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2015年4月14日火曜日

(3)ウェスレー著作集(英語)売ります

 暫く前に野呂芳男著「ウェスレーの生涯と神学」をこのブログで「売ります」したらあっという間に売れてしまった。(後から「書き込みが結構あった」と苦情も来たが・・・。)


今回「柳の下の泥鰌」になるかも分からないが、第2弾目をトライしてみる。



画像は「全集」の第1巻目(532ページ・・・厚さ約4.5センチ)、全16巻です。

Zondervan社の「The First Complete Unabridged Edition in Nearly 100 Years」と言うものです。

ウェスレヤン・カンファレンスが1872年に出版したものの写真オフセット印刷、と説明されています。

画像ではよく分かりませんが大分焼けています。

ですので余り高い値段は付けられません。

何しろ洋書ですから買い手が付くかどうか・・・。

1巻あたり100円としてセット価格1,800円1,600円で先ずは試してみます。

なお他に送料手数料(1,000円)を頂戴いたします。

お問い合わせは
sugamo_seisen@yahoo.co.jp
まで、

 ①氏名
 ②住所
 ③電話番号
を明記の上お申し込みください。

※このセットは(またもや)筆者自身が購入したものではありません。父が購入したものです。その父も殆ど使わなかった模様。今回狭くなった書棚スペース確保のため売り払うことにしました。

2015年1月12日月曜日

(3)野呂芳男著「ウェスレーの生涯と神学」売ります

このブログでは初めての「売ります」です。
※この記事をアップしたところ早速「買います!!」の手が挙がりました。既にウレマシタということで以下お読みください。


知人の古本ですが、
野呂芳男著「ウェスレーの生涯と神学」
(1975年、日本基督教団出版局)
4千円で!!


友愛書房では、8740円です。

野呂芳男の本を古本で手に入れようの調査では
 一番高値をつけているのは、『ウェスレーの生涯と神学』で、33.760円です。最安値でも8,000円。日本のウェスレー研究の基礎を気づいた名著で、ウェスレーに関心のある人なら一冊は持っておくべき本です。近所の古本屋で5,000円くらいで売っていたら、それは迷わず「買い」でしょう。
となっています。

どうやらこのお値段だとかなり「お得」かもしれません。

なお他に送料手数料(500円)を頂戴いたします。

お問い合わせは
sugamo_seisen@yahoo.co.jp
まで、
①氏名
②住所
③電話番号
を明記の上お申し込みください。





2013年11月11日月曜日

大台到達

昨日から今日にかけて、通算ページヴュー数が10万を越えた。

ブログをやっている人には1つの目標か、とも思ったのでご報告申し上げ、同時にこのブログを訪れてくださる読者の方に一言お礼を。

ブログ開設2周年(2012年7月3日)の時点で、総ページヴュー数が「55,400を越えたところ」とあるので、2年経たずにほぼ同じ閲覧数を達成したことになるが、振り返ると、ブロガーとしては段々力が落ちているのに・・・と反省の方が多い。

何とか続いているので近未来に「ゾンビー・ブログ」になることはないと思うが。

ご報告だけでは物足りないので、ページヴュー数の高い順から記事を紹介してみようと思う。

左側コラムに「人気の投稿」としてベスト10は表示してあるが、調べて見るとこれは余りアップ・ツー・デートではないし、正確でもない。

佐藤優「キリスト教神学概論」・・・2180
北川東子と教養・・・2099
牧師と言う職業・・・1403
自然災害と宗教的解釈・・・1143
福音派は今どこに?・・・1014
王なるイエスの福音・・・916
「ホットスポット巣鴨」のその後・・・910
ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ・・・776
信仰の他流試合・・・728
これで説教?・・・592

と言うわけで左コラムのベスト10には出ていなかったニューパースペクティブ・オン・パウロが意外にも多かったことが判明しました。

以下ベスト11-20まで紹介しておきます。(20位が2つなので21になりますが。)

11. リチャード・ボウカム「イエス入門」・・・510
12. チャールズ・テイラー「自我の源泉」・・・498
13. ハーメニューティックス(解釈学)・・・478
14. 巣鴨がホットスポット?・・・448
15. 自然災害と終末論的解釈・・・443
16. ジョン・ストット(1921-2011)・・・418
17. お一人様クリスチャン・・・395
18. 「福音の再発見」発売・・・375
19. 牧師の独身・・・368
20. 公共の神学・・・349
20. 主に神学ブログ1・・・349

というわけでした。

2013年9月14日土曜日

(1)近況報告2013年9月

一年の中でも色々波はあるものです。

4月半ば頃でしょうか、冬眠から覚めて少しずつペースを掴み始め、6月から7月にかけてピークを迎えた後、なだらかな下降線に入ったと思っておりましたら、9月間近になる頃でしたか、何かじわじわと疲れのようなものが出てまいりました。

そんなことでブログの更新もここに来てかなりスローペーストなっております。

こう言う時は慌てず騒がず、あまり背伸びをしたような記事は狙わない方がいいかもしれないと少し思っております。

読書のペースもかなり落ちましたね。
必要以外のものにはなかなかてが出ません。

どちらにしても、もう大分前から「勢いで何かをやるような年」ではないので、その辺りどう自分を調整していくか上手くやって行きたいのですが、やはり年齢を重ねながらその都度探って行くことなのでしょうね。

年頭「メリハリ」「オン・オフ」を目指して少し冒険もしたいと思ったのですが、夏の小旅行でそれはある程度実現できたと思うのですが、まだまだとも思うのです。

ともすると「あれもしなければならない、これもしなければならない」と言う思いになりやすいのですが、その辺もう少し「気持ちの整理」をすることで、現実は変わらなくとも受け止め方によって少しでも「心の余裕」を確保できるようになりたいものです。

最近少し読み出した本で、Jack Levison Fresh Air: The Holy Spirit for an Inspired Life


があるのですが、前々から読みたいと思いつつそのままにしていたのですが、やっと購入しました。

すぐ読み通す必要はないと思っています。
何らかのヒントをくれればそれでもいいと思っています。

今のところのヒントは、ブリージング、息をすることです。
息をすることに意識を向けるみたいなことと先ずは受け取りました。

もちろん「息」はヘブル語でルーアッハ。
ルーアッハは霊でもあり、風でもあります。

読んでから、時々「息をすること」を「霊」のことを考えたり、思ったりしています。
まだ微弱な「思い巡らし」ですので、「なるほど」などと言うことはありません。

三日坊主系ですから、ただ「思い返したように」息をすることを霊と絡めて・・・でいいかなと。

2013年7月31日水曜日

(5)今「頭にあること」をメモ

昨日は某キリスト教出版社で編集をしているFさんが主宰する読書会に出席。

毎月1回のペースでやっている。
過去にもこのブログで何回か取上げた。

昨晩は夏休み前と言うことで、早めに切り上げ、その後夕食を共にした。
参加者、筆者も含めて8名。

今読んでいる本は、チャールズ・リングマの『キャッチ・ザ・ウィンド』


ざっくり言うと、「教会刷新」についての本だ。
Changeと言う語が毎章タイトルに出てくる(全9章中8章)。

オランダ出身の方なので英語が母語ではない。
時折分かりにくい言い回しに遭遇し、皆でどう言う意味かを議論する。

昨日は第7章、The Vision For Change、の後半。
(念のため。英語の原書読書会ではない。主宰者のFさんが事前に訳して配布する。)

毎回思うのだが、社会学を結構読んでいる著者なので、そちら方面から来る教会や聖書への洞察は時に鋭いものがある。

しかし、「あるべき教会」の姿を(新約)聖書から提示しようと言う時に、しばしば著者にとって「こうあるべき」と言うフレームに合うように聖書箇所が抽出され、またそのモデルに合う様に解釈される傾向がある。(その点釈義的に物足りない感じを度々抱いてしまう。)

特に問題と感じるのは「制度的教会(institutional, structural)」をかなり固定的に捉える傾向があることだろうか。

「制度的教会」の問題点を指摘しようとする余り、たとえ理想とする「神の民」(すべての信徒が聖霊の賜物で相互に仕え合い、社会に対して開かれ奉仕できるような共同体)であっても、institutional, structuralな問題(例えば『人間関係に普遍的に絡みつく力・支配の問題』)が避け得ないことを見落としがちな印象を受ける。

ちょっと脱線するかもしれないが、リングマにとって「制度的教会」の重要な一側面である「職制」に関し、パウロの牧会書簡について挿入でこうコメントしている。
ただし牧会書簡を除く。それらは二、三世紀の特徴になっていった制度化の強調をすでに反映している。
ここで話題が所謂パウロ書簡の高等批評問題に脱線(でもないけど)。(擬似パウロ書簡参照)
参加者の多くは「福音派」で育っていて余りこの問題に慣れていない・・・云々みたいな話が結構続いた。
で新約聖書学を専攻しているメンバーによるミニ・レクチャーがなされた。

リングマは「より平準化した人間関係を示唆する教会」モデルを新約聖書から見ようとしているためこのような挿入コメントを付けて(牧会書簡を除外して)「新約聖書のモデル」としたいのだろうと思う。

しかし下手に首を突っ込むと「新約聖書正典問題」に入り込むことになるので挿入コメントに留めてそれ以上の言及を避けたのだろう。

ただこの「制度化(職制化)された教会」の問題を考えるには、牧会書簡の高等批評問題は避けられないのではないだろうか。

高等批評で「疑似パウロ」性を判定する「規準」が、牧会書簡の内容が「教会の制度化」を反映している、という見方がその一つだからだ。

福音派も「高等批評」に対してはアレルギーを持ってきたので、なかなかリングマが目指そうとしている「教会像」を取上げるにはこの点でも難しい面があるかもしれない。

ただ正典論や聖書解釈論等複雑な問題にも絡むことになるかもしれないが、リングマの「聖霊の賜物を根拠とした自立した信徒たちによる教会」、即ち彼が新約聖書から取り出そうとしている『ピープル・エンパワーメント』というのは面白い「教会刷新」アイデアではなかろうか、と思っている。

2013年6月6日木曜日

イースター・エッグ・ミステリー

1週間ほど前のこと。

電話が来たのでとると、「○○テレビ」から。

5月5日のイースターの卵のうんたらかんたら・・・。
 

「えっ、5月5日がイースター? イースターは今年は3月31日ですよ。」

藪から棒の(またまた)電話取材か・・・。

(と勘違いしたことが後から判明。この時点ではなんかイースター行事一般についての、特にイースターエッグについての取材かと思っていた。)
 

そしたら逆に、「5月5日は東方教会暦でのイースター」だと知らされた。

まさかねー、東方教会暦までは守備範囲じゃないのでねー・・・。

急にそんなこと聞かれたって分かんないよ。

「お宅の教会ではイースター・エッグはやりますか。」
「どんな風にイースター・エッグを装飾するんですか。」

「うちでは礼拝に来られた方にただの白いゆで卵をお持ち帰りいただきます。」
「なんにも装飾はいたしません。」

てなわけで殆んど取材にならなかった。


あの時の一騒ぎ以来、これで3度目の電話取材だ。

でもなんでそんなにあっちからこっちから電話取材がかかってくるの。
東京には他に教会がごまんとあるのに・・・。


などと思いながらいたら、その数日後、電話が鳴るので出ると。

「あのー、そちらの教会のイースター・エッグは・・・」

えっ、またイースター・エッグ。

今度はどちらの取材。

「あのー、うちのベランダにですねー、どこからともなく卵が運ばれてきたのですよ。」
「それがね、装飾してあって、イースター・エッグらしいのです。」
「それでどこの教会のイースター・エッグかと思いまして・・・」


なーんだ。
これで話が合う。
そうかあの電話の冒頭で、○○テレビの人が言っていた「ベランダに卵」とはそう言う事だったのだ・・・。

イースター・エッグ・ミステリーの謎が解けた。

と言うわけで、長い話を短くすれば・・・。

(東方教会暦でのイースターを過ぎた) ある日、このおじさんの家のベランダにゆで卵が落ちていたのが発見された。
おかしいなー、空から降ってくるわけはないし・・・。
頭のいいカラスがどこかから運んできたのかなー。
 

それにしてもこの卵普通じゃないぞ。
いろいろ飾りがしてある。
(なんかその辺のこと調べてみたのかもしれない。)

えーい、これは面白いネタだからテレビにでも教えてやろう。
そしたら取材でもしてくれて、謎が解けるかもしれない。
(と、このおじさんは思ったのではなかろうか。)


それで○○テレビはこのおじさんの住む近辺の教会に「どんなイースター・エッグをしているのか」と聞いて回ったわけだ。
しかしそれでは埒が明かなかった。

おじさんは自分で探索を開始した。
その最初の教会として選ばれたのが筆者の教会であったと言うわけだ。

残念ながら、その後このおじさんから「分かりました。○○教会のイースター・エッグでした。」
と言う報告は聞いていないので、究極的にはこの『イースター・エッグ・ミステリー』事件の全面解決には至っていないかもしれない。

が、筆者としてはあれが取材ではなかった、と言うことだけは分かってほっとした。

それにしても○○テレビさん、電話する時はもうちょっと丁寧に事情を説明してよね
こっちは「また電話取材か」と身構えちゃうじゃないの・・・。 

2012年11月29日木曜日

誰に聞く?

今回は全くのずぼらなエントリーです。

何の脈絡もなく(全然ないわけではないが、それは筆者個人の中だけで、読者の皆さんには見当たらないと言うこと)以下のような疑問がわきました。

「仏教」について誰に聞くと言えば「中村元」を思いつく。
「イスラム教」と言えば「井筒俊彦」。
ではキリスト教と言えば誰に聞く。

もちろんお二人の名前を挙げたように、日本人でと言うことです。

筆者も(ブログにも少し書いたことがあるかもしれないが)お二人の各宗教の原典とも言える「スッタニパータ」と「コーラン」に(さーっと)目を通したことがある。

二宗教については門外漢の筆者でもお二人の碩学は何となく分かるような気がした。

実際筆者のような疑問を殆んどそのままネットに投稿された方がある。(ここをクリック

最初に「何の脈絡もなく」と書いたが、実は今日図書館から借りてきた河合隼雄と柳田邦男の対談本『心の深みへ』(講談社、2002年)の中で、河合がこんなことを言っている。

そう、日本人の自己実現ということを考えてもいいと思う。そして、日本の自己実現にとってもっとも重要になるのが、もっとキリスト教を知るということ。日本人はキリスト教のことを知らなさすぎます。(54ページ)
なんで河合隼雄かはここには書かないでおこう。
ちょっとだけ言えばもともと「面白い」と思っていたのだが、図書館で手ごろなものを探していた時たまたま河合の対談集(何冊もあるみたいだ)の一つに村上春樹が入っているのを目にした。それがたまたま面白かったので柳の下の何とやらで手にしたのがこれ、と言うわけ。

最近雑誌などで「キリスト教」が特集されたり、2012年新書大賞に「ふしぎなキリスト教」が選ばれたりしている。
筆者も実は「ふしぎなキリスト教」をわざわざ買って読んだ。
わざわざが不遜に聞こえるとあれなので説明しておくと、筆者が買う本は殆んどキリスト教神学書に限られている。しかも英書。キリスト教関係書籍であっても日本語のものは殆んど買わない。

と書くとやっぱり不遜か・・・。失礼。

てなわけで「ふしぎなキリスト教」はやはりわざわざ買ったのである。
で内容には大体においてがっかりした。
かなりな放談で終始している。(これが漫才だったらそれなりにスピード感があっていいのかもしれないが。)

そんなご時勢だからますます「キリスト教に関してだったら(日本人の学者だったら)誰に聞く」と言う疑問は切実なものがある。と筆者は思う。

誰も思いつかないのである。

仏教も、イスラム教もそれぞれ長い歴史の過程で今日まで一大文明圏を形成し保ってきた。
その文明的意義を把握しつつ原典に依拠しつつその真髄を語ることは並大抵の知見ではできないことだ。

キリスト教は古代ユダヤ教に淵源し、二千年に渡って今や地球上のほぼ全域でその影響を見るほどに拡がってきた。
その間幾つかの大きな流れ(カトリック、東方教会、プロテスタント)に分岐したので、総合的にキリスト教を論ずることは仏教やイスラム教を語ることと同じかそれより難しいことかもしれない。

もっとも河合の言った意味は西洋近代が作り上げた「近代的自我」との関係で「自己実現」を考えるためにキリスト教をもっと知らなければならない、と言うことだろう。

さて読者の方でこれは、と言う方がいたら教えて欲しい。

蛇足になるが、Christianity scholarで検索していたら、20 Most Influential Christian Scholarsをヒットした。
以前目にしたことがあったものだが、N. T. ライトもノミネートされているので載せておこう。



2012年10月24日水曜日

勘違い

先日の礼拝でのこと。

大学の時からだったかコンタクトを使用してきた。
今年に入ってどうもアレルギーのせいかコンタクトを装着して4-5時間経つと目が痛くなって涙がポロポロ・・・と言う状況になった。
目医者に行って薬をもらったりしたが、段々コンタクトが億劫になってきて、ずーっと昔に作ったメガネをかけるようになった。

大分視力は落ちていたがそのまま古いめがねで過ごしていた。
字を読む時は、本ならばかなり目に近づければよし、外に出る時は物がぼんやり輪郭が分かればいいや、と放っておいた。

先週の土曜日、海外在住の知人が「明日の礼拝に来ます」とメールで連絡が入った。
日曜日の朝、いつものように礼拝の始まる10分前に会堂に入った。
最近出席なさるようになったご婦人がすぐやって来て後ろの列の席に座った。

それから間もなく別の婦人が入ってきて「おはようございます」と声をかけられた。
約5メートル位離れたその方を出席予定の知人と勘違いした筆者は久し振りなので少しは会話とも思ったがそのまま挨拶だけで終わった。
その方は真ん中の列の席に座った。

礼拝が終わってゲストを紹介する時になった。
筆者は真ん中の列の席に座った方を見ながら、「今日は○○さん(知人の名前)が礼拝に来られました」と紹介した。

もう一人礼拝時間の後の方でやって来られた方が後ろの列の隅の席に座っているので、誰だろうと「あのー、初めて来会された方でしょうか。もしよろしければお名前を」と声をかけた。
そうしたら○○です、と答えがあった。

なんだ時々顔を見せる○○さんではないか。

目がちゃんと見えている家族の者たちはこの一部始終を見ながら、筆者が二人を勘違いしていることを確認して「あーあしょうがないわねー」のような顔をしていた(筆者はその表情も分からないのでまだ事態が飲み込めていなかった。)

さて講壇(段はないから要するに会堂の前のスペースのこと)から席に座っている知人の方へ挨拶に行った。
近づくと知人の顔は一番後ろの隅の席に座っている人物だった。
(この時点でも筆者はあれっ何かおかしいな、くらいしか察知できていなかった。)

皆が帰った後、昼食の時家族の者から説明を受けてようやく自分の勘違いがはっきり分かった。
「困るわねー。メガネ位ちゃんとしなさいよ。」

ぎゃふんである。

昨日メガネを新調しに近くの店に赴いた。

2012年8月24日金曜日

残暑見舞いと近況報告

更新が滞りがちになってしまいました。

暑い日々が続いています。
まだ2週間くらいは続くそうです。
そう考えるだけで「やれやれ」となってしまいます。

と言う訳で先ずは

残暑お見舞い申し上げます

自慢じゃありませんが、事務室にはエアコンがありません。
扇風機だけでやっています。
コンクリートの建物のおかげで、室温は大体29度位で一定しています。

熱中症の注意では「室温28度」とか言っていますが、それはとても無理です。
なかなか集中して何かをやるには条件が余りよろしくありません。
朝寝も昼寝も時々しています。

と言うのも居室の方も、自慢じゃありませんがエアコンがありません。
幸い履き出し窓なので、全開にしています。
夜中過ぎて明け方近くになると少し涼しい空気が部屋に流れてきます。

そんなわけでどうしても寝不足がちです。
朝方朝食まではまだ大丈夫なのですが、食後デボーション(聖書を読んで、静思の時を持つこと)をし出すと頭がほわーっとしてきます。
しょうがない少し横になります。

そんな毎日を過ごしています。
なかなかブログまで頭が回りません。
やっとツイッターで「○×▲☆」呟いています。

それでは読者の皆様暫く開店休業で失礼します。
ブログ主

2012年1月29日日曜日

電柱移設

今日巣鴨聖泉キリスト教会の定時教会総会が持たれ無事すべての議案が承認議決された。

そのうちの一つが教会入り口のちょうど真ん中に立っている電柱の移設工事計画。
10年前の会堂建替えの時設計案に入っていたが、見積もり減額過程で没になった。

以来「そこにある」のに慣れてしまい、移設案は眠っていた。

しかし昨年の定期改修工事の時、担当した工務店の方が
「ここに電柱があるのは何とも景観を台無しにしている。」
「こんなとこに電柱があると運が向いてこない。」
などと言われたおかげで改めてその立っている場所のマイナス性に気付かされた。」

言われた通りまさに目の上のたんこぶのような存在だ。

以来どうしようか暫く考えて「やはり移設に着手しよう」と責任役員会に諮り、そして今日の総会で承認議決された。

東京電力による移設工事見積額は16万円余。

今年前半には工事が終了し道路入り口から見る教会(右側)と木工房活水(左側)がどんな風に見えるか楽しみだ。

2011年7月13日水曜日

暑さ対策

ただいま日本は熱波に見舞われて、連日真夏日と熱帯夜。
体調を崩している人たちも多いと思います。

当教会の会堂はトップライトがあり、普段は降り注ぐ陽光が礼拝の雰囲気を盛り上げる、と言う面もあるのですが、いかんせんこの暑さの中では逆効果。
先土曜日、大急ぎで遮蔽ネットをかけました。

よく農家などが使っている黒いネットと、銀色の網目の細かいネットと二重にかけました。大分暗くなってしまいましたが、礼拝時間中もろに光を受ける位置に座る人にとって大助かり。
かく言う筆者もやはり直射位置に立つので助かります。

このブログでも以前紹介したことのある屋上緑化ですが、このネットをかける仕事のため久しぶりに上がって点検してみたら、大分土が干上がって植物は何やら小さなコケのようなものが殆んどになっていました。

実は数年前からイネ科の植物(雑草)とのバトルが続いていたのですが、ついに今年は屋根の一部はほぼ全滅状態までやられてしまいました。
イネ科の植物もあちこちに細々とあるだけで増え広がっていないことだけは良かったのですが・・・。

当教会堂にはエアコンがありません。それだけ屋上緑化に寄せる期待は大きかったのですが、新築から十年経ってやはり少し甘い目論見だったと思わされます。
かといって新たにエアコン設置を考えているわけではありません。

どうして今後の暑さ対策をして行けばいいのか・・・。悩むところです。

世は福島第一原発事故以来、代替エネルギー論が日増しに強まっています。
冷房技術も何か画期的な新発明でも出てきて、「簡単置くだけ」みたいな装置が出てこないかなー、などと真夏の世の夢を見ている今日この頃です。

皆さんにおかれましては、くれぐれも無理な我慢をなさらず、冷房を上手に使って、熱中症から身を守り、この暑い長い夏を乗り切ってくださいませ。

2011年6月6日月曜日

もしこのブログが非公開だったら

このブログを始めて11ヶ月が過ぎた。
ブログは個人のダイアリーのようなもので、非公開に出来るし公開して不特定多数の読者にも読んでもらうことができる。
筆者は最初から「大和郷にある教会」とタイトルを付けてしまったので、個人的な側面は余り考えていなかった。
ツィッターを始めたのでその翌日勢いに任せてブログも始めてしまったのだ。

当初の意図はツイッターもブログも「教会の伝道」ツールのようなイメージで考えていた。
多少その線で頑張っていた時期があったが、公開ブログを継続して読んで貰うためには更新が欠かせない。
多少なりふり構わず「ネタ」を探して書いているうちに、いつしか牧師の個人的雑感のようなブログになってしまった。
そのこと自体はそれほど悪いこととは思っていないが、それならばブログのタイトルもしかるべく改名すべきなのだろうがそのままにしてある。

牧師と言ってもいろいろで、筆者が普段読んでいる「牧師のブログ」を書いている牧師たちはなかなか関心が広い方が多いようである。
うらやましい限りである。
こちらは引き出しが少ないので「ネタ」につまってしまう。
頑張ってもどっちみち聖書や神学関係が多くなってしまうのだ。

そんな時「非公開ブログ」であったらもっと自由に書けるであろうに・・・と夢想する。
別に自由に書きたいことを書けばよいではないか、と言われても筆者は余り器用に書き分けられない。
いや器用に書き分ける、と言うのがあるいはおかしなことなのかもしれない。
でも筆者の場合は説教でもそうなのだが個人的なエピソードを余り持ち込まない、いや持ち込めない方なのだ。
だから「非公開ブログ」であっても恐らくそれ程は自分をひけらかすと言うか、自分の心の中をつまびらかにすることはしないであろうと想像する。

一日の中で様々な想念、情念、記憶のフラッシュバックなど、もし書き付けようと思えばいくらでもあるはずである。
しかしそれを何かに書き付けると言うことは取捨選択のフィルターがかかってしまい、どうしても内容が抑制されてしまうのである。

読むのは楽だが書くのは苦痛だ、とはそんなことも関係しているだろう。

ジェンダーと言う語があるが、自分の心の赴くままに語れるのは女性の方が得意なのではないだろうか、とよく思ったりする。
男性は、と言うと妙にプライドや「沽券」に引きずられ、表現が抑制されたり慎重な物言いになってしまったりするのではなかろうか。
そんな肩肘張った物言いから解放され、あっけらかんと物を書けたらどれほど楽だろうに、などと勝手に思ったりする。
そうすれば書いたそばから(記事を公開した後から)あれは書かなきゃ良かった、とか、あの部分の発言はもうちょっと内容をチェックしてからにしておけば良かった、とか、未練がましい思いをしないで済むのに、と思ったりする。

さて、今日は「ネタ」なしにいくらか自由に書くことが出来た。
別に何ということは無い戯言だ。

これで記事になるかどうかは読者の判断にお任せしよう。