2013年6月12日水曜日

福音派のパラダイム・シフト①

福音派に今大きな変化が起こりつつある。

その中心的なものが、「回心体験」の変革である。

従来の「回心体験」の枠組みであった「リバイバリズム(信仰覚醒運動)」が過去のものとなりつつある。

と、ちょっとショッキングに聞こえるかもしれない内容の文章が「回心と贖い」と題して、リージェント・カレッジの非常勤講師、ゴードン・T・スミスによってThe Oxford Handbook of Evangelical Theologyに寄稿されている。

ちょっと買おうかなと思ったが、辞典やハンドブックの類はもう希少になっている書棚スペースのことを考えても、本の価格を考えてもなかなか手が出ない。

幸いスミスの論文の抜粋が、クリスチャニティー・トゥデー誌で紹介されている。
The New Conversion: Why We 'Become Christians' Differently Today 

ここのところやかましく宣伝しているスコット・マクナイト「福音の再発見」の提示する「救いの文化」の問題はまさにこのパラダイム・シフトの渦中にある「従来型回心」を指している。

のらくら者の日記さんが『黒船到来か?!』 と暗示しているのは、このパラダイム・シフトが指示している現象とほぼ軌をいつにしていることと思われる。

クリスチャニティー・トゥデー誌を読んで頂ければ余り説明も必要ないかもしれないが、スミスの記事がまとめている内容はいくらか大風呂敷な風も無きにしも非ずなので、筆者の出来る範囲でフォローしながら、やがて日本にも打ち寄せてくるかもしれない大波の影響を幾分かでも和らげる意図でこの記事を要約・抄訳していこうと思う。

①福音派の「回心/贖い(redemption)」体験は、リバイバリズム(信仰覚醒運動)の言語では最早記述できないほど中身の異なるものになってきた。

現在北米を中心に、しかし世界大で起こりつつある「回心」体験の変化はとても単一の用語では収まりきらない大変革、パラダイム・シフトだ、とスミスは指摘する。
しかし何が「最早過去のものとなる」かは明確に指摘できる。それはリバイバリズム(信仰覚醒運動)だ。

②リバイバリズムとは何か
リバイバリズムは歴史的には17世紀のピューリタンや18世紀の信仰覚醒運動を淵源とする。しかしよりはっきりと現れてきたのは19世紀で、20世紀に入り北米の保守派の間で定式化し、パラチャーチ/宣教団体を通してさらに世界的に拡大して行った。

福音派にとってすぐ前の世代まで、「回心」と言えば「リバイバル(集会)」での救いの体験を指していたのである。
礼拝も、伝道も、霊的形成も、すべてリバイバリズムが使う言葉で表現されてきた。

福音派と言ってもバプテスト、ペンテコスタル、メノナイト、きよめ派等様々であるが、回心体験を語る言葉は驚くほど共通している。それがリバイバリズムで一括りにできるということだ。
その特徴は回心を「点の体験」つまり「私はいつどこで救われました」という形で表現できるものとしていることであり、 大抵「罪人の祈り」を祈った時が回心体験とされるのである。

回心体験の中心は「死後の(永遠の)いのち」であり、「死んだら天国に行く」のが救いと考えられた。この世は伝道のため以外には殆んど意味がなく、もっぱら未信者を天国に入らせるのが教会の使命であり、そのような伝道が重んじられた。

さらにこの回心体験は教会外(クルセード集会とか個人伝道とか)で起こるもので、救われたら「是非教会につながってください」と勧められる有様であった。

伝道方法に用いられたのは「霊的法則」とか「霊的原理」のような形式化されたテクニックで、その順番に従ってそして最後に祈りをすればクリスチャンとなったわけである。

「洗礼」はあくまで回心後のもので、 オプショナルな位置づけであった。個人的、霊的体験や訓練が重要視された。聖礼典・典礼に対して懐疑的な態度がそのまま現れた福音派の傾向とも言える。

教会の働きは回心者の獲得、如何により多くの回心者を得るか・・・に注力され、あらゆる手段がそのことのために動員された。
だから回心者数の数的増加が成功の指標となった。

回心体験は瞬時的なものとされたから、「弟子となる」こととは区別され、それはあくまで回心後のこととされた。だから「回心者」を(次に)「弟子」とする、と表現した。
「伝道」と「弟子作り」は分離され、「霊的形成」もまた別のこととされた。

(次回に続く)


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