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2017年10月17日火曜日

(5)義認論ノート、7

どうやら「義認論ノート」は毎月1回ペースのアップになっています。

何とも時間のかかる連載になっていますが、目標としたところに着地するまでは続けるつもりです。


今回は「義認論」と「教会論」を教会史的に振り返るきっかけを与えてくれた論文を紹介したいと思います。



D. G. Hart, "The Church in Evangelical Theologies, Past and Future" in Mark Husbands & Daniel J. Treier eds. THE COMMUNITY OF THE WORD: TOWARD AN EVANGELICAL ECCLESIOLOGY, 23-40.


著者のダリル・G・ハートに関しては詳しいことはあまり知らないが、改革派のウェストミンスター神学校書店の紹介ページから17冊もの著作が販売されている。

現在のプロフィールとしては「外交政策研究所(F.P.R.I.)」というシンクタンクのアソシエート・スカラーとなっている。
感じとしては「アメリカ宗教史(プロテスタント/福音派)」研究から国防・外交に関わるアメリカの国家アイデンティティーとしてのキリスト教史研究へと多少シフトしているのかもしれない。
ハートの論文のテーゼをざっくり言えば、「(アメリカ)福音主義の教会論は無きに等しい。敢えて言えば「反・教会」論のようなものである。」という感じだ。

ここで言う教会論とは「職制」「聖礼典」を基礎とした制度的教会論のことで、宗教改革者第一世代から伝統として受け継いだものだ。

しかしその後ピューリタンたちが北米に移民して教会を形成して行く過程で、この伝統的教会論は「個人の宗教経験の真正性」を原則とする教会形成に次第にシフトして行き、19世紀の信仰復興運動によってもはやその枠組み自体が見えなくなるほど衰退して行った、と概観している。

かなり長い時間の間のシフトを論証するわけだから、スケッチのような叙述になるわけだが、ハートのテーゼをある意味シンボリックに示すある人物の自伝を通して、この大きなシフトを印象付けている。

その人物とはチャールズ・ホッジ(1797-1878)とほぼ同時代の人物、ジョン・ウィリアムソン・ネヴィン(John Williamson Nevin, 1803-1886)。

ハートの構図では、ネヴインは(保守の代表と目される)ホッジの対極にある、宗教改革者の伝統的教会論を受け継ぐ正統派なのである。

ちょっと長くなるがハートの論文からネヴィンの「生い立ち、信仰訓練背景」について書いているところを引用する。


He had as a boy at Middle Spring Presbyterian Church been reared “according to the Presbyterian faith as it then stood.” For Nevin this meant a form of piety that was covenantal and churchly, begun in baptism, and sustained by catechesis in the broadest sense to include family instruction and public worship, with the end of such nurture being communion in the Lord’s Supper. As Nevin summarized it,“In one word, all proceeded on the theory of sacramental, educational religion, . . . holding the Church in her visible character to be the medium of salvation for her baptized children.”1
This system of churchly devotion received a significant challenge when Nevin went off to Union College in New York. There he encountered a rival piety in which the individual and the pursuit of conversion and holiness had made the church virtually superfluous. According to Nevin, the revivalist-driven faith of New England Puritanism “brought to pass, what amounted for me, to a complete breaking up of all my previous Christian life.” He explained:
I had come to college, a boy of strongly pious dispositions and exemplary religious habits, never doubting but that I was in some way a Christian, though it had not come with me yet (unfortunately) to what is called a public profession of religion. But now one of the first lessons inculcated on me indirectly by this unchurchly system, was that all this must pass for nothing, and that I must learn to look upon myself as an outcast from the family and kingdom of God.2 (様々な強調は筆者)

ネヴィンが育った「伝統的教会論の枠組み(ハイ・チャーチなどとも称される)」と「個人的回心を最優先するリヴァイヴァリズム」、つまり chuchly vs. unchurchly、の対立が彼の中で火花を散らすように受け止められたわけである。
※この二つのシステムの対立に関して、ネヴィンの薫陶を受けた長老教会宣教師が宮城学院の歴史に関係していて、『宮城学院資料室年報』(2015年度)に出村彰氏が「合衆国衆国改革派外国伝道局50年略史」の解題で背景的なことを書いているので参考にしてみてください。(特に41-44ページ辺りのところにネヴィンのことが書かれています。)
ネヴィンは、前回義認論ノート 6で取り上げた「Aタイプのクリスチャン」ということになります。
 (A)(クリスチャン家庭に育ち)気がついたら「クリスチャンかなー、まだかなー」、と実ははっきりした自覚がないまま過ごしてきました。でも洗礼も受けていますし、クリスチャンといえばクリスチャンだと答えています。
ハートの論文では時系列的に、ジョージ・ホィットフィールド、ジョナサン・エドワーズ、チャールズ・フィニー、チャールズ・ホッジ、エドモンド・クラウニーを取り上げて論じます。

ネヴィンを規準としてみれば、これらすべての説教者・神学者たちは、新大陸でのキリスト教の発展・形成を、ルターやカルヴィンの宗教改革遺産の保持ではなく、個人的・体験的な方向にシフトしたイノベーターということになるわけです。

洗礼と結びつく「義認論」と「教会論」の関係でいうと、ハートの論文が示唆する重要なポイントは、新大陸におけるキリスト教が聖霊による直接的な恵みとして「個人の救いの体験」を強調することによって、(カルヴィンやルターが保持していた)制度的教会がサクラメントによって媒介する神の恵みという視点を弱めたということ。

つまりサクラメントである洗礼の意義がキリスト者の体験において弱められることによって、教会論と義認との繋がりは弱まり、個人の救いを明確化する「救いの順序」救済論との関係が強められるようになった(のではないか)ということです。


※英語で読むのを厭わなければ、ハートの論文はネットにて読めますので一読をお勧めします。

2017年9月20日水曜日

(5)義認論ノート、6

義認論ノート、5で以下のような「アウトライン」的なものを提示しておきました。

    今後の展望
     (1)教会員の資格問題
     (2)(聖礼典、特に)洗礼と教会員資格問題
     (3)教会史の流れ

これから書こうとしていることは筆者にとって「依然としてかなり込み入って見えている」ことがらです。

はたして読者にどれだけ伝えられるのか・・・あまり自信はありません。

しかし、概観的にボンヤリとでも何かが見えてくれば御の字としたいと思います。


(1)最初に押さえておきたいこと

それは、
「義認」と「洗礼」は、一世紀のキリスト教会において《体験》としても《認識》としても、ほぼ同じか密接に繋がっていた
であろうということです。

「パウロがロマ書やガラテヤ書で論じている義認は『救済論』でもあり『教会論』でもある」というN.T.ライトの立場を支持して「義認論」を考えてきた筆者としては「バプテスマ」を「義認」と結びつけることには大きなメリットがあると考えています。

それはバプテスマ(の体験)が、
 (A) 「義認(罪人を無罪と宣言し赦免する=罪の赦しを与える)」という救済論の側面と、
 (B) 「(バプテスマを受けて)教会員となる」という礼典、つまり教会論に関わる側面と
両方を最も自然に繋げてくれるように思うからです。

しかし、「義認」を「洗礼」と繋げて議論するのはそう簡単ではない。というか却って渦中に栗を拾うようなことになりかねない。そのような理由と言うか背景が実はあるのです。(実際このノートが遅々として進まないのは、あっちでこっちでこんがらかった糸をほどくような苦労をしているからです。

筆者は(どこかに書いたと思いますが)教派的には「ウェスレアン・アルミニアン」という流れに属します。ということはプロテスタントの大きな流れでいうと「英国国教会=聖公会」と「改革派」になります。

しかし19世紀末頃日本に伝わってきた「きよめ派」の背景で言えば、リバイバリズムや伝道優先的な体質で、ウェスレーのように礼典を重んじたりする点や、改革派のような信仰告白に基づく教理と神学の伝統も、あまり受け継いでいません。

要するに「義認」にしても「洗礼」にしても掘り下げて論ずるDNAが殆どないのです。つまり最初からハンディキャップがかなり大きかったと言えます。

「義認論」のため様々な資料を読んできましたが、自らの体験と比較照合することが殆ど出来ないばかりか、次々に新しい要素に遭遇してそのたび新規に学習しなければならないことが多々ありました。

ですから「知ったような顔で書いている」ように見えても、結構辻褄の合わないことが見つかると思います。そのあたりご寛容のほどよろしくお願いします。

それは簡単に言えば新約聖書の時代と、その後の教会史で「洗礼の意義や役割がかなり変化してしまった」ということです。(そしてそのことは、ライトが指摘したように、義認もまた新約聖書での意味から離れ拡大して運用されるようになったこととも並行しているのではないかと思います。義認論ノート、3参照)

ルターの宗教改革は、カトリック教会に定着した「サクラメント(洗礼はその中の一つ)」が孕んだ問題から出てきた腐敗や行き過ぎに対してあったわけですが、確かにルターは「信仰義認」の原則は打ち立てましたが、その原則で「洗礼」が関わる問題を一挙にクリアーしたわけではありません。

ご存知のようにルター派教会や改革派教会は依然として「幼児洗礼」を維持してきました。(しかし改革派の場合は後述するようにリバイバリズムの影響で礼典を重んずるハイチャーチの伝統はかなり後退します。)

それに対し急進派とされた再洗礼派は「成人洗礼」に徹することで新約聖書時代の教会の洗礼のあり方に戻ろうとしました。

混乱はいまも続いています。(先鋭化して論じられることはなくなったようですが・・・。)



(2) 身近な例を使って

「義認論」の問題を教会論(端的には「洗礼」)の角度から探るために、昨年の日本伝道会議分科会「ライトの義認論」でも使った「設問」をここでも使ってみようと思います。

念頭にあるのは、ライトが指摘した「義認の教理とはつまるところ『救いの確証』のためである」というポイントです。信仰生活、教会生活の背景が異なると「洗礼」と「救いの確証」が対照的な関係になることを示してみたいと思います。
 あなたは以下の二つのうち、どちらのタイプのクリスチャンですか?

 (A)(クリスチャン家庭に育ち)気がついたら「クリスチャンかなー、まだかなー」、と実ははっきりした自覚がないまま過ごしてきました。でも洗礼も受けていますし、クリスチャンといえばクリスチャンだと答えています。
 (B)ある伝道集会みたいなところで(「招き」とか言うのがあって、何となく前に出て行ったらいろいろカウンセリングがあって、最後に「イエスを個人的な救い主と心に受け入れます」と祈りました。その後、どこか教会に繋がる様にと勧められたので、近所の○○教会に通っています。はい、自分はクリスチャンです。
A タイプのクリスチャンとは、教会史的に言えばカトリック教会、そしてプロテスタントの中でも依然として「国家/社会と教会とが同心円的関係」やその名残のある教会です。幼児洗礼がスタンダードでしょうから成人してから「クリスチャン」とは何か???と悩んだり、あるいはただ習慣で教会に通うタイプです。

このタイプの(特に真面目な)クリスチャンは、「救いの確証」問題を抱える比率が高いと考えられます。(ルターやウェスレーが思い浮かびます。)

B タイプのクリスチャンとは、先に挙げた再洗礼派がさきがけといえますが、むしろ現代の福音派教会で伝道を通してクリスチャンになる方により多く見られると思います。

このタイプは「明確な回心」を経て教会に加わることが多いので、逆に洗礼とか教会とかは「後付のもの」に感じられる比率が高いと考えられます。

この「設問」のポイントは「洗礼」と「キリスト者の自覚」とが離れていることです。

A タイプでは自覚の伴わない洗礼(特に幼児洗礼)が大きな要因と考えます。

B タイプでは「回心主義」の福音派教会に典型的ですが、「個人の信仰(の決断)」が重要視され、先ず「回心=救いの体験」があって後「洗礼」がいわば「外面的なしるし」として追加的になされる傾向があります。これらの教会は「非典礼的」な傾向が強く、押しなべて教会論が弱体化しています。


以上がうまく「今後の展開」のイントロとなってくれるといいのですが・・・。

もしピンと来ることが少なかった場合は、このブログで書いた「福音のパラダイムシフト」を読むようオススメします。

高い比率で問題意識が共有されていますし、「洗礼」と「回心体験」とを近接させる必要を指摘しています。(特に、福音派のパラダイム・シフト②

また説明が足りていないですが、回心主義福音派で「洗礼」が「罪人の祈り」に典礼的側面を乗っ取られてしまったと テルフォード・ワークが Evangelical Sacraments: Supporting Cast for the Sinner's Prayerでズバリ指摘しています。

2015年6月12日金曜日

(4)『教会史遡行』から落穂拾い、2

前回、落穂拾い、1、では「日本ホーリネス運動史」について幾つか拾いました。


今回は、その前史として選んだ「19世紀(中・後)リバイバリズム」を取り上げます。


目玉として選んだ人物は、Dwight L. Moody(1837-1899)、ドワイト・ムーディー(ウィキ)。


ムーディーに関して「余録」として残すとすれば、彼の「回心体験」の背景となる『日曜学校』についでしょうか。


ムーディーは17歳で回心したのですが、その下地を作ったのは『日曜学校』だったと思います。

彼は故郷を離れボストンで叔父さんのところで働かせてもらう条件となったのが、教会と教会学校に通うことだったんです。

そして彼を回心に導いたのは、日曜学校の教師であったエドワード・キンボールでした。

ムーディーが働いていた靴屋に出向き、店の前でしばらく躊躇の末入店し、カウンター越しに一言二言会話を交わした後、「決心("Will you not give your heart to Jesus?")」を迫ったんです。

ムーディーはこれに応答し「回心」しました。

とそう言う経緯です。


日曜学校は、英国に起源(1780年)を持ち、米国でも19世紀初頭から、各教派が勢力を伸ばす中で取り入れられていきました。(アメリカ日曜学校協会が設立されたのが1825年)
しかし、その始まりが「私設」であったように、「教会のプログラム」として組み入れられるまでは暫く時間がかかったようです。

当初の日曜学校は宗教的な方面では「カテキズム」が教えられたそうですが、しかし(ここからは殆ど詳細を言うのは難しいですが)19世紀に入ってリバイバリズム運動が強まっていく中で、日曜学校のカリキュラム自体も「聖書を教え、明確な宗教体験を植えつける」ものとして整備されていったようです。

と言うことで、ムーディーが日曜学校で学ぶようになった時には、教会学校を通して「回心体験」を得る流れは出来上がっていたことが推測されます。(そのあたりの経緯はこの記事が簡潔にまとめています。)


次に興味深いことは、ムーディーの「回心体験記」には出てきませんが、聖書を用いて「回心体験」に導くマニュアルのようなものが、この時にはもう出来上がっていたのではないか、ということです。

多くの人がご存知の『四つの法則』は20世紀版といえるか知れませんが、これから紹介する教会の伝統ではそれは『救いの計画』として、『救いまでの5段階』として開発され、代々受け継がれていたのだそうです。


下から順に「救いまでの5段階」が積み上げられています。



そして各段階には証明聖句というか、対応する聖書のことばが決まっていて、これが会堂の壁に貼り付けられているのだそうです。

少し、その例となる紹介記事を引用します。
It’s just a Church of Christ thing, right? The “Plan of Salvation,” also called the “Five Steps of Salvation,” is unique to us, I think. And those of us who were raised in and by the Churches of Christ know them well: Hear, Believe, Repent, Confess, Baptism. In that order. As a kid in the ’70s, this was drilled into me by my Sunday school teachers in Bible class, by the preachers from the pulpits, by the youth ministers at the devotionals and rallies, and by the Open Bible Study my dad walked me through when I reached the “age of accountability.” The five steps were plastered on bulletin boards in the church hallways, illustrated by charts and diagrams on mimeographed handouts, and splashed across banners promoting the next Gospel meeting. These were the five steps, always accompanied by supporting verses of Scripture, that necessarily had to be followed — again, in order! — for one to be saved.(Five Steps To Salvation、強調は筆者)
「キリストの教会」と言う教派ですね。日本ではそれほど多くないようです。

実は強調したところは意味があって、「この5ステップの順序に従って」信ずるならば回心が得られる(何と言うのか、これも信仰ですかね)という『原理』とともに普及したようなのです。

この記事を書いた方は、この「救いの計画」のような「原理に従って人間が応答すれば、体験が得られる(はずだ)、と言う理詰めなアプローチ」はアレクサンダー・キャンベル(1788-1866)らの「聖書復帰運動」に遡る、と見ています。

Historians point back to our movement’s focus on rational thought and enlightenment thinking that characterized the mainstream culture of America at the turn of the 19th century when Stone and Campbell and others were attempting to “restore” God’s Church. It was all about scientific reasoning and empirical evidence and deductive problem-solving. Society at this time was convinced that there were undeniable patterns, unalterable designs in nature and in the world that, if learned and applied, held the keys to everlasting peace and joy.
「救いの計画は」、スコット・マクナイト『福音の再発見』でお馴染みなのですが、改めてその影響の深さと、その理性主義的背景を思いました。

ところで、たまたま、「キリストの教会」の方が『福音の再発見』を読んで自派の『救いの計画』を振り返っているブログ記事が見つかりましたので紹介しておきます。
One of the reasons I wanted to review Scot's book is that I'd like, as might many of you, to use the label soterian from time to time to describe how many Christian think.

Again, the crux of Scot's argument is that the Plan of Salvation isn't the gospel. No doubt they are related. And Scot discusses their relationship in the book. But they aren't the same. The "Good News" isn't the Steps of Salvation. In my tradition these Steps were as follows: 1) Hear, 2) Believe, 3) Repent, 4) Confess, and 5) Be Baptized (for the remission of your sins). Your tradition might have a different list of Steps. Still, at Scot points out, these Steps aren't the gospel.


この辺のことは「教会史」と「世俗の歴史」と重なり合うことですので、ちゃんと調べてみないとならないですが、何かしら調べてみるべき分野やトピックを提示する端緒にはなったかな、と思います。


※もう一つついでですが、「キリストの教会」関係の教会史はなかなか部外者には難しい。やはりその派の人が整理してくれているものを読むのでないと分かりにくい面があります。

その点このめじろ台キリストの教会がまとめてくれた文章は助けになります。 

2013年9月15日日曜日

(4)福音派のパラダイム・シフト⑧(完)

ゴードン・T・スミスの小論
The New Conversion: Why We 'Become Christians' Differently Today 
 
を要約・粗訳し終って感じていたのは、いささか大風呂敷であることと(紙面の制約から仕方がないことだが)各論への詳述が足りなさ過ぎ、と言うことだった。

2回に渡って「個人的所見」を述べてはみたが、何となく終えた感じがしない。
夏の間は放置していたが、ここらでちゃんと締めくくりたいと思う。

最後に筆者が試みたことは、もう少しスミス自身について知り、また聞いてみたい、と言うことだった。

幸いゴードン・T・スミスは自身のHPを持っている。

動画の方は「回心」に関連しそうなものは見つからなかったが、音声ファイルの中に適当なものがあった。

The Conversion Experience and the Intellectual Vocation.
  1. Track 1
  2. Track 2
  3. Track 3
  4. Track 4
  5. Track 5
  6. Track 6 
この講演では特に知識人の「回心体験」を自伝的にか伝記的にか「ナレーティブ」として残されたものを丹念に追跡し分析を加えている。

古典的なオウグスティヌスやジョン・ウェスレー、幾らか最近では、G・K・チェスタートンやC・S・ルイス、もっと最近ではヒトゲノム解析を指揮したフランシス・コリンズらの名前を挙げているが、実際に論評しているのは次の4人である。
1. ブレイズ・パスカル
2. シモーヌ・ヴェイユ(彼女の場合はキリスト者への回心は未完であった。)
3. George Grant
4. Paul Williams
スミスは「仕事として」沢山の「回心体験物語」を読むと言うが、これらの知識人たちの「知的問題を含んだ霊的遍歴」から「回心」と言う、個々人にとってはユニークな体験でありながら、神学的に見た「共通要素・過程」を跡付けられるのではないか、と言っている。

なるほどこれを聞くと、スミスはこの小論において、ただ色んな人物の名前を挙げているだけでなく、「回心体験」を学際的にしかし統合的に捉えようとしているのかが窺い知れる。

スミスは思いの外雄弁であったし、よくリサーチしている、と言う印象を受けた。

「福音派のパラダイム・シフト」と言うネーミングはちょっと眉唾に聞こえたかもしれないが、肝心なポイントは、19世紀から20世紀のリヴァイヴァリズムの「回心」を導いたり(「四つの法則」「爆発する伝道」)、あるいはそれによって得られた体験を記述した言語は「型枠」で限られていて、「回心」における知的・霊的複雑さや深さを捉えきれない・・・と言うことを実証したかったのではないかと思う。

少し乱暴にまとめれば「回心体験」とは、実に霊的に深い体験だ、ということだろう。

自身の体験としてこの講演の中でも語っていたが、1970、1980年代「回心」を神学的に講義するための教科書はリチャード・ラブレースのものしか見当たらなかったが、1990年代以降どんどん面白い研究が出てくるようになった、と述懐している。

スミスはどうやら「体験」の神学の可能性と有用性を提唱しているようだ。

と言うわけで、8回かけたこのシリーズもこれにて終幕としよう。
お付き合い下さった読者の皆様に感謝。

2013年7月24日水曜日

(5)福音派のパラダイム・シフト⑦

さて、前回から「個人的所見」を述べ始めたが、一回で終わらすことが出来なかった。

今回この「個人的所見」の続きを読んでくださる読者がいるとすれば、その方は余程の問題意識の持ち主かもしれない。

予め断っておくが、難易度(5)には幾つか意味があってその一つが「書いてる先が見えないことを書く場合」と定義しておいたが、今回はまさにそんな記事だ。

途中で筆者と一緒に「神学の迷路」に迷い込むことにならなければ良いが・・・。

確認事項(2)
パラダイム・シフトの方向が、『回心体験』を個人主義的・縮小化された「救済」から、教会論的な側面を回復し、ホリスティックな「救済」へと向かっている、と言うことについて

念のためゴードン・T・スミスが「パラダイム・シフト」後の「回心と救い」の輪郭をスケッチしている文章を再掲する。

回心とは

conversion is a complex experience by which a person is initiated into a common life with the people of God who together seek the in-breaking of the kingdom, both in this life and in the world to come. This experience is mediated by the church and thus necessarily includes baptism as a rite of initiation. The power or energy of this experience is one of immediate encounter with the risen Christ—rather than principles or laws—and this experience is choreographed by the Spirit rather than evangelistic techniques. (下線は筆者)
ここから拾えるポイントは幾つかあるが、今回は3点に絞ろう。

①提示される福音の性格
The power or energy of this experience is one of immediate encounter with the risen Christ—rather than principles or laws—and this experience is choreographed by the Spirit rather than evangelistic techniques.
福音の提示は、「個人的罪からの赦し」(の方便)としての「十字架のキリスト」から、復活したメシア・主イエスを宣言することへとシフトされる。

 この辺のことは、スコット・マクナイト「福音の再発見」を読んで頂くのが良いと思うが・・・。

 19-20世紀にかけて制度化されたリバイバリズムにおける福音は、「救いの方法」(『四つの法則』の例のように「簡略化された救済論」)の提示になってしまっていて、本来の使徒的福音である「十字架に死んで復活し、今や『メシア』とも『主』ともされたイエスを告知する」行為であることから大分離れてしまった。

 パラダイム・シフトはその意味で使徒的福音提示の元々のフォーカスである「主イエス・キリスト」に原点回帰することを意味するだろう。
(リバイバリズムにおいては、救われる『私』にフォーカスが当たってしまっていた。)

②「終末の神の民である教会」へと加えられる、と言う共同体的側面の回復
a person is initiated into a common life with the people of God who together seek the in-breaking of the kingdom, both in this life and in the world to come.
 リバイバリズムにおいては「回心体験」は「個人的罪の赦しの体験」に留まってしまい、教会に加わることは、回心後のまるでオプショナルな扱いにされていた観があった。

 また別の角度から言えば、このパラダイム・シフト後の「回心」には、イスラエルのストーリーの回復がある。
 リバイバリズムにおける「救い」は、人々が「証し」として表現する時、それはしばしば「個人史的救済」ストーリーの域を出ない。
 しかしパラダイム・シフトが目指すのは、福音のフォーカスである「主イエス・キリスト」が旧約聖書のストーリーを完結する、成就するお方として提示され、そのお方を信ずることを通して、「新しくされた(renewed)神の民」の一員とされる「回心体験」なのだ。
 
 まとめて言えば、「個人的」に対して「共同体的(教会)」側面、「非歴史的(抽象的)」に対して「歴史的(旧約から新約へと更新された『神の民」)」側面が、新しいパラダイム・シフトのもとでの「回心」に求められる。

③「救済論」偏重によって脇に追いやられてしまった「教会論」の回復
 リバイバリズムは「バプテスマ典礼による新生(baptismal regeneration)」を変えてしまった。
 「救い」は「罪人の祈り」を祈ることで成立し、洗礼と言う「教会」の典礼から切り離されてしまった。

Evangelical Sacraments: Supporting Cast for the Sinner's Prayer

This attitude is tellingly reflected in common evangelical sacramental practice. Many evangelical traditions have managed to strip away even the ecclesial nature of these ecclesial signs in pursuing salvation evangelical style. They are now by and large seen in terms of evangelicalism's central speech-act: the "Sinner's Prayer." Reciting the Sinner's Prayer has generally taken the place of baptism as both the decisive moment of salvation and the normative rite of initiation (conveniently, as one can do it by oneself, anytime and anywhere: at a worship service, at an evangelistic rally, or even privately before a television or Gideon Bible).
Telford Work, "Reordering Salvation"
さて、まだ「神の国」と言う「終末的論」的側面の回復も一言するべきだろうが、このパラダイム・シフトに絡んでくる神学者たちは、スミスが列挙するよりはるかに多くバラエティーに富んでいることだけ指摘して終わろう。
(まだスコット・マクナイトやテルフォード・ワークに言及しただけだが・・・。)

 メソジストの神学者であるビリー・エイブラハム(ちょうど彼の「はじめてのウェスレー」が邦訳出版されたところだ)が、The Logic of Evangelism、で「回心」を次のように定義している。
What I am proposing calls for a fundamental reorientation in our thinking about Christian initiation. We begin by asking what it is to be initiated into the rule of God, which has been inaugurated in Jesus of Nazareth and in the work of the Holy Spirit at Pentecost and thereafter. From within this horizon we then proceed to articulate what it is to be initiated into the community of the kingdom, that is, the church. Logically speaking, this takes the primary focus away from external admittance into a particular organization and relocates it in the sweep of God's action in Christ and in the Holy Spirit. (P.98)
簡単に言えば、「回心」とは「(一地方)教会」と言う組織の一員となる(イニシエーション)前に、先ず「神の国」に入れられる、と言う事がある。

 神のご支配、神の救いのストーリーと言う大きな文脈の中に、伝道の働きがあり、教会と言う具体的文脈の中で人は回心(イニシエーション)を通して「神の民」である教会に加わっていくのだ、と言えるだろう。
(エイブラハムの文章はかなり密だが、先に挙げたスミスの文章よりも首尾一貫しているし、「回心」をめぐる神学的トピックに対し、より明確な展望・輪郭を示していると思う。)

 

2013年7月18日木曜日

(5)福音派のパラダイム・シフト⑥

さてゴードン・T・スミスの『新しい回心』論文を要約・簡訳(簡略な訳)連載後に「個人的所見を述べる」とアナウンスしてきたので、それをここでやりたいのだが、難易度ランクを(5)としたように、かなり長い文章になるのではないか、と懸念している。

確認事項(1)
パラダイム・シフトの参照点が「リバイバリズム」であることについて

福音派のパラダイム・シフト①
スミスが「現在福音派に起こりつつあるパラダイム・シフト」を語る時、その念頭には(19世紀から20世紀にかけて大きな影響を持った)「リバイバリズム」を「参照点」としていることが分かる。

(「福音派はこの『リバイバリズム』を過去のものにしつつある」、がパラダイム・シフト論の基本的認識だ。)

実は『リバイバリズム』に(かっこ)して「信仰覚醒運動」と訳を入れたが、これがなかなか曲者だ。

スミスの念頭にあるのは「19世紀から20世紀にかけて発展・制度化したリバイバリズム」で、先行する17世紀ピューリタニズム、18世紀の(エドワーズやウェスレーらの)『大信仰覚醒運動(The Great Awakening)』とは区別されている。

区別されてはいるが、その歴史・社会的背景の変化には余り言及しないままになっている。
ここに先ずスミスの論述の言い足りない部分があるように思う。(辞典の方では言及しているのかもしれないが・・・。)

簡単にポイントを挙げよう。

17世紀ピューリタニズムは、英国国教会から逃れてきたキリスト者集団による、自覚的に、純粋に、キリスト教信仰を基盤とする共同体形成を目指した運動だった、と筆者は理解している。

このような歴史的文脈で、「回心」はあくまでも信仰共同体を形成するべき「まともなキリスト者」を育成することを念頭にしたものであったと言えるだろう。

宗教改革的に言えば、「教会のノーマリゼーション(本来あるべき姿に戻る)」の一環であり、未信者への伝道や海外宣教はまだまだその視野の中心には入っていなかったと言える。

18世紀の『大信仰覚醒運動』の時点では、ピューリタニズムの理想は崩れ始め、「中途半端な契約」が抱えていた「二世、三世キリスト者を、如何に契約共同体である(明確な回心体験を必要とする)教会員とするのか」という問題が背景になっていた。

その意味で信仰覚醒運動は起こるべくして起こった「教会の内発的運動」、と言う面がある。
20世紀のクルセードに見る様な、一般大衆を相手にした大々的伝道活動のような、(少し語弊があるかもしれないが)「人工的にプログラムされた運動」ではない、と言う点で趣を異にする。
(スミスはそのような歴史的文脈の相違を、それほど意識していないように思う。)

しかし、18世紀の『大信仰覚醒運動』は単に信仰を基盤とする信仰共同体内の問題だけではもちろんなかった。
教会外の社会経済的問題も当然背景にあった。

農業を中心とする第一次産業中心の伝統的社会から、次第に産業構造が変化し、「投機的商人」や「炭鉱労働者」など人口の流動化、大衆化が進み、教区教会(パリッシュ・チャーチ)の外に大量の未信者(unchurched people)を発生させた。

つまり「教会外伝道」と言う新しい伝道ニーズが生まれてきていた。

ジョン・ウェスレーの例を挙げれば、教会(という建物)の枠外にいる労働者大衆に対して、時の英国国教会は最初彼らを「キリスト者化する」する関心も態勢も取れていなかった。

しかし(ジョージ・ホィットフィールドの影響によって)この伝道ニーズに目覚めたウェスレーは、巡回伝道・街頭伝道という革新的働きを強力に推進した。

またウェスレーは、街頭での即興的伝道説教によって大量の「回心」者を作るだけでなく、「回心」した庶民を「組会」と言うスモール・グループのフォロー・アップシステムを通して「信仰の成長」を促し、「救いの完成」へと育成するシステムも開発していった。


またそのような育成システムは単に(霊的)信仰訓練に留まらず、識字教育、教養発展と言う今なら「成人教育」に類するようなものにまで導入・開発されたのである。(ウェスレーはただ回心者を生み出す伝道者ではなく、彼らをキリスト者として育成する牧会者でもあり、そのような育成の仕組みを作り出すオーガナイザーでもあったのである。)

と言う訳で、最初の懸念が当たったしまったようである。
既に長くなってしまった。
とても1回の所見では終わりそうもない。

今回の所見のポイント、「パラダイム・シフトの参照点が「リバイバリズム」であること」、を要約する。

スミスが念頭におく「リバイバリズム」、つまり20世紀に制度化され、普及した「『四つの法則』を用いるような簡略化され、矮小化された回心体験」は、先行する17世紀ピューリタニズム、18世紀の(エドワーズやウェスレーらの)『大信仰覚醒運動(The Great Awakening)』とは単に区別されるだけでなく、もう少し立ち入った比較検討が必要である

これら二つの「リバイバリズム」の比較検討において、
①回心体験の内容、
②回心体験を引き出す伝道(説教)
を取り巻く歴史的文脈に相当留意して「パラダイム・シフト」を主張すべきである。

「教会内vs教会外」の位相が時代を経るにつれて変化してきた問題にしても、教会外に発生した「未信者大衆」の歴史、社会的背景の相違にしても、二つの「リバイバリズム」では「回心体験」の文脈が異なることを視野に入れた「パラダイム・シフト」分析が必要ではないだろうか。

(※個人的所見は更に続く、と言うことになる。読者の皆様、もう少しこのシリーズにお付き合いください。)


2013年7月9日火曜日

(3)福音派のパラダイム・シフト⑤

難易度ランキング」導入後6番目の記事です。


(5)福音主義と古代キリスト教の遺産を回復する

現代リバイバリズムに疑問を投げかけたのはキリスト教史家たちだ。
福音主義者たちは自ら進んでキリスト教の全遺産(中世から16世紀スペイン神秘主義も含む)から学ぼうと努めてきた。
あるキリスト教史家たち(リチャード・ラブレイス、マーク・ノル、ブルース・ヒンドゥマーシュ、等)は リバイバリズム前史、特に18世紀信仰覚醒運動に着目した。
トーマス・オーデンやロバート・ウェバーらは、原初期キリスト教会が用いた典礼やカテキズム、使徒教父たちの知恵からもっと学ぶべきだと主張した。

《結語》
これら(1)~(5)に挙げた要素がベースとなって、福音主義者は「回心と救済」を深く再考するようになってきた。

しかしその中でも特筆すべきはレスリー・ニュービギンの存在である。

インドへの宣教師であり司教でもあったニュービギンの神学的思索は、西洋と東洋の交差するところに形成されたものである。

彼は回心とは実に複雑な体験で、単に頭のことだけでなく、倫理や共同体も視野に入れたものであり、精神の一大変革、キリストの支配、洗礼と聖餐による信仰共同体への参与なくしてはあり得ない、と主張する。

ニュービギンの最も根本的な洞察と確信、それは「教会」とは宗教的な商品やサービスの提供者ではなく、「宣教する民」なのだ、ということだ。

集合体としての教会は能動的ディサイプルシップを通して神の国を体現し、神の国の存在を証しする。

だから教会は自己膨張に多大な関心を払うのではなく、教会が置かれた社会や文化と言う具体的状況の中で福音を生きることを目指し、そのようにして神の国を中心に据える。

なぜそのような思考になれるのか。
ニュービギンの考えでは、人はその棲息する共同体の中から得られた特定の理性の伝統を身に着ける、からである。

福音的なキリスト者とは、未だ神を知らず回心していない者たちが、悔い改めと信仰によってキリスト・イエスの許に来ることを熱望する者たちである。

私がここまで語ってきた「大きな変革のうねり」は、何らこのビジョンとコミットメントを変えるものではない。

しかし大事なのは、たとえ“この確信”は変わらないにしても、「四つの法則」、「どうすれば天国に行けるか」を導く質問シート、「これらの証拠は評決を要請する(筆者注:ジョシュ・マクドウェルの有名な伝道メッセージ書)」でさえも、人々が真に回心する決定的ファクターではない、ということだ。
人々が回心するのは、復活して神の右の御座に挙げられた主と出会い、神の恵みを体験することによるのだ。

果たして私たち福音主義者はそのような心の促しに耳を傾け、キリスト中心の礼拝と神の国を目指した宣教に専念できるだろうか。

神の時、神のわざを本当に信頼できるだろうか。

もしそうなら、私たちはより聖霊に信頼するだろう。

恵みの真の手段であり、人を回心に導く「宣べられた」神のことばである聖書に信頼する教会となるだろう。



だから、「どのような教会になるべきか」がとても重要になる。

今まで述べてきた「回心と救済」に関するパラダイム・シフトに直面している福音主義は、今大事な岐路に立たされている。

主にある「会衆」とは一体何か、がとてつもなく重要な問題となっている。

三位一体なる神、神の恵みの手段(聖霊と聖書)、そして「神の国」を目指す宣教論、それらを背景とした《ダイナミックな教会論》を編み出せるか否かが、この一大変革の海を航海する福音主義者たちの進路を決定する鍵となる。

※以上で「福音のパラダイム・シフト」と題して簡略に訳してきたスミスの論文紹介は終わりである。次回、個人的所見を述べて最終回とする。
 

2013年7月4日木曜日

(3)福音派のパラダイム・シフト④

難易度ランキング」導入後2番目の記事です。

引き続き、ゴードン・T・スミスの論文、 The New Conversion: Why We 'Become Christians' Differently Today から要約・抄訳します。

(3)他の神学的伝統との相互受粉効果

福音主義に立つ神学者たちが異なる神学的伝統や立場に立つ神学者たちと、積極的かつ批判的に対話するようになってきた。
それによって「回心」、「救済」理解の幅が格段に広がった。

そのような変化をもたらすことに影響の大きかった神学者たち:
正教会・・・アレクサンダー・シュミーマン(Alexander Schmemmann のスペルはAlexander Schmemannの間違い。)、ジョン・ジズーラス
ローマ・カトリック・・・イブ・コンガー、カール・ラーナー、ハンス・ウルス・バルタザール、バーナード・ロナーガン、バーナード・ハーリング、ローズマリー・ホウトン(Rosemary Haughton
プロテスタント主流派・・・カール・バルト、ディートリッヒ・ボンヘッファー、ジョージ・リンドベック、他多数


(4)グローバル化とカリスマ派の伸張

福音主義は今やグローバル化し、マジョリティーは西洋外世界で占められている。
その中でも20世紀に起こったペンテコステ派/カリスマ派運動から派生したグループが顕著である。

クラーク・ピノックのようなカリスマ派に理解のある神学者は、聖霊の働きを重視するグループの活躍は、回心理解の再考とともに教会のいのちと宣教理解にも大きく関わってくると指摘する。

福音主義のグローバルな広がりによって、回心体験は社会的、経済的、エコロジー的問題とも関連されるようになった。「真正な回心体験」を目指す聖書神学は今やこれらの要素と取り組まざるを得ない。

回心体験は、単に個人的で主観的なものに終始せず、平和や正義の問題、貧困問題など社会と具体的に関わる文脈でも表現されなければならない。

※以上。個人的所見は最終回に譲るが、(3)で挙がった神学者の名前は殆んどは著名だが一部はまだ良く紹介されているとは言えない。

名前を列挙されるだけでは、彼らの神学のどこが「回心」と「救済」理解再考に関わってくるのかはよく分からない。


  

2013年6月26日水曜日

福音派のパラダイム・シフト③

引き続き、ゴードン・T・スミスの論文、 The New Conversion: Why We 'Become Christians' Differently Today から要約・抄訳します。

「回心体験」理解の枠組みの見直し・入れ替え作業を進行させている要因:

(2)宗教経験に関する考察

神学も学際的になってきており、宗教体験(回心経験も当然この中に含まれるわけだが)に関する考察が他の方面からの知見に照らして深められるようになってきた。

哲学者で言うと、
チャールズ・テイラー 
注:スミスの念頭にあるのは多分この本
なおテイラーの名著「自我の源泉」については拙ブログ記事をご参照あれ。
テイラーの「現代における宗教の多様性」を考察したものでネット入手可能なものとしてはこれがある。当テーマに関連する部分は、「2.『二度生まれ』」となるのだろう。

ルイ・デュプレ
注:スミスがこのカトリック哲学者に言及している理由は、世俗化の中で「信仰を持つこと」が困難になっている、とデュプレが言う時の前提が「信仰とは世界全体を包括するものである」と言う考えだからだろう。このインタヴュー記事を参照のこと。

行動主義心理学の方面からは
ルイス・ランボー
注:スミスの関心はリンクにあるランボーの経歴にあるように「回心」を心理学からアプローチしている点にあるのだろう。彼の著書、Understanding Religious Conversionを解説して適用した例がネットで入手できる。これ

発達心理学の方面からは
ジェームス・ファウラー
エリク・エリクソン
注:ファウラーに関しては簡単にはこれ。エリクソンは有名だから説明は不要と思うが、一応これ

文化人類学の方面からは
ポール・ヒーバート
注:トリニティ神学校の宣教学及び人間学教授であった。この追悼記事が参考になるかもしれない。

さらに、このような考察を「ポストモダン文脈」、「脱キリスト教社会環境の文脈」 から批判的に深めるものとしては以下の二人の業績を参照すると良い。
ブラッド・J・カレンバーグ
注:プラッドは一時期フラー神学校で非常勤講師をしていたようだ(キャンパス・クルセードのスタッフも)。その時の論文、Conversion Converted: A Postmodern Formulation of the Doctrine of Conversionが参考になるかもしれない。 

・ロバート・ウェバー
注:彼のAncient-Future Evangelismの書評記事が参考になるかもしれない。一部を引用する。
The assumption which underlies his entire work is that the distinction between evangelism and discipleship constitutes a false dichotomy. Therefore he argues for a kind of “holistic” approach to evangelism which assumes evangelism and discipleship are concurrent processes which are only truly effective when united.

ヒンズー教徒やイスラム教徒への伝道が拡大することによって、「イスラム教徒はどう回心するべきか」ではなく、もっとその実際である「イスラム教徒は如何にしてキリスト信者になるのか」が問われるべきだと考えられるようになってきた。
前者の問いは往々にして(西洋の)回心体験のカテゴリーを異文化の回心者に押し付けるものになってしまう。もっと彼ら自身の体験から学ばなければならない。

(次回に続く)

 

2013年6月18日火曜日

福音主義とは何か

一昨日もたれた日本福音主義神学会の東部部会「2013年春季研究会」に出席した。

昨年11月だったかの研究会でも原発の問題が取り上げられ、関心が高かったのか、割合出席者が多かった。

それ以前の2-3年研究会出席をサボっていたが、それまではほぼ毎年出ていた。
そして、段々勢いがなくなってきているなー、と感じていた。
それが今回は開始5分後に会場に到着したら既に満員。


補助椅子を出しながらまだ後から来る参加者たちをぎゅうづめにして応対していた。
キャパシティー50名の会議室に67名だそうだ。

一体どう言う風の吹き回し?。
なぜそんなに集まったのか、と言うことの方が、この研究会のテーマである「福音主義とは何か」より個人的には面白い疑問となった。

発表者の青木氏も藤本氏も「教会史」の専門から、と言うスタンスで発表をまとめられていた。

「福音主義とは何か」と言うことを研究することは、即ち西欧・北米での福音主義グループの歴史を辿る、と言うことになる。
先ずは、と言うことであるが。

青木氏の発表レズメには「アメリカ福音派研究の実際ーアメリカと日本との対比からー」となっていた。割合ジャーナリスティックな感じのまとめ方、と言う印象。

発表レズメに関しては、過日西部部会で同氏が発表したものと同一のようなので、詳細をお知りになりたい方はこちらをご覧あれ。

後は個人的な感想だが、まっ一番面白かったのはドナルド・デイトンが、ジョージ・マースデンの研究を「こっぴどく」批判していたと言う後日談(同氏がデイトンを訪ねて行った時のお話し)。
デイトンはマースデンの研究視点が「東部・白人・中流以上」に偏ってサンプリングした「米国福音主義研究」であり、もっと黒人や、ペンテコステ派や社会的下層も含めて研究すべきだ、と主張しているとのことだった。

ところでデイトンは福音派研究に関しては1976年に、Discovering an Evangelical Heritag
を著しているが(リンクの版は1988年のもの)、確かアズベリー出身のウェスレヤンと言うこともあり親近感がある。
この1976年の本は、周縁的グループや運動であったフェミニズム、人種差別、貧困問題に福音派(主にウェスレヤン)が着目していたことを実証したものであり、デイトンが(福音主義)歴史家としても興味深い人であることを示唆するものではないかな。

ところで発表タイトルにあった日本との「対比」の部分は殆んど聞かなかった様に思うが、どうなってしまったのだろう。

質疑応答ではクリスチャン新聞の根田編集長が「アメリカ市民宗教」の最近の事情について質問していたが、青木氏の博士論文指導教官である森孝一教授が同テーマに関し多く発表・発言してきたことを考慮すると青木氏の回答はいささか内容に乏しいように感じた。

特に米国福音派にあっては「アメリカ」と「(プロテスタント)キリスト教」とを親和性の高いものとして余りにも無自覚に政治に参与してきた現代史があるように思う。(ジョージ・ブッシュのイラク戦争を支持した共和党保守層の多くは福音派キリスト者であったらしい。)

最近福音派の中でこのような「アメリカ市民宗教」の発現に度々警告を発する福音主義新約聖書学者、Michael Gorman(マイケル・ゴーマン)がいる。
(残念ながら右側コラムにある彼のブログ、Cross Talkのリンクがまた切れている。)

従来の特定問題(堕胎問題等)集中型の政治参与をしてきた福音派に対し、若い世代の福音派キリスト者はエコロジーを始め、より広い社会正義や人権の問題に敏感になってきている。
コンテンポラリーな北米・欧米(ここに豪やニュージーランドも加えねば)さらに、アジア、アフリカ、南米の福音派の動きにも目配りが必要だ。



さて第2発表の藤本氏の「福音主義の特色ーその胎動期にあってー」であるが、参照文献として特に用いられているのはべビントンのものだ。

彼の有名な福音派の4重の特徴(①回心主義、②行動主義あるいは実践主義、③聖書主義、④十字架中心主義)を使いながら、特にウェスレーをめぐるモラビア派などの動きや、ホィットフィールド、エドワーズなど大信仰覚醒運動に焦点を当てて分析している。

4重の特徴を参照しているがどちらかと言うと①と②はカバーしているが、④はかすかに、③は殆んど言及されてない印象。

質疑応答の時、フロアーから「聖書無誤論」についての質問があったが、福音主義神学会はそれを「前提としている」こと、ある時から「聖書論的、神学的テーマ」より実践的テーマ(宣教論とか牧会論とか?)にシフトしてきたことが説明された。

筆者の疑問は(その後別の講演会が控えていたため途中退席しなければならず質問は遠慮したが)まさにこの「聖書論」、特に福音主義神学会が出発した時盛んに取り上げられた「聖書無誤論」をその後どのように総括してきたのか、あるいはしてこなかったのか、と言うものだ。

発表の焦点は18世紀であり、青木氏が割合近・現代に焦点を当てているとは言え、福音主義研究史と言うか概観で終わっていて、(欧米であれ日本であれ )現代福音主義に対する問題提起がなかった(と思う)ことは残念であった。

藤本氏の発表でもその感はほぼ同様。

マーク・ノルのScandal of Evangelicalismを参照しながら、「たこつぼ的知性」や「お祭り騒ぎ的霊性」を指摘するに留まっていた。

既にこのブログの読者はご存知のように、創造論/進化論、アダムの史実性、男女差論(平等主義対補完主義)、等、「神のことばである聖書」を権威とするが故に起こる「聖書解釈の多元性の問題」(右側にある検索窓で「ビブリシズム」で該当記事を探してください)が福音主義の今後の大きな問題となるであろうことはある程度予測できる。

またスコット・マクナイト「福音の再発見」が提起する「福音とはそもそも何か」と言う福音派のアイデンティティーの根幹をなす用語の理解をめぐる問題や、現在連載中の「福音派のパラダイム・シフト」が提起する「回心体験の枠組み自体が変化しつつある」と言う問題等、「福音主義とは何か」をテーマにするなら、コンテンポラリーな問題は幾つもある。

それの一つも(今のところ)カバーできていない日本福音主義神学会東部部会の神学的センスと指導力にはいささか失望感を覚えないでもない。
是非頑張って視界を広げ、少しでもアップ・トゥー・デートなテーマのもとに研究会を開いて欲しいものである。

以上は私見なので、日本福音主義神学会東部部会関係者の方々においては(もし万が一この記事を読んだ場合は)、無責任で勝手な「言いたい放題」とご寛容に見過ごして欲しい。

追記(2013/6/18、21時22分)
今回の研究会を主催なさった日本福音主義神学会東部部会にあってはそのご労をねぎらうとともに、発表なさった2氏にも同様の感謝を申し上げる。
今後も是非盛り上がりのある研究会となるよう願っています。

2013年6月14日金曜日

福音派のパラダイム・シフト②

引き続き、ゴードン・T・スミスの論文、
The New Conversion: Why We 'Become Christians' Differently Today

から要約・抄訳します。

(回心を取り巻く)「伝道」、「洗礼」、「弟子となること」、等関して、福音派は『回心と救いの体験』を根本的に見直す方向に来ている。

回心とは(注:ここは重要ポイントなので引用して解説します。)
conversion is a complex experience by which a person is initiated into a common life with the people of God who together seek the in-breaking of the kingdom, both in this life and in the world to come. This experience is mediated by the church and thus necessarily includes baptism as a rite of initiation. The power or energy of this experience is one of immediate encounter with the risen Christ—rather than principles or laws—and this experience is choreographed by the Spirit rather than evangelistic techniques. (下線は筆者)
(※イニシエーションは宗教人類学用語としては「通過儀礼」と訳されたりするが、その点には余り引っ張られないようにした方がよろしいと思う。

 回心のポイントは、「その後のライフスタイル全体に入る通過点である」と言うこと。
 回心とは(ウェスレーが用いた表現をちょっと借りれば)、キリスト教の入り口であり、その後に「宗教そのもの」(ウェスレーで言えば聖化の経験)が待っている・・・と言うこと。
② 次に大事なポイントはリバイバリズムの回心がしばしば個人的・瞬時的体験として終始してしまう傾向にあったのに対し、新しい視点では、終末の「神の民」への招きと参加、と言う、共同体的で広い射程を持った体験である、と理解される。

③ だから回心は(パラチャーチや伝道団体のような組織を通してではなく)本来「教会」によってなされるものであり、洗礼がその手段として位置づけられるべきである。

④ 回心は「四つの法則」や伝道パンフレットに簡略にまとめられた「救いの道」のようなテクニックを用いて起こるようなものではなく、復活のキリストに直に「出会う」ところにその活力がある。その鍵となるのが聖霊の働きである。

これらのポイントは実は宗教改革の遺産に戻ることでもあり、神の恩寵と聖霊の働きとが回心体験において優先的であることを認識し直すことである。

このようにリバイバリズムの伝統を見直す機運に影響を与えた人物として、例えばC・S・ルイス、A・W・トーザー、J・I・パッカー、そしてジョン・R・ストットらの名が挙げられる。

しかし大事なことは目下進んでいる「回心・救い体験」の見直しは単なる部分的なものではなく、新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れるような、そんな言語的、神学的入れ物自体の「入れ替え」に相当するものだ。 

このような「回心体験」理解の枠組みの見直し・入れ替え作業を進行させている要因を幾つか挙げてみる。

(1)聖書学関連
新約聖書学者の名を挙げれば、ジェームズ・ダン(英国ダラム大学)、ゴードン・フィー(カナダ、リージェント・カレッジ)、N.T.ライト(セント・アンドリュース大学)、旧約聖書学者としては、クリス・ライト(注:ローザンヌ運動、2010年ケープタウン会議で神学的指導力を発揮した方として覚えておくべき方、リンクはここ) などだ。

彼らの神学的作業の重要性は、聖書を貫く(回心・救い体験に関わる『信仰義認』を)「キリストにおいて神が義となられる」と言う 大きな枠組みで捉えようとしていることであり、単に聖書箇所の寄せ集めで提示しようとしているのではない点だ。

このようなより大きな救いのドラマから導き出される回心体験理解は、単に「いついつどこで“救われた”」と言うような断片化された経験から、過去から未来に向かって伸びる神の救いの計画の中に位置づけられ、生涯的変革を伴う、共同体的、宇宙論的側面を持った『救い』として位置づけられるようになる。

(次回に続く)

2013年6月12日水曜日

福音派のパラダイム・シフト①

福音派に今大きな変化が起こりつつある。

その中心的なものが、「回心体験」の変革である。

従来の「回心体験」の枠組みであった「リバイバリズム(信仰覚醒運動)」が過去のものとなりつつある。

と、ちょっとショッキングに聞こえるかもしれない内容の文章が「回心と贖い」と題して、リージェント・カレッジの非常勤講師、ゴードン・T・スミスによってThe Oxford Handbook of Evangelical Theologyに寄稿されている。

ちょっと買おうかなと思ったが、辞典やハンドブックの類はもう希少になっている書棚スペースのことを考えても、本の価格を考えてもなかなか手が出ない。

幸いスミスの論文の抜粋が、クリスチャニティー・トゥデー誌で紹介されている。
The New Conversion: Why We 'Become Christians' Differently Today 

ここのところやかましく宣伝しているスコット・マクナイト「福音の再発見」の提示する「救いの文化」の問題はまさにこのパラダイム・シフトの渦中にある「従来型回心」を指している。

のらくら者の日記さんが『黒船到来か?!』 と暗示しているのは、このパラダイム・シフトが指示している現象とほぼ軌をいつにしていることと思われる。

クリスチャニティー・トゥデー誌を読んで頂ければ余り説明も必要ないかもしれないが、スミスの記事がまとめている内容はいくらか大風呂敷な風も無きにしも非ずなので、筆者の出来る範囲でフォローしながら、やがて日本にも打ち寄せてくるかもしれない大波の影響を幾分かでも和らげる意図でこの記事を要約・抄訳していこうと思う。

①福音派の「回心/贖い(redemption)」体験は、リバイバリズム(信仰覚醒運動)の言語では最早記述できないほど中身の異なるものになってきた。

現在北米を中心に、しかし世界大で起こりつつある「回心」体験の変化はとても単一の用語では収まりきらない大変革、パラダイム・シフトだ、とスミスは指摘する。
しかし何が「最早過去のものとなる」かは明確に指摘できる。それはリバイバリズム(信仰覚醒運動)だ。

②リバイバリズムとは何か
リバイバリズムは歴史的には17世紀のピューリタンや18世紀の信仰覚醒運動を淵源とする。しかしよりはっきりと現れてきたのは19世紀で、20世紀に入り北米の保守派の間で定式化し、パラチャーチ/宣教団体を通してさらに世界的に拡大して行った。

福音派にとってすぐ前の世代まで、「回心」と言えば「リバイバル(集会)」での救いの体験を指していたのである。
礼拝も、伝道も、霊的形成も、すべてリバイバリズムが使う言葉で表現されてきた。

福音派と言ってもバプテスト、ペンテコスタル、メノナイト、きよめ派等様々であるが、回心体験を語る言葉は驚くほど共通している。それがリバイバリズムで一括りにできるということだ。
その特徴は回心を「点の体験」つまり「私はいつどこで救われました」という形で表現できるものとしていることであり、 大抵「罪人の祈り」を祈った時が回心体験とされるのである。

回心体験の中心は「死後の(永遠の)いのち」であり、「死んだら天国に行く」のが救いと考えられた。この世は伝道のため以外には殆んど意味がなく、もっぱら未信者を天国に入らせるのが教会の使命であり、そのような伝道が重んじられた。

さらにこの回心体験は教会外(クルセード集会とか個人伝道とか)で起こるもので、救われたら「是非教会につながってください」と勧められる有様であった。

伝道方法に用いられたのは「霊的法則」とか「霊的原理」のような形式化されたテクニックで、その順番に従ってそして最後に祈りをすればクリスチャンとなったわけである。

「洗礼」はあくまで回心後のもので、 オプショナルな位置づけであった。個人的、霊的体験や訓練が重要視された。聖礼典・典礼に対して懐疑的な態度がそのまま現れた福音派の傾向とも言える。

教会の働きは回心者の獲得、如何により多くの回心者を得るか・・・に注力され、あらゆる手段がそのことのために動員された。
だから回心者数の数的増加が成功の指標となった。

回心体験は瞬時的なものとされたから、「弟子となる」こととは区別され、それはあくまで回心後のこととされた。だから「回心者」を(次に)「弟子」とする、と表現した。
「伝道」と「弟子作り」は分離され、「霊的形成」もまた別のこととされた。

(次回に続く)