2017年8月25日金曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ

英語のタイトルにすれば、Horizon(s) Beyond the Reformation 、とでもなるだろうか・・・。

今年は宗教改革500周年でこの1~2年いろいろな関連で宗教改革を改めて考える機会があった。

礼拝説教でもいつもの年より余計に取り上げている。

しかし(ここで標題に戻っていくのだが)ここ1~2年(プラスさらに1~2年)の購入図書の中で目立ってきているのは、宗教改革に戻るよりもその先の事柄ではないかと思っている。

「宗教改革に戻るよりもその先の事柄」ってなんかあまりよく分からないなー。

確かに。

つまりこう言うことではないかと思っている。

昨年は日本伝道会議の分科会で「N.T.ライトの義認論」と取り組んだ。

「(信仰)義認」は宗教改革の基本原理であり、宗教改革を記念するとなると「信仰義認」の再確認・・・ということが大切なことなのだろう。

しかし、昨年の会議でも一緒に話題となった「NPP(パウロ神学への新視点)」が一つの例だが、500年前の「原理」を再確認するとは「一世紀に生きたユダヤ人パウロの『意味の地平(horizon)』」にまで遡らなければならない、ということではないか。

21世紀の地点に立って500年前を見るとき、ルターやカルヴィンなど宗教改革者の生きた時代は(あまり深入りしなければ、そして焦点を500年前に合わせるだけであったら)独立峰に見えてしまうかもしれない。

しかし少し立ち入って調べて行くと独立峰に見えたものが周辺に幾つものピークを持つ結構入り組んだ山容に見えてこないだろうか。

パウロが使った「義認」という言葉(関連語)も、宗教改革の伝統に基づいて構築された「義認論」の景色から目を「一世紀ユダヤ教の諸相」に焦点を合わせると、「行為義認vs信仰義認」の対立というそれまで一本に見えていた山の稜線 が、背景にある山容の複数の稜線と実は重なって一本に見えていた のだということに気づく。と、そういうことがあるのではないか。

そういったような「対象との距離の取り方や背景との遠近による見え方の違い」を「地平(ホライゾン)」にたとえてみたのだ。

そして「対象に近づいていくと、(その背景の)地平も変化する」ということだ。(この辺のことはもっと具体的に説明して行く必要があるだろうが・・・。)



さて前置きはその辺にして最近(購入した本の)読書で変化してきた「地平」を紹介してみよう。

(1)Robert E. Webber, COMMON ROOTS



上のものが初版で、まだ米国留学早々の頃に出版されたのを購入していたが、読む機会がなかった。

帰国後牧師となり、周辺で「福音主義の霊的枯渇」みたいなことが囁かれ始め、ヘンリー・ナウエンなどが読まれるようになってロバート・ウェーバーの「宗教改革前、教父時代への遺産への意識」みたいなものが少しずつ「いつか読まないとなー」になっていた。

しかし結局読むことになったのは、下の方のデーヴィッド・ネフの序言が付いた改装版を廉価で見つけ購入したからだった。

ネフの序言にはウェーバーがこのような教父時代への「Uターン」をするきっかけがまさに自分自身の「福音派としての霊的枯渇の自覚」からだったことが綴られている。

『コモン・ルーツ』には巻末付録に「シカゴ・コール」(1977年)があるが、翌1978年の(聖書の無誤に関する)「シカゴ声明」との関連とズレが微妙にネフによって指摘されています。(ちなみにウェーバーがこの本を出版後まもなくあのハロルド・リンゼルを義理の父とする、というのも一種の皮肉ですかね)
  Here is something very important. Harold Lindsell, an iconic figure of the midcentury evangelical movement  who was to become Webber's father-in-law shortly after the publication of Common Roots, saw the content of the Chicago Call (which formed the backbone of this book's theological reflection) as a defense against the subjectivism of liberal theology. That was the battle that he, Carl F. H. Henry, and others among the charter members of the Fuller Seminary faculty had fought. By contrast, Webber saw the content of the Chicago Call as a way of renewing and reawakening people to the Spirit amid the objectivism of evangelical rationalism. (p.11)

(2)William Abraham, 他編著、Canonical Theism: A Proposal for Theology & the Church


こちらは購入したのは数年前だが、同著者の「正典」と「認識論(エピステモロジー)」の関係を説いた、William J. Abraham, Canon and Criterion in Christian Theology: From the Fathers to Feminismこの本の紹介記事)を読んでいたので迷わず購入した。

こちらはウェバーとはアプローチが多少異なるが、福音派神学と実践の限界を見通した上でその前(宗教改革前)のカトリックの教父たちの構築した聖書に限らない「正典的」遺産に注目している。(キャノンとはリストのこと。正典聖書のリスト以外にも、聖徒たちを建徳し、救いの恵に保持する様々なリストがある。)


(どうやら一回では終わりそうにない。継続とする。)

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