2012年12月31日月曜日

明日の礼拝案内

元旦礼拝

2013年1月1日(火) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:1-17
説 教 題 「時を分ける」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2012年12月21日金曜日

年末・年始の集会(休会)のご案内

ただ今教会の集会案内以外は更新をお休みしています。

・12月23日(日)礼拝はお休みします。

クリスマスイブの集会
キャンドルライト礼拝
12月24日(月)夕7時より

・12月30日(日)礼拝はお休みします。

元旦礼拝
2013年1月1日(火)午前10時30分

2012年12月15日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第三主日 クリスマス礼拝

12月16日 午前10時30分

朗読箇所 マタイの福音書 1:1-25
説 教 題 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2012年12月8日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第二 主日礼拝

12月9日 午前10時30分

朗読箇所 ルカの福音書 7:11-23
説 教 題 「おいでになるはずの方」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2012年12月7日金曜日

N. T. ライトを学ぶクラス

2年前にホィートン大学(Wheaton College)の神学会議で「N. T. ライト」の業績を評価するイベントがあった(音声及び動画はここから入手できる)。

まだ現役バリバリの学者を神学会議の主題に据えると言うだけでも異例とも思うが、とにかくN. T. ライトはそのような対象になるだけの影響を既に残していることを例証する。

で、今度は「N. T. ライト」 が主題の大学院レベルのクラスが開講される。

The Ecumenical Institute of Theology at St. Mary’s Seminary & Universityの
BS/ST509/709 The Writings of N.T. Wright
Thursday, 6-9 p.m., January 14-March 21 (3 graduate credits) というクラスだ。

アナウンスはこのコースを教えるマイケル・ゴーマン教授のブログに掲載されている。(ここをクリック

クラスの概要は次のようになっている。
An exploration of some of the biblical, theological, and pastoral writings of the contemporary British Anglican scholar N.T. Wright, with attention to the significance of his work for the life of the church.
新約聖書学者、神学者としてだけでなく、教会人としてのライトの影響も加味されているところが味噌かもしれない。
ちなみにコース必読書の中に、 For All God’s Worth: The Worship and Calling of the Church.が入っている。

どんなコースになるか実際始まったらブログでレポートしてくれないかな。

2012年12月6日木曜日

神学遍歴⑥

依然としてアズベリー・神学校時代のこと。

三年生の冬、主任教官のクーン博士のクラスのことを話してみよう。

主任教官というのは勝手な命名だが、アズベリーでは前二年にある程度の成績を取った者には三年目の履修クラスをその生徒の希望する分野に集中できる特典を与えていた。

筆者は留学生の先輩に是非そのような成績を取って自分の専門領域を開拓する勉強をした方がいいよと勧められていた。
暢気な性格で余り欲も深くないのだが、この先輩の発破のおかげで一念発起学業を頑張り、何とかそのような成績を取ることができた。

それでキリスト教倫理をある程度自分の専門と考え、クーン博士 (the late Dr. Harold B. Kuhn) のクラスを多く取るようになったのであった。

三年生の秋学期、クーン博士のクラスはキリスト教社会倫理だった。
戦争や貧困など幾つかの問題群の中から一つを選んで課題論文を書くクラスだった。

筆者が選んだのは遺伝子操作技術(リコンビナントDNA)。
科学にはめっぽう弱いのになぜこれを選んだのか、残念ながら殆んど覚えていない。
もしかしたらクーン博士の方から「やってみないか」のような促しがあったのかもしれない。

ところでこの問題を取り上げたことで筆者が知るようになったキリスト教思想家(倫理学者)がジャック・エリュール(ウィキ記事)である。
特に「技術社会」から学ぶことが多かった。

何を学んだか一言で言うのも難しいが、「技術」と言うものをニュートラルなものとしてではなく、自律的で、特に現代にあってはデモニックなまでに人間存在を規定する勢力、として描出しようとしていたように記憶する。

その後はエリュールの著作を色々購入した。
「都市の意味」や「暴力」「プロパカ゜ンダ」などなど。
全部読んだわけではないが一時期「はまっていた」と言えるだろう。

アズベリーのような保守的な学校ではエリュールは前衛的な思想家だといえる。
もちろん当時はそんな思想的背景など分かって読んでいたわけではないが。
とにかく当時の筆者にとってはエリュールは非常に刺激的な思想家だった。

ところで課題論文を仕上げるのに、友達の家でタイプライターを借りながら奮闘していた。
1980年12月8日夜、たまたまテレビを目にしていた時に「ジョン・レノン逝く」のニュースが流れた。
今でもその時の記憶はかなり鮮明に残っている。

2012年12月1日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第一 主日礼拝

12月2日 午前10時30分

朗読箇所 マタイの福音書 28:16-20
説 教 題 「主の年」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2012年11月30日金曜日

主に神学ブログ 2

さて前回シリーズ1は筆者が時々巡回しているブログを紹介した。
今回は新しくこの連載のために探索した「主に神学ブログ」になる。
交互に紹介して行く予定だ。

リサーチして見るとガチに「神学ブログ」それほど多くなさそうだ。
と言うわけで余りジャンルに拘泥すると紹介できなくなってしまうので、連載タイトルはあくまで目安と思っていただきたい。

しかしこんなことをやり始めてしまってから思うのであるが、ひと様のブログを勝手に紹介するのは土足で人の家に上がるみたいなことにならないかしらん、との心配もある。

失礼なことを言わないためにはそれなりに中身を見なければならないから多少時間がかかる。
まっどっちにしても「野次馬根性」に近いので、もしご本人に知られてしまった時はご勘弁を、と言うことにしておこう。

前置きが長くなった。

教会・礼拝・聖書・説教・伝道・神学
は日本基督(キリスト)教団柏教会の牧師、春原禎光(すのはら・よしみつ)先生によるブログだ。

かろうじて最後に神学が入っているのでご紹介しても構わないだろう。
2010年3月に始めたブログのようだから当ブログより少し古い位。まだ新しい。

一見して日本の教会の牧師が仕事を通して関心ありそうなことを色々取り上げている。
余り趣味とかすっ飛んだ話題はないようなので(ことに牧師のような)読者には安心して読めるブログではないか。

ご本人が読んでいる本のメモなどもけっこうあるので、書籍紹介のような便利さもある。
特に筆者のようなキリスト教関係書籍でも日本語のものはめったに購入しない者にとっては助かる。

記事の長さは適当で、余り混み入ったことは書かないポリシーのようだ。
それもブログ巡回する者にとっては助かる。

「ミニストリー」誌の八木谷涼子さんの記事を特集した『ミニストリーの八木谷』と言う連載があって、これがこのブログの持つ重要な目線の一つかもしれない。
教会運営の実際面に対する関心が高いと言えるだろうか。

牧師が書くブログは色々あるだろうが、このブログなどは日本の牧師がどんなことを関心持ちながら、考えながら、仕事をしているのかを垣間見ることのできる言ってみれば(こんな表現失礼かもしれないが)「定点観測」用ブログではなかろうか。
筆者にとってはアンテナの役割を果たしてくれそうである。

以上簡単な紹介で申し訳ありません。

2012年11月29日木曜日

誰に聞く?

今回は全くのずぼらなエントリーです。

何の脈絡もなく(全然ないわけではないが、それは筆者個人の中だけで、読者の皆さんには見当たらないと言うこと)以下のような疑問がわきました。

「仏教」について誰に聞くと言えば「中村元」を思いつく。
「イスラム教」と言えば「井筒俊彦」。
ではキリスト教と言えば誰に聞く。

もちろんお二人の名前を挙げたように、日本人でと言うことです。

筆者も(ブログにも少し書いたことがあるかもしれないが)お二人の各宗教の原典とも言える「スッタニパータ」と「コーラン」に(さーっと)目を通したことがある。

二宗教については門外漢の筆者でもお二人の碩学は何となく分かるような気がした。

実際筆者のような疑問を殆んどそのままネットに投稿された方がある。(ここをクリック

最初に「何の脈絡もなく」と書いたが、実は今日図書館から借りてきた河合隼雄と柳田邦男の対談本『心の深みへ』(講談社、2002年)の中で、河合がこんなことを言っている。

そう、日本人の自己実現ということを考えてもいいと思う。そして、日本の自己実現にとってもっとも重要になるのが、もっとキリスト教を知るということ。日本人はキリスト教のことを知らなさすぎます。(54ページ)
なんで河合隼雄かはここには書かないでおこう。
ちょっとだけ言えばもともと「面白い」と思っていたのだが、図書館で手ごろなものを探していた時たまたま河合の対談集(何冊もあるみたいだ)の一つに村上春樹が入っているのを目にした。それがたまたま面白かったので柳の下の何とやらで手にしたのがこれ、と言うわけ。

最近雑誌などで「キリスト教」が特集されたり、2012年新書大賞に「ふしぎなキリスト教」が選ばれたりしている。
筆者も実は「ふしぎなキリスト教」をわざわざ買って読んだ。
わざわざが不遜に聞こえるとあれなので説明しておくと、筆者が買う本は殆んどキリスト教神学書に限られている。しかも英書。キリスト教関係書籍であっても日本語のものは殆んど買わない。

と書くとやっぱり不遜か・・・。失礼。

てなわけで「ふしぎなキリスト教」はやはりわざわざ買ったのである。
で内容には大体においてがっかりした。
かなりな放談で終始している。(これが漫才だったらそれなりにスピード感があっていいのかもしれないが。)

そんなご時勢だからますます「キリスト教に関してだったら(日本人の学者だったら)誰に聞く」と言う疑問は切実なものがある。と筆者は思う。

誰も思いつかないのである。

仏教も、イスラム教もそれぞれ長い歴史の過程で今日まで一大文明圏を形成し保ってきた。
その文明的意義を把握しつつ原典に依拠しつつその真髄を語ることは並大抵の知見ではできないことだ。

キリスト教は古代ユダヤ教に淵源し、二千年に渡って今や地球上のほぼ全域でその影響を見るほどに拡がってきた。
その間幾つかの大きな流れ(カトリック、東方教会、プロテスタント)に分岐したので、総合的にキリスト教を論ずることは仏教やイスラム教を語ることと同じかそれより難しいことかもしれない。

もっとも河合の言った意味は西洋近代が作り上げた「近代的自我」との関係で「自己実現」を考えるためにキリスト教をもっと知らなければならない、と言うことだろう。

さて読者の方でこれは、と言う方がいたら教えて欲しい。

蛇足になるが、Christianity scholarで検索していたら、20 Most Influential Christian Scholarsをヒットした。
以前目にしたことがあったものだが、N. T. ライトもノミネートされているので載せておこう。



2012年11月26日月曜日

一騒ぎ

12月7日発売予定のA・H氏による物騒なタイトルの本の情報がTLに流れてきた。
(TLとはTwitterのタイム・ラインのことだ。)

あえて本のタイトルは伏せるが、一見して「何だとんでもないタイトルだな」と言うことでついリアクションしてしまった。つまりツイートしてしまった。

一応本のタイトル名で検索して、本の目次をチェックし、著者の背景も少し調べてからツイートしたのだ。

すると知己の間柄である某氏がリツイートとしてくれた。

それだけのことでよかったはずだったが・・・。

翌日のヤフーニュース記事にそのツイート内容の一部が拾われてしまった。

こちらは実名でツイートしているので、立場や肩書きまで入れられて。

この本の批判的なコメント群に加えられてしまった。

筆者がネット上に書いたもので「炎上」になったものはないが、自分のあずかり知らぬところで「炎上」させる方に入れられる格好になってしまった。

何か決まり悪い心地であった。

でもネット社会は刻々とホットな話題は移り変わる。
明日になればもう雲散霧消。

と言うわけには行かなかった。
その週の土曜日午後、電話が鳴って取ると、某週刊誌の者だという。

例の本についての電話取材であった。
あらまー。

また不意打ち・・・の感じがしたが、とにかく聞かれるままに色々答えては見た。
が、なかなか自分の思うようには意が伝えられなかった。

翌週その記事が載った某週刊誌の最新号が郵送されてきた。

一応内容をチェックして見ると、自分が取材されたものに関しては、確かに発言通りになっているところと、少しこちらの意とは沿わないまとめになっているところとあった。

さて12月7日はまだだが一件落着してくれるといいのだが。

2012年11月24日土曜日

明日の礼拝案内

収穫感謝 主日礼拝

11月25日 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 14:8-18
説 教 題 「成長を祝福される神」
説 教 者 小嶋崇 牧師


※礼拝後昼食会があります。

2012年11月21日水曜日

主に神学ブログ 1

神学、と短縮形で言ってしまうと宗教多元主義の文脈では厳密ではなく、不遜に映ってしまう危険がある。
キリスト教神学の短縮形とご理解いただきたい。

日本語で読める「主に神学ブログ」のトップバッターに選んだのは、東京にある教会の牧師職を辞されて今は北海道の余市で生活をなされている後藤敏夫先生の
どこかに泉が湧くように 
である。
(まだ先生と呼んだ方がいいのか、それとも最早そのような呼称には何の未練もないのか、筆者には何とも言えないのだが、ここでは便宜上「先生」と呼ばせていただく。)

もともとはこの「主に神学ブログ」の連載でも取り上げることになるだろう、
のらくら者の日記
に何本か北海道での生活ぶりや神学的随想などを寄稿していたのだが、ご自身でブログを開設される事になり、以後続々とこれまで書き溜めた(?)説教敲やら、随想やらをアップなさっている。

2012年2月に開設して、既に160本以上のエントリーがあると言う極めて充実したブログである。

筆者もその一部しかまだ読んでいないのだが、僭越ながら「牧師の先輩」として学ぶばせていただくことは多いと思っている。
もちろんそれは神学に限らない。

さて最近の記事で関心を持って読んでいるのは「『神の国の証人ブルームハルト父子』覚書」 シリーズである。

後藤先生が「井上良雄先生」と言うブログ・カテゴリーを用意しているように、大いに影響を受けている方であるその井上良雄氏の『 神の国の証人ブルームハルト父子』(新教出版社:1983)について後藤先生が30年前に書いた文章がブログに再録された訳である。
はじめに
Ⅰ 敬虔主義から出て敬虔主義を越える
 1 敬虔主義の特質
 2 決定的転回点——ゴットリービン・ディトスのいやし
 3 敬虔主義を越える特質
Ⅱ 終末論をめぐって
Ⅲ 父ブルームハルトに対する幾つかの疑問
おわりに
 という構成になっているので、目下連載の途中である。

筆者はバルトも殆んど読まないし、ブルームハルト父子についても殆んど知らないが、暫く前
FEBC 
で井上良雄氏の「ブルームハルト父子」についての講演のようなものを聴く機会があった。
(期間限定なので今は見つけられないようだ。)

後藤先生の「覚書」の文章から読み取れるのは、ブルームハルト父子が敬虔主義の伝統の中から、「神の国」の福音のリアリティーを牧会経験を通して回復していくプロセスである。

また余白に後藤先生自らの福音派の伝統に対する反省的省察が挿入されている。

このあたりのことは書かれたのが30年前とは言え、日本の福音派の現状を考える時、依然として有効であると思う。

少し長くなるが引用する。
それよりもまず私たち福音派にとって重要なのは、福音を「神の国の到来」と理解すること から、先に述べたような敬虔主義を越える父ブルームハルトの特質が生まれたということである。著者も言うように、これは敬虔主義には終末論がないというの ではない。「『最後の事物の問題』の再発見は、敬虔主義においてこそ起こった」(182頁)とバルトもその事実を認める。しかし、著者はすぐに続けて、 「ただし、それは、千年王国説という形における終末論であった」(182頁)と言う。この指摘は、敬虔主義的伝統に立つ教会の終末論に対して、今日でもほ ぼそのままあてはまるだろう。

現在福音派に支配的な終末論的関心は、主に究極的終末に至るシナリオをめぐるものであり、そこでは、今も含めた「歴史」は、 まったくと言っていいほどに関心の対象とはならない。「歴史」が問題となるのは、人々に救いの時を与える舞台としてであるか、終末論的シナリオの成就とし てである。もちろん、福音派諸教会の終末論を大雑把に一つに語ることは、歴史的にも神学的にも厳密さを欠くことではある。しかし、そのようなものが福音派 に支配的な終末論的雰囲気であることは確かなことのように思われる。

これは福音派の教会において、「神の国」について語られないということではない。もちろん、そういうことはあり得ない。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ 6:33)という御言葉が引用される機会は少なくない。しかし、多くの場合、それは、「神さまのことをまず第一にする」というように、「私」の生活の優先 順位のこととして語られる。それが大切なことではないというのではない。すべての神奉仕は人間奉仕であるべきだというような「気の効いた逆説」(18頁) が、活ける神への畏れを忘れさせ、単純にキリスト者としての生活があるということさえあいまいにするとしたら、そこで見つめられているものは一体何だろ う。だがしかし、私たちが「神さまのことを第一に」と言うとき、そこで言われている「神さまのこと」とは何だろう。神の国をまず求めるということが、ほとんど「私」の生活におけることだとすれば、神の義をまず求めるのは、神の国のためだろうか、それとも「みな与えられる」ためだろうか。(以上「覚書」5から。アンダーラインは筆者。)
先日久し振りに「日本福音主義神学会」の東部部会研究会講演に行って来た。テーマは「キリスト者と原発」である。
このようなトピックが選ばれたこと自体は喜ばしいことだが、神学的分析の切り口(「キリスト教の科学観」や「文化命令」)がいささか旧態然と感じた。
「主イエス・キリストの主権」や「神の国」と言う新約聖書の福音メッセージとは殆んど切り結ばれていなかったような印象を覚えた。


最後の一文は乱雑な感想で蛇足だが、日本の福音派も少しは後藤先生の30年前の分析より一歩進んだかもしれない、と言うことの例証として言及しただけ。


いささか尻切れトンボのような感じだが、とにかくまずは日本語で読める神学ブログの紹介をスタートさせたことでよしとしよう。

2012年11月20日火曜日

主に神学ブログ 序

先日「日本のクリスチャンブログ」と言う記事を投稿した。(ここ

中澤信幸牧師の中澤信幸的なクリスチャンブログ・ベスト10にいささか触発されて書いたわけだが。

その後中澤牧師からコメントを頂いた。

ぜひ、やってくださいよ、「小嶋牧師的クリスチャンブログ・ベスト10」。
と言うことであった。

暫く考えていたのだが、何せ「ベスト10」とか銘打つには余りにも巡回している日本語圏の「クリスチャン・ブログ」の数が少なすぎる。
少し違った切り口からでないと無理だな、と考えていた。

それで「聖書や神学」の話題が多いブログに絞ろうと思ったわけである。

とは言え「クリスチャンブログ」の中で「聖書及び神学」のトピックに専門化したブログが果たしてあるかと言うと、当方の情報不足もあり今のところなかなか見つけられないでいる。

いきおい自分が普段巡回しているブログを中心に紹介するこことなるだろう。

と言う訳で日本のクリスチャンブログ事情を少しリサーチしながら連載(になるといいんだけど)してみようかと思う。

何分最近は更新が滞っているのでゆるいペースになると思うが、お付き合い願えれば幸いである。

当分の間、自分がある程度知っていて巡回しているブログと、リサーチしながら見つけ出したブログを交互に紹介していければ、と思っている。(やりだしてから変わるかもしれないが。)

なお始めるにあたってお断りしておくと、中澤牧師が選んだブログで、筆者も良く知っているブログを取り上げないかもしれないが、それは「選に漏れた」と言うようなことではない。

最初に言ったように「聖書や神学」を主な話題としているブログに絞った結果だ、とご容赦願いたい。


2012年11月17日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

11月18日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:11-18
説 教 題 「主イエス・キリストの恵み」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(96)
ガラテヤ人への手紙(84)
・6:11-18 締めくくりの言葉
(A) 6:11-13 割礼を受けさせようとする者たち 
(B) 6:14-17 大事なのは新しい創造
(C) 6:18   最後の祈り

2012年11月14日水曜日

オウム真理教ノート 2012/11/14

オウム真理教に関しては三ヶ月振りくらいとなる。

読書の秋と言うことで最近また図書館に本を借りに行く機会が増えた。
村上春樹のものをまた読んでみようと思ってたまたま書架にあった「アンダーグラウンド」を借りてきた。

地下鉄サリン事件に遭遇した市井の人々の中から何とかインタヴューに応じてくれた人60人の「物語」である。
700ページ弱に及ぶインタヴューの一つ一つを読むのはそれほど苦痛ではなかった。

最後に村上自身が「地下鉄サリン事件」に対する、またこの本を企図した背景などをまとめた文章が載せられている。
さすがに文筆家、平易な文章でサリン事件の意義を掘り下げている。

村上がこのような本を企図した背景には、マスコミの事件の取り上げ方が一方的で、一面的なものであったことに対する違和感があったようだ。
オウム真理教は「悪」で、その被害に遭った市民、そして「私たち」は「善」と言う二分項的ないささかステレオタイプな処理の仕方に「これで果たして事件を終わらしていいのだろうか。風化させてしまうのではないだろうか。」と危機感を持ったみたいである。

オウム真理教ノート 2012/7/23で、森達也の『A』を取り上げたが、これも事件を別の視点から見てみようとするもので、その意味で村上の違和感と相通じる問題意識を背景としていると言えるだろう。

村上は巻末の「目じるしのない悪夢」--私たちはどこに向かおうとしているのだろう?で「自我の欠損」とそれを補おうとする「物語」の視点からオウム真理教と教祖麻原彰晃のことを書いている。
麻原彰晃という人物は、この決定的に損なわれた自我のバランスを、一つの限定された・・・システムとして確立することに成功したのだろうと思う。・・・彼はその個人的欠損を、努力の末にひとつの閉鎖回路の中に閉じ込めたのだ。(中略)
 オウム真理教に帰依した人々の多くは、麻原が授与する「自律的パワープロセス」を獲得するために、自我と言う貴重な個人資産を麻原彰晃という「精神銀行」の貸金庫に鍵ごと預けてしまっているように見える。(698-699ページ)
村上が見るところオウム真理教が投げかけている問題は「物語」と言うことだ。
 それがオウム真理教=「あちら側」の差し出す物語だ。馬鹿げている、とあなたは言うかもしれない。・・・
 しかしそれに対して「こちら側」の私たちはいったいどんな有効な物語を持ち出すことができるだろう?麻原の荒唐無稽な物語を放逐できるだけのまっとうな力を持つ物語を、サブカルチャーの領域であれ、私たちは果たして手にしているだろうか?
 これはかなり大きな命題だ。私は小説家であり、ごぞんじのように小説家とは「物語」を職業的に語る人種である。だからその命題は、私にとって大きいという以上のものである。(703-704ページ)
収録された60人の物語の中で特に重い後遺症を負った「明石志津子」さんと、亡くなった「和田栄二」氏夫人「和田嘉子」さんのインタヴューは村上にとってひときわ印象深いものだった。
その和田嘉子さんの記事の中にこういうくだりがある。故人の記憶をビデオで思い出そうとしている、と言うくだりだ。
 少しはビデオとかも残っています。スキー旅行の時とか、ハネムーンのときとかに撮ったやつですね。 そういうのは声も入っているから、もうちょっと大きくなったら[子どもに]見せてあげようと思っています。(中略)私も段々この人の顔の輪郭とか、思い出せなくなってくるんです。特徴があって、この人ね、眉のところのホネが角ばっていたんですよ。そういうのがね、最初の頃は手でこうやってなぞっているとね、はっきり思い出せたんです。それがだんだん思い出せなくなってきて・・・・・
 ごめんなさい。なんか・・・・・
 なんか・・・・・、肉体がないと・・・・・、肉親でも思い出が薄れていっちゃうんですね。肉体ないとね・・・・・。
喪失感が二重(肉体とその記憶)に迫ってくる部分だ。

記憶と言えば「私たち」と「地下鉄サリン事件」の関係はどうだろうか。
収録されたインタヴュイーの中にも事件のことを忘れ去ろうとしている人は少なからずいたようだ。
事件に遭遇せずマスメディアの記事として触れた大方の「私たち」はどうだろうか。

村上はサリン事件被害者に事件を物語らせることによって、それをよすがにして、忘れ去るのではなく記憶することを促しているようだ。
それは「私たち」現代日本を生きる者のアイデンティティーが漂流・喪失することに歯止めをかけ、事件を物語ることによって生ずる癒しを期待してのことなのだろう。

筆者はなぜ「オウム真理教ノート」を続けているのだろう。
別に自分の物語の中に取り組もうとしているわけでもないのだが・・・。

今のところまだこれと言った目的も動機もないが、まだ暫く続けていこうと思う。


2012年11月11日日曜日

最近購入した本

段々書棚も一杯になってきて、ここ1,2年に買った本は、机の上や床の上に放置されるようになってきた。
と言うことで新しい本を買うのはいささか控える傾向にある。

とは言っても全然買わないわけにも行かない。
暫く買わなかったがもう買う頃だ。

と言うことで今日紹介する本をアマゾン(米国)に注文した。
それまでは注文してから3週間くらいで到着していたと思うが、今回はどうしたわけか6週間もかかってしまった。

N. T. ライトのものは継続して買っているが、前回はHow God Became Kingを初めてキンドル版で購入した。
このプログでも紹介したがフェイスブック上での読書会用である。
How God Became King 読書会

HGBKのコンパニオン・ボリュームのようにして同時期に発刊されたのが、
N. T. Wright, Simply Jesus: A New Vision of Who He Was, What He Did, and Why He Matters.
である。

さすがに今回はキンドル版はやめた。
やはり読み返したりする時不便なのである。
紙媒体の方があっちこっちランダムに移動する時格段に楽だ。

ライトのものはもう一冊購入した。
N. T. Wright, Evil and the Justice of God.
献呈の辞が
In memory of those who died
in New York and Washington on September 11, 2001,
around the Indian Ocean in December 2004,
in New Orleans and the Gulf Coast in August 2005,
and in Pakistan and Kashmir in October 2005
となっているように、巨大スケールでのテロや天災を目撃した現代人の脳裏に去来する「悪の問題」を取り上げたタイムリーな本だ。

この本でも参照されている

Miroslav Volf, Exclusion & Embrace: A Theological Exploration of Identity, Otherness, and Reconciliation.
は筆者にとって2冊目のヴォルフの本だ。

William J. Abraham, The Logic of Evangelism.
はスコット・マクナイトの「キング・ジーザス・ゴスペル」が展開している“新しい”福音観とどの程度親和性があるか、ちょっと気になって購入してみた。
聖書的『福音』観ー二派に分離?でもちょっと述べたが、「(個人的)救い」を中心とする「福音」の見方に対してよりナレーティブな聖書理解に基づく「福音」の見方が新約学者の中に出てきている。
神学者であるアブラハムは「福音」に対してどのような切り口を持っているのかこの本から見てみるつもりだ。

Henri J. M. Nouwen, The Wounded Healer: Ministry in Contemporary Society.
は筆者にとって(意外に思われるかもしれないが)初めてのナウエンである。

ナウエンの名前は大分前から知っていた。
日本でも暫く前から多くのクリスチャンに読まれていることも知っていた。
しかしなぜか関心を持てなかった。

早速読み始めているが、簡潔な英語の文章に知性と温かみがこもっている、そんな印象である。


もう一冊
Henri J. M. Nouwen, In the Name of Jesus: Reflections on Christian Leadership. を注文したのだが、こちらは在庫切れだった。

Charles R. Ringma, Catch the Wind.
こちらは、「ヨーダー読書会」の三冊目のテキストである。「イエスの政治」「社会を動かす礼拝共同体」に続くものだが、「教会の変革」を示唆する本である。

以上6冊が新たに加わり、積読状態、途中まで読んだ状態の本たちと筆者の関心を引こうと競うこととなる。

2012年11月10日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

11月11日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:11-18
説 教 題 「神のイスラエル」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(95)
ガラテヤ人への手紙(83)
・6:11-18 締めくくりの言葉
(A) 6:11-13 割礼を受けさせようとする者たち 
(B) 6:14-17 大事なのは新しい創造
(C) 6:18   最後の祈り

2012年11月7日水曜日

尹東柱 詩の朗読会

二十七歳で獄死した
韓国の国民的詩人・尹東柱を謳う
(尹東柱、立教大学時代、1942年)

朗読:
女優 松岡みどり
チョン スソン(韓国語)
ペ ミヨン(韓国語)

特別出演
ビオラダガンバ演奏 品川聖 


日 時:2012年11月23日(祝・金)
    午後1時30分開場、2時開演
場 所:巣鴨聖泉キリスト教会
入場料:3000円(飲み物付き)

◎問い合わせ TEL/FAX 03-3392-2205
jadehottaer(アットマーク)i.softbank.jp

会場アクセスはここをクリック 
   

2012年11月3日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

11月4日 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 13:1-20
説 教 題 「捨て身の愛」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2012年10月30日火曜日

2012NTライト・セミナー

少しずつだと思うが、前英国国教会ダーラム司教(英国国教会ではカンタベリー、ヨークの大主教に次ぐ第三位の高位の主教)、そして現セント・アンドリュース大学の「新約聖書と初期キリスト教」の研究教授である、Nicholas Thomas Wright (1948-)の名前は日本にも浸透しつつあると思う。

先日、10月18日、御茶ノ水クリスチャンセンターで筆者を含めた四人の呼びかけで「NTライト・セミナー」が持たれた。内輪の研究発表会で公に宣伝はしなかった。当初10人程度の参加者かなと思っていたが蓋を開ければ20人を少し越えた位。盛会であった。

まだ正式な発表はないが来年あたりに向けてライトの著作邦訳が始まりそうな機運がある。その前哨戦と言うか、先駆けとも言うべき実験的イベントとして呼びかけ人のうちのU牧師の呼びかけで今回の企画が持ち上がったわけだ。

筆者は「NTライト・読書会」主催者としてお声がかかったわけだが、NTライトの日本での知名度が圧倒的に低いことを嘆いて読書会をスタートさせた者としては、渡りに船、呼びかけに応じて企画に参加し、セミナーでの発表を引き受けた。

当日用意した発表要旨(アウトライン)は以下のようなものである。
2012/10/18
「N.T.ライトと聖書」
小嶋 崇
《学者》としてのN.T.ライトの専門領域は「史的イエス」と「パウロ」と言うことが出来ると思います。しかし《教会人》としては実に多様なトピックについて聖書から発言してきました。今回はライトの聖書観に関し『聖書の権威』に絞って紹介します。ライトの〝複雑な〟そして〝ダイナミックな〟『聖書の権威』観について解説したいと思います。

・ 「聖書の権威」は間接的な権威
the phrase “authority of scripture can make sense only if it is a shorthand for “the authority of the triune God, exercised somehow [i]through[/i] scripture.” (Last Word, p.23.)
・ ナレーティブな聖書の性格に相応しい「権威観」を持つことが肝要
 …聖書の内容性格に沿った読まれ方(ハーメニューティックス)とはいかなるものなのかと言う問題提起。
 教会史の中での聖書観の変遷 ①信仰と生活の諸問題を解決する「法廷」、②個人的敬虔のための文書(レクシオ・ディヴィナ)
 短絡化されやすい聖書権威観:「信仰と生活に関する(唯一絶対の)規範、sola scriptura」「ルール・ブック」「正しい教義の源泉」「神の自己啓示(情報コミュニケーション)」

『5幕からなる劇』に見立てた《聖書の権威》
(1)創造(創世記1-2章)
(2)堕落(創世記3-11章)
(3)イスラエル(アブラハム→メシヤ)
(4)イエス(十字架の死と復活に至る公的宣教)
(5)(a)新約聖書/初代教会(「イスラエルのストーリー」を成就するイエスを語り宣言する)
  (ω)究極の終末(ロマ8章、Ⅰコリ15章、黙21-2章が予めその輪郭を指示)

 聖書を権威ある書として読むとは、第5幕を生きる教会が、その時代の問題・課題の中で、先行する「神の壮大な贖いのドラマ」を繰返し読み返して「その時代をどう生きるか」を知ることである。世界の創造者である神とその被造世界の関わりを、創造から新創造へと展開するステージと位置付けるこのドラマの第1幕から第5幕の第一場面(私たちにとっては交換不可能な〝権威〟ある筋書き)と第5幕の最終場面に合致した振る舞い(パフォーマンス)を即興で演じる(improvise)のが私たちの役割なのである。
・ ドラマは進展している…聖書はtimeless truthsではない。
・ 過去の役者を繰り返すのではない…fresh reading of the scripturesが必要

参考図書
“How Can The Bible Be Authoritative?”(Vox Evangelica, 1991, 21, 7–32.ここをクリック)
“Theology, Narrative and Authority” in The New Testament and the People of God(1992), pp.139-143.
The Last Word (英国版タイトルは、Scripture and Authority of God), HarperSanFrancisco, 2005.
当日の発表時間は20分と言うことで、ライトが提示する「〝複雑な〟そして〝ダイナミックな『聖書の権威』」の最も分かりやすい表現であるFive Act Modelを中心に紹介した。

最初に「聖書の権威」の前提となる、神の権威、イエス・キリストの権威を確認した。
プロテスタントはカトリックに対抗して「聖書のみ」の原則を踏襲してきたわけだが、その後の歴史でややもすると聖書そのものが独立して権威化され、「聖書はこう言っている」と引用すればそれで議論が済まされるような風潮が出来上がってきた。

そのような一人歩きしがちな、ビブリシスティック(biblicistic)な「聖書の権威」観に対して、生きて働き給う神のもとに聖書を相対化するのがライトの聖書の権威観と言えるだろう。
創造から始まり被造物全体を贖いへと導いておられる神の働きの中に聖書を位置づけることが大切である。

さてこのファイブ・アクト・モデルの大切なポイントは、聖書を用いる私たち教会の役割をどう捉えるか、に関わる。

ライトは「5幕の劇」の台本のうち、第5幕の第1場面(新約聖書が書かれた時代の教会)の続きが消失してしまった、と想像してみてくれと言う。

その消失部分を誰かに補筆させるのではなく、円熟した役者に即興で演技させることにしたとする。役者は台本にはない部分の演技を生み出すために、先行する第1幕から第5幕の第1場面までを繰り返し繰り返し読んで、どう言う演技がこのドラマの筋に最も相応しいかを熟考する。

もちろん劇のエンディングは第5幕の第1場面にある程度描写されているから、それにも合わせた演技を考えなければならない。

円熟した役者とは、即興で演技する場合でもストーリーが体に染み込んでいるのでドラマの筋から逸脱するような演技もしないし、また下手な役者のようにただ前の演技を真似するだけのような演技もしない。その時その場に対応した演技を創造的に作るのだ。

これを現代の教会に適用すればこう言う風になる。

私たちが生かされている時代とその時代が抱える問題・課題は先行する聖書時代のものとは異なる。しかし私たちの時代は「神の贖いのドラマ」の視点からは明らかに第5幕に属する。つまり新約聖書の教会と2千年の時を隔てているが地続きなのだ。

啓蒙主義はそれまでとは全く「新しい時代」を創生したと自称し、イエス・キリストの出来事の全歴史的な角度からの新しさを否定するような態度に出た。
しかし啓蒙主義や近代の進歩史観はイエス・キリストの出来事の画期的新しさを何一つ変えていない。依然として私たちは第5幕の第1場面に続く歴史的状況を生きているのである。

私たちが今の時代をどう振舞うか、どのように生きるか、それをインフォームしてくれるのが聖書なのだ。しかし私たちは聖書をマニュアルや普遍的で不変な真理が詰まった本として取り扱うのではない。
聖書に記された「神の贖いのドラマ」を熟知して、それを今日的状況に即興的に生かすのだ。行動する前に既に完成した台本があるのではない。祈りつつリスクを犯して「これが神の御心に沿った選択、行動だ」と信仰を持って行動するのだ。

・・・と当日はここまで解説はできませんでしたが、ファイブ・アクト・モデルとはこんな趣旨のもので、まだまだ実験的であり、修正したり詳細を加えたりする余地を残したモデルだ、と言うことです。

さて当日は筆者の他にも3人の方が発表しました。
会場で発表全体のメモを取っておられた方がブログで公開していますのでどうぞそちらもご覧下さい。(ここをクリック
また、当日の発表者の一人であるクレオパさんも自身のブログで報告なさっていますのでそちらもご覧下さい。(ここをクリック




2012年10月27日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

10月28日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:11-18
説 教 題 「新しい創造」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(94)
ガラテヤ人への手紙(82)
・6:11-18 締めくくりの言葉
(A) 6:11-13 割礼を受けさせようとする者たち 
(B) 6:14-17 大事なのは新しい創造
(C) 6:18   最後の祈り

2012年10月24日水曜日

勘違い

先日の礼拝でのこと。

大学の時からだったかコンタクトを使用してきた。
今年に入ってどうもアレルギーのせいかコンタクトを装着して4-5時間経つと目が痛くなって涙がポロポロ・・・と言う状況になった。
目医者に行って薬をもらったりしたが、段々コンタクトが億劫になってきて、ずーっと昔に作ったメガネをかけるようになった。

大分視力は落ちていたがそのまま古いめがねで過ごしていた。
字を読む時は、本ならばかなり目に近づければよし、外に出る時は物がぼんやり輪郭が分かればいいや、と放っておいた。

先週の土曜日、海外在住の知人が「明日の礼拝に来ます」とメールで連絡が入った。
日曜日の朝、いつものように礼拝の始まる10分前に会堂に入った。
最近出席なさるようになったご婦人がすぐやって来て後ろの列の席に座った。

それから間もなく別の婦人が入ってきて「おはようございます」と声をかけられた。
約5メートル位離れたその方を出席予定の知人と勘違いした筆者は久し振りなので少しは会話とも思ったがそのまま挨拶だけで終わった。
その方は真ん中の列の席に座った。

礼拝が終わってゲストを紹介する時になった。
筆者は真ん中の列の席に座った方を見ながら、「今日は○○さん(知人の名前)が礼拝に来られました」と紹介した。

もう一人礼拝時間の後の方でやって来られた方が後ろの列の隅の席に座っているので、誰だろうと「あのー、初めて来会された方でしょうか。もしよろしければお名前を」と声をかけた。
そうしたら○○です、と答えがあった。

なんだ時々顔を見せる○○さんではないか。

目がちゃんと見えている家族の者たちはこの一部始終を見ながら、筆者が二人を勘違いしていることを確認して「あーあしょうがないわねー」のような顔をしていた(筆者はその表情も分からないのでまだ事態が飲み込めていなかった。)

さて講壇(段はないから要するに会堂の前のスペースのこと)から席に座っている知人の方へ挨拶に行った。
近づくと知人の顔は一番後ろの隅の席に座っている人物だった。
(この時点でも筆者はあれっ何かおかしいな、くらいしか察知できていなかった。)

皆が帰った後、昼食の時家族の者から説明を受けてようやく自分の勘違いがはっきり分かった。
「困るわねー。メガネ位ちゃんとしなさいよ。」

ぎゃふんである。

昨日メガネを新調しに近くの店に赴いた。

2012年10月22日月曜日

活水工房ティールーム

コンクリート打ち放しの教会堂の隣は木造平屋の家屋をリフォームした工房である。
工房に小さなティールームがついている。
既に色々な用途で使用しているが初期の構想では教会付属のティールームとして地域にオープンすることだった。

と書くと過去形になってしまうが、なかなかアイデアを実行に移せないできているからだ。
でも道具立ては少しずつ整ってきた。

先日製作を依頼していたイクル・デザインの須藤生氏が完成した椅子6脚を運んできてくれた。


写真手前に見えるのが今回完成した椅子である。
(製作過程の詳細は須藤氏のウェッブでご覧下さい。ここをクリック

既にテーブルの方は去年完成していた。
60cm×65cmの大きさのテーブルが2台ある。

現在は教会の用途としては、役員会、そしてキリスト教入門講座などに。
個人の用途としては応接室代わりや、NTライト読書会などに。

教会堂に足を踏み入れるのはなかなか、と言う人にもこんな場所が接点として気安く近寄れれば、と願っている。

2012年10月20日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

10月21日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:11-18
説 教 題 「キリスト者の価値基準」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(93)
ガラテヤ人への手紙(81)
・6:11-18 締めくくりの言葉
(A) 6:11-13 割礼を受けさせようとする者たち 
(B) 6:14-17 大事なのは新しい創造
(C) 6:18   最後の祈り

2012年10月19日金曜日

日本のクリスチャン・ブログ

今週は更新が無いまま週末になってしまった。
ちょっと「間」を埋める位の軽い記事を書こう。

日本のクリスチャン・ブログ界はキリスト教人口に比例するようにかなり小さい、と筆者は思う。
そんな中でアクセス数(多分)ダントツなのが水谷牧師の命と性の日記だろう。
とにかく良くぞネタをひねり出して毎日記事を連発するのに脱帽。

先日『某牧師の「クリスチャンブログ・ベストテン」に選出されたぞ』 という記事があった。
中澤信幸牧師の中澤信幸的なクリスチャンブログ・ベスト10のことである。

七つは名前を知っていたがそのうち筆者が定期的(毎日か数日おき)に巡回するのは四つだ。
先ほども言ったが日本のクリスチャン・ブログ界は狭い世界なのでそれだけ重複しても何の不思議も無い。

当ブログでは「英語圏(クリスチャン)ブログ」を紹介するシリーズ記事があるが、彼我の違いは単にブログ数やアクセス数に留まらない。(クリスチャン人口が多いのだからそれは当然だ。)
羨ましいのは一括りで「クリスチャン・ブログ」で片付けるのではなく、様々なカテゴリー別に専門化が進んでいることである。

・聖書関係ブログ(これもさらに新約聖書、旧約聖書、パウロ研究などに分かれていたりする)
・神学関係ブログ
・教会史関係ブログ

いやこんな分け方はあくまで一つの例で、実に様々なブロガーがいる。
とても一律にはカテゴライズできない。
複数のライターで運営するブログも多数ある。

日本では多分行なわれていないが、キリスト教関連ブログのランキングを発表するサイトもある。
やれベスト50とか、ベスト100とか・・・。

ブログ・ランキングに関連して、英語圏ブログ界で一つの現象が最近話題に上るようになった。
それは女性のブロガーが取り上げられない、と言うことである。
どうも英語圏ブログ界は男性偏重のようである。

と言ってもクリスチャン女性ブロガーがいないわけではない。
ただ男性のそれと比べて少ないだけだ。
観察して見るとアクセス数の多いブログでコメントの書き込み数が多いブログでも、女性のコメントはやはり少ない印象は否めない。

日本語圏ではどうなのだろう。
似たような傾向はあるのだろうか。


まっ話題が日本から英語圏に移ってしまったので元に戻る。

中澤牧師的ベスト10、みたいな記事は面白い試みだと思う。
やはりその人の関心や何やらで選択するものが違ってきた方が面白い。
単にアクセス数などでランク付けするのはそれなりに役に立つのかもしれないが、「面白いブログ」を発見するにはどうなんだろう。

最後に「小嶋牧師的クリスチャンブログ・ベスト10」と行きたいところだが、それほどリサーチしていないのでできない。
ベスト10などと言うからには恐らくその5~10倍位は知っていないとならないだろう。

と言う訳で軽ーい記事で失礼しました。

2012年10月13日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

10月14日 午前10時30分

朗読箇所 Ⅱコリント 9:1-15
説 教 題 「恵みのわざ、奉仕のわざ」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《説教シリーズ》「遣わされて」⑨

※礼拝後、昼食会があります。

2012年10月12日金曜日

「ついでの読書」追記

ついでの読書で紹介した、田口ランディー「できればムカつかずに生きたい」の『アイヌのシャーマンと出会う』がここで読めます。

※筆者が読んだ新潮文庫に収録されたものはネット版文章に加筆・修正されたもののようです。

2012年10月10日水曜日

ついでの読書

毎年「体育の日」は墓参りならぬ墓掃除に行く。

小嶋家の墓は千葉県松戸に近い八柱霊園。

広い霊園の中でもかなり端にある墓は北総鉄道北総線松飛台駅からだと歩いてもそんなに遠くない。
ただ電車に乗っている時間がやや長い。
それで軽い読み物を持って行くことにして、前日図書館に探しに行った。

普段は殆んど小説の類を読まないのでなかなか選ぶのにも照準が無い。
書棚を行ったりきたりしながら選んだのは、田口ランディ「できればムカつかずに生きたい」と阿川佐和子「男は語る アガワと12人の男たち」。
どちらも文庫だ。

墓掃除の行き帰りは主に阿川さんの方を読んだ。
でも田口さんの文章がこざっぱりしてて気に入った。
帰ってから田口さんの本を読み続けた。

できればムカつかずに生きたい」には全部で26のエッセイというか文章が載っている。
その中で色々面白いのがあったが、一番印象に残ったのは『アイヌのシャーマンと出会う』だった。

北海道苫小牧からバスで二風谷(にぶだに)へ行って、山道康子、アイヌ名アシリ・レラを訪ねた時のことを綴るものだ。

レラさんの言葉で、アイヌの人たちはみな霊力を持っていたと言うことを説明するのにこんなのがある。
私たちアイヌは神と魂の存在を信じていたからね。すべての生き物に魂があり神が宿っている。それを信じること、一点の疑いも持たず信じること、それが力なんだよ

まーアイヌの宗教はアニミズムと言うことで片付けてしまいそうになるが、「信仰の力」と言うことでは何かイエスが語った言葉と似たような響きがあると思った。面白いなと思った。

更に田口さんはこんなことも聞いた。
人間の義務はね、万物の霊長としてすべての生き物のために祈る事なんだよ
それが、天と地の間に垂直に立つことのできる人間の役目だ。祈り、すべての生命の魂を天に送ることが人間の義務なんだ。神はそのために人間を守ってくれるんだよ
これを読んで以前書いた池澤夏樹「多神教とエコロジー:世界を支配する資格」 を思い出した。
池澤氏はエコロジーの背後にアニミズム的な考えがあること(あるいは必要であること) を言っていた。
エコロジーの背後にはアニミズムがある。あるいは、あるべきだ。一にして全なる神を信じる人々も個々の被造物の中に、それをあらしめている神の意志を認めなければならない。
今、我々は支配力を駆使して支配者の地位から降りなければならない。
しかし池澤氏のエコロジーのためのアニミズム解釈と、アシリ・レラさんのアニミズム的世界観とでは微妙に「人間の立ち位置」に関する認識が異なっているように思う。
アイヌの世界観では人間はある種生き物の大祭司(これはユダヤ・キリスト教のボキャブラリーだが)的役割が課せられているようだ。

キリスト教との比較では、「一神教対多神教」で引き離されてしまうが、創世記一章の「人間の被造物支配」を「被造物をケアーする人間の役割」(これが地球環境問題以降キリスト教が強調するようになった創世記一章の人間観だ)に整理し直せば、両者は人間に特別な意義を認めている点で接点を持つようになれるのではないか、と感じた。 
 

2012年10月7日日曜日

復興どうなってるんだろう

 最近「東日本大震災」の復興についてどうなっているんだろうとよく考える。と言うか気になっている。
 と言うのも私たちの教会では震災直後だけでなく、中長期的な視点で震災復興と取り組むことを決めたからだ。
 
 もともと「食の日募金」と言って世界飢餓の問題と取り組んできた。毎月一度の愛餐会の時をそのことに思いを致す機会としてきた。
 東日本大震災が起こって、「食の日募金」は、「復興支援募金」も兼ねることになった。

 毎月そのように積み上げた募金を適当な支援団体に送金してきたのだが、震災から一年が経つともともとの支援目的とは別に緊急的に立ち上げた「募金窓口」がなくなる団体が増えてきた。

 それで「次はどの団体に送金したらよいのだろう」と思案するようになったわけである。

 未曾有の大災害から僅か一年半で人々の意識は変わり始めていることを、池澤夏樹氏が10月2日の朝日の夕刊コラムで書いている。
 災害の日からもう一年半が過ぎた。
 だいぶ雰囲気が変わってきたという話を聞いた。最初の頃はみんなどこか高揚していて、私利を離れて行動するのも難しくなかった。
 もちろんどこの避難所にもわがままな人や怠け者はいたけれど、それでもみんな譲り合った。(ぼくはこの話を聞いていて、「災害ユートピア」という言葉を思い出した。危難の際に人がエゴを捨てるという現象のことだ。)
 復旧についてはみなが力を貸す。瓦礫を運び出すトラックの邪魔をする者はいない。しかしそれが一段落して復興の話になると、つまり震災前の日常に近いところまで戻ると、「みんなのため」とは別の原理が働き始める。それを資本主義が帰ってくる、と言っていいかどうか。

 私を離れて公共を考えられる人がいる。人望を得てコミュニティーを率いる場合もあるし、ひたすら地味に奉仕するだけの場合もある。にんげんの中にはたしかにそういう資質がある。あるいは誰の中にもあるはずのそういう資質が発揮される時がある。
 その一方で、私利と言う原理も確かにある。そういうふるまいを非難するのは容易だが、非難してどうなるものでもあるまい。資本主義に問題があるとすれば、人間のその側面を助長することだろう。災害の直後のあの気持ちを忘れないでいるのはむずかしい。東北は、日本もまた、今そういう時期に来ている。(以上朝日新聞夕刊、〈終わりと始まり〉復旧と復興の違い
そんな中、筆者が講師をしているシニア英会話クラスの生徒のおばあさんが、昨年9月に被災地を訪れた後どのように変化しているかを確かめるべく同じ被災地を訪れた。
 その方のお話では確かに復旧はしてきている。あれほどの瓦礫の山は消えていた。と語っていた。

 筆者にはそこまでの行動力はないが、ただ東京にある一地方教会が今後どのように震災復興に関われるのか、何とか糸口を見出したいと願っている。


2012年10月6日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

10月7日 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 13:1-20
説 教 題 「他に仕えるとは」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2012年10月2日火曜日

教会と教会堂

今日ツイッターを見てたらたまたま「教会」と「教会堂」のことについてのツイート(つぶやき)が目についた。

ある牧師さんのつぶやき、
教会とは、信仰共同体のことであって教会堂のことではありません。教会の礼拝に行きたいけど、いろいろな事情で行けないって人もまた教会の一部なのです。って繰り返し言わないとわかってもらえないのかな〜
まもなく別の方(聖書学者?)さんがつぶやき、
建物としての「教会堂」とキリスト者の集まりとしての「教会」は混同しないようにしなくちゃなぁ。「教会堂」には必ずしも行く必要が無いとは私も思うのです。日曜日に教会堂に行くために日曜日には仕事を絶対しないというのは、何かが間違っていると思うので。
一般の人が教会から連想するのは建物の方だろう。
「おや、ここに教会がある。」、などと言う。

しかし教会に通うようになり、聖書から「教会とはギリシャ語でエクレシヤと言い、会衆のことを指す」などと説明されたりするうちに、教会と教会堂の区別が一応はつくようになる。

しかしそんな信者であっても教会で簡単に連想するのは多分教会堂の方だろうと思う。

2つのつぶやきが問題視しているのはそんなことだろうと思う。
つまり「ああー今日は教会に行けないなー」などと信者が思ったりする時、それは「教会堂に行くこと」を指しているわけ。

教会堂と言う決まった場所に、決まった時間(特に日曜日)に行くことが信者の第一目的になってしまうようなこと。

初代教会は比較的裕福な信者が自宅を集会に解放した「家の教会」が多かったと言われる。
しかしその後キリスト教が発展し社会・文化の中心を占めるようになると教会堂は町や村の中心に建てられ、しかも立派な建物が建てられ、地域共同体の精神的支柱になって行ったように思う。

しかしそのようなキリスト教が精神的バックボーンとして形成された西洋社会でキリスト教が衰退すると、町の中心部に建てられた立派な聖堂で集会に集まるのはごく僅か、と言う状況も出てきている。

また「制度的な教会」に満足できない、ただでさえキリスト教に否定的な見方を持った若いそうの信者たちは(これは主に米国などの話だが)、建物や曜日にこだわらない集会を持つ傾向がある(多分に家の教会みたいなスタイル)。

教会と教会堂とを混同しないようにすることは大切だと思う。
ただ「教会堂」の役割を軽視するようになると、それはもしかしたら行き過ぎではないか、と思う。
集会が教会のエッセンスで、教会堂は会衆の都合であってもなくてもよい、立派な会堂は無くてもよい、・・・となるとやや短絡的ではなかろうか。

教会堂はその会衆の便利にだけあるのではなく、その地域に建物として存在する意味があるのではないかと思う。
通り行く人が教会堂を見て、「あっここに教会がある」と気付けること。
悩みを抱えて「祈りたい、教会に行きたい」と思っている人にとって「そこに教会堂がある」ことは大切なことではないかと思う。
教会堂の中にまで入ってくることは無いにしても、キリスト教の神に関心を持っている人が教会堂を見つけて、その場所に対して一定の敬意を払うこともあるのではないかと思う。

教会堂と言う建物として目に見えるモノが地域とのインターフェースとして機能する可能性を考えると、プロテスタント教会などはもっと教会堂をどう建てるかに意を注いだ方が良いのではないかと思う。
 

2012年9月29日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月30日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:11-18
説 教 題 「十字架の福音」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(92)
ガラテヤ人への手紙(80)
・6:11-18 締めくくりの言葉
(A) 6:11-13 割礼を受けさせようとする者たち 
(B) 6:14-17 大事なのは新しい創造
(C) 6:18   最後の祈り

2012年9月28日金曜日

「イエスに妻」? コプト文書断片

最近イエスに妻がいたことをほのめかす文章を含んだコプト語で書かれたパピルス断片が発見されたと話題を呼んでいる。

日本でも少しは報道されたが(朝日デジタル)、一過的な話題で過ぎそう。

欧米圏ではもっともっと波紋が広がっている。
報道も続々、ブログでも多く取り上げられている。
研究者たちも書かれている内容だけでなく、パピルス断片の物理的な性質(インクや字体)についてつぶさに分析している。

最初は「発見」として話題が先走りした観があった。
故に独身制のカトリック教会の屋台骨を揺るがす可能性が云々された。

しかしその後の様々な分析が示唆するのは、この断片は偽ものの可能性が高いと言うこと。

断片を受け取ってその内容をローマの学会で報告したハーバードのカレン・キング教授はその内容をHarvard Theological Journalにも発表しようとしているのだが、編集側ではまだ承認していないとのこと。インクの検査を待ってと言うこともあるらしいが、多分に断片に対する疑わしさを持っているようにも聞こえる。

ご関心のある方は「ニア・エマオス」のブログ主がずーっとこの件を追跡しているようなので、まとまった情報が整理されているのでどうぞ。
最新の記事は、Near Emmaus

もし多くの識者たちの指摘通り、この断片が偽物だと早くに判明すれば、案外この騒ぎは遠からず収束するかもしれない。

2012年9月25日火曜日

今年のライト読書会

2012年度のN.T.ライト読書会は
1回目・・・3月17日
2回目・・・7月21日
3回目・・・9月22日
以上の合計3回持つことができました。

今年は《主の祈り》をテーマに、3回ともN. T. Wrightの
The Lord’s Prayer as a Paradigm of Christian Prayer
を課題図書としました。

3回で読み通す予定はかないませんでしたが、
 2. People of the New Exodus
まで読み終わることができました。

昨年までの読書会は事前に読んできて当日感想を言い合ったり、ディスカッションしたり、と言うやり方でした。
今年は3回とも事前に読んできた上で、更に当日テキストをパラグラフ毎読み上げながら、と言うさながら大学の原書講読のクラスみたいになりました。

ライトの聖書理解は新約聖書を旧約聖書(プラス一世紀ユダヤ教の思想背景)のナレーティブを下敷きにして「イエス」「十字架の死」「復活」「神の国」「教会」「宣教(ミッション)」の意義を引き出すものですが、今回の「主の祈り」は「出エジプト」のナレーティブをテンプレートにしながら、「主の祈り」の7つの祈祷項目を個々別々に解釈するのではなく、一つの連関した、特に新しい出エジプトをした「神の民」が「終末」に臨む祈りとして解説されています。

さて3回目の読書会の参加者である「ミーちゃんハーちゃん」さんが自身のブログで読書会の感想をアップしてくださいましたので、臨場感溢れるレポートはどうぞそちらをご覧下さい。(ここをクリック

2012年9月22日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月23日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:1-10
説 教 題 「信仰の家族」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(91)
ガラテヤ人への手紙(79)
・6:1-10 御霊によって歩む兄弟姉妹
(A) 6:1-5 重荷を負いあう 
(B) 6:6-10 善を行なう

《オープンチャーチご案内》
日時:2012年923日(日)
午後12時30分-14時30分
場所:巣鴨聖泉キリスト教会 & 活水工房
※近くにお立ち寄りの際は是非どうぞ。
お茶とお菓子でおもてなしします。

2012年9月20日木曜日

英国新約聖書学会でのシセルトン教授

先日「ハーメニューティックス(解釈学)」の投稿記事で紹介した、アントニー・シセルトン教授が、去る9/6-8、キングス・カレッジ・ロンドンにて開催された「英国新約聖書学会(2012年度要綱)」での主題(プレナリー)講演で「新約聖書における『聖霊の神性』」について語ったことがアンドリュー・ウィルソン氏によって報告されている。(ここをクリック

講演の実際のタイトルは、
Must we rest content with binitarianism in New Testament studies?
である。

講演の内容についてはウィルソン氏の報告に譲るが、シセルトン教授が 「binitarianism(バイニタリアニズム)」と言う用語を使って言わんとしていることは、要するに新約聖書で「神」として崇められているのは「父なる神」と「(子なる神)イエス」までで、聖霊は「神」の中に含まれないと言う見方に疑問を呈し、聖霊も「神」として認められている、ということのようである。

さて 「binitarianism(バイニタリアニズム)」を展開している学者としてラリー・フルタド教授(エディンバーグ大学)の著作を引用してシセルトン教授の講演はなされたらしいのだが、矢面に立ったフルタド教授は後日自身のブログで「バイニタリアン」の意味するところを明確にしようと説明を試みている。(ここをクリック

講演ではシセルトン教授は何度も声を張り上げて(rant)「シセルトン節」を唸ったらしいことを、ウィルソン氏は楽しそうに報告している。
どうやら充実した学会だったようである。うらやましい。

筆者も一つだけ「学会」と言うものに30年以上加わっているが、全般に低調で講演テーマも余り魅力的ではないものが続き、ここ数年はご無沙汰している。

何はともあれネット上でこのような学会の様子が報告されているのを読むことができるだけでも感謝しなければならないだろう。
ウィルソン氏(博士課程の学生)やフルタド教授のブログに日本からお礼を言いたい。

2012年9月17日月曜日

何の為に生きているかなんて一生わかりませんように



明日も友達に会えますように 
大好きな人と明日も会えますように 
君と僕とは違う人間だからなんてくい違いはない方がいい 
言葉が心の反対車線を走りませんように 
片想いが少しだけ伝わりますように 
泣く事が少なくなりますように 
泣く事が10000回あったら 
笑う事が1000000回はありますように  
笑ってばかりで退屈になったら つらい事を少し下さい
成功した人をねたんだりしませんように 
ねたんだとしても自己嫌悪に陥りますように 
外国にしかない野菜を買うよりもつくしんぼを探すのが好きで 
人の傷 みがわかっていられますように 
一生唄がうたえますように 
唄が僕の人生をきっと超えますように 
初めてのライブ あの体の震えを忘れませんように 
僕が 泣いたり怒ったりすることが何かにつながりますように

何の為に生きているかなんて一生わかりませんように 
死ぬまでわかりませんように 死ぬまで

川村かおり 1990年7月21日発売 「Hippies」より
数日前「何の為に生きているかなんて一生わかりませんように」 と言うツイート(ツィッターの呟き)に遭遇した。
今朝伝道者の書1章を読んでシンクした。

ブログにでもそのことを載せようかと「何の為に生きているかなんて一生わかりませんように」でググッたら、川村カオリの曲が出てきた。

そうかもしれない
そんな「生きる意味」なんてことに頭を突っ込まない方が
生きることに疾走すればいいのかもしれない

でも・・・
「何の為に生きているかなんて一生わかりませんように」
はきっと脳内グラフィティだよね。

パラドキシカル パラドキシカル




2012年9月16日日曜日

ハーメニューティックス(解釈学)

今回はかなりマニアックなトピックかと思う。

アントニー・シセルトンという方の名を聞いたことがあるだろうか。
昨日彼の著書、New Horizons in Hermeneuticsを読了した。

途中何度も中断してだから一年以上かかったかもしれない。



英国ノッティンガム大学で長年教鞭を取られ、特に「解釈学」を講じられてきた。
最初に教鞭を取られたシェフィールド大学の聖書学部門で、当時としては(大学の聖書学の分野に)初めて「解釈学」を導入したとのことだそうだ。

本の内容に関してはとても簡単には紹介できない。
何しろ読了するだけで一苦労だったくらいだから。

何と言っても圧倒されるのはそのカバーしている範囲の広さである。

解釈学はもともと学際的な学問だと思うが、聖書学や文学、そして近年は哲学と接してきた、言ってみればリベラル・アーツの基礎のような学問と言えるかもしれない。
何しろ「テキストを読む・・・理解する」と言うことを対象にした学問だから。

筆者は米国での神学校時代、ハイデッガーの影響を受けたキリスト教社会倫理の教授に初めて「解釈学」なるものを紹介していただいてから30年が経つ。
その時はRichard PalmerのHermeneuitcsが教科書だった。シュライエルマッハー、ディルタイ、ハイデッガー、ガダマーが主な解釈学理論家として取り上げられていた。

シセルトンはこれらに加えて、ポール・リクール、ヴィットゲンシュタイン、オースチンやサール等発話行為理論の言語哲学、構造主義、意味論哲学(semiotics)、プラグマティズムのローティーやフィッシュ、クリティカル・セオリーのハーバーマス、現象学的社会学のアルフレッド・シュッツ、解放の神学、ブラック神学、フェミニスト神学、などなど至れり尽くせり、解釈学と言う学際的分野に関わる理論のオンパレード状態である。
良くぞ聖書学の教授がこれほどコンプリヘンシブなカバーレージをしたなと驚嘆する。

のらくら者さんも「いつまでも B. ラムの 『聖書解釈学概論』ではダメですよねぇ・・・。」 とぼやいておられるが(ここをクリック)、旧来の「聖書解釈学」を取り巻く理論環境は飛躍的に複雑になっている。
シセルトンの業績はその意味で辞書学的「テキスト・インタープリテーション」を様々な現代解釈学理論に接続させてくれる貴重なものだと思う。

ある方のブログで今後10年間の神学論争でも「聖書論」は大きな位置を占めるだろうと指摘していたが、「聖書のテキストを中立的な立場で釈義することによって客観的な意味を確立できる」などと言う見解を今でも持っているとすると、現在の「解釈学」的見地からするとそれは理論的に無邪気だと言うことになるだろう。
(教理的から倫理的まで)様々な問題が起こり(それは何時の時代でもそうだが)、その解決を聖書に求めるが、双方の解釈が対立すると言う事態はここかしこで見られる。
解釈者の主観(政治的立場や傾向)が解釈の対立の構図に反映していることを「解釈学」的に観察する必要があることをシセルトンは指摘する。

It enlarges and universalizes Robert Morgan's observation that "some disagreements about what the Bible means stem not from obscurities in the texts, but from conflicting aims of the interpreters." It seems to provide an intellectual and philosophical explanation for the gut-level feeling shared equally by many right-wing conservatives and left-wing radicals, that not only is the ideal of disinterested scholarship an outdated liberal illusion; but also that all biblical exegesis can be predicted by socio-political typifications of "conservative", "neo-liberal", "radical", "historical-critical", "moderate", or "pleasing the Board and the Constituency" goals of interpretation. (P.588, italicsは著者)
まっ、ちょっとまとまりの悪い紹介になってしまったが関心のある方はこのビデオ辺りからどうぞ。(勿論英語です。)


2012年9月15日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月16日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:1-10
説 教 題 「善行に努める目的」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(90)
ガラテヤ人への手紙(78)
・6:1-10 御霊によって歩む兄弟姉妹
(A) 6:1-5 重荷を負いあう 
(B) 6:6-10 善を行なう

2012年9月14日金曜日

オープンチャーチ

日時:2012年9月23日(日)、 午後12時30分-14時30分
場所:巣鴨聖泉キリスト教会 & 活水工房
   
※近くにお立ち寄りの際は是非どうぞ。
お茶とお菓子でおもてなしします。


2012年9月13日木曜日

神学遍歴⑤

久し振りとなる「神学遍歴」シリーズである。

今のところアズベリー神学校時代のことを書いているが、今回も。
前回は神学者、H. Richard Niebuhrについて書いたが、今回はアズベリー神学校で受講した中でやや異色で、個人的に興味深かったクラスを三つほど紹介しておこうと思う。

①中間時代の神学
今では「第二神殿期ユダヤ教」等と言われるが、旧約聖書と新約聖書の「間」の(諸説はあるだろうが)約400年間の間のユダヤ教文学についての学びである。

教授は「聖書神学」と言って、その頃はまだ神学校の受講科目ではメジャーになっていなかった部門を担当していた。
と言うことで(確か)先ず紹介されたのは、クリスター・ステンダールの「聖書神学」と言う論文(The Interpreter's Dictionary of the Bible所収)だったかと思う。

クラスは講義の他に課題として聖書学関係の専門雑誌から教授が指定した論文の中から幾つか選び出して、そのアブストラクト(要約)を書く、というものだった。
多分4つ5つ読んだと思う。

記憶が確かなら、James Muilenburgを知るようになったのもこの課題の故だった。

講義で紹介された学者の名前は、
D・S・ラッセル(八田正光訳『聖書の中間時代:後期ユダヤ教の歴史・文学・思想』ヨルダン社、一九六八年。)
Joseph Bonsirven
などであった。

②Supervised Ministry
意訳すると「臨床神学入門」とでも言えばいいか、教授がスーパーバイザーとなって学生たちの小グループを指導するのだが、 神学的作業(リフレクション)は神学書を読むことから始まるのではなく、様々な「ミニストリーの現場」から得た経験を元に行なうものであった。

筆者が行った「ミニストリーの現場」は、総合病院、ミニマム・セキュリティー刑務所でのチャプレン見習いのようなものや、大学キャンパスでの個人伝道のようなものであった。

例えば病室で死期の近い患者さんと何とか会話をして、それから帰ってきて、それを一つの「ケース・スタディー」としてまとめるのだが、状況描写と、会話の中から「神学的テーマ」を見つけ出して、ミニストリーの体験を振り返る、というような神学作業を行なう。
グループの学生たちが一堂に会して、それぞれのケース・スタディーをもとにディスカッションする、そして教授が気付いたことを提案したりする、と言うのが Supervised Ministryの一連の作業であった。

実地を通して神学する、と言うプロセスを教えるものであった。

③説教学上級クラス
上級と言っても説教そのものの学びではなく、説教の中で取り扱われるテーマを如何に現代や社会や等広い視野で掘り下げるか、と言うクラスであった。

このクラスを通して筆者は初めて「ホロコースト」に触れることになった。
ノーベル平和を受賞した、エリー・ウィーゼルのアウシュビッツの体験を下にした自伝的小説「夜」を読んだ衝撃は大きかった。

その他にもこのクラスでは、「普通の説教」ではカバーしない事柄をクリスチャン、説教者としてどう捉えていくかを考えさせてくれた。
 

2012年9月9日日曜日

今朝の礼拝案内

(※うっかり昨日中に掲載するのを忘れてしまいました。)

主日礼拝

9月5日 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 17:1-26
説 教 題 「世に遣わしました」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《説教シリーズ》「遣わされて」⑧

2012年9月6日木曜日

リトリート

所属する日本聖泉キリスト教会連合の「教役者リトリート」に出かけてきた。

場所は那須高原、9月3日~5日の二泊三日。
コンセプトは霊修的な要素の少ないリトリート。
つまり《主にリラックスした時間を過ごす》のが目的の、しかし名前はリトリート。

小さな連合なので参加した人数は7名。
既に良く知っている間柄ではあるが、年数回「教役者会」で顔を合わす時は時間の都合で話すことのできない話題も、ゆったりとした時間の進行の中で「あれ、これ」と思い出したようにポツポツ話すことができるリトリートだった。

だから時間も内容も「ストラクチャー」のない中で、唯一二日目の午前中に「デボーション」と称して、集中的に各自が「牧師」として仕えている教会が直面している問題・課題、あるいは牧師自身の問題・課題などを分かち合う時を持った。

司会者が最初に自分の問題・課題を語ったが、その中で「壁」「後継者問題」と言う事が語られていたので、以降それらの二つをキーワードに各自の近況を分かち合った。
中には教会のミニストリーを新展開させる「積極的な」ものもあれば、停滞や牧師としての「パフォーマンス」や「召名」への疑問、などと言うどちらかと言うと「消極的な」ものまで様々。

筆者も牧師個人としても、教会としてもある種「停滞」の中にいることをお話した。

一巡して「まとめ」をしてくれとの司会者の要望で、みんなの忌憚ないお話を聞かせていただいた中から二つのキーワードがあるように思わせられたので、そのことを少々「お勧め」のような感じで語らせていただいた。

①牧師も教会の兄弟・姉妹の一人であること
牧師が信徒との関係で、色々期待をかけられたり、「パフォーマンス」のように説教や牧会指導を「演じている」様に感じ、孤立していったり、自己嫌悪に陥ったりすることがある。
その背景には牧師と言う仕事を過剰に「特別視する」ことがないだろうか、と言うことを指摘させていただいた。
基本的スタンスとして「兄弟・姉妹として同じ教会員の一人」であることを忘れないようにすることが大事ではないか、と指摘させていただいた。

②「私たちの教会」ではなく「キリストの教会」
通常自分が所属する教会は一(地域)教会であり、ついつい「自分たちの教会」として語られやすい。教会の現在や将来に対して「自分たちの思い」をついつい反映させてしまいやすい。
しかし私たちが属する一(地域)教会は、「私たちの教会」である前に「キリストの教会」であることを自覚しておくことが大事ではないか。
「自分たちの教会」の10年後、20年後の将来を展望して様々な思いや計画を描く時、それを超えた「キリストの来臨」の終末に焦点を合わせた将来設計、と言う視点も忘れてはならない。
教会を私物化することのないように。

と言ったようなことを指摘させていただいた。

初めての試みであったが参加者からは「良いリトリートだった」と言う感想を聞いている。
お互いを慰めあい、励ましあう機会となったのではないかと思う。

2012年9月2日日曜日

科学と哲学を区別することによって

久し振りに「英語圏ブログ紹介」を兼ねて。

ロス・マーッケンジーのsoli deo gloriaブログ。

彼の最近の投稿記事、 Distinguishing Science From Philosophyがちょっと面白いのではないかと思った。
「科学と哲学を区別することによって」と訳したが、ロスの記事では「哲学」には宗教も含めた「世界観」的解釈を持つ思想が意図されている。

先ず「科学」だが、簡単に定義すれば「科学的知識」と「哲学的主張」の違いは、
Scientific knowledge is something that is experimentally testable, open to confirmation, and can be agreed upon by a wide range of parties. Philosophical claims do not have these qualities. They are not testable in a laboratory.
まっこれは余りにも教科書的で珍しいものは何もないが、次にロスが挙げる例(科学と哲学の相違)が分かりやすくしてくれる。

(1)
科学:「地球は太陽系惑星の中心ではない。」
哲学A:「人類は特別な存在ではない。」
哲学B:「地理的位置は物事を意義付ける尺度ではない。」

(2)
科学:「太陽は1700億を数える銀河の一つ、『天の川銀河』にある2000億個の星の一つである。」
哲学A:「人類は宇宙においては全く無意味な存在である。」
哲学B:「人間は非常に有り得ないほど偶然の存在である。」
哲学C:「人間はその固有性と有り得なさの故に高度に意義深い存在である。」

(3)
科学:「人間のDNAとチンパンジーのDNAは97%同一である。」
哲学A:「人類は他の動物と何ら異なるところはない。」
哲学B:「動物の命は人間の命と平等に価値がある。」
哲学C:「(チンパンジーとの)3%の違いに如何に人間が固有で特別な存在であるかが示されている。」


このように対比してみれば、「科学的知識」と「哲学的主張」の違いが良く分かるのではないか、とロス・マッケンジーさんは申しております。

皆さんはどんな印象をお持ちになりましたか。


2012年9月1日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月2日 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 13:1-20
説 教 題 「足を洗い合う」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2012年8月29日水曜日

(パウロ)神学談義

今日の午後、客人があり、しばらく「神学談義」をした。

主にパウロ研究についてであったが、今となってはパウロ神学の古典的研究になってしまった感のある、W. D. Davies, PAUL AND RABBINIC JUDAISM.に話題が及んだ。

客人は現在新約聖書学の博士課程でバリバリ研究中であるが、この古典をある意味再発見してその内容に驚いていた。

「ニュー・パースペクティヴ・オン・パウロ(NPP)」はまだまだ日本には馴染みが薄いが、その先行的論文を書いた、クリスター・ステンダールの論文
Krister Stendahl, “The Apostle Paul and the Introspective Conscience of the West” in Paul Among Jews and Gentiles (Philadelphia: Fortress), 1976, pp. 78-96. First published in English in Harvard Theological Review, 56 (1963), pp. 199-215
もNPPの議論がE.P.Sandersによって1970年代後半に火をつけられるまで、独立峰的であったようだ。

このように研究の最前線にいる者達がいかにも最初に発見したように思うことも、その萌芽的なものがそれ以前に既に指摘されているようなことはあるものだ。

ところで筆者は、デーヴィースのこの本をたまたま古本で探して購入して読んでいた。
まだ本格的に「新約聖書学」に興味を持つ前だったように思う。
いや、もしかしたら、既に購入していたが、関心を持つようになってから後読んだのかもしれない。


とにかく次にデーヴィース繋がりで話題にしたのは、E.P.SandersとMargaret Daviesの共著、Studying the Synoptic Gospelsの本で、この時点でこのマーガレットはE.P.Sandersの奥さんだと、そのようなことを話した。つまりデーヴィースの娘婿。


ところがたまたま先ほど調べていたら、これは勘違いであることが、E. P. Sanders's Relationship to W. D. Daviesの記事で指摘されていた。


ありゃま、姓名がたまたま一致していただけだったなんて・・・。
E.P.Sandersがデーヴィースの弟子であり、デーヴィースの研究を更に推し進めた、と言う関係からも、二重に勘違いが強化されたようだ。


と言うわけで真夏の暑い日のとんだ勘違い、と言うお話でした。

2012年8月25日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

8月26日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:1-10
説 教 題 「御霊のために蒔く」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(89)
ガラテヤ人への手紙(77)
・6:1-10 御霊によって歩む兄弟姉妹
(A) 6:1-5 重荷を負いあう 
(B) 6:6-10 善を行なう

2012年8月24日金曜日

残暑見舞いと近況報告

更新が滞りがちになってしまいました。

暑い日々が続いています。
まだ2週間くらいは続くそうです。
そう考えるだけで「やれやれ」となってしまいます。

と言う訳で先ずは

残暑お見舞い申し上げます

自慢じゃありませんが、事務室にはエアコンがありません。
扇風機だけでやっています。
コンクリートの建物のおかげで、室温は大体29度位で一定しています。

熱中症の注意では「室温28度」とか言っていますが、それはとても無理です。
なかなか集中して何かをやるには条件が余りよろしくありません。
朝寝も昼寝も時々しています。

と言うのも居室の方も、自慢じゃありませんがエアコンがありません。
幸い履き出し窓なので、全開にしています。
夜中過ぎて明け方近くになると少し涼しい空気が部屋に流れてきます。

そんなわけでどうしても寝不足がちです。
朝方朝食まではまだ大丈夫なのですが、食後デボーション(聖書を読んで、静思の時を持つこと)をし出すと頭がほわーっとしてきます。
しょうがない少し横になります。

そんな毎日を過ごしています。
なかなかブログまで頭が回りません。
やっとツイッターで「○×▲☆」呟いています。

それでは読者の皆様暫く開店休業で失礼します。
ブログ主

2012年8月18日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

8月19日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:1-10
説 教 題 「分かち合いなさい」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(88)
ガラテヤ人への手紙(76)
・6:1-10 御霊によって歩む兄弟姉妹
(A) 6:1-5 重荷を負いあう 
(B) 6:6-10 善を行なう

2012年8月16日木曜日

オウム真理教ノート 2012/8/16

自分で勝手に夏休み中で、更新が滞っています。

暫く前に読了したのですが、アップする元気がなく今日になってしまいました。

オウム真理教への一視点で紹介した、大田(太田は間違い)俊寛の

オウム真理教の精神史ーロマン主義・全体主義・原理主義

豊島区の図書館にはなかったので板橋区の図書館から借りてようやく読むことができました。

目次で大体内容が掴めると思うので、自分のメモ用にも掲載しておきます。


第1章 近代における「宗教」の位置
1 そもそも「宗教」とは何か
2 キリスト教共同体の成立と崩壊
3 近代の主権国家と政教分離
第2章 ロマン主義ーー闇に潜む「本当のわたし」
1 ロマン主義とは何か
2 ロマン主義宗教論
3 宗教心理学
4 神智学
5 ニューエイジ思想
6 日本の精神世界論におけるヨーガと密教
第3章 全体主義ーー超人とユートピア
1 全体主義とは何か
2 カリスマについての諸理論
3 ナチズムの世界観
4 洗脳の楽園
第4章 原理主義ーー終末への恐怖と欲望
1 原理主義とは何か
2 アメリカのキリスト教原理主義
3 日本のキリスト教原理主義
4 ノストラダムスの終末論
第5章 オウム真理教の軌跡
1 教団の成立まで
2 初期のオウム教団
3 オウム真理教の成立と拡大
4 「ヴァジラヤーナ」の開始
5 国家との抗争
6 オウムとは何だったのか
おわりに
一読して労作だと思った。

オウムに対して「宗教学」としての反省や取り組が殆んどなされてこなかった・・・と言う宗教学者としての反省から構想された書だが、自分でも言っているようにオウムとは一見直接関係のない「近代の枠組み」とその諸思想をオウム教団分析の「射程」としている。 

それ故、「ロマン主義」「全体主義」「原理主義」の初歩的説明は丁寧になされている。

オウム教団が辿った軌跡には大田が指摘するように、「ロマン主義」「全体主義」「原理主義」の要素が多分に見て取れると思う。
それ故オウム真理教の実態を「原始仏教」の一現代版と捉えるより説得的なアプローチになったと思う。

大田の「宗教学的人間観」が、第1章 近代における「宗教」の位置、1 そもそも「宗教」とは何か、で紹介されている。
 人間は、生まれ、育ち、老い、最後には死を迎える。死によって肉体は潰え、すべては無に帰るかのように見える。しかし、実はそうではない。死んだ人間が生きているあいだに作り上げた財産や、彼が伝達してきた知識は、残された者たちのなかでなおも生き続けるからである。この意味において人間の生は、その死後もなお存続すると言わなければならない。
 このように一人の人間の一生は、その誕生で始まり、肉体的な死を持って終わるわけではない。その人生は実は、生まれる前からすでに始まっており、死後もなお継続される。人間は、他者との「つながり」の中で生きてゆく存在なのである。(強調は著者、28ページ)

つまりこのような視点から言うと、政教分離の近代の枠組みは「人の死を弔う」と言う重大な側面を持つ「宗教」共同体を根底的に揺さぶる人類史にとって例外的なものなのである。

大田のオウム真理教への取り組みは、「近代は宗教を、特に『死の問題』を共同体の公的時空間から、私的なところへ追いやった」、と言う近代の否定的な分析が座標軸となっている。

最後で大田は麻原の「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ」を引用しつつ以下のように締めくくる。
 本書で取り上げた、ロマン主義、全体主義、原理主義という思想的潮流は、そのすべてが、何とかして死を超えた「つながり」を取り戻したいという切実な願望に基づくものであると同時に、それにまつわる空虚な幻想であると捉えることができる。すなわち、ロマン主義は「本当の自分」という生死を越えた不死の自己を、全体主義は他者との区別を融解させるほどに「強固で緊密な共同体」を、原理主義は現世の滅亡の後に回復される「神との結びつき」を求めることによって生み出される幻想なのである。 (強調は著者、277ページ)
大田のこのような「近代における宗教」への視点は、オウムと言うカルト化したテロ集団に限らず、所謂「宗教」を営むグループにとってその存在原理を考えさせるきっかけともなるだろう。

2012年8月11日土曜日

明日の礼拝お休みします

明日、8月12日の主日礼拝はお休みとさせていただきます。

次回は、8月19日となります。

残暑厳しい折、ご自愛ください。

巣鴨聖泉キリスト教会
牧師 小嶋崇

2012年8月10日金曜日

スッタニパータ

筆者は牧師の家庭に生まれて、他の宗教との接触が極めて少ない環境の中を生きてきたので、他宗教の生きた知識と言うものは殆んどないに等しい。

勿論日本語や日本文化の中にそれとなく浸透している神道や仏教に関しては通念としてはあいまいながら持っているわけで、全く知らないと言うわけではない。
ちょうどキリスト者でない多くの日本人がクリスマスや賛美歌にある程度親しんでいる程度には、筆者も神道や仏教に親しんでいると言える。

小さい頃近くの神社でよく遊んだが、社の床下に入ったり、お祭りの時の御輿や道具類が入った倉庫などにも入ったことがある(いたずらでした)。

このブログを最近読んでいる方はご存知のように、たまたま最近オウム真理教(直接的には地下鉄サリン事件だが)のことに関心を持ち始め、そんな経緯で仏教、特に「原始仏教」とは如何なるものであろうか、と言う関心が生まれた。

仏教の通俗的な知識には余り関心がないが、原始仏教と言うと何か魅惑的に響く。

と言うわけで思い浮かんだのは中村元と言う仏教学者だった。
勿論日本は仏教国と言われているように、宗門多く寺も多い。
しかし仏教の経典の研究に関して世界的に優れている、と言ったようなことを聞いたことがある。
今のような日本社会に溶け込んだ仏教ではなく、言わば日本に伝来した仏教には関わりのない仏典の原語的研究などが進んでいる、と言ったようなことだ。

いつものように図書館へ行って中村元のものを探していたら「ブッダのことばースッタニパータ」中村元訳(ワイド版岩波文庫)に行き会った。
巻末の解説を読むとスッタニパータは非常に初期の、それゆえ歴史上のゴータマ・ブッダの言葉にかなりな程度で遡る経典だという。
それでこれを借りて読むことにした。

一応読了したのだが、一言で感想を言うのは難しい。
それまでの前知識としての「悟り」とか「煩悩」とか「解脱」みたいなことがさらによく分かった、と言うわけでもない。

ちょうど福音書で『イエス語録』と呼ばれている部分を思わせるような、語録集という感じか。
しかしこのかなり初期の経典といわれるスッタニパータでも、ブッダは人間でありながらかなり別格な特別な存在として扱われている。
ある部分では神格化に近い表現(礼拝の対象)も書かれている。

スッタニパータの多くは修行者がやってきて教えを請うという設定で、ブッダの教えが説かれている。

殆んどの教えは「悟りきった」ブッダが滔滔と教えを説き、聞いた者はその教えに感嘆して平伏する、みたいな感じで終わっている。
そんなブッダは余り人間味がない取り澄ました感じで「別格」の印象しか与えない。

そんな中で、第4章「八つの詩句の章」の「五、老い」の冒頭は感嘆句で始まる非常に人間らしい感情に満ちた言葉である。
ああ短いかな、人の命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。
しかし、その後の教えはやはり悟りきった感じのものに整ってしまう。

また、第5章「彼岸に至る道の章」の「十七、学生ピンギヤの質問」では、
「四方と四維と上と下と、これら十方の世界において、あなたに見られず聞かれず考えられずまた識られないなにものもありません。どうか理法を説いてください。それを私は知りたいのです、ーーこの世において生と老衰とを捨て去ることを。」
師は答えた、
「ピンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたはみているのだから、それ故に、ピンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存に戻らないようにせよ。」
筆者の感じでは、やはり福音書のイエスに馴染んでいるためか、ブッダが「悟りきった」者であるが故に、その教えが、教えを請う者に対して突き放した言葉のように響く。
苦悩する人間に対する深い同情や哀れみが欠けている印象を持つのである。


ブッダは「純粋」を求めた人、と言う印象は持つことができるが、やはり彼の教えはエリーティストなものに感じられる。
恐らく日本に伝わって発展した通俗的な仏教は、このようなブッダのアプローチを単純化・容易化して大衆化したものなのだろう。

だから「葬式仏教」とも呼ばれる日本社会に定着した仏教は、スッタニパータに見るような原始仏教とは大分隔たりがあると言ってもいいのではないだろうか。

2012年8月6日月曜日

ピスティス・クリストゥー

パウロ研究においては有名な釈義的問題の一つが、ローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙などに出てくる「ピスティス(信仰)・クリストゥー(キリスト」)だ。

今年の注目すべき神学会議であった、セント・アンドリュース大学でのパウロのガラテヤ人への手紙とキリスト教神学(2012年7月10-13日)でも、リチャード・ヘイズとジョン・バークレーの間で議論があったことをティム・ゴンビスがブログで紹介している。

リチャード・ヘイズと言えば、The Faith of Jesus Christでこの「ピスティス・クリストゥー」論争をもう一度パウロ研究の中心に持ってきた学者だが、そのタイトルが示すように「ピスティス(信仰)・クリストゥー(キリスト」を「キリストの信仰」と伝統的に『目的所有格』で訳されていたのに対し『主格』を主張した。

以降「ピスティス・クリストゥー」を主格に取る研究者達が大勢を占めているようだ。

読者の方でまだこの議論について聞き及んでいない方には『目的所有格』で訳されるのと『主格』で訳されるのにどれだけの違いがあるのかまだピンと来ないかもしれない。

ガラテヤ2章16節を例に取ってみよう。
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法 の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。(新共同訳)
「キリストへの信仰」と訳されているのが「ピスティス・クリストゥー」なわけだが(実際にはこの箇所ではピステオウス)、信仰の対象(目的格)としてキリスト、と訳されているのが分かる。
所謂宗教改革の神学原則である『信仰義認』に関わってくるので解釈上重要な意味を持ってくるわけである。

しかし主格に訳すとどうなるのか。
「キリストの信仰」によって私たちは義とされる、となるわけである。私たちの主観的(決断的)信仰がポイントなのではなく、キリストご自身の「信仰」が私たちに義をもたらす、と言う理解に変化する。

では「キリストの信仰」とは何か。
主に英語圏の研究者たちが議論をやっているので、英語の表現を用いれば、the faithfulness of Christ、と訳されることが多い。

少し意訳すれば、
キリストがみ父の御心に(十字架の死にまで)忠実に従ったその信仰の故に、人は義とされるのだ。
と言う理解になるわけです。

日本語の公用語聖書では「ピスティス・クリストゥー」を主格に解釈するものはまだないですが、2016年には新共同訳も新改訳も新しく改定される予定ですが、あるいは従来の『目的所有格』解釈に対して『主格』解釈が採用されるかもしれません。

でも公用語聖書ですから多くの人が親しんできた『信仰義認』の理解を大きく変えることになる翻訳は避けられるかもしれません。
「注記」ぐらいでとどめられるかもしれません。


2012年8月4日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

8月5日 午前10時30分

朗読箇所 マタイの福音書 4:1-11
説 教 題 「試みの時」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《説教シリーズ》「遣わされて」⑦

※次週主日、8月12日、礼拝は休みです。

2012年7月30日月曜日

オウム真理教ノート 2012/7/30

今回は、林郁夫の「オウムと私」(文芸春秋、1998年)


500ページ近い本だが、興味深く、読みやすかった。

一種の「懺悔録」のような手記のようになっていて、自分の生い立ちから始めて、オウムでの修行のことや、次第に教団の武装化の中で知らず知らずのうちに犯罪に手を貸していく過程や、その度毎の(後からの回顧で)自分の心理の分析、そしてサリン事件の実行とその後の逮捕、そして取調べでの全面供述までを綴っている。

恐らく全面的に供述した時点から、オウムでの自分がどうだったかを総合的に回顧する視点を得たのだと思う。その視点から、各過程での修行の内容の意義や麻原との関わり合いをより客観的に観察分析できるようになったのだろう。

本を読んでいてその辺の「自己の掘り下げ」がなかなか徹底的で、読む者を納得させる。思わず引き込まれてしまうような箇所が幾つもあった。

その中で二点挙げるとすれば、一つは「麻原の怖さ」に関して書いている箇所と、麻原の宗教家としての二重性(建前と本音)を分析している箇所であった。

先ず、麻原の怖さだが、『池田大作ポア事件』と言うところでこう書いている。

 とはいっても、当時の私は、この事件で麻原が単に「殺人を犯そうとした人物」であるとか、「ポア」が単なる「人殺し」である、などと思っていたわけではありませんでした。それまで培ってきた見方によって、麻原が宗教的な存在であるということには、一点の疑いもありませんでした。麻原の行為はすべて宗教的な意味合いがある、と考えてきたのです。
 しかし、同時に、もっと私自身の根本の意識のところで、麻原の行為を犯罪だとみなし、許されないことだと言うことも分かっていました。それは、麻原の「秘密を知った」と言う自覚と同義なのです。「理屈」としての教義を肯定しても、「人殺し」はあくまでも「人殺し」で、人殺しという行為と結びついている「本能的な恐怖」を打ち消すものではありません。
 本能的恐怖は、それが犯罪だと思う心と、許されることではないと思う心を生じさせるのだと思います。もし私が、麻原のように解脱して、対象のカルマを見通すことができて、「ポア」もしてやれると言うのならば、「ヴァジラヤーナ五仏の法則」とその「ポア」は、「理屈」ではなくなるのですが、私は解脱しているわけではないのです。あくまで、麻原の説く教義を「教え」として、また「理屈」として受け入れているのであり、本能的な恐怖を消すことができないのです。
 麻原が「殺す」ことを「実際に」決断し、実行に移すことのできる人物なのだ、と言う認識を持ったその瞬間から、その麻原と私が自覚している本能的恐怖が結びついて、最早それ以前の麻原に対する感情は戻りませんでした。 そして、自分も妻子もまた「殺される可能性」があると言う、「こわい」麻原に対する感情が、ワークや修行のあらゆる場面における行動パターンに影響を及ぼしていくことになったのだと思います。(176-7ページ)
麻原の宗教家としての二重性については、林は以下のように分析している。
 麻原の本音からすれば、救済とは武装化計画の実行であって、宗教は武装化計画の実行をカモフラージュするものにすぎなかったのだと思います。三万人の成就者を出して、戦いを回避するといっていた平成二年の初期の頃から、このような背景があったことがいまになって分かります。
 つまり、麻原のいう救済は、一人一人を修行(宗教心)によって変化させ、世の中に感化を及ぼし、そのことの連続した積み重ねによって平和を保ち、真理を広め、人類が戦いなどの愚行を犯さないように導くという、通常宗教と結びつけて考えられている救済ではないのです。麻原は言葉「救済」と言ってはいても、実はその裏で武装化を準備し、戦いを起こし、勝ち抜き、社会を転覆させて・・・という、まったく革命そのものの世の中の変革を考え、実行しようとしていたことがわかるのです。
 したがって、麻原の本音としては、救済とは一人一人に宗教性を喚起させて実現していくというものではなく、先ず社会の枠組みを破壊し、自分ひとりがよしとする枠組みに変えたうえで、その麻原の枠組みの中に一人一人を閉じ込め、それでよしとするということだったと考えられます。
 (中略)
 麻原の中では、宗教は自らの本音を達成するために便利なもの、人も金も集めることができ、本音のカモフラージュにも使える看板のようなものだったのだと思います。が、いっぽう弟子にとっては、修行と救済は本来連なって展開する一体不可分のものだったのです。麻原はそれを百も承知のうえで、利用していたと言うことを私は述べたいのです。 (302-3ページ)
新興宗教の無残なところは、林のように社会的経験も立場もある者が、純粋に宗教(仏教、解脱)を求める余り、グルに対して過度に依存的になり、「人間的判断」をモラトリウムさせ、グルの「俗物性」が見えた地点でも、グルの客観的人間性(誤りや罪を犯しうる存在である)認識を徹底することができず、宗教的絶対性の方に収斂されてしまうことのように思った。

林が上記のような分析に達するためには、残念ながら最後の一線を越えて、そして自分の行為を客観的に見直す物理的・精神的余裕を得るまでは出来なかった、と言うことは、「宗教集団の閉鎖性」の問題を提示するものであると思う。
オウムに限ったことではない。

この本に書かれている林の様々な気付きや反省、内省は宗教に関わる者にとって他人事ではない事柄を多く含んでいると思う。

2012年7月28日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

7月29日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:1-10
説 教 題 「自分の重荷」
説 教 者 小嶋崇 牧師


《講解メモ》
パウロ書簡の学び(87)
ガラテヤ人への手紙(75)
・6:1-10 御霊によって歩む兄弟姉妹
(A) 6:1-5 重荷を負いあう 
(B) 6:6-10 善を行なう

2012年7月24日火曜日

信仰・悔い改め・洗礼

「キング・ジーザス・ゴスペル」ブログ更新のご案内です。
 
KJGの第8章、The Gospel of Peterの後半をさらっと紹介しています。(ここをクリック


20世紀後半、大衆伝道者ビリー・グラハムの福音クルセードで用いられた「信仰決心に導く祈り」や、大学生伝道団体キャンパス・クルセードによって用いられた「四つの法則」 が使徒的福音の提示の枠組みとは違ってきたことを「救いの文化」と言う概念で分析してきたマクナイトだが、この8章では「使徒的福音」のフレームとして「イエスのストーリーがイスラエルのストーリーを完結する」のが異邦人伝道においてはどのようになされたのか、パウロの伝道説教を分析している。


また「福音」に応答するとはどう言うことか、使徒行伝の記述からそのエッセンスを「信仰・悔い改め・洗礼」としてまとめている。
特に注意が必要なのは、現代パラチャーチによる福音伝道が「クルセード」や「伝道集会」と言う風に「教会」とは離れた形で行なわれることによって生じた「信仰の決断」と「洗礼」の分離の問題を提起する分析を含んでいる。

簡単に言えば、クルセードで信じた人はそれで「救われた」ことになり、「教会」や「洗礼」は付加的なものになってしまう危険である。
この問題をテルフォード・ワークがよくまとめている。(Reordering Salvation

2012年7月23日月曜日

オウム真理教ノート 2012/7/23

現在図書館から借りているオウム関連の書籍は2冊。

まず紹介しておくとシステマティックに「オウム真理教」を扱っているのが情報時代のオウム真理教
一応最初の2章と、あと関心ありそうな部分をつまみ食い的に読んだ。情報的には結構詰まっていそうなんだけど、読んでいくと物足りない感じがする。

この本のデパートメント的な内容はここで目次を見ると分かります。

もう一つは森達也のAと言うドキュメンタリー映画を製作した時の経過を綴った本でそのタイトルもやはり『A』。

これは面白かった。

地下鉄サリン事件後の段階で「オウム=殺人教団」のような既成概念で報道がなされていた時、そのような枠組みを取っ払って、「信者の日常」をドキュメントしようと思いついたのは森達也が最初だったと言う。

どのようにドキュメントするか、森がその対象のキーパーソンとしたのは、当時オウムの広報部副部長だった荒木浩。
森は彼こそが(上祐と比較して)教団と社会との接点を繋ぐ言語を模索するコミュニケーターと見立てたのだった。

森自身も自分の主観で「信者の日常」を切り取る視点をもがきながら試行錯誤するわけだが、その「繋ぎ役」としての焦燥や苦悩が荒木と重なるのだった。

対象との適度な距離感を模索しながら森はオウムの信者を追う。越えられない壁、伝えきれないオウム信者の日常を感じながらも、対象に迫ろうとするドキュメンタリー監督の懊悩が読んでて伝わってくる。

「オウムを理解する」と言うことは果たしてできるのだろうか。
信者が言うようにオウムの宗教体験を、修行を、すれば見えてくるものがあるのだろうか。

「了解可能性」と言う問題を頭の隅で考えながらとにかく被写体に迫る。
森の発見の一つは「情」を共有する人間同士と言うことがあった。
しかし撮る方と撮られる方の緊張関係を放棄するわけではない。

読んだ中で少しメモした箇所は、荒木のオウム入信のきっかけについて。
荒木の大学(京都)に講演に来た麻原が荒木の目に、「・・・どんな意地悪な質問にも尊師は逃げないんですよ。きちんと正面から答えていて、ああこの人は本物かもしれないと思ったんです」と映ったのだと言う。(96ページ)

また、「破防法弁明で麻原の陳述に立会人として参加した浅野教授の話では、最後に発言を求められた麻原が、公安調査庁受命職員に向かって、『破防法を適用しなさい。しかしオウム以外の団体には今後絶対適用しないで欲しい』と述べた」と言う下り。(104ページ)

それと(森が考えた)「しかし、残された信者、逮捕された信者が、今もオウムにこだわり続ける理由は解かなくてはならない。理由はきっとあるはずだ。・・・彼らが今もオウムに留まり続ける理由、そのメカニズムは、オウムの内ではなく、オウムの外、すなわち僕らの社会の中にある。」(113ページ)

と、こんなところか・・・。

森も感じているがオウムと(メディアを通して)それに対峙する(日本)社会は、「合わせ鏡」のようなものではないのか、と言うこと。
一方で宗教組織の中で思考停止して「自分の言葉」を失っている信者たち。
しかしもう一方でテロ事件に対して苛立って思考停止して同様の報道を繰り返すマス・メディア。
思考停止で共通する二者。

先日の加藤周一の分析ではないが、オウムは(第二次大戦)戦時中の皇国日本の戯画、にも通底するかもしれない。

「オウム真理教を巡る冒険」はまだまだだ。


2012年7月21日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

7月22日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:1-10
説 教 題 「自己を吟味する」
説 教 者 小嶋崇 牧師


《講解メモ》
パウロ書簡の学び(86)
ガラテヤ人への手紙(74)
・6:1-10 御霊によって歩む兄弟姉妹
(A) 6:1-5 重荷を負いあう 
(B) 6:6-10 善を行なう

2012年7月19日木曜日

香山リカ発言

先日の代々木公園での「反原発集会」での香山リカ氏の発言が色々取りざたされている。

原発推進派を精神科医として「心の病気」と発言したことにほぼ非難・批判が集中している。

当日の香山リカ氏のスピーチ全体を書き起こしたものをここで読むことができる。

肝心の場所はこう言う文脈での発言となっている。
去年3月11日、大震災のあと、福島第一原発であの事故が起きたときには
私たちはみんな、そのときは気づいたはずです。
私たちは持ってはいけない発電所を、原子力発電所を持ってしまった。
これは大変な失敗をした。これはただちに、この原子力発電から私たちは卒業して、二度とこのような事故を起こしてはいけないということに気付いたはずなんです。
ところが、それからわずか一年あまりしか経たないのに、それこそ、舌の根も乾かないうちに、もう再稼働。
(中略)
原発維持や推進をしようとする人たちは、
私、精神科医からみると、心の病気に罹っている人たちに思えます。
(そうだそうだ、と会場からひときわ大きな拍手)

しかも、この人たちの病気は残念ながらもう簡単には治りそうにもありませんが、私たちはそれでもその人たちに対して、なんとか声をあげていかなければいけない。
そんな、心が病気に罹っているような、そういう状態で原発再稼働などと叫んでいる人たちに、私たちの命や生活や未来が奪われるようなことはあってはならないという風に思います。
(拍手)
10万人(以上?)が集まったとされる集会で登壇しスピーチする人にはどんな期待がかけられているか、それは初めからはっきりしている。
問題は自分の立ち位置や専門性からどんな発言が出来るかだ。

香山リカ氏はこの時「精神科医」として自分の反原発発言を補強しようとしたのだろう。
果たしてこのような事態に立ち至っても「原発再稼動」をしゃにむに進めようとする人たちは精神科と言う「専門分野」からの見立てとして「病気」に相当するのかどうか。「病理的側面」が見られるのかどうか。その具体的な見立て、あるいは分析とその根拠は発言の中に入っていない。

香山リカ氏が他の言論人や同業者から批判を浴びているのは、この一方的な発言の故ではないかと思う。

ただ「心の病気」と言う表現の妥当性はさておき、(潜在的)大多数の国民の反原発感情を知りながら原発再稼動を急ぐ「推進派」が病理的側面を持っているかどうかは検討されてもよろしいのではないかと思う。

香山リカ氏はこの時の「言論」で大顰蹙を買ってしまったようだが、問題は「原発」の今後について国民がどの程度関与できるのか、だろう。

首相官邸前で継続されるデモ行進は「もっとしっかり国民の声を聞け」と言う主張ではないか。

今のところ現政府が「原発」に関し「しっかり国民の声を聞こうとしている」風には見えない。

やはり「声をあげる」事は今大事なことであるように思う。




2012年7月16日月曜日

オウム真理教ノート、2012/7/16

筆者の関心がオウム真理教にかかり始めたのは、「オウム真理教への一視点」でも書いたように、NHK番組『未解決事件2:オウム真理教』を見たことにある。
特に「サリンガス製造」の目標が「70億人を殺戮できる量、70トン」と紹介されていたことに衝撃を受けたことである。

オウムの教義が折衷主義で、荒唐無稽で、と言うことは大方の人がそう感じるだろう。
ただその教義内容がどんなものだったかと言うことを別にしても、サリンガス散布を実行し、実際に12人を殺害し、何千人もの重軽傷者を出したと言う事実は見過ごしに出来ない凶行であった。

事件から17年たまたま特別指名手配中の残り2名が逮捕され、また少しオウム真理教へ関心が集まっているようだ。
筆者も言ってみれば野次馬的回顧者の一人に過ぎないだろう。

でも17年前と違って今回は「弱小宗教教団」が「終末(ハルマゲドン)シナリオ」を現実化しようとした過程を何とか理解の射程に取り込みたい気持ちが強くなったのである。

17年前は事件に驚愕するだけで、殆んど究明したい気持ちは出てこなかったが、今更ながらだが「その気になった」わけである。

図書館から借りてきた、鷲巣力編「加藤周一自選集第十巻(1999-2008)」(岩波書店、2010年)に、『オウム真理教遠聞』(1999年)と『「オウム」と科学技術者』(2004年)と言う二つの文章が収められている。

『オウム真理教遠聞』には次のような疑問が投げかけられている。
①オウム真理教の教義と大量殺人の行為との関係
②信者の中の科学技術者たちがなぜ「非合理的な指導者に帰依したのか」
③オウム教団は孤立した現象なのか、それとも世界に類例のあるものなのか

加藤は自らの「科学的合理性」の限界と「宗教的精神現象」が科学から独立した現象であるとの観点から疑問点を整理しているが、とりわけロバート・リフトンの『終末と救済の幻想ーオウム真理教とは何か』 (岩波書店、2000年)を参照しながら思索を進めている。

リフトンはオウム現象を「マンソン一家」(1969年)や「人民寺院」(1978年)や「天国の門」(1997年)に比較対照されうる、と見ている。
しかし加藤はオウム現象は「1930年代から1940年代にかけての日本の狂信的軍国主義の戯画化」として比較対照する。

加藤の関心は科学的な思考や合理的思考を投げ打って狂信的な妄説(神風による米国爆撃機墜落、グールーの空中浮揚)を受け入れる条件とはどんなものか、と言うことに向けられる。
①科学技術の目的を定めるのに「実証的接近法や論理的思考」が通用するとは限らない。
②科学によって実証的に得られる知識外のことには「非科学的命題を受け入れて、先へ進むほかない。」
③科学技術の専門化により専門外のことに対する「理解への努力の放棄」、「合理的思考と実証的態度の忘却」が習慣化する。「科学技術の時代は、必然的に『オカルト』『超能力』『UFO』の流行する時代である。」

『「オウム」と科学技術者』でも加藤の論考の矛先はオウムを戯画・縮図として見る国家レベルの非合理的行為遂行に取り込まれる科学技術者の問題である。
東アジア全域への国家神道の強制、ヨーロッパ全土からのユダヤ人の一掃、全知全能とされる独裁者の下での一国社会主義建設、そしていくら探しても見つからぬ大量破壊兵器の脅威を除くためのイラク征伐・・・・・・。
このような「集団の非合理性と科学技術の合理性」とは同関係するのか。
①集団の側は目的遂行のため科学技術者を必要とする。
②科学技術者の側は合理的思考の「専門化」と「個室化」。「研究の究極の目的は専門領域外にあるから、それがどれほどばかげたものであっても、それを合理的な立場から批判することがない。」

このような関係の上にオウム事件は成立した、と加藤は見る。
再発を防ぐためには、「合理性の個室と非合理な信念の個室との障壁をとり払えばよい。そのためには科学的個室で養われた合理的思考を、いつどこでも徹底的に貫くほかないだろう。」

これら加藤の論考は「国家による馬鹿げた蛮行に知らず知らずのうちに科学技術者が取り込まれる危険」に対する警鐘と対策ではある。

しかし、「オウム真理教」のようなカルト的宗教団体が発生してくる社会的土壌に対してはどうだろうか。
そこには加藤が指摘しているように、「科学技術の時代は、必然的に『オカルト』『超能力』『UFO』の流行する時代である。」という状況がある。

なかなか難しい時代である。




2012年7月15日日曜日

加藤周一のカトリック洗礼

今回加藤周一のカトリック洗礼について書くのはたまたまである。

読者の方はお気付きのように最近筆者の関心が集中しているのはオウム真理教についてである。
先ずは安上がりな資料集めとして豊島区の図書館に所蔵してあるオウム真理教関連の書物を探索していた。

その中に鷲巣力編集の「加藤周一自選集第十巻(1999-2008)」(岩波書店、2010年)があり、『オウム真理教遠聞』(1999年)と『「オウム」と科学技術者』(2004年)の二つの短い論考が収められていたのである。

わざわざこれらの二つの文章のために、とも思ったが加藤周一の著作に長らく親しんできた縁もあり借りてくることにした。

ところが巻末に編集の鷲巣力がかなりのページ数を割いて加藤周一のカトリック洗礼に関する経緯と推察を書いているのを読み、改めて加藤がなぜカトリックの洗礼を受けたのか、と言うことを考えてみたいと思ったのである。

筆者は既に「洗礼について」で加藤の洗礼について思い巡らしたことを短く書いた。
こんなことを考えていて、2008年12月に亡くなった加藤周一が、生前死の数ヶ月前にカトリックの洗礼を受けていたことを思い出した。

加藤周一の書いたものからは、およそ想像もつかないことだったが、確かに洗礼を受けたと言う事実から推察するに、老境の思想の変化があったのかも知れない、と考えたりもした。

思想的整合性の点からは、加藤は不可知論で徹底していたのではなかったか。

しかし誰にでも「信仰の飛躍」の機会はいつ訪れるか分からない。
加藤にもそう言う時が訪れたのかもしれない、とも考えてみた。
これを書いた当時はただ想像するだけで推量する資料が殆んどなかった(ちゃんと探したわけではなかった)。

今回鷲巣が書いた文章の中にこういうくだりがある。
2008年8月14日、夜遅くに加藤から私(鷲巣)あてに電話が入り、おおよそ次のようなことを述べた。「宇宙には果てがあり、その先がどうなっているかはだれにも分からない。神はいるかもしれないし、いないかもしれない。私は無宗教者であるが、妥協主義でもあるし、懐疑主義でもあるし、相対主義でもある。母はカトリックだったし、妹もカトリックである。葬儀は死んだ人のためのものではなく、生きている人のためのものである。(私が無宗教ではーー引用者補足)妹たちも困るだろうから、カトリックでいいと思う。私はもう「幽霊」なんです。でも化けて出たりはしませんよ。」(488-489ページ)
これをうけて鷲巣は次のように綴る。
加藤は「死」を覚悟した。そしてカトリックに入信する意思とその理由を明らかにした、と私(鷲巣)は受けとめた。上野毛教会に入信の意思を伝え、8月19日に加藤は受洗した。 (489ページ)
ところでなぜ加藤がカトリックの洗礼を受けたのかについての鷲巣の推察は以下のようになっている。
あえて批判を恐れずに述べる。加藤の思考に沿えば、帰依するのは必ずしもカトリックでなくても良かったに違いない。論理的斉合性を持ち、超越性を指向し、「ギャップを埋める」ものであれば、カトリックであろうと、浄土教であろうと、よかったのだ。複数の選択肢からカトリックを選んだ理由は、母も妹もカトリックであると言う条件である。「妹も困るだろう」と妹のことを心配した結果だと思われる。つまりは「家族愛」を考慮したのである。 (492ページ)
さて筆者が感じたことを述べるが、鷲巣のところにかかってきた電話で加藤が述べた内容の要約に従えば、やはりカトリック洗礼の一番の契機は「死期が迫ったこと、即ち葬儀をどうするか」と言うことに尽きるのではないだろうか。

加藤自体の思想にはどうやらさしたる変化は見られない。
不可知論であり、不可知なものに対して、特に宗教に関して基本的にどの宗教も取らない。
無宗教者。
しかしそれゆえ「神の存在」(死期に及んでは死後のいのち)に関しては「妥協主義」の態度も、「懐疑主義」の態度も、「相対主義」の態度も取れる。

鷲巣に対してそのような自己の精神性(の不変)を説明した上で、あえて死(葬儀)への準備として「宗教」の選択を語る。
「葬儀は死んだ人のためのものではなく、生きている人のためのものである。妹たちも困るだろうから、カトリックでいい」

カトリックの「選択」は加藤が「様々な宗教の選択肢」を考えたからではないだろう。
葬儀を営む家族(妹)を配慮した結果なのだ。

筆者としては加藤にもう少し積極的な洗礼への契機が、信仰の内在的な動機が、あったらばと思うのだが、どうやら事情は違っていた。

加藤の洗礼の申し出を受け入れたカトリック教会側との間にどんな会話があったかは知らない。
しかし受洗5日前の電話の内容からは、加藤の態度は決まっていた。
受洗にあたってのカテキズム(があったはずだろう)に対して加藤は相対的な姿勢を変えたとは思えない。

8月19日の洗礼に当たっての加藤の「信仰」は少なくとも「回心」ではなかっただろう。

2012年7月14日土曜日

聖書的『福音』観ー二派に分離?

「ユーアンゲリオン」ブログでマイケル・バードがそのように観察している。

Darrell Bock on the Non-Pauline gospel of the Speeches in Acts

英国アバディーン大学で長らく教鞭を取った福音派を代表する新約聖書学者、ハワード・マーシャルの記念論文集に、『福音書以前の福音ー福音ナレーティブ説教の中核』と題する論文を寄稿したダラス神学校のダレル・ボック教授が使徒行伝での福音説教を分析しながら、「キング・ジーザス・ゴスペル」のスコット・マクナイトと同様な見解を展開しているようだ。

マイケル・バードはボック教授のような「福音」理解は、福音主義の中に「福音」の基本的な理解について二つの異なり対立する構図が出てきているのではないかと指摘している。

① the Paul-justification-forensic view (e.g., Dave Gilbert, What is the Gospel?)
② the Gospel narrative-Lord Jesus-multiple-salvation-images approach (e.g., Tom Wright, Scot McKnight, John Dickson, Darrell Bock)

マイケル・バードは歴史的に見て、これまでパウロ書簡(ロマ書、ガラテヤ書等)から引き出された①の「福音」観が、②の「福音」観を覆い隠してきたのではないかと指摘している。

筆者はスコット・マクナイトの「キング・ジーザス・ゴスペル」を別ブログで解説している手前、このマイケル・バードの指摘が興味深かった。

聖書学の流れが②の探求にこれから更に向かっていくのではないか、と期待している。

明日の礼拝案内

主日礼拝

7月15日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:1-10
説 教 題 「相互負担と自己欺瞞」
説 教 者 小嶋崇 牧師


《講解メモ》
パウロ書簡の学び(85)
ガラテヤ人への手紙(73)
・6:1-10 御霊によって歩む兄弟姉妹
(A) 6:1-5 重荷を負いあう 
(B) 6:6-10 善を行なう

2012年7月10日火曜日

オウム真理教その③

一先ず記事のタイトルは「オウム真理教その③」とした。

目下少しずつオウム真理教関連のものを図書館から探して読んでいます。そんな読書の「覚書」程度のものを時々掲載していこうかなと思っています。
それで適当なタイトルはないかな・・・と今考えているのですが。

オウム真理教覚書
オウム真理教ノート
オウム真理教雑感

それで記入日時を入れてタイトルにすると、例えば今日だと「オウム真理教ノート、2012/7/10」みたいになるのだけどちょっと長ったらしいかなー。
短縮して「オウム、2012/7/10」でもいいか。

「オウム真理教その②」で中島岳志が紹介した、宮台真司「終わりなき日常を生きろ」 (1998年)は図書館にはなかった。
しょうがないので同著者の似たようなタイトルの本「世紀末の作法ー終ワリナキ日常ヲ生キル知恵」 (1997年)を借りてきた。

この本、雑誌や新聞などに書いた短い文章を寄せ集めたものなんですね。一応目を通しましたが、オウムについて直接書いてあるところは少なくて、ちょちょっと言及してあったりする。

中島の要約だと、
「宮台曰く、ハルマゲドンのような大きな変革など、もうやってこない。大切なのは永遠に輝きを失った世界の中で、パッとしない自己を抱えながら、腐らずに まったりと生きていくスキルである。輝かしい未来への幻想を捨て、終わりなき日常を戯れながら生きる知恵こそが必要とされる、と。」
とあるように、要するに《今の》リアリティーは「終わりなき日常」であるから、それにマッチした生き方を探さなければならない。
オウムのような「革命思想」や「終末思想」は今や時代錯誤、リアリティーとミスマッチ、みたいなことを主張していたようですね。

借りてきた本の中に『宗教が大きいのか、社会が大きいのか?』という一文がありました。

近代ヨーロッパで数々の宗教戦争を経過して樹立された『寛容の精神』や政教分離の「市民社会」の原理が一応日本にも明治近代化で導入されたが、もともと宗教が習合して「殺戮」を繰り広げなかった社会には「オウム事件」が起きるまで、「宗教が大きいのか、社会が大きいのか?」を深刻に問う背景がなかった、と宮台先生は仰る。

だから「オウム事件」から学ぶべきは「宗教が潜在的にもつ危険性について」の日本人のウブさを克服するための方法だ、と言うことだそうです。

と言うわけで宮台先生によれば、オウム真理教事件から私たち日本人がよくよく学ぶべきことは、「宗教」って潜在的にとんでもない暴力を発揮するような危険性を孕んでいるんだよ、と言うことのようです。


(※宮台先生の「終わりなき日常」も何か時代の空気を読むような社会学的分析で、筆者は余りピンと来ないな。キャッチコピーみたいで賞味期限のありそうな表現だ。)

2012年7月9日月曜日

ツールレーキ強制収容所

筆者の米国遊学時代、1982-1989年は加(カリフォルニア)州にいた。
現地の日系人教会(East Bay Free Methodist Church)に通っていたが、当時の一世の方々の年齢は70歳代から90歳代だった。

一世と言うのは戦前にアメリカに移民した方々で、広島や鹿児島など南の方の県からの方が多かった。
とにかく大変な苦労をして生きてこられた方々と言うことで教会の中でひときわ大事にされていた。

そんな苦労話の中で強制収容所の話も出てきた。具体的な話は余り聞けなかったが、収容所内の食堂が「メス・ホール」と言われていたことなど、初めて聞く語として覚えている。

日本人の移民とその子孫、日系アメリカ人二世、三世が第二次大戦中、アメリカ西部の州の砂漠地帯に作られたキャンプに強制収容されたことは一世にとっての苦労話の中でもひときわ重いものであったのだろう。その時の心の深くに刻まれた感情まではなかなか聞けなかった。

ただキャンプの場所として幾つか聞いた中に「ツールレーキ(一世たちの発音と表記はこのようだった)」があった。
Tulelake強制収容所は10あったキャンプの中でも一番厳重に警戒された収容所であった・・・ということをこのニュー・ヨーク・タイムズ記事で知った。

収容された日系アメリカ人のうちすべての成人に対し、アメリカ軍に通訳として雇用する条件として「忠誠度」を試す質問がなされたのだと言う。
Question No. 27 asked draft-age men whether they were willing to serve in the armed forces. No. 28 asked whether detainees would “swear unqualified allegiance to the United States” and “forswear any form of allegiance or obedience to the Japanese emperor, or any other foreign government.”
この質問にどう答えるかで家族に分裂が起きたりしたのだと言う。
そして忠誠度の低い者達がツールレーキ収容所に移送されたのだと言う。

今、この記事が書いているように、「強制収容所の意味」を問うための現地を訪れる旅が二年に一度行われていると言う。

当時一世たちと暫くの間親しくさせていただいた者として、この記事には色々感ずることが多かった。

2012年7月8日日曜日

伝道メッセージ

「キング・ジーザス・ゴスペル」ブログ更新のご案内です。
 
KJGの第8章、The Gospel of Peterの前半をさらっと紹介しています。(ここをクリック


筆者の仕える教会は昔々「伝道会」と言うものを日曜日の夕7時から持っていた。
強調点は「伝道」なのだが、一時期教会に「キリスト教」を求めて「求道者」がよく来ていた頃は別にして、礼拝とは違うメッセージと賛美歌(当方の教会が使う讃美歌では「リバイパル聖歌」と呼ばれていた)を柱にした集会だった。

筆者が大学生の時ある晩の伝道会で「まだ救われていない者」は「天国」と「地獄」の分岐点にいるようなものだ、と語られその晩「イエスを自分の罪のための救い主」と信じて「救われた」のだった。

さて振り返ってみて、その晩の説教は「キング・ジーザス・ゴスペル」で言われるところの「救いの文化」でなされるようなものだったことはよく認識できる。

しかしマクナイト教授が言うように、このような「伝道メッセージ」は確かに聖書的「福音」から見れば大分短絡した歪んだものには違いない。
しかしだからと言って筆者はこの時の体験を「救い」ではなかったとは言わない。
依然としてこの時の体験が筆者個人にとって「福音」に触れ、イエス・キリストを信じたものだった。

ただその後のキリスト者人生から学習した事柄によって、福音体験の不十分さは認識できるようになった。

今回の記事では「使徒の働き」に散見するペテロの説教がⅠコリント15章3-28節の「福音」観から分析されていることを紹介している。
「福音の文化」で「救いを体験した」方々には是非注意して読んで頂けたらと思う。

2012年7月7日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

7月8日 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 3:11-26
説 教 題 「神の宣教」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《説教シリーズ》「遣わされて」⑥

※昼食会があります。

2012年7月3日火曜日

ブログ開設二周年

去年も「ブログ開設一周年」と言う記事を投稿した。
今年も過ぎし一年を振り返ってみたい。

一年目、二年目、と投稿数は確実に減少傾向にある。
内容は、と言うとだんだん短くなってきているような気がする。

今年に入り、「キング・ジーザス・ゴスペル」ブログへの記事と、フェイスブック上のN.T.ライトの「How God Became King読書会」進行役が新たに加わり、こちらのブログが手薄になってきてしまった。
現在少々アップアップの状態。
どれも中途半端になりかけている。
「二兎を追う者一兎も得ず」、ではないがちょっと手を広げ過ぎてしまった感じだ。

さて軽く数字でのまとめをしておこう。

①総ページビュー・・・55,400を越えたところ。
この一年で33,800増えたわけだ。
月平均で2,800余、日平均94弱はどうなんだろう。
ただ最近は減少傾向。投稿数が減っているからねー。

②人気投稿
一位『北川東子(さきこ)と教養』がダントツで総ページビュー数1,580となっている。
二位の『牧師と言う職業』の総ページビュー数は841だ。
『北川東子と教養』は教会のブログには余り縁のないトピックなのだが、ツイッターでリツイートされた影響でここまで数字が伸びたようだ。

さあ、また新たな一年が始まるわけだが、意気込みはすこぶる低い。
あまり肩に力を入れて・・・どころの話ではない。
何とか存続していけるよう、青息吐息でも粘り強く行こう。

2012年7月2日月曜日

オウム真理教その②

先日「オウム真理教への一視点」と題して一文書いた。


オウムについての著書を一冊紹介するのと、NHKによるドキュメンタリー構成された「オウム真理教問題」を振り返る番組を引き金にして書いた。

(※筆者の住む豊島区の図書館には紹介した本がないのでまだその本は読めていない。
その間に久保木牧師のブログでその本の読書感想が紹介されている。先を越されてしまった。)

事件から16-7年経って特別指名手配容疑者が次々逮捕され、一応の区切りが付いたところで事件を改めて振り返る動きが少し出ている。
筆者も改めて「オウム真理教」とは何だったのか、考え始めている。

そんな折、7/1朝日の朝刊の『ニュースの本棚』で中島岳志による「一から読むオウム」と題した書評文が出ていた。
「オウム」に対するこちらの感覚が少しずつ先鋭になりつつあるところだったので興味を持って読んだ。
オウムに関する本を幾つか紹介してくれたのは有難いのだが、内容的にもう一つぐっと掴むものがなかったような気がする。

取り上げられた本を順に紹介すると、

森達也「A3(エースリー)」 (2010年)
サリン事件の原因を麻原個人の特質に求める傾向に対し、森は麻原に従った「弟子たちの暴走に着目する」。「森は麻原を免罪しているのではない。麻原に罪を還元することで、オウムを他者化してしまうことを恐れるのだ。」

島田裕己「オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか」 (2001年)
「島田が言うように、オウム事件は日本社会に生きながら、社会の在り方に違和感を持つ人間の無意識の願望を象徴するものだった。しかし、それがなぜ殺人という暴力に行きついたのか。プロセスは理解できても、その構造は不明瞭だ。」

宮台真司「終わりなき日常を生きろ」 (1998年)
「宮台曰く、ハルマゲドンのような大きな変革など、もうやってこない。大切なのは永遠に輝きを失った世界の中で、パッとしない自己を抱えながら、腐らずにまったりと生きていくスキルである。輝かしい未来への幻想を捨て、終わりなき日常を戯れながら生きる知恵こそが必要とされる、と。」

この他にも簡単な紹介つきだけの本が三冊ほど紹介されているが省略する。

中島の感じではこれらの本はそれなりにオウム事件を解析する示唆を与えてくれるが、(中島にとって最も関心の高い、そして筆者の関心とも重なる)なぜ殺人にまで至ったかの構造的解明は与えられていないようだ。

オウムを生んだ(宮台が指摘した)社会的空気は依然としてある。オウム事件は更に追及されなければならない。「オウムは未決のまま、漂流している。、しかし、事件は風化し、忘却の淵に追いやられる。私たちは、もう一度、オウムと向き合う必要があるだろう。」、と中島は結んでいる。

かつてハンナ・アーレントは「アイヒマン裁判」から『悪の陳腐さ』と言う観察を報告した。
オウム事件はまだその「悪の正体」を見据えようとするところまで解明の射程は届いていないように感ずる。

疑問に思う側が納得できるような「サリン等による『大量殺戮』を意図し、実行した者たちの意思」を論理的、構造的に解明しきることは期待できるのかどうか分からない。
しかしどこまで出来るかは別にしてそれはなされなければならないだろう。

2012年6月30日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

7月1日 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 13:1-20
説 教 題 「イエスとの関係」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2012年6月26日火曜日

61ha 絆

最近「映画を見る」機会はめっきり減った。
映画館はもちろん、テレビやDVDでも。
時間的に集中力がなくなったからだろうか。

そう言う訳だが、昨年6月に鎌仲ひとみ監督ドキュメンタリー映画「ミツバチの羽音と地球の回転」を見た(ブログ記事)のに続いて、今年もまた6月、昨日25日サロン上映会「61ha 絆」を見てきた。


瀬戸内海にある大島にあるハンセン病療養所「大島青松園」で暮らす東條高・康江夫婦の日常を追い続けた記録映画だ。
康江を軸として、その人生を写真や字幕で説明しながら映画は進む。

強制収容とは知らずに「3年で出られる」と言われて祖母に連れられて島に来た。
別れの切なさ。
結婚。

失明。その後は夫高の甲斐甲斐しい世話を受けながら生きて来た。

康江は島に来て何時頃かキリスト教に入信する。
食事のシーンでは「食前の感謝祈祷」が入る。
康江の病気をきっかけに後から入信した
きた高の祈りも記録されている。

自分の運命が知らない糸に操られるように生きて来た康江の心の底には言い知れない思いがあるに違いないが、普段の姿からは恙無い生活への「感謝の言葉」以外に余り見当たらない。
時々の思いは短歌に表現されてはいたようだが。


教会での礼拝シーンが二度だか出てくるが、二回とも「主の祈り」が捧げられるシーンを含んでいる。心なしか主の祈りの中の「赦したまえ」ということばが、彼女の人生の様々な困難や不条理に対する一つの回答として響くように聞こえるのだ。

ハンセン病問題に対する社会派的ドキュメンタリー映画ではなく、背負わされた環境の中でたんたんと生きる夫婦の物語りである。


監督:野澤 和之
撮影:堀田泰寛
インタナシヨナル映画 製作 ©2011年
「 61 ha 絆 」製作委員会
文部科学省選定 青年向き・成人向き
助成 文化芸術振興費補助金 

サロン上映会
日程:2012年6月21日(木)~6月27日(水)
上映時間:14:00~/19:00~(いずれも30分前開場)
会場:カーサ・モーツアルト(東京都渋谷区神宮前1-10-23)
最寄駅:地下鉄千代田線・副都心線明治神宮駅5番出口
JR原宿駅表参道口
会費:1,500円
(予約制090-6527-1490/61ha.info@gmail.com)

2012年6月23日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

6月24日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:1-10
説 教 題 「キリストの律法」
説 教 者 小嶋崇 牧師


《講解メモ》
パウロ書簡の学び(84)
ガラテヤ人への手紙(72)
・6:1-10 御霊によって歩む兄弟姉妹
(A) 6:1-5 重荷を負いあう 
(B) 6:6-10 善を行なう

2012年6月19日火曜日

神学遍歴④

前回アズベリー神学校での最初の「神学的思索」として「受肉と贖罪」に関する小論文について書いた。

ところで話は逸れるが、神学校を大学院レベルであることを指摘したいのか「神学大学院」とする方もいる。訳としてはそれでもいいのかもしれないが何か筆者には神学校の方がしっくり来る。

大学院レベルでの神学教育も幾つかあって、セミナリーのように大学から独立している場合と、大学に属している場合がある。前者では福音派ではフラー、老舗ではプリンストンなどがある。
後者は有名どころではハーバード大学やデューク大、シカゴ大学などはDivinity Schoolと呼んでいる。あるいはボストン大学やエモリー大学のようにSchool of Theologyと呼ぶところもある。

さて話を神学教育制度から「神学者」に移そう。

ある程度神学校での学びも進んで行くと、単にクラスで選ばれたテキストとして読む本ではなく、自分がこれぞと思って読む神学者の本が登場する。

筆者の場合そんな神学者の中でも初期の頃から心に留まったのは、H. Richard Niebuhrだった。
お兄さんがラインホルド・ニーバーでアメリカの20世紀政治思想にも一定の影響与えた神学者として有名である。
弟のリチャードは著名度の高さでは兄に譲るが、神学者の神学者として玄人好みの人であった。
一群の弟子を輩出した点でもその影響力の強さがうかがい知れる。

で、筆者はこの頃からこれだと思った人の本を重点的に買い集める(出来ればそれらを読む)傾向があった。

リチャード・ニーバーの著作と言えば幾つかすぐ名前を挙げられるが、自分が読んだ本に限って言えば、
  • The Social Sources of Denominationalism (1929)
  • The Kingdom of God in America (1937)
  • The Meaning of Revelation (1941)
  • Christ and Culture (1951)
  • The Purpose of the Church and Its Ministry (1956)
  • Radical Monotheism and Western Culture (1960)
  • The Responsible Self (1962)
あたりだろう。

この中でその後の自分の神学形成に一定の影響を及ぼしたものとしては「キリストと文化」だと思う。

リチャードの神学的思索には純然たる神学と言うより「社会学」と「倫理学」的な思索が加わっている著作が多い。
その後筆者が「社会倫理」や「宗教社会学」の方向に進んだのも、もしかしたらリチャードの神学思考的傾向が影響しているのかもしれない。

リチャードの本は割合短いのが多い。文章は練られていて余分なことは言わない。
その分よく読みこまないと理解できない。

上記に挙げた著作の中で最も衝撃的出会いだったのは「啓示の意味」だろう。
小さな本だがアンダーラインやマーカーの跡が沢山残っている。
余白に残したメモも多い。

そのころは集中して読めた時期だったのだろう。
何と言っても「神学」と言うものにまだ慣れていなくて、読むのに一生懸命だったのだろう。
今じゃその頃のような「吸収力」はない。

とにかく「啓示の意味」には勉強させてもらった良い思い出がある。
具体的にどこまで自分の中に消化されたのかは分からないが・・・。

2012年6月16日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

6月17日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:1-10
説 教 題 「柔和な心で」
説 教 者 小嶋崇 牧師


《講解メモ》
パウロ書簡の学び(83)
ガラテヤ人への手紙(71)
・6:1-10 御霊によって歩む兄弟姉妹
(A) 6:1-5 重荷を負いあう 
(B) 6:6-10 善を行なう