2011年7月20日水曜日

ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ

カタカナの羅列の標題になってしまったが、New Perspective on Paul (略してNPP)は最近のパウロ研究の中心を占めてきた話題である。


ネット上を英語で検索すればざくざくでてくるのに、日本語では殆んどヒットしない。
そもそもまだ定訳がないみたいだ。
「新パウロ観」と訳しているサイトもあるようだが、何しろ日本語サイトでは『ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ』に関する情報を得ることはかなり困難な印象である。

私事で恐縮だが、筆者が主宰する「N.T.ライト読書会」ウェッブサイトで、元ダーラム大聖堂主教、現セント・アンドリュース大学特任教授(と訳せばいいのかな)、のトム・ライト師を「・・・『パウロ神学』の〝新解釈〟の論客の一人として有名です。」と紹介している。

日本にも(新約)聖書学者、パウロ研究者は結構いるはずだろうに、ネット上での啓蒙活動は個人的、個別的研究に限られていて、最近のパウロ研究の動向には余り関心がないのだろうか、と勘ぐりたくなる。
あるいは筆者の検索が悪いのか浅いのか・・・。

と言うわけで、非常に初歩的で簡単な『ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ』についてのメモをここに残しておこうと思う。
もちろん門外漢である筆者のメモであるから、その辺適当に「そんなもんか」と受け流して欲しい。

(英語が大丈夫な方は、ウィキ記事が簡単な入門になる。)

さて、最初に誰の名前を挙げようか。やはり『ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ』の一応の名付け親となった新約学者のジェームズD・G・ダン教授かな。

筆者の理解では、NPPの意義は、宗教改革以来の根本教理である『信仰義認』は関連聖書箇所であるローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙を正しく(歴史的に)解釈していない、と問題提起したことではないかと思う。
宗教改革の『信仰義認』理解の背景となったのは、当時のカトリック教会の救済観(免罪符の問題や功徳の役割)であり、その理解を関連聖書箇所に読み込んでしまった、と言う分析である。

このようなパウロ神学解釈のパラダイムシフトの先駆けとして名前が挙げられるのが、クリスター・ステンダールの、The Apostle Paul and the Introspective Conscience of the West、である。
数年前までこの論文はネット上で入手可能であったのだが、現在は見当たらない。

この論文もそうだが、総じてNPPが主張するのは宗教改革の『信仰義認』理解は、厳密な聖書釈義に基づくものではなく、西洋史における「内省的自己」、個人の罪責感からの解放を救済論における「義認」に読み込んだ、というものであろう。

その点で大事なのは、近年のユダヤ教研究が進み、『信仰義認』の教理の背景となる「戒律主義的ユダヤ教」理解が時代錯誤であることを確認したことである。
この辺りを綿密に実証したのが、E・P・サンダースの、Paul and Palestinian Judaism: A Comparison of Patterns of Religion (Fortress Press, Philadelphia, 1977)、である。

なおウィキペディア記事では物足りない方には、The Paul Pageと言うウェッブサイトがあること紹介しよう。
The New Perspective on Paulのセクションは以下のような内容となっている。
    * Introduction and Summary
    * From The Paul Page
          o Articles
          o Book Reviews
    * Around the Web
          o On the New Perspective
          o From the New Perspective
          o Challenging the New Perspective
          o Book Reviews
          o Discussion Lists
    * Bibliography
    * Related Sites

英語圏では神学や聖書学を専門にしているブログが数多くあるが、日本語圏では非常に少ない。
既に少し書いたがこの辺の事情を日本の研究者たちはもっと真剣に考えて欲しい。
学会に対してだけでなく、ネットパブリックに対してもせっかくの研究成果をもっと発表して欲しいものである。

(※NPPが主題ではないが、ネット上で入手できる論文として栗林輝夫氏の「『帝国論』におけるイエスとパウロ」はNPPも含めて最近の動向を紹介している。)

2 件のコメント:

  1. はじめまして。昨年8月まで隣の駒込にいたものです。時おり先生の教会の近くのリサイクルショップに出入りする際に貼られている説教題に興味を覚えていました。

     さてNPPですが、ダンの論文は「新約学の新しい視点」としてすぐ書房から翻訳が出ています。2002年に日本に戻り、この方面の著作がほとんど無いことにびっくりしていましたが、少なくともダンのものがあることは感謝でした。訳は山田耕太先生がされていたと思います。今は埼玉の奥で牧会をしていますが、先週まででガラテヤ書の講解をやっていました。NPPからみる事により、より包括的にパウロ神学を捕らえられられたように思っています。

    2011年8月24日22:04

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  2. focusさん、初コメントありがとうございました。
    「・・・2002年に日本に戻り、この方面の著作がほとんど無いことにびっくりしていましたが、・・・」とありますが留学されておられたのですか。
    NPPと略称で通じるほど欧米では盛んに論議されている話題が、日本ではあまり見当たらないと言うのは不思議な感じですよね。
    私も現在ガラテヤ書講解中ですが、やはりNPPの視点は避けて通れません。
    ただ若い世代の新約聖書学者たちの間ではNPPがパウロ神学の話題の中心を占める時代は終わった、との観測が聞こえてきています。と言っても話題自体、あるいは視点そのものは最早一つの伝統として定着したと言えるのでしょうが・・・。
    また何か情報ありましたらお教えください。

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