2013年6月30日日曜日

難易度ランキング導入について

最近たまたま筆者の教会関係者から、「大和郷にある教会」ブログについてご感想を頂いた。

簡単に言えば「難しい!」「くどい!」「長い!」

と言うことで、当ブログを継続して読んでくださっている読者にも、時々訪れてくださる読者にも、「無駄に時間を使わなくてもよい」ように、予め投稿記事に難易度ランキングを表示して、読むかどうかの選択をしやすくしてみたい。

①難易度の範囲
難易度を5段階で表示する。
最も難易度の低いもの(1)から、最も難易度の高いもの(5)、までランキング表示する。

②難易度の説明
(1)それほどの予備知識(キリスト教、聖書、神学、等)がなくても読めるもの。文章が長くないもの。

(2)ある程度上記のような予備知識を必要とするが、それほど混み入った文章や論考ではないもの。

(3)一部特殊な知識や英語情報などを含んだもの。

(4)一部特殊な知識や英語情報を含む上に、トピックについてより深く掘り下げたもの。結果的に文章が長くなったもの。

(5)※別途説明

③最高難度(5)の説明
 細かく分類すれば、更に(5)~(10)まで難易度を分けられるが、煩瑣になるのですべて(5)に含める。
 なぜ最高難度(5)にランクされるかは、諸々の事情による。

 ・内容が特殊であり、よっぽど関心のある人でないと読まないような記事。

 ・論考が複雑になっているもの。

 ・書いている本人が書きながら模索していて、論述の行方が不確かであり、確かな結論に導くものかどうか定かでないもの。しばしば文章が長くなっている。

 ・その他色々

④難易度ランクのない記事
 「礼拝案内」や「イベント案内」等、お知らせの類のものは難易度ランキングに馴染まないのでノーマークとなる。

⑤難易度ランキングの表示の仕方
 難易度ランキング表示、(1)~(5)は記事タイトルの前に表示する。

 (例)(4)福音派のパラダイム・シフト④ (※この記事はまだ未出。)

 記事名の先頭にランキング表示を持ってくることで、連載記事で用いている丸数字とこんがらないようにする。

以上今後ともよろしくお願いします。 

2013年6月29日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

6月30日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ピレモンへの手紙 1-25
説 教 題 「むしろ愛によって」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(109)
コロサイ・ピレモン(12)

2013年6月28日金曜日

終末論の意義

英語でimplication(インプリケーション)と言う語がある。通常「含蓄」とか「言外の意」と訳されるらしいが、筆者は大抵「含意」と訳す。
なかなか含みのある語である。(それって洒落か・・・。)

いきなりキリスト教信仰の中核的使信である「十字架」と「復活」を持ち出して説明するのもなんだが、「十字架」にしても「復活」にしても、その出来事を叙述する場合には、Ⅰコリント15章にあるように、「キリストが・・・死んだこと」「また三日目に復活したこと」(新共同訳)と至って簡潔な形もある。
(もっともキリストの死には「私たちの罪のために」と言う意味が付加されているが・・・。)

この使徒的使信(福音)が指示する「ナザレのイエスにおける出来事」のクライマックスである「十字架」と「復活」は新約聖書の中で(様々な文脈の中で)多様なイメージや言語表現を通して提示されている。
つまり出来事としての「単純な意味」の他に、そこから様々なインプリケーション(解釈とも言える)が湧き出ているのである。

例えば、当教会では、毎月1回、ジョン・ストット『キリストの十字架』を用いて学びをしている。
キリスト教神学的には『贖罪論』(救済論のうちキリストの死の意味を考察する分野)と言われる。
ストットはアングリカンの神学的伝統を意識しながら(保守的な態度で)、教会史の中で展開された幾つかの重要な『贖罪論』を紹介する。

(読者の中で、「あれっ、タイトルは『終末論』なのになんで『贖罪論』の話になるの」と訝っている方に説明しておくと、依然として導入となるインプリケーションの話をしているのであって、『贖罪論』はその一例なのだ、と言うことを申し上げておこう。)

『犠牲』やら『血』やら『小羊』やら旧約聖書の祭儀や出エジプトなどを背景としたイメージが、『贖罪』がそれらのイメージが指し示すのは、第一義的には『神の怒りを宥める』のか、それとも『罪を取り除く』、あるいは同時に両方なのか、・・・と議論されるわけである。

さて話は変わって、現在筆者がお世話を手伝っている「N.T.ライトFB読書会」では、Surprised By Hopeと言う本を読んでいる。
まさに終末論に関わる本である。

イエスの復活が、キリスト者の将来の「身体(からだ)の甦(よみがえ)り」の希望を保証するわけである。
しかしキリスト者は地上にある間、ただその時をぼーっと待っているだけなのか。
あるいはその間はひたすら多くの人を出来るだけ天国に入れる伝道することに意義を見出すのか。

それとももっと何か他の役割やら目標があるのか。

そうやって「将来」的視点から「現在」を見つめて、「今、ここで」の意義を見出そうと言うのがSurprised By Hopeの趣旨である。だから「終末」の「現在」へのインプリケーションを探るわけだ。

ところでなぜこんなことを考えているかと言うと、時々遊びで当ブログ名「大和郷にある教会」でググってみるのだが、たまたま今回は「伊那谷牧師の雑考」の『終末を日常のように生きる』 がヒットした。

その記事を書くためのヒントの一つになったのが拙ブログ記事だったと言うわけだ。
確か「大和郷にある教会」だったと記憶しているのですが、終末論について伊坂幸太郎の『終末のフール』を引き合いに出しながら終末を生きる意味についてブログ主の小嶋牧師が小論を投稿しておりました(注:ございました。「終末」を想像して現在を捉える)。その内容に深く教えられ共感し、僕も『終末のフール』を急いで買って読んだことを思い出しました。
何と筆者はネットで入手した書評でこと済ませていたのに対し、O牧師は買って読んだという。
その辺の姿勢が筆者のようなぐうたら牧師と違うんだな。

(筆者はせいぜい図書館で借りて読むくらいで、最近FB友となったK牧師などとは真逆である。K牧師の書斎は平積みされた小説などがあちらこちら山積みされているそうな・・・。)

ライトは「終末」への希望から、かなり積極的な現在への関わりを提案するが、O牧師は「たんたんとした日常」と言うインプリケーションを引き出している。

思えば、「来るべき世」に生きていると言うことをエクスタティックに(羽目を外したようなライフスタイル)現したキリスト者たちがいたことをパウロは書簡(Ⅰコリント)で示唆している。

一方では将来のクライマックスまで待つ間を、まるで伸びたゴムのようにのんべんだらりと暮らしていたキリスト者たちもいたようだ。
彼らへのパウロの指示は、
ところが、聞くところによると、あなた方の中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいると言うことです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。(Ⅱテサロニケ3:11-12、新共同訳)
さて私たちはどんな将来像を描き、そこから現在へとどんなインプリケーションを引き出すのだろうか。毎日が正念場だ。






2013年6月26日水曜日

福音派のパラダイム・シフト③

引き続き、ゴードン・T・スミスの論文、 The New Conversion: Why We 'Become Christians' Differently Today から要約・抄訳します。

「回心体験」理解の枠組みの見直し・入れ替え作業を進行させている要因:

(2)宗教経験に関する考察

神学も学際的になってきており、宗教体験(回心経験も当然この中に含まれるわけだが)に関する考察が他の方面からの知見に照らして深められるようになってきた。

哲学者で言うと、
チャールズ・テイラー 
注:スミスの念頭にあるのは多分この本
なおテイラーの名著「自我の源泉」については拙ブログ記事をご参照あれ。
テイラーの「現代における宗教の多様性」を考察したものでネット入手可能なものとしてはこれがある。当テーマに関連する部分は、「2.『二度生まれ』」となるのだろう。

ルイ・デュプレ
注:スミスがこのカトリック哲学者に言及している理由は、世俗化の中で「信仰を持つこと」が困難になっている、とデュプレが言う時の前提が「信仰とは世界全体を包括するものである」と言う考えだからだろう。このインタヴュー記事を参照のこと。

行動主義心理学の方面からは
ルイス・ランボー
注:スミスの関心はリンクにあるランボーの経歴にあるように「回心」を心理学からアプローチしている点にあるのだろう。彼の著書、Understanding Religious Conversionを解説して適用した例がネットで入手できる。これ

発達心理学の方面からは
ジェームス・ファウラー
エリク・エリクソン
注:ファウラーに関しては簡単にはこれ。エリクソンは有名だから説明は不要と思うが、一応これ

文化人類学の方面からは
ポール・ヒーバート
注:トリニティ神学校の宣教学及び人間学教授であった。この追悼記事が参考になるかもしれない。

さらに、このような考察を「ポストモダン文脈」、「脱キリスト教社会環境の文脈」 から批判的に深めるものとしては以下の二人の業績を参照すると良い。
ブラッド・J・カレンバーグ
注:プラッドは一時期フラー神学校で非常勤講師をしていたようだ(キャンパス・クルセードのスタッフも)。その時の論文、Conversion Converted: A Postmodern Formulation of the Doctrine of Conversionが参考になるかもしれない。 

・ロバート・ウェバー
注:彼のAncient-Future Evangelismの書評記事が参考になるかもしれない。一部を引用する。
The assumption which underlies his entire work is that the distinction between evangelism and discipleship constitutes a false dichotomy. Therefore he argues for a kind of “holistic” approach to evangelism which assumes evangelism and discipleship are concurrent processes which are only truly effective when united.

ヒンズー教徒やイスラム教徒への伝道が拡大することによって、「イスラム教徒はどう回心するべきか」ではなく、もっとその実際である「イスラム教徒は如何にしてキリスト信者になるのか」が問われるべきだと考えられるようになってきた。
前者の問いは往々にして(西洋の)回心体験のカテゴリーを異文化の回心者に押し付けるものになってしまう。もっと彼ら自身の体験から学ばなければならない。

(次回に続く)

 

2013年6月25日火曜日

英語圏ブログ紹介⑩

このシリーズ始めて何回目になるのか・・・、もう自分でも分からなくなっていました。
先ずは整理と言うことで以下にこれまでの紹介を順にまとめました。

① Chuck De Groat・・・ブログの新アドレスはこちら
② Rachel Held Evans 
③ Tim Gombis 
④ Larry Hurtado 
⑤ Andy Rowell 
⑥ Michael Gorman・・・現在リンクが切れております。(事情は不明) 
⑦ Jason Goroncy
⑧ Andrew・・・ブログの新アドレスはこちら
⑨ Chris Tilling

こうして見ると結構常連しているブログがカバーされていないことを発見。
まだこのシリーズは続けられる。ネタ元が見つかって助かった。

さて今回登場していただくのは、Nijay K Gupta(大体、ニジェイ・グプタと発音するみたいです。)さんのCrux Solaです。
現在一番充実している新約聖書学ブログのひとつと言っていいと思います。
ですから専門研究者向けの情報が多いです。

さてニジェイさんとは実際にはお会いしたことはありませんが(上記の誰とも会ったことないのは皆同じだからわざわざ断る必要はないのですが)、 先月18日と25日に持たれたEcclesia and Ethicsと言うオンライン神学会義に参加し、ニジェイさんの発表を聞くことが出来ました。
スカイプでの通信を想像して頂くと(なんて自分ではスカイプやっていませんが)その親近感・臨場感を分かって頂けるかもしれません。

さてニジェイさんをどう紹介したらばいいかというと、やはりN.T.ライトを引っ張ってきた方がいいかな。

現在N.T.ライトの影響を受けて(主に)新約聖書・初期キリスト教を研究している方々は大変多いですが、その中でブログをやっている方に絞って紹介すると、少し弟分的な同僚クラスで言えば、ベン・ウィザリントン(未紹介)、スコット・マクナイト(未紹介)、マイケル・ゴーマンなどがいます。少し間が開きますが、もっとブロガー世代の研究者たちの中に、マイク・バード(未紹介)やJ・ダニエル・カーク(未紹介)、そしてティム・ゴンビスクリス・ティリングなどがいます。

それより下の世代で、博士号を取り少し神学校等で教え始めた若手研究者の中の一人が、ニジェイさんです。

(なんかこの辺のことはNTライト読書会ブログねただね。)

さてニジェイさんのブログの最新記事から以下紹介します。

10 Lessons Learned About Publishing As An Editor

ニジェイさんがマイク・バードさんと共同編集している学術雑誌、Journal for the Study of Paul and His Letters (Eisenbrauns)の実務経験から、もし自分の書いた学術論文が雑誌の編集者に読まれ、且つ掲載されるようになるにはこの辺のことを注意した方がいいよ、というご親切な忠告「10項目」です。

この中の特に第7項目、Interact internationally (and beyond English-language literature only)が目に留まりました。
おや果たしてどの程度ニジェイのレーダーはカバーしているのだろうか、と。

そうすると主要英語文献を別にすると、次はドイツ語の主要文献、それから英語文献でも二次的なものを広く渉猟せよ、と言うわけです。
例えば、南アフリカ、オーストラリア、スカンジナビア(特にスェーデン)・・・と言うわけです。

あーやはりアジアも(当然日本も)、アフリカも、南米もレーダーの外なんだなー、と思いました。

ニジェイは北米ですが、マイク・バードはオーストラリアです。日本の研究者ももっと頑張ってトライして欲しいな・・・と思いました。
やはり発信力がまだないのだなと思いました。

でも先ほどのEcclesia and Ethicsではメインスピーカー以外に大学院生や博士課程の学生がたくさん論文を投稿していました。(時間的余裕がないので彼らの発表までは手が回らないのですが・・・。)
その中には何人か韓国人の名前があったように思います。

もしこのブログの読者の中に聖書学を研究している方がいたら、日本の学会だけでなく、英語の学術雑誌にも掲載されるようチャレンジして欲しいなと思います。
誰か一人でも日本での研究を紹介すれば、少しはレーダーの中に入れてもらえるのではないかと・・・。

その時にはこの忠告「10項目」を是非参照してみてください。

(※さっきN.T.ライトFB読書会に入会したての方から、筆者のブログを読んではいるのだが「難しい」と評されました。今回のもそっちの方だな、こりゃ。) 


2013年6月22日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

6月23日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ピレモンへの手紙 1-25
説 教 題 「聖徒たちの心が元気づけられる」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(108)
コロサイ・ピレモン(11)

福音の再発見ライブトークの生放送

既にご案内しました、「福音の再発見」出版記念のインストアーライブトーク(御茶ノ水CLC書店)のネット中継(ライブ・・・録画も後ほど公開予定)があるそうです。

お店に来られない方も自宅のPCでご覧になれるそうです。
(技術的なことが良く分からないので自信なさそうに言っています。)

時間は6月23日午後2時~4時です。

リンクは、King-Jesus-Gospel-Japan

です。

また「福音の再発見」のタイトルやキャッチコピーを色々試しながら作成した過程をイメージにしたのがこれです。


どうぞご期待ください。

2013年6月21日金曜日

リチャード・ボウカム「イエス入門」

既にこの記事を書いている段階では、現在来日中のボウカム氏の講演会は終わってしまったところだ。

筆者は6月17日の講演会に出席し、会場で(特別ディスカウント)販売されていた本書を購入した。
そして今日午後になって読み出した。

現在2章を読み終えたところだが、読み終えるまでもなくこれは推薦するに値する、と思い記事にしている。

先ず本著冒頭にある「日本の読者へ」という文章から一部引用する。
 本書はとても大きなテーマについての小さな本です。それゆえ限界はあります。しかし小さな本が有益になることもあります。あるテーマについてほとんどあるいはまったく知らない読者にとって、小さな本は理想的です。そのテーマについてすでによく知っている読者にとって、小さな本はそのなかの主要な問題に集中できるよう助けてくれますし、またすでによく知っていることを斬新な切り口から、あるいは新しい光に照らして見るよう助けてもくれるでしょう。
 願わくは本書が、イエスについてほとんどなにも知らない方、イエスについての本をもう何冊も読んでいる方、その両方にとって有益なものとなりますように。

これがこの本の素晴らしさをよく言い表している。
入門者にも(全くのビギナーには少し負荷が高いかもしれない)、ある程度新約聖書学、特に史的イエス研究や福音書研究をしている者にも、どちらにも目配りが届いている。

 入門書であるから読者にそれほど負担があってはいけない。章毎にまとめられている内容も分量も難しさの程度も適切だ。
 背景となる学術的研究の成果に全く触れないと言うほどビギナーなものではない。

 これまで独学独習でこの主題を学んできた者たちにとって、この30数年の研究成果を踏まえたボウカムの抑制の効いた学説・研究・背景紹介は、埋まっていない知識の穴(欠け)を補う上で大変助けになるだろう。
 この30数年の研究成果と言ったが、主にそれらは英語圏でなされてきたものだ。(筆者はドイツ語圏でのものは良く知らないので何ともいえないが)邦訳書に頼って研究している方々には、多分に偏りや歪みが出てきてしまうことがあるだろう。(末尾の参考文献のうち邦訳書は1-2割程度だ。)
 そう言う意味でもボウカムのこの本は二重の意味でよりバランスの取れた史的イエス研究・福音書研究の入門書と言える。

 翻訳は無理なく読める結構質の高いものだと言う印象だ。
 専門外のプロの翻訳者がこなれた日本語で訳すとしても、ある程度学術的な内容を持った本書のような入門書には適さないのではないか。
 その点二人の翻訳者はボウカム氏から直接薫陶を受け、ボウカム氏の人柄を反映したような、控えめで(押し付けがましくない)、抑制の効いた(まくし立てない)、文章に訳している。(つまり忠実に訳したことだろう。)
 既に文章から温かみを感じる(講演会に出席したから余計そう感じるのかもしれないが)。

 かと言って万人受けするか、と言うとそうとは言えない部分もある。
 特に日本においては史的イエス研究・福音書研究において今に至るまで様式史批評学の影響下にあると聞く。
 ボウカム氏は近年その成果を総合的に評価した結果、歴史家としてイエスを福音書を資料として探求するには様式史批評学は(かなりトーンダウンした表現を使っても)「限界がある」との結論に立ち、「目撃者証言」と言うパラダイムから、既に大著を著している。

  まだ2章を読み終えただけだが、既に筆者としてはこの本の有用性は高いと感じている。
 ①説教者にとっての有用性
 日本の牧師たちは牧会的実務で忙しく、なかなか勉強する暇がないと聞く。
 しかるにこの30数年の史的イエス・福音書研究成果をカバーするのは並大抵なことではない。
 この入門書から少しずつその大きなギャップを埋めて行くことが出来るのでは、と言う希望的観測を持った。
 その意味で特に重要なのは、むやみに様式史批評学による研究書を読まずとも、この「目撃者証言」と言うパラダイムからフレッシュにスタートできることである。ある意味後発者の有利と言えるかもしれない。
 ②会衆にとっての有用性
 説教者がもっと統合的な観点から福音書を読み、説教でもそのように語れるようになることがある程度前提となるが、教会会衆が福音書からの説教を聴く時、この入門書を読んでいればその理解度は格段と違うものになるだろう。
 「目撃者証言」と言うパラダイムからアプローチする福音書は聞く者にとって福音書ナレーティブ(語り)がより立体的に聞こえてくるだろう。

 以上簡単に紹介文と言うより推薦文を書いたが、筆者の脳裏には早くもこの本を用いての小グループ読書会の構想が浮かび始めている。
 冒頭の「日本の読者へ」が言っているように、この「イエス入門」はビギナーも中・上級者も混在したグループでもテキストとして使える大変便利な本であろう、と推測しているからだ。(その推測が正しいかどうかは読了まで待たねばならないが。)

 何はともあれ、2章読んだだけでも「推薦文」が書けるほど、本著は「イエス入門」に関し日本語で読める信頼できる好著と言って差し支えないと思う。

 恐らくよく売れる本となるだろう。関心のある方は早めにお求めになることをお奨めする。

 ※読了したので書評を書いた。ご一読あれ。

2013年6月20日木曜日

Wherever Jesus is there's gospel.

イエスを裏切ったイスカリオテのユダにも救いはあるのか?

先ずは故レイ・S・アンダーソン教授/牧師の説教を聞こう。

リンク(埋め込みコードが入手できない設定になっています。クリックお願いします。)

There's a little bit of Judas in all of us.

このイスカリオテのユダを福音説教のクリエイティブな登場人物として語ったナレーティブな説教には、神学的洞察(多くはカール・バルトのようだ)が埋め込まれている。
知的であるが同時に心に響く力強い説教だ。

人間の罪の深みにまで降りて赦しの福音を携えて浮上する・・・そんなイスカリオテのユダを用いた人間観察・洞察と福音の力強さをデモンストレートしている。

アンダーソンがこの説教に埋め込んだすべての神学的ポイントを承認できるかと言えば、注意深く考慮する余地がある・・・と答えなければならない。
しかし皮相的で軽薄な福音提示ではないことは確かだ。

この説教ではアンダーソンは殆んど何も見ないで語っている。
(先日ある牧師と説教の「完全原稿」について会話したのだが・・・。)
しかしアンダーソンはextemporaneous(即席)で語っているのではない。

内容は考え抜かれている。(ほぼ同じ内容と言うかテーマがここで読むことが出来る。)

レイ・S・アンダーソンはフラー神学校の教授であった。
フラーにあっては彼は異彩を放っていたようである。
Anderson provides an interesting case study of American evangelicalism at mid-twentieth century when some were trying to provide an intellectual alternative not only to fundamentalism but to the rationalistic theology that was presented by such early Fuller Seminary professors like Carl F. H. Henry. Anderson’s critique of Henry is very telling and insightful. Anderson’s place, and often a controversial place, in the modern history of Fuller Seminary[,] modern American evangelicalism, is very much worthwhile for further study, when he and Geoffrey Bromiley sought to present Karl Barth’s theology to a Fuller evangelicalism [which is] often more interested [in] promoting a Christian “worldview” or church growth techniques than to learn from Barth a radical evangelical theology and to build upon it.
※以上は、ベン・マイヤースのFaith and Theologyブログから引用した、Ray S. Anderson (1925-2009)

一聴に値する名説教だと思う。

※この記事の内容はジェイスン・ゴロンシーのブログから頂いたものである。ありがとう、ジェイスン。リンクはこちら

神学遍歴⑧

プリンストン神学校時代で忘れてならないのは、神学校の方だけではなく、プリンストン大学での聴講だった。

当時博士課程にいたC・Sさん(現在は某キリスト教系大学の教授であり、政治思想・政治学の方面では著名な方になった)から奨められて、Sheldon Wolin教授の大学院ゼミに入れていただいた。



シェルドン・ウォリン教授には、 Politics and Vision(邦訳書は『政治とヴィジョン』福村出版、 2007年)と言う名著があるが、本の中でプラトン、マキャベリ、ホッブスらが独立して1章が与えられている。

全10章のうち、それら3人以外にもう2人取り上げられているが、それは誰だと思いますか。

何とマルチン・ルターとジョン・カルヴィンです。

普通の政治思想史とは結構趣を異にすると思いませんか。(専門ではないので個人的な感想ですが。)

ウォリンについて忘れてならないのは、彼が米国にフランクフルト学派の思想を紹介した主要人物の一人であることでしょう。

ちょっと今名前は思い出せないのですが、ウォリンが編集していたか、主要寄稿者の一人だったかなりリベラルな雑誌があり、そこでハバーマスを紹介したり、論評していた記憶があります。
1980年代の話ですが。

イントロが長くなりましたが、とにかく彼の大学院ゼミを取ったわけですが、その年は「ジョン・ロック」がテーマでした。

副読本が何冊かありましたが、もちろんロックの本も何冊か入っていましたが、研究書として、John Dunn, The Political Thought of John Lockがありました。
260ページほどの本ですが$34.95もしました。

当時の筆者にとっては目玉が飛び出るような値段です。
本格的な研究書というのはそういう値段するんだー、となんかびっくりしたり感心したり。でも渋々買ったのを覚えています。

学院生が10人未満の小さなゼミで、政治思想初心者の筆者にはとても難しかった。

ただ凄かったのはウォリンのレクチャーと言うか語りと言うか、90分殆んどノートも見ずに、滔滔と水の流れる如く淀みなく議論が展開されるのです。

不思議なのは本来初心者には難しくてついて行けないはずなのですが、その思考の明晰さと入念に積み重ねられた議論の緻密さの故に、頭にスムースに入ってくるのです。(ノートも結構取れました。)

もちろん今ではその内容は忘れてしまいましたが、何でこんなに聴きやすいのだろうと驚いた記憶があります。

でもさすがにレベルが高すぎて何ヶ月か聴講した後に、もうこれ以上ついていくのは無理ですと、丁重にウォリン教授にお礼を言って聴講をやめました。

でもウォリンの存在感と言うのはプリンストン時代の貴重な体験の一つです。

なんかここまででもう1回分になってしまいましたので、もう一人のプリンストン大学の名教授の一人、ポール・ラムゼイ教授のことは次回に回します。

(て言うか、正直言うと、一度に名教授二人について書くのは大変だからです。笑)

2013年6月18日火曜日

福音主義とは何か

一昨日もたれた日本福音主義神学会の東部部会「2013年春季研究会」に出席した。

昨年11月だったかの研究会でも原発の問題が取り上げられ、関心が高かったのか、割合出席者が多かった。

それ以前の2-3年研究会出席をサボっていたが、それまではほぼ毎年出ていた。
そして、段々勢いがなくなってきているなー、と感じていた。
それが今回は開始5分後に会場に到着したら既に満員。


補助椅子を出しながらまだ後から来る参加者たちをぎゅうづめにして応対していた。
キャパシティー50名の会議室に67名だそうだ。

一体どう言う風の吹き回し?。
なぜそんなに集まったのか、と言うことの方が、この研究会のテーマである「福音主義とは何か」より個人的には面白い疑問となった。

発表者の青木氏も藤本氏も「教会史」の専門から、と言うスタンスで発表をまとめられていた。

「福音主義とは何か」と言うことを研究することは、即ち西欧・北米での福音主義グループの歴史を辿る、と言うことになる。
先ずは、と言うことであるが。

青木氏の発表レズメには「アメリカ福音派研究の実際ーアメリカと日本との対比からー」となっていた。割合ジャーナリスティックな感じのまとめ方、と言う印象。

発表レズメに関しては、過日西部部会で同氏が発表したものと同一のようなので、詳細をお知りになりたい方はこちらをご覧あれ。

後は個人的な感想だが、まっ一番面白かったのはドナルド・デイトンが、ジョージ・マースデンの研究を「こっぴどく」批判していたと言う後日談(同氏がデイトンを訪ねて行った時のお話し)。
デイトンはマースデンの研究視点が「東部・白人・中流以上」に偏ってサンプリングした「米国福音主義研究」であり、もっと黒人や、ペンテコステ派や社会的下層も含めて研究すべきだ、と主張しているとのことだった。

ところでデイトンは福音派研究に関しては1976年に、Discovering an Evangelical Heritag
を著しているが(リンクの版は1988年のもの)、確かアズベリー出身のウェスレヤンと言うこともあり親近感がある。
この1976年の本は、周縁的グループや運動であったフェミニズム、人種差別、貧困問題に福音派(主にウェスレヤン)が着目していたことを実証したものであり、デイトンが(福音主義)歴史家としても興味深い人であることを示唆するものではないかな。

ところで発表タイトルにあった日本との「対比」の部分は殆んど聞かなかった様に思うが、どうなってしまったのだろう。

質疑応答ではクリスチャン新聞の根田編集長が「アメリカ市民宗教」の最近の事情について質問していたが、青木氏の博士論文指導教官である森孝一教授が同テーマに関し多く発表・発言してきたことを考慮すると青木氏の回答はいささか内容に乏しいように感じた。

特に米国福音派にあっては「アメリカ」と「(プロテスタント)キリスト教」とを親和性の高いものとして余りにも無自覚に政治に参与してきた現代史があるように思う。(ジョージ・ブッシュのイラク戦争を支持した共和党保守層の多くは福音派キリスト者であったらしい。)

最近福音派の中でこのような「アメリカ市民宗教」の発現に度々警告を発する福音主義新約聖書学者、Michael Gorman(マイケル・ゴーマン)がいる。
(残念ながら右側コラムにある彼のブログ、Cross Talkのリンクがまた切れている。)

従来の特定問題(堕胎問題等)集中型の政治参与をしてきた福音派に対し、若い世代の福音派キリスト者はエコロジーを始め、より広い社会正義や人権の問題に敏感になってきている。
コンテンポラリーな北米・欧米(ここに豪やニュージーランドも加えねば)さらに、アジア、アフリカ、南米の福音派の動きにも目配りが必要だ。



さて第2発表の藤本氏の「福音主義の特色ーその胎動期にあってー」であるが、参照文献として特に用いられているのはべビントンのものだ。

彼の有名な福音派の4重の特徴(①回心主義、②行動主義あるいは実践主義、③聖書主義、④十字架中心主義)を使いながら、特にウェスレーをめぐるモラビア派などの動きや、ホィットフィールド、エドワーズなど大信仰覚醒運動に焦点を当てて分析している。

4重の特徴を参照しているがどちらかと言うと①と②はカバーしているが、④はかすかに、③は殆んど言及されてない印象。

質疑応答の時、フロアーから「聖書無誤論」についての質問があったが、福音主義神学会はそれを「前提としている」こと、ある時から「聖書論的、神学的テーマ」より実践的テーマ(宣教論とか牧会論とか?)にシフトしてきたことが説明された。

筆者の疑問は(その後別の講演会が控えていたため途中退席しなければならず質問は遠慮したが)まさにこの「聖書論」、特に福音主義神学会が出発した時盛んに取り上げられた「聖書無誤論」をその後どのように総括してきたのか、あるいはしてこなかったのか、と言うものだ。

発表の焦点は18世紀であり、青木氏が割合近・現代に焦点を当てているとは言え、福音主義研究史と言うか概観で終わっていて、(欧米であれ日本であれ )現代福音主義に対する問題提起がなかった(と思う)ことは残念であった。

藤本氏の発表でもその感はほぼ同様。

マーク・ノルのScandal of Evangelicalismを参照しながら、「たこつぼ的知性」や「お祭り騒ぎ的霊性」を指摘するに留まっていた。

既にこのブログの読者はご存知のように、創造論/進化論、アダムの史実性、男女差論(平等主義対補完主義)、等、「神のことばである聖書」を権威とするが故に起こる「聖書解釈の多元性の問題」(右側にある検索窓で「ビブリシズム」で該当記事を探してください)が福音主義の今後の大きな問題となるであろうことはある程度予測できる。

またスコット・マクナイト「福音の再発見」が提起する「福音とはそもそも何か」と言う福音派のアイデンティティーの根幹をなす用語の理解をめぐる問題や、現在連載中の「福音派のパラダイム・シフト」が提起する「回心体験の枠組み自体が変化しつつある」と言う問題等、「福音主義とは何か」をテーマにするなら、コンテンポラリーな問題は幾つもある。

それの一つも(今のところ)カバーできていない日本福音主義神学会東部部会の神学的センスと指導力にはいささか失望感を覚えないでもない。
是非頑張って視界を広げ、少しでもアップ・トゥー・デートなテーマのもとに研究会を開いて欲しいものである。

以上は私見なので、日本福音主義神学会東部部会関係者の方々においては(もし万が一この記事を読んだ場合は)、無責任で勝手な「言いたい放題」とご寛容に見過ごして欲しい。

追記(2013/6/18、21時22分)
今回の研究会を主催なさった日本福音主義神学会東部部会にあってはそのご労をねぎらうとともに、発表なさった2氏にも同様の感謝を申し上げる。
今後も是非盛り上がりのある研究会となるよう願っています。

2013年6月15日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

6月16日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ローマ人への手紙 3:21-30
説 教 題 「宥めの供え物」
説 教 者 小嶋崇 牧師


《キリストの十字架》 5

2013年6月14日金曜日

福音派のパラダイム・シフト②

引き続き、ゴードン・T・スミスの論文、
The New Conversion: Why We 'Become Christians' Differently Today

から要約・抄訳します。

(回心を取り巻く)「伝道」、「洗礼」、「弟子となること」、等関して、福音派は『回心と救いの体験』を根本的に見直す方向に来ている。

回心とは(注:ここは重要ポイントなので引用して解説します。)
conversion is a complex experience by which a person is initiated into a common life with the people of God who together seek the in-breaking of the kingdom, both in this life and in the world to come. This experience is mediated by the church and thus necessarily includes baptism as a rite of initiation. The power or energy of this experience is one of immediate encounter with the risen Christ—rather than principles or laws—and this experience is choreographed by the Spirit rather than evangelistic techniques. (下線は筆者)
(※イニシエーションは宗教人類学用語としては「通過儀礼」と訳されたりするが、その点には余り引っ張られないようにした方がよろしいと思う。

 回心のポイントは、「その後のライフスタイル全体に入る通過点である」と言うこと。
 回心とは(ウェスレーが用いた表現をちょっと借りれば)、キリスト教の入り口であり、その後に「宗教そのもの」(ウェスレーで言えば聖化の経験)が待っている・・・と言うこと。
② 次に大事なポイントはリバイバリズムの回心がしばしば個人的・瞬時的体験として終始してしまう傾向にあったのに対し、新しい視点では、終末の「神の民」への招きと参加、と言う、共同体的で広い射程を持った体験である、と理解される。

③ だから回心は(パラチャーチや伝道団体のような組織を通してではなく)本来「教会」によってなされるものであり、洗礼がその手段として位置づけられるべきである。

④ 回心は「四つの法則」や伝道パンフレットに簡略にまとめられた「救いの道」のようなテクニックを用いて起こるようなものではなく、復活のキリストに直に「出会う」ところにその活力がある。その鍵となるのが聖霊の働きである。

これらのポイントは実は宗教改革の遺産に戻ることでもあり、神の恩寵と聖霊の働きとが回心体験において優先的であることを認識し直すことである。

このようにリバイバリズムの伝統を見直す機運に影響を与えた人物として、例えばC・S・ルイス、A・W・トーザー、J・I・パッカー、そしてジョン・R・ストットらの名が挙げられる。

しかし大事なことは目下進んでいる「回心・救い体験」の見直しは単なる部分的なものではなく、新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れるような、そんな言語的、神学的入れ物自体の「入れ替え」に相当するものだ。 

このような「回心体験」理解の枠組みの見直し・入れ替え作業を進行させている要因を幾つか挙げてみる。

(1)聖書学関連
新約聖書学者の名を挙げれば、ジェームズ・ダン(英国ダラム大学)、ゴードン・フィー(カナダ、リージェント・カレッジ)、N.T.ライト(セント・アンドリュース大学)、旧約聖書学者としては、クリス・ライト(注:ローザンヌ運動、2010年ケープタウン会議で神学的指導力を発揮した方として覚えておくべき方、リンクはここ) などだ。

彼らの神学的作業の重要性は、聖書を貫く(回心・救い体験に関わる『信仰義認』を)「キリストにおいて神が義となられる」と言う 大きな枠組みで捉えようとしていることであり、単に聖書箇所の寄せ集めで提示しようとしているのではない点だ。

このようなより大きな救いのドラマから導き出される回心体験理解は、単に「いついつどこで“救われた”」と言うような断片化された経験から、過去から未来に向かって伸びる神の救いの計画の中に位置づけられ、生涯的変革を伴う、共同体的、宇宙論的側面を持った『救い』として位置づけられるようになる。

(次回に続く)

2013年6月12日水曜日

福音派のパラダイム・シフト①

福音派に今大きな変化が起こりつつある。

その中心的なものが、「回心体験」の変革である。

従来の「回心体験」の枠組みであった「リバイバリズム(信仰覚醒運動)」が過去のものとなりつつある。

と、ちょっとショッキングに聞こえるかもしれない内容の文章が「回心と贖い」と題して、リージェント・カレッジの非常勤講師、ゴードン・T・スミスによってThe Oxford Handbook of Evangelical Theologyに寄稿されている。

ちょっと買おうかなと思ったが、辞典やハンドブックの類はもう希少になっている書棚スペースのことを考えても、本の価格を考えてもなかなか手が出ない。

幸いスミスの論文の抜粋が、クリスチャニティー・トゥデー誌で紹介されている。
The New Conversion: Why We 'Become Christians' Differently Today 

ここのところやかましく宣伝しているスコット・マクナイト「福音の再発見」の提示する「救いの文化」の問題はまさにこのパラダイム・シフトの渦中にある「従来型回心」を指している。

のらくら者の日記さんが『黒船到来か?!』 と暗示しているのは、このパラダイム・シフトが指示している現象とほぼ軌をいつにしていることと思われる。

クリスチャニティー・トゥデー誌を読んで頂ければ余り説明も必要ないかもしれないが、スミスの記事がまとめている内容はいくらか大風呂敷な風も無きにしも非ずなので、筆者の出来る範囲でフォローしながら、やがて日本にも打ち寄せてくるかもしれない大波の影響を幾分かでも和らげる意図でこの記事を要約・抄訳していこうと思う。

①福音派の「回心/贖い(redemption)」体験は、リバイバリズム(信仰覚醒運動)の言語では最早記述できないほど中身の異なるものになってきた。

現在北米を中心に、しかし世界大で起こりつつある「回心」体験の変化はとても単一の用語では収まりきらない大変革、パラダイム・シフトだ、とスミスは指摘する。
しかし何が「最早過去のものとなる」かは明確に指摘できる。それはリバイバリズム(信仰覚醒運動)だ。

②リバイバリズムとは何か
リバイバリズムは歴史的には17世紀のピューリタンや18世紀の信仰覚醒運動を淵源とする。しかしよりはっきりと現れてきたのは19世紀で、20世紀に入り北米の保守派の間で定式化し、パラチャーチ/宣教団体を通してさらに世界的に拡大して行った。

福音派にとってすぐ前の世代まで、「回心」と言えば「リバイバル(集会)」での救いの体験を指していたのである。
礼拝も、伝道も、霊的形成も、すべてリバイバリズムが使う言葉で表現されてきた。

福音派と言ってもバプテスト、ペンテコスタル、メノナイト、きよめ派等様々であるが、回心体験を語る言葉は驚くほど共通している。それがリバイバリズムで一括りにできるということだ。
その特徴は回心を「点の体験」つまり「私はいつどこで救われました」という形で表現できるものとしていることであり、 大抵「罪人の祈り」を祈った時が回心体験とされるのである。

回心体験の中心は「死後の(永遠の)いのち」であり、「死んだら天国に行く」のが救いと考えられた。この世は伝道のため以外には殆んど意味がなく、もっぱら未信者を天国に入らせるのが教会の使命であり、そのような伝道が重んじられた。

さらにこの回心体験は教会外(クルセード集会とか個人伝道とか)で起こるもので、救われたら「是非教会につながってください」と勧められる有様であった。

伝道方法に用いられたのは「霊的法則」とか「霊的原理」のような形式化されたテクニックで、その順番に従ってそして最後に祈りをすればクリスチャンとなったわけである。

「洗礼」はあくまで回心後のもので、 オプショナルな位置づけであった。個人的、霊的体験や訓練が重要視された。聖礼典・典礼に対して懐疑的な態度がそのまま現れた福音派の傾向とも言える。

教会の働きは回心者の獲得、如何により多くの回心者を得るか・・・に注力され、あらゆる手段がそのことのために動員された。
だから回心者数の数的増加が成功の指標となった。

回心体験は瞬時的なものとされたから、「弟子となる」こととは区別され、それはあくまで回心後のこととされた。だから「回心者」を(次に)「弟子」とする、と表現した。
「伝道」と「弟子作り」は分離され、「霊的形成」もまた別のこととされた。

(次回に続く)


2013年6月10日月曜日

「福音の再発見」出版記念トークライブ

5月15日に発売開始後、順調に皆さんに購入して頂いているようです。
ありがとうございます。

教文館の「月間ベストセラー20」では、5月の方では発売開始後まだ半分しか経っていないのに、第1位にしていただいたようです。(こちら

さて、発売を記念して、御茶ノ水CLC書店で、「インストアートークライブ」をやります。
本の企画に関わった方々が裏話や、キリスト教書出版に関してなどトークします。

訳者の中村佐知さんも北米からやってきます。


スペースが限られていますので、フェィスブック上のサイトで「参加ボタン」を押していただけるとありがたいです。(登録しなければ入場できない、などと言うことは一切ありません。)

『福音の再発見』出版記念インストアートークライブ

なおトークライブの詳細については・・・こちらをクリック!!!

2013年6月8日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

6月9日(日) 午前10時30分

朗読箇所 Ⅰテサロニケ 1:1-10
説 教 題 「生けるまことの神に仕える」
説 教 者 小嶋彬夫 牧師

※昼食会があります。

2013年6月6日木曜日

イースター・エッグ・ミステリー

1週間ほど前のこと。

電話が来たのでとると、「○○テレビ」から。

5月5日のイースターの卵のうんたらかんたら・・・。
 

「えっ、5月5日がイースター? イースターは今年は3月31日ですよ。」

藪から棒の(またまた)電話取材か・・・。

(と勘違いしたことが後から判明。この時点ではなんかイースター行事一般についての、特にイースターエッグについての取材かと思っていた。)
 

そしたら逆に、「5月5日は東方教会暦でのイースター」だと知らされた。

まさかねー、東方教会暦までは守備範囲じゃないのでねー・・・。

急にそんなこと聞かれたって分かんないよ。

「お宅の教会ではイースター・エッグはやりますか。」
「どんな風にイースター・エッグを装飾するんですか。」

「うちでは礼拝に来られた方にただの白いゆで卵をお持ち帰りいただきます。」
「なんにも装飾はいたしません。」

てなわけで殆んど取材にならなかった。


あの時の一騒ぎ以来、これで3度目の電話取材だ。

でもなんでそんなにあっちからこっちから電話取材がかかってくるの。
東京には他に教会がごまんとあるのに・・・。


などと思いながらいたら、その数日後、電話が鳴るので出ると。

「あのー、そちらの教会のイースター・エッグは・・・」

えっ、またイースター・エッグ。

今度はどちらの取材。

「あのー、うちのベランダにですねー、どこからともなく卵が運ばれてきたのですよ。」
「それがね、装飾してあって、イースター・エッグらしいのです。」
「それでどこの教会のイースター・エッグかと思いまして・・・」


なーんだ。
これで話が合う。
そうかあの電話の冒頭で、○○テレビの人が言っていた「ベランダに卵」とはそう言う事だったのだ・・・。

イースター・エッグ・ミステリーの謎が解けた。

と言うわけで、長い話を短くすれば・・・。

(東方教会暦でのイースターを過ぎた) ある日、このおじさんの家のベランダにゆで卵が落ちていたのが発見された。
おかしいなー、空から降ってくるわけはないし・・・。
頭のいいカラスがどこかから運んできたのかなー。
 

それにしてもこの卵普通じゃないぞ。
いろいろ飾りがしてある。
(なんかその辺のこと調べてみたのかもしれない。)

えーい、これは面白いネタだからテレビにでも教えてやろう。
そしたら取材でもしてくれて、謎が解けるかもしれない。
(と、このおじさんは思ったのではなかろうか。)


それで○○テレビはこのおじさんの住む近辺の教会に「どんなイースター・エッグをしているのか」と聞いて回ったわけだ。
しかしそれでは埒が明かなかった。

おじさんは自分で探索を開始した。
その最初の教会として選ばれたのが筆者の教会であったと言うわけだ。

残念ながら、その後このおじさんから「分かりました。○○教会のイースター・エッグでした。」
と言う報告は聞いていないので、究極的にはこの『イースター・エッグ・ミステリー』事件の全面解決には至っていないかもしれない。

が、筆者としてはあれが取材ではなかった、と言うことだけは分かってほっとした。

それにしても○○テレビさん、電話する時はもうちょっと丁寧に事情を説明してよね
こっちは「また電話取材か」と身構えちゃうじゃないの・・・。 

2013年6月5日水曜日

朗読会 太宰治

ーー文学を聞く楽ーー

太宰治
桜桃忌によせて

「葉桜と魔笛」 朗読 長島 涼子
「カチカチ山」(お伽草子より) 朗読 松岡 みどり

日 時  六月二十九日(土) 午後2時 開演
場 所  巣鴨聖泉キリスト教会 礼拝堂(アクセス
入場料  二千円

お申し込み COSMOS映像工房
TEL/FAX     03-3392-2205
Eメール   cosmos3945★kxd.biglobe.ne.jp
        (★を@に置き換えてご利用ください)

2013年6月4日火曜日

「福音の再発見」を推薦します

さて改めてと言うことになるが、5月15日発売されたスコット・マクナイト「福音の再発見」(キリスト新聞社)を推薦させて頂こう。

以下の文章は「福音の再発見」巻末に『解説』として載せた文章を要約・短縮したものである。


著者は新約聖書学者としてだけでなく、キリスト教大学の一教師として学生たちの信仰や人生の問題と真摯に向き合ってきた人物です。この本はそのような学生たちが抱えるキリスト教信仰への疑問と新約聖書学とを「福音」と言うテーマに凝縮させた好著と言えます。

自らもその中に育まれた「救いの文化」を長年の聖書学の研鑚によって吟味し、その問題点をえぐり出し、読者に対して「福音」と言ういわば自明と思われた事柄の再考を促します。

本来の聖書的・使徒的福音とはどのようなものか。著者は分厚く聖書(パウロ書簡、福音書、使徒行伝)からその要点を浮き彫りにしていきます。

健全な「教会文化」とは「福音の文化」である、とマクナイトは主張します。キリストの真の弟子となって行くことが「福音の文化」への大切な足がかりであると指摘します。

そのためには使徒的福音に立ち戻ってよく聞くこと、「イスラエルの物語(旧約聖書)の完結としてのイエスの物語」を通して提示された「主であり、メシアであり、救い主であるイエス・キリスト」に全面的に信頼し服従することが大切であると指摘します。
なお「発売後の反応」として福音の再発見応援サイト(旧名、キング・ジーザス・ゴスペル)ブログやツイッターから拾ってきた紹介や感想を掲載しているのでどうぞご一読ください。

さて、 スコット・マクナイト「福音の再発見」発売記念イベントを計画しているのでこの場を借りて紹介させて頂こう。


これが★つながる★ということだ!
訳者来日決定 緊急開催!
それは、1冊の雑誌が新刊された時に始まった。
そして、一本のブログ記事がネット上に・・・。
それを受けて、別のブログ記事がサイバー空間に・・・
悩めるクリスチャンからのコメントが火をつけた。
そして、この本の企画が始まった・・・。

Web3.0社会のキリスト教とキリスト教書を考える
ウェブや、ブログ、リアルで話題の本「福音の再発見」
その裏側の『ものがたり』を主要関係者がライブでゆるく語ります。

出版記念トークライブ開催緊急開催!!
場所:2013年6月23日 (日) 14:00-16:00
日時:東京都千代田区 お茶の水クリスチャンセンター 2F CLC書店
入場無料&展示販売を実施 来場歓迎

 

2013年6月3日月曜日

「神の王国」、福音、社会変革

たまたまN.T. Wrightで検索していたら、ライトの「キリスト教起源と『神』問題」シリーズ第4巻目「パウロと神の真実(Faithfulness)」について、ライトがインタヴューに回答しているブログ記事に出会った。

このブログ、Learning In the Grip of Graceは初めてだったので、ちょっと他の記事にも目を通してみたら、ライトの記事のすぐ後に、
Piper, Carson, DeYoung, and Keller on Did Jesus Preach the Gospel?
と言うパネル・ディスカッションの動画が紹介されていた。

実は、「イエスは『福音』を説教したか?」、と言うのは、このブログでも回数を重ねて紹介してきたスコット・マクナイト「福音の発見」(原題は「キング・ジーザス・ゴスペル」・・・右側コラムの同名ラベル参照のこと)でも提起された問題なのだ。

以下、同書から引用する。


事例B
 アメリカで最も影響力を持つ牧師であり著者の一人であるジョン・パイパーは、2010年4月に持たれた、ある大きなコンファレンスで、次のような問いを発した。「イエスはパウロの福音を宣べ伝えたのか?」 この問いに答えるにあたり、パイパーはルカによる福音書18章のパリサイ人と取税人の話を取り上げた。この箇所では、福音書の中でほんの数回だけ使われている「義と認められ」(14節)という表現が登場する。パイパーはその箇所を指し、イエスは「信仰による義認」というパウロの福音を確かに宣べたと結論づけた。(中略) 
 しかし…… そもそも、ここには順序、つまりどちらが先か、という問題がある。イエスがパウロの福音を語ったのか、と問うよりも、パウロがイエスの福音を語ったのか、と問うほうが重要ではないだろうか? さらに、もう一つ問題がある。パイパーは、信仰義認こそ福音である、という前提の上に立っていることだ。米国のカルヴァン派たち(福音派の間におけるカルヴァン主義の再台頭の背景には、パイパーの影響が強くある)は、福音を「信仰による義認」という短い公式で定義してきた。しかし、使徒たちは福音をそのように定義していたのだろうか? 使徒たちが福音を宣べ伝えたとき、彼らは何と言っていただろうか? 本書ではこれから、これらの問いに答えていきたいと思う。(下線は筆者)
 その2010年4月のパイパーの講演(説教)の動画がこれではないかと思う。

 
イントロでは『十字架』に至る福音書全体のストーリーの大切さを強調しているが、『信仰義認』というパウロの福音(パウロの福音という語自体用い方には注意が必要だと思うが・・・)を「窓」として福音書、つまりイエスの福音を掴もうとしている意図は明らかだと思う。

さて先に紹介したパネル・ディスカッションであるが、新約聖書学者ドン・カーソンを司会者/進行役に、三人の牧師、ジョン・パイパー、ティモシー・ケラー、ケビン・デヤングが「イエスは福音を伝えたのか?」と言うまさに同じ問題で討論している。

1時間に及ぶディスカッションなので大雑把な感想しかここでは記すことはできないが、やはりパネリストたちの間にある種の問い直しがあるのだと思う。(そう思いたい。)
果たして自分たちの福音に関する聖書神学的方法論があるいは偏っている面があるのではなかろうかと・・・。

パネリストたちは、基本的には改革派の伝統的(どこまで遡るのか筆者も厳密には知らないが)教理的解釈に沿った立場を擁護しているように聞こえる。

しかし冒頭でケラー牧師がリベラル派背景から福音派カルヴィニズムの立場で回心した経験を述懐しながら言っている、「個人的救い」と「社会正義」は二つの対抗する見方とするべきではなく統合が必要なのだ、と。

ただパネリストたちの討論を聞いていると、「神の国」に関する聖書神学的吟味が何かとても初歩的なレベルで留まっていて、なかなか核心に入っていかない(入れない?)ので聞いている筆者は大変もどかしく感じたのも事実だ。

背景としては、近年若い世代のキリスト者の間に「社会正義」よりの福音、ソースを辿れば「神の国」の強調と言う福音理解が影響していることがある。
そのことを十分意識してのこの企画だとは思うのだ。

討論の中ではその影響力が誰から出ているかは伏せられているようだが、ところどころ引用しているので、ググればあるいは名前が掴めるかも知れない。

何はともあれ「福音」の原義的な、原初的(使徒的と言うことになろうが)な見直しはもっと議論されてしかるべきものと思う。

2013年6月1日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

6月2日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 14:15-31
説 教 題 「あなたがたに平安」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。