2012年10月2日火曜日

教会と教会堂

今日ツイッターを見てたらたまたま「教会」と「教会堂」のことについてのツイート(つぶやき)が目についた。

ある牧師さんのつぶやき、
教会とは、信仰共同体のことであって教会堂のことではありません。教会の礼拝に行きたいけど、いろいろな事情で行けないって人もまた教会の一部なのです。って繰り返し言わないとわかってもらえないのかな〜
まもなく別の方(聖書学者?)さんがつぶやき、
建物としての「教会堂」とキリスト者の集まりとしての「教会」は混同しないようにしなくちゃなぁ。「教会堂」には必ずしも行く必要が無いとは私も思うのです。日曜日に教会堂に行くために日曜日には仕事を絶対しないというのは、何かが間違っていると思うので。
一般の人が教会から連想するのは建物の方だろう。
「おや、ここに教会がある。」、などと言う。

しかし教会に通うようになり、聖書から「教会とはギリシャ語でエクレシヤと言い、会衆のことを指す」などと説明されたりするうちに、教会と教会堂の区別が一応はつくようになる。

しかしそんな信者であっても教会で簡単に連想するのは多分教会堂の方だろうと思う。

2つのつぶやきが問題視しているのはそんなことだろうと思う。
つまり「ああー今日は教会に行けないなー」などと信者が思ったりする時、それは「教会堂に行くこと」を指しているわけ。

教会堂と言う決まった場所に、決まった時間(特に日曜日)に行くことが信者の第一目的になってしまうようなこと。

初代教会は比較的裕福な信者が自宅を集会に解放した「家の教会」が多かったと言われる。
しかしその後キリスト教が発展し社会・文化の中心を占めるようになると教会堂は町や村の中心に建てられ、しかも立派な建物が建てられ、地域共同体の精神的支柱になって行ったように思う。

しかしそのようなキリスト教が精神的バックボーンとして形成された西洋社会でキリスト教が衰退すると、町の中心部に建てられた立派な聖堂で集会に集まるのはごく僅か、と言う状況も出てきている。

また「制度的な教会」に満足できない、ただでさえキリスト教に否定的な見方を持った若いそうの信者たちは(これは主に米国などの話だが)、建物や曜日にこだわらない集会を持つ傾向がある(多分に家の教会みたいなスタイル)。

教会と教会堂とを混同しないようにすることは大切だと思う。
ただ「教会堂」の役割を軽視するようになると、それはもしかしたら行き過ぎではないか、と思う。
集会が教会のエッセンスで、教会堂は会衆の都合であってもなくてもよい、立派な会堂は無くてもよい、・・・となるとやや短絡的ではなかろうか。

教会堂はその会衆の便利にだけあるのではなく、その地域に建物として存在する意味があるのではないかと思う。
通り行く人が教会堂を見て、「あっここに教会がある」と気付けること。
悩みを抱えて「祈りたい、教会に行きたい」と思っている人にとって「そこに教会堂がある」ことは大切なことではないかと思う。
教会堂の中にまで入ってくることは無いにしても、キリスト教の神に関心を持っている人が教会堂を見つけて、その場所に対して一定の敬意を払うこともあるのではないかと思う。

教会堂と言う建物として目に見えるモノが地域とのインターフェースとして機能する可能性を考えると、プロテスタント教会などはもっと教会堂をどう建てるかに意を注いだ方が良いのではないかと思う。
 

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