ラベル 本の紹介 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 本の紹介 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年5月27日火曜日

「福音」とは何か?

このブログでも度々紹介してきたスコット・マクナイト『福音の再発見(The King Jesus Gospel)』に関わる話題です。

米国のゾンダーヴァン出版社が刊行する「カウンターポイント」というシリーズがあります。論争になっているような様々なイシューに対してフォーラムを提供し、複数の著者から異なる視点で寄稿してもらい一つの本にまとめるという試みです。これまでに40冊くらいのシリーズ著作が出ているようです。

その中の一冊で今年6月に出版予定になっているのが

Five Views on the Gospel

です。

発売を前にした促販企画のようなウェビナーが(日本時間で)5月23日の朝ありました。
この本を編集した二人がモダレーターとなり「5人」の寄稿者(うち一人、ジュリー・マが欠けましたが残る4人)がパネリストとして登場しました。

  • The Reformation Gospel (Michael Horton)
  • The King Jesus Gospel (Scot McKnight)
  • The Wesleyan Gospel (David A. deSilva)
  • The Pentecostal Gospel (Julie C. Ma)
  • A Liberation Theology Gospel (Shively T. J. Smith)

これから書くのは主にその感想というか印象なのですが、マクナイトを除くとそれぞれの教派や神学伝統から見た「福音」を5-10分で語りました。
一番流麗にまとめていたのが「ウェスレヤン」を語ったデシルヴァと「解放の神学」のスミスで一番歯切れの悪かったのが「宗教改革」のホートンです。

特にホートンは改革派のレッテルを貼られることに多少神経質になっていました。というのも一番最初に語ったマクナイトが『福音の再発見(キング・ジーザス・ゴスペル)』でも新カルヴィン主義のジョン・バイパーを批判していたように、正面切った「福音とは何か」というテーマからいうとホートンが代表する立場が対立・衝突の矢面に立たされることを予感していたからでしょう。

ところでマクナイトを除いた他の3人はすべて教会史的に現れてきた教派的立場や神学的主張から見た「福音」ということであり、実質的にはそれぞれの立場の特徴点(distinctives)を語っているにすぎない部分が多いわけです。かならずしも「オリジナル・ゴスペル」とは何であったか、そのオリジナル・ゴスペルに対して各自の神学的特徴点はどの程度オリジナル・ゴスペルを反映しているのか、あるいは発展させているのか、といった思索には欠けていました。

各自のプレゼンの後、4人の間での意見の交換の時間があったのですが、やはりマクナイトがそもそも「福音とは何か」という定義の問題や「どのように定義するのか」という方法の問題が取り上げられていないということを問題提起していました。
マクナイトはそれらの問題を既に『福音の再発見』でかなりなスペースを用いてまとめているので、他の3人のパネリストたちが素通りしてしまっていることに違和感を感じているようでした。

またマクナイトは「意見の対立」を際立てるために(自著で指摘していた)ジョン・パイパーの「イエスは『義認』の福音を語った」というポイントを持ち出し、はたして義認は福音そのものなのかそれとも福音がもたらす益(benefits)なのか、と福音それ自体と福音がもたらす益を区別する必要があるのではないかとパネリストたちに問いかけていました。

さてこのウェビナーは都合90分のプログラムでした。おそらくアーカイブされて視聴可能になるのではないかと思いますが、『福音の再発見』が提起した問題を今後も深めていくために、参考になるのではないかと思います。

以上ブログ再開後の第1弾でした。

《広告》スコット・マクナイト『福音の再発見』新装改訂版(キリスト新聞社、2020年9月)を個人販売しています。




2025年4月23日水曜日

ブログ記事 再開の辞

 長らくいわゆる「記事」の投稿をしていなかった。特に理由があったわけではない。特に断筆宣言のようなことは書いていないし…。

 段々と記事を書くのを大変に感じていたことは(今思うと)あったに違いない。書かなくなって楽になりそのまま現在まで放置するに至った次第。

 再開の理由は特にない。

 ただある方から何度か再開をサジェストするよう進言があった。しかしいまさら何について書くのか…。

 2020年のコロナ騒動以降の大きな変化と言えば、コロナ自体とは直接関係ないが、ほぼ紙の本を買わなくなったことだ。以前から日本語の本はキリスト教書でもあまり買わなかった。本ブログでも何度も記事にしてきたようにアマゾンで洋書(英書)を買うことが殆どだった。しかし最近では電子書籍を除けば洋書でさえほとんど買わなくなった。

 その要因らしきものを考えると…、
  ①体調がいまいちで読書のための集中力が足りない。
  ②興味をそそる本が少ない。
 特に②の理由を考えてみると、筆者の視野が狭くなった、アンテナの感度が下がったことがその大きな原因かもしれない。

ぐっと飛躍しますが、日本の福音派という狭い世間の話になります。
それにしても、日本の福音派の出版事情は日に日に寂しいものになりつつあるような気がしてなりません。
とにかく本格的な本の出版が少ないように思います。
「イチオシ!」(←)に挙げたチャールズ・テイラー『世俗の時代』(名古屋大学出版会)

とまでは言いませんが、多少でも「歯が立たない」と思えるような固い本が欲しいですね。二三人がかりで取っ組んで読むような(つまり読書会が必要な)本のことです。

鈍った「本のアンテナ」をSNSで広げながら目ぼしい本を探してはいるのですが、こと福音派系の出版物を観察していると、内輪では評判になっていても、内容的には生煮えのような議論が盛られているような本が目立つような印象です。

タイトルや章立てを見ても「これじゃだめだなー」と購入意欲が減退し、読んだ人の読後感想を読んでも「仲間内評」ばっかりで余計興ざめというか…。

何か知的関心領域が狭まったというか…。内輪で喜んでいるだけ、自己満足で終わっているだけ、そんな印象が強いのです。

自戒も含めて、もっと「視野を広げよ」「関心領域を拡大せよ」、と言いたいですね。

では、一応今後の記事投稿ですが、あまり無理をしないで、雑感(ランブリングスramblings)(マンブリングス mumblings)のようなものでも続けられたらいいなと思っております。

2019年11月5日火曜日

(3)「ルーツ」をどう捉えるか

先日の礼拝では「宗教改革」を記念した。
プロテスタントの教会だとある意味最もルーツと言える出来ごとかもしれない。
ただ「教会案内」を考えると、日本のような地域ではそれだけでは余り十分とは言えない。

更に昨今は「宗教不信」が以前より増してきたような観がある。
欧米では「Spiritual, Not Religious」などという。
要するに「組織(教会)としてのキリスト教」には関心ないが、「スピリチュアル(霊性)的なキリスト教の伝統・儀礼」にはそれなりに、という傾向である。

むかーし昔、当ブログで「・・・とは一切関係ありません。」という記事を書いたことがある。
「当教会は異端ではない(正統派だ)」という断り書きの文言で、まだまだ重宝されているようだ。
しかし昨今はそのようなレッテルで事が済むような時代ではなくなっている。所謂「カルト」呼ばわりが乱発される状況になっている。ネット時代になったこともそれに拍車をかけているだろう。
「自分たちが何であり、何でないか」を定義することは一筋縄ではいかない時代になっている、と感ずる次第である。

ただ「自分のルーツ」が何かという問題は、それを他人様にどう紹介するかということだけでなく、自己の存在根拠を正確に掴むために欠かせないものである。

これだけの偉そうな前置きを書いた上で、後に続くのが軽い文章で申し訳ないが、「ウェスレヤン・メソジスト」というルーツに関する記事等を紹介したい。

日本では「ホーリネス」とか「きよめ派」とか呼ばれるグループがある。巣鴨聖泉キリスト教会もその流れの中にあるのだが、最近この流れに関する本が著された。


著者の中村敏氏は「聖泉連合」と多少関わりがあり、当連合が今年50周年を迎えるにあたって企画した「研修会」(2020年2月)の講師でもある。
まさにドンピシャリのタイミング(と言っていいかどうか…)で、日本における「ホーリネスの一大潮流」を形成した人物である中田重治に焦点を当てた書物を著してくださったわけだ。

さて話は飛ぶが、「中田重治とその時代」はほぼ「20世紀」のことであるが、それから2世紀遡って「ジョン・ウェスレー(たち)」が始めたメソジスト運動(教会)についてのことになる。

北米には(合同)メソジスト公認の神学校が7つ8つあるが、その中でもプレスティージの高い学校がデューク大学(神学部)である。
今年ウェスレー研究者として著名なランディー・マドックス教授が退官されるというニュース(記事)を目にした。

マーク・ゴーマンという方がマドックス教授のウェスレー研究の意義を簡単に紹介している記事で、昨今ウェスレー研究には不案内な筆者にとっては大変ありがたいものである。


特にウェスレー研究の大家であったアルバート・アウトラーとの対比でマドックスの主著Responsible Grace: John Wesley's Practical Theology (Kingswood Series) を紹介しているのだが、アウトラーとの継続性と共に、ウェスレー神学の総合的な分析としてアウトラーを凌ぐ点を挙げてまとめているのが目を引いた。


短い文章なので同じルーツの人は勿論、ウェスレーに関心のある方にも是非。

【パーソナル・ノート】
さいわいなことに、まだランディ・マドックスがいかなる人物かを知らないときに(多分もう10年位前のこと)、日本の書店(教文館?)でたまたま手にして(本のタイトルを判断材料にして)購入した。洋書なのになんと価格は4,710 1,500円であった。(我ながら目利きだなー。笑)

2018年1月21日日曜日

(3)最近購入した本 2017~8年

「最近購入した本」というタイトルで過去に2度記事をアップしている。

2012年11月11日 最近購入した本
2014年5月10日 最近購入した本とか

他にも似たようなタイトルの記事や、おもに本を紹介する記事などいくつもあるのだが、今回は単に購入した本を紹介するだけでなく、どのような購入方法を使っているか、についても書いてみたいと思う。


ご存知の方も多いと思うのであらためて説明は必要ないと思うが、筆者が購入する本の大半は洋書(英語のみ)である。

その理由は購入ジャンルが神学が殆どだからということになる。

それで説明にならなければ、キリスト教神学書というのは目下のところ外国語で書かれた本の翻訳が多いということ。日本人著者が書いたとしても、多分に外国語で書かれた本、つまり近代日本にとってキリスト教文明の先進国であったヨーロッパや米国の言葉で書かれたものを下敷きにしているものが多いということになる。

もっと言えば、翻訳書は値段が高くなる傾向にあり、もっと言えば下敷きとなっている外国語(特に英語)のキリスト教神学の本は圧倒的に値段が安い傾向にある。

ここからはより個人的事情になるかもしれないが、米国遊学時代さんざん中古本を買い(そのジャンルはキリスト教神学を越えて多岐に渡る)、それらを殆ど読んでもいないのに帰国後必要に応じて買い足した(洋)書籍でもはや書棚が溢れているので、新たに購入するのがますます難しくなっているのだ。

ここ1~2年の傾向としては、以前購入に使っていた「アマゾン・コム」とはすっかりご無沙汰している。(キンドル本を除いてということだが)

その代わりにもっぱら「クリスチャンブック・コム」を多用している。主な理由は「ディスカウン書籍」が多く、掘り出し物みたいな本を購入する楽しみがあるからだ。

掘り出し物と言っても、本の価値は読者の様々なニーズに左右されるので何とも言えないが、キリスト教神学に限って言えば、日本語に翻訳されるものは評価の定まった著名な著者のものがどうしても多くなるわけだが、英語のものだとキリスト教神学関連の出版点数が多いため、結構内容的に優れた本と思われるものでも、どんどん在庫整理されるようなのだ。

さらに「クリスチャンブック・コム」の場合はほんのちょっとだけ体裁に損傷(slightly imperfect)があるような本の在庫整理も結構あるようだ。

さて前置きが長くなってしまった。以下がここ1~2年に「クリスチャンブック・コム」から購入した(主に)バーゲンセール本だ。

 (1)The Mission of God's People: A Biblical Theology of the Church's Mission -- eBook
 2)Who's Afraid of Relativism?: Community, Contingency, and Creaturehood
 3)A Cross-Shattered Church: Reclaiming the Theological Heart of Preaching
 4)Amazing Grace: God's Pursuit, Our Response (Second Edition)
 5)Liturgy As a Way of Life: Embodying the Arts in Christian Worship
 6)Thinking about Christ with Schleiermacher
 7)Who Is Jesus Christ for Us Today? Pathways to Contemporary Christology
 8)Common Roots: The Original Call to an Ancient-Future Faith
 9)Confessions of a Christian Humanist
10)Renewing the Center, 2nd edition - Slightly Imperfect
11)Bonhoeffer as Youth Worker: A Theological Vision for Discipleship and Life Together - Slightly Imperfect
12)Introduction to Messianic Judaism: Its Ecclesial Context and Biblical Foundations
13)Turning to God
14)Paul Unbound: Other Perspectives on the Apostle - Slightly Imperfect
15)Truly Divine & Truly Human: The Story of Christ and the Seven Ecumenical Councils - Slightly Imperfect
16)The Later New Testament Writings and Scripture: The Old Testament in Acts, Hebrews, the Catholic Epistles, and Revelation - Slightly Imperfect
17)What on Earth Do We Know About Heaven? 20 Questions and Answers About Life After Death
18)The Story of Christmas
19)On God's Side ITPE
20)101 Questions and Answers About Weather and the Bible
21)The Drama of Living: Becoming Wise in the Spirit
22)Raised with Christ: How the Resurrection Changes Everything
23)John Stott: Pastor, Leader, and Friend
24)Fight: A Christian Case for Non-violence
25)The Kingdom and the Cross
26)Theology Remixed: Christianity as Story, Game, Language, Culture
27)The Monastic Way
28)Paul & the Religious Experience of Reconciliation: Diasporic Community and Creole Consciousness
29)Perspectives on Israel and the Church: 4 Views
30)Wrestling with Angels:Conversations in Modern Theology
31)Qumran and Jerusalem: Studies in the Dead Sea Scrolls and the History of Judaism
32)What Did the Ancient Israelites Eat? Diet in Biblical Times
33)Commanding Grace: Studies in Karl Barth's Ethics
34)The Challenges of Cultural Discipleship: Essays in the Line of Abraham Kuyper

この中から「お徳」本を列挙してみる。しかし全部読んだわけではないので、少し読み始めて「食指が動いた」本を先ずは「お徳」認定とした。

14)Paul Unbound: Other Perspectives on the Apostle
これはいわばポストNPP(パウロ研究の新しい視点)の動向を紹介する論集で、この中で特にマーク・D・ナノス(Mark D. Nanos)の『パウロとユダヤ教、というより、パウロのユダヤ教ではないか?』(Paul and Judaism: Why Not Paul's Judaism) が読み応えがあった。(実際117-160ページとかなりの紙数。)
15)Truly Divine & Truly Human: The Story of Christ and the Seven Ecumenical Councils
筆者のようなこの方面の素人には古代教会の公同信条の神学的展開を概観する好著と思う。
16)The Later New Testament Writings and Scripture: The Old Testament in Acts, Hebrews, the Catholic Epistles, and Revelation
スティーブ・モイスが新約聖書各巻の旧約聖書言及を調べてその神学的背景などを簡潔に紹介している本。自分でいちいち調べ始めたら大変時間がかかると思うので、このようなサーベイは同種のリサーチのとき最初に手に取るのに便利だと思う。
 筆者はモイスの福音書(Jesus and Scripture) の方は持っているので、後パウロ書簡(Paul and Scripture)を入手すれば3巻揃いとなる。
21)The Drama of Living: Becoming Wise in the Spirit
デーヴィッド・フォードというケンブリッジ大の神学者による本で、何と言うか肩肘張ってない、文学を読むような感じの神学書。いろいろ筆者の関心領域に触れてくるので思わず「おっ」という感じの箇所が発見されなかなか嬉しい。
34)The Challenges of Cultural Discipleship: Essays in the Line of Abraham Kuyper
フラー神学校の学長だったリチャード・マウによるカイパー学統の流れに連なる論集。筆者のカイパーに対する(多少の)偏見を矯正してくれそうなちょっとした洞察が散見されて心地よい。今一番手に取る回数が多い本。

※以下の本は別の記事で既に紹介した。

 8)Common Roots: The Original Call to an Ancient-Future Faith
 (12)Introduction to Messianic Judaism: Its Ecclesial Context and Biblical Foundations
 






2017年9月3日日曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き3)

さて、できればこの回で終わりにしたいのだがはたしてうまく行くだろうか・・・。

(6) Peter Ochs, Another Reformation: Postliberal Christianity and the Jews (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2011)


去年の6月に購入して多分1ヶ月くらいかけて読了した。

実は「ディスカウント・プライス」で選んだわけで、手に届くまでは内容は殆ど分からなかった。

タイトルが『アナザー・リフォメーション』とあるので宗教改革500周年も控えているし・・・と思ったのもある。

さて読んでみるとかなりエンゲージング(力が入っている)なものでした。

 Contents
 1. Introduction: Christian Postliberalism and the Jews
Part 1: American Protestant Postliberalism
 2. George Lindbeck and the Church as Israel
 3. Robert Jenson: The God of Israel and the Fruits of Trinitarian Theology
 4. Arguing for Christ: Stanley Hauerwas's Theopractic Reasoning
 5. The Limits of Postliberalism: John Howard Yoder's American Mennonite Church
Part 2: British Postliberalism
 6. Finding Christ in World and Polity: Daniel Hardy's Ecclesiological Postliberalism
 7. Wisdom's Cry: David Ford's Reparative Pneumatology
 8. John Milbank: Supersessionist or Christian Theo-semiotician and Pragmatist?
 9. Conclusion: Christian Postliberalism and Christian Nonsupersessionism Are Correlative

(購入した時点では認識に入っていませんでしたが)著者はユダヤ人の方で哲学者です。プラグマティズムという米国の哲学の学統(スクール)がありますが、そのうちの一人チャールズ・サンダース・パースの論理学を特に研究したようです。


ユダヤ人の哲学者がなぜ何人ものキリスト教神学者の著作と取り組むのか。しかも単に概観するのではなく彼らの神学のロジックみたいなものを丹念に分析するわけです。

分析のポイントとしているのは(こちらは今度は自然なことですが)「置換神学(supersessionism)」をこれらの神学者たちがどのように意識し、どの程度「彼らの神学のロジック」で乗り越えているかということです。

しばしば「リペアー(修復)」と云うことが出てきます。「置換神学(supersessionism)」を乗り越えるとは、神学をどのように修復的にやっているかと言う事でもあるようです。

サブタイトルに「ポストリベラキリスト教」とありますが、著者はイェールで博士号を取得したのでそのことも関係あるみたいです。(ポストリベラリズム神学自体が特別に対象とされているわけでもないようです。)


筆者はこれまでそれほど「置換神学」を意識していませんでした。(この辺のことに敏感なのはリフォームド系やディスペン系だと思いますが。)

しかし一番印象に残ったのは「置換神学」が神学的に大きな比重を持っているみたいだ、ということです。

それは単に「キリスト教とユダヤ教関係改善」のために重要と言うだけでなく、「分裂(schism)」と云う問題に痛みを感じその痛みの出所を見極め修復する意思を持つ。そのために対話するという姿勢のゆえに重要だ、ということのようです。



(7)R. Kendall Soulen, The God of Israel and Christian Theology



こちらも「置換神学(supersessionism)」を問題にしています。

というかキリスト教の神学者として深くこの問題を掘り下げています。

200ページに満たない著作ですが、よく議論が練り上げられ、俎上に乗せる神学者も選びぬかれ、論点がはっきりするように書かれています。

最初にソウレンの名前を耳にしたのは、ロバート・ジェンソンのこの動画だったと思います。


しばらくウィッシュ・リストに置いたままにしていましたが、「読書の流れ」が段々とこちらの方向に来るようになったところで購入しました。(今年です。)

個人的に重要だと思った論点は(この本をちゃんと読めていればですが)・・・
「置換神学(supersessionism)」に影響を与えたのは、単に個々の神学者の教理的構築作業にあるのではなく、2世紀の教父たち、殉教者ユスチノスとエイレナイオスの正典聖書観が「標準的」になったことにある
というものです。

つまり、旧約聖書と新約聖書との繋がり方の捉え方が問題の基底にあるということです。

かなり啓発的な本でしたが、まだ把握し切れてない点も多く、再読が必要かと思います。


(8)David Rudolph & Joel Willitts, eds., Introduction to Messianic Judaism


ついにここまで来たか、という感じです。

なんのこっちゃと言われるでしょうが「メシアニック・ジュー」に関してはもう何年も前にジョゼフ・シュラムの「シオンとの架け橋」や、つい最近でもフルクテンバウム等、○○タイムで活躍する○川○一牧師らの「ヘブル的(ユダヤ的)○○」の連発を耳にして「どんなもんかなー」と思っていました。

これまで「面白そうな内容を持っていそうだぞ」という好奇心と、「なんか怪しそうだ、あぶなかしそうだ」との警戒意識と両方あったのですが、後者の方が優っていました。

しかしそんな見方を大きく変えたのがメシアニック・ユダヤ教(Messianic Judaism)の指導的神学者、マーク・S・キンザー(Mark S. Kinzer)でした。まだつい最近のことです。

「メシアニック・ジューとは何か」、今ここでしっかり取り組む必要がある・・・と思って適当な入門書を探していたのですが、これにしました。(キンザーの論文も入っています。)

まだ半分までしか読んでいませんが、勘は当たっていると思います。(置換神学の問題を含めて、キリスト教・ユダヤ教関係と云う大きな問題を理解する鍵を握るのがメシアニック・ジューではないかということ。)

「今後何らかのグループなり読書会なりを立ち上げて勉強したいテーマ」になるのではないか・・・と思っています。


2017年8月30日水曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き2)

宗教改革を越えて、ぼんやりと意識していた地平は「古代教父時代」だったわけですが、その地平はあまり深堀せず次に向かったのが「第二神殿期ユダヤ教」の地平でした。

第二神殿期ユダヤ教については筆者の見えている範囲でちょこちょこと書いたことはあるが、一番まとまっては第二神殿期ユダヤ教 ということになるみたいだ。

前回はこの中で最近(と言っても日本で、しかも保守的なキリスト者の中でということになるが)話題となってきたNew Perspective on Paulについて書いた。

「最近の読書に見る流れ」というタイトルで書いているので、具体的に本を取り上げていこう。

(3) Oskar Skarsaune, Reidar Hvalvik 編著、JEWISH BELIEVERS IN JESUS: THE EARLY CENTURIES (2007)
(4)ダニエル・ボヤーリン『ユダヤ教の福音書: ユダヤ教の枠内のキリストの物語 (2013)
(5)Amy Jill-Levine and Marc Z. Brettler eds., The Jewish Annotated New Testament (2011)



(3)についてはこの記事この記事で少し紹介した。

今回紹介するにあたっての関心事は、初期「キリスト教」と「ユダヤ教」との関係、そして「ユダヤ人キリスト者(民族的にはユダヤ人だがイエスをメシアと信じた者たち)」の歴史だ。

新約聖書時代はキリスト者、特に指導者は総じてユダヤ人であり、パウロの伝道を見ても地中海都市にあったユダヤ人会堂が舞台となっていた。

ざっくり言えばキリスト教はユダヤ教の一派であり、数世紀かかって二つは「分離(the parting of the ways)」したのだ。

原始キリスト教会の「ユダヤ教とキリスト教の関係」そしてある時から「二つが袂を分かった(the parting of the ways)」ことについては、最初にそれとして関心を持ったのは、Graham N. Stanton, A Gospel for a New People: Studies in Matthew を読んだ時だった。

スタントンはこの本の「パート2」でマタイ福音書(マタイ教団)の背景としてユダヤ人会堂からの分離問題を取り上げているのだが、この「分離」がほぼ一世紀中には終了している風な印象を抱いた。

しかしスカルサウネ編論文集を読むと場所にもよるが、その後数世紀に渡って関係が続いたと言うことを知った。

それまでキリスト教会は異邦人世界に浸透するに従い、ユダヤ人信者の存在もユダヤ教の影響も急速に衰退した・・・というイメージだったので、大幅にではないが、二つのグループの相互交渉・影響が数世紀続いたと言うことを知って何かほっとした感じだった。

(4)とボヤーリンについては既に紹介している。(この本は購入してではなく図書館で借りて読んだ。)

そしてその本の中の議論が使われている動画を「マルコ7章16節」問題として数回にわたって連載した。


ある意味この辺から「キリスト教」と「ユダヤ教」の境目が段々と微妙に映るようになって来た気がする。そしてユダヤ人(学者)が福音書に接する時の距離感の近さに対して、(現代の)異邦人学者の距離感の遠さに対する自覚のなさ、みたいなことを思ったりした。


(5)は前々から気になっていてずーっと「ウィッシュ・リスト」に入ったままだったが、「この流れ」が強まってきてついに最近購入した。

編著者の一人、エイミー-ジル・レヴィンについてはここで簡単に紹介している。(発音はレヴァインではなくレヴィンが近い。)

新約聖書についてユダヤ人の学者たちが多数集って「註解」や「関連論文」を執筆すると言うことは(本人たちの弁によれば)画期的なことだという。本当に最近になってから可能になったプロジェクトで、30年くらい前だったら想像も出来なかった、とこのポッドキャストで述懐している。

エイミー-ジル自身、メソジスト系のヴァンダービルト大神学部の教授を務めていて、「時代の変化」を表しているのだが、近年の「史的イエス」研究や「パウロ研究」でのユダヤ人学者たちの貢献はどんどん増えてきており、(いい意味で)刺激を与えているように思う。


いまの所は「へーそんなもんか」でやり過ごしているが、これらのユダヤ人学者たちが「新約聖書文書は(ある意味)ユダヤ教文書でもある」として研究を積み上げてくると、ちょっと意外な展開が将来起こってくるのではないか、とも感じている。


《次回予告》
いよいよ昨年から今年に入って読んできた3冊を紹介する(うち1冊はまだ読んでいる)。
これを書いておかないと「義認論ノート」の終わりの方に書くことがピンボケになるかも知れないので、それでこう言う形で書いて置くことになったわけだ。

2017年8月28日月曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き1)

前回紹介したのは

 (1)ロバート・ウェーバー『コモンルーツ』
 (2)ウィリアム・エイブラハム他編著『カノニカル神論』

の2冊だが、これら二つは宗教改革後の福音主義神学が理性主義に傾きすぎて、教会生活・信仰生活が(日本語でそれらしき表現を使うと)「情操」的に貧弱になってしまったと言う反省から生まれたものと言えるだろう。

その「欠落した」何ものかを宗教改革以前、特に「古代教父時代の遺産」に遡って探したわけである。

この記事は自分が購入して読んだ(読んでいる)本を軸に書いているのだが、それで言うと読んだことがないので話は逸れるが、この時点で紹介しておきたいのがトーマス・オーデンであろう。

彼はリベラル陣営の神学者でありながら、相対する福音派のロバート・ウェーバーとほぼ同時期にウェーバーと同じように「近代」から「古代」へとUターン した人物である。(オーデンの紹介記事としてインターバーシティ出版社サイトCTの記事をリンクしておく。)

この二人を比較対照するのは結構面白いことではないだろうか。

近代プロテスタンティズムの発露として「神学的リベラリズム」があり、それに対抗するように「キリスト教保守主義・正統主義」が位置するわけであるが、構図的には対立するウェーバーとオーデンが神学的には違う経路を辿りながらも、古代教会と云う同じ場所にUターン したわけである。

リベラル神学にせよ、(しばしば反・近代と思われている)福音主義神学にせよ、どちらも近代主義から来る「欠落」があり、それを自覚し、修正を求めて「古代教会の遺産」に向かったと言うことは、現代プロテスタンティズムを考える上でやはり一つの大事な動向であろう。
※当ブログで取り上げたゴードン・T・スミスの『福音派のパラダイム・シフト』⑤では福音派のアイデンティティーの一つである「回心主義」の背景となるリバイバリズムの歴史の見直しが指摘されており、その関連でウェーバーとオーデンが言及されていた。

New Perspective on Paulの地平

宗教改革を越えた地平の一つ目が「古代教会」とすると、次に取り上げる地平は「NPP(パウロ神学への新視点)」ということになるだろう。

NPPに関してはこのブログでも、N.T.ライト読書会ブログでも度々関連記事を書いたのでここでは特に取り上げようとは思わない。

ただ次に紹介する地平「第二神殿期ユダヤ教」に繋げる橋渡し的なことをメモしておきたい。

(1)OP 対 NPP

NPP自体は1970年代からの動向と見たり、W.D.デーヴィスの『パウロとラビ・ユダヤ教』(1948年)やクリスター・ステンダール(1960年代)を含めて言及したり少し幅があるが、新約聖書の背景としてのユダヤ教諸文書の研究の積み上げの中から出てきていることを見る必要がある。

パウロの「義認」理解に関し、宗教改革の伝統的解釈(をOPと呼んだりする)に対して「新しい視点(NPP)」を提案したのは、このアカデミックな研究の積み上げからの一つの例、一つの適用と云う点が理解される必要があると思う。

しかし伝統的解釈の立場の者たち(主にリフォームド)はこれをあたかも「OP 対 NPPの直接対決・全面対決」のような受け止め方をする傾向がある。

その理由は幾つかあると思うが次の二つは大きいだろう。

 (a) NPPはパウロの「義認」理解のために新約聖書正典外 の様々な情報を多く採用する。
 (b) OPの伝統的「義認」理解を支持する者たちは宗教改革以来の聖書解釈原則である「聖書テクストの自明性(perspicuity of Scripture)」)に依拠した神学、教理的解釈に終始する傾向がある。

つまり(a)と(b)はコインの裏表のような関係であり、聖書テクストへの光の当て方において方法論的対立を抱えていると言える。(もちろんそれが全てではないだろうが・・・。)

さらなる対照として、NPPの方はより「歴史的文脈に即した聖書テクスト理解」を志向するのに対し、OPの方は「『義認』に対して与えられている教理的・組織神学的意味を保全する聖書テクスト理解」を目指しているように見える。

以上は昨年「N.T.ライトの義認論」で討論をした当事者としての体験から感じたことで、やはり方法論的アプローチの違いが大きいと思う。

(2)「教理」対「聖書(スクリプチャー)」の関係

パウロの「義認」とその関連語で織りなされている聖書テクストをどう読むかと云う問題は、ある立場から言えば「教会の存立基盤」に関わる最重要教理問題であり、単なる(というと語弊があるが)一聖書テクストの解釈問題では済まないのである。

しかしその認識が強すぎるために、教理的拘束性が聖書テクスト解釈の幅を制限していないか、との問いは立てられてしかるべきだろう。

完成形、と思われた教理的構築物である「(信仰)義認」をもう一度パウロの手紙の中に解き放ち、歴史的文脈が指し示す「地平」(一世紀ユダヤ教の文脈にあるパウロの福音の全体像)を見渡してもう一度再構成する、そのような「宗教改革を越えた」試みが求められているのではなかろうか。


というわけで、次はいよいよ「第二神殿期ユダヤ教」に関わる本の話題に入って行きたいと思います。



2017年8月25日金曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ

英語のタイトルにすれば、Horizon(s) Beyond the Reformation 、とでもなるだろうか・・・。

今年は宗教改革500周年でこの1~2年いろいろな関連で宗教改革を改めて考える機会があった。

礼拝説教でもいつもの年より余計に取り上げている。

しかし(ここで標題に戻っていくのだが)ここ1~2年(プラスさらに1~2年)の購入図書の中で目立ってきているのは、宗教改革に戻るよりもその先の事柄ではないかと思っている。

「宗教改革に戻るよりもその先の事柄」ってなんかあまりよく分からないなー。

確かに。

つまりこう言うことではないかと思っている。

昨年は日本伝道会議の分科会で「N.T.ライトの義認論」と取り組んだ。

「(信仰)義認」は宗教改革の基本原理であり、宗教改革を記念するとなると「信仰義認」の再確認・・・ということが大切なことなのだろう。

しかし、昨年の会議でも一緒に話題となった「NPP(パウロ神学への新視点)」が一つの例だが、500年前の「原理」を再確認するとは「一世紀に生きたユダヤ人パウロの『意味の地平(horizon)』」にまで遡らなければならない、ということではないか。

21世紀の地点に立って500年前を見るとき、ルターやカルヴィンなど宗教改革者の生きた時代は(あまり深入りしなければ、そして焦点を500年前に合わせるだけであったら)独立峰に見えてしまうかもしれない。

しかし少し立ち入って調べて行くと独立峰に見えたものが周辺に幾つものピークを持つ結構入り組んだ山容に見えてこないだろうか。

パウロが使った「義認」という言葉(関連語)も、宗教改革の伝統に基づいて構築された「義認論」の景色から目を「一世紀ユダヤ教の諸相」に焦点を合わせると、「行為義認vs信仰義認」の対立というそれまで一本に見えていた山の稜線 が、背景にある山容の複数の稜線と実は重なって一本に見えていた のだということに気づく。と、そういうことがあるのではないか。

そういったような「対象との距離の取り方や背景との遠近による見え方の違い」を「地平(ホライゾン)」にたとえてみたのだ。

そして「対象に近づいていくと、(その背景の)地平も変化する」ということだ。(この辺のことはもっと具体的に説明して行く必要があるだろうが・・・。)



さて前置きはその辺にして最近(購入した本の)読書で変化してきた「地平」を紹介してみよう。

(1)Robert E. Webber, COMMON ROOTS



上のものが初版で、まだ米国留学早々の頃に出版されたのを購入していたが、読む機会がなかった。

帰国後牧師となり、周辺で「福音主義の霊的枯渇」みたいなことが囁かれ始め、ヘンリー・ナウエンなどが読まれるようになってロバート・ウェーバーの「宗教改革前、教父時代への遺産への意識」みたいなものが少しずつ「いつか読まないとなー」になっていた。

しかし結局読むことになったのは、下の方のデーヴィッド・ネフの序言が付いた改装版を廉価で見つけ購入したからだった。

ネフの序言にはウェーバーがこのような教父時代への「Uターン」をするきっかけがまさに自分自身の「福音派としての霊的枯渇の自覚」からだったことが綴られている。

『コモン・ルーツ』には巻末付録に「シカゴ・コール」(1977年)があるが、翌1978年の(聖書の無誤に関する)「シカゴ声明」との関連とズレが微妙にネフによって指摘されています。(ちなみにウェーバーがこの本を出版後まもなくあのハロルド・リンゼルを義理の父とする、というのも一種の皮肉ですかね)
  Here is something very important. Harold Lindsell, an iconic figure of the midcentury evangelical movement  who was to become Webber's father-in-law shortly after the publication of Common Roots, saw the content of the Chicago Call (which formed the backbone of this book's theological reflection) as a defense against the subjectivism of liberal theology. That was the battle that he, Carl F. H. Henry, and others among the charter members of the Fuller Seminary faculty had fought. By contrast, Webber saw the content of the Chicago Call as a way of renewing and reawakening people to the Spirit amid the objectivism of evangelical rationalism. (p.11)

(2)William Abraham, 他編著、Canonical Theism: A Proposal for Theology & the Church


こちらは購入したのは数年前だが、同著者の「正典」と「認識論(エピステモロジー)」の関係を説いた、William J. Abraham, Canon and Criterion in Christian Theology: From the Fathers to Feminismこの本の紹介記事)を読んでいたので迷わず購入した。

こちらはウェバーとはアプローチが多少異なるが、福音派神学と実践の限界を見通した上でその前(宗教改革前)のカトリックの教父たちの構築した聖書に限らない「正典的」遺産に注目している。(キャノンとはリストのこと。正典聖書のリスト以外にも、聖徒たちを建徳し、救いの恵に保持する様々なリストがある。)


(どうやら一回では終わりそうにない。継続とする。)

2017年2月24日金曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、8

また前回から大分間が空いてしまいました。

実は先日『聖書信仰と諸問題』を購入しました。

この書はいま解説している『聖書信仰』をかなり意識して出版された本です。

今後の解説は、表立って言及はしないと思いますが、多少なりともこの聖書信仰と諸問題』を意識して書き進めることになるかと思います。


さて 、今回扱う6章「ファンダメンタリズム」は脚注も入れると20ページあり、少し長いので2回に分けようと思います。

6章 「ファンダメンタリズム」(88-108) 
 A 「英米ー明らかに異なる二つの流れ」(88-94)

イントロに
・・・1920年代、保守的な神学者たちが宣言した「五つのファンダメンタル」となった。後の十二冊からなるトラクトシリーズ『ファンダメンタルズ』は、篤志家の協力を得て、無料で全世界に三百万部供給されたが、自由主義に対抗するファンダメンタリズムの基本的な教えを説明している。(88ページ)
とあるのですが、恐らく名前としてはその存在を知っている人でも、「現物」を所有していたり、見たことのある人は少ないかもしれません。(ネットには画像がありますが・・・。)


実はこの『ファンダメンタルズ』のⅦとⅧは筆者が(確か)このことと縁の深い某神学校の古本市で入手したものです。(一冊が25セントでした。)

ついでに目次のところをスキャンしたものをお見せします。



前々から「自慢したかった」のですが機会がなかった。(一体何の自慢になるのだ、と言われそうですがやはり「歴史」を証言するハードな証拠をもっていることはそれなりに・・・。)

さて、英米での違いを浮き彫りにする「証言」として、ジェームズ・オアが紹介されています。(90ページ)
神の啓示の書物としての聖書を守ろうとして「微細なデータに至るまで聖書には『誤りがない』と実証しなければ、啓示宗教への信頼全体が崩れてしまうとまで主張するのは、きわめて自殺的な行為である。」
と引用しています。

脚注によると、この引用は『啓示と霊感(Revelation and Inspiration)』(1910年)からだそうです。(リンクはオアーの著作の全文、フリーです。)

以下は周辺も含めた原文の引用ですが、オアの議論は「霊感の教理」は「啓示の事実・真実」に基づくのでありその逆ではない、というものです。

もしそれを逆転させて、しかも「無誤論」のような形で「キリスト教の真理性」を主張・証明しようとするならば、もしそれが実証されない時、「無誤論」とともに「キリスト教の真理性」の主張まで崩壊してしまう、という危惧に聞こえます。

オアが「the right method」に対して「The older method」と呼んでいる「霊感を先に論証することで啓示を証明する」アプローチのいわば名残のようなものとして「無誤論」が紹介されています。

そしてこのthe right method」を取るならば「無誤論」を必要としないことを「福音書」のケースに即して語っています。

福音書記者がたとい「霊感」されたとしなくても、彼らが記述した「人物」が、確かに「超自然的主張」をしそれが言葉と行いによって確かめられた「人物」として記録されているならば、(私たちは)福音書を通してその「人物」を信じることが出来るし、その方が「霊感された福音書を先ず信じた上でその人物を信じる」よりもはるかに無理がない。


「無誤な聖書」を主張していたホッジやウォーフィールドでさえ、「新約聖書」という「啓示の記録」より「イエス・キリストの啓示の事実」の方が先に存在し、そして仮に神が「完璧に無誤な啓示の記録」を与えなかったとしても、啓示の事実に基づくキリスト教は、そのような霊感された書物の存在に左右されずに成立したはずだ、と脚注[1]で言及しています。
I. Revelation and Inspiration — Their Relations.

1. It will have been seen that it is sought in the preceding pages to approach the subject of inspiration through that of revelation. This seems the right method to pursue. The doctrine of inspiration grows out of that of revelation, and can only be made intelligible through the latter. The older method was to prove first the inspiration (by historical evidence, miracles, claims of writers), then through that establish the revelation. This view still finds an echo in the note sometimes heard — ' If the inspiration of the Bible (commonly some theory of inspiration) be given up, what have we left to hold by ? ' It is urged, e.g., that unless we can demonstrate what is called the ' inerrancy' of the Biblical record, down even to its minutest details, the whole edifice of belief in revealed religion falls to the ground. This, on the face of it, is a most suicidal position for any defender of revelation to take up. It is certainly a much easier matter to prove the reality of a divine revelation in the history of Israel, or in Christ, than it is to prove the inerrant inspiration of every part of the record through which that revelation has come to us.

Grant the Gospels to be only ordinary historical documents — trustworthy records of the life of Christ, apart from any special inspiration in their authors — we should still, one may contend, be shut up as much as ever to the belief that the Person whose words and works they narrate was One who made super-human claims, and whose character, words, and deeds attested the truth of these claims. [1] It is assuredly easier to believe that Jesus spoke and acted in the way the Gospels declare Him to have done, than to prove that Mark and Luke possessed an exceptional inspiration in the composition of their writings — though, as has been already stated, there is the best reason for believing that they did.

[1] This has often been put as strongly as it can be by the stoutest defenders of the infallibility of Scripture. Cf., e.g., Bannerman, Inspiration: the Infallible Truth and Divine Authority of the Holy Scriptures, pp, 18 ff. Drs. Hodge and Warfield, arguing for an 'errorless Scripture,' write: 'Nor should we ever allow it to be believed that the truth of Christianity depends upon any doctrine of inspiration whatever. Revelation came in large part before the record of it, and the Christian Church before the New Testament Scriptures. Inspiration can have no meaning if Christianity is not true, but Christianity would be true and divine, and being so, would stand, even if God had not been pleased to give us, in addition to his revelation of saving truth, an infallible record of that revelation absolutely errorless by means of inspiration' (Presby. R$v. t April 1881, p. 227).
藤本氏は他にも「英米二つの流れ」の由来や背景を指摘していますが、やはりこの辺を丹念に検証しながら、聖書の性格や意義・役割を考えて行く必要があるのではないか、と思わされた次第です。

(次回へ)

2016年12月29日木曜日

(5)オープン神論サイドノート③

2016年4月、7月、にそれぞれをアップしたわけですが、暫く経ちました。

このシリーズ不定期であることは既にお断りしているので、別に暫くぶりでのアップだからといって前置きなど要らないとは思うのですが・・・。


たまたまですが、ブロガーのロジャー・オルソン氏が
An Excellent Arminian Book on Divine Providence
という記事をアップしていて、本の推薦をしているわけです。

※(ウェスレアン)アルミニアンという神学的立場をご存じない方はこちらの記事を参照していただくとして
推薦されたのは・・・Bruce ReichenbachのDivine Providence:God's Love and Human Freedom、という本です。
※この記事を書こうと思い立ったのは、何のことはない、この本がキンドル版で「$8.71」となっていて「安いかな、オススメかな」と思ったからです。
で、オルソンの「オススメ」口上ですが以下のようになっています。
If you are a person who wants a thorough, comprehensive, coherent, sophisticated but readable one volume treatment of divine providence in all its aspects that is also evangelical in ethos and completely consistent with classical Arminianism, here it is: Divine Providence: God’s Love and Human Freedom by Bruce R. Reichenbach (Cascade Books, 2016).
著者が、そしてこの本が「アルミニアン」かどうか、については以下のように断っています。
Now, ironically the words “Arminian” and “Arminianism” and the name “Arminius” appears nowhere in the book. I am not claiming that Reichenbach is an Arminian; I am only saying that this book is thoroughly consistent with classical Arminianism—which is not to claim either that every Arminian will agree with it in every detail.
また「オープン神論」との関わりでは次のように言っています。
His chapters on the “problem of evil” are simply outstanding. I found very little with which to disagree in the book. I will only say that I am not convinced that his critical (but generous) treatment of open theism really answers the questions it raises about the traditional view of God’s foreknowledge. (But his answers are the best I could come up with, too, without adopting open theism.)
関心のある方は購入を考えてみてはいかがでしょう。


※蛇足ながら「摂理」に関しては筆者も過去にこんなことや、こんなことを書いていました。




2016年12月28日水曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、7

久し振りの今回は・・・

「5 理性の時代の聖書信仰」(74-85ページ) 、となります。


 本書は時代の進行に沿って概観されています。

 前章4章は「プリンストン神学の時代」でした。大体19世紀後半です。

 一章先を見ると6章は「ファンダメンタリズム論争」を扱います。1920年代です。

 この時代的移行の前に17世紀のデカルトから発する「基礎づけ主義(「我思う故に我あり」で有名ですがこのリンク先の説明も参考になるかも)」やスコットランド常識哲学という保守的聖書論に影響を与えた「哲学的前提」を5章で扱っているわけです。
※ この辺の事情を保守派・福音派(アブラハムやグレンツなど)が自己批判的に分析できるようになったのが「ここ20-30年の動き」ということなのだろうと思います。


 「プリンストン神学の聖書観の背後にある哲学的前提、あるいは思想的潮流」

 (A)基礎づけ主義
 十九世紀を振り返ると、リベラル神学も保守主義も同じようにこうした「基礎づけ」 的認識論の上に成り立っていたことが分かる。リベラル神学は、当初、教会が作り上げた神学という建物を一旦脇にどけて、近代聖書学を土台としたキリスト教真理を再構築しようとする。・・・保守主義は、デカルト的土台を無誤であると信じる聖書に求めた。(75ページ)
 (B)スコットランド常識哲学と理性主義

 こうして、本来カルヴァンによる、「聖書が神の言葉であることは、聖霊が信仰者の心の中に与える証しによる」という神秘的・心的・主観的側面は影を潜め、聖書の無誤性が客観的事実であることを論証するという理性的側面の強調へと聖書信仰が方向を転じたことになる。(78ページ)
[脚注] 宇田も同様に論じる。本来の改革派の神学は、聖書の無謬性を信仰者が聖霊の内的証しによって悟るものと考えてきた。ところが、スコットランド常識哲学の影響により、聖霊の内的証明は「あらゆる外的な証拠をとおして」人々のうちに確信を与える、という証拠の積み上げによる確信へと変化した、と。



 以上19世紀後半に展開されたプリンストン神学 を支えた「哲学的前提」が聖書解釈を理性主義的な方向に導いた、という部分を引用してみました。

この章の部分を読んで記事にしようと書き始めて大分時間が経ちました。色々逡巡しました。一つの理由は「詳論がないことに関してコメントを書くのは難しい」ということです。

しかし、著者の見識を差し置いて、「プリンストン神学」周辺のことをパパッとネットで検索して得た「インスタント知見」で何か書くこともまた難しい。

ということで以下の二つのポイント(と、一つの蛇足)にまとめてみました。

(1)スコットランド常識哲学の評価の仕方
 
 啓蒙主義をどう捉えるかどう評価するか、という問題は依然として「いまの問題」であると思います。

 プリンストンにこの新風を吹き込んだジョン・ウィザスプーン、根付かせたA・アレキサンダー、受け継いだC・ホッジ・・・の全体の流れを文脈として評価することが大事なように思います。

 啓蒙主義のネガティブ・サイドを代表するデカルトやD・ヒュームに対抗した形で出たと思われるスコットランド哲学は、プリンストン神学にとって「特別啓示」にも「一般啓示」にも、どちらにも楽観的な認識論的態度を提供するものとして(ネガティブな認識論より)ベターな選択であった、と考えることも出来るかと思います。

(2)理性主義のポジティビスティックな性格の捉え方

 19世紀初頭において「科学に対する楽観的態度」が支配的であり、そのような空気をプリンストン神学の基礎を築いた方たちも吸っていたとしても、それ自体では「科学的な態度に対する自信過剰」にはならないと思います。

 2011年に出されたC・ホッジの伝記の「序」やその紹介記事などをかいつまんで読んでみると、プリンストン神学の祖はどうも「新しい空気」に敏感でありながら、しかしカルヴィニズムの伝統を重んじることにも意識が強い人であり、その中にはカルヴィン来の「堕落した理性に対する顧慮」と「神の言葉」である聖書に対する先見的な主張依然強かった印象が強い。(この記事などほんの少し参照しました。)

 かつてボンヘッファーがバルト神学を「聖書啓示のポジティビズム(revelational positivism)」と呼んだらしいが(E・ベートゲ)、それと比較すると神学的洗練はないかもしれないが、根本主義の「聖書啓示のポジティビズム」に繋がるものがプリンストン神学の聖書観にあったとしても、それがよりポジティビスティックな性格を帯びるのは、やはりリベラリズムとの敵対的対決を経過してのことではないか、と勘ぐる次第。

《蛇足》
 より平均的(大衆的)アメリカ・キリスト教に対するスコットランド常識哲学(楽観的科学主義のような傾向)の影響も同時に押さえておくのも大切ではないか。

 19世紀、アレキサンダー・キャンベル(1788-1866)が祖の一人とされる「キリストの教会」の伝統として語られる「救いの計画(The Plan of Salvation)」にもこの理性主義的傾向は見られるのではないか、と既に指摘しました。

 さらにこのような回復運動がより「大衆的キリスト教」性格を帯び、(思弁的神学を嫌って)反知性主義的力学も加わって、「聖書記述を事実」としてそのまま受け取っていく「聖書解釈原則」の方向に働いたことも、その後の根本主義の背景として考えられるのではないか、と愚考します。


2016年8月31日水曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、6

「4 十九世紀とプリンストン神学」(59-72ページ)

プリンストン神学に入る前にイントロ的に扱っている「教義神学から独立させる」聖書神学のことについてちょっと。

「1787年、ヨハン・ガーブラー・・・」と言及されている部分ですが、この「神学と聖書学」の分離が端緒となって「聖書無誤」のような神学的前提を排除した実証的な歴史学としての聖書理解のスタイルが定着していった、とあります。

つまり「プリンストン神学」が「聖書無誤」の前提で神学構築される背景としてこの「神学と聖書学の分離」のような動きがあったということでしょうね。

 プリンストン神学について第一世代(C・ホッジ)と第二世代(A・ホッジとウォーフィールド)で「聖書の啓示性と真理性」についての信頼が楽観的から次第に(脅威に対する)防衛的へと変化して行く過程を要約しているようです。

(1)楽観的理性主義

 神の啓示は「言葉」を客観的媒体として「知性」に伝達され、魂全体に作用する。

 「真理は感情の中には与えられず、知性によって発見され解明される。・・・」

 「そのような啓示の真理は、科学の世界同様に検証され、確実に認識できるという。こうして聖書の預言や歴史的データをさかんに検証し、その真理性を証明し、その上に神学を構築しようとする試みを積み上げていった。」(チャールズ・ホッジ)

 「聖書は神の言葉を記しているのではなく、それ自体が神の言葉である。したがって、すべての要素や言明は絶対的に無誤であり、私たちはそれを信じ、それに従うことが求められている。」(A・A・ホッジ、B・ウォーフィールド) 

(2) 脅威に対抗するア・プリオリな無誤論

 「しかし、ここに来て進化論的世界観やドイツの高等批評学が聖書を解体分析していく中、彼らはトゥレティーニなどの逐語霊感説よりも綿密に、またそれを超えた無誤論を考え出して行く。」

 「このような危機感は、十七世紀には存在しなかった。また一世代前のチャールズ・ホッジよりも、息子A・A・ホッジとウォーフィールドが、より強烈に実感していたものである。」

 「ところが、リベラリズムの脅威をより強く意識した次の世代のウォーフィールドは、矛盾を矛盾として認めようとはせず、・・・、解釈困難な箇所はそのままにして、すべてが真理であるとみなされるべきである、と主張する。言うならば、 ア・プリオリな真理はア・プリオリなままで信ずるべきであるとして、無誤性を完璧に守ろうとしたのである。」

 「こうして十九世紀末から自由主義の圧力が増大していく中で、聖書の無誤論は、聖書批評学への道を閉ざし、保守派の防波堤として重んじられた。」

 「言い方をかえると、この時代のプリンストン神学において、聖書信仰はキリストや十字架に並ぶような信仰箇条になってしまった。福音主義の組織神学の書物があれば、聖書、神、キリスト・・・・・・の順に記されるようになる。」 
以上、(1)と(2)で目立ったポイントを引用列挙したが、筆者として要約すると次の二点が重要化と思う。

 (一)聖書の啓示に対する科学並みの「客観性」の要求

 それによって打撃を蒙ったのは「聖書テクスト」との「正直な距離感」ではなかろうか。

 「言葉=データ」というナイーブな実証主義的態度が、本来「聖書テクスト註解」を基礎にすべき神学を席巻しまった感がある。

 (二)聖書批評学アレルギー

 これは現在まで続くmalaise であるが、そして筆者の乏しい理解でもこのように言っていいと思うが、宗教改革者は基本的にその時代の聖書批評学者であり、歴史的文書としての聖書テクストの側面を忘れなかったと思う。(聖書を原語から翻訳したり、原語で註解するということは「聖書テクスト」との「正直な距離感」を常に保持することだと理解する。

 プリンストン神学にとっての聖書テクストの解釈困難な箇所の意義と、宗教改革者たちにとってのそれとは大分違ったものになっている、といっていいだろう。(ノート、3の「(テクストの)明瞭性(パーピスキュイティー)」問題参照)   
  
(次回に続く)

2016年7月16日土曜日

(3)「イチオシ!」の入れ替え、2016

大体年一回のペースで更新しているイチオシ!です。

 2014年・・・水村美苗『日本語が亡びるとき』
 2015年・・・金鎮虎『市民K、教会を出る』

毎回ジャンルが変わると言われそうですが、今年はこれです!!

エリック・ブリニョルフソン『ザ・セカンド・マシン・エイジ』(2015年7月)


どこで評判を聞いたかはもう覚えていない。

昨年7月の発刊だからもう1年経つわけである。

毎度のことながら自分で本書を購入して読んだわけではない。

図書館で借りて読んだ。(『日本語が亡びるとき』はその後古本を購入したが。)

予約者が多く確か2ヶ月くらいは待ったと思う。

そして、一回では読み終えられず、その後2回借りた。(その2回とも again 予約待ちだった。)

そして明日返却となった。まだ10-20ページくらい残っている。

でも大体内容は掴めたと思うので、記事にしてもいいだろう。


デジタル技術によって「人間の労働」が肉体労働だけでなく、知能労働もどんどん取って替わられる近未来社会をいろいろな角度から検討している。

まずコンピューターのもたらす「革新」が人類が経験してきたものとしては「産業革命」に続く広範なものであり、そのスピードもある時点を越すとナントカ数的ものになるそうだ。

一昔前コンピューターがチェスの世界チャンピオン破った事件があったが(今年だったかチェスと比較するとはるかに複雑で暫くはまだ人間を負かせないだろうといわれていた囲碁でもついに何勝かしたのが今年だった、かな・・・。)AI(人口知能)の進歩が加速度的に進むだろう、そして労働市場その他の経済の様相を大きく変えそうだ、という予測にかなり焦点を当てている。

個人的にはこのような「技術革新」がもたらす文明的問題については、過去に何冊か興味深く読んだことがある。

大雑把な印象だが、それらの「未来予想」本が現実をどの程度予測したかと言われると(その途上のものが殆どだが)それほど目を見張るようには実現していないような・・・。

だからといって、このザ・セカンド・マシン・エイジ』も眉唾で読んだらいいとは思わないのだ。

人間に取って替わる「自動化」技術はデジタルの前からあり、長い歴史の延長線にある技術の問題であり、ただデジタル技術というほぼ無限にコピーすることができる、量的制限を撤廃する技術がもたらす革新的変化の予測がかなり大きいとはいえ見通せないところが難しいポイントのようだ。


教会の牧師として一番関心が向く問題が、「人間の尊厳」である。

以前どこかで書いたかもしれないが、大学は経済学部だったが、原論で「マルクス経済学」の基礎を叩き込まれた。

労働者の「労働」が生んだ商品価値が資本家によって搾取される構造を理論化したのがマルクス経済だ。

つまりそこでは「労働」とは人間の価値を端的に表すものだった。

しかし未来社会では「疎外」は「労働者と商品」ではなく、自動機械が人間の労働機会をどんどん奪っていくという構図なのだ。

人間の価値は、人間の尊厳は「働く」ことにあるとすると、これはやはり大きな危機となりうるわけだ。

その辺の展望や対策についても本書はいろいろ書いているのだが、基本的に経済学畑の人なのだろう、このような問題の「精神性」の側面はそれほど深められていない、と云う印象だ。

広範な(事務・頭脳労働も含む)単純労働者の仕事が取って替わられたり、所得格差が大きくなったりと自動化社会への移行過程でも難しい問題が出てくるし、既に出てきている。


まっ、そういった事柄に関心のある方にお薦めしたい。

2016年7月2日土曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、3

「1 宗教改革」(24-31ページ)

『福音』と『体験』と『聖書』
 この福音の個人的体験は、信仰義認にとどまらない。宗教改革者たちはいずれも、キリスト者としてどのように生きるべきかを、ローマ教皇の教えでも教会の伝統によるのでもなく、サクラメントの秘儀の中においてでもなく、聖書から直接に学んでいった。
 ・・・こうして聖書は、キリストの福音を体験し、福音に生きるための神の言葉としてとらえられていく。
筆者はウェスレアン・アルミニアン(注1)の流れに育ったので「福音とは体験するものだ」式なレールの上で育った。

 恐らく「体験主義キリスト教(そうこの段階で呼んでよければ)」のルーツは、宗教改革者の時代の後、いわゆる正統主義の強調(どちらかというと正しい教理に対する知的承認を信仰の優先事項とした)に対して「敬虔の生活を力動させる心」を強調した敬虔主義の流れがより明瞭なものではないかと思う。

 敬虔主義の聖書に対するアプローチは(正統主義が聖書を教理の源泉とするのに対し)、「キリスト者としての成長」や「敬虔の生活(デボーショナルも含む)」の「霊的糧」という面が強くなったのではないかと思う。

 この流れで後々重要になってくるのは「福音体験」にしろ、「キリスト者の成長」にしろ、「個人的」「主観的」ものの見方が中心になってくる傾向だ。

 上記引用での強調部分は、
 (1)権威の問題・・・教皇・教会の伝統
 (2)「恵の手段」・・・サクラメント
に相当するわけだが、ルター個人の経験が端的に物語るように「個人の信仰・良心」対「制度的教会の権威」の図式になったことにより、宗教改革諸派は「反・ヒエラルキーな権威・権力」を志向することになり、「職制」や「聖典」の問題を制度的な(より外面的な)教会の問題と認識するようになって行ったと思われる。

 「キリスト者の成長」にしろ、「教会の形成・構成原則」にしろ、「聖書解釈に対するアプローチ」にしろ、「伝道方法や対象」にしろ、個人が物事を動かす基準に移行して行くのは、ある意味カトリック教会に対する反動としての面もあることは否めないだろう。(注2

聖書の言葉の明瞭性の根拠は?
 さらにブロミリーは、宗教改革者たちの聖書観には、神のメッセージが人間的なものの中で、・・・つまり彼らは、聖書の大部分は明瞭でわかりやすい言葉であり、それはドイツ語にも英語にも、また日本語にも翻訳し得ると考えた。
こちらの引用に関連する問題は、宗教改革の「聖書のみ(sola scriptura)」 原則が、実際上機能するために必要な「聖書解釈上」の要件である「聖書テクストの意味の明瞭性(plain sense, clarity, perpiscuity)」に関わるだろう。

 この問題についてはいずれもう少し取り扱うことにもなるだろうが、どう控え目に言っても「一筋縄では行かない」ものだといっていいだろう。

 (実際上、この問題は聖書を奉じ且つ読むクリスチャン誰もが多かれ少なかれ感じているだろうと思う。「誰もが聖書を読める」幸いな状況は、誰もが聖書のテクストの意味を巡って対立したり論争したりできる状況をも発生させる。そしてプロテスタントの場合それらを調停する手段は制度的・機構的に弱いと見られても致し方ないだろう。もちろん民主的なルールに希望を持っているわけであるが。)


(次回に続く)


注1・・・「ウェスレアン・アルミニアン」とも「アルミニアン・ウェスレアン」ともいう。両方の言い方があって、多分多少のニュアンスの違いがあるだろう。

注2・・・スコット・マクナイト『福音の再発見』1章に短く書かれている(17-8ページくらい)、バプテスト信者であったスコットの自伝的エピソードを参考にしてみてください。バプテストはある面「個人原理」を徹底し、また「聖書」以外に「信条」や「神学」は無用・・・みたいな方に行ったようです。

2016年6月26日日曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、2

「はじめに」(12-21ページ)

『福音派』か『福音主義』か
 そこで本書において、私は「福音派」という二十世紀の枠付けの強い、あたかもそういう教派が存在するかのような呼び方をなるべく避けようと思う。二十世紀のエヴァンジエリカリズムを「福音伝道主義」と的確に訳しているケースもあるが、本書では「福音主義」を多用する。そのとき、宗教改革がベースにあることも心するが、筆者はむしろベビントンのように十八世紀から現代に至る、教派を超えた霊的流れを意識していると、鷹揚にとらえていただきたい。(14ページ)
おそらく二刷目以降で既に改まっていると思うが、「日本の福音主義が南アフリカのオランダ改革派教会のデイヴィッド・ボッシュ・・・」(274ページ)の「福音主義」はこの文章の主語としては、「福音主義者」か「福音派」とあるべきところを「福音主義」としたところに、最初の段階で用語の選択に逡巡した影響が出ているのかもしれない。

 12ページの最初で、「福音主義(エヴァンジェリカリズム)、福音派(エヴァンジェリカルズ)とは、キリスト教のどのような考え方やどのグループを指すのであろうか。」とあるように
Evangelicalism・・・福音主義・・・考え方
Evangelicals ・・・福音派・・・グループ
と使い分けはなされているので、問題は「福音主義を標榜するグループや個人」に対応する用語として「福音派」を使うのに気が進まなかった、ということになるのだろう。

理由は(おそらく)、「福音派」があたかも「一つの教派」であるかのように思われたり、(あるいは)このグループが「一枚岩」的のように取られたりするのに対し、そうではなく「福音派」は多様な幅を持っていることを示したかったから・・・ということになるのだろう。


初っ端から細かな話で申し訳なかったが、用語の整理に関してちょっと気になったことをコメントしてみた。

本書が「聖書信仰」を主題とし、その「・・・福音主義の聖書理解を歴史的な流れにそって検証する・・・」(16ページ)とあるので、「宗教改革」から派生する諸グループ・運動を「福音主義」という同一用語でより広く捉えよう(捉えたい)とする試みとして理解し、共鳴・共感したいと思う。

(次回に続く)

2016年6月22日水曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、1

このブログでは時折「福音主義」や「聖書・聖書解釈」などについて書いている。

いわゆる「福音派(evangelicals)」にとって聖書がかなり重要であり、特に宗教改革以降のグループの信仰箇条等の形成において一段とその「権威性」が増した傾きがあり、その功罪・副産物様々を含めて今日に至っている。

ジェンダー・イシューズ(性差問題) でも触れたが、「聖書の権威」を高調し、あらゆる「真理問題」を聖書を基にして(ニュアンスの幅はいろいろありますが)解決したい、そう福音派の方々が思うならば(別に筆者はそうではないと言っていません。まがりなりにも筆者が属する教会連合は日本福音同盟のメンバーですし、筆者自身も日本福音主義神学会のメンバーです。)、「聖書信仰」の原則を有効に、建設的に、活かして行くには以下の三つ(三つ目はちょっと高望み過ぎかもしれませんが・・・)がかなり必須条件となるように思います。

 (1)全般的聖書リタラシーの向上

 (2)解釈論的視野の訓練

 (3)討論におけるリアリスティックな達成目標設定

 今ここでは一つ一つのポイントについて解説しませんが、少なくとも教会指導者・神学者の方々で、「聖書を権威的に使用する」必要のある方々はかなり自覚的にこれらの条件を理解して運用して行かないと、「『聖書信仰』の将来には(今までに勝るとも劣らない?)途方もない困難が待ち構えている」ように個人的には案じています。


 さて前置きはそこまでにして、今回は藤本満『聖書信仰』を取り上げた動機・理由・背景に関わることを書いてみます。

 実は「あとがき」にもありますが、本書の背景に多少なりとも筆者が関わっている、そう言うことが一点。(その縁で本書を贈呈して頂きました。ということは「書評」ででもお返しできればいいかな、とも思ったわけです。)

 幾つか書評やブログ記事(これ、や、これ、や、これ) もあるが、まだまだ取り上げられてもいいように思うのです。

 というのも本書は「聖書信仰」を題材にしていますが、それを巡っての神学史の概説的な面があり、言及される神学者や著作が多い上、その大多数は訳されていないと思われます。

 筆者のようにある程度英語圏で神学教育を受けた者にとっては「スタンダード」的なものが散見されるとはいえ、それ以外にかなり多くの専門書があります。

 インデックスでも作ってみれば明白と思いますが、一般読者が「名前だけでも知っている」というものさえかなり少数ではないかと想像します。

 もっと割り切った言い方をすれば、「書評」を書くにはちょっと面倒なほどサブ・トピックが多い、と感じます。(何しろ章数が多い。)

 ※しかし、まず「概略」を一挙にまとめたことで、今後「参照」的な用い方には便利だと思います。

ということで、筆者が採用する方法は、

 (1)一章ずつ(目安)内容に目を通し、その中から目に付いた「トピック」「人」「著作」等を取り上げ、(全く個人的な関心から)好きなことをコメントする。

 (2)上記のように選択した事項の中で、筆者が補足できるような情報があれば提供する。
 
 (3)最初に書いた、三つの必須条件に関することに繋げてコメントしてみたりする。

 以上極めて我侭で、行き当たりばったりの「道草ノート」になるとは思いますが、やってみたいと思います。

2016年3月8日火曜日

今日のツイート 2016/3/8

2016年3月の「キリスト教書部門ベストセラー、トップ10」

 大人用「塗り絵」の本が3冊も!!

 ジョエル・オスティーンの本も2冊!!

 あのサラ・ヤングの本も!!


しかし、このツイートが引き金となって、次々引用ツイートが続いています。
その中には北米キリスト教の情けない現在を嘆くものも。(「こんなことだから、トランプがトップを走っているんだよ。」)

2016年1月28日木曜日

(3)初レヴィナス

レヴィナスの名前はあちこちで聞くが、ついぞ読んだことがなかった。

(間接的に、つまり誰かがレヴィナスのことを書いたりしたのを読むことは度々あったが・・・。)


先日ついに図書館から借りてきて読み始めた。
エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)『タルムード四講話 』(新装版)


何と言うか
「究理のしかた」が二枚腰とか三枚腰みたいに感じられる。

その辺が読んでいて面白い・楽しい感じがする。

・・・タルムードは何か別の用途に用いられたものの断片を寄せ集めたりなどはしない。具体物の充溢にまっすぐ向かうのである。すべての対象は無数の相を持 つ象徴であり、たえまなく暗示を喚起する。だから、「聖句」に論拠を求めるやり方と「文字に対する偶像礼拝」とを混同するようななまくらな眼力をもってし てはさまざまの意匠を次々と造形してゆく象徴のきらめきはとうてい見切ることなどできぬのである。
当たり前の話だが、「文字どおりの意味」は徹頭徹尾「意味するもの」であって、まだ「意味されるもの」ではない。「意味されるもの」はこれから探されねばならぬのである。
(『タルムード四講話』序言から)

さて2冊目、3冊目と今後行くかどうか・・・。