2012年10月30日火曜日

2012NTライト・セミナー

少しずつだと思うが、前英国国教会ダーラム司教(英国国教会ではカンタベリー、ヨークの大主教に次ぐ第三位の高位の主教)、そして現セント・アンドリュース大学の「新約聖書と初期キリスト教」の研究教授である、Nicholas Thomas Wright (1948-)の名前は日本にも浸透しつつあると思う。

先日、10月18日、御茶ノ水クリスチャンセンターで筆者を含めた四人の呼びかけで「NTライト・セミナー」が持たれた。内輪の研究発表会で公に宣伝はしなかった。当初10人程度の参加者かなと思っていたが蓋を開ければ20人を少し越えた位。盛会であった。

まだ正式な発表はないが来年あたりに向けてライトの著作邦訳が始まりそうな機運がある。その前哨戦と言うか、先駆けとも言うべき実験的イベントとして呼びかけ人のうちのU牧師の呼びかけで今回の企画が持ち上がったわけだ。

筆者は「NTライト・読書会」主催者としてお声がかかったわけだが、NTライトの日本での知名度が圧倒的に低いことを嘆いて読書会をスタートさせた者としては、渡りに船、呼びかけに応じて企画に参加し、セミナーでの発表を引き受けた。

当日用意した発表要旨(アウトライン)は以下のようなものである。
2012/10/18
「N.T.ライトと聖書」
小嶋 崇
《学者》としてのN.T.ライトの専門領域は「史的イエス」と「パウロ」と言うことが出来ると思います。しかし《教会人》としては実に多様なトピックについて聖書から発言してきました。今回はライトの聖書観に関し『聖書の権威』に絞って紹介します。ライトの〝複雑な〟そして〝ダイナミックな〟『聖書の権威』観について解説したいと思います。

・ 「聖書の権威」は間接的な権威
the phrase “authority of scripture can make sense only if it is a shorthand for “the authority of the triune God, exercised somehow [i]through[/i] scripture.” (Last Word, p.23.)
・ ナレーティブな聖書の性格に相応しい「権威観」を持つことが肝要
 …聖書の内容性格に沿った読まれ方(ハーメニューティックス)とはいかなるものなのかと言う問題提起。
 教会史の中での聖書観の変遷 ①信仰と生活の諸問題を解決する「法廷」、②個人的敬虔のための文書(レクシオ・ディヴィナ)
 短絡化されやすい聖書権威観:「信仰と生活に関する(唯一絶対の)規範、sola scriptura」「ルール・ブック」「正しい教義の源泉」「神の自己啓示(情報コミュニケーション)」

『5幕からなる劇』に見立てた《聖書の権威》
(1)創造(創世記1-2章)
(2)堕落(創世記3-11章)
(3)イスラエル(アブラハム→メシヤ)
(4)イエス(十字架の死と復活に至る公的宣教)
(5)(a)新約聖書/初代教会(「イスラエルのストーリー」を成就するイエスを語り宣言する)
  (ω)究極の終末(ロマ8章、Ⅰコリ15章、黙21-2章が予めその輪郭を指示)

 聖書を権威ある書として読むとは、第5幕を生きる教会が、その時代の問題・課題の中で、先行する「神の壮大な贖いのドラマ」を繰返し読み返して「その時代をどう生きるか」を知ることである。世界の創造者である神とその被造世界の関わりを、創造から新創造へと展開するステージと位置付けるこのドラマの第1幕から第5幕の第一場面(私たちにとっては交換不可能な〝権威〟ある筋書き)と第5幕の最終場面に合致した振る舞い(パフォーマンス)を即興で演じる(improvise)のが私たちの役割なのである。
・ ドラマは進展している…聖書はtimeless truthsではない。
・ 過去の役者を繰り返すのではない…fresh reading of the scripturesが必要

参考図書
“How Can The Bible Be Authoritative?”(Vox Evangelica, 1991, 21, 7–32.ここをクリック)
“Theology, Narrative and Authority” in The New Testament and the People of God(1992), pp.139-143.
The Last Word (英国版タイトルは、Scripture and Authority of God), HarperSanFrancisco, 2005.
当日の発表時間は20分と言うことで、ライトが提示する「〝複雑な〟そして〝ダイナミックな『聖書の権威』」の最も分かりやすい表現であるFive Act Modelを中心に紹介した。

最初に「聖書の権威」の前提となる、神の権威、イエス・キリストの権威を確認した。
プロテスタントはカトリックに対抗して「聖書のみ」の原則を踏襲してきたわけだが、その後の歴史でややもすると聖書そのものが独立して権威化され、「聖書はこう言っている」と引用すればそれで議論が済まされるような風潮が出来上がってきた。

そのような一人歩きしがちな、ビブリシスティック(biblicistic)な「聖書の権威」観に対して、生きて働き給う神のもとに聖書を相対化するのがライトの聖書の権威観と言えるだろう。
創造から始まり被造物全体を贖いへと導いておられる神の働きの中に聖書を位置づけることが大切である。

さてこのファイブ・アクト・モデルの大切なポイントは、聖書を用いる私たち教会の役割をどう捉えるか、に関わる。

ライトは「5幕の劇」の台本のうち、第5幕の第1場面(新約聖書が書かれた時代の教会)の続きが消失してしまった、と想像してみてくれと言う。

その消失部分を誰かに補筆させるのではなく、円熟した役者に即興で演技させることにしたとする。役者は台本にはない部分の演技を生み出すために、先行する第1幕から第5幕の第1場面までを繰り返し繰り返し読んで、どう言う演技がこのドラマの筋に最も相応しいかを熟考する。

もちろん劇のエンディングは第5幕の第1場面にある程度描写されているから、それにも合わせた演技を考えなければならない。

円熟した役者とは、即興で演技する場合でもストーリーが体に染み込んでいるのでドラマの筋から逸脱するような演技もしないし、また下手な役者のようにただ前の演技を真似するだけのような演技もしない。その時その場に対応した演技を創造的に作るのだ。

これを現代の教会に適用すればこう言う風になる。

私たちが生かされている時代とその時代が抱える問題・課題は先行する聖書時代のものとは異なる。しかし私たちの時代は「神の贖いのドラマ」の視点からは明らかに第5幕に属する。つまり新約聖書の教会と2千年の時を隔てているが地続きなのだ。

啓蒙主義はそれまでとは全く「新しい時代」を創生したと自称し、イエス・キリストの出来事の全歴史的な角度からの新しさを否定するような態度に出た。
しかし啓蒙主義や近代の進歩史観はイエス・キリストの出来事の画期的新しさを何一つ変えていない。依然として私たちは第5幕の第1場面に続く歴史的状況を生きているのである。

私たちが今の時代をどう振舞うか、どのように生きるか、それをインフォームしてくれるのが聖書なのだ。しかし私たちは聖書をマニュアルや普遍的で不変な真理が詰まった本として取り扱うのではない。
聖書に記された「神の贖いのドラマ」を熟知して、それを今日的状況に即興的に生かすのだ。行動する前に既に完成した台本があるのではない。祈りつつリスクを犯して「これが神の御心に沿った選択、行動だ」と信仰を持って行動するのだ。

・・・と当日はここまで解説はできませんでしたが、ファイブ・アクト・モデルとはこんな趣旨のもので、まだまだ実験的であり、修正したり詳細を加えたりする余地を残したモデルだ、と言うことです。

さて当日は筆者の他にも3人の方が発表しました。
会場で発表全体のメモを取っておられた方がブログで公開していますのでどうぞそちらもご覧下さい。(ここをクリック
また、当日の発表者の一人であるクレオパさんも自身のブログで報告なさっていますのでそちらもご覧下さい。(ここをクリック




2012年10月27日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

10月28日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:11-18
説 教 題 「新しい創造」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(94)
ガラテヤ人への手紙(82)
・6:11-18 締めくくりの言葉
(A) 6:11-13 割礼を受けさせようとする者たち 
(B) 6:14-17 大事なのは新しい創造
(C) 6:18   最後の祈り

2012年10月24日水曜日

勘違い

先日の礼拝でのこと。

大学の時からだったかコンタクトを使用してきた。
今年に入ってどうもアレルギーのせいかコンタクトを装着して4-5時間経つと目が痛くなって涙がポロポロ・・・と言う状況になった。
目医者に行って薬をもらったりしたが、段々コンタクトが億劫になってきて、ずーっと昔に作ったメガネをかけるようになった。

大分視力は落ちていたがそのまま古いめがねで過ごしていた。
字を読む時は、本ならばかなり目に近づければよし、外に出る時は物がぼんやり輪郭が分かればいいや、と放っておいた。

先週の土曜日、海外在住の知人が「明日の礼拝に来ます」とメールで連絡が入った。
日曜日の朝、いつものように礼拝の始まる10分前に会堂に入った。
最近出席なさるようになったご婦人がすぐやって来て後ろの列の席に座った。

それから間もなく別の婦人が入ってきて「おはようございます」と声をかけられた。
約5メートル位離れたその方を出席予定の知人と勘違いした筆者は久し振りなので少しは会話とも思ったがそのまま挨拶だけで終わった。
その方は真ん中の列の席に座った。

礼拝が終わってゲストを紹介する時になった。
筆者は真ん中の列の席に座った方を見ながら、「今日は○○さん(知人の名前)が礼拝に来られました」と紹介した。

もう一人礼拝時間の後の方でやって来られた方が後ろの列の隅の席に座っているので、誰だろうと「あのー、初めて来会された方でしょうか。もしよろしければお名前を」と声をかけた。
そうしたら○○です、と答えがあった。

なんだ時々顔を見せる○○さんではないか。

目がちゃんと見えている家族の者たちはこの一部始終を見ながら、筆者が二人を勘違いしていることを確認して「あーあしょうがないわねー」のような顔をしていた(筆者はその表情も分からないのでまだ事態が飲み込めていなかった。)

さて講壇(段はないから要するに会堂の前のスペースのこと)から席に座っている知人の方へ挨拶に行った。
近づくと知人の顔は一番後ろの隅の席に座っている人物だった。
(この時点でも筆者はあれっ何かおかしいな、くらいしか察知できていなかった。)

皆が帰った後、昼食の時家族の者から説明を受けてようやく自分の勘違いがはっきり分かった。
「困るわねー。メガネ位ちゃんとしなさいよ。」

ぎゃふんである。

昨日メガネを新調しに近くの店に赴いた。

2012年10月22日月曜日

活水工房ティールーム

コンクリート打ち放しの教会堂の隣は木造平屋の家屋をリフォームした工房である。
工房に小さなティールームがついている。
既に色々な用途で使用しているが初期の構想では教会付属のティールームとして地域にオープンすることだった。

と書くと過去形になってしまうが、なかなかアイデアを実行に移せないできているからだ。
でも道具立ては少しずつ整ってきた。

先日製作を依頼していたイクル・デザインの須藤生氏が完成した椅子6脚を運んできてくれた。


写真手前に見えるのが今回完成した椅子である。
(製作過程の詳細は須藤氏のウェッブでご覧下さい。ここをクリック

既にテーブルの方は去年完成していた。
60cm×65cmの大きさのテーブルが2台ある。

現在は教会の用途としては、役員会、そしてキリスト教入門講座などに。
個人の用途としては応接室代わりや、NTライト読書会などに。

教会堂に足を踏み入れるのはなかなか、と言う人にもこんな場所が接点として気安く近寄れれば、と願っている。

2012年10月20日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

10月21日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:11-18
説 教 題 「キリスト者の価値基準」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(93)
ガラテヤ人への手紙(81)
・6:11-18 締めくくりの言葉
(A) 6:11-13 割礼を受けさせようとする者たち 
(B) 6:14-17 大事なのは新しい創造
(C) 6:18   最後の祈り

2012年10月19日金曜日

日本のクリスチャン・ブログ

今週は更新が無いまま週末になってしまった。
ちょっと「間」を埋める位の軽い記事を書こう。

日本のクリスチャン・ブログ界はキリスト教人口に比例するようにかなり小さい、と筆者は思う。
そんな中でアクセス数(多分)ダントツなのが水谷牧師の命と性の日記だろう。
とにかく良くぞネタをひねり出して毎日記事を連発するのに脱帽。

先日『某牧師の「クリスチャンブログ・ベストテン」に選出されたぞ』 という記事があった。
中澤信幸牧師の中澤信幸的なクリスチャンブログ・ベスト10のことである。

七つは名前を知っていたがそのうち筆者が定期的(毎日か数日おき)に巡回するのは四つだ。
先ほども言ったが日本のクリスチャン・ブログ界は狭い世界なのでそれだけ重複しても何の不思議も無い。

当ブログでは「英語圏(クリスチャン)ブログ」を紹介するシリーズ記事があるが、彼我の違いは単にブログ数やアクセス数に留まらない。(クリスチャン人口が多いのだからそれは当然だ。)
羨ましいのは一括りで「クリスチャン・ブログ」で片付けるのではなく、様々なカテゴリー別に専門化が進んでいることである。

・聖書関係ブログ(これもさらに新約聖書、旧約聖書、パウロ研究などに分かれていたりする)
・神学関係ブログ
・教会史関係ブログ

いやこんな分け方はあくまで一つの例で、実に様々なブロガーがいる。
とても一律にはカテゴライズできない。
複数のライターで運営するブログも多数ある。

日本では多分行なわれていないが、キリスト教関連ブログのランキングを発表するサイトもある。
やれベスト50とか、ベスト100とか・・・。

ブログ・ランキングに関連して、英語圏ブログ界で一つの現象が最近話題に上るようになった。
それは女性のブロガーが取り上げられない、と言うことである。
どうも英語圏ブログ界は男性偏重のようである。

と言ってもクリスチャン女性ブロガーがいないわけではない。
ただ男性のそれと比べて少ないだけだ。
観察して見るとアクセス数の多いブログでコメントの書き込み数が多いブログでも、女性のコメントはやはり少ない印象は否めない。

日本語圏ではどうなのだろう。
似たような傾向はあるのだろうか。


まっ話題が日本から英語圏に移ってしまったので元に戻る。

中澤牧師的ベスト10、みたいな記事は面白い試みだと思う。
やはりその人の関心や何やらで選択するものが違ってきた方が面白い。
単にアクセス数などでランク付けするのはそれなりに役に立つのかもしれないが、「面白いブログ」を発見するにはどうなんだろう。

最後に「小嶋牧師的クリスチャンブログ・ベスト10」と行きたいところだが、それほどリサーチしていないのでできない。
ベスト10などと言うからには恐らくその5~10倍位は知っていないとならないだろう。

と言う訳で軽ーい記事で失礼しました。

2012年10月13日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

10月14日 午前10時30分

朗読箇所 Ⅱコリント 9:1-15
説 教 題 「恵みのわざ、奉仕のわざ」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《説教シリーズ》「遣わされて」⑨

※礼拝後、昼食会があります。

2012年10月12日金曜日

「ついでの読書」追記

ついでの読書で紹介した、田口ランディー「できればムカつかずに生きたい」の『アイヌのシャーマンと出会う』がここで読めます。

※筆者が読んだ新潮文庫に収録されたものはネット版文章に加筆・修正されたもののようです。

2012年10月10日水曜日

ついでの読書

毎年「体育の日」は墓参りならぬ墓掃除に行く。

小嶋家の墓は千葉県松戸に近い八柱霊園。

広い霊園の中でもかなり端にある墓は北総鉄道北総線松飛台駅からだと歩いてもそんなに遠くない。
ただ電車に乗っている時間がやや長い。
それで軽い読み物を持って行くことにして、前日図書館に探しに行った。

普段は殆んど小説の類を読まないのでなかなか選ぶのにも照準が無い。
書棚を行ったりきたりしながら選んだのは、田口ランディ「できればムカつかずに生きたい」と阿川佐和子「男は語る アガワと12人の男たち」。
どちらも文庫だ。

墓掃除の行き帰りは主に阿川さんの方を読んだ。
でも田口さんの文章がこざっぱりしてて気に入った。
帰ってから田口さんの本を読み続けた。

できればムカつかずに生きたい」には全部で26のエッセイというか文章が載っている。
その中で色々面白いのがあったが、一番印象に残ったのは『アイヌのシャーマンと出会う』だった。

北海道苫小牧からバスで二風谷(にぶだに)へ行って、山道康子、アイヌ名アシリ・レラを訪ねた時のことを綴るものだ。

レラさんの言葉で、アイヌの人たちはみな霊力を持っていたと言うことを説明するのにこんなのがある。
私たちアイヌは神と魂の存在を信じていたからね。すべての生き物に魂があり神が宿っている。それを信じること、一点の疑いも持たず信じること、それが力なんだよ

まーアイヌの宗教はアニミズムと言うことで片付けてしまいそうになるが、「信仰の力」と言うことでは何かイエスが語った言葉と似たような響きがあると思った。面白いなと思った。

更に田口さんはこんなことも聞いた。
人間の義務はね、万物の霊長としてすべての生き物のために祈る事なんだよ
それが、天と地の間に垂直に立つことのできる人間の役目だ。祈り、すべての生命の魂を天に送ることが人間の義務なんだ。神はそのために人間を守ってくれるんだよ
これを読んで以前書いた池澤夏樹「多神教とエコロジー:世界を支配する資格」 を思い出した。
池澤氏はエコロジーの背後にアニミズム的な考えがあること(あるいは必要であること) を言っていた。
エコロジーの背後にはアニミズムがある。あるいは、あるべきだ。一にして全なる神を信じる人々も個々の被造物の中に、それをあらしめている神の意志を認めなければならない。
今、我々は支配力を駆使して支配者の地位から降りなければならない。
しかし池澤氏のエコロジーのためのアニミズム解釈と、アシリ・レラさんのアニミズム的世界観とでは微妙に「人間の立ち位置」に関する認識が異なっているように思う。
アイヌの世界観では人間はある種生き物の大祭司(これはユダヤ・キリスト教のボキャブラリーだが)的役割が課せられているようだ。

キリスト教との比較では、「一神教対多神教」で引き離されてしまうが、創世記一章の「人間の被造物支配」を「被造物をケアーする人間の役割」(これが地球環境問題以降キリスト教が強調するようになった創世記一章の人間観だ)に整理し直せば、両者は人間に特別な意義を認めている点で接点を持つようになれるのではないか、と感じた。 
 

2012年10月7日日曜日

復興どうなってるんだろう

 最近「東日本大震災」の復興についてどうなっているんだろうとよく考える。と言うか気になっている。
 と言うのも私たちの教会では震災直後だけでなく、中長期的な視点で震災復興と取り組むことを決めたからだ。
 
 もともと「食の日募金」と言って世界飢餓の問題と取り組んできた。毎月一度の愛餐会の時をそのことに思いを致す機会としてきた。
 東日本大震災が起こって、「食の日募金」は、「復興支援募金」も兼ねることになった。

 毎月そのように積み上げた募金を適当な支援団体に送金してきたのだが、震災から一年が経つともともとの支援目的とは別に緊急的に立ち上げた「募金窓口」がなくなる団体が増えてきた。

 それで「次はどの団体に送金したらよいのだろう」と思案するようになったわけである。

 未曾有の大災害から僅か一年半で人々の意識は変わり始めていることを、池澤夏樹氏が10月2日の朝日の夕刊コラムで書いている。
 災害の日からもう一年半が過ぎた。
 だいぶ雰囲気が変わってきたという話を聞いた。最初の頃はみんなどこか高揚していて、私利を離れて行動するのも難しくなかった。
 もちろんどこの避難所にもわがままな人や怠け者はいたけれど、それでもみんな譲り合った。(ぼくはこの話を聞いていて、「災害ユートピア」という言葉を思い出した。危難の際に人がエゴを捨てるという現象のことだ。)
 復旧についてはみなが力を貸す。瓦礫を運び出すトラックの邪魔をする者はいない。しかしそれが一段落して復興の話になると、つまり震災前の日常に近いところまで戻ると、「みんなのため」とは別の原理が働き始める。それを資本主義が帰ってくる、と言っていいかどうか。

 私を離れて公共を考えられる人がいる。人望を得てコミュニティーを率いる場合もあるし、ひたすら地味に奉仕するだけの場合もある。にんげんの中にはたしかにそういう資質がある。あるいは誰の中にもあるはずのそういう資質が発揮される時がある。
 その一方で、私利と言う原理も確かにある。そういうふるまいを非難するのは容易だが、非難してどうなるものでもあるまい。資本主義に問題があるとすれば、人間のその側面を助長することだろう。災害の直後のあの気持ちを忘れないでいるのはむずかしい。東北は、日本もまた、今そういう時期に来ている。(以上朝日新聞夕刊、〈終わりと始まり〉復旧と復興の違い
そんな中、筆者が講師をしているシニア英会話クラスの生徒のおばあさんが、昨年9月に被災地を訪れた後どのように変化しているかを確かめるべく同じ被災地を訪れた。
 その方のお話では確かに復旧はしてきている。あれほどの瓦礫の山は消えていた。と語っていた。

 筆者にはそこまでの行動力はないが、ただ東京にある一地方教会が今後どのように震災復興に関われるのか、何とか糸口を見出したいと願っている。


2012年10月6日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

10月7日 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 13:1-20
説 教 題 「他に仕えるとは」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2012年10月2日火曜日

教会と教会堂

今日ツイッターを見てたらたまたま「教会」と「教会堂」のことについてのツイート(つぶやき)が目についた。

ある牧師さんのつぶやき、
教会とは、信仰共同体のことであって教会堂のことではありません。教会の礼拝に行きたいけど、いろいろな事情で行けないって人もまた教会の一部なのです。って繰り返し言わないとわかってもらえないのかな〜
まもなく別の方(聖書学者?)さんがつぶやき、
建物としての「教会堂」とキリスト者の集まりとしての「教会」は混同しないようにしなくちゃなぁ。「教会堂」には必ずしも行く必要が無いとは私も思うのです。日曜日に教会堂に行くために日曜日には仕事を絶対しないというのは、何かが間違っていると思うので。
一般の人が教会から連想するのは建物の方だろう。
「おや、ここに教会がある。」、などと言う。

しかし教会に通うようになり、聖書から「教会とはギリシャ語でエクレシヤと言い、会衆のことを指す」などと説明されたりするうちに、教会と教会堂の区別が一応はつくようになる。

しかしそんな信者であっても教会で簡単に連想するのは多分教会堂の方だろうと思う。

2つのつぶやきが問題視しているのはそんなことだろうと思う。
つまり「ああー今日は教会に行けないなー」などと信者が思ったりする時、それは「教会堂に行くこと」を指しているわけ。

教会堂と言う決まった場所に、決まった時間(特に日曜日)に行くことが信者の第一目的になってしまうようなこと。

初代教会は比較的裕福な信者が自宅を集会に解放した「家の教会」が多かったと言われる。
しかしその後キリスト教が発展し社会・文化の中心を占めるようになると教会堂は町や村の中心に建てられ、しかも立派な建物が建てられ、地域共同体の精神的支柱になって行ったように思う。

しかしそのようなキリスト教が精神的バックボーンとして形成された西洋社会でキリスト教が衰退すると、町の中心部に建てられた立派な聖堂で集会に集まるのはごく僅か、と言う状況も出てきている。

また「制度的な教会」に満足できない、ただでさえキリスト教に否定的な見方を持った若いそうの信者たちは(これは主に米国などの話だが)、建物や曜日にこだわらない集会を持つ傾向がある(多分に家の教会みたいなスタイル)。

教会と教会堂とを混同しないようにすることは大切だと思う。
ただ「教会堂」の役割を軽視するようになると、それはもしかしたら行き過ぎではないか、と思う。
集会が教会のエッセンスで、教会堂は会衆の都合であってもなくてもよい、立派な会堂は無くてもよい、・・・となるとやや短絡的ではなかろうか。

教会堂はその会衆の便利にだけあるのではなく、その地域に建物として存在する意味があるのではないかと思う。
通り行く人が教会堂を見て、「あっここに教会がある」と気付けること。
悩みを抱えて「祈りたい、教会に行きたい」と思っている人にとって「そこに教会堂がある」ことは大切なことではないかと思う。
教会堂の中にまで入ってくることは無いにしても、キリスト教の神に関心を持っている人が教会堂を見つけて、その場所に対して一定の敬意を払うこともあるのではないかと思う。

教会堂と言う建物として目に見えるモノが地域とのインターフェースとして機能する可能性を考えると、プロテスタント教会などはもっと教会堂をどう建てるかに意を注いだ方が良いのではないかと思う。