思い描いている非達人的霊性を言っているのではないか、と思った。
ではこれを題材に『霊性』を神学するの(2)を書こうと思い立ち、図書館から何冊か佐藤初女さんの本を借りてきて読んだのだが、このことズバリを言っている箇所を見つけられないままになっている。
まっ、紹介したブログ記事で示されているように、映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」を見ればあるのだろうが、似たようなことは他の本の中でも言っていそうなもの・・・とページをめくってみたわけだが・・・。
実は佐藤初女さんのことは、この文章に出会うまで知らなかったわけではない。
いや、実は会ったこともある。
このブログでも何度か紹介したことがあるが、「ジュリアの会・作品展」のフラワー・アレンジメントのジュリアの会を主宰するYさんの知人が佐藤初女さんと親しく、千葉だったかの講演会の帰りに、作品展に寄ってくれたのだった。
今回このような形で佐藤初女さんの文章を読むようになるとは想像しなかったが・・・。
改めて本を読みながら、生活の場面に表される「霊性」を垣間見せて頂いたような気がする。
特に「食」を大事に考えておられ、「食」という人間の「動物的生理」をベースにした人間観、食を中心にした人間の暮らし・営みのありようから「森のイスキア」を訪ねてくる人たちの「悩みや迷い」に答えるその姿勢にうなずくことが多い。
その一端を紹介しておこう。
食べることというのは、訊く人は“えっ?”というような表情になりますが、食べ方を見ていると、その人のこころが伝わってくるものです。こころの中が詰まっている人は、なかなか食べることができません。それでも、ひとくち、ふたくちと食べ進み、“おいしい”と感じたとき、心の扉が徐々に開いていき、それまで胸の奥にため込んでいたものを、ぽつぽつと吐き出していくんですね。
そういうとき、私は、自分からあまり話さないで、聴くことを大事にしております。先入観を持たず、自分の中を空っぽにして、その方の身になり、こころを置き換えて、一心に耳を傾けるのです。(佐藤初女『いのちの森の台所』集英社文庫、20-21ページ)
本当の奉仕とは、自分のいいと思うことをするのではなくて、相手が望んでいることを自分で感じ、チャンスを見てさりげなく差し出すことだと思うんです。それはたとえるなら、道端に置いて通り過ぎるようなもの。振り返りもしないで。振り返るということは、何かを求めているということになります。ですから、置いたままさりげなく通り過ぎるということを、いつも考えています。(佐藤初女『いのちの森の台所』集英社文庫、159ページ)
今回は以上です。(次回に続く)
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