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2019年8月15日木曜日

(4) 2019「終末論」ノート③

今年6月10日の日本福音主義神学会・東部部会研究会に端を発したフェイスブック上の意見交換が「終末論の勉強会」に発展した経緯を書いてきた。(2019「終末論」ノート①(4) 2019「終末論」ノート②)


勉強会に参加したのは筆者も含め3人。7月25日(木)の午前中、約2時間をかけてなかなか中身の濃い学びができた。
焦点は「千年王国」であったが、それだけにこだわらずなるべく広く浅く「終末」に関わる疑問や関心を話し合った。
(※ちなみにこの三人はもともと同じ教会グルーブに属し、かつては何回か神学の勉強会をした仲である。)

さて今回の勉強会では「千年王国」に多大な関心を寄せるK氏にメインの発表をしてもらい(と言っても20分ほどの短いプレゼン)、筆者が応答するという形をとった。

この記事には内容の詳述も紹介もしない。

と言うのもK氏はもともと「携挙」やそれに伴う「レフト・ビハインド」のイメージにかなり影響を受けてきたのが、前述したとおり大きく改変中の最中である。
「罪から救われて後は天国行き」のような「あの世」的キリスト教のパラダイムで生きてきたのが、ライトのような「この世」で積極的に生きるキリスト教のパラダイムに転換しつつあり、その文脈の中で「千年王国」の重要性に気づいたという経緯がある。

しかし筆者の方はと言うと、前述したように(本末転倒したようなと思える)終末論諸説を忌避し距離を取ってきた。

つまり、両者とも終末論に関しての聖書知識にしても、神学的把握にしても浅薄な段階ではまともな議論は無理だと思うのである。
(終末論に関して)知るべきことのせいぜい2~3割程度の者たちが勉強会でできることと言えば、幾らかでも大胆に自分の無知さ加減や疑問を披歴し、有益な著作や情報源を交換し、そのようにして今後の研鑽を相互に促すことだろうと思う。

K氏に関しては現時点での「千年王国」に力点を置いた「終末論」を自身のブログに掲載しているのでそれを参照されたい。

筆者の方でここに提供しておきたい資料としては、
 ①G.B.ケアード、Jesus and the Jewish Nation.
 割合短い論文だが、イエスの神の国宣教がイスラエルという民族国家を対象にした迫りくる国難回避の一大キャンペーンの性格のものであったことを論証している。

Oskar Skarsaune, “Jewish Christian Sources Used by Justin Martyr and Some Other Greek and Latin Fathers.” P. 412. Ch. 13 of Oskar Skarsaune and Reidar Hvalvik, eds. Jewish Believers in Jesus. Hendrickson, 2007
 近年、初期キリスト教史における「ユダヤ人キリスト者の影響」研究が盛んになってきた。オスカー・スカルサウネは以下の様に「メシア王国」への期待がオリゲネスの時代以降にも生き残っていたことを例証している。
           Having surveyed the material in Justin and Irenaeus in this brief fashion, it remains to add some words on the development of the millennial tradition more generally. I use “millennial” here in a rather loose sense, and should perhaps talk about “literal fulfillment of the messianic prophecies on this earth” as the topic of primary interest in our context. Whether this fulfillment is conceived to take place according to a one-step eschatological model (life eternal taking place on earth, and being inaugurated at Christ’s return), or a two-step model (a millennial period on earth prior to life eternal) is of less importance. According to both models, fulfillment of messianic prophecies is taken to be both literal and earthly, with a renewed (earthly) Jerusalem in its center.
          From Origen onwards, this way of thinking about the realization of the biblical prophecies was branded “Jewish.” Such was the influence of Origen that most of the Fathers followed him in his denunciation of “Jewish” eschatology. “Millennialism” was gradually marginalized. It did not disappear, however, and may have been stronger “on the ground” than our rather selective sources will make us believe. ……In the latter half of the fourth century, Jerome quoted and combatted a strikingly Jewish interpretation of messianic prophecies that amounted to a remarkable millenarian scenario in which the millennium would be the messianic reign of Christ among a restored Jewish people in Jerusalem. Jerome’s unnamed source for this is probably Apollinaris of Syrian Laodicaea.

以上でひとまず終了することとする。

2018年8月14日火曜日

(3)パウロと“ユダヤ教”

2017年に新改訳聖書の新しい訳が出版された。
筆者が購入したのはそれより大分遅れて今年の7月だった。
それ以降「聖書通読」の時にはこの新改訳2017を使っている。

訳文にはかなり大幅な改訂がほどこされた(ような)ことを聞いていたので(かえって)期待して読んでいるのだが、「これは!」と思う箇所は(残念ながら)あまりない。

さて今朝の通読箇所でガラテヤ1章を読んだ。
新鮮に目に入ったのは13、14節だった。
1:13 ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。(新改訳2017)
1:13 以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。(新改訳)
何が新鮮だったか、と云うと引用で強調したように「ユダヤ教」という語が用いられていることだった。
それで旧を見てみると「ユダヤ教徒」とはあるが基本的には変わっていない。

つまり自分の方の受け取り方に従来とは違うものがあったことに気がついた。

端的に言えば、「えっ当時『ユダヤ教』という呼び名が通用するほど一つの宗教としてのまとまり・個別の輪郭を持っていたっけ・・・」という疑問であった。

つまり、使徒パウロの「回心前」と「回心後」の違いを、「パウロとユダヤ教」の関係で表すとどうなるか、と云う問題でもある。

図式化すると大体3通りになる。
(1)回心前=ユダヤ教、回心後=キリスト教
(2)回心前=ユダヤ教、回心後=キリスト教、とユダヤ教
(3)回心前=ユダヤ教、回心後=ユダヤ教、とキリスト教

これでは細かなニュアンスが表せないが、要するに回心後のパウロにとってユダヤ教はどうなっていたのか、という問いである。

「キリストにある」素晴らしさのゆえに、ユダヤ教を誇りに思っていたことはすべて無価値となり、律法も含めて否定したのか・・・。

キリスト者となった後も、自身はユダヤ人として行動したが、異邦人キリスト者にはユダヤ教は必要ないと教えたのか・・・。

そんなパウロ自身の「アイデンティティ」にも関わる問題であり、当然ガラテヤ書やロマ書の理解に大きな影響を及ぼす問いでもある。

英語では、最近 Paul Within Judaism という視点が大分取り上げられるようになってきた。簡単に言うと、パウロは回心後もユダヤ教から出ていない、という見方だ。

興味深いので新改訳2017だけでなく、N.T.ライトの個人訳新約聖書であるKNT(Kingdom New Testament)の訳文を引用しておこう。
13 You heard, didn’t you, the way I behaved when I was still within ‘Judaism’. I persecuted the church of God violently, and ravaged it. 14 I advanced in Judaism beyond many of my own age and people; I was extremely zealous for my ancestral traditions.
[2018/8/14 追加]
※N.T.ライト読書会ブログに「Paul within Judaism」をアップしました。
この記事で書いたことのアカデミック版のようなものです。ほぼすべて英語ですが、ネットで読める関連記事を色々紹介しています。

《関連記事》

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き2)


2017年8月30日水曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き2)

宗教改革を越えて、ぼんやりと意識していた地平は「古代教父時代」だったわけですが、その地平はあまり深堀せず次に向かったのが「第二神殿期ユダヤ教」の地平でした。

第二神殿期ユダヤ教については筆者の見えている範囲でちょこちょこと書いたことはあるが、一番まとまっては第二神殿期ユダヤ教 ということになるみたいだ。

前回はこの中で最近(と言っても日本で、しかも保守的なキリスト者の中でということになるが)話題となってきたNew Perspective on Paulについて書いた。

「最近の読書に見る流れ」というタイトルで書いているので、具体的に本を取り上げていこう。

(3) Oskar Skarsaune, Reidar Hvalvik 編著、JEWISH BELIEVERS IN JESUS: THE EARLY CENTURIES (2007)
(4)ダニエル・ボヤーリン『ユダヤ教の福音書: ユダヤ教の枠内のキリストの物語 (2013)
(5)Amy Jill-Levine and Marc Z. Brettler eds., The Jewish Annotated New Testament (2011)



(3)についてはこの記事この記事で少し紹介した。

今回紹介するにあたっての関心事は、初期「キリスト教」と「ユダヤ教」との関係、そして「ユダヤ人キリスト者(民族的にはユダヤ人だがイエスをメシアと信じた者たち)」の歴史だ。

新約聖書時代はキリスト者、特に指導者は総じてユダヤ人であり、パウロの伝道を見ても地中海都市にあったユダヤ人会堂が舞台となっていた。

ざっくり言えばキリスト教はユダヤ教の一派であり、数世紀かかって二つは「分離(the parting of the ways)」したのだ。

原始キリスト教会の「ユダヤ教とキリスト教の関係」そしてある時から「二つが袂を分かった(the parting of the ways)」ことについては、最初にそれとして関心を持ったのは、Graham N. Stanton, A Gospel for a New People: Studies in Matthew を読んだ時だった。

スタントンはこの本の「パート2」でマタイ福音書(マタイ教団)の背景としてユダヤ人会堂からの分離問題を取り上げているのだが、この「分離」がほぼ一世紀中には終了している風な印象を抱いた。

しかしスカルサウネ編論文集を読むと場所にもよるが、その後数世紀に渡って関係が続いたと言うことを知った。

それまでキリスト教会は異邦人世界に浸透するに従い、ユダヤ人信者の存在もユダヤ教の影響も急速に衰退した・・・というイメージだったので、大幅にではないが、二つのグループの相互交渉・影響が数世紀続いたと言うことを知って何かほっとした感じだった。

(4)とボヤーリンについては既に紹介している。(この本は購入してではなく図書館で借りて読んだ。)

そしてその本の中の議論が使われている動画を「マルコ7章16節」問題として数回にわたって連載した。


ある意味この辺から「キリスト教」と「ユダヤ教」の境目が段々と微妙に映るようになって来た気がする。そしてユダヤ人(学者)が福音書に接する時の距離感の近さに対して、(現代の)異邦人学者の距離感の遠さに対する自覚のなさ、みたいなことを思ったりした。


(5)は前々から気になっていてずーっと「ウィッシュ・リスト」に入ったままだったが、「この流れ」が強まってきてついに最近購入した。

編著者の一人、エイミー-ジル・レヴィンについてはここで簡単に紹介している。(発音はレヴァインではなくレヴィンが近い。)

新約聖書についてユダヤ人の学者たちが多数集って「註解」や「関連論文」を執筆すると言うことは(本人たちの弁によれば)画期的なことだという。本当に最近になってから可能になったプロジェクトで、30年くらい前だったら想像も出来なかった、とこのポッドキャストで述懐している。

エイミー-ジル自身、メソジスト系のヴァンダービルト大神学部の教授を務めていて、「時代の変化」を表しているのだが、近年の「史的イエス」研究や「パウロ研究」でのユダヤ人学者たちの貢献はどんどん増えてきており、(いい意味で)刺激を与えているように思う。


いまの所は「へーそんなもんか」でやり過ごしているが、これらのユダヤ人学者たちが「新約聖書文書は(ある意味)ユダヤ教文書でもある」として研究を積み上げてくると、ちょっと意外な展開が将来起こってくるのではないか、とも感じている。


《次回予告》
いよいよ昨年から今年に入って読んできた3冊を紹介する(うち1冊はまだ読んでいる)。
これを書いておかないと「義認論ノート」の終わりの方に書くことがピンボケになるかも知れないので、それでこう言う形で書いて置くことになったわけだ。

2017年8月28日月曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き1)

前回紹介したのは

 (1)ロバート・ウェーバー『コモンルーツ』
 (2)ウィリアム・エイブラハム他編著『カノニカル神論』

の2冊だが、これら二つは宗教改革後の福音主義神学が理性主義に傾きすぎて、教会生活・信仰生活が(日本語でそれらしき表現を使うと)「情操」的に貧弱になってしまったと言う反省から生まれたものと言えるだろう。

その「欠落した」何ものかを宗教改革以前、特に「古代教父時代の遺産」に遡って探したわけである。

この記事は自分が購入して読んだ(読んでいる)本を軸に書いているのだが、それで言うと読んだことがないので話は逸れるが、この時点で紹介しておきたいのがトーマス・オーデンであろう。

彼はリベラル陣営の神学者でありながら、相対する福音派のロバート・ウェーバーとほぼ同時期にウェーバーと同じように「近代」から「古代」へとUターン した人物である。(オーデンの紹介記事としてインターバーシティ出版社サイトCTの記事をリンクしておく。)

この二人を比較対照するのは結構面白いことではないだろうか。

近代プロテスタンティズムの発露として「神学的リベラリズム」があり、それに対抗するように「キリスト教保守主義・正統主義」が位置するわけであるが、構図的には対立するウェーバーとオーデンが神学的には違う経路を辿りながらも、古代教会と云う同じ場所にUターン したわけである。

リベラル神学にせよ、(しばしば反・近代と思われている)福音主義神学にせよ、どちらも近代主義から来る「欠落」があり、それを自覚し、修正を求めて「古代教会の遺産」に向かったと言うことは、現代プロテスタンティズムを考える上でやはり一つの大事な動向であろう。
※当ブログで取り上げたゴードン・T・スミスの『福音派のパラダイム・シフト』⑤では福音派のアイデンティティーの一つである「回心主義」の背景となるリバイバリズムの歴史の見直しが指摘されており、その関連でウェーバーとオーデンが言及されていた。

New Perspective on Paulの地平

宗教改革を越えた地平の一つ目が「古代教会」とすると、次に取り上げる地平は「NPP(パウロ神学への新視点)」ということになるだろう。

NPPに関してはこのブログでも、N.T.ライト読書会ブログでも度々関連記事を書いたのでここでは特に取り上げようとは思わない。

ただ次に紹介する地平「第二神殿期ユダヤ教」に繋げる橋渡し的なことをメモしておきたい。

(1)OP 対 NPP

NPP自体は1970年代からの動向と見たり、W.D.デーヴィスの『パウロとラビ・ユダヤ教』(1948年)やクリスター・ステンダール(1960年代)を含めて言及したり少し幅があるが、新約聖書の背景としてのユダヤ教諸文書の研究の積み上げの中から出てきていることを見る必要がある。

パウロの「義認」理解に関し、宗教改革の伝統的解釈(をOPと呼んだりする)に対して「新しい視点(NPP)」を提案したのは、このアカデミックな研究の積み上げからの一つの例、一つの適用と云う点が理解される必要があると思う。

しかし伝統的解釈の立場の者たち(主にリフォームド)はこれをあたかも「OP 対 NPPの直接対決・全面対決」のような受け止め方をする傾向がある。

その理由は幾つかあると思うが次の二つは大きいだろう。

 (a) NPPはパウロの「義認」理解のために新約聖書正典外 の様々な情報を多く採用する。
 (b) OPの伝統的「義認」理解を支持する者たちは宗教改革以来の聖書解釈原則である「聖書テクストの自明性(perspicuity of Scripture)」)に依拠した神学、教理的解釈に終始する傾向がある。

つまり(a)と(b)はコインの裏表のような関係であり、聖書テクストへの光の当て方において方法論的対立を抱えていると言える。(もちろんそれが全てではないだろうが・・・。)

さらなる対照として、NPPの方はより「歴史的文脈に即した聖書テクスト理解」を志向するのに対し、OPの方は「『義認』に対して与えられている教理的・組織神学的意味を保全する聖書テクスト理解」を目指しているように見える。

以上は昨年「N.T.ライトの義認論」で討論をした当事者としての体験から感じたことで、やはり方法論的アプローチの違いが大きいと思う。

(2)「教理」対「聖書(スクリプチャー)」の関係

パウロの「義認」とその関連語で織りなされている聖書テクストをどう読むかと云う問題は、ある立場から言えば「教会の存立基盤」に関わる最重要教理問題であり、単なる(というと語弊があるが)一聖書テクストの解釈問題では済まないのである。

しかしその認識が強すぎるために、教理的拘束性が聖書テクスト解釈の幅を制限していないか、との問いは立てられてしかるべきだろう。

完成形、と思われた教理的構築物である「(信仰)義認」をもう一度パウロの手紙の中に解き放ち、歴史的文脈が指し示す「地平」(一世紀ユダヤ教の文脈にあるパウロの福音の全体像)を見渡してもう一度再構成する、そのような「宗教改革を越えた」試みが求められているのではなかろうか。


というわけで、次はいよいよ「第二神殿期ユダヤ教」に関わる本の話題に入って行きたいと思います。



2017年3月9日木曜日

今日のツイート 2017/3/9

デーヴィッド・コンドン(この記事でも紹介しました)が「ツイッター神学校」というのを始めました。


第一回目は合計50個のツイートです。

テーマは「伝統(tradition)」

主に北米における福音派の神学的動向を幾つかの主要な要素(「聖書無誤論」「文化戦争」)を軸に分析し、プロテスタントの「反・伝統」的な性格が(今や)伝統に傾斜・回帰し始めている「神学的現在地点」を捉えています。

そこで「伝統」とどう対峙するか、という問題提起にルドルフ・ブルトマンの「ケーリュグマ的視点」を参照しています。(ツイートでいうと#41~#50)

非常にコンパクトにまとめられていて参考になります。
※しかし筆者の個人的な印象から言うと、分析と現状把握(#6~#40) は優れていると思いますが、「ブルトマンの扱い方」(#41~#50)に移行するにはまだかなり距離があるように思われます。

いずれにしても、(筆者の勝手なレッテルですが)「ポスト福音主義」の若手神学者の台頭株の一人と目されるコンドンの「神学的問題の捉え方」は傾聴に値すると思います。

2016年7月23日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年7月24日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 ルカの福音書 11:1-4
説 教 題 「御国が来ますように」
説 教 者 小嶋崇 牧師

いのり(6)


 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。 (ルカ11:2、新共同訳)
 

 「御国が来ますように」と祈るとき、幾らかでも「御国」についての具体的なイメージが浮かぶでしょうか・・・。
 20 世紀以降の西洋キリスト教では、近代化の問題に対応する中で「社会正義と平和」に取り組むリベラル派、それに反発して「個人的救霊(伝道)」を強調する保守(福音)派に分裂してきました。その分裂は「福音」の理解、「福音書」の読み方にもそのまま反映されてきたようです。
 その結果福音書の「神の国」は「この世」での社会正義・平和実現に、「十字架」は「あの世/天国」へと個人を救済する、と二分したメッセージのまま、日本に、そして現在へと、引き継がれてきたようです。

 

2016年7月2日土曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、3

「1 宗教改革」(24-31ページ)

『福音』と『体験』と『聖書』
 この福音の個人的体験は、信仰義認にとどまらない。宗教改革者たちはいずれも、キリスト者としてどのように生きるべきかを、ローマ教皇の教えでも教会の伝統によるのでもなく、サクラメントの秘儀の中においてでもなく、聖書から直接に学んでいった。
 ・・・こうして聖書は、キリストの福音を体験し、福音に生きるための神の言葉としてとらえられていく。
筆者はウェスレアン・アルミニアン(注1)の流れに育ったので「福音とは体験するものだ」式なレールの上で育った。

 恐らく「体験主義キリスト教(そうこの段階で呼んでよければ)」のルーツは、宗教改革者の時代の後、いわゆる正統主義の強調(どちらかというと正しい教理に対する知的承認を信仰の優先事項とした)に対して「敬虔の生活を力動させる心」を強調した敬虔主義の流れがより明瞭なものではないかと思う。

 敬虔主義の聖書に対するアプローチは(正統主義が聖書を教理の源泉とするのに対し)、「キリスト者としての成長」や「敬虔の生活(デボーショナルも含む)」の「霊的糧」という面が強くなったのではないかと思う。

 この流れで後々重要になってくるのは「福音体験」にしろ、「キリスト者の成長」にしろ、「個人的」「主観的」ものの見方が中心になってくる傾向だ。

 上記引用での強調部分は、
 (1)権威の問題・・・教皇・教会の伝統
 (2)「恵の手段」・・・サクラメント
に相当するわけだが、ルター個人の経験が端的に物語るように「個人の信仰・良心」対「制度的教会の権威」の図式になったことにより、宗教改革諸派は「反・ヒエラルキーな権威・権力」を志向することになり、「職制」や「聖典」の問題を制度的な(より外面的な)教会の問題と認識するようになって行ったと思われる。

 「キリスト者の成長」にしろ、「教会の形成・構成原則」にしろ、「聖書解釈に対するアプローチ」にしろ、「伝道方法や対象」にしろ、個人が物事を動かす基準に移行して行くのは、ある意味カトリック教会に対する反動としての面もあることは否めないだろう。(注2

聖書の言葉の明瞭性の根拠は?
 さらにブロミリーは、宗教改革者たちの聖書観には、神のメッセージが人間的なものの中で、・・・つまり彼らは、聖書の大部分は明瞭でわかりやすい言葉であり、それはドイツ語にも英語にも、また日本語にも翻訳し得ると考えた。
こちらの引用に関連する問題は、宗教改革の「聖書のみ(sola scriptura)」 原則が、実際上機能するために必要な「聖書解釈上」の要件である「聖書テクストの意味の明瞭性(plain sense, clarity, perpiscuity)」に関わるだろう。

 この問題についてはいずれもう少し取り扱うことにもなるだろうが、どう控え目に言っても「一筋縄では行かない」ものだといっていいだろう。

 (実際上、この問題は聖書を奉じ且つ読むクリスチャン誰もが多かれ少なかれ感じているだろうと思う。「誰もが聖書を読める」幸いな状況は、誰もが聖書のテクストの意味を巡って対立したり論争したりできる状況をも発生させる。そしてプロテスタントの場合それらを調停する手段は制度的・機構的に弱いと見られても致し方ないだろう。もちろん民主的なルールに希望を持っているわけであるが。)


(次回に続く)


注1・・・「ウェスレアン・アルミニアン」とも「アルミニアン・ウェスレアン」ともいう。両方の言い方があって、多分多少のニュアンスの違いがあるだろう。

注2・・・スコット・マクナイト『福音の再発見』1章に短く書かれている(17-8ページくらい)、バプテスト信者であったスコットの自伝的エピソードを参考にしてみてください。バプテストはある面「個人原理」を徹底し、また「聖書」以外に「信条」や「神学」は無用・・・みたいな方に行ったようです。

2016年2月9日火曜日

(5)ロバート・オルターと聖書翻訳 or バークリーとユダヤ教コミュニティー

※フェイスブックに「カリフォルニアとヘブル語聖書」と題して投稿した記事を加筆して転載

米国遊学で最後に滞在した加州バークリー。

中西部から、東海岸を経てたどり着いた西海岸は「夢のカリフォルニア」とまでは行かなかったが、東海岸の「エスタブリッシュメント」の空気が気に入らなかった私には気持ちのいい場所だった。

それから遡ること17年、バークリーでは『レビ記』註解(アンカー)のジェイコブ・ミルグロム/Jacob Milgrom夫妻(奥さんの方はGTU)を中心にユダヤ教文化センター建設が始まっていた。



ロバート・オルター(Robert Alter)はその2年後、東海岸からバークリーにやってきて彼の「新しい」歴史のページが始まった。


英文学専攻のオルターにとって師となるミルグロム(名前は伏せて少し皮肉っている)のセミナーでの印象や、その後オルター自身が聖書翻と取り組むようになった経緯を綴っている
なかなか興味深い。

※ミルグロムの訃報・追悼記事と合わせて読むとバークリーとユダヤ教コミュニティーの背景がより分かる。
※ミルグロム教授の講義を受講したシェルドン・グリーヴズの回想記事を紹介しているブログ記事
このアラン・ジェイコブスの記事(First Tings、2005年8月号)では、聖書翻訳において「意味を置き換える様な翻訳が結果的に“説明的”になってしまう」翻訳の勘違いを紹介している。 
In criticizing the various “dynamic equivalence” models of translation, I lament what Robert Alter calls “the heresy of explanation””“the use of translation as a vehicle for explaining the Bible rather than representing it in another language, [which] in the most egregious instances . . . amounts to explaining away the Bible.”
このオルターへのインタヴュー記事
では、(旧約)聖書の英語翻訳で「プロテスタント神学概念」で“上塗りされた”テキストの意味を、よりユダヤ的(個物的、詩的等々)な表現を回復することを目指した、と述べている。
But I guess I am, as a translator, what in constitutional law would be called an “originalist.” That is, I want to try to convey in English what I think were the actual values and mind-sets of the ancient Hebrew writers, which is also, in the poetry, inseparable from the concreteness of their language and the compactness and rhythmic force of the poetry they wrote.

Jews as well as Christians have imposed very postbiblical theologies and concepts on the Bible, but these have often been articulated in commentary far more often than in translation, because through the centuries most (not all) communities of Jews were not dependent on translations of the Hebrew. In the English-speaking world, the versions of the Bible we have had have certainly been suffused with Protestant theology, and, as an originalist, I have tried to scrape all that away.
 
この動画はオマケということで・・・。余裕あったらどうぞ。



2016年1月28日木曜日

(3)初レヴィナス

レヴィナスの名前はあちこちで聞くが、ついぞ読んだことがなかった。

(間接的に、つまり誰かがレヴィナスのことを書いたりしたのを読むことは度々あったが・・・。)


先日ついに図書館から借りてきて読み始めた。
エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)『タルムード四講話 』(新装版)


何と言うか
「究理のしかた」が二枚腰とか三枚腰みたいに感じられる。

その辺が読んでいて面白い・楽しい感じがする。

・・・タルムードは何か別の用途に用いられたものの断片を寄せ集めたりなどはしない。具体物の充溢にまっすぐ向かうのである。すべての対象は無数の相を持 つ象徴であり、たえまなく暗示を喚起する。だから、「聖句」に論拠を求めるやり方と「文字に対する偶像礼拝」とを混同するようななまくらな眼力をもってし てはさまざまの意匠を次々と造形してゆく象徴のきらめきはとうてい見切ることなどできぬのである。
当たり前の話だが、「文字どおりの意味」は徹頭徹尾「意味するもの」であって、まだ「意味されるもの」ではない。「意味されるもの」はこれから探されねばならぬのである。
(『タルムード四講話』序言から)

さて2冊目、3冊目と今後行くかどうか・・・。

2016年1月16日土曜日

(5)組織神学の(入門用)教科書談義

組織神学、と聞いてほとんどの読者は「何それ?」ではなかろうか。

しかし西洋キリスト教神学の伝統から言えば「神学する」とは組織神学のことを言うといっても過言でなかろう。

問題はそのやり方だが、やはり何でもそうだろうが「奥が深い」。

しばらく前とあるブログ記事を読んでいたら次のような嘆きというか失望のことばが紹介されていた。

曰く、
北米及び英語圏の福音派神学校・聖書学校で最も使用されている「組織神学」入門用教科書は○○のものである。

この記事に対してコメント欄にはほぼ一様に「嘆かわしい」側からの当該教科書の批判がなされていた。

その中にこういうのがあった。(まあー皮肉っぽいものではありますが。)
Kyle: Yep, I'm afraid you're right. In the opening chapter of his Systematic Theology (pp. 35-37), ○○○○ offers this truly amazing summary of how we should practice systematic theology: (1) "Find all the relevant verses" on a certain topic; (2) "summarize the points made in the relevant verses"; (3) "Finally, the teachings of the various verses should be summarized into one or more points that the Bible affirms about that subject."

Happily, this procedure "is possible for any Christian who can read his or her Bible and can look up words in a concordance". Wow, talk about "scientific" theology!

That description of theological method is hilarious. I thought I'd give it a try - so here's a systematic theology of pissing (following ○○○○'s 3 steps):

(1) I looked up "pisseth" in Strong's Concordance: 1 Sam 25:22, 25:34; 1 Kings 14:10, 16:11, 21:21; 2 Kings 9:8.

(2) The main point in these relevant verses is that the person "who pisseth against a wall" will be condemned and cut off.

(3) Therefore, here is what the Bible affirms about the subject: we should always use the restroom, and all those who piss on walls should be excluded from the church.
○○○○通りに神学すれば、「路上で用を足す者は教会から除外される」となる。とまあからかいコメントですね。

今度のコメントは○○○○の批判ではないですが、教科書の目的は「簡便な回答を与える」ことではなく、実際に神学頭を使うことだ、と申しております。

Hi Les and JBH -- thanks for your comments. And I agree: I hope we can avoid "erudite muck flinging"!

I also agree with you about the charismatic sections of ○○○○'s Systematic Theology -- I think this stuff is very interesting and creative, and it has helped to foster serious theological reflection on Pentecostal/charismatic experience.

But I still can't help feeling discouraged at the popularity of ○○○○'s book as a classroom text -- there are plenty of better books available! In particular, a good theological textbook should model actual theological thinking, instead of merely providing students with the illusion of ready-made answers. After all, many theological students will go on to become pastors: and in pastoral ministry, what's needed is not ready-made answers, but the ability to think theologically in new and unpredictable situations.
今度の方はシンガポールの方ですが、○○○○は退屈だ。それよりマクグラスの方がいいよ、と申しております。

(さらに脱植民地国で神学談義がこれほどつまらないのは、○○○○が圧倒的人気を博しているからかもしれない。と申しております。)

Hi Ben,

Though it's very late for me to comment yet the post and your question are irresistibly intriguing.

Over at Trinity Theological College, Singapore, McGrath's 4th ed. text is preferred as it's a good introduction to theology.

And that'll also lead the students to McGrath's other advanced works.

On the other hand, ○○○○'s text is surprisingly very dull. When I was looking for a systematic theology text, I'd never got enough reason to get ○○○○ though its latest edition's front cover is beautiful.

Not sure if his text is that popular worldwide, but it seems to be so in my part of the world.

If it's true that ○○○○ is the most widely used text, then no wonder the theological scene, especially at post-colonial countries like Malaysia and Singapore (where I'm from), is generally dull and unexciting as compared to other parts of the world.


以上、

2016年1月8日金曜日

(3)涙とともに種を蒔く者

聖書の中にはそれほど難しいことではないが、いま一つその意味がしっくりこない箇所は多々ある。

かなり昔に書かれたというだけでなく、背景となる文化や生活基盤がいまと大分異なることを考えれば当然である。

しかし読みなれた箇所で、分かったつもりでいて実はよくその意味を知っていなかった、ということは時々起こる。

もちろんそう言うときは「目からうろこ」の体験をするときだ。

この動画で、現在デューク大学神学部の学部長代行をなさっているエレン・デイビス教授がそんな体験を語っている。

5分20秒辺りからの場所だが、詩篇の一節を引用する。

涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、
束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。(詩篇126:5-6)

そして語る。
「なぜ涙とともに種を蒔くのだろう、と長年思っていた。
しかしアフリカに来て、ここのクリスチャンたちと一緒に働くようになって知った。
種を蒔くとは、二つのうちの一つを選択することなのだ。
いまその種を腹を空かせた子どもに与えて食べるのか、
それとも来年の収穫のためにその種を畑に蒔くのか。」
つまり、腹を空かせた子どもたちを振り切って、畑に種を蒔く。とても涙なしにはできない。
そんな厳しい生活が背後にある。


これを見て筆者も「なるほどなー」、と思った次第。

2015年10月19日月曜日

(5)無誤論回想二題

聖書無誤論については当ブログでも様々な形で取り上げたが、この記事の導入として
福音主義とは何か(2013年6月)
と題して、福音主義神学会(東部部会)の研究会に出席した感想をあらわしたものを参考にしていただくとよいかもしれない。

行間に「イライラ感」が垣間見られるように、神学会でありながら、何か論争に発展しそうなことを避け、安全運転なトピックを選び続けるのに業を煮やしている観がある。

(1)日本の福音派の中での「聖書無誤論」論争

 さて、今年になって「聖書無誤論」に関して、日本の福音派の中で起こった論争の生き証人的な方々の表白に接する機会があった。

 とても印象深い出来事であった。既にある程度別の記事で文章化したので、そちらを参照していただければと思う。リンク

(2)北米の福音派神学者たちの間での「聖書無誤論」

 ここに紹介するのは、(執筆当時)フラー神学校学長デーヴィッド・ハバードが自身が関わった「福音主義聖書学者・神学者たちの回顧録」である。

Evangelicals and Biblical Scholarship, 1945-1992: An Anecdotal Commentary(リンク
書かれたのは1993年と今から18年前になるが、かっちり整理された歴史と違い、ハバード自身の観察や感慨から、当時の論争の雰囲気がうかがえ興味深い。

 少し抜粋してコメントしよう。


The second factor was the beginning of conversations with members of Fuller's board about the Fuller presidency. These conversations were paralleled by discussions within the Fuller community about the relevancy of "inerrancy" as the means of expressing biblical authority.

旧約聖書学者としてキャリアを積み上げ始めていたハバードが、フラーの学長候補になったことによって、一緒に仕事をしていた幾分リベラル寄りの研究者が論議された経緯を言っている箇所。(この同僚はハバードを配慮して袂を分かったらしい。)

While the work proceeded on the revision of Fuller's doctrinal statement, the issue of the importance and meaning of inerrancy continued to bubble on our campus and across the land. 

フラー学長時代(1963-1968)に「無誤論」の問題が沸騰してきた経緯を言っている箇所。1966年にゴードン(ボストン)のキャンパスでシンポジウムが開催されたとのこと。(おそらく全米での神学論争の口火を切るような会議であったのだろうか。

A memorable debate between Jim Packer and Frank Andersen encapsulated this division. I left Wenham heartened by the common ground among most of the biblical scholars and by my surmise that a number of the theologians were attracted to the term inerrancy more by the desire not to cause division or raise suspicion than by the conviction that it was an essential biblical label.

無誤論に関して、聖書学者と神学者とはある種捉え方の違いがあることをハバードは承知していたが、1966年の段階では見解の相違や不一致に発展するような悲観的な展望は持っていなかったと吐露している箇所。

...Volume 2 of New Testament Foundations in the mid-seventies. The discussion centered on the question of Pauline or Paulinist authorship of Ephesians and the Pastorals. Did we at Fuller want to be first on the block to break with the conservative-evangelical consensus on this? 

 この本を出版するに際し、フラー教師のラルフ・マーティンと「パウロ偽名書簡」問題をめぐって苦悩したらしいことを書いている箇所。

Our main thesis was that inerrancy and evangelicalism were not synonymous. Our chief plea was that evangelicals should unite around our commitment to Scripture and our orthodox heritage and not go to war over any particular word used among us to define Scripture's inspiration.

「無誤(インエランシー)」という語にこだわって亀裂を深めるようなことがないように、とのハバードの願いがあったことを書いている箇所。

Happily, it has led to discussions on the more central question, not how do we describe the Bible, but how do we interpret it. 

「聖書の権威・霊感」の中心的な問題は、聖書がどのような本であるかを定義することではなく、どのように解釈するかにある、という見方であったことを書いている箇所。


北米での聖書無誤論争に関心がある人だけでなく、北米における福音主義興隆期の聖書学がどうであったかを知るにもよい「回顧録」かと思う。

知っている人は知っているあの人やこの人の名前がザクザク出てきます。

2015年6月28日日曜日

(3)主に神学ブログ⑨

さてさて、昨日は米国で「同性婚」に関する最高裁の判決が出された。

このブログの読者はキリスト教関係の方が多いだろうと思うので、しかも「福音派」と呼ばれる立場の方が多いと思われるので、戸惑ったり、気が重かったりしていることと思われる。

(※ステレオタイプに理解されると多少不本意なので断っておくと、この問題は複雑で難しい要素があり、単純に喜んだり、腹を立てたりできないものと思う。)

この「主に神学シリーズ」を始めて気になっていたことがある。

それは「女性」の神学ブログをなかなか紹介できないでいたからである。

そう言うことで今回初めて女性による「神学」ブログをシリーズに加えることがほっとしている。


地の果てまで福音を

はKinukoさんによるブログだ。

どのような方かはよく知らないのであるが、どうも翻訳をなさっているみたいだ。

かなり頻繁に更新なさっている。

そしてカバーするトピックはかなり限られている。(殆ど遊びのような記事は見当たらない。)

特にパウロ書簡(Ⅰコリント11章1-16節)の「かぶりもの」について、驚くほど丁寧に追求されている。

「主に神学」という基準からいうと、まさにこの問題を聖書解釈、歴史神学、実践神学、と多角的に検証している点が素晴らしいと思う。


さて、冒頭アメリカ最高裁判決のことを持ち出したが、「性」「ジェンダー」をめぐる考え方や態度の混乱が続いているが、日本のキリスト教会においてもこれらの一連の問題に対する対応が緊急性を帯びて迫ってくるのではないかと思う。

筆者の見たところこのブログの立場は「保守的」、いやかなりの人は「超保守的」と捉えるのではないかと思う。

しかし、読んでいくうちに気がつかれると思うが、様々な検証の上に、このような立場を選び選択しようとする態度は、反対の立場の人にも理解されるのではないかと思う。

2015年6月1日月曜日

(5)リチャード・ヘイズ日本講演、4

これがシリーズ最終となります。

Did Moses Write about Jesus?

The Challenges of Figural Reading

モーセはイエスについて書いたのか?

比喩的読解の挑戦

は、4月28日、立教大学(キリスト教学研究科主催)を会場に行われた講演です。
講演については主催者サイトで以下のように説明されています。
 本講演は、四福音書の著者たちが、イスラエルの聖書をイエスのアイデンティティーに関する証言として解釈した、その驚くべき仕方について例証し、探求することを目的とする。
 内容的には、最近のヘイズ氏の著作である "Reading Backwards: Figural Christology and the Fourfold Gospel Witness, Waco: Baylor University Press 2014"で探求された、いくつかの解釈学的提案について要約的に報告し、省察を加える予定である。
となっている。

Reading Backwardsに関してはこちらのサイトで簡単にライトの推薦文を紹介しておいた。

With his characteristic blend of biblical and literary scholarship, Hays opens new and striking vistas on texts we thought we knew--and, particularly, on the early church's remarkable belief in Jesus as the embodiment of Israel's God."
--N.T. Wright, Professor of New Testament and Early Christianity, University of St Andrews

講演を通訳した河野師は英語テキストの翻訳もしてくれて参加者に配られた。今回の講演三つともまるで英日両語テキストを比較しながら聞くようなインターリニヤー状態でした。(笑)

ではアウトラインだけ英語のまま掲載します。

I. Introduction: The Evangelists as Retrospective Scriptural Interpreters
 A. The Multivocality of the Gospels
 B. Mark: Figuring the Mystery of the Kingdom
 C. Matthew: Torah Transfigured
 D. Luke: The Story of Israel's Redemption
 E. John: Refiguration of Israel's Temple and Worship
 F. The Challenges of Diversity
II. Gospel-Shaped Hermeneutics?
多分以下の部分を引用するだけでも輪郭がうっすらと感じられると思います。
...the four canonical Gospels are hermeneutically intertwined with the Scriptures of Israel. The more closely I have studied this phenomenon, the more I have been drawn to the conclusion that the OT teaches us how to read the Gospels and that--at the same time--the Gospels teach us how to read the OT. The hermeneutical key to this intertextual dialectic is the practice of figural reading: the discernment of unexpected patterns of correspondence between earlier and later events or persons within a continuous temporal stream.
四つの正典福音書がイスラエルの聖典と解釈学的に絡み合っている仕方について、・・・私は、この現象についてより詳細に研究すればするほど、旧約が私たちにどのように福音書を読むべきかを教えている、との結論へと導かれてきました。この間テクスト的弁証法に対する解釈学的な鍵は、比喩的読解( figural reading) の実践にあります。それはつまり、連続する時間的な流れの中における、先の出来事と後の出来事、あるいは先の人物と後の人物との間の、予期せぬ対応関係のパターンを識別するということです。
比喩的読解についてエリッヒ・アウエルバッハの考察をベースにしているのですが、その部分を続いて以下に(日本語翻訳だけ)引用します。
比喩的解釈においては、間テクスト的な意味論上の効果は、双方向に流れることができます。つまり、先のテクストが後のテクストを照らすとともに、その逆もある、ということです。しかし、ある比喩的対応関係の二つの極の、時間的に秩序付けられた連結は、その比喩の把握(the comprehension of the figure)ーーエリッヒ・アウエルバッハが intellectus spiritualis (霊的洞察)として描写した理解の行為ーーが、回顧的 (retrospective) でなければならないことを要求します。特に、この講演の主題との関連で言えば、旧約の比喩的・キリスト論的読解は、イエスの生、死、および復活の光において、ただ回顧的にのみ可能である、ということです。したがって、律法と預言者はイエスの生涯における出来事を意図的に予告している (predicting) 、といった読み方は、比喩的解釈の視点からすれば、解釈学的な大失敗ということになるでしょう。(強調は筆者)

ここでヘイズによって主張されていることを少し強引に説明してみます。

「旧約(預言)は新約のイエスにおいて成就した」と言う時の単純な《時間的関係》での《意味関係》を、解釈学的な関係で捉え直せば、実はそのような理解は回顧的解釈によって可能になることなのだ、と言うことだと思います。

少し体験的な例を用いて説明してみましょう。

ルカ24章に以下のような箇所があります。
さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(24:44-47、新共同訳)
昔ここの箇所を読んで、「次のように書いてあります」とあるので、旧約聖書のどの箇所だろう、などと思ったことがあります。

実際にはダイレクトにそのように言及されている箇所はない(と言うのが筆者の理解です)が、何箇所かそれに近いような箇所はあります。

《キリストの受難》で言うと有名なのが、イザヤ書53章の『苦難の僕』です。

昔は聖書の真理性を説明するのに、「ほらここにはキリストの苦難の予言が書いてあるでしょう。これは何とそのことが起こる600年前に既に書かれていたのですよ」みたいな使い方があったようです。

これだと、《時間的関係》で先(古い)のものが、後に来るものの意味を明示(予告)していた、と言うかなりダイレクトな対応関係となります。

一般の聖書読者は「聖書預言」をそのようなダイレクトな対応関係のパターンとして理解しているのではないかと思います。

しかし、ヘイズは(預言に限らず)むしろ「予期せぬ」ものであったり、「逆であったり」する間テクスト関係が(四福音書と旧約聖書の間に)成り立つことを論証しているわけですね。

特に「イエス・キリスト」と言う歴史の出来事と旧約聖書(と言う書かれたテクスト)との間に成り立つ関係で言うと、福音書の中で度々弟子たちの「無理解」や「戸惑い」で例証されるように、目の前でイエスが行っている出来事の意味や意義は、その時点では明らかでなかったが、イエスの死と復活の後に「ああ、そう言うことだったのか」と言う風に理解されるパターン、がそうであったということです。

例えばこの箇所が最もよくその点を指摘していると思います。
イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。 (ヨハネ福音書2:19-22、新共同訳)
また、イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入場した出来事も同様に解説されています。
イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」
弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。 (ヨハネ福音書12:14-16、新共同訳)
これらは言ってみれば福音書記者(弟子の視点)のそっと挿入された自画像的説明で、読者への解釈法的ヒントにもなるものです。

ヘイズはこのような解釈視点を、エリッヒ・アウエルバッハの文学理論的洞察を援用しながらシステマティックにやっているのだと思います。


ではここで、ヘイズ日本講演、1で説明を延期した「神学的な解釈」の第9ポイントに少し触れます。
9. Theological exegesis thereby is committed to the discovery and exposition of multiple senses in biblical texts. Old Testament texts, when read in conjunction with the story of Jesus, take on new and unexpected resonances as they prefigure events far beyond the historical horizon of their authors and original readers. The NT's stories of Jesus, when understood as mysterious fulfillments of long-ago promises, assume a depth beyond their literal sense as reports of events of the recent past. Texts have multiple layers of meaning that are disclosed by the Holy Spirit to faithful and patient readers. 
ここで言われる、multiple sensesmultiple layers of meaningを聖霊の啓示によって発見して行くのが神学的な解釈であり、それを四福音書の読解で実践しているのが、Reading Backwards、あるいはそのダイジェスト版報告であるこの講演、と言うことになるかと思います。


かなり洗練された内容の講演の報告ですので、本当に本の一部しか言及できませんでしたが、Reading Backwardsを購入して読んでいただくか、または下記の動画で各福音書について講演したものがあるので、それを参照して頂くとよいかと思います。

1. Torah Reconfigured (マタイ福音書)

2015年5月29日金曜日

(5)『アポカリプス(黙示)』と『終末』

今年2回目のライト読書会(案内ガイド1ガイド2)のテーマがアポカリプス、と言うことで少しランダムにあれこれ書いてみます。


課題論文は"Apocalypse Now?"(1999年)となっていますが、アポカリプスはご存知ヨハネの『黙示録』のギリシャ語名ですね。

フランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1979年)の原題 Apocalypse Nowにかけているわけでしょうね。


課題論文"Apocalypse Now?"は「千年紀末」を迎えて「世の終わり」っぽい言説に溢れてきたところで書かれたものです。

何しろ元はと言えば聖書が出展となっていることですから、聖書学者としては放置できない、と言うことでしょう。


Apocalypse Now?からピックアップすべき点を二つほど挙げてみます。

(1)『リタラル(文字通りな)』と『メタフォリカル(比喩的な)』の区別
※カタカナ表記では『リテラル』とするらしいが

 一応の説明はガイド1を見ていただくとして、「what is literal and what is metaphorical」と言うことなのですが、これがなかなか説明するのがやっかいなのです。

 アポカリプティックに関する例で言えば、「空中で主と会う」(第一テサロニケ4章17節)や、黙示録の「千年王国」が挙げられます。

 リタラル/メタフォリカルの区別はあくまで解釈における第一段階で、実際はもっと複雑な考察が必要とされると思いますが。

 ビブリシズムの問題とも絡みますが、単に文学的表現としてのリタラル/メタフォリカルの区別の問題を越えた「大きな聖書解釈枠」の影響があると思います。

 神の啓示の書としての聖書は、その「普遍的真理性」の前提から、リタラルで常識的な解釈が優先される傾向があること。

 このある意味「決め付け」傾向は、聖書と言う複雑な言語・文学表象を持つリアリティーを「平板に」(そして一律に)解釈する方向に行きやすい。

 換言すれば聖書の文学的複雑性、言語表現の多様性を犠牲にしても、信じ従うべき(命題的)真理形式に置き換えられやすい、と言う問題を生む。

 この「決め付け」傾向の問題に一層拍車をかけたと思われるのが、啓蒙主義以降の「合理主義」との対決。

 人間の「理性」に対抗して「聖書の権威」を強調することによって、必要以上に「科学」に対する聖書の「エピステモロジカル」な優位性を主張することになった。(「特別啓示と一般啓示」の立場から、「信仰対科学」に変わって行った。)

 「創造論」対「進化論」における「六日創造」説は、文学的表現としてのリタラル/メタフォリカルの区別と言うよりも、科学説に対抗するために押し付け(結果歪め)られた「解釈枠」と見ることも可能と思われる。 
 
(2)『黙示(表現・文学)』と『終末論』との混同

 先ず認識に挙げておくべきは「黙示」と「終末」は同じことではない、と言うことではないかと思います。

 黙示(英語はrevelation)とは、端的には、「今まで隠されていたものが明らかにされる」ことです。

 簡単に言えば、新約聖書は旧約聖書が「終わりの日」に起こるであろうと預言していた事柄が、イエス・キリストにおいて実現したことを主張(宣言)するものです。

 その意味で最も中核的な「黙示」的出来事は、イエスの十字架の死と復活、昇天・占座、聖霊降臨、と言えるでしょう。

 しかし、これら一連の出来事は(旧約)聖書の視点からはみな「終末」に属するものでありながら、ナザレのイエスに特定した歴史的出来事としてはその終末性が多くのユダヤ人には明らかではなかった。

 「メシヤの死」がある意味逆理的に「神の義」を啓示した、と主張するのがロマ書であり、その他のパウロ書簡も含め、使徒書簡は「イエス・キリストの出来事」の終末性を噛み砕いて明らかにするもの、と言うことが出来るでしょう。

 しかし、「新天新地」「万物の更新」、つまり「終末」の事柄のうち、「未だ(Not Yet)」に属する事柄、まだ将来に残されている「終末」の事柄があります。

 ここに所謂「キリストの再臨」とそれに伴う事柄が関わってきます。

 上掲、(1)『リタラル』と『メタフォリカル』の区別、の例で挙げた「携挙」や「千年王国」です。

 ところが、再臨、携挙、千年王国、は既に成就した終末の出来事である「イエス・キリスト」の死と復活に「碇を繋」いで展望すべき事柄なのに、どうも「預言/予言の成就」式に「世界史の動向(特にイスラエル国家)」と絡めて追尾し、一喜一憂する傾向が後を立たないようなのです。

 (と、これはかなり個人的な見解かもしれませんが。)

 例えばヨハネの黙示録の破滅的なシナリオを「世の終わり」の出来事として(一方的に)強調する傾向は、ライトが指摘するように、新約聖書を出展としますが、新約聖書の世界観とは異なるものです。

 いわゆる「アポカリプティシズム」は、多分に悲観主義、二元論的思考に影響された逃避主義に特徴付けられ、一つの世界観として整理されうるものです。



《附記ー個人的な回想と感想》

 筆者の属する教会は中田重治が牽引した「日本ホーリネス運動」の流れにあるが、その神学的遺産である『再臨(四重の福音)』や前期千年王国説的歴史的展望や関心(イスラエル国家)とは余り関わりがなかった。

 しかし間接的に「再臨近し」的な言説は聞かれたこともあった。

 昨年ある会話で、「最近、教会内で再臨のことが取りざたされることが殆ど無くなった印象を受けるのだが、どうだろう」と持ちかけたことがあった。

 知人の中にはディスペンセーショナリズムの影響下にあった者たちも結構多い。

 と言うことは日本の教会では、アポカリプティシズムがもたらす影響は現象的には表舞台から姿を消しているように見えるが、そのような「世界観」の要素が消えたわけではない。

 世間では依然として「アポカリプティック・サウンド」とか「世の終わり」とかの「世紀末」を匂わせたり、煽ったりするようなものがサブカル的にも流通しているようである。

※[追記・・・2015/5/30] 適当にサブカルと書いたが殆ど詳しいことは分からないのだが、今日たまたまこんな記事をヒットした。ここまで来るともう何と言ってよいのやら・・・唖然。これだと牧師自らが仕掛け人になっている。これこそもう「世の○○り」みたいなものではないか。

 つまり、「終末」に関する整理されたクリアーな思考との取り組みが始まったわけでも無さそうである。

 今度のライト読書会は、そう言う意味で、「健全な神学(終末論)」を目指す藪漕ぎのようなものではないかと思っている。

2015年5月25日月曜日

(3)昨日の説教からーペンテコストと異言

昨日、5月24日は、今年のペンテコストでした。

(※昨今の多文化主義のマナーで言うとシャブゥオトも。)

朗読箇所: 使徒の働き2:1-13
説教題:「御霊が話させてくださるとおりに」
アウトライン:
 I. 天が開け、家の扉が開かれ、口を開く
 II. 言語と文化の壁
 III. 証人と証言
注目聖句:

 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録2:4、新共同訳)

 They were all filled with the holy spirit, and began to speak in other languages, as the spirit gave them the words to say. (KNT)

といった概要なのですが、礼拝後の会話でこんな感想を聞くことができました。
ペンテコステの出来事で「tongues」とあるのを、今までずーっと(ペンテコステ系の方々の言う)異言だと思っていました。
でも「外国語」、(離散のユダヤ人たちにとっての)「母国語」だったんですね。
この感想、つまりペンテコステ/カリスマ系の特徴とされる「異言体験」については実はそれほど意識していなかったので少し不意をつかれた気がした。

それで少し会話をした。

共に「異言体験」を持っていない同士なので、そもそもペンテコステ/カリスマ系の方々が主張する「異言体験」と、ペンテコステの出来事とが、どう密接に関わるかどうかはさておいて以下の二点を確認した。

(1)ペンテコストの日に弟子たちがしゃべった言語は、その日五旬節に集まっていた離散のユダヤ人たちにとっては「母国語」であり、弟子たちにとっては「外国語」であった。どちらにしても「分かる言葉」であって(「異言体験」を持たない者が想像する)「意味の分からない音の羅列」としてのイゲンではなかった。

(2) 新約聖書(特に使徒の働きとコリント第一)の視点から言うと「異言」は否定すべきではないが、(集会の意味で)教会においては「秩序」と「理解」に従う賜物である。

筆者の中では一応整理が付いていることなのだが、結構長い信仰暦のある方が今頃になって「開眼」したかのように話されたことで、改めて聖書を読む時の「規制枠」(既成枠といってもいい)の問題を思った。


ついでに付言すると、この日はメソジスト運動の始祖ジョン・ウェスレーがアルダスゲート街集会で「福音的回心」体験をした日でした。

説教では、キリスト者としての信仰が他のキリスト者によって信仰が補強されることを通して「証人」として整えられる生きた例として
 (1)アポロ
 (2)ジョン・ウェスレー
を取り上げました。

アポロは信徒伝道者プリスキラとアクラによって(使徒18章24節以降)、ジョン・ウェスレーは「モラヴィア派」と「ルター」によって、それまでの信仰が補強され、その後の伝道に結実しました。


今朝、以上のことを受けて、「聖霊のバプテスマと異言」と言うテーマで少し思索を始めたところです。



2015年5月17日日曜日

(5)リチャード・ヘイズ日本講演、3

最初に整理しておきます。

東京説教塾が主催した、2015年4月27日(月)に、キリスト品川教会で持たれた、デューク大学神学部神学部長リチャード・ヘイズ教授の二回の講演についての報告をしています。

今回で東京説教塾分が終わり、その後立教大学キリスト教学研究科での公開講演を報告します。

※講演後に知ったのだが、リチャード・B・ヘイズは、来年神学部長を辞し、サバティカル休暇後教授に戻るとのこと。デューク大学ウェスレー/メソジスト研究者マドックス教授が次期学部長選対委員会を率いる。(デューク大学広報


ヘイズ日本講演、1・・・「信仰のまなざしをもって聖書を読む: 神学的釈義の実践」の前半
ヘイズ日本講演、2・・・「信仰のまなざしをもって聖書を読む: 神学的釈義の実践」の後半

そして、今回「日本講演、3」は、「この世界を覆す:よみがえりを説教する(Turning the World Upside Down: Preaching Resurrection.)」について報告します。

どうやら下になっているテキストは、
Chapter 14. The Resurrection of the Body: Carnis resurrectionem (Roger E. van Ham, Exploring and Proclaiming the Apostles' Creed, pp.260-272)
のようです。

タイトルから分かるように、使徒信条についての本です。

目次を「グーグル・ブックス」でご覧くださると分かりますが、信条の各項目ごとに寄稿者が「解説」と「説教」を書いています。

ヘイズは「からだのよみがえり」の「解説」の方を担当したわけです。

出版年は2004年ですから、少し古いですが、今回のテキストはそれを大きく2点改変しているようです。

(1)「からだのよみがえり」の理解を困難にする「復活」の概念を解説する部分がイラストレーションを入れたりして拡張しています。


上掲書では、By raising the man Jesus、で始まりますが、今回のテキストにはテッド・ウィリアムスと言う有名な野球選手が遺書に残したと言う、「死後身体蘇生」についてのエピソードが冒頭に置かれています。
(ヘイズが言及したボストン・グローブの記事ではありませんが、それから10年後のこの記事にも遺体の冷凍保存などについての経緯が書かれています。)

実際にテキストがないので比較はできませんが、「復活」概念に対する理解の混乱は、
 (A)一方でキリスト教会の中に連綿として受け継がれてきた「死んで天国へ行く」式の非身体的(たましいだけの)永世観があり、
 (B)もう一方では科学的世界観から来る「物質主義」の影響がある、
と指摘します。

※あるいはヘイズはこの時点では、N. T. ライトの、The Resurrection of the Son of God (2003)、はまだ読んでいなかったのかもしれません。

※ちなみに、この講演後の質疑応答でのことですが、復活の身体性についての質問と応答(ヘイズは第一コリント15章の『肉の体』と『霊の体』の対比も使って説明しようとしたが、通訳もポイントを拾いきれなかった印象)後、聴衆に向かって、Do you know N. T. Wright, his Surprised By Hope?と問いかけ、(ほぼ無反応の聴衆に向かって)It needs to be translated.とアッピールして、この辺の理解の混乱に関しては、ライトと彼の復活に関する本が必読であることを指摘した。 

(2)復活の行動化
上掲書は「説教」が別に組まれているので、「解説」までで終わっているようだが、今回のテキストは「実践」として「復活」を教会としてどのように「行動化」するか、と言う課題と取り組んでいる。

最初にウェンデル・ベリーの「Manifesto: The Mad Farmer Liberation Front」と言う詩の最後の部分を引用する。
As soon as the generals and the politicos
can predict the motions of your mind,
lose it. Leave it as a sign
to mark the false trail, the way
you didn't go. Be like the fox
who makes more tracks than necessary,
some in the wrong direction.
Practice resurrection.
ベリーのゲリラ的と言うか、対抗的と言うか、抵抗運動の実践を「復活行動化」と意味ありげに呼んでいるもののニュアンスを、ヘイズは以下のような『(復活と言う将来的なものを今に)体現化』するものとして:
 1. 平和作り
 2. 持ち物の共有
 3. 和解の食卓
を提案する。


これらの復活に基づく(規範習慣的)行動(practices)は、(主に)使徒の働きのナラティブから、「対抗的共同体」の性格として位置づけられる。

論述しないが、ジョン・H・ヨーダーの『社会を動かす礼拝共同体』倫理学に、ライトの「新創造」を付加したような味わい、と言った印象のものだ。


まだまだ「試論」あるいは「素描」の印象だが、(恐らく)ヨーダーやハウアーワスらの倫理学的洞察を透過しながら提示されたこれらのシンプルな「習慣」が、復活を体現する教会としてのアイデンティーティー・マーカーとして『現実』に切り込んで行く時に、その真価を発揮する・・・ということのようだ。 



余り助けにもならない報告かもしれないが、今回はここまで。 

2015年5月11日月曜日

(4)タカ牧師のセブン-1

またまた性懲りもなく新しいシリーズをば始めます。

シリーズ名はトレヴィン・ワックスのTrevin's Seven/TGCからのパクリです。


近頃まとまった文章を書くのが面倒くさくなりました。

かと言って読んだものを紹介したい気持ちはあります。

簡単な紹介コメント程度で、幾つかまとめて、アップ・・・方式はやりやすいと思って採用します。


英語ものが多いと思いますが、限りません。

ジャンルも神学関係が多いと思いますが、限りません。


記念すべき1回目ですが、特にこれと言うわけではありません。

では前口上はその辺にして・・・。


1. 10 Things I Wish Everyone Knew About Jesus
  『イエスについて、これだけは知ってて欲しい10のこと』
  ジェームズ・マーチン神父による、史的イエス超入門(2014年11月)

2. The Good News Hasn't Changed But How We Proclaim It Must
  『福音が変わるのではなく、伝え方が変わるのだ』
  ジェームズ・スミス(カルヴィン大学哲学科教授)のによる「テイラーの読み方一例 」
  ポスト世俗化の宗教は『何を』ではなく『どのように信じるか』が問題だ。伝道、牧会の専門家たちは、テイラーのこの診断を見過ごしにすべきではない。(2014年11月)

3. The Backward Culture
  『退行する文化』
  福音の土着化によって、キリスト教文化が出来上がってきたのに、今やネイティヴィティーがパブリックから排除されたりしている。何と言う反キリスト教文化の動き・・・。とカトリックの方が嘆いておられます。 (2013年4月)

4. Christocentric Hermeneutic Part 1: Against Principlizing
  『キリスト中心的解釈論、パート1 原則化に抗する』
  女性ブロガーのレスリー・キーニーさんが、クリスチャン・スミスの『The Bible Made Impossible』が標的にしたビブリシズムの問題・・・即ち聖書をあたかも「真理体系のマニュアル」が如きものとみなして行ってしまう“科学主義”的な聖書解釈アプローチ。それへの修正案・対案として「キリスト中心的解釈論」を提示するにあたっての緒論・試論的な考察。(2011年11月)

5. Christocentric Hermeneutic Part 2: Can A Narrative Be Authoritative
  『キリスト中心的解釈論、パート2 ナラティブは権威となるか』
  キーニーさんの「キリスト中心的解釈論」を提示するにあたっての緒論・試論的な考察のパート2。ナラティブとしての聖書は「権威」として機能しうるか、の問題を論じる。(2012年1月)

6. 外国人に話しかけられた時の衝撃の一言
  ぐっと趣向が変わって、笑いもの。(Naverまとめ)(2012年5月)

7. [東京版2015年] 美味しいワンコインランチ特集 [秋葉原編/食べログ]
  食べる方も一つ。場所に関してはオススメと言うわけではありませんが。とにかくワンコインの魅力で。


  

2015年5月10日日曜日

(5)リチャード・ヘイズ日本講演、2

さて、GWもあけました。何とか続きをば・・・。


ヘイズ日本講演、1では、東京聖書塾での午前中の講演であった
「信仰のまなざしをもって聖書を読む:神学的釈義の実践」
の前半部分。すなわち
「『神学的な釈義』とは何か?」 
と言うかなり『方法論』的な部分を含んだ解説を見てきた。 

(前半を『理論・方法論』部分とすれば)今回は、その後半部分である『実技』部分を見ることにする。
「『神学的な釈義』の実際」 

イントロではマイネアの『信仰の目』と言うタイトルが取られた《マルコ8章22-26節》を比喩的に用いたが、後半、実技部分では、釈義における「目が開けられる」と言うことがどう言う事かを《ルカ7章18-23節の「牢にある洗礼者ヨハネがイエスに遣わした弟子の問い」、のエピソードを用いて明らかにして行く。
 
(※以下は翻訳された論文は東京聖書塾から入手可能と思うので、逐一説明はしない。主要な議論にコメントを加えることで雰囲気を味わって頂ければ、と思う。)


(1)ルカ福音書の「低いキリスト論」は、「神学的な釈義」を排除することで成立する議論。

 最初に、キリスト論における「高い」とか、「低い」とかをごく簡単に説明しておこう。

 キリストは「神」であると同時に、また「人」でもある、と言う「神性」と「人性」が(人間的な論理では矛盾に思えてしまうが)同等に肯定された教会の信条が5世紀くらいまでに確立した。

 その後、啓蒙主義の時代に歴史批評的聖書研究が興隆すると、イエス・キリストの「人性」を専ら強調するようになる。

 そのような近代聖書学の歴史的背景を持った論争を念頭に、「ルカ福音書のキリスト論の性格」について、ヘイズは持論を展開しているわけです。


 四つの福音書の中では、ヨハネ福音書は冒頭のロゴス論にあるように、「神性」が明示されている、と言うことで「高いキリスト論を持つ福音書」と多くの研究者は認めています。

 しかし、ルカ福音書は、そのような神学的主張の殆どない、キリストの「人性」を強調する「低いキリスト論」だとされるのが主流のようです。

 ヘイズはルカ7章18-23節のテキストにとって「間テキスト性」を持つ、詩篇118篇、イザヤ書35章、61章を、該当箇所の単なる「暗示」に終わらせず、より深いテキスト同士の「呼応性」を論証することによって、「ヤハウェとイエス自身とが同一である」ことを暗示する、と示唆します。

In view of these exegetical findings, I would hazard the following conclusion: the "low" christology that modernist criticism has perceived in Luke's Gospel is an artificial construction achieved by excluding the hermeneutical relevance of the wider canonical witness, particularly the OT allusions in Luke's story.
It is precisely by attending more fully to the Old Testament allusions in Luke's Gospel that we gain a deeper and firmer grasp of the theological coherence between Luke's testimony and what the church's dogmatic tradition has affirmed about the identity of Jesus. (イタリックはヘイズ、下線は筆者)

[ このような釈義的な結論から見て、私は敢えて以下のような結論を申し述べたいと思います。近代の批評家がルカの福音の中に感じ取ってきた「低い」キリスト論は、より広い正典の証言、特にルカの物語の中に暗示されている旧約聖書の証言に耳を傾けるという解釈学的に適切な作業を締め出すことによって作り上げられた、人為的な構築物です。
 わたしたちが、ルカの証言と、イエスがどなたであるかについて教会の教理の伝統が確かに語っていることとの神学的な首尾一貫性を、より深く、より確かに把握しようとするならば、それはまさに、ルカの福音の中に暗示されている旧約聖書に、より真摯に耳を傾けることによって実現するのです。]

ヘイズ日本講演、1で見たように、懐疑主義的な近代聖書批評学を乗り越えるアプローチとして、「信仰の目」を持って聖書を読む「神学的な釈義」が提唱されてきました。

ヘイズはその一つの例証として、ルカ福音書の「キリスト論」を取り上げます。

ルカ福音書の「キリスト論」の性格を、「低いキリスト論」と理解するのか、「高いキリスト論」と理解するのか、それを決するのは、福音書テキストにどのように向き合うか、という「解釈アプローチ」の違いに帰結するのだ、とヘイズは論証しているわけです。

背景となる旧約聖書の暗示表現をどこまで遡るのか、どこまで広げるのか、はある意味(1)解釈者の信仰の有無に影響され、(2)それはまた、その解釈者がどこまで「教会の伝統」として正典的聖書解釈を取り入れるか、に左右される、とも言えます。

ですから、「神学的な釈義」のポイント「5」や「10」がこのキリスト論問題に関わっていると言えます。
 
※この「イエスとは誰か(The Identity of Jesus)」についてはSeeking the Identity of Jesusでもヘイズがガベンタ(現ベイラー大学)教授と共同編集した論文集が2008年に刊行されていますが、盟友としてかなり緊密に研究を切磋琢磨してきたN. T. ライトと方法論的に激しくぶつかった問題です。こちらの記事にその経緯を少し書いていますので、余裕があればどうぞお読みください。

※もう一つ取り上げたいポイント(ルカ4章16-21節、とイザヤ35章、61章の関連)があったのですが、詳論する暇が無さそうなので、その箇所を引用だけしておきます。
 Yet these passages at the very same time gesture towards a dramatic reshaping of Israel's national hope. The motifs selected by Jesus in his answer to John's disciples pointedly avoid images of military conquest. They focus instead on actions of healing and restoration.(強調は筆者)
[ しかしながら、まさに同時に、これらの文章は、イスラエル国民の希望が劇的に作り替えられることをほのめかすものでもあるのです。イエスによって選ばれ、ヨハネの弟子たちに対する答えの中で用いられたモチーフは、明らかに軍事的な征服の意味合いを回避するものです。代わりに、それらは癒しと回復の行為に焦点を当てています。]

このポイントは「神学的な釈義」のポイント「9」に関わってくると思いますが、metalepsisの問題とも絡まって、論述するのはかなり骨が折れそうです。


 
 

2015年5月2日土曜日

(5)リチャード・ヘイズ日本講演、1

(下手に『序』などとやると「まだかー」と急かされるので注意が必要だ。)

最初に参加した講演は、説教塾の4月例会であった。


幸いなことに、N.T.ライトFB読書会のメンバーの方が教えてくださった。
※現在136名登録しているこの読書会のウォールで共有される情報はその幅広さから言うとなかなかのものではないかと思う。
【日時】2015年4月27日(月)午前10時半から午後4時まで
【場所】キリスト品川教会
【講師】デューク大学神学部神学部長リチャード・ヘイズ教授
【聴講料】500円
【主催】東京説教塾
【講演題】午前「信仰のまなざしをもって聖書を読む:神学的釈義の実践」(仮訳)
     午後「世界の逆転が起こった:復活を説教する」(仮訳)共有
と説教塾の案内にあった。

今回は、この午前中の方の講演について報告しようと思う。


「信仰のまなざしをもって聖書を読む:
神学的釈義の実践」

は、Reading the Bible with Eyes of Faith: The Practice of Theological Exegesis、と言う、Journal of Theological Interpretation, vol. 1、に掲載された論文を短くしたもの、という注が付いている。




講演は用意されたテキストをヘイズが読み上げ、その翻訳テキストを通訳者が読み上げる、と言うスタイルで行われた。(参加者はそれら二つのテキストを与えられているので、なんとも時間がもったいない感じもした。時折テキスト外の説明やらコメントが入るが、これにはまた別の通訳が入ると言う・・・。

最初に(A4全13ページ)講演テキストの「入り(約4ページ分)」を紹介しておく。

1. 見える目の回復を目指して(イントロ

 「信仰の目」と言うタイトルが取られた、マルコ8章22-26節を比喩的に用いて「近代批評的聖書学」における非神学的解釈論の不毛を指摘する。

2. 分岐点に立って。どちらに進むのか
 過去200年の批評的聖書学がもたらした「負の遺産」についての部分で、講演では殆どカットされた。とにかく分岐の一方を近代聖書批評学の「負の遺産」として特徴づけ、後述する「神学的な釈義」に対して、「間違った」「傲慢」なアプローチであったとする。

 コメントでは「aggressive, secular, rationalistic, reductionistic reading of the Bible」と形容していた。(特にブルトマン派の様式史批評、ジーザス・セミナーに代表されるようなものが念頭にあると思われるが)懐疑主義的で断片的な歴史研究の「行き詰まり」状態に帰結したことを指摘する。
 これに対して、近年(20年)英語圏の聖書学研究で定着してきたのが、「神学的な釈義」で、言わばこの行き詰まり状態を打開する形で登場してきた、・・・というナラティブにしている。


どんな学者たちがこの「神学的な釈義」を復興させることに寄与しているかというと、まあ筆者が知っている範囲を何名か越えているが、関心ある方は「脚注14」をご覧ください。(もちろんN.T.ライトもその中に入っています。)



以上がまあ大きい意味での「講演」のイントロですね。

III. What Is "Theological Exegesis"?
と講演テキストにあるように、やはり「神学的な釈義」とは何か、がこの講演の最も肝要な命題であったと思います。

以下、ヘイズが「神学的な釈義」を12ポイントで素描しますが、全部はコメントしませんが、挙げるだけ挙げてみます。(英文で勘弁。強調は筆者。)
この英文は自分で書き写すのを省略するため、別の方の書評で引用されたのを借用したものです。実際の講演テキストは、変更・修正・付加が加えられています。


1. Theological exegesis is a practice of and for the church. These texts have been passed onto us by the church's tradition as the distinctive and irreplaceable testimony to events in which God has acted for our salvation. As such they are to be regarded at the outset as Scripture, not merely as a collection of ancient writings whose content is of historical interest. These texts are to be normative for the community.


※プラクティスはアラスデア・マッキンタイアが『美徳なき時代』 で描写しているように、行動の背景となる社会集団によって伝統された行動のこと。
 つまり聖書解釈者は、「教会」という「聖書」を一定の仕方で解釈してきた先行社会集団の文脈で解釈的実践を継承する、と言った感じですね。
2. Theological exegesis is self-involving discourse. Interpreters themselves are addressed and claimed by the word of God that is spoken in the text, and we are answerable to that word. As a result theological exegesis will frequently contain pronouns in the first and second person. Such readings are closely interwoven with worship.


※つまり単にテキストを解釈しっぱなし、ということがない。テキストに応対することが解釈者には求められる。聖書テキストはそのような性質のものだ、ということ。
3. At the same time, historical study is internal to the practice of theological exegesis. The reasons for this are theological: God has created the material world, and God has acted for the redemption of that world through the incarnation of the Son in the historical person of Jesus of Nazareth.


※歴史研究はテキストに(外から)持ち込まれるのではなく、既に内在する性質のものである。
4. Theological exegesis attends to the literary wholeness of the individual scriptural witnesses. The Bible must be read neither as an anthology of disconnected theological sound bites nor, on the other hand, as a single undifferentiated story. Rather, the Bible contains a chorus of different voices, and the distinctive integrity of each part in the chorus is essential to its polyphonic performance (cf. the fourfold Gospels).


※聖書記者が書いた文書は、個々の文学的統一性が尊重され、それに即して解釈されるべきだ、ということ。
5. The fifth point is the dialectical converse of the previous one: theological exegesis can never be content only to describe the theological perspectives of the individual biblical authors; instead, it always presses forward to the synthetic question of canonical coherence. We must seek the big picture, asking how any particular text fits into the larger biblical story of God's gracious action.


※しかし、聖書全体の「正典的整合性へ向けての読み」への努力は不断に目指されなければならない。
6. Theological exegesis does not focus chiefly on the hypothetical history behind the biblical texts, nor does it attend primarily to the meaning of texts as self-contained works of literature; rather, it focuses on these texts as testimony. This means we need to learn to stand where these witnesses stand and look where they point in order to learn to see as they see. In this way we will find our vision trained anew.


※聖書記者の証言性から目を離すな。彼らのテキストは解釈者の「手の中」で調理を待っているのではなく、既に一定方向に向けて書かれた(証言された)ものである。 
7. The language of theological exegesis is intratextual in character, i.e. we should remain close to the primary language of the witnesses rather than moving away from the particularity of the biblical testimony to a language of second-order abstraction that seeks to "translate" the biblical imagery into some other conceptual register.


※解釈時に心理学等のテキスト的には「外部」のものを持ち込んで、結果「置き換え」にならないように気を付けるべき事。
8. Theological exegesis, insofar as it stays close to the language and conceptions of the NT witnesses, will find itself drawn into the Bible's complex web of intertextuality. This includes citations, allusions as well as typological correspondences between the testaments.


※むしろ、聖書自体のテキストが織り成す「複雑な間テキスト性」から「解釈の位置」を外さないこと。
9. Theological exegesis thereby is committed to the discovery and exposition of multiple senses in biblical texts. [筆者注。これ以下も実際の講演テキストのまま] Old Testament texts, when read in conjunction with the story of Jesus, take on new and unexpected resonances as they prefigure events far beyond the historical horizon of their authors and original readers. The NT's stories of Jesus, when understood as mysterious fulfillments of long-ago promises, assume a depth beyond their literal sense as reports of events of the recent past. Texts have multiple layers of meaning that are disclosed by the Holy Spirit to faithful and patient readers.


※このポイントは「リチャード・ヘイズ日本講演」シリーズの3くらいになると思うが、ヘイズの最近著である四福音書の象徴的読解(Figural Reading)に関わるところで、簡単には説明できないので、別の機会に譲る。
10. Learning to read the texts with the eyes of faith is a skill for which we are trained by the Christian tradition. Consequently, we can never approach the Bible as if we were the first ones to read it - or the first to read it appropriately. Theological exegesis will find hermeneutical aid, not hindrance, in the church's doctrinal traditions.


※ポイント1に関連するが、神学的・教理学的伝統の中で、聖書解釈手法が備わっていく、ということ。
11. Theological exegesis, however, goes beyond repeating traditional interpretations; rather, instructed by the example of traditional readings, theological interpreters will produce fresh readings that encounter the texts anew with eyes of faith and see the ways that the Holy Spirit continues to speak to the churches through the same ancient texts that the tradition has handed on to us.


※しかし伝統的といっても単なる繰り返しではなく、「新しい読み」が産み出される余地が聖霊の働きによって作られる。
12. Finally, we must always remember that we are not speaking about our own clever readings and constructions of the text but, rather, of the way that God, working through the text, is reshaping us (cf. Hebrews 4:12). This means that theological exegesis must always be done from a posture of prayer and humility before the word.

(近代批評的聖書学の世俗的・還元主義的な解釈態度が傲慢であったのに対し) 、聖書テキストによって解釈者の方が整えられる。謙虚さと祈りをもって聖書と取り組むこと。


以上かなり意訳的なコメントをくっつけてみました。

今回はここまで。

次回はこの講演テキストの「実技」部分から。