今回ご紹介するのは「オープン神論」にサイドライトを当てている日本在住宣教師、デイル・W・リトル氏の「現代神学の概観」です。(5)オープン神論サイドノート①
(5)オープン神論サイドノート②
(5)オープン神論サイドノート③
さいわい日本語訳があるので、「オープン神論」言及箇所二つを引用します(イタリック強調は筆者)。
まあ「オープン神論」自体にそれほど関心持っているわけではないだろうと思います。現代福音主義神学のアイデンティティの探求おそらく、このような過去の神学に対する批判的な態度や作為的な単純化は、現代神学が今まさに混乱の中にあることを物語っている。現代神学のアイデンティティが危機に直面しているということだ。この混乱は特に福音主義神学の中で明らかである。福音派が現代神学書を読んでも、そのほとんどが福音主義でない立場で書かれた著作だろう。しかしながら、我々福音派としても、現代「福音主義」神学について学ぶ必要はある。福音派陣営は今や伝統的に受け入れられてきた福音派の基準とは異なる神学的見解を持った人々をも抱えている。ミラード・エリクソンによれば、福音主義神学は今や右派と左派に分かれているという。5 もはや「福音主義」という言葉は、同じ福音主義に立つ神学者の間でも、同じ意味で理解されることはなくなってしまったのである。ここ3年間、北米の学会である、福音主義神学会(ETS)の年会では、少数の左派の神学者たちの「オープン神論」(open theism)を議論してきた。2001年に、ETSは、そのようなオープン神論から遠ざかるという神学的声明を発表した。2003年には、ETSのメンバーは議論の上で、二人の左派神学者たちのメンバーシップ剥奪には反対する決定を下した。6 ようするに、現代福音主義神学の世界に足を踏み入れることは、混乱の経験をすることに他ならない。能弁で有名な福音主義神学会の少数派が、まだまだ、過渡期であると主張してきたとおりである。現代神学の重要問題[現]代神学でも、それらの神学者たちから神論に重点を置く傾向を受け継いでいるが、今日では神の人格的な側面に強調点がある。つまり、現代神学は我々人間が経験するようなある種の限界を神にも設けようとするきらいがある。たとえば、未来に関して言えば、神は人間の自由な選択について、限られた知識しかないとしばしば理解されている(オープン神論)。つまり、神は、時間を超えた存在であるというよりも、時間の中に制約された存在としてみなされているというわけだ。
宣教の神学(Missionary Theology)にとって「現代の文脈」はどうなっているか概観してみよう・・・ということでの非常に大雑把なものでしょうね。
もちろん「福音主義神学」の立場からの概観ですので、セットアップの仕方が
神学の目的は、教会と深く関わっている。神学はその土台である聖書について教会を教えるものだ。しかし同時に、神学は教会の置かれている幅広い文化や世界を理解するために正しい見地を与えてくれるものであるとも信じる。神学は聖書と文化という二つの極の間で機能している。
となっています。
神学は教会に「聖書」を理解させ、かつその置かれた「文化」に対して正しい見地を与える、とそういう思索的作業をするというわけですね。
以上です。
ではまた何か見つけたら報告します。
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