2011年7月18日月曜日

スポーツの意義

女子ワールドカップ・サッカーで日本チームが快進撃し、ついに優勝した。

先ずは選手たちに「おめでとう」と言いたい。

粘り強く自分たちの力を信じて最後まで走った。
延長でも勝負は決まらずPK戦に。
もうどっちが勝っても両チームとも称えられるべきだと思うが・・・。
そこはやはり優勝戦。勝負を決しなければならない。

(牧師が言うのもなんだが)勝負の女神は日本に微笑んだ。
試合前半あれほど圧倒していた米国が負けるなんて、勝負って分からないもんだね。

ところで日本の選手たちも言っていたが、大震災に遭った日本国民を励まそうと言う気持ちが試合に出ていたのかもしれない。
試合後の感想にも日本選手のメンタルの強さを言っている論評があったが、そのことと関連しているのだろう。
敗れた米国チームも、敗れるんだったら日本チーム、と思っていたそうな。

ところでスポーツと言うと、個人の戦いにしろ、チームの戦いにしろ、ワールドカップやオリンピックでは「国を背負う」と言うことが出てくる。
選手たちもそうだろうが、国家の方が国威発揚や政治的な目的でスポーツ強化に乗り出す場合がある。
スポーツに「国」を持ち込むのはある面「本当の戦さ」をしない平和な姿を現す、と言えるかもしれない。

だが近代オリンピックが国家的な枠組みで発展してきたのに比べると、その発祥である古代ギリシャではスポーツはどんな意義を持っていたのか。
本来は競技者自身が互いに競うことによってその競技の技術と力を優れたものにする、高めあう意義があったはずである。

その近代オリンピックも国威発揚だけでなく、お金を稼ぐためとか、有名になるとか、自己実現的意義もおびるようになった。そのためならドーピングも厭わない風潮も出てきたわけである。

今回の「なでしこジャパン」の快進撃には、精神的に国民を励ます、と言う意味で違った意義を帯びていた。それを他国の人々も理解して日本チームを応援したのだろう。

ところで例によってまた石原都知事が「なでしこジャパン」の快進撃に引っ掛けて「如何なものか」発言をしたと伝えられている。
18日の朝日新聞の「都知事発言」コラムに、石原氏が15日の定例記者会見でこんな発言をしていたらしい。
「(中略)とにかく最後に、アメちゃん(米国)にだけは勝ってもらいたいな。そうしたら、やっぱり日本人は溜飲下げるよ。
(中略)俺なんか古い人間だから、65年の遺恨って言うのがあるわけだよ、戦(いくさ)に敗れてからの。君ら、全然痛痒を感じてないだろうけどさ」
こんな風に見られるのはスポーツをする側にとって迷惑な話だろう。確かに「なでしこジャパン」は自分たちのためにも戦ったが日本国民のためにも戦った。
だけどそれは過去の戦争の遺恨などとは全く関係のない「国を思う思い」であったはずだ。
サッカーボールを挟んでフェアプレーした両国の選手たちにとってもそれは代理戦争などではない。勝負が終わってお互いの健闘を称え合うのが選手たちにとっての意義深い交流ではないか。

そんな選手たちの気持ちを考えると、やはりこの都知事発言はまたもや失言と言わざるを得ない。

世界一になったことは確かに素晴らしいが、その戦い振りがスポーツの持つ爽やかさと解放感と勇気を多くの人々にもたらしたことを賞賛したい。

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