連載が1で頓挫してしまったか、とご心配かけた読者にはお詫び。
実は「見てから」と思ったが、けちな性分で新聞に載っていたこの映画の試写会に応募していたのだ。
が、(当然の如く)当たらなかった。
で、またも見ずして紹介することになりました。
「見ずして紹介する者は幸いなり」とは聖書のどこにも書いてありません。あしからず。
映画製作に至る経緯も紹介されている映画オフィシャルサイト へどうぞ。
しかしこの実話を基にしたと言う映画、またしても戦争の『傷跡』というものの執拗さを思う。
第二次世界大戦は1945年に終わった。
しかしその『傷跡』は至る所、ばら撒かれ、尾を引き、
もちろん忘れようとする力もあり、また忘れまいとする力もあり、拮抗している中で『普通の時間』は経過して行き、今2014年はある。
この映画は「赦しと和解」というキリスト教神学のテーマを持っている、と言うことで、Center For Public Christianity (音声ファイル)で映画評がなされている。
主人公が「戦争捕虜尋問」で通訳をした永瀬氏を追跡し、ついに面会して「あの時起こったこと」のあるがままの意味、戦争捕虜に対する強制労働という『殺人』を認めさせる。
二人は後に友人となり、死ぬまで交信を続けたと言う。
ナンキン・アウシュヴィッツ・ヒロシマ・オキナワ・シベリヤ・レイテ・アッツ・ツールレーキ
世界中に散らばる戦争の『傷跡』を物語るストーリーは、非人道的戦争を潜り抜けて、非人間化された人間が再生するために、今も執拗にその『傷跡』の存在の承認を求めて追いかけてくる。
そして何度でもそれに対峙して、認識して、可能な限りの和解をして、私たちは前へ向かって生き延びていくのだろう。
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