2015年5月10日日曜日

(5)リチャード・ヘイズ日本講演、2

さて、GWもあけました。何とか続きをば・・・。


ヘイズ日本講演、1では、東京聖書塾での午前中の講演であった
「信仰のまなざしをもって聖書を読む:神学的釈義の実践」
の前半部分。すなわち
「『神学的な釈義』とは何か?」 
と言うかなり『方法論』的な部分を含んだ解説を見てきた。 

(前半を『理論・方法論』部分とすれば)今回は、その後半部分である『実技』部分を見ることにする。
「『神学的な釈義』の実際」 

イントロではマイネアの『信仰の目』と言うタイトルが取られた《マルコ8章22-26節》を比喩的に用いたが、後半、実技部分では、釈義における「目が開けられる」と言うことがどう言う事かを《ルカ7章18-23節の「牢にある洗礼者ヨハネがイエスに遣わした弟子の問い」、のエピソードを用いて明らかにして行く。
 
(※以下は翻訳された論文は東京聖書塾から入手可能と思うので、逐一説明はしない。主要な議論にコメントを加えることで雰囲気を味わって頂ければ、と思う。)


(1)ルカ福音書の「低いキリスト論」は、「神学的な釈義」を排除することで成立する議論。

 最初に、キリスト論における「高い」とか、「低い」とかをごく簡単に説明しておこう。

 キリストは「神」であると同時に、また「人」でもある、と言う「神性」と「人性」が(人間的な論理では矛盾に思えてしまうが)同等に肯定された教会の信条が5世紀くらいまでに確立した。

 その後、啓蒙主義の時代に歴史批評的聖書研究が興隆すると、イエス・キリストの「人性」を専ら強調するようになる。

 そのような近代聖書学の歴史的背景を持った論争を念頭に、「ルカ福音書のキリスト論の性格」について、ヘイズは持論を展開しているわけです。


 四つの福音書の中では、ヨハネ福音書は冒頭のロゴス論にあるように、「神性」が明示されている、と言うことで「高いキリスト論を持つ福音書」と多くの研究者は認めています。

 しかし、ルカ福音書は、そのような神学的主張の殆どない、キリストの「人性」を強調する「低いキリスト論」だとされるのが主流のようです。

 ヘイズはルカ7章18-23節のテキストにとって「間テキスト性」を持つ、詩篇118篇、イザヤ書35章、61章を、該当箇所の単なる「暗示」に終わらせず、より深いテキスト同士の「呼応性」を論証することによって、「ヤハウェとイエス自身とが同一である」ことを暗示する、と示唆します。

In view of these exegetical findings, I would hazard the following conclusion: the "low" christology that modernist criticism has perceived in Luke's Gospel is an artificial construction achieved by excluding the hermeneutical relevance of the wider canonical witness, particularly the OT allusions in Luke's story.
It is precisely by attending more fully to the Old Testament allusions in Luke's Gospel that we gain a deeper and firmer grasp of the theological coherence between Luke's testimony and what the church's dogmatic tradition has affirmed about the identity of Jesus. (イタリックはヘイズ、下線は筆者)

[ このような釈義的な結論から見て、私は敢えて以下のような結論を申し述べたいと思います。近代の批評家がルカの福音の中に感じ取ってきた「低い」キリスト論は、より広い正典の証言、特にルカの物語の中に暗示されている旧約聖書の証言に耳を傾けるという解釈学的に適切な作業を締め出すことによって作り上げられた、人為的な構築物です。
 わたしたちが、ルカの証言と、イエスがどなたであるかについて教会の教理の伝統が確かに語っていることとの神学的な首尾一貫性を、より深く、より確かに把握しようとするならば、それはまさに、ルカの福音の中に暗示されている旧約聖書に、より真摯に耳を傾けることによって実現するのです。]

ヘイズ日本講演、1で見たように、懐疑主義的な近代聖書批評学を乗り越えるアプローチとして、「信仰の目」を持って聖書を読む「神学的な釈義」が提唱されてきました。

ヘイズはその一つの例証として、ルカ福音書の「キリスト論」を取り上げます。

ルカ福音書の「キリスト論」の性格を、「低いキリスト論」と理解するのか、「高いキリスト論」と理解するのか、それを決するのは、福音書テキストにどのように向き合うか、という「解釈アプローチ」の違いに帰結するのだ、とヘイズは論証しているわけです。

背景となる旧約聖書の暗示表現をどこまで遡るのか、どこまで広げるのか、はある意味(1)解釈者の信仰の有無に影響され、(2)それはまた、その解釈者がどこまで「教会の伝統」として正典的聖書解釈を取り入れるか、に左右される、とも言えます。

ですから、「神学的な釈義」のポイント「5」や「10」がこのキリスト論問題に関わっていると言えます。
 
※この「イエスとは誰か(The Identity of Jesus)」についてはSeeking the Identity of Jesusでもヘイズがガベンタ(現ベイラー大学)教授と共同編集した論文集が2008年に刊行されていますが、盟友としてかなり緊密に研究を切磋琢磨してきたN. T. ライトと方法論的に激しくぶつかった問題です。こちらの記事にその経緯を少し書いていますので、余裕があればどうぞお読みください。

※もう一つ取り上げたいポイント(ルカ4章16-21節、とイザヤ35章、61章の関連)があったのですが、詳論する暇が無さそうなので、その箇所を引用だけしておきます。
 Yet these passages at the very same time gesture towards a dramatic reshaping of Israel's national hope. The motifs selected by Jesus in his answer to John's disciples pointedly avoid images of military conquest. They focus instead on actions of healing and restoration.(強調は筆者)
[ しかしながら、まさに同時に、これらの文章は、イスラエル国民の希望が劇的に作り替えられることをほのめかすものでもあるのです。イエスによって選ばれ、ヨハネの弟子たちに対する答えの中で用いられたモチーフは、明らかに軍事的な征服の意味合いを回避するものです。代わりに、それらは癒しと回復の行為に焦点を当てています。]

このポイントは「神学的な釈義」のポイント「9」に関わってくると思いますが、metalepsisの問題とも絡まって、論述するのはかなり骨が折れそうです。


 
 

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