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2016年5月2日月曜日

(4)タカ牧師のセブンー7

去年の11月以来になってしまいました。

前回が6でしたから、たまたま今回は「セブン」と「7」が重なりました。

この辺でこのシリーズも潮時と云うことか・・・。

いずれにしても、溜まりに溜まってしまいましたので、選ぶのが大変!!


1. Think Religion Is Dead? Just Look at 'Game of Thrones.' (ワシントン・ポスト)
  『宗教はもう過去のもの?じゃあ「ゲーム・オブ・スローンズ」はどうなのよ。』

 ただいま話題のゲーム・オブ・スローンズの映画評。福音派の評者二人がコンビを組んで、ドラマにおける「王国の対立」が現代の宗教の復興と、黙示的(アポカリプティック)様相を呈する背景を読み解く。作者ジョージ・R・R・マーティンは「神義論を戦わせている」のではないか・・・と。

2.  Secular Oscars: Why Christian movies don't make the cut
  『世俗の映画賞、キリスト教映画はなぜ選に漏れるのか』

 要するにつまらないから(because they suck)。というのがブロガーのハンナ・シェーファーさんの意見。なぜか。伝道メッセージを伝えようと、ウエメセ的な説教くさいものになりがちだから、とのこと。英語ではそういうのpreachyていいますね。

3. Vanishing Grace: What Ever Happened to the Good News?
  『恵が消えかかっている。グッド・ニュースはどうなったの?』

 同じタイトル名でフィリップ・ヤンシーが本を出しているが、このブロガー(ダニエル・ヒル)との会話から生まれたらしい。記事はその会話のトピックであったミレニアル世代の「教会からの脱落」の背景を探った章からの引用。

4.  The Church is in Post-Christian Exile - But Should We Really Respond Like It's a War?
  『教会はポスト・キリスト教時代に囚われている。しかし戦闘モードで戦う相手か?』

 ミッシオ・アライアンスはスコット・マクナイトのいるノーザン神学校の教授陣が中心となって「ポスト・キリスト教」時代に突入した北米での宣教戦略を打ち出している団体です。記事を書いているカリナ・クレミンスキーはキリスト教が社会の中心から辺境に移った今の時代をむしろ歓迎しています。(タカ牧師のセブン‐4 の3でも取り上げたラッセル・ムーアが同趣旨の見解です。)

5. The 30 Most Influential People on the Internet
  『ネット界での影響力 トップ30』

 さあどうでしょう。名前だけ知っている、少し知っている人たちもチラホラいますが、そもそも影響力を測るのは難しくないですかねー。
6. 京都精華大学はこんな方を仲間として求めます
 京都精華大学については殆ど何も知りませんでしたが、こんな広告を出すのでちょっと目を惹きました。

7.  140字の「重み」を言語毎に比較してみた
 140字に制限された1ツイートが、実は言語によって「密度」が異なることを比較検証しようとした記事。漢字を使う国の人なら実感ですぐ分かることですけどね。

以上でした。

※もしかしたらまだ続きがあるかもしれません。 在庫が多いので・・・。

2014年11月3日月曜日

(4)映画「ツリー・オブ・ライフ」 追記

映画「ツリー・オブ・ライフ」について、(よくやることだが)映画を見ないで文章を書いたことがある。(ここ


先日、たまたまベイラー大学(米国)のベバリー・ガベンタ教授の講演(動画)を観ていたら、この映画のことが取り上げられていた。


彼女が見に行った映画館で、この映画を見に来た客が「こんなひどい映画。入場料を返せ。」とごねていたそうな。

翌週(気になったのか)ガベンタ教授は「ツリー・オブ・ライフ」を見に行った。

ガベンタ教授が集めた「この映画が気に入らない人の評」では、ストーリーがない(あるいは)かなり弱い、ということだ。

しかしガヘンタ教授は(予想の通り)この映画が大変気に入った。

家族のドラマと、創造のドラマが織り成す、引き伸ばされた頌栄(ドクソロジー)だ、と。
※ドクソロジーと言っても、献金後に歌われる賛美ではなく、ベースボールの試合で7回裏に球場全体が合唱するあの歌のこと。

以上がこの日の「ロマ書」に関する講演のイントロに使われたのだった。


ガベンタのロマ書講演についてのニジェイ・グプタ(動画リンクがあるブログ主)の感想、批評も合わせて読むことを勧める。

ついでと言っては何だが、このロマ書講演の感想記事の次に、女性(新約)聖書学者(特に福音書と使徒の働き)の文献表をリストアップして紹介している。こちらもお勧め。

なかでも筆者の一押しは、ユダヤ人のエイミー‐ジル・レヴァイン教授。


明瞭な物言い。
的確な指摘。
なかなか聞いていて分かりやすい。

SBL(北米聖書学会)と言う「世界で最も大きく(権威ある)聖書学会(ちゃんと調べていないが)」が最近スポンサーとなって無料で提供している聖書研究のための情報サイトに、バイブル・オデッセーがあるが、ここで動画で提供されている「解説記事」の中でも、レヴァイン教授のものはぴか一だと思う。

たとえば、これ。
Jesus' Bible and Language

2014年6月4日水曜日

(5)粉河哲夫とFUKUSHIMA-DAIICHI

今日、たまたま、「粉河哲夫」の名前を思い出した。

何でか分からない。ただふっと思い出した。
夕食後にネット検索でもするか、と思っていた。

(これから書くことはまだネット検索前のこと。)

大学生の頃だったか(1970年代後半)、それとも遊学終わって帰国直後の頃だったか(1990年辺り)、 その位はっきりしない記憶。

ただ本を1-2冊買って読んだことは覚えているような。
少し左翼がかった思想から「メディア」の問題を捉えていたような、そんな前衛的言論人だった。

(ここからはネット検索後。)

何と!
あれほど一時期にせよメディアに持ち上げられた
(と自分には少なくとも見えていた)論客が・・・。

検索で引っかかったのは僅か2ページ、10件余りに過ぎない。

文京区の図書館にも、豊島区の図書館にも、蔵書されていない。

一体どうなってるのか。
(陰謀論の誘惑を断ち切って、そのことについては何も書かない。)

とにかく、一つだけ

粉河哲夫の「シネマトーク」


だけは存続している。

どちらにしても「ネットに何かあった」のを発見して、不思議なような懐かしいような、ちょっと言いにくい。


映画評が主のウェッブサイトなのだろうが、こちらは余り関心がないので、最近タイトルだけは何とか気になったくらいのハンガーゲームの映画評を読む。

それからトップページを見渡して気になった

福島原発事故関連

を読む。

3.11以前の1本も含め、3.11からほぼ毎日更新されたブログ記事だ。
3月31日まで更新された後中断された。

改めて事故を時系列的に読むとマスメディア情報ダダ漏れに抗して独自な視点や批判を展開しているのを面白く読んだ。

昔読んだ「粉河哲夫」がまだいるのだな、と感じた。

それに暫く時間がかかったが、もう一本映画評を読んでみようと思った。

で、ハンナ・アーレントにした。

なるほどそこまで評するか、という薀蓄も垣間見ることが出来たので収穫だ。

日中ふと思い出した人物について、こんなに時間をかけてネットで調べてていのか・・・。
時間の無駄!、と思わないこともないが、でも一応調べてみて「余りにも無い」ことを知ることが出来、何かしら理由があるのだろうな、と推理したりする遊び時間が持てて、良かったことにしよう。

※図書館でハンナ・アーレント関連本を予約した。

2014年4月25日金曜日

(5)映画と神学2 : レイルウェイ 運命の旅路

ゼロ・グラビティ」から大分経ってしまった。

連載が1で頓挫してしまったか、とご心配かけた読者にはお詫び。

実は「見てから」と思ったが、けちな性分で新聞に載っていたこの映画の試写会に応募していたのだ。
が、(当然の如く)当たらなかった。

で、またも見ずして紹介することになりました。
「見ずして紹介する者は幸いなり」とは聖書のどこにも書いてありません。あしからず。


映画製作に至る経緯も紹介されている映画オフィシャルサイト へどうぞ。

しかしこの実話を基にしたと言う映画、またしても戦争の『傷跡』というものの執拗さを思う。

第二次世界大戦は1945年に終わった。
しかしその『傷跡』は至る所、ばら撒かれ、尾を引き、

もちろん忘れようとする力もあり、また忘れまいとする力もあり、拮抗している中で『普通の時間』は経過して行き、今2014年はある。

この映画は「赦しと和解」というキリスト教神学のテーマを持っている、と言うことで、Center For Public Christianity (音声ファイル)で映画評がなされている。

主人公が「戦争捕虜尋問」で通訳をした永瀬氏を追跡し、ついに面会して「あの時起こったこと」のあるがままの意味、戦争捕虜に対する強制労働という『殺人』を認めさせる。

二人は後に友人となり、死ぬまで交信を続けたと言う。

ナンキン・アウシュヴィッツ・ヒロシマ・オキナワ・シベリヤ・レイテ・アッツ・ツールレーキ

世界中に散らばる戦争の『傷跡』を物語るストーリーは、非人道的戦争を潜り抜けて、非人間化された人間が再生するために、今も執拗にその『傷跡』の存在の承認を求めて追いかけてくる。

そして何度でもそれに対峙して、認識して、可能な限りの和解をして、私たちは前へ向かって生き延びていくのだろう。

2014年4月10日木曜日

(2)エイビリーンの祈りのノート

 このタイトルだけで分かる人は、その本を読んだことのある人、と言うことになるだろう。

 キャスリン・ストケット『ヘルプ ~心がつなぐストーリー~』、()(


 (相変わらず映画のことには疎いのだが)2011年には映画化もされ、アカデミー賞助演女優賞や、主演女優賞にもノミーネートされたり獲得したりしたそうだ。


 公民権運動最中の1960年代、南部深部(ディープ・サウス)のミシシッピー州を舞台に描かれるのは確かに「人種差別」のテーマなのだが、むしろその具体的な生活の中での一コマ一コマが興味深い。

 筆者は1970年代後半にバイブル・ベルト州の一つであるケンタッキーで学生生活を送ったが、英語もよく出来なかったせいか、様々なレベルでの人種差別表現や行動を感知することは出来なかった。

 そんなわけで時間的にはその僅か10年前位にこのようなあからさまな差別を描いている小説はなかなかスリルに富んで思わずどんどん読み進めてしまうのだ。

 主人公はそのような差別の実態をレポートしようとする、大学卒仕立てでローカル新聞の生活欄記者のミス・スキーター。

 しかし(これは書評でも、映画評でもないのでストーリーの詳細も粗筋も書かない)筆者にとって面白かったのは、もう一人の主役、ミス・スキーターのプロジェクトの強力な助っ人、黒人ヘルプ(日本語的には「お手伝いさん」)エイビリーンだ。

 彼女は敬虔なキリスト教徒で、自分が通う教会でも一目置かれる存在だ。
 一日の激しい労働で疲れていても、エイビリーンは主に教会の仲間たちへの「執り成しの祈り」を忘れない。

 誰々さんが○○で苦しんでいます。神様助けてあげてください。

 そんな風に祈るわけだが、エイビリーンの「執り成しの祈り」は口に出すことではなく、「祈りのノート」に記録される。そして祈る(のだろう)。

 それは1時間以上に及ぶこともある。

 いつしかエイビリーンの祈りは「効き目がある」と仲間たちに広まり、何かあるとエイビリーンに「祈りリクエスト」がなされる。

 しかしエイビリーンは祈祷師ではない。コミュニティーの中で仲間たちがどんな困難にあっているかを考え合わせながら、慎重に「祈りのノート」に祈るべき内容、(多分)どう祈るべきかを書き留めていくのだ。

 一種の「祈りのレシピー」みたいなものか。

 エイビリーンのような人は単なる敬虔なキリスト者ではない。
 自分の敬虔を高めるために祈るのではない。(それもないわけではなかろうが)

 エイビリーンは祈りを通して自分が属する共同体を下支えするリーダーなのだ。

 でふと思った。荒野でイスラエルがアマレクと戦った時、実戦のリーダーは将軍ヨシュアだったが、モーセは手を挙げて祈り続けたのだった。 

2014年3月16日日曜日

(5)映画と神学1:ゼロ・グラビティ

 見てもいない映画について文章を書くのは「ツリー・オブ・ライフ」以来ですね。きっと。

先日の宮崎駿の「風立ちぬ」はあくまで英語圏ブログ紹介でしたから・・・。

 邦題はゼロが付いていますが、原題はただ「グラヴィティー(重力)」ですね。

 例の如く筆者が拾ってくるネタは英語サイトからが多いのですが、今回も。

 でも最初に映画の日本語オフィシャル・サイトにダーっとあるコメントのどれを見ても、この映画が「神学」に関係するようなものは皆無ですね。

 まっ少し哲学的とか、スピリチュアルっぽいのは無くはないですが。

 北米では筆者がうん十年前に神学校で学んでいた時既に「神学的文化批評」として、文学や映画などは題材にされていました。

 今回ご紹介するのはシカゴ大学神学部の博士課程の方が書いた映画批評です。

"Gravity" vs. Richard Dawkins

 要するにポイントはキュアロン監督がこの映画で描いている視点は「神論的」だ、そしてドーキンスの視点に対抗するものだ、という指摘です。
(キュアロン監督ってメキシコ出身なんですね。)

 評者のデーヴィド・ミハリフィー氏はサンドラ・ブロック演ずるライアン・ストーンは「地球帰還という物理的な旅」と「神の導きによって帰還する霊的再生」が並行的に描かれているのだ、と主張します。

 過去に娘を亡くすという不幸(adversity)に直面した時もドライに過ごしたライアンは、一人で地球に帰還しなくてはならない段になって「どうやって祈ればいいか何て教わってない」と吐露する場面があるそうな。

 映画のシーンの中で、蛙が横切り、海草のようなものが漂い、岸辺に昆虫、鳥がさえずる・・・のがあるそうです。
そこで、
As the script specifies, Stone “drags herself from the water, like the first amphibious life form crawling out of the primordial soup onto land.” After she stands, she looks around, and then, as the music swells in a major key, she tilts her head upward. The camera-shot from below emphasizes Stone staring into the heavens. Yes, evolution exists, Cuaron communicates, but when the odd phenomenon of life is comprehended by the life-form that has become sentient, the fact that there is life at all confirms the activity of a benevolent God.
つまり人類が神への感謝を覚える瞬間を表している(らしい)のだそうです。

 評者もNY Villege Voiceの映画評から引用するように、祈りと言う宗教的なモチーフが表現されているようです。
Stone continues to talk even after contact with home has been lost: Kowalski has reminded her that even though she can't hear Houston, Houston may be able to hear her, which is as apt and unsentimental a metaphor for prayer as I can think of. And so she takes us, if not some unseen and unheard God, into her confidence with her soliloquies

 まっ他にも幾つか「宗教的象徴」が仕掛けられている、と指摘しておりますが、作品というものは何層もの意味構造を持っていて、その人の世界観によって見えたり、見えなかったりするのでしょうね。

 このブロガーは
「宇宙の死の恐怖」をテーマとしているよりも、その恐怖との対比として「地球の生」を描きたかったんじゃないかと思う。
地球の水面に着水、神舟の ハッチを開き流れ込む水に翻弄されるライアン。この時の作中の音は「ライアンが水の中にいるときだけ音が消える」という宇宙空間と同じ演出なのだが、これ は水の存在=生を表現しているのだから意味合いは全く真逆の無音であるわけで、ライアンが水面まで泳ぎあがるシーンに移る一匹のカエル、なんとか岸まで泳ぎ着いたライアンが笑うような、泣くような複雑な顔で泥を握るシーン、ラスト5分で「地球という星の生命を育むすばらしさ」が表されているというか。そし てそこで初めて映画内初の「GRAVITY」……重力がライアンを包み込む。このシーンのためにあったんだよ、宇宙空間でのお話は!(リンク
としていますね。

 少なくとも日本では余り宗教的・神学的な解釈と言うのは見当たらないようですね。

※映画の脚本は、ここ
※キュアロン監督へのインタヴュー記事は、ここ

 では次回もう一つ映画を取上げます。
 (またもや見ていない。でも日本ではまもなく試写会が行なわれるという時期ですからいたし方ありませんね。)



2014年3月1日土曜日

(3)英語圏ブログ紹介⑪

時々しかこのシリーズ更新しないので、毎回何回目だったか忘れてしまいます。

それでまたリストを作って確認。

① Chuck De Groat・・・ブログの新アドレスはこちら
② Rachel Held Evans 
③ Tim Gombis 
④ Larry Hurtado 
⑤ Andy Rowell 
⑥ Michael Gorman・・・リンク戻りました。 
⑦ Jason Goroncy
⑧ Andrew Jones・・・ブログの新アドレスはこちら
⑨ Chris Tilling
⑩ Nijay Gupta (Crux Sola) 

今回紹介するのはサイドバーにもある、Ben MyersのFaith and Theology。
今回取り上げたのは、最新記事が宮崎駿アニメ作品の寸評が出ているから。
Hayao Miyazaki In Praise Of Air 

宮崎監督を誰と比較しているかと言うと、
Lover of all that flies or that dreams of flight or that flies only in dreams! Of the four mythical elements, Tarkovsky made films out of Earth, Kubrick made them from Fire, Orson Welles from Water – but to you belongs the consummate artistry of Air.
と言うわけです。

原初世界は四元素からなっていた、と言う神話の世界を映画では
タルコフスキー・・・地
キューブリック・・・火
オーソン・ウェルズ・・・水
と来た後に
宮崎駿・・・空
となるのだそうです。

以下その記事で取り上げられている宮崎作品は
  1. 風の谷のナウシカ
  2. 天空の城ラピュタ
  3. となりのトトロ
  4. 魔女の宅急便
  5. もののけ姫
  6. 千と千尋の神隠し
  7. ハウルの動く城
  8. 崖の上のポニョ
  9. 風立ちぬ
となります。

どうやらバルトなど難しい神学書を読むベンが愛しているのはイマジネーションに溢れたアニメなのですかね。
少なくともベンは宮崎アニメファンのようです。

2014年2月2日日曜日

(1)父と暮らせば

これまでは豊島区の図書館を利用してきたが、暫く前から文京区の図書館を利用するようになった。

きっかけは丸谷才一の「エホバの顔を避けて」が豊島区では見当たらず、ネットで検索していたら文京区の図書館にあったからだ。

予約して取りに行ったついでに「DVDセクション」をちらっと見てみた。

大して数はない。
娯楽的なものは更に少ない。
(寅さんシリーズはかなり揃っているようだが・・・。)

そんな限られた中で見つけたのが「父と暮らせば」。
井上ひさし原作の原爆についての映画だ。



一応評判になった、賞も幾つか取った映画だったような記憶があり、借りてみることにした。

どうも2時間近くも見続けると言うのは苦痛ではないかと思ったのだが、見始めたら終わりまで見てしまった。

原爆という以外全く予備知識がなかったので、原田芳雄演ずる父親がどう言うことなのか最初分からなかった。

ようやく娘の行く末を案じて現れる「死んだ親父」と分かってから、ストーリーが分かり易くなった。

宮沢りえ演じる「生き残った」娘の心の負い目がテーマなのだと、そして何とか父がその負い目から解放しようと画策する姿がコミカルに演じられているのが面白さなのだと、分かった。

ストーリーは淡々と進み登場人物も限られている。

特にうるうるする場面もなく、しかし父が原爆の恐ろしさを「紙芝居」風に語る場面が変に緊張感を持っていた。

最後、ひっそりと余生を過ごさねばならないと自分を追い込む娘が原爆直後の瓦礫の下敷きになった父を回想する場面がクライマックスとなる。

父を見放せない(実際は助けられなかったことを苦にしていたのか)娘が、父から「逃げろ」と促され、板挟みとなる。

じゃんけんで決めることにするが、父はその昔娘をじゃんけんで勝たせる遊びをやっていたらしいのだが、グーを出し続けるが、それを知っている娘もグーを出し続けこう着状態になり、互いに「逃げろ」「見捨てられない」の言い張り合いとなる。

この場面にきてやはり涙ポロリ、となってしまった。

原爆、戦争の悲惨さを父親と娘の情愛の切なさで際立たせたドラマであった。

それにしても木下演じる浅野忠信は存在感薄かったなー。

2011年9月7日水曜日

映画「ツリー・オブ・ライフ」

めったに(映画館で)映画を見ない筆者だが、この映画には多少「見に行って来ようかな」と言う衝動ともつかない好奇心が湧いている。
既に何度か簡単な寸評やネットやメディアの伝聞でその内容みたいなものをイメージしている。
何か大きなストーリー(宇宙史、生物史、人類史)を舞台に繰り広げられる核家族の普通の物語り、と言う風な・・・。

たまたま手にした昨日の朝日の夕刊、池澤夏樹のコラム『終わりと始まり』でこの映画評が載っていた。
と言うわけで彼の映画評の文章を糸口に今日の記事を書き始めてみよう。

このブログでは以前池澤氏の文章を取り上げたことがある。池澤夏樹「多神教とエコロジー:世界を支配する資格」、ではいくらか彼のキリスト教解釈について辛口の文章を書いた。 今回取り上げた映画評もたまたま彼の「キリスト教解釈」が引っかかってくる。
 「ツリー・オブ・ライフ」にキリスト教の色は濃い。そもそも「生命の木」とは旧約聖書でエデンの園に「善悪の知識の木」と並んで生えていた木だ。
だが、人間はこの世界で他の被造物の上に立つ別格の存在であり、神の愛でる子である、という楽天的な世界観は採用されていない。
映画の最初に「ヨブ記」からの言葉が掲げられている(引用省略)
と、言うようになぜか氏はこの映画にキリスト教の意義を読み込もうとしているようなのだ。

筆者はまだ見ていないので、この映画がどれほど「キリスト教の色が濃い」のか何とも言えない。
少なくとも池澤氏の評では「キリスト教」に当たる部分は、宇宙創成と重なるという意味での『創世記』と、『ヨブ記』からの引用だけのようだ。
それならば旧約聖書の「トーラー(律法)」と「詩歌・知恵文学」だけで「預言書」を含まないということになり、新約聖書(本来のキリスト教を性格づける聖書)とは直接関連のない、とも言い換えることが出来る。むしろユダヤ教の幾つか(大きなものだが)のテーマを隠喩的に用いているだけかもしれない、とも言えるのではなかろうか。

しかし池澤氏は続ける。
 大事なのは世界は人間のために作られたのではないということだ。人間が登場しなくても世界は完結していた。それでも我々は「神は与え、神は奪う。その御名はほめたたえられよ」と言わなくてはならない。
家族がずっと考えているのはこのことだ。今、東日本大震災の後でぼくが考えているのはこのことだ。キリスト教の信仰とは別に、なぜ震災でたくさんの人が亡くなったのか、なぜ大地は揺れるのか、その先のどこに生きる意味があるのか?(強調は筆者)
ははーん。なるほどそこに持って行きたかったのか。とすると、映画でのヨブ記からの引用も、氏にとっては「宇宙創成についての知識をヨブに問う神」の言葉としての意義ではなく、「神義論」への布石なのだ。

さて一通り氏の映画評を咀嚼した後、ニューヨーク・タイムズでの映画評(リンク)にも目を通してみた。
Not Mr. Malick (who prefers to remain unseen in public) but the elusive deity whose presence in the world is both the film’s overt subject and the source of its deepest, most anxious mysteries. With disarming sincerity and daunting formal sophistication “The Tree of Life” ponders some of the hardest and most persistent questions, the kind that leave adults speechless when children ask them. In this case a boy, in whispered voice-over, speaks directly to God, whose responses are characteristically oblique, conveyed by the rustling of wind in trees or the play of shadows on a bedroom wall. Where are you? the boy wants to know, and lurking within this question is another: What am I doing here? (強調は筆者)
永遠から永遠に流れる命の流れの中で、人間の根本的存在意義が人間を取り巻く大きな世界の背後にある「神と思しき存在」に発せられ、そして確たる答えがなくその問いは自己の存在証明の問いとして継続される。
と言う風な宗教的設定としてこの評者は捉えている様だ。

所謂キリスト教的背景はある意味米国と言う文化圏から言えば前提であり、格別この映画が「キリスト教の色が濃い」わけではなさそうである。
ただ池澤氏が見落としていて、キリスト教的視点として言及されているのは「死者の復活」である。
だからと言ってそれが「キリスト教的に」解釈されていないことは明らかだ。
だからタイムズの評者は「宗教的に濃い」とは言えても、特に「キリスト教的に濃い」とは言えないはずだ。

恐らく欧米の知識人にとっても、更に日本の知識人にとってはなおさら、「キリスト教」が意味するところは多分に西洋文化に浸透している事柄や、聖書に言及するかどうかと言った事柄なのではなかろうか。
なぜなら「キリスト教」にとって決定的とも言える「イエス・キリスト」の存在とその意義に言及することなく「キリスト教の色が濃い」とかどうとか言えたものではないからである。
もしこのような知識人が敢えて「キリスト教的」と言う表現を使いたいのであれば、「キリスト教文化の色濃い」と言った一枚壁を挟んだ物言いにしなければ厳密とは言えないであろう。

何はともあれ、「ツリー・オブ・ライフ」はなかなか魅力的な映画であることは確かなようだ。そしてその解釈の仕方も多分色んな方向に出来るのだろう。池澤氏だけでなく。

2011年6月3日金曜日

「ミツバチの羽音と地球の回転」

標題タイトルの自主上映ドキュメンタリー映画を早稲田奉仕園で見てきた。

映画のオフィシャルサイト

鎌仲ひとみ監督のドキュメンタリー映画としては三作目のようだが、「ヒバクシャ -- 世界の終わりに」「六ヶ所村ラプソディー」に続く原爆、原発から来る被爆の問題群を一貫して追跡している映画である。

今回の映画の構成は二つになっている。
メインは中国電力・上関原発反対運動に島をあげて取り組んでいる祝島の人々の生活ぶりである。漁業と農業で暮らす高齢化の島。島と島を取り囲む環境に対する島民の思いがひしひしと伝わってくる。そこに無理やり原発を持ち込もうとする大企業と島民との闘争。力関係から圧倒的不利なのだが、島民は一致団結して反対運動に体を張って取り組んでいる姿が感銘を与える。

間に挟まれているのは人々の生活と密着したエネルギー政策を地域の人々が主体的に選択しているスエーデンの村の様子。またエネルギー転換や節電、エコを推進することで企業価値を高めようとする試みなどが紹介されている。自分たちが使うエネルギーを自分たちで選択する、というスエーデンの姿が原発問題を抱える日本の将来にヒントを投げかける。

監督の原発に対する姿勢は明確だが、映画はそんなイデオロギーがかったものではなく、島の生活を、島に生きる人々の考えを丹念に描いている。彼らの反対運動は真剣だが、四六時中眉間にしわ寄せているだけでなく、ユーモアや人間性を感じさせる場面が幾つも描かれている。

2時間15分はちょっと長い気もするが、全体に「人が生きる」原点を随所で考えさせてくれる点ドキュメンタリー映画の強みではないかと思った。

上映後は鎌仲監督の30分を越えるトークがあり、福島第一原発による内部被曝の危険などに関して、今までの自身の映画製作を通して蓄積された被曝に関する薀蓄を披露してくれた。
来場者の中には問題意識の高い方も結構いたであろうし、既に既知のことも多かったであろうが、監督の啓発的でいて機知に富んだトークは聞いていて気持ち良いものであった。

このブログで取り上げた原発問題に関する情報源となった人々(小出裕章、後藤政志、田中三彦、藤田祐幸、石橋克彦、広瀬隆、広河隆一、等)は今や多くのメディアに取り上げられるようになった。
鎌仲監督も日本の今後のエネルギー選択を考える上で映画の中でも取り上げた飯田哲也氏や田中優氏などの名前を挙げていたが、代替エネルギーにせよ内部被曝の危険にせよ、とにかく私たち自身が必要な情報を自分で確保する大切さを強調されていた。

※入場料1,000円はすべて義援金として寄付されるそうである。
【義援金送付先団体】
測定器47台プロジェクト(リンク)    
母乳調査・母子支援ネットワーク(リンク)

このような草の根的啓発運動が今後も市民の原発問題への意識を高め、選択できる社会へと変えていく力となることを願う。

是非皆さんも機会があったらご覧ください。

2011年2月21日月曜日

文化批評

文学作品、アート、音楽、映画、・・・いわゆる現代文化メディアは作品を介して作者と視聴者(鑑賞者)が対峙するだけでなく、批評(家)が存在する。

ある人は「批評家」など必要ないと言う人もいるだろう。
視聴者が自分で納得するように作品を鑑賞すればよいのだ、と。
又アートを作る側でも「批評家」たちに理解されず、評価されず、残念な思いをすることも多いに違いない。

しかし作者の側でも、一般鑑賞者の側でも、それなりに作品を鑑賞し、批評する第三者の意見が欲しい場合があるのは否めない。
特にその作品の背景となる歴史や文化の影響に関する専門的知識を持っている批評家たちの鑑識眼に助けられて、よりよく作品を鑑賞できる・・・と言うことがある。

日本において西洋クラシック音楽の批評家の大家を一人挙げよと言われれば吉田秀和氏の名前は外せないだろう。彼の批評の対象となる音楽そのものだけでなく、彼の批評する文章それ自体が一つの作品のように感ずるほど軽妙洒脱な表現を用いる。
ところが先日の朝日新聞の音楽展望コラムで彼は「相撲の八百長問題」を取り上げ、最後までそれに終始した文章を書いたのである。
あれっ、音楽と相撲に何か深ーい関係でもあるのかしら・・・と思わされたほどである。(多分大衆芸能としての相撲が音楽鑑賞とどこかで通底するのであろう。)

さて、話が寄り道してしまったが、本ポストで話題にしたいのは映画のことである。
教会には様々なイベントの案内が郵送されてくるが、そのうちの一つがいわゆる「キリスト教に関連した映画」の案内である。
筆者は最近は映画など殆んど見に行く機会がないので、そのようなパンフレットを頂いても殆んど関心を持たないか、せいぜい会堂の掲示板に貼っておくだけである。

こういう言い方をしては何だが、キリスト教関連の映画だから、と言うことで教会に案内が送られてくることに少々違和感を感じるのである。
パンフレットに添えられた文章には大抵「伝道に用いて下さい」みたいなことが書かれていたりする。
「それはちょっと違うだろう」と思うのである。
むかーしビリー・グラハムの伝道映画あったが、ストーリーの最後の方にクルセードの場面が出てくるのが決まりであった。
あのようなストレートな「キリスト教映画」は今は殆んどお目にかからないが、配給会社が教会宛に映画案内を送りつける手法には(そして動員を当て込む手法には)このような昔の名残を感じるのである。
(映画)作品は伝道に好適かどうかではなく、作品として素晴らしいかどうかが大事ではないか。
「内容がキリスト教に関連するから」ではなく、「キリスト教に関連し、作品的に素晴らしいので推薦します」と言うような案内をして欲しいものである。
また内容的に直接キリスト教に関係なくても、テーマ的に相応しいから推薦してください、と薦める作品もあるだろう。

と、まー文句みたいなことを書いたが、最近案内が送られてくる映画は段々内容的に一定レベルに達しているものが出てきているようである。
今年になって目に付いたのは、「大地の詩 留岡幸助物語(公式サイト)」や、イギリスで奴隷解放運動の立役者となったウィリアム・ウィルバーフォースを描いた「アメージング・グレイス(公式サイト)」。
それから案内が来たわけではないが、「ヤコブへの手紙(オフィシャルサイト)」や「ハーモニー 心をつなぐ歌(紹介サイト)」も評判がいい。