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2018年3月8日木曜日

(4)自伝的「新約聖書学」最近研究状況レポート、 N・T・ライトを中心に

まもなく「2011.3.11」から7年が経ちます。

たまたま昔書いた(雑誌に寄稿した)小論がちょうど7年前であったことを思い出しました。

この小論は『リバイバル・ジャパン』誌、2011年3月20号の「シリーズ 神学交歓」コラムに掲載されたもので、N.T.ライト読書会ブログ で「ライト入門、のようなものをアップしました」記事でリンクを貼っていたのですが、今はリンクが切れてしまったままになっています。

これを機会に全文をこちらに転載することにしました。
新約聖書学に興味のある方に、そしてN.T.ライトに関心ある方に、何かの手助けになればさいわいです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

 自伝的「新約聖書学」最近研究状況レポート、

N・T・ライトを中心に

巣鴨聖泉キリスト教会牧師 小嶋崇
 
1 はじめに

「新約聖書学」のようなアカデミックな領域について一アマチュアに過ぎない筆者などが報告するのは些か分不相応な気がします。

筆者が敢えてこのような小論を試みるのはN・T・ライト(Nicholas Thomas Wright)に関することなのですが、その著作や講演の欧米での影響の広範さ、深さにも拘らず、日本語圏での紹介は、訳書にせよ(筆者の知りうる範囲では一冊のみ)、評論にせよ圧倒的に少ないという現状です。ライトの著作を英語で読める方々の中には、主に論争家(特にプロテスタントの『義認論』の伝統的解釈を脅かす人物)としてのライトが念頭にあるようで、警戒のためかあまり紹介してくれません。しかし後述しますが、ライトの著作の重要なものは「新約聖書神学」を巨視的・学際的・包括的にアプローチする『キリスト教の起源と「神」問題』シリーズです。(三巻目まで刊行されています。)こちらの方を優先的に取り上げて論評し、ライトに相応しい評価を下すべきだと思うのです。

ですからこの小論の目的は、日本の一般読者にN・T・ライトの主要著作を簡単にですが紹介することにあると思っています。(幾分詳しい紹介は拙ウェッブサイト「N・T・ライト読書会」をご参照ください。何本かライトの論文も翻訳してあります。

2 N・T・ライトとの出会い

筆者が初めてN・T・ライトの名前に接したのは1999年です。牧師の家庭に育ち、大学生の時に“救い”を受け、大学卒業後、献身して米国の神学校に学び、10年余に亘った留学を終えて父の牧する母教会の副牧師になって10年が経っていました。

大学生時の“回心”以来、「自覚的クリスチャン」として過ごしたその約20余年間、決して順調でも安定していたわけでもありませんでした。様々な葛藤・疑問・迷いがありました。しかしそれらは基本的に、小さい時から育てられ、“回心”時から持っていた所謂「福音信仰」の深化という「応用問題」であり、「福音信仰」の根底まで揺さぶるような問題ではありませんでした。

しかし副牧師として説教を始めて暫く経ち、最初は漠然と、しかし次第に深く、「私が保持してきた福音理解で大丈夫なのだろうか?」という不安・疑念が心を占めるようになってきました。説教をしている自分のコアで「何かが足りない」「根拠が弱い」と感じるようになっていました。

そのような時に、ある友人から贈られた1冊の本を通して一筋の光が差し込んできました。ジョージ・B・ケアードの『新約聖書神学』です。この本を端緒にして、次々と福音書の最近の(英文)研究書に触れるようになっていきました。それまでは神学校で学んだ聖書学の貯金を切り崩しながらやっていたような状況で、最新の聖書学を学ぼうという姿勢は全くありませんでした。その暫く後、別の友人からN・T・ライトの名前を聞くことになり、彼の著作を次々とのめり込む様に読むに至りました。

この頃だったと思いますが、福音書を読んでいて、ある“気付き”をしました。それは小さな気付きですが、その後の聖書解釈の取り組みに意識的な変化をもたらすものでした。ちょうど受難の箇所を読んでいた時のことです。イエスが十字架で死を迎えた時、福音書にはその死の意義を説明する、特に私が育てられた「福音信仰」の中核表現である「刑罰代償死」説のような「贖罪論」的説明が一切ないことに愕然として気が付かされたのです。

著作年代から言えば初期パウロ書簡よりかなり後に書かれたと思われる福音書に、なぜ十字架の救済的意義の説明が挿入されていないのだろうか。却って福音書の実際の叙述は弟子たちが師の十字架刑を前にして逃げ去ったことを記しているのです。 

このように福音書を少しずつ“歴史的”に読み解いていくと、自分が育った「福音信仰」における十字架の救済的意義の説明は抽象的・予定調和的に聞こえるようになりました。使徒たちの信仰は、実際にはもっと複雑な歴史的経路を辿って達したものなのではないか。私たちはどこかでその歴史的複雑な部分を捨象し、自分の“個人的な救い”の理解に都合の良い部分だけを掬い取っているだけなのではないか、と思い至りました。特に福音理解の「根拠」部分で、今までの自分の信仰に欠落していたのは「復活」であることを思い知らされました。それまでの「福音」は「十字架贖罪」一辺倒であったと思い至ったのです。

このようにキリスト教信仰の起源を“歴史的視点”から丹念にアプローチする訓練を提供してくれたのがライトの著作だったのです。

3 「史的イエスの探求」

最近の新約学の中でも「史的イエスの探求」は充実した時期を迎えているように思います。近代における「史的イエス」研究は、啓蒙主義の理性主義的キリスト教批判の道具となった「批評的聖書学」の影響に左右されてきた観があります。それは教会歴史の中で「キリストの神性」が強調されることによって見失われがちだった「キリストの人性」、すなわち「ナザレのイエス」という歴史上の人物に対する関心という反動的結果とも言えます。「歴史的関心」という近代理性がもたらした一定の評価がある反面、啓蒙合理主義に影響された新約学は、奇跡の否定も含めて、「事実と信仰」「自然と超自然」「歴史学と神学」「歴史のイエスと信仰のキリスト」等、新約聖書学、特に福音書研究に二元論的な思考を導入し、「ナザレのイエスは弟子たちによって神格化されたただの人」を当然の様に主張するに至りました。

アルバート・シュヴァイツァー、ヴィルヘルム・ヴレーデらによる研究が現在展開中の「史的イエス第三の探求」の起点となっているようですが(ブルトマン、そしてその後のケーゼマンらによる「新しい史的イエスの探求」が間に挟まり)、その約百年の間に外典・偽典研究、死海文書の発見やヨセフス研究、アレキサンドリアのフィロ研究、ラビ文書の研究などが累積してきて、「史的イエス」の背景となるいわゆる「第二神殿期ユダヤ教」研究が分厚くなりました。それで「史的イエス」研究の裾野はかなり広がり、研究者も多士済々の状況が出現しているようです。ベン・ウィザリントンは『ジーザス・クエスト』(1995,1997年)でその研究状況の多様性を七つに分類して紹介していますが、その基本的分類法は各研究者がナザレのイエスをどのような人物プロフィールでアプローチしているか、というものです。

筆者が特に「史的イエス」の問題と関わるようになったのは、共観福音書の講解説教をやるようになってからです。しかし最初は「共観福音書の神学的大テーマは『神の国』である」とおぼろげながら見当を付けたくらいで始まりました。ですからせいぜい『神の国』のワード・スタディーを中心にした手探りのような学びに終始していました。まだまだ「史的イエスの問題」までは視野に入っていなかったのです。

先ほどのウィザリントンは「第三の探求」を“現代”の史的イエス探求として、その研究者たちの中に「ジーザス・セミナー」の者たちまで加えますが、ライトの場合は、特にシュヴァイツァーが提唱した「イエスを終末的預言者」として探求する研究者たちに「第三の探求」を限定します。

筆者の場合、講解説教をしながらたとえ話、奇跡、パリサイ派との論争など、福音書記事を個別に釈義してその現代的適用を模索する説教ではなく、福音書が描写するナザレのイエスがどんな「意図」で行動し、どんな「目的」で十字架を目指したのかという「一貫した視点」でイエスを捉えようとする、ライトのような意味での「第三の探求」に次第に惹かれるようになりました。

この面におけるライトの著作では『キリスト教の起源と「神」問題』シリーズ第一巻目の『新約聖書と神の民』が方法論的問題の整理と、第二神殿期ユダヤ教、そしてそこから出現したキリスト教を「世界観的枠組み」で再構成した「大きな絵」を提示します。「史的イエス研究」(パウロ研究も)の序論的考察です。第二巻目の『イエスと神の勝利』が「史的イエス研究」プロパーで、この「大きな絵」を背景に「終末的預言者イエス」像を「ことば」と「行い」と「象徴」の角度からアプローチし、その十字架の死に至る道程を《統合された意味関連》として解明しようとします。「史的イエス」の再構成は、資料的には共観福音書に限定され、ヨハネ福音書は使用しません。また「復活」も『イエスと神の勝利』では扱わず、第三巻目『神の子の復活』で包括的に扱います。

詳述はできませんが特に筆者が目を開かれたと思うライトの福音書ナレーティブの釈義的論点は以下のようなものです。

先ず初歩的なことですが、ライトの「史的イエス」解釈のまとめ方の大事な点は、イエスの預言者的性格から再構成しているところにあると思います。(クリスチャンが福音書を読む場合、史的イエスではなく、三位一体の第二位格の神を読み込みがちではないかと思います。)

次に、「たとえ話」「警告のメッセージ」といった《言葉の要素》と「癒し」「悪霊の追い出し」「罪人・取税人との食卓の交わり」等《行いの要素》が、断片的エピソードとして味わわれ理解されるのではなく、イエスの歴史的宣教の全体像を構成するよう関連付けられていることが大事だと思います。

イエスの宣教は、洗礼者ヨハネの「終末の預言者」的活動を継続するものでした(「神の国」の到来を宣言)。十二人の弟子を召され「新しいイスラエル」を再構築する一方、イエスはイスラエルに対し繰り返し警告を発しました。それはヨハネの警告を踏襲しただけでなく、「この時代の内に」悔い改めなければ滅びるとの緊急性を帯びた警告でした。当時のイスラエルが待ち望んでいた「主の日」の審きは、イスラエル民族の敵であるローマに対して下されるのではなく、(先ず)イスラエルの悔い改めない者たちの上に臨む、との警告でした。それは個々人を含みますが民族の誇りの象徴であるエルサレムと神殿の上に破壊がもたらされることを、激烈な絵画的表現であるアポカリプティック(黙示あるいは黙示文学的)なメッセージを用いてなされたのでした。

十字架に架けられる最後の一週間、エルサレム入城からイエスのメシヤ的象徴行動はより明瞭になってきます。「神が王」となって「突然、その神殿に来る」(マラキ3・1)、ヤハウェが「エルサレムに戻られる」(ルカ19・44、『神の訪れの時』)、つまり「神の国」の訪れがクライマックスに差し掛かっているのに、イスラエルは気がつかなかったのです。従来「宮きよめ」と呼ばれる神殿での行動も、神殿への神の裁きを象徴するものと捉えられます。そして「人の子」が敵に引き渡された後に栄光を受けるというダニエル7章の預言を背景とした終末的、アポカリプティックな出来事として、イエスは十字架に架けられる道を「メシヤの召命」として受け入れたのです。

換言すれば、福音書の記述は、イエスの復活後の福音書記者の神学的考察によって創作されたのではなく、基本的にはイエスご自身の旧約預言成就の道筋を深く洞察した上で、自己への召命と理解し適用した結果であり、その意味でイエス自身が「神学者」であったとの理解がライトの解釈に反映されています。

さて「復活」の問題はライトの『キリスト教の起源と「神」問題』シリーズにおいて一つの中核的主題を構成しているように思います。福音派の大衆的福音説教は十字架贖罪一辺倒で復活はどこか付け足しのような感が否めない、と述懐しました。十字架は史実問題としては殆んど論証の必要がないほど明らかです。福音説教はその神学的意義の説明に集中する傾向があります。しかし復活はというと、近代の破壊的聖書批評学の影響もあって、史実としてきちんと論証されないままその意味について様々な解釈が一人歩きしてきました。福音派はと言うと、復活の意味を暗黙の了解的に「死に対する勝利」としてイースター説教で声高に叫ぶ程度です。復活の史実性は新約聖書証言の信憑性を強調するだけで、歴史的論証までには掘り下げられずに来たように思います。

ライトはイエスの復活を当時のユダヤ人の期待していた「神の国」の実現のシナリオとはかけ離れた形で、つまりメシヤの死と復活という形で実現した終末的・黙示的出来事として浮き彫りにします。ライトのこのような聖書神学的な解釈は、ルカ24章の弟子たちに対する「聖書全体」からの「イエスの十字架と復活において実現した神の国」の説明を跡付けるものと言えるでしょう。ライトは、このような解釈が使徒たちの「神の国」実現の理解となり、「神の国」は「イエス・キリストの福音」に集約された意味で解釈されている、と見ていると思います。

4 「パウロ研究の新パースペクティブ」

最近の新約学で特に大きな動きがあるのが「パウロ研究」と言えると思います。特にN・T・ライトもその一人に数えられる「パウロ理解のニュー・パースペクティブ(以下NPPと略称)」と呼ばれる論者たちが主張している研究動向です。

第一世紀ユダヤ教研究が進展するにつれ、キリスト教にとっては背景に過ぎなかったユダヤ教に関して歴史的により正確な理解がなされるようになりました。特にパウロ神学の中心的教義であると見られる「義認」の背景となるパリサイ的「律法主義」の見直しがなされるようになりました。

NPPの主要貢献の一つは、それまで主導的であった教義学的釈義の見直しであり、より歴史的に正確な『一世紀ユダヤ教』理解への関心です。この流れに先鞭をつけたのは、NPPが論議されるより約20年近く前です。Krister StendahlThe Apostle Paul and the Introspective Conscience of the Westが代表的です。NPPが論議されるようになった決定的な本は、E. P. Sanders, Paul And Palestinian Judaism (1977)です。名称としてNPPが一般的に用いられるきっかけとなった論文がJames D. G. Dunn, The New Perspective on Paul (1983)です。

NPP以前、パウロ神学は、その中心が『義認』なのか『キリストにある』なのか、と議論されるのが一般的だったようです。どちらにしても『義認』という宗教改革神学原則をパウロに読み込む〝神学的解釈〟優先の問題がありました。プロテスタントの義認解釈の父祖であるルターは、当時のユダヤ教を宗教改革当時の功徳を重んじたカトリシズムに見立てた解釈をしたわけですが、このような解釈はカリカチュアであることをE・P・サンダースの研究が実証しました。

このようにNPPの指導的研究者は、研究対象となる歴史的人物(パウロ、また史的イエスも同様)の歴史文化的背景となる「第二神殿期ユダヤ教」を歴史的に分厚く再構成することで、パウロ神学の新解釈の地平を切り拓いて行ったと言えます。

NPPの主要貢献二つ目に、「パウロ神学のナレーティブ構造理解」を挙げることができるでしょう。
パウロ神学理解に重要な視点を切り開いたサンダースでさえ、それを十分に活かしきれず、まだまだ伝統的神学解釈(『義認』か『キリストにある』か)に回帰する傾向がある、とライトは指摘します。

ライトはNPPを“新鮮な” と言う意味でのNP(ニュー・パースペクティブ)と言い換え、パウロ神学のナレーティブ構造と、その解釈技法を推進するヘイズの業績を高く評価します。Richard B. Hays, “The Faith of Jesus Christ (1983)や”The Echoes of Scripture in the Letters of Paul (1989)など。

パウロのより〝神学的〟な叙述が展開されるローマ、ガラテヤ、ピリピ、エペソなどは、表面上は「教理」と「倫理的勧め」のように、その後発展した「組織神学的叙述」構造のフィルターで解釈されて来ました。そのような解釈では、(旧約)聖書箇所引用はランダムに、プルーフ・テキスト的に見えます。しかしヘイズは、そのような〝神学的〟叙述構造を持つように見える箇所でさえ、実は絶えずその引用テキストが言及する大小の「ナレーティブ(創造、イスラエル、イエス、に関するストーリー)全体の余韻」を含めて喚起しようとするものであることを指摘し、その余韻や響きを「エコー」や「インターテクスチュアリティー」と名づけています。(ヘイズの場合は現代文学批評で用いられる『ナレーティブ』分析手法をかなり参照しています。)

NPPの主要貢献三つ目に、「パウロ神学の政治的コノテーションへの着眼」を挙げることができるでしょう。

近年、発展途上国の国際債務問題に新約学者ライトが度々言及します。啓蒙主義が提唱する「政治と宗教の分離」に対抗する意味もありますが、その背景には、史的イエス研究から出てくる近代的意味での「宗教家」の枠に収まらない「イエス像」も影響しています。神の国の福音は霊肉二元論では片付けられない現実政治へのコノテーション(含意)が確認されるからです。パウロ神学においても当時の政治的現実への視点が掘り起こされ、パウロの福音には「反・ローマ皇帝イデオロギー」の含意があることが主張されるようになってきました。復活したメシヤ・イエスの主権が皇帝に対抗する政治的意義があることを、パウロ宣教の中に見ようとする研究が進展しています。

5 結びにかえて
 この小論で簡単に取り扱った「史的イエス研究」を咀嚼した福音書説教や、「パウロ神学の新視点」以降の「義認論」で論議されている個人救済的な義認理解を拡大する「キリスト論的」「教会論的」枠組みを視野に入れたロマ書講解やガラテヤ書講解はなされているでしょうか。一般の牧師の説教においてこれらの知見が参照されて行くよう期待します。
 

2017年4月26日水曜日

(5)ペテロの役割

ほとんど毎日のように、昼食後1時間程度の散歩に出る。

たいてい散歩のお供となるのが「音声ファイル(mp3)」だ。

音楽ではなく、様々な講演を歩きながら聴く。

ジャンルはある程度限られていて、多分一番多いのは聖書学、特に新約聖書学の講演だ。


今日はベイラー大学(アメリカ、テキサス州)に招かれて講演した、マーカス・ボックミュール教授


という題の講演だ。(聴きたい方は→音声ファイル

これを聴いたわけだが思いのほか面白かったので記事にしてアップすることにした。

ペテロが「イエス伝承」と「パウロ伝承」を繋ぐ役割を持っていたのではないか、ということを4人の高名な研究者(エド・サンダース、ジェームズ・ダン、ドミニク・クロッサン、N.T.ライト)の多大な研究の中からペテロのこの可能性を割り出すための資料を取り出し、それを評価する・・・という内容の講演だ。

個人的な印象を言うと、
新約聖書研究というと幾つかの独立峰的研究課題(ヨハネ文書、黙示録、ヘブル書、など)を除くと、大半は(キリスト教の成立の二大貢献者と目される)「イエス研究」と「パウロ研究」になり、いわばこの二つがメジャー・トピックのようになっている。 

だからボックミュールのこの二大人物を橋渡す役割を果たしたと思われる「ペテロ研究」は、半分メジャーで面白いのではないか・・・などと思った次第。

さて、英語を「聴く」のはダメな方は、この講演の内容が出版された本の1章として納められている。


Markus Bockmuehl,The Remembered Peter: In Ancient Reception and Modern Debate.
(WUNT I 262; Tübingen: Mohr-Siebeck, 2010). 
 
ちょっと専門的な内容なのでなんだが、ざっと概観するだけなら、二つの書評を参考にすると良いのではないか。
 
(1)簡単な方の書評(セメリオス所収) 
 
(2)かなり本格的な書評(このうちの[6]がこの講演に該当するもの)

2016年10月16日日曜日

(4)主に神学ブログ⑩

[2016/10/22 追記あり]

最近更新がめっきり減った。

JCE6(第6回日本伝道会議)での「N.T.ライトの義認論」という神学ディベートに準備段階も含めてほぼ半年関わったので、そちらの方のアウトプットで一杯であった。現在は休養中の感じである。

最初に「主に神学ブログ」を久々に更新するにあたっての簡単な説明の前に、更新きっかけとなったツイートから紹介して「イントロっぽく」始めることにする。

「へー(このツイートの主は)誰だろう」から、始まった。

「横レス(横からレスポンス)で聞いてみようか」
「DM(ダイレクト・メッセージ)で聞いてみようか」

・・・としばらく「誰なのか」サーチしてみたら案外早く見つかった。
神谷光信 (かみや・みつのぶ)
関東学院大学キリスト教と文化研究所客員研究員。
1960年、横浜生。修士(学術)。
専攻: 日本近代文学
と以上のプロフィールがあるブログ、
フォントネー研究院 (本のある生活)
が今回紹介する「主に神学ブログ」である。

このシリーズの過去記事①~⑧はこの記事にまとめてある。
最新⑨はこれ。(2015年6月28日)
専門から言って「主に神学」ではないわけだが、『キリスト教』で記事の数を見るとかなり書き溜めたようである。

筆者の興味で幾つか目を通したものを挙げてみる。

1. 信仰にとって、何が本質か

 「・・・洗礼の有無にかかわらず、神は、私を見ておられるであろう。私がキリスト者であるかどうかは、おそらく私が決めることではない。」

 日本の歴史的環境下、隠れキリシタンや無教会の伝統があるので、このような信仰論に類似か関連のある論考はこのブログでも幾つか取り上げた。

 ・「非キリスト者による信仰論
 ・「生きる意味: 柳澤桂子
 ・「若松英輔『イエス伝』
 ・「『霊性』を神学する」シリーズ(1234

2. 加藤圭氏の論文「史的イエスの第三研究、その輪郭と妥当性」

 キリスト教信仰にとって「歴史は(そして史的イエスは)避けられない」こと、むしろ信仰構造的には歴史を避けることはグノーシス化することを指摘している、と云う点に共感なさっておられるようだ。

 加藤氏の論文がどのような研究と対話しているか分からないが、N.T.ライトを「史的イエス第三探求の旗手の一人」と紹介している筆者としては、カトリックの方では「史的イエス研究」に悲観的な岩島忠彦教授に対して好意的な見方を紹介しているものとして読んだ。

3. カトリック知識人の存在感

 戦前の岩下荘一以下、日本でマイノリティーのキリスト教知識人が論客として存在感を示していたのに、現在(2008年)70歳以下くらいで殆どカトリック論客がいないことを嘆いている。


さて神谷さんが加藤周一の「キリスト教信仰」についてどんな論考をするのだろうか・・・。

[2016/10/22 追記]

2016年7月7日木曜日

(5)「イエスの妻」断片、偽造ほぼ判明

一度だけ「イエスの妻」パピルス断片について記事をアップした。

遠からず収束するのではないかと云う観測を立てておいた。

当然「偽造」という線で。

しかしことはなかなか収束しなかった。

パピルス断片や使用インクが「年代もの」ということが専門的検査の結果得られたからだ。

しかし当初から、コプト語の文法や字体については専門家たちは「偽造」の心証を強くしていた。


このように(パピルス・インクの)物理的な信憑性と、(文法・字体の)内容的疑いという反発する二つの面から「決定的なこと」を出せずに時間が過ぎていった。

しかし後から紹介する、The Atlantic誌のアリエル・サバー記者が、このパピルス断片の「来歴・入手経路(provenance)」の面から徹底な調査を行った結果、とんでもないストーリーが浮上することになった。

The Unbelievable Tale of Jesus Wife

残念ながら英語をよく読める人でも、この長文の、入り組んだ「ディテクティプ・ストーリー(推理小説のようなストーリー展開)」をじっくり読むのは大変だと思う。

しかし見返りは大きいと思う。

何しろ登場人物を取り巻く「道具立て」が殆どハリウッド映画並だ。

少しだけ紹介しても、

 (1)ウォルター・フリッツ(断片をカレン・キング教授に持ち込んだ人物で、状況から見てこの人物が今回のドラマを仕組んだ張本人と推定される。)は、旧東ドイツ出身で、コプト語研究でキャリアを得ようとしたらしい。

 (2)しかし上手く行かず、一時シュタージ(旧東ドイツ秘密警察)本部跡に立てられた歴史博物館に勤め(そこに収納されていた物品が幾つも盗難に遭い、その責任を取って辞職、みたいな)

 (3)米国に拠点を置いて、(ポルノを売り物にしたウェブサイト・サービスを運営していた)妻と、「ダヴィンチ・コード」を下敷きにしたような・・・

 (4)キング教授がヴァチカンで初めて断片のことを「イエスの妻」断片と命名して発表するより3週間も前に、その名前でドメイン(www.gospelofjesuswife.com)を獲得し・・・

 以上はほんの少しだけしか紹介できていないが、そして記事が出てから3週間以上も経ち、幾らか記憶も鈍ったので多少詳細な部分では正確ではないかもしれないが、とにかく最後の「あっというエンディング」まで驚きの連続と目くるめくような展開であきれるほどのストーリーだ。


で、筆者が情報収集している範囲(新約聖書学者でネットで盛んに情報提供していたような方々)では、この記事を受けてほぼ大勢は定まったとの見解で満ちている。

幾つか代表的なものを紹介しておく。

 (1)マーク・グッドエイカー、イエスの妻福音書・最終章
  関連するメディア記事(ボストン・グローブ、等)や偽造問題を追跡してきた研究者たちのブログ記事のリンクがまとめられている。

 (2)アリン・スチューさん(コプト語/パピルスの専門研究家みたいだ)のフェイスブック・ページ
  断片がメディアに登場した初期から「偽造」をほぼ確信していたらしいが、「2016年6月17日」のエントリーに、仲間たちの「おめでとう」のようなコメントが並んでいる。

(※フェイスブックの性格上、リンクを貼るのを控えました。ブログの方には関連記事の投稿がないところを見ると、専門家としての発言は本人的には時期尚早ということかもしれません。)

[2016/07/17追記]
 (3) 「ローグ・クラシシズム」ブログの2016年6月24日の記事
 (ウォルター・フリッツにまんまと嵌められてしまった)カレン・キング教授(ハーヴァード大神学部)に多少の落ち度はあったとは言え、学者としては十分情報公開や慎重な審査のもとに発表を進めたとして弁護している。

 この記事のご苦労さんなところは、アトランティック誌記事を時系列にまとめて「流れ」を見やすくしていること。何しろいろいろな思惑で動いているわけだからそれを時系列で追ってみないとポイントがはっきりしないことが多々ある。

 (4)「ジーザス・ブログ」(英語圏神学ブログ、16 で紹介)のアンソニー・ルダンが総括的な記事を書いている。
Now that there is no longer any reasonable reason to argue for the fragment's authenticity, let us devote a bit more time for some self-reflection, shall we? I promise to make this post extra lengthy for your navel-gazing pleasure.
(最早件のパピルス断片の真正性を支持する理由が全くなくなったところで、反省すべきことを探し出して、一体全体何でこんなことになってしまったのか“自分のへそをじっくり見つめるように”振り返ってみようではないか。)
アンソニーはユナイテッド神学校(オハイオ州にある合同メソジスト認可校)の新約学教授で、史的イエス/福音書研究領域で「聖書記者の記憶」に光を当てて福音書記述を研究する比較的新しい研究手法をリードしている一人です。(あのリチャード・ボウカムの目撃者証言の手法とも多分に重なります。)
 
 彼が最後に書いているポイント―― 今やSNSは研究者間の意見交換等、研究発表に不可欠なものになってきた ―― は今回の事件がまさに証明していることなのだと思う。

 ということは研究者たちがブログ等に発表するプロセスに筆者のような素人も含めたパブリックが(多分に野次馬としてだが)参加できる時代になってきた、ということだろう。

 いや、それにしても今回の「イエスの妻(福音書)」断片事件は面白いものであった。



 

2016年2月6日土曜日

今日のツイート 2016/2/6

ツイート上ではこんな「ギリシャ語解読談義」もあります。

セフォリスとはガリラヤ地方の交易の中心として、またナザレにも近く(5-6キロ)、イエスにも大いに関わりのあったところと想像されている。

ギリシャ語のできる人は論議に参加してみてはいかが。

2016年2月2日火曜日

今日のツイート 2016/2/2

久しぶりの「今日のツイート」です。

がんばりましたね!

2015年11月7日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2015年11月8日(日) 午前10時30分


朗読箇所 Ⅱヨハネの手紙1-13

説 教 題 「歴史のイエスと信仰のキリスト」
説 教 者 小嶋崇 牧師


《現代キリスト教入門》10

 正典福音書はすべて、イエスをその世界から見ることを主張している。・・・イエスと福音書の歴史的な学びが必要な理由のひとつは、この世界だけではなく教会自体も、福音書が本当は何を語っているのかを繰り返し思い起こすことが必要だからである。・・・

 正典福音書は、ずいぶん前にさかのぼれる口伝と記述の両方の資料をまとめたり、それを元にしたりして書かれている。その資料は初期のクリスチャンの時期のもので、イエスの弟子たちがまだ生きて活動していたときであるだけではなく、他のかなり多くの目撃者、反対者、行政官たちが回りにいて、台頭しつつある新しい動きに注目し、広がりつつあるうわさを耳にしたり、それに反対する話が流布したりした当時のものである。(141ページ) 
 N.T.ライト『クリスチャンであるとは』(上沼昌雄訳、あめんどう、2015年)

2015年5月11日月曜日

(4)タカ牧師のセブン-1

またまた性懲りもなく新しいシリーズをば始めます。

シリーズ名はトレヴィン・ワックスのTrevin's Seven/TGCからのパクリです。


近頃まとまった文章を書くのが面倒くさくなりました。

かと言って読んだものを紹介したい気持ちはあります。

簡単な紹介コメント程度で、幾つかまとめて、アップ・・・方式はやりやすいと思って採用します。


英語ものが多いと思いますが、限りません。

ジャンルも神学関係が多いと思いますが、限りません。


記念すべき1回目ですが、特にこれと言うわけではありません。

では前口上はその辺にして・・・。


1. 10 Things I Wish Everyone Knew About Jesus
  『イエスについて、これだけは知ってて欲しい10のこと』
  ジェームズ・マーチン神父による、史的イエス超入門(2014年11月)

2. The Good News Hasn't Changed But How We Proclaim It Must
  『福音が変わるのではなく、伝え方が変わるのだ』
  ジェームズ・スミス(カルヴィン大学哲学科教授)のによる「テイラーの読み方一例 」
  ポスト世俗化の宗教は『何を』ではなく『どのように信じるか』が問題だ。伝道、牧会の専門家たちは、テイラーのこの診断を見過ごしにすべきではない。(2014年11月)

3. The Backward Culture
  『退行する文化』
  福音の土着化によって、キリスト教文化が出来上がってきたのに、今やネイティヴィティーがパブリックから排除されたりしている。何と言う反キリスト教文化の動き・・・。とカトリックの方が嘆いておられます。 (2013年4月)

4. Christocentric Hermeneutic Part 1: Against Principlizing
  『キリスト中心的解釈論、パート1 原則化に抗する』
  女性ブロガーのレスリー・キーニーさんが、クリスチャン・スミスの『The Bible Made Impossible』が標的にしたビブリシズムの問題・・・即ち聖書をあたかも「真理体系のマニュアル」が如きものとみなして行ってしまう“科学主義”的な聖書解釈アプローチ。それへの修正案・対案として「キリスト中心的解釈論」を提示するにあたっての緒論・試論的な考察。(2011年11月)

5. Christocentric Hermeneutic Part 2: Can A Narrative Be Authoritative
  『キリスト中心的解釈論、パート2 ナラティブは権威となるか』
  キーニーさんの「キリスト中心的解釈論」を提示するにあたっての緒論・試論的な考察のパート2。ナラティブとしての聖書は「権威」として機能しうるか、の問題を論じる。(2012年1月)

6. 外国人に話しかけられた時の衝撃の一言
  ぐっと趣向が変わって、笑いもの。(Naverまとめ)(2012年5月)

7. [東京版2015年] 美味しいワンコインランチ特集 [秋葉原編/食べログ]
  食べる方も一つ。場所に関してはオススメと言うわけではありませんが。とにかくワンコインの魅力で。


  

2014年4月20日日曜日

(3)「イエスの死」歴史か、小説か・・・

 リチャード・ボウカム「イエス入門」でも言っていたなー、イエスはある意味永遠のアイコンだって・・・。

Killing Jesus: A Historyと言う本が現在ベストセラーNo.1だそうな。(著者たちのウェッブサイトによると、と言うことですが。)


 著者たちはどうも保守系のジャーナリストと(ゴーストライターではないが)歴史研究家の組み合わせのようだ。


 ケネディーとリンカーンで成功を収めたのでイエスにまで手を出したみたいだ。

 手厳しい書評が目につく。 
Indeed the authors used the same stylistic formula for their two previous books Killing Kennedy and Killing Lincoln. Both were bestsellers, and Killing Jesus is already number three on the New York Times bestsellers list. Why? Because they are fabulously easy to read: because there are good guys and bad guys, with very little in between; because there is lots of journalistically juicy, salacious gossip; and because, as with some historical fiction, you learn quite a bit about a particular era without having to think too much.

 このブロガーもかなり狭い範囲での指摘だが、ヒストリーとしてのレベルでは「かなりいい加減」、と言う判定だ。

 かように「歴史」というのは「動かせない過去」を扱いながら、それ(人物・事件)にピッタリ標的を当てることは大変に難しいものだ、と言うことだろう。

 (筆者の場合、ゴルフ練習所に初めて連れて行かれ、止まって動かないゴルフボールを打つことが予想に反して難しかったこととどこか似ている。)
 

2014年4月14日月曜日

(2)「イエス入門」読書会を終えて 参加者感想文③

今年3月に終えた、リチャード・ボウカム「イエス入門」読書会参加者感想文のシリーズです。


「イエス入門」を読んで

(名前) 山田、(住所) 川口市、(年齢) 50代、男性 


 小嶋牧師と出会った頃、私はGood News(福音)とは一体全体何を意味するのか解らなかった。

 実を言えば読書会が終わった今でも自信がない。

 イエスの教えとは、道徳の教科書のようだと錯覚していたし、聖書にしても新約聖書や旧約聖書全体ではなく、4福音書を速読した程度の浅薄なイエス(キリスト教)知識しか持たなかった。奇跡物語は全く信じられず、却って私と聖書とを離れさせた。

 そんな中で、小嶋先生にこの本を紹介して頂いた。

 私は、感想文というよりはむしろ、より正しくイエスやイエスの時代を理解するための良書として推薦したい。

 本書は、かなりのスペースを割いてイエスが生きた時代背景を説明している。イエスが目指した事は、当時の時代背景を知らなければ、過去の時代を現代の法律で裁くような間違った文脈の判断を招く可能性があるからだと思う。

 当時のユダヤ人は、ローマの束縛から自分達を解放するメシアを待望していた。政教分離を疑う事も知らない現代日本人がイメージするような単なる精神的指導者ではなく、国家的且つ宗教的な指導者としてのメシアをユダヤ人は切望していた。

 小嶋先生がイエスは革命家だと読書会の中で話されていたが、多分そうなのだろう。当時の常識や律法を破り、悉く当時の指導者であったファリサイ派やサドカイ派の人々と衝突していたのだから、危険人物と言うよりは革命家の方が適当だと思う。

 当時は、例えば安息日には行動してはいけないと律法に規定されていたが、イエスはおかまい無しに人々を癒した。法律が人の行動を規制するのか、人が優先なのかをファリサイ派の人々とイエスは度々議論したが、そんな行動をとるイエスは、ファリサイ派の人々にとって自分達のルールを破り、自分達の既得権益を危うくする者であり、始末すべき人間だった。現実に彼らによって、イエスは葬られる事になる。

 イエスは統治者のローマ帝国と論争した訳でもないし、ましてや軍事的指導者でもなく、同胞のユダヤ人と論争して葬られた。伝道開始から十字架につけられるまでは凡そ3年だったが、その間どんな世界がイエスの頭にあったのだろうか。

 本書は、当時の人々やイエスがイメージしたユダヤの国、神の王国がどのようなものであったかを丁寧に説明する。その国は、人々の持つ信仰の力によって神の統治を支える神の王国だろう。イエスの俄には信じられない数々の奇跡物語も、イエスが、人々の信仰の力で神の憐れみを引き出したのだ。だからどんなケースでもイエスが病を癒せたかと言えばそうではない。イエスの育った地域でイエスを良く知る人々に対してはあまり奇跡が成功していないと述べられている。そこではイエスは、信仰の対象にはならなかったのであろう。これらを考えると、イエスが万能奇跡発起人ではなく、人々の積極的な参加が善や義を行う為に必要だと考えるべきなのだろう。受け身で待っていても何も解決しないのだ。

 神を信仰し、信頼する事によって、病や暴力や貧困を解決し、イスラエルの国だけではなく、全世界的に神の国を完成させられるとイエスが考えたのではないかと思う。

 神学とは無縁な個人的感想だから、私が正しい理解をしたとは思い難いので、本書を読んで頂き、読者が正しいイエス理解を得られれば幸いに思う。

2014年4月13日日曜日

もしお呼びいただければ・・・

説教奉仕/講師にお呼びください、と言うことですね、一応。

 私(小嶋崇)が牧師として仕えている、巣鴨聖泉キリスト教会は年2-3回礼拝を休みます(汗)。
 驚かれるかも知れませんが、日曜以外の集会(元旦礼拝、イブ礼拝、など)との兼ね合いで無理のないよう配慮した結果です。

 さて牧師である私はこれらの日曜を他教会での礼拝参加に用いるようにしました。(例えば昨年末と今年頭、教会巡り
 礼拝式のかなり異なる教会の礼拝に参加することも良い学習だと思っています。(学習は二次的なもので、礼拝に行ったわけですが。)

 今年はただ礼拝に参加するのではなく、説教の奉仕に呼んでもらえたら行きたいな、などと考えています。

 ①2014年8月10日(日)
 ②2014年12月28日(日)


の2回が当方の礼拝休みの日曜です。

 これをお読みの方で、これらの2回の日曜に礼拝説教、あるいは「聖書の学び」講師、に私を招いてくださる教会があれば、どうぞお問合せください。(2回とも同一教会、と言う意味ではありません。

《説教奉仕》
 礼拝説教は基本謝礼は必要ありません。(交通費などの経費は支給してくださると助かります。)
 
《「聖書の学び」講師》 
 以下の三つの本の主題やトピックからお話できます。
 ①ポール・マーシャル「わが故郷天にあらず
 ②スコット・マクナイト「福音の再発見
 ③リチャード・ボウカム「イエス入門
・時間としては1時間枠、私が話す時間は35-40分、残りが質疑応答です。(90分枠に延長もできます。)
 ・講師謝礼として「3000円/時間」を目安としていただければ幸いです。
 ・上記の本、①②③、の「販売コーナー」を用意して頂けると感謝です。
  当然ながらいずれもお勧めの本です。
  本の趣旨を理解して頂くことも「講師として呼ぶ」かどうかの有力な判断材料となることと思います。 

《限定事項》
 ・私が行ける教会(集会)は、JR(山手線)巣鴨駅を起点に、公共交通機関を用いて1時間程度で行ける範囲として頂ければありがたいです。
 ・2主日とも「繁忙期」なため、時間的にゆとりを持って行ける範囲となりますことをご了承願います。
 ・言うまでもなく、「日帰りできる」教会と言うことになります。

《問合せ》
 ・なるべくメールでお願いします。
  小嶋崇、sugamo_seisen(*)yahoo.co.jp
     (*)の部分をアットマークに変えてください。 
 ・①②のいずれも当日から数えて一ヶ月前までに「依頼・双方の要望確認・受諾」が終了するようお願いします。

以上色々条件をつけて申し訳ありません。
よろしくお願いします。

2014年4月10日木曜日

(2)「イエス入門」読書会を終えて 参加者感想文②

「『イエス入門』感想と印象」

(名前)橋倉、(住所)豊島区巣鴨、(年齢)60代、(性別)男

 キリスト教はヨーロッパから世界に向けられた宗教と思っていましたが、ヨーロッパの宗教となる前に世界宗教であることに驚きました。
 キリスト教教義と離れてもイエス像はアイコンとして好意的であり、まさしく本書の通りです。
 キリスト教は様々な、芸術、音楽、文学に強い影響を与えているのは事実です。これらは当時の宗教文化育成として、芸術家が教会などの強権力に擁護されて芸術を生み出した。中世の文化はかならずしもすべてキリスト教と100%係わっていたとは考えられない。後世、宗教と係わらない文化は自由な個人発想に転換して現代文化の主流となっています。

 四福音書はイエス像をかなり歴史的に正確に捉えていると感じました。
 本書説明では福音書のベースである“目撃者証言”と“口述伝承”を高く評価しています。
 他宗教でも証言・口述伝承は一般的であり、年代を越えての信憑性に関しては判断が難しいと思います。

 イエスが存在した時代のイスラエルはユダヤ教で、旧約聖書が教義となっています。
 律法(トーラー)主体の宗教で、一般生活は律法を規範としていたようです。
 イエスは律法を熟知していたようですが、当時は律法を物差しにかなり硬直した宗教生活と思われます。イエスはそのような硬直した宗教性を柔軟に解釈して貧しい人々に教えを与えています。
 イエスはたとえ話を多用し、人々に解りやすく、時には考えさせるような講和で臨みました。
 イエスの講和にはかなり誇大表現もあり、如何様にも解釈できます。聖書を読み始めた人にはどこまで行動規範に必要かの解釈が難しいでしょう。

 神の国をこの地上にも作ることがイエスの使命であると感じました。本書でもかなりのページ数をこの説明に費やしています。
 非キリスト者は、天国(神の国)は死後の世界に存在し、死後、天国へ行くために信仰生活を送るように感じますが、イエスの意図は全く逆であり、マタイ福音書に記されている有名な“祈るときには”の節にあるように、
“御国が来ますように。御心が行われますように。天におけるように地の上にも“
総じて、この地上に神の国を作る事が神の支配なのでしょう。

 イエスの十字架刑後、復活して昇天したようですが、復活から昇天までの間の言動・行動はあまり福音書には詳しく記載されていないようです。
 弟子には昇天後の信仰を述べ伝えたと思われます。

 「イエス入門」著者、リチャード・ボウカム氏の文章は非常に客観性に富み、個人見解をできるだけ排除した優れた図書と思います。

 クラスに通っている間に思いつた、考え付いたこと

 本書ではイエスのひとなり・使命を歴史的事実から述べられていると思います。
 小嶋牧師様が解説している間、いろいろな質問(あまりに無知な質問で失礼しました)をあびせてご迷惑だったかもしれません。
 宗教を持たなく、キリスト教を全く知らない人間とキリスト者の間には大きな信仰の壁、知識の壁があるようです。
 私自身は技術屋なので、ジャンルを問わず、理論(屁理屈?)で理解しようとします。
 宗教と科学は相いれないと世間では言われていますが、現代に至ってはそう思いません。神学、人類学、心理学、哲学、物理学、生物学、生理学などの各視点から考察すれば幅広い理解と発展につながって行くと思います。
 一個人がすべてを勉強するのは到底無理ですが、現在までかなりの先駆者が存在するでしょうから、その資料を基にアプローチしたいと思います。

 最後に、今回のクラスで勉強させて頂き誠にありがとうございました。重ねて感謝いたします。


※ブログ主注、「イエス入門」ではカバーしきれない質問が幾つもなされました。キリスト者には「当たり前」になってしまっていることも、実際にキリスト者ではない人にも説明をしようとすると、なかなか難しいことを感じました。
 また『三位一体』や『(聖書記者への神の)言語啓示』の具体的様態など、依然として簡単には説明できないことも改めて感じました。良いチャレンジを頂いています

2014年4月8日火曜日

(2)リチャード・ボウカム著「イエス入門」読書会を終えて

2013年6月、新教出版社刊、リチャード・ボウカム「イエス入門」を用いた読書会(概要、シラバス、予定などの資料へのリンクがあります)を無事終了しました。


参加した方々に感想文を書いていただきました。

ネット掲載許可を頂いたので数回に分けて紹介します。

「50年の謎『イクサス』」


(名前)石田、(住所)板橋区、(年齢)65才、(性別)女性

 昭和30年代の中頃にハリウッドの総天然色映画で旧約聖書関係映画が多くありました。
 例えば「十戒」・「ベンハー」・「サムソンとデリラ」等です。

 50年の謎・・・とは、キリスト教弾圧の時代にローマ貴族の奥様がお化粧していると、下女が近寄って来ておしろいの粉をこぼし《魚》マークを書いて目配せし ます。
 ご主人が来たので慌てておしろいの《魚》マークを消すのです。

 映画の題名も俳優も覚えてないのですが、金髪の奥様と淡いブルーの洋服と《魚》マークだけ鮮明に覚えています。

 《魚》マークが何なのか知りたくて聖書を読みましたが見あたりません。

 以来謎を解きたくてキリスト教関係の本を読み、謎を求めて50年たちま した。

 やっと機が熟したのでしょうか四ッ谷の聖書グッズのお店で《魚》のブレスレットを見つけました。

 また読書会に参加して《魚》マークのことを詳しく教えて頂き謎が解けた次第です。

 《魚》マークの意味は下記致します。

 新たな謎は映画の題名は何だったのか
 どなたかご存知の方がいらっしゃったらと願ってま す。

(記)  《魚》マークはイエスの頭文字【イクトゥス】
ギリシャ語で【イエス・キリスト・神の子・救世主】の頭文字をならべたもの

※筆者注、「イエス入門」には【イクトゥス】《魚》マーク、のことについての言及はないようですので、多分会話の中での余談でその話題が出てきたのだと思います。

2014年1月28日火曜日

(5)主に神学ブログ⑥

このシリーズも大分停滞している。

筆者の既知の或いは普段閲覧している神学ブログと、検索して新たに探した神学ブログとを、交互に紹介する、と言う意図で始めたが、最早そんな余裕はない。

今回紹介するのは、既知であり、しかし新しくもある。

佐藤優の「日本人のためのキリスト教神学入門」(リンク)は、筆者が何回かコメントした同氏の「キリスト教神学概論」の言わばリスタート版です(2012年11月から現在まで連載中)。
(その経緯についてはどこかに書いたと思いますが・・・。)

今回紹介したのは、この連載が「キリスト論(リンク)」に入っているためだ。

佐藤が「上からのキリスト論」と「下からのキリスト論」に対して、前者を取ると主張しているのに、ジョン・ドミニク・クロッサンの『イエスとは誰か 史的イエスに関する疑問に答える』(新教出版社、2013年)が出版され、読者の質問に応ずるように「史的イエス」の問題について少し脱線し始めているようだ。

恐らく佐藤は余り「史的イエスの第三の探求(関連記事)」については読んでいないのだろう。

近代批評学の歴史懐疑主義(ブルトマンなど)に対して、歴史的アプローチが有益で有効であることを実証的に研究する学者たちが増え、キリスト教起源に対する神学的再解釈も含めた包括的な研究枠組み(特にN.T.ライトの『キリスト教起源』シリーズ)が出てきていることを見逃しているようだ。

「キリスト論」においては、いかにしてナザレ出身の預言者イエスが「神」となったかを歴史的に探求する議論、つまり「下からのキリスト論」が面白い。

先日も聖書学及び原初期キリスト教歴史学からのアプローチで「高いキリスト論(high christology)」が歴史段階的に(進化論的に)形成されたのではなく、ごく初期から(イエスの死後20年以内に)既にあったことが実証的にも合理的な説だ、と言う研究者間合意が出来つつある、との見方を報告した。(この記事

どちらかと言うとかなり歴史懐疑主義的なスタンスを取る新約聖書学者(福音派の出自で懐疑論者となった)、バート・イァーマンの近著のタイトルが刺激的だ。
How Jesus Became God: The Exaltation of a Jewish Preacher from Galilee (New York: HarperOne, 2014).


これを論駁する本も用意されている。
寄稿者の一人マイク・バードが自分のブログで紹介している。(リンク

筆者はライトのものを読むようになって、つまり史的イエス研究のアングルから、「イエスの神性」の問題に対し、非常に深く関心を持つようになった。

どう言う意味でイエスは「神」なのか。
新約聖書の主張はどうなっているのか。

神学的に定まった見方はそれとして、ユダヤ人である初期キリスト者がどのようにイエスをヤハウェと「同一(identify)させて行ったのか」と言う極めて歴史的に興味深い問題である。

ライトはこの疑問を歴史の地平で徹底的に問おうとする。

しかし盟友であるリチャード・ヘイズは、ガベンタ(当時プリンストン神学校で現在はベイラー大学)とともに「信条」を解釈枠としたアプローチを提唱し、



これが発表された2008年のSBL(北米聖書学会・・・聖書学者たちの学会としては世界最大級)では、ライトから「歴史からの撤退」とばかりに厳しい批判に遭う。(この辺の消息はマイク・バードのCanonical Jesus vs Historical Jesusを参照のこと。)

ライトが昨年出した、How God Became Kingは幾分sketchyだが、「下からのキリスト論」と言う点でも、「受肉論」や「贖罪論」も統合的に視野に入れる野心的な「福音書」解釈であった。

ヘイズは最近も福音書の「正典的解釈」の実効性を訴えている。
(冒頭の部分で、盟友ライトとのアプローチの相違が依然として続いていることにも言及しているところも興味深い。)


「キリスト論」の歴史的研究は暫く目が話せないホットなトピックになるだろう。



2014年1月15日水曜日

(4)ユダヤ教とキリスト教

本の紹介、と言ってもたんに目がついたと言うだけでここにはそのメモ程度のことを記すのみ。


ダニエル・ボヤーリン
と言うカリフォルニア大学バークリー校の中近東学教授がいる。(リンク


最近、「ユダヤ教の福音書」(教文館)ここ

と言う本を出したそうだ。

原著は
ここ

本の紹介ページでは
Daniel Boyarin, Taubman Professor of Talmudic Culture and rhetoric at the University of California, Berkeley, is the recipient of numerous awards and fellowships. His books include A Radical Jew, Border Lines, and Socrates and the Fat Rabbis. He lives in Berkeley, California.
となっている。

このブログでも度々取上げる、ラリー・フルタド教授も紹介している。

書評フルタド

この記事で登場するピーター・シェイファー教授(プリンストン大学)は、ご自身The Jewish Jesusと言う本を出されている。(ここ


どうやらお二人はライバル同士らしく、それで結構厳しい書評を書いたらしい。

どちらにしても「ユダヤ教」と「キリスト教」は学問の世界ではキリスト教発展史の初期(数世紀)においては、きびすを接する簡単に区別できない、分かち難い繫がりを持った同士である、との認識が前提のようである。

ちなみに我がN.T.ライト教授はダニエル・ボヤーリンの、Two Radical Jewsについてかなり高い評価をしている。ここ






2013年12月26日木曜日

(5)ブログ上での「高いキリスト論」討論

以前、「史的イエス」と「史的キリスト」でもラリー・フルタド教授のことを紹介した。

フルタド教授のブログについては、英語圏ブログ紹介④でも取上げた。

最近のフルタド教授のブログ記事で面白かったのは、

Larry Hurtado 2013/12/18

アンドリュー・チェスターのHigh Christology - Whence, When and Why?と言う論文を紹介した記事、
Larry Hurtado 2012/12/12

にコメントを加え、現在の「高いキリスト論」研究における学者たちの立場を三つにまとめて紹介している。

最も面白いのは、一年前に遡って、最初にアンドリュー・チェスターの論文を紹介した記事だ。
原初期から高いキリスト論だった、が主流になりつつある

世界的な学者のブログが起し得るハイレベルな討論が、「コメント」セクションに展開している。
これを読むだけでもエキサイティングだ。

何しろコメントを入れている顔触れが凄い。

①ゲザ・ヴェルメシュ
②リチャード・ボウカム

特にボウカムは繰り返しフルタド教授とやり取りしている。
そこにはボウカム教授の(未完の)「高いキリスト論」研究集大成についての展望も書かれている。

如何にイエスが一神教の背景を持つユダヤ教から、「神」として崇拝されるに至ったかを歴史的に探求することに関心のある方は、是非この三つの記事とコメントを丹念に読んで頂きたい。

ブログでどの程度ハイレベルのことが出来るか、立証するものではないかと思う。

2013年9月17日火曜日

(2)明日から「イエス入門」読書会

今日は気持ちのいい秋晴れの日。

明日からリチャード・ボウカム「イエス入門」読書会が始まる。

読書会を始めるにあたって、日本語で読まれている「イエス」についてのベストセラー本2冊と、最近の「史的イエス研究」を反映しているかもしれない論考とを手にしてみた。

先日は若松英輔氏の『イエス伝』(中央公論連載中)を紹介した。

「イエス」についての本は日本語でも沢山あるのだろうが、先日図書館から借りてきた「ベストセラー本2冊」とは、

遠藤周作「イエスの生涯」(1963年、新潮文庫)
荒井献「」イエスとその時代」(1974年、岩波新書)

である。

小説家と古典文献研究家の書いた「イエス」である。
多分どちらもかなり売れた本だと思う。
(筆者はどちらも読んだことがなかった。)

2冊ともボウカムの「イエス入門」と比較した場合、さすがに最近の「史的イエス研究」と言うことで言えば古いと言わざるを得ないが、何かしら拾ってみようと思う。

小説家遠藤の「イエスの生涯」では「誕生」のことは触れられていないが、「復活」については触れられている。

エマオに旅する弟子たちの物語(ルカ福音書24章)から、彼らの心のうちに「イエスは生きている」と言う感情が湧き上がった事は事実に相違ないが、弟子たちの生前のイエスへの思慕だけからは「イエスを神の子と神格化する」その後の歴史は成立し得なかったはずだ。

弟子たちには、「別の次元から何か筆舌では言えぬ衝撃的な出来事が起こったと考えるより仕方がない。」

と遠藤は推論する(248-249ページ)。

イエスの復活を目撃しなかった我々は、以上のべたような謎をふしぎに思う。なぜ弟子たちはたち直ったのか。なぜ弟子たちは荒唐無稽な、当時の人々も嘲笑した復活を事実だと主張しつづけたのか。彼らを神秘的幻覚者だとか、集団的催眠にかかったのだときめつけるのはやさしいが、しかしそれを証拠だてるものも何ひとつない。謎はずっしりと重く我々の心にのしかかるのである。(250ページ)
遠藤には「謎」として残ったこの「復活」について、ボウカムは次のように言う。
イエスに起こったことについて原始キリスト教徒たちに同意するには、彼らを取りまく宗教的世界観のいくばくかを少なくとも受け入れることが求められる。・・・でなければ、せいぜい次のようにいう程度にとどまってしまうだろう。イエスの死によって深く幻滅していたイエスの弟子たちに、神が彼を死人の中からよみがえらせたと信じさせるような非常に特別なことが起こったに違いない、と。日本人作家の遠藤周作が彼の作品『イエスの生涯』(1978年)の中で語ったように、・・・。(178ページ)

ここまででやや息が切れてきた。
荒井献「」イエスとその時代」(1974年、岩波新書)についてはまた別の機会があれば取上げよう。



2013年8月29日木曜日

(4)若松英輔『イエス伝』

最近のアクセスを見るとちょっと意外に感じるのだが、佐藤優「キリスト教概論」へのページ・ヴューが依然として多い。

これは「ふしぎなキリスト教」などに対する関心と通底するような、「教養としてのキリスト教」を求めている兆候なのだろうか。

ところでこのブログでも何回か紹介したリチャード・ボウカム「イエス入門」出版と時期的に相前後して、最近よく名前を聞くようになった「批評家・若松英輔」の『イエス伝』が中央公論から連載開始した。

一応連載①「一章」(中央公論、2013年5月号掲載)から読んでいるのだが、今回はその④を取上げたい。

第四章 洗礼ーーイエスは洗礼を授けたのか

先ず全体的な印象から。

これは連載全体に通じるのだが、若松氏の考究(瞑想?も含む想像を活かした読み・・・のような取り組み)は、新約聖書学(主に福音書に限定されるが)の最近の研究や動向にも目を配りながら、しかしその枠組みには縛られない、むしろその殻を破ろうとする試論のように思う。

若松氏は「史的イエス」にも関心があるが、むしろ「内村鑑三」に言及したり、また背景には「井筒俊彦」もあり(若松英輔ウィキ)、「宗教間対話」のような狙いがあるのではなかろうか、と筆者には感じられるのだ。

「霊性」の次元で時代や文化の異なる「宗教家・宗教運動」を横断的に捉える視野を探っているような雰囲気と言おうか・・・。

今回の文章は「イエスの幼年期」について書いているが、福音書資料は大変限られており、ルカ福音書の「幼児期物語(infant narrative)」についての解説が主になっている。

かなり内容を省略するが、「イエスが12歳」の時のエルサレム行エピソードでの少年イエスの「父の家」発言に対する両親の驚愕の背後にルドルフ・オットーが用いた「ヌミノーゼ」体験のようなものがあるのではないかと若松氏は指摘する。
 このとき、マリアとヨセフを、名状し難い、しかし烈しい戦慄が貫いたのではなかったか。日々、子供が育っていくのは悦ばしい。だが、その一方で、幼き魂がかいまみせた叡智と霊性の次元が、自分たちとはほとんど隔絶されていることを認識せざるをえない。
 彼らは恐れと畏れが入り混じった、霊的な慄きとも言うべき経験に投げ込まれている。福音書で何もふれられないことによって現出するコトバには、宗教学者ルドルフ・オットーが、超越的体験の原型として論じた「ヌミノーゼ」の事実を見る思いがする。(下線は筆者)
若松氏の関心はここでも新約聖書学者が通常『釈義』と呼ぶ、「著者(福音書記者)の意図した意味」を文脈から取り出してくることよりも、その背後にある「霊性」に繋がる「何か」へ意識を向け、その「何か」を浮き立たせることに関心があるようだ。

さて福音書記述ではこの「イエス12歳のエピソード」より前に来るのだが、「洗礼者ヨハネ」の母エリサベツと、「イエス」の母マリヤの邂逅場面で、エリサベツが「最初」にイエスを「主」と認めたことの経験が、「福音書は具体的には伝えていない」が、洗礼者ヨハネを形成する重要な要素となったであろうと若松氏は想像している。

さて標題の「洗礼」に関し、洗礼者ヨハネの「洗礼」と、イエスの「洗礼」とを福音書の記述に照らして比較するところでも、若松氏は何の前触れもなく「内村鑑三」を登場させる。
 キリスト教に入信するときには洗礼を受けなければならない、とされている。だが、その根拠は必ずしも明確ではない。仮に、イエスを神の子キリストであると信じる者、と「キリスト者」を定義するなら、すべてのキリスト者が洗礼を受けているわけではないからだ。
 たとえば近代日本を見るだけでも、内村鑑三によって始められた無教会に連なった人々のように、洗礼だけではなく、宗教的儀礼を信仰上の必須の条件であるとは考えなかった一群の人々がいる。新約聖書を読む限り、彼らの信仰を誤りと断ずることはできない。
と前置きのようにしながら、「洗礼」が「キリスト者」の条件とはならないことを見ていくことになる。(若松氏は、特にヨハネ福音書4章2節の挿入的解説に注目する)。

この辺りでも若松氏の考究は一定の問題意識によってテキストを選択していくことになる。

洗礼者ヨハネの「水の洗礼」に対し、イエスの「聖霊と火の洗礼」の意味を明らかにしようとする時も、若松氏は依然として「儀礼的・外形的」洗礼に対して、「目に見えないところで成就する出来事」であるところに、『聖霊』による洗礼の意義を見ようとする。

そしていよいよパウロ書簡に進んで行く。
 洗礼が無意味だといったのではないにしろ、イエスは、洗礼を救いの条件にはしなかった。原始キリスト教団が信じたイエス像も同様ではなかったろうか。パウロがユダヤ教の割礼の儀式にふれて言った言葉は、キリスト者の洗礼を考えるときにも見過ごすことはできない。
 あなた方は古い人とその行いを脱ぎ捨て、深い知識へ進むようにと、創造主の姿にかたどって絶えず新しくされる新しい人を身にまとっているのです。そこにはもはやギリシア人もユダヤ人も、割礼を受けた者も受けていない者もなく、未開人とスキタイ人、奴隷と自由の身の区別もありません。キリストこそがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。(「コロサイの人々への手紙」)
洗礼に意味がないのではない。パウロも回心のあと、アナニアという人物から洗礼を受けている。洗礼は、今日も秘蹟であり続けている。しかし、パウロが割礼において明言しているように、洗礼の有無は、救済とは関係がない。もし、ここに固執するならば、大多数の洗礼を受けていない人々が救われないことをよしとすることになる。自分は救われ、ほかの人々が業火にさらされているのをだまってみていることが、果たしてイエスの生涯に続く者がとるべき態度だと言えるだろうか。
若松氏の問題意識は明確である。

ただ下線で指摘した部分で、若松氏は「割礼」と「洗礼」とを混同し、パウロにとって「洗礼」と「割礼」とはあたかも区別がなく、ともに宗教儀礼上のことのように扱ってしまった。

これはかなり大きなミスである。

パウロの真正の手紙と認められている『ガラテヤの信徒への手紙』では、
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤ3章26-27節、新共同訳)
と言明しているように、洗礼とは「キリスト者」となる体験が、「キリストと一体化」される体験であることを示唆しているものです。

若松氏が嘆く「洗礼」を巡る問題はさておき、パウロに関して言えば、「洗礼」は単なる宗教儀礼上のものではなく、そのエッセンスは「キリストに結ばれる」ことをあらわすものであり、「キリストの死と復活に与る」(ローマの信徒への手紙6章4節)決定的意味を持ったものであることは明白です。


故に原始キリスト教団において、洗礼とは「イエス・キリストの名によって」「古い人・古い世」から切り離され、「終末の神の民」の一員となる(聖霊はその確たる証し)ことをあらわすものとして実践され(使徒言行録2章38節)、「ヨハネの洗礼」を受けただけの「弟子たち」も「聖霊の有無」を確認されて「主イエスの名による洗礼」を受けたわけです(使徒言行録19章1-7節)。

ただ若松氏の「洗礼」に対する問題意識は根拠がないか、と言うと決してそうではない。
ご指摘のように「洗礼」が多分に宗教儀礼上のものに過ぎないような扱いをされている現状は様々あると思われる。

しかし「洗礼」が持っている意味を新約聖書にさかのぼって見る時には、その意義は甚だ大であることは認めざるを得ないのではないか。
そしてむしろ新約聖書から、現在の「洗礼」を巡る混乱に対するアプローチを考えるのも有効なのではないか、と筆者は思う。

2013年8月8日木曜日

リチャード・ボウカム「イエス入門」読書会

暑いさなかですが、秋から始める読書会のご案内です。

教会はちょっと敷居が高い。
キリスト教はちょっと難しそう。
でもイエスには興味がある。

そんな方に取って置きの新刊が、リチャード・ボウカム「イエス入門」(新教出版社、2013年6月)ではないかと思います。



筆者が読んで気に入ったと言うこともありますが、是非この本をより多くの一般の方に読んで頂ければな、と思っております。

このブログの読書の方々は、既に筆者の「紹介・書評」をお読みになったかもしれません。
これこれ

この小さな読書会は、2013年9月~2014年3月まで、全12回で「イエス入門」読み終える予定です。
(詳細は末尾にリンクしました「クラス案内と予定」をご覧ください。)

場所は、巣鴨聖泉キリスト教会(アクセス)のとなりにあります活水工房のティールームです。



ここまで読んでくださった方の中で、もし少しでもご関心を持たれた方がありましたら、以下の文書で詳細をご覧ください。

問合せもお待ちしています。
sugamo_seisen(アットマーク)yahoo.co.jp ・・・小嶋まで。
(※8月10日~8月13日までは不在にしています。ご了承ください。)

クラス案内と予定
申込書 

2013年7月23日火曜日

久し振りに ゲスト・スピーカー

先ず最初に。

8月11日(日)の巣鴨聖泉キリスト教会での
主日礼拝はお休みです!!

その休みを用いて「『福音の再発見』ファン感謝デー・関西編(神戸三宮)」に出かけてまいります。

これは午後2-4時の集まりですが、朝の礼拝は、この集まりのホストである《ミーちゃんはーちゃん》さんが集う『芦屋恵キリスト集会』に出ています。

・聖餐式(礼拝)(10:20~11:00)
・聖書のお話(11:15~12:00)

こちらの「聖書のお話」の方で《スペシャルゲスト》としてお話しすることになっています。
ただのゲストではなくその上にスペシャルまで付けて頂いて恐縮です。

テーマは「決まりましたら・・・」となっていますが、「★いま★イエスに従うとは」みたいなことを話そうかと思っています。

と言うのもリチャード・ボウカム「イエス入門」が出て、これは一般向けの「キリスト教入門」の好著だと思い、これをテキストにして『イエスとは誰か』というクラスを企画しているところなのです。

同時にボウカム「イエス入門」は、キリスト者にとっても「イエス・キリストの弟子となる」ことに欠かせない「史的イエス」の問題への良き入門書でもあります。

そう言う訳で、「★いま★イエスに従うとは」と言うテーマは、筆者とは教会史的背景の異なる「ブレザレン」系の『集会』であっても有益なものではないかと思っています。

読者の皆さんの中に《芦屋》付近に住んでいる方があれば、どうぞこの集会への出席をお勧めいただければ幸いです。