ラベル 牧師 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 牧師 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年4月4日火曜日

(5)ひょんなことから繋がった

いつもよりさらに雑文の類になるがあしからず。

今朝たまたまYahooのニュースを見ていて眼に入ったのがこのニュースだった。

Guam Catholic Church sees a "perfect storm" of controversy

実は目に留まったのは「パーフェクト・ストーム」という表現だった。(カトリック教会内の問題ではなかった。 )

というのも、この4月から「N.T.ライトFB読書会」では『シンプリー・ジーザス』を読み始めたのだが、その3章に「パーフェクト・ストーム」と題が付けられているのだ。

それで、こちらのYahooニュースの場合はどのようにこの比喩表現を使っているのだろう、と興味が湧いたのだ。

読み進めるとすぐ、the Neocatechumenal Way lay group(以後 The Wayなどと略称が用いられている)、というのが出てくる。

はて、初耳なのかなー、と調べずにそのまま読み進めたが、このグループ/運動が世界大でカトリック教会内に様々亀裂や混乱をおこしているらしいことが感じ取れた。

では日本ではこの動きはどのように紹介されているのだろう・・・と先ずは「Neocatechumenal Way」の訳語を探してみた。

定訳なのかどうかは分からないが、「新求道期間の道=新求道共同体」、が求める訳語らしかった。


検索して幾つか記事を読んでみたが、その中で「カトリック高松教区の問題」がどうやら様々な記事の震源地らしいことが分かった。

問題が起こった期間司教であった「深堀司教」から、問題解決のため後任となった「溝部司教」への経緯を次ぎの二つの記事(説教スピーチ?)からうかがい知った。
・『お別れの言葉

・『溝部脩司教様基調講話

特に溝部司教のまるで「プロフェッショナル 仕事の流儀」ばりの「ミッションを遂行する」明晰さに感じ入った。

へーこんな人がいたんだ。もっと早く知っていればなー・・・と思って今度は「溝部司教」をターゲットに検索して行くと色々面白いことが分かった。

溝部司教は最後に京都で「望洋庵」という施設を作り、特に青年たちを指導した、ということ。

その間「京都新聞」の『ソフィア』というコラムに何本か短いエッセイを寄せていること。

もう一度行きたい土地(2012年12月23日)
「共同体」に燃えた青春(2013年9月1日)
出会いは偶然か、必然か(2013年12月20日)

面白い出会いがあった日であった・・・。

2017年1月8日日曜日

(3)とりあえず一言

(1)この記事を書くに至ったいきさつ

 お友達のMH氏が新教出版社の月刊誌『福音と世界』(2017年1月号)に「万人祭司」に関して自己の教派的伝統からの小論(『万人祭司とキリスト集会派』)を書き、その号をご恵贈くださった。

 筆者とは別に贈呈を受けたK牧師がフェイスブック上で感想を披露なさった。

 その時点で筆者は小論を一読していたが、まだお礼のようなものは私的にも公的にも書いていなかった。

 まだ何かを書く気には至っていなかったが、お礼も言っていなかったので、K牧師の感想にかぶせる形でちょちょっと(フェイスブック上で)書いた。

 そうしたらMH氏がブログで自身の小論にコメント等を寄せた方々の文章からトピックを取り上げて3本の記事にしてアップした。

 その3番目の記事「『福音と世界』小論の著者としてのちょっとした応答 3」が

 「タカ牧師からの問題提起」

となっていて、ちょっと面食らったが、最近ブログ上での対論や討論はとんとなかったのでピンボケになるかもしれないとも思ったが、少し「反応」してみようと思った次第。


(2) プロテスタント諸教派の比較・・・メリット、デメリットで論ずることについて

 MH氏の記事は筆者のコメントを全部掲載した模様だが・・・

    (1)メリット、デメリットを判定している基準は何か。
    (2)分裂・分離した後「キリストの教会の一体性」をどうするのか。

    あるブログで「信仰進化」というカテゴリーで記事を書き出したのですが、MH氏もこのカテゴリーで書ける「動く標本」(失礼!)のような印象です。

と、このような書き出しで始まる文章を書いたわけでした。

しかし、最初の(1)の「メリット、デメリット」に関してはK牧師の以下のコメントを受けてのことでした。
    有給聖職者を置かないキリスト集会派ゆえのメリットもあるし、とは言え、専門教育を受けた者がいないゆえのデメリットもあるなぁと。多くのプロテスタント教会における牧師と信徒という関係ゆえのプラスもあるけれど、専門家に任せておけばいいという甘えや専門家ゆえの権威主義といったマイナス面も起きかねないことも感じます。

K牧師のこのコメントは、MH氏の小論(福音と世界1月号)のテーマである「万人祭司」についてと言うよりも、教会が(有給で)牧師を置くことのメリット、デメリットで、教会形成の実際問題として考え方、みたいな意見ではないかと思う。

それに対して筆者のコメントでの「メリット、デメリット」云々の意図は、広く「教会論の問題」が念頭にあってのことだったように思う。

宗教改革(と、その後も含め)の教会論は、第6回日本伝道会議の「N.T.ライトの義認論」でも問題提起をしたが、最近増々その感を強くしているところである。

   ※以下のような部分の指摘がそうです。
それは、従来の福音派においては、「救済」においても「敬虔」においても個人的で主観的な視点が強いため、「福音」を正しく伝承し保守するために不可欠な「聖礼典」「職制」、いわゆる「教会の外的しるし」を中心とする伝統的「教会論」がかなり弱体化していることです。
 伝道が実を結ぶためには、「福音」の明証性ともに、福音の伝承を媒介する制度的教会に対する正しい見識が必要ではないでしょうか。


(3)「真の教会のしるし」

 神学校時代に覚えた「(真の)教会のしるし」、
(1)神の言葉を正しく説教する、
(2) 聖餐を正しく執行する、
が思いがけなく「義認論」で浮上してきたのだが(それについての経緯はここでは書かない)、聖職者制(職制と普通呼んでいるが)のメリット、デメリットが云々される文脈だと、突き詰めれば、この「真の教会のしるし」の議論に繋がっていく必要があるのではないかと思った次第。

この辺のことはまだまだ考察中で上手くまとめきれていないのだが、職制の考え方として「教職と信徒」の関係の問題というよりも、「使徒職」からの繋がりが先ずあるのではないかと思う。

聖霊の賜物としての「教える」ことが、ある意味「万人祭司」の考え方を支持する新約聖書的基盤であるが、そのラインでの問題ではなくもっと「神の言葉=福音の真理の(伝承と)弁証」に関わるのが(使徒)職制の意義ではないかと思う(Ⅰコリント15章)。

そのラインと並行すると思えるのが「聖餐」 である。

聖餐も、聖職者階級が独占していた「救いの恵みの配給」を万人祭司によって打ち破る・・・みたいな意義ではなく、福音の「見える言葉」としての聖餐を保守する役割としてのものであり、これも使徒職に遡る(Ⅰコリント11章)と言う認識である。

つまり、(1)神の言葉を正しく説教する、(2) 聖餐を正しく執行する、がなぜ職制と関わり、なぜ万人祭司的なオープンな考え方でやることに(少なくとも現時点で)なじまないかは、「福音」ということの「伝承」的側面から出てくる要請ではないかと思う。

新約聖書に遡ると第1コリント15章冒頭にあるように、「福音は厳密な伝承」を要請するプロセスであった。同じく聖餐も(福音を表すゆえ)同レペルの「伝承」のもとに執行された(と考えられる)ゆえ、「制度」として客観性がまがりなりにも保持され今日に至っているのではないかと思う次第。

職制と言うのは、「福音」の伝承が真正であることを管理し、客観的に保証する必要に伴う「必須の制度的枠組み」であることが大事な認識ではないかと思う。

この目的に沿った人的選択と訓練が重要視すべき問題となるのではないか。


以上試論的な域を出ないが「とりあえず一言」。

2016年11月16日水曜日

(1)去るブロガーに、オクることば

「去るブロガー」とは、主に神学ブログ 4で紹介したのらくら者の日記だ。

「・・・開始からおよそ8年という短い歳月でしたが・・・」とあるが、当ブログより2年先輩なだけでなく、「英国神学事情通」として貴重な記事を書いてきただけに残念だ。

新しい任地に着いて環境が整ったらまた何か別の形ででもいいので「発信」を再開していただけるとありがたいのだが・・・。

「のらくら者の日記」を通して様々な英語圏キリスト者・牧師・神学者・文化人等を教えて頂いたが、その中で思いつくまま挙げてみると・・・


 (1) ジョン・レノックス
 (2) ドナルド・カーソン
 (3) ロイド・ジョンズ
 (4) ジョン・ストット


などが思い当たりますが、もちろんもっともっとたくさんいるのですが・・・。

ただ、忘れたくない方が一人いるのですが、その方は日本人です。
 (5) 有賀寿
です。


のらくら者さんは有賀の著書『カゴの鳥と見るな』を福音派の禁書?というタイトルの記事で紹介しているのですが、筆者は残念ながらこの本を持っていません。


しかし紹介されている「見開きにある文章・・・」の中にある
・・・極めて多数の人は、いかさまな救いをつかまされたといえます。それでいて福音派のクリスチャンは、聖書がどう伝道を教えているか、主イエスがどう福音を語られたかについて、改めて学ぶ必要はほとんどないと思っています。非常にたくさんのクリスチャンたちは、伝道者・牧師・宣教師・外人講師の話をただ鵜呑にし、それが聖書の教えと一致するかどうかを調べようとはしません。そうする必要も認めません。 なぜか。それは彼らが「カゴの鳥」とされているからです。
という警鐘のコトバが依然として「効いている」ように思います。

この課題にもっと集中的に取り掛かかることが必要に思います。

さて、最後になりましたが、「オクることば」ですね。

カム バック! (多少遊ぶとこんな感じ

2015年12月6日日曜日

(4)牧師は神学者か 3

シリーズ3回目となります。

牧師について日頃いろいろ考えていることに触れてくる記事があったので、その記事を紹介しながら何本かまとめていこうと思う。
1では、ヴァンフーザーの『牧師は公衆神学者』テーゼを紹介しました。(正)
2では、アンドリュー・ウィルソンの「両立は困難」という主張を紹介しました。(反)
(3)では、ディヴィッド・フィッチの「機能的神学者」論を紹介します。(合)

ディヴィッドのこの議論への入り方は、(2)に対する反論であるとともに、(1)の修正版ということになると思います。

 ※前置きとして、現在の博士号保持者の就職状況が非常に厳しいことを指摘しています。

将来牧師となる人がやるべきドクター・レベルの研究は教会のミニストリー(わざ)と機能的に繋がっているものであるべきだ、と主張します。
(「機能的」神学者は、イタリアのマルクス主義者アントニオ・グラムシのコンセプトから借用しているものです。)

ここには「神学」的反省作業(リフレクション)がミニストリーの「現場」から離れてはいけない、むしろ「現場」に繋がって生起する反省がそのままミニストリーにフィードバックされる、という循環効果が見られているようです。


ディヴィドは(ジーザス・クリード・ブログの、そして『福音の再発見』著者の)スコット・マクナイトともにノーザン神学校で教えているのですが、このたび新しく「ドクター・オブ・ミニストリー」を開設するに際し、その理念や目的をまとめているのですが、言っちゃ悪いですが、このプログラムの宣伝に記事を書いてる面がありますね。

同時に、マクナイトだけでなく、カルヴィン系以外(ウェスレアン、非カルヴィン系バプテスト、アナバプテスト、など)の神学的指導者のコーリションであるMissio Allianceの問題意識や戦略を反映しているようです。

それは、大雑把に言ってきたアメリカはクリステンダムを脱したことを自覚して、宣教のヴィジョン再構成すべきだ、という主張です。

この認識に従って牧師のミニストリーへの準備や訓練に相応しい再構成、さらに「牧師神学者」として機能するための学際的アプローチや発信環境整備に言及しています。

なかなか刺激的アイデアが盛られていますが、まだ十分練られているとはなってないのでは、感じますが・・・。

しかし、この論考は非キリスト教国で、ポストモダン情況を迎えている日本の「神学的文脈化」を考える上で参考点が多いと思われます。

関心ある方は是非お読みください。


2015年11月19日木曜日

(4)牧師は神学者か 2

シリーズ2回目となります。
牧師について日頃いろいろ考えていることに触れてくる記事があったので、その記事を紹介しながら何本かまとめていこうと思う。
と(1)で書き始めました。まあ普段から「牧師」とはなんぞや、みたいなことはいろいろ考えてはいるのですが、大体堂々巡りな感じもしないでもない。

さて筆者の堂々巡りの思索は後回しにして主題に入ろう。ヴァンフーザーの『牧師は公衆神学者』テーゼはかの本では十箇条だったらしいが、その後50以上に増殖しているらしい。

その動きを受けてか、現在新約聖書学で博士課程のさなかにいる(このブログでも何度か登場した)アンドリュー・ウィルソンがクリスチャニティー誌上で反論を展開している。
But how feasible is it to be both a scholar and a pastor? 
と、牧師と学問の両立はかなり厳しい、と懐疑的です。


数年前『義認』についてそれぞれ本を著して討論した、ジョン・パイパー牧師と(当時)N.T.ライト主教という当代最も有名な「学者兼牧師」の例を挙げて、片や学術的発表の欠如、片や勝手口の牧会経験の欠如を指摘して、いかに両立が難しいかを主張しています。

不可能というわけではないが、牧師と研究家と二つの召命に応答することは時間的にいって無理ではないかと思っていた、ウィルソン氏。

が、ライト主教のように時間的制限はあってもあれだけ次から次と本を出し、さらに世界中講演旅行するような例があるからには、時間の問題は置いておいて、何が「両立困難」にしているのかを考究して、次の三つの理由にたどりついた。

(1)「専門化」と「一般職化」の間での葛藤
 もちろん研究者が専門化にさらされるわけであり、牧師は一般人のニーズに応えるためあらゆる話題について行かなければならない故狭い領域の専門家にとどまっていられない、というテンションがある。

(2)「実際(問題)」と「理論」の間でのテンション
 2年前、英国新約聖書学会で、ライトとゴーマンそしてバークレーが『パウロ書簡における平和』について大変興味深い討論を行った。しかし中近東での平和樹立という具体的問題が問われたとき、一転静寂が訪れた。とウィルソン氏は述懐する。

(3)(研究機関である)「大学」と「教会」の間でのテンション
 それぞれの環境において、「何をどう発言するか」の意味合いが異なってくる問題。 (片や知的主題・問題についての議論が主体であるのに対して、片や指導や・励ましや・様々な日常的会話のニュアンスを伴い、知的側面はしばしば二義的に過ぎない場合がある、というような問題。)

これらの理由を挙げながら、しかしウィルソン氏は「両立の問題」は解決するのではなく、テンションの中でなんとか「やりくりする(マネージ)」のだという。


この段階ではまだコメントは控えておくが、牧師といっても人それぞれ、得意や不得意など様々ある。

特に「牧師と神学者」のテンションとは繋がらないが、どちらかと言うと「説教が好きで」というタイプの牧師は、説教準備の勉強に結構平気で時間をかけられるのではないか。

でも逆に筆者の周りには「机に向かってお勉強」みたいなのが苦手な方が結構多い感じなのである。とても「神学者」云々のレベルには達していない、とみている。

しかし、そのことについては連載の後の方で。

2015年11月11日水曜日

(4)牧師は神学者か 1

牧師について日頃いろいろ考えていることに触れてくる記事があったので、その記事を紹介しながら何本かまとめていこうと思う。

先ず手っ取り早く見取り図を示すために、ツイートにしたものを掲げる。
もちろん「正・反・合」にまとめたのは筆者であるが、必ずしもこじつけではないだろう。

さて最初に「牧師は『公の神学者』である」ことを提唱している(らしい)、ケヴィン・ヴァンフーザー氏の著書を紹介しておこう(といっても買っても、読んでもいないのだが)。 

The Pastor as Public Theologian: Reclaiming a Lost Vision




(1) Many pastors today see themselves primarily as counselors, leaders, and motivators.
(2) Yet this often comes at the expense of the fundamental reality of the pastorate as a theological office. The most important role is to be a theologian mediating God to the people.
(3) The church needs pastors who can contextualize the Word of God to help their congregations think theologically about all aspects of their lives, such as work, end-of-life decisions, political involvement, and entertainment. 

本の趣旨が三点挙げられているが、時代的変化(恐らく100年とか200年のような長期間の中での変化と思われる)によって、いまや牧師職の主要な役割が、「カウンセリング」「(教会組織の)指導的立場」「(教会プログラムの)遂行役」から、本来の「神学者」の立場を回復すべきである、というもののようだ。

では「牧師の本来の役職は神学者」とはどういうことか。 しかも「公的な神学者」とは・・・。

この解説では「神(そして神の言葉である聖書)と会衆あいだに立って、会衆が自分たちの置かれている文脈で抱える問題・課題を聖書に基づいて神学的に考察するのを指導・補助する役割」とされている。

今後このシリーズを続けて行く中でポロポロと出して行くつもりだが、基本的にうなずける主張である。

しかし「待てよ」という面もある。

いきなり最初から「公的な神学者」というのは期待過剰ではないか、と。

そもそも日本の牧師たちを考えてみても、そもそも本を読んだり、思索したり、という時間がかなり限られているような話をよく聞くからだ。

だから、まず考えることは、少しでも「学究的な姿勢」を作る、ということだ。

まあ、ヴィジョンは最初から高くてもいい、とは言えなくも無いが・・・。

(次回に続く)

2015年6月12日金曜日

今日のツイート 2015/6/12

今日のツイート①

2年前、四国・高松を旅行した時は、この松田牧師の「うどん情報」ツイートを参考にしました。

実際その時は「うどんばか一代」で食事し、その後松田牧師にお会いしてお話しすることが出来ました。


今日のツイート②

当教会はこのような説教題を掲げる立派な看板を持っていませんが、もし持っている教会があれば“いろんな意味で”(波及も含めて)効果があるみたいですよ。

RT(リツイート)数をご覧ください。

2015年6月10日水曜日

(5)タカ牧師のセブン-3

これで3回目になります。

もう少し続けば慣れてくるかな。

では今回は日本語も3本です。

1. Adela Collins: Overcoming Obstacles to Shed Important Light on the Bible
  『アデラ・コリンズ:女性聖書学者、壁を乗り越え聖書学の前進に貢献』
  最近ではこのブログでも何度か取り上げたと思いますが、エイミー-ジル・レヴィン(ヴァンダービルト大)やベヴァリー・ガベンタ(ベイラー大)など性別に 関係なく尊敬されている学者が出てきています。いわばそのパイオニア的存在のアデラ・コリンズ教授(イェール大神学部引退教授)の紹介記事。

2. Interview: Elizabeth E. Shively
  『エリザベス・E・シブリー教授インタヴュー』
  Women Biblical Scholarsというサイトです。その名の通り、女性の聖書学者をフィーチャーしたサイトです。シブリー教授などは第3世代ということになるのでしょうね。

3. Why Sermons Often Bore
  『なぜ説教がつまらなくなってしまうのか』
  ニューヨークの有名牧師、ティム・ケラーの説教ワークショップに参加した方のレポートです。TGC(ザ・ゴスペル・コーリション)という改革派の人たち中心のグループなので、どっちかと言うと「頭でっかち」な説教してしまうのに対し、もっと「ココロ」に語りかけましょう、と言う方向をオススメしているようだ。

4. Best and Worst Graduate Degrees for Jobs in 2015
  『修士・博士学位別将来収入ベスト/ワースト2015年』(フォーチューン誌)
  学位獲得後の収入を学位別で調べた結果を報告している。収入が良いのは統計学やコンピューター関係。良くないのはばらばらだが、神学はワースト11位だって。これが日本だったら・・・。

5. 集団的自衛権はコスパが悪い
  今国会で論戦たけなわの話題に関する記事です。少し古いですが。元防衛官僚の目から見た政府案の疑問点を具体的に取り上げています。

6. 祝!国際アンデルセン賞受賞。担当編集者が語る上橋菜穂子(前編)
  読んでそのままの記事です。結構読み応えあります。たまたまフェイスブックでR大卒と知ってから読み始めたのですが、上橋さん、なかなか面白い人だと思います。

7. 後編
  一つズルした感じになりますが。ごめん。


以上です。

2014年6月13日金曜日

(3)雑想 2014/06/13

 最近は少し集中力を欠いてきたのでなかなか更新するまでに至らない。

 かと言って放置しておくのもなんだから、宗教と社会 小ロキアム@巣鴨で導入し始めた《ダイアリー》方式みたいなものをこちらでも。

 名称は《雑想》と言うことにしよう。実は既に《断想》と言うラベルも設定してあるのだが・・・。


 現在ツイッター、3アカウントで呟いている。

 左サイドバーでご覧頂いているように、@SugamoSeisen
それから個人的な関心領域(木工、宗教社会学、等)なことを呟くために始めたが現在は宗教と社会 小ロキアム@巣鴨関連に特化しつつある、@yamakoete 、そしてN.T.ライト読書会専門の、@NTWdokushokaiだ。 

 そう言う訳で、ツイッターから捕捉する情報がやや多いため、それらを適切に各関連ブログにフィードしたい時もあるのだが、最早なかなか記事にするまでの時間も集中力もない。

 現在でも人によって「ツイート→フェイスブック」や「ツイート→ブログ」で纏めているケースがままある。(しかし殆ど羅列で終わっているのもある。)

 《雑想》ではせめていくばくかの「文脈」を与えることでスレスレ「簡略記事」にしたいのだが・・・。


 では今朝の《雑想》トップ
 20世紀リベラル・プロテスタントの指導的牧師であった、Dr. Harry Emerson Fosdick (1878 - 1969)が1926年にリバーサイド教会に着任した。それから90年弱かかって初女性主任牧師が誕生したわけだ。※現在では「荘厳な結婚式が出来るウェディング教会」として日本人の間では知られているようだ。


次の《雑想》もニュー・ヨークで関連付け。

 リバーサイド教会のご近所にある、これまた由緒ある、リベラルなプロテスタントの牙城となってきたユニオン神学校でも、初(厳密には2番目)の女性学長となったセリーン・ジョーンズ氏が先ごろ重大発表をした。
 100億円超のエンドーメントと呼ばれる学校運営を支える全寄付金(詳しく説明するのは難しいがこの記事に少々言及あり)の内から、石油関連ものをなくして行く、と言うもののようだ。それによって進歩的神学校の道徳的リーダーシップを発揮する、と言う意思表示。

2014年6月8日日曜日

(3)牧師の適性

下書きが大分溜まってしまった。

少し書き足りないがストックを減らすために投稿してしまおう。

今日の記事はもう1年以上経っている。
が、別に発酵したわけではない。

  *    *    *

 時折、いやしばしば、「自分は牧師に向いているのか」と自問自答したことがある。
(最近は余りない。かと言って自信持ってやっているわけではないが。)

 牧師の適性と言う問題はあると思う。

 やはり人と人との関係構築に深く関与する仕事だから。

 「人柄」「性格」と言った面で向き不向きがあるとは思う。

 牧師と言う仕事に向けての最初の段階で、沢山の質問事項が用意された「性格診断」みたいなものに書き込んだ記憶がある。

 神学校入りたての時だった。

 これは別に「スクリーニング・テスト」というわけではない。
 将来牧師の仕事に就くため自分の性格を(多分に心理学的な見地からだが)掴んでおこう、と言う狙いであろう。

 自分のスコアシートと評価を受け取ったが、多分ほっと安心した位の結果だったと思う。

 その評価表は卒業してからも取っておいたはずだが(牧師になってから参照するためと考えたのかもしれない)、今は消失してしまってない。


 恐らく牧師に向いている人柄とは「柔和」で「謙遜」あたりを先ず考えるのではないかと思う。
 人によってはリーダーシップに必要な「明るさ」とか、「積極性」とか、「社交性」を考える人もいるかもしれない。

 またプロテスタント教会のように牧師の仕事として説教を重要視する人は「聡明さ」とか「思慮深さ」を考えるかもしれない。

 [、ここからは少しリサーチして書き足した。]

 さて、そう言うわけで、消失した結果表もなくあれこれ言うのも何だから、現在どのような「牧師適正診断」みたいなものがあるか検索してみた。英語での話しだが。

 CAS (Clergy Assessment Service)では「(心理学的にみた)牧師適正度psychological fitness)」 を以下のように定義している。
By psychological fitness, we are referring to the applicant’s potential for developing competencies needed for ministry, to become ready to begin the practice of ministry and to grow into an effective ministry professional.
とあるように、最初から「完成された」牧師像で判断するのではなく、あくまでも「牧師職」を始める段階での神学校での研鑽に相応しい『潜在能力』から始まり、神学校卒業後組織によって教会に任じられる段階での適正や、さらに一定期間を経て達成される牧師専門能力習熟度等が判定されるようだ。

 この文章、と言うかウェブサイトを見ていて思ったのだが、「専門化」が進むと、それに相応しい「適正規準」も細かくなっていくことになる。そうすると神学校の先生や教団の人事を扱う部署等がそれに対応しきれず、評価や判定を一部所謂「コンサルティング業」のような機関に外注することになるのだろうか、と言うこと。

 と言ってもそんな規模で牧師職を「専門家」集団と看做しているのは、限られた国ではなかろうか。少なくとも日本ではまだそこまで考えられてはいないだろう。 
 

2014年4月16日水曜日

(5)主に神学ブログ⑦

 こちらのシリーズも大分更新が停滞している。

 今回紹介するのは今最も旬な話題を取上げ、それを「サタイアー」を効かせた小説の形で表現し、しかも矛先を「キリスト教会の牧師養成問題」としてパロディー化すると言う、結構念の入った記事を発表し終ったところのブログである。

 伊那谷牧師の雑考は、日本同盟キリスト教団伊那聖書教会の大杉至牧師のブログ。

 大杉牧師とはツイッターで相互フォローしているが、自教会と教団の仕事でお忙しいのか、余りツイートにもお目にかからないし、ブログの方も(ちゃんと定期的に巡回しているわけではないが)それほど更新がなかったように記憶する。

 それなのに2014年4月、一挙にブレークしましたね。

 小説 冲方晴男(うぶかたはるお)牧師 1

 実は少し遅れて読ませていただいたのですが、改めて大杉牧師が「生命科学研究者」として仕事をしておられたことを再確認させられました。

 たまたまと言うわけではないですが、今回のオボカタ事件に関し人並み位の興味しかなかったのですが、伊那谷牧師の次の記事で眠っていたものを少し覚醒させて頂きました。

 問うべきこと

 筆者のアズベリー神学校時代の話、神学遍歴⑥、でも書いたように、「キリスト教倫理」のクラスで遺伝子操作技術(リコンビナントDNA)について小論文を書いたのですが、その後いわゆる「生命科学倫理(bioethics)」については休眠したままになっていました。

 今回の伊那谷牧師の記事で少し目が覚めた感があり、以下のようなコメントを書かせていただきました。
 多分初コメントとなると思いますが、一言。
 ご指摘の通り様々なレベルでの問題を内包していることはある程度分かります。(生命科学者や、牧師や、様々な立場で、この問題が孕む哲学的・神学的・倫理的含意を類推できる範囲は異なりますが。)
 一般に先端科学は倫理的問題(それが問題として構成されるにはそれなりの哲学的・神学的掘り下げが必要になりますが)を解決してから次に進むと言う手順を待ってはいられないと思います。
(その時々の大枠は作られますが、それは絶えずそのような実験が可能になったり、実施されたりしてから後になってしまいます。)
  やはり「科学者」と「哲学・神学・倫理学者」との不断の対話、情報交換、さらには受益者となる「パブリック」との間の橋渡しをする役割(の人たち、やはり 一種の専門家)が確立して行かないと、今回のような「周辺的な話題」が先行して報道され、問題の核心にまで立ち入らないまま問題が雲散霧消、と言うことに なる恐れは十分あるのだと思います。
現在の生命科学の技術についてはおよそ門外漢となっている筆者が下手なことを言うことは出来ない。今の段階では筆者は「パブリック」の一人、マスメディアに煽られる一人に過ぎないのである。

 しかし、今日理研の笹井会見が行われている時、イトケンさんのツイートではっとさせられた。

 このSTAP細胞技術が生命倫理問題にどの程度関わっているのか、上のコメントではただ漠然と感じていたものが、このツイートで「至近距離に来ているかも」との予感がしたわけである。

 筆者の印象ではメディアは実験過程や結果についての様々な疑惑については識者のコメントを求めているが、この細胞生成技術の生命倫理的側面については殆んど追跡していないように思い、早速

 stem cell research obokata ethical question
でググってみた。

 今のところ目ぼしいのはこれだけか・・・。
 Why Easy Stem Cells Raise Hard Ethical Questions

Yet these cells have a troubling potential. One of the surprising features of these cells, which Obokata has called “stimulus-triggered acquisition of pluripotency” cells, or STAP cells, is that they are not only able to develop into all embryonic tissue types—they can also contribute to the development of a placenta. Neither embryonic stem cells nor iPS cells can develop into placental tissue. In fact, this has often been seen as a defining difference between embryonic stem cells and actual embryos: embryonic stem cells cannot, on their own, develop into adult organisms the way an actual embryo can, in part because they cannot grow the extra-embryonic placental tissues needed for fetal development in the womb. If STAP cells can indeed support fetal development, clusters of these cells may actually be embryos. If so, the creation of these cells would be tantamount to human cloning.

But the wide range of developmental potential these cells have does not necessarily make them embryos. There’s an old motto in biology, attributed to the great seventeenth-century anatomist William Harvey: “omne vivum ex ovo,” or “all life from eggs.” In the animal kingdom, this doctrine still holds true; embryos are fertilized egg cells, and the egg cell provides a great deal of material necessary for the embryo’s early development. Just because an adult cell has been “reprogrammed” to a state of developmental immaturity that allows it to branch off into any of the different cell lineages, that does not mean that it will be able to undergo the highly coordinated development of an embryo on its own, or even together with other such reprogrammed cells.

We should still take the possibility seriously, however, that this new method of reprogramming might make embryos. Rumors are already circulating that scientists have attempted this in mice. According to a story in the New Scientist, one of the co-authors of the study, Charles Vacanti, said that he asked an unnamed collaborator to transfer a spherical cluster of STAP cells to a mouse. Vacanti reports that the cells began to develop as a fetus, but that halfway through the pregnancy, the fetus stopped developing normally. According to Vacanti, “There was some sort of glitch—which is probably a good thing due to the ethical issues that would occur if we were able to create a live clone.” But if it is true that these cells are able to develop as embryos, then the fact they develop defectively is not reassuring. Okotaba, for her part, said that her team was interested in regenerative medicine, not human cloning.
昨年5月、既にクローニング技術で人のES細胞形成が成功している(らしい)ことがネーチャー誌に報じられている。


 はてさて現在クローニング技術でES細胞などを作っている研究者たちは「冒険家(ヴァカンテイー)」な面を持っているかも・・・だったり、「先生には内緒でクローンマウスをつくってい」た、理研の若山研究員の話を聞くと、倫理的な資質に???が感じられ、少し恐いシナリオもあり得るのかな、と思ってしまうのであった。

 とにかくキャッチアップ(する気があるかは分からないのだが)が大変そうだ。

2014年4月15日火曜日

(5)北米神学校事情2014

 昨今は日本の神学校では入学者数が減り続けているように聞く。

 一つは神学校の入学条件に「洗礼」や、(よくは知らないが)「献身している」とかがあるためか、と思う。

 しかしキリスト教主義系大学を除けば、世俗の大学で「キリスト教神学」や神学緒科を学べる場所はそうないだろうから、将来牧師や伝道師などの専門職に入らない人(例えば一般信徒や関心の高い人)も学べるような環境に変えて行く事を少しは考えてみても良いのではないか、と思ったりする。

 このクリスチャニティー・トゥデー誌記事によると、今や牧師などの専門職につく人のための学位プログラムである「マスター・オブ・ディヴィニティー(M.Div.)」取得者で、実際にそのような職につく人の数はどんどん減って全体の4割程度となっていると言う。

 筆者が取得した頃はほぼ9割がたは「ミニストリー」に入っていたと言うわけだから、神学校を取り巻く環境は大きく変わったのだろう。

 さて(カナダを含めた)北米神学校事情を知るためには、神学校の認証制度を知らなければならない。

 日本では数年前、某福音派神学校が大学院設置を巡って一苦労したことがあったが、学位がどのように認められるかに関し、日本ではキリスト教主義大学(同志社、関西学院、など)のように文科省経由と、北米のように独自で認可機関を作ってやる場合と、二通りあることになる。

 問題は後者の場合、認可機関に所属する神学校の数が少なく、神学校自体も弱体な場合、そもそも何をどう認可するかの枠組み作りと審査プロセスをそれほど念入りにはできない面がある。

 専任教員数や施設、図書館、蔵書数、学位数、履修過程、などなど相互に厳しい基準を出すだけの体力はないであろう。仮に作ったとしても、どれだけ厳しい審査を課すことができるだろうか。

 多分そんな背景もあって、特に博士課程まで考えた場合、どうしても文科省経由の認定機関による承認を求めることとなったのであろう。

 北米の話に戻るが、殆んどの神学校(大学に属する神学部も含む)が所属するのが、The Association of Theological Schoolsだ。

 現在270校所属している、とあるがそれだけの数の機関であればこそ認可プロセスにもそれなりのコストをかけられるわけだろう。そして一定の基準を保持することが認可の意義だから、審査のための訪問がある時は何かしら緊張が走った記憶がある。

 このATSが毎年統計を出しているが、この年度別統計データが半端ない。
 筆者はアズベリー神学校卒だが、当時から(30年以上も前)福音派神学校は学生数を毎年伸ばし、数を競っていた雰囲気があった。

 当時も今もフルタイムの学生数順位はほぼ変わっていない。南部バプテストの巨大校を除けば、フラー、トリニティー、ダラス、ゴードン・コーンウェル、の後にアズベリーが来ていた。一応10位以内だ。

 しかし今や事情は大分変わった。ゴードン・コーンウェルは結構頑張っているが、トリニティーやダラスは後退している様だ。

 もっと大変なのは南部バプテストの巨大神学校だ。いちいち名前を挙げないが、6校あるうち絶えず上位を競っていた神学校がかなり生徒数を落としてきている。

 その中でも最近の傾向として現れているのは、「急進カルヴィン主義」に変革しようとしているSouthern Baptist Theological Seminary や、Southeastern Baptist Theological Seminaryの方が、カルヴィン主義を取らない他の南部バプテスト神学校と比較して減少数が多い、と言うことだ。(この記事

 さて細かいことは省略し、少し大きな「神学校事情」を取上げると、一つは主流派の神学校の統廃合問題がある。そしてこれがなかなか上手く行っていないようだ。

 お金のかかる神学校教育を経ても、着任する教会がどんどん小さくなっていることは、神学校に行こうとする志気を鈍らせる。しかし教会同士が統廃合し、新任牧師をより厚遇できる態勢を取ればいいと言っても、教派間の壁はそうそう越えられるものではない。(その辺の事情はこの記事や、特にこの記事

 まだ記憶に新しいリーマンショックは退職年金などの資金からの運用益(書いた後で余りよく分かっていないことに気づいたが、個人の寄付金だけでなく慈善団体系財団法人からの大口献金に依存しているが、その基金が株・証券の運用益で作られているようだ・・・辺りのことを言おうとしたものです)で支援を受けてきた神学校運営を危機に陥れたわけだが、今ここに来てようやく回復してきているところらしい。
 しかしその間は教員数を減らしたりリストラをせざるを得なかったわけだ。

 メインラインに限らず福音派教会の教勢も今後減退する方向と見られるから、拡大拡張路線を取ってきた福音派神学校は、今後入学者数が減少して行くと、経営的にまた苦しい場面も出てくるだろう。

 そんな中での面白いことは、ATS加盟校数は減少に転じないで、増えているという点である。

 その要因は何かと言うと、①韓国系移民のキリスト者人口が多いことによる牧師教育の必要、新学校の創設、と言う動きや、②司祭数が頭打ちなカトリック教会で信徒の神学校教育が拡大に繋がっている、と言う点だ。

 色々な光と影があるものだ。

2014年4月13日日曜日

もしお呼びいただければ・・・

説教奉仕/講師にお呼びください、と言うことですね、一応。

 私(小嶋崇)が牧師として仕えている、巣鴨聖泉キリスト教会は年2-3回礼拝を休みます(汗)。
 驚かれるかも知れませんが、日曜以外の集会(元旦礼拝、イブ礼拝、など)との兼ね合いで無理のないよう配慮した結果です。

 さて牧師である私はこれらの日曜を他教会での礼拝参加に用いるようにしました。(例えば昨年末と今年頭、教会巡り
 礼拝式のかなり異なる教会の礼拝に参加することも良い学習だと思っています。(学習は二次的なもので、礼拝に行ったわけですが。)

 今年はただ礼拝に参加するのではなく、説教の奉仕に呼んでもらえたら行きたいな、などと考えています。

 ①2014年8月10日(日)
 ②2014年12月28日(日)


の2回が当方の礼拝休みの日曜です。

 これをお読みの方で、これらの2回の日曜に礼拝説教、あるいは「聖書の学び」講師、に私を招いてくださる教会があれば、どうぞお問合せください。(2回とも同一教会、と言う意味ではありません。

《説教奉仕》
 礼拝説教は基本謝礼は必要ありません。(交通費などの経費は支給してくださると助かります。)
 
《「聖書の学び」講師》 
 以下の三つの本の主題やトピックからお話できます。
 ①ポール・マーシャル「わが故郷天にあらず
 ②スコット・マクナイト「福音の再発見
 ③リチャード・ボウカム「イエス入門
・時間としては1時間枠、私が話す時間は35-40分、残りが質疑応答です。(90分枠に延長もできます。)
 ・講師謝礼として「3000円/時間」を目安としていただければ幸いです。
 ・上記の本、①②③、の「販売コーナー」を用意して頂けると感謝です。
  当然ながらいずれもお勧めの本です。
  本の趣旨を理解して頂くことも「講師として呼ぶ」かどうかの有力な判断材料となることと思います。 

《限定事項》
 ・私が行ける教会(集会)は、JR(山手線)巣鴨駅を起点に、公共交通機関を用いて1時間程度で行ける範囲として頂ければありがたいです。
 ・2主日とも「繁忙期」なため、時間的にゆとりを持って行ける範囲となりますことをご了承願います。
 ・言うまでもなく、「日帰りできる」教会と言うことになります。

《問合せ》
 ・なるべくメールでお願いします。
  小嶋崇、sugamo_seisen(*)yahoo.co.jp
     (*)の部分をアットマークに変えてください。 
 ・①②のいずれも当日から数えて一ヶ月前までに「依頼・双方の要望確認・受諾」が終了するようお願いします。

以上色々条件をつけて申し訳ありません。
よろしくお願いします。

2014年3月30日日曜日

(1)ひと区切り

北米留学が終わって帰国した翌年、1990年から非常勤で働いてきた「YMCA」をこの3月でついに卒業することになる。

振り返ると四半世紀に及ぶわけだ。

その間には1995年があり、9.11があり、3.11があった
教会外の方たちとこの出来事の意味をシェアすることが出来たことはよい副産物だった。

これからはまた一旦整理して、教会隣にある工房を足がかりにして「地域社会」との接点を探っていくことになるだろう。

また今年は60になる。

もう逆算して人生設計する時期だ。

キリスト教会の一牧師として何が自分の務めなのだろうか。
大きく言えば二つになる。

礼拝宣教だ。

大事なのはこの順序で、と言うことだ。
主イエス・キリストと、主イエスの父なる神と、聖霊なる神への礼拝が第一だ。

宣教は礼拝の延長と言える。
いやメシア・イエスを主として礼拝する行為そのものが、世界に対して「この方こそ世界の主である」と宣言しているのだ。

もちろん礼拝は信者にとって慰めの場、励ましの場、学びの場ともなるのだが。

この時代、この場所で、どのように宣教を展開してばいいのだろうか。
現代的宣教の文脈について考えている。

大きい文脈では「宣教」と言うことになるのだが、今目論んでいるのは一見「伝道」とは見えない「学習会」と言うインターフェイスだ。

自分の役割は

この「学習会」が教会に「囲い込むための網」としてではなく、

今社会の中で起こりつつある」動きと向き合った
「共同学習の場」となるようファシリテートして(世話役となって)
間接的に、あるいは媒介的に、
キリストの教会が託されている「キリスト資源」を、
提供(サーブ)することにある、
と見ている。

その際ファシリテーターとして自分が提供できる引き出しは何かと考えると、

①宗教社会学
②社会倫理
③英語

ではないかと思っている。
(比重は上からの順、但し①と②はほぼ同じ。専門性から言うと①の方がやや高いか・・・。)



教会としてキリスト教として前面に出せるもの(より宣教的文脈と外からも分かるもの)は、「○○○○キリスト教」みたいな断片的、教養的情報提供ではなく、「ナザレのイエス」を紹介することだろうと思う。

幸い2013年9月から今年3月にかけて、12回シリーズで行ったリチャード・ボウカム「イエス入門」読書会は、4名のキリスト者ではない方々をメンバーとして有益な学びが出来たと思っている。

(まもなくそのレポートを掲載する予定。)

今後も需要があれば、この読書会はまたやりたい。


それにプラスして、より一般向けの「学習会」の題材となるのは・・・。

構想は出来つつあるが、それはまたの機会に。


2013年10月6日日曜日

32年ぶりの再会

少し時間が経ってしまったがまあいいか。

先日アズベリー神学校時代の友人が某国から訪ねて来た。
実に筆者が卒業してからだから、32年ぶりの再会だ。

彼とは年齢は1歳しか違わない。
しかし再会した時の彼の驚きは大きかった。
筆者が32年間でその風貌が大きく変わったのだった。
(細かいことは言わない。知ってる人は良く分かっていること。)






彼の方は髪の量は変わらず、白髪にもなっていない。
筆者と比べて外見も中身も若々しい。(かなり「負けた」感。)

2年遅れてアズベリー神学校にやって来た彼は、その年やって来た外国人留学生10人くらいの一人だった。
筆者はその年最終学年生で、留学生のための組織『コスモポリタン・クラブ』のプレジデントだった。
別に人徳とかリーダーシップがあってなったわけではなく、単にその年の留学生3人のうち独身は筆者一人で、コスモポリタン・クラブに良くお世話になっていただけのことである。

彼が入学する年までと言えば、留学生はせいぜい2~3人新しく入ってくる程度であったから、コスモポリタン・クラブの活動と言っても、非常にこじんまりとしたものだった。

それが彼が入ってきた年は一挙に10人越え・・・コスモポリタン・クラブのプレジデントとしては大きなチャレンジであった。

アジア、アフリカ、中南米からやって来る彼らができるだけスムースに学生生活を過ごせるように「ウェルカム・パーティー」を兼ねたちょっとした「オリエンテーション・プログラム」まで企画したものだった。

筆者はアズベリー神学校卒業後しばらく(かなり長く)遊学したのだが、彼の方は国に戻り、今では某教団最大会員数の教会の主任牧師となっている。

その彼が筆者に会いに来るというだけでなく、他の一行(家族・親族)5人も含めて「教会見学」にやってきたわけだから面白い話である。





彼はアズベリー神学校時代の学友たちの写真を端末に納めていて、見せてくれたが、彼らの当時の記憶やその後の消息なども筆者などよりはるかに細かく覚えていて驚いた。

僅か1時間ほどの滞在だったが旧交を温めることができ嬉しかった。

2013年9月9日月曜日

(3)南部バプテスト連盟

これはたまたまの記事です。

まっそれ自体は大したことない、などと言うとバプテスト連盟の方から顰蹙を買ってしまうので、説明しますと、

「大したことない」のはこれから紹介することではなく、筆者が単に英語圏ブログを巡回してて見つけた記事、と言う点が「大したことない」と言う意味です。
記事の中身が「大したことない」のではなく、筆者がたまたま見つけたこと自体が「大したことない」と言うだけです。

なんかかなりくどい説明から入って申し訳ありません。

北米のプロテスタント教団で最大のものは、the Southern Baptist Conventionです。

その理事長に初めてアフリカ系アメリカ人がなった、と言うのが昨年の大会でのニュースですが、そのフレッド・ルーター・ジュニア牧師は2013年の大会で再選され、それが筆者が巡回する「英語圏ブログ」の一つであるトレヴィン・ワックスのキングダム・ピープル・ブログで紹介されていました。(この記事

実はなぜ記事にしたのかと言うと、次の表現に引っかかったからです。
His ascendancy to the presidency in the SBC grew from decades of service within the denomination.
この後文章は、フレッド・ルーター・ジュニア牧師どのようにして理事長にまで選ばれるかその経緯を説明しています。

気になったのは、ascendancyと言う語です。
訳せば「(理事長職に)登り詰めた」とでもなるのでしょうが、教会と言う「組織のトップになる」と表現することはそれほど不自然ではないのかもしれませんが、「アフリカ系アメリカ人初」と言うことも合わせて「強調」されているように感じます。

たまたま昨日の午後、近くの巣鴨ときわ教会(日基)で「荒井献講演会」があり、話を聞いてきたのですが、その中で「下に上る」と言う話をしていました。

詳細は忘れてしまったのですが、ピリピ2章6-11節のような「ケノーシス」 的理解で行動することを言っていたのだと思います。
そのような行動を取ることを「下に上る」と表現したのだと思います。

別にトレヴィン・ワックスが「権威主義的な人」とか言う話ではありません。
ただ彼が、フレッド・ルーター・ジュニア牧師が南部バプテスト連盟理事長に「なる」ことを、ascendancyと表現したことに筆者が違和感を感じただけ、と言うほどの「大したことない」話なのでした。

※ 南部バプテスト連盟に所属する日本人の牧師でしょうか、2012年の大会でのこの「歴史的出来事」を簡潔に報告しているブログ記事です。

2013年5月21日火曜日

説教者はイケメンがよろしい?

筆者が唯一所属している学会が日本福音主義神学会だ。

最近は研究会をサボっている。
学会誌も真面目に読んでいない。

最新号(第43号、2012年12月)のテーマは「説教」だ。
幾らか興味はあったが「積読」状態が続いていた。

前にどこかで仏教との関わりについて読んだことがある、大和昌平氏(東京基督教大学)の論文がこの号に収録されているので、ようやくそれを取っ掛かりに読んでみた。

大和昌平『日本の説教文化とキリスト教の説教』

 大和氏は、そもそも説教とは仏教に由来する語であり、伝統であることを確認するところから論を始める。

 そう言えば最近ではフェイスブックの方で神学談義を交わすことが多い「のらくら者の日記」さんも読書で取り上げている
  『笑う親鸞 楽しい念仏、歌う説教』
  (伊東 乾(けん)著  河出書房新社 2,200円+税)

を筆者も最近たまたま読んで、なかなか面白い印象を持った。
 講談や落語などの大衆芸能が仏教の説教を由来ととしていることなどはこの本で「そーか」と思ったものである。

 この論文を読んでいてふむふむニヤリとした部分は例えばこんな箇所。
平安時代の王朝貴族の間で学僧による説教の法会は社交場でもあった。美形・美声の説教師がもてはやされ、高座における説教批評も行われていたという。教養ある王朝貴族の間で説教の聴聞は娯楽的要素を多分に持っていたのである。日本の説教に影響を与えた中国仏教においては、「声(しょう)・弁・才・博」のある説教が求められた(『高僧伝』巻十三)。すなわち、声がよく、弁舌に優れ、機知に富んだ、博識の説教者をよしとしたのであり、これはオーソドックスな説教の評価基準だと言えよう。これに対して、平安の宮廷では、「一声、二節、三男」と言われた。つまり、説教師は美声で、節回しよろしく、美男であることが求められたのであり、より世俗的な説教の展開が日本では見られたのである。
その例として大和氏は、清少納言が枕草子でなぜ説教師が美男・美声がいいか、それは「見惚れて聞き入り、仏の教えをより感得できるから」と引用して説明している。
(しかしこのような傾向が日本の説教文化にあることを大和氏は「大衆の人気を博することに走る逸脱の可能性」のあることとして警告している。)

 まっここにメモしたことは大和氏の本論と言うよりは、筆者が面白がった部分、と言うことなので誤解なきよう。

 とにかく大和氏は「説教の何たるか」を講ずるのに、日本の仏教の説教文化が一役買うのではないか、と問うている。

2012年9月6日木曜日

リトリート

所属する日本聖泉キリスト教会連合の「教役者リトリート」に出かけてきた。

場所は那須高原、9月3日~5日の二泊三日。
コンセプトは霊修的な要素の少ないリトリート。
つまり《主にリラックスした時間を過ごす》のが目的の、しかし名前はリトリート。

小さな連合なので参加した人数は7名。
既に良く知っている間柄ではあるが、年数回「教役者会」で顔を合わす時は時間の都合で話すことのできない話題も、ゆったりとした時間の進行の中で「あれ、これ」と思い出したようにポツポツ話すことができるリトリートだった。

だから時間も内容も「ストラクチャー」のない中で、唯一二日目の午前中に「デボーション」と称して、集中的に各自が「牧師」として仕えている教会が直面している問題・課題、あるいは牧師自身の問題・課題などを分かち合う時を持った。

司会者が最初に自分の問題・課題を語ったが、その中で「壁」「後継者問題」と言う事が語られていたので、以降それらの二つをキーワードに各自の近況を分かち合った。
中には教会のミニストリーを新展開させる「積極的な」ものもあれば、停滞や牧師としての「パフォーマンス」や「召名」への疑問、などと言うどちらかと言うと「消極的な」ものまで様々。

筆者も牧師個人としても、教会としてもある種「停滞」の中にいることをお話した。

一巡して「まとめ」をしてくれとの司会者の要望で、みんなの忌憚ないお話を聞かせていただいた中から二つのキーワードがあるように思わせられたので、そのことを少々「お勧め」のような感じで語らせていただいた。

①牧師も教会の兄弟・姉妹の一人であること
牧師が信徒との関係で、色々期待をかけられたり、「パフォーマンス」のように説教や牧会指導を「演じている」様に感じ、孤立していったり、自己嫌悪に陥ったりすることがある。
その背景には牧師と言う仕事を過剰に「特別視する」ことがないだろうか、と言うことを指摘させていただいた。
基本的スタンスとして「兄弟・姉妹として同じ教会員の一人」であることを忘れないようにすることが大事ではないか、と指摘させていただいた。

②「私たちの教会」ではなく「キリストの教会」
通常自分が所属する教会は一(地域)教会であり、ついつい「自分たちの教会」として語られやすい。教会の現在や将来に対して「自分たちの思い」をついつい反映させてしまいやすい。
しかし私たちが属する一(地域)教会は、「私たちの教会」である前に「キリストの教会」であることを自覚しておくことが大事ではないか。
「自分たちの教会」の10年後、20年後の将来を展望して様々な思いや計画を描く時、それを超えた「キリストの来臨」の終末に焦点を合わせた将来設計、と言う視点も忘れてはならない。
教会を私物化することのないように。

と言ったようなことを指摘させていただいた。

初めての試みであったが参加者からは「良いリトリートだった」と言う感想を聞いている。
お互いを慰めあい、励ましあう機会となったのではないかと思う。

2012年4月17日火曜日

これで説教?

ご存知キリスト教関連の有名ブログ「命と性の日記」に、最近『某国ミサイル問題の共通項としての牧師説教問題?』(2012.04.15 Sunday)と言う記事が投稿されていた。

これは当方のブログネタになるな、と暫く考えていた。
テーマは「説教」である。

よく「牧師は孤立しやすい」と聞く。
その理由の一つは牧師が自分の説教に対して聴衆から適切な反応を聞く機会がないことがあると思う。
「恵まれました。」「教えられました。」類の(そんな意図はないにしても)外交辞令的なコメントでは実は聞き手にどの程度届いたのか分からない。

もちろん熟達した説教者は聴衆からの言葉の反応はなくとも、話している間の聴衆一人ひとりの顔の表情などから手応えを感じ取ることができるのかもしれない。(筆者もそんな説教者になってみたいと思うがまだまだです。)

さて水谷先生がその記事で指摘したのは、

①説教とは名ばかりで実質は・・・
信徒の方からの訴えによれば、・・・、説教という名目で、実質は証しや講話や世間話なのであります。・・・ある牧師は、御言葉の解き明かしとは別の内容の話を、「説教」と称して、ミサイルのごとく講壇から会衆に向けて発射しているそうです。
 ②聖書からの逸脱
発射台は聖書の言葉なのですが、その軌道は発射直後から、逸脱してしまうのです。聖書の言葉が意図することとは別のお話しが始まります。しかも、聖書のテキストに従った展開、構築、一貫性などがなく、某国のミサイルが10個の破片に分解したように、その説教は、いつくもの断片に分解。そして、その名目上の説教はミサイルのように発射後、1分程度で、会衆の心に届く前に海に沈没
 ③説教者の孤立化、制裁、交代

このような「名ばかりの説教」を批判・検証する暗黙の了解事項、と言うのが実はあると思うのです。
プロテスタントでは何と言っても「説教」が礼拝の中心にあります。
その理由はプロテスタントにとって聖三一の神を除いて最も高い権威は神のことばである聖書にある、と言う確信から来ています。
それ故「説教」は「聖書の解き明かし」が本筋とされる、と言うことだと思います。

これらの前提事項に立って当該牧師の説教が批評されている、と見るべきでしょう。

さて、第一点の問題は、説教で「証しや講話や世間話」は内容として不適切か、と言うことです。
説教の中身には聴衆に接近するため「身近な話題」や「時事問題」や「笑い」を交えることがよくあります。
しかしこれらの要素はイラストレーションとして本論を助ける補助的なものです。
どうやらこの信徒さんが訴えている牧師の説教は本論がないこと、しかも聖書の引用が説教を聖書的に見せるための体裁作りになってしまっていること、の問題のようです。

次に問題としたいのは、なぜこんな説教になってしまうのか、ということです。
一般論として言えば、こう言う説教をしてしまうのは、「年間説教計画」がなかったり、「年間聖書箇所(レクショナリー)」に従っていなかったり、つまり牧師が独自で毎回思いついたことを説教するようなパターンになってしまっているからではないかと推察します。
そしてこのパターンが案外多いのではないかと思います。
要するにネタが尽きてしまって苦し紛れにあの話やこの話を何とかくっつけ合わせて予定の説教時間を使い切ろうとしているからではないでしょうか。

筆者が考えるこのような説教者のための良い訓練は、講解説教をすることです。
そうすれば説教するテキストは毎回あっちこっち変えなくてもよく、説教の中身も大部分が与えられたテキストの解き明かしになるはずです。
何より説教者はテキストと格闘しなければならないので、余計な世間話など考えている暇がありません。

ただし、ここが講解説教者の熟練の問題ですが、よっぽど準備されたテキストの解き明かしでないと、聴衆は益を得られません。
またテキストと聴衆を接近させるために効果的なイラストレーションがまさに水を得た魚のように必要になってきます。(聴衆はやたらにくだくだとテキストの釈義的な説明を聞くだけでは飽きてしまいますから。)

以上、水谷先生の記事から考えた「説教の問題」でした。

2011年10月17日月曜日

牧師と副業

「ミニストリー」と言うキリスト教界の雑誌がある。
最近始まったもので筆者が閲覧している日本語圏のキリスト教・牧師のブログでも時々内容が取り上げられている。
なかなかの評判である。

筆者と言えば、いわゆるキリスト教界の新聞・雑誌類は何一つ購読していない。
ネットで手に入る情報で間に合っている感じである。

「ミニストリー」誌最新号の特集は「ボクシたちのリアルⅡ 現代牧師白書―生活編」だそうである。ちょっと面白そう。

対談では上田紀行氏と牧師でホームレス支援をやっているらしい奥田知志氏が何やら色んな牧師たちの面白い話をしているらしい。上田氏がツィッターで3つもツイートしている。
雑誌「Ministry」が届いたら、表紙がワタシで驚いた!「次世代の教会をゲンキにする応援マガジン」、つまりキリスト教の雑誌で、表紙を飾るとは!

雑誌「Ministry」、奥田知志 さんとの対談「3/11後の宗教界を斬る!!」は、自分で言うのも何だけど、必読。奥田さんの素晴らしい洞察力が爆発している!!経験と思索から生みだされる言葉。ぜひお読みください。 

雑誌「Ministry」特集「ボクシたちのリアル」もむちゃくちゃ面白い。牧師の給与の最多層は「200〜400万」(38%)とか、2割の牧師が副業を持っていて、トラック運転手の牧師もいたりとか。
上田紀行氏は文化人類学者で特に仏教に関心があるらしい。自身のホームページのプロファイルでは、
近年は、日本仏教の再生に向けての運動に取り組み、2003年より「仏教ルネッサンス塾」塾長をつとめ、宗派を超えた、若手僧侶のディスカッションの場である「ボーズ・ビー・アンビシャス」のアドバイザーでもある。
2004年に出版された『がんばれ仏教!』(NHKブックス)では、時代の苦悩に向かい合う寺や僧侶達を紹介、日本仏教の未来図を提示し、大きな反響を呼んだ。
とあった。なんか仏教の応援やっているみたいと思ったら、今度はキリスト教の応援もやっているみたいだ。要するに「(既成)宗教よ、元気にがんばれ」ってことかな。

ところで本題に戻って、「ミニストリー」誌の調査によると牧師の給与の最多層は「200〜400万」(38%)だそうである。
他は知らないので何とも言えないが「そんなに悪くないじゃん」と言う印象。
筆者の場合はこれより下。
この層の牧師たちは副業やらなくてもいいのかな。

2割の牧師が副業を持っている、とのことらしいが筆者もこの二割の人たちと同じで副業をやっている。
某所でシニア英会話の非常勤講師をやっている。

実は遊学から帰国後、副牧師時代からずーっと続けている。(最初は中学生のクラス、その後は成人会話と変化はしてきたが・・・。)
始めた理由は経済的な理由も無きにしも非ずだが、それよりも社会経験という面が強かった。
また副牧師なので時間的余裕を他のことに使えた、と言うこともあった。

筆者は父方から言うと「牧師二代目」だが、父が初めに牧師をしていた教団では副業などはご法度であった。
名前に「伝道団」とついていただけあり、伝道に専念し、信者数を増やし、彼らの献金で生活するのがセオリーとされていた。
伝道をおろそかにするような副業などとんでもない、というわけである。

聞いた話では信者の少ない教会を持つ牧師婦人で栄養失調のため亡くなった方がいたそうである。
同じ教団で筆者の祖父は教区長をしていたが、小さな教会で貧しい暮らしをしていた教会の牧師たちに食料の差し入れなどの支援をしていたらしい。

時代は変わり、今では牧師の副業に目くじらを立てるようなことはなくなった。
現在属している連合の教会の牧師たちも副業をやっている方は何人かいる。

「牧師と副業」と言うと「牧師が本業、本職」と言うことになるわけだが、筆者の感触では経済的にこの形が維持できるのはそれほど長くないのではないかと思う。
他に仕事をしながら「牧師」を半ばボランティア的に奉仕するような形が増えてくることもあり得るのではないか、と感じている。
そのような現在の教会の行く末にある面悲観的な予感を持っている。

さてそんな事態になったら筆者はどうしようか。
やはり何かアルバイトでもやるか。
趣味の木工では生活を成り立たせるのは難しいだろうから・・・などと真面目に考えるような時は果たして来るのだろうか。