ところで話は逸れるが、神学校を大学院レベルであることを指摘したいのか「神学大学院」とする方もいる。訳としてはそれでもいいのかもしれないが何か筆者には神学校の方がしっくり来る。
大学院レベルでの神学教育も幾つかあって、セミナリーのように大学から独立している場合と、大学に属している場合がある。前者では福音派ではフラー、老舗ではプリンストンなどがある。
後者は有名どころではハーバード大学やデューク大、シカゴ大学などはDivinity Schoolと呼んでいる。あるいはボストン大学やエモリー大学のようにSchool of Theologyと呼ぶところもある。
さて話を神学教育制度から「神学者」に移そう。
ある程度神学校での学びも進んで行くと、単にクラスで選ばれたテキストとして読む本ではなく、自分がこれぞと思って読む神学者の本が登場する。
筆者の場合そんな神学者の中でも初期の頃から心に留まったのは、H. Richard Niebuhrだった。
お兄さんがラインホルド・ニーバーでアメリカの20世紀政治思想にも一定の影響与えた神学者として有名である。
弟のリチャードは著名度の高さでは兄に譲るが、神学者の神学者として玄人好みの人であった。
一群の弟子を輩出した点でもその影響力の強さがうかがい知れる。
で、筆者はこの頃からこれだと思った人の本を重点的に買い集める(出来ればそれらを読む)傾向があった。
リチャード・ニーバーの著作と言えば幾つかすぐ名前を挙げられるが、自分が読んだ本に限って言えば、
- The Social Sources of Denominationalism (1929)
- The Kingdom of God in America (1937)
- The Meaning of Revelation (1941)
- Christ and Culture (1951)
- The Purpose of the Church and Its Ministry (1956)
- Radical Monotheism and Western Culture (1960)
- The Responsible Self (1962)
この中でその後の自分の神学形成に一定の影響を及ぼしたものとしては「キリストと文化」だと思う。
リチャードの神学的思索には純然たる神学と言うより「社会学」と「倫理学」的な思索が加わっている著作が多い。
その後筆者が「社会倫理」や「宗教社会学」の方向に進んだのも、もしかしたらリチャードの神学思考的傾向が影響しているのかもしれない。
リチャードの本は割合短いのが多い。文章は練られていて余分なことは言わない。
その分よく読みこまないと理解できない。
上記に挙げた著作の中で最も衝撃的出会いだったのは「啓示の意味」だろう。
小さな本だがアンダーラインやマーカーの跡が沢山残っている。
余白に残したメモも多い。
そのころは集中して読めた時期だったのだろう。
何と言っても「神学」と言うものにまだ慣れていなくて、読むのに一生懸命だったのだろう。
今じゃその頃のような「吸収力」はない。
とにかく「啓示の意味」には勉強させてもらった良い思い出がある。
具体的にどこまで自分の中に消化されたのかは分からないが・・・。
0 件のコメント:
コメントを投稿