ラベル 新約聖書学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 新約聖書学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年8月13日火曜日

(4) 2019「終末論」ノート②

今年6月10日の日本福音主義神学会・東部部会研究会がきっかけとなり、「終末論」についての意見交換がフェイスブック上で始まったことについて書いた。(2019「終末論」ノート①)

既にライトの『驚くべき希望』も読み、最近「終末」や「福音」についての理解が大きく変化してきたと言うK氏(フェイスブック友達でもある)。
「ではライトは『千年王国』についてはどういう位置づけなのか」、と言う問いを出された。

なるほどライトは(前回書いた「終末論の整理」でいうと)、(1)個人的終末論、と(3)宇宙的終末論の正しい関係については関心を示すが、(2)民族的終末論に関係する千年王国については『驚くべき希望』ではほとんど何も言及していない。
(※「千年王国/黙示録の解釈問題」は『神の子の復活(The Resurrection of the Son of God)』で多少扱われているのは確認した。)

最初はスルーしようかとも思ったのだが、改めて考えてみて「これは学びの良い機会」「終末論の整理の良い機会」になるのではと思い「『終末論』の勉強会」を企画することにした。


筆者は(日本の福音派の中で)ホーリネスと言う流れに属するが、実は「千年王国」に関しては殆ど関心を持たずに来てしまった。(そのことはフェイスブックにはコメントしておいた。)
だから「再臨」が「千年期」の前・後・無のどれになるのかの諸説については殆ど知ろうともしなかったし、ましてや「携挙」があるなし云々など考えるだに忌避していた。
ところが筆者の周りでは案外これらの諸説に関して熱っぽい関心を持っている方がいて「やれやれ」と思うことも多く、筆者が本末転倒と考えるこれらの終末論諸説のせいで終末論自体に長い間距離を取ってきたと言える。

1 「神の国」とメシア、福音書の意味の地平
忌避し距離を取ってきた「終末論」だが、礼拝の学びで「共観福音書」を講解するようになりそうも行かなくなった。(もうだいぶ前の話)

「神の国」とは何か。
初歩的なワードスタディでもがいているときにたまたま友人から寄贈されたG・B・ケアードの『新約聖書神学』が開眼を与えてくれ、さらにケアードの指導のもと博士論文を書いたN・T・ライトの特に『イエスと神の勝利(Jesus and the Victory of God)』が明確なアプローチを示してくれた。
(※このあたりの経緯については、自伝的「新約聖書学」最近研究状況レポート、 N・T・ライトを中心に、に書いた。)

さて質問をくれたK氏はかなり変わってきた自身の福音理解を現時点でパッケージにすると以下のようになるという。
今では、私の理解する福音は、1十字架での罪の赦し、2朽ちない体への蘇り、3キリストの来臨と悪の清算、4キリストのこの地上での千年間の統治、そして5新天新地の永遠の秩序、というパッケージです。
これに対してまず筆者が思ったことは、(終末に起こるとされる様々な出来事を整合的に順序づけることよりも)いかにしてナザレのイエスによる「神の国」の福音が使徒たちの宣教に継続・展開していったかを知ることの方が大事ではないかということ。
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイの福音書28章18-20節、新共同訳)
それは神学的にも歴史的にも「イエスの宣教」「使徒たちの宣教」を理解することであり、イエスのガリラヤ宣教から、使徒たちのユダヤ人伝道・異邦人伝道へと展開していく内在的論理を把握するということである。

すなわち「千年王国」というような「メシアの統治による王国」が、イエスの宣教においても、使徒たちの宣教においても、少なくとも表面上はバイパスされてユダヤ人伝道そして異邦人伝道へと継続・展開していったか、を理解することであった。

(このバイパス展開を示唆するものとして以下の箇所を掲げておく。)
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒の働き1章6-8節、新共同訳)
ご存知のようにメシアと期待したイエスがローマによって十字架刑死させられ、一旦は崩壊したと見えたイエスの神の国運動であった。イエス運動支持者たちの心中が端的にルカ24章のエマオ途上の弟子の一人によって表白されている。
わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。(ルカの福音書24章21節、新共同訳) 
すなわち、イースター後の弟子たちは依然として「イスラエル復興」への期待を保持しており、復活前にイエスによって予告されていた「旧約預言者たちが語っていた『神の国』の(隠された)ストーリー・ラインは、キリストの(十字架の)死と復活によって成就する」ことをまだ十分に理解していなかったのであった。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。 (ルカの福音書24章44-48節、新共同訳)
K氏の疑問である『千年王国』の「終末の歴史的位置付け」の問題は、単にライトによって回避されているだけでなく、「メシア王国の現世的・政治的実現」がイエスの宣教においても、また使徒たちへの宣教命令においても、表面上は一旦脇に置かれていることを確認する必要があるだろう。

(共観)福音書が描く、一世紀当時顕在的・支配的であった『神の国』シナリオは、「メシア」がもたらす「イスラエルの民族的・国家的回復」として国際政治的文脈上に実現するはずのものであった。具体的にはローマによる支配からの脱却・解放であった。
おそらくイエスの弟子たちもこのシナリオの延長線上でイエスの「神の国」宣教を理解しようとしていたのであった。

しかしイエスはこのような顕在的支配的神の国のシナリオではなく、十字架復活聖霊と(ユダヤ人と異邦人による一つの)教会、という神の国の隠れた(アポカリプティックな)展開を聖書から読み取っていた、と筆者はそのように思うのである。


さて本論に入り始めたがとてもとても一回では書ききれなかった。次回に続けることにする。

2019年8月11日日曜日

(4) 2019「終末論」ノート①

今年になって数カ月に一回くらいの「(新)コンテンツ」掲載ペースだが、今回は最近の学びのことを取り上げてみたい。

学びのテーマは「終末論」。
※何回かに分けて連載することになるみたいだ。

1 「終末論」とは何か
「終末論」をまず簡単に説明してみよう。

「創造論」や「キリスト論」「救済論」「教会論」などがある《キリスト教(組織)神学》の一項目だ。

英語では"eschatology"「The Last Things(終わりの事柄)」についてのことだ。

トピックとしては「永遠のいのち」「最後のさばき」「天国と地獄」などが標準的であるが、「世の終り」や「ハルマゲドン」「携挙」「千年王国」など人によって関心の高いトピックも含む。


2 きっかけ
もう2か月前になるが、日本福音主義神学会・東部部会の研究会があった。その時のテーマが「キリスト者の希望」であった。

キリスト教神学で言う「終末論」に整理されるテーマであるが、新約聖書の表現でもあり又より平たい表現として「キリスト者の希望」と言うテーマで案内がされた。

この講演会が終わってから、今回の学びの背景ともなっているN・T・ライト『驚くべき希望』を出版したあめんどうのオブチさんがフェイスブックに小さなレポートを投稿した。
そのレポートを筆者が「シェア」して「コメント」したのがきっかけと言えばきっかけだ。

3 「終末論」の勉強会に発展
フェイスブックに載せた筆者のコメントでその後の勉強会に発展する元となったのが「終末論の整理」として掲げた、(1)個人的終末論、(2)民族的終末論、(3)宇宙的終末論であった。

6月10日の研究会ではライトの『驚くべき希望』が背景にあったにも関わらず、聴衆の関心は「個人的終末論」に終始していた感があった。(その要因は多少は論者の方にもあったように思う。)

つまり最初に「終末論の主要な範囲」として「個人的終末論」以外のものも視野に入れておかないと、長年の思考習慣でどうしても個人的終末論に終始してしまうようになることは予測しておかなければならなかったと思っている。

4 ライトの『驚くべき希望』のアプローチ
ライトが描く終末論は上に紹介した「終末論の主要な範囲」でいうと何よりも「(3)宇宙的終末論」の強調にあると言っていいだろう。

「キリスト者の(将来の)希望」である復活(使徒信条の「からだのよみがえり」)は個人的な救いの完成として完結するのではなく、あくまで宇宙的終末論である「新しい創造」のピースとして重要なのである。

『驚くべき希望』の《第Ⅱ部 神の将来の計画》5章「宇宙の将来・進歩、それとも絶望?」の導入でライトは以下の様に断っている。
このトピック【将来の希望・刷新】について議論する上で、私が切だと思う順番で話を進めていく。
個人への約束を最初に取り上げ、そこから被造物の刷新へと進むのでなく、聖書的な将来の世界像、すなわち現在の宇宙が、創造主であり贖い主である神によって上から下まですべて刷新されるというヴィジョンから始めたい。イエスの「再臨」や、その後の体を伴う復活については、その文脈の中でこそ適切に語ることができるのだ。(152-3)
ライトが「適切だと思う順番」とは、「(3)宇宙的終末論」の視野を確立し、そしてその視野の中で「(1)個人的終末論」を論ずること、と言えるだろう。

ライトの終末論のチャレンジは、キリストの復活の意義を論ずるにあたって「救済論」の次元で終始してしまい、なかなか「認識論的・世界観的」意義にまで掘り下げていない状況へのチャレンジでもある。
(以下は4章「2.イースターと歴史」の「(2)認識論的・世界観的挑戦」における『新しい創造の挑戦』からの引用。)
イエスの復活は、キリスト者や神学者にだけでなく、歴史を学ぶ者にも科学を学ぶ者にも、いまのこの世界で起こった非常に奇妙な出来事としてではなく、そこから始まった世界の特徴を現す、じつに典型的で基本的な事柄として差し出されているということだ。それは古い世界で起こった不合理な出来事ではなく、新しい世界の象徴であり出発点なのである。キリスト教内で推進された主張、すなわちナザレのイエスがもたらしたものは、単なる新しい宗教の可能性や新しい倫理や新しい救いの方法ではなく、新しい創造であるという主張は、それくらい重要なことだった。(134)
ライトが主張する「聖書全体のナラティブ/ストーリー」の強調は、「キリスト者の希望」にしても、その根拠となる「イエスの復活」にしても、「創造から新創造」の宇宙論的文脈に位置付けることにあると言えるだろう。

さて前置きはそこまでにして、次回実際にどんな「『終末論』の勉強会」になったかレポートしてみたい。

2018年9月6日木曜日

(3)主に神学ブログ、11

意外や意外「次世代教会」を展望して、が1~6まで続いている。

今回はちょっと休憩して久しぶりに「主に神学ブログ」をやってみたい。

こちらは1~10まで連載が終わっている。
念のために「1~8」までは、(2)主に神学ブログ まとめと展望で紹介している。
その後、「9」と「10」までアップした。


今回ほぼ2年ぶりの「主に神学ブログ」記事となるわけだ。

神父の放言
言いっぱなし。そんな風に気楽に語りたいもんじゃ。


とあるようにカトリックの神父の方のブログである。
アーカイブを見ると「2012年3月」から「2015年8月」となっていて既に終了したブログのようだ。

ブログ主の語り口にあるように、すでに引退したので後は(カトリックだけでなく)キリスト教界について言いたい放題語ろう、という趣旨らしい。

たまたま今日発見して10個くらい選んで読んでみた。
さすがベテラン神父、もうしがらみも余りなく、自由闊達にトピックを選んで語っている。
充分知らないことも、慎重にならず、自分の言いたいことをストレートに語っている。

そう言う書き方なので読んでいて肩が凝らない。
気軽に読める。

しかしなかなか啓発に富んだ放言にはしばしば頷かされる。

福音派の躍進

 カトリックの神父たちの中に「聖書学」が浸透してくるにつれ、批評学による懐疑主義の影響が大きくなり、そのことに反発を覚えているようだ。でこんな風に言っている。
福音派の人たちはそんな神学などお構いなしだろう。聖書内の疑問は、聖書内の記述の中で解決する。基本的にはそれでいい気がする。それが昔からの解釈のはずだった。
信じきっているがゆえに、聖書から得る力も喜びも大きい。信じるので神からの返事も大きいだろう。私にはそのように見える。
バブル神学の崩壊、2
 やはり懐疑主義的聖書批評学の問題を取り上げているが、このように釘を刺している。
聖書学はバランスが必要だ。バランスを取り戻せばよいものになるだろう。また、聖書を信じることなしに、聖書学は成り立たない。創作説というのはけっこう疑いや不信から成り立っている。創作説に安易に道を譲るのは、聖書に対する態度として間違っていないか。聖書を信じて読んだ結果、いろんな矛盾や疑いが出てくる、それを解決するのが聖書学のはずだ。創作説に道を譲りすぎるように私に見えるのが現代聖書学の趨勢だ。
興味深いキリスト教新興宗教 「キリストの幕屋」
 変わったものでは幕屋について書いているこの記事。全体に異端とか皆から眉をひそめられたりしているキリスト教グループに対しおおらかな態度で評している。
幕屋についてはこんな感じ。
大和魂、他宗教への敬意、ユダヤへの着目は、大変興味深い。これらはややもすると、キリスト教徒が敬遠しなければならないものと考える人が多いんじゃなかろうか。とりわけ日本では、前者2つは必要だとわたしは思う。手島氏は心から大和魂と他宗教を愛している。それはビンビンと伝わってくる。これがなければキリスト教は日本には根付かないと思われる。本物にもならないと思う。



恐らくもう帰天された神父の方なのだろうと思う。別に著書を出すこともなく、地道に伝道牧会された方なのだろうと推察するが・・・。



2018年3月8日木曜日

(4)自伝的「新約聖書学」最近研究状況レポート、 N・T・ライトを中心に

まもなく「2011.3.11」から7年が経ちます。

たまたま昔書いた(雑誌に寄稿した)小論がちょうど7年前であったことを思い出しました。

この小論は『リバイバル・ジャパン』誌、2011年3月20号の「シリーズ 神学交歓」コラムに掲載されたもので、N.T.ライト読書会ブログ で「ライト入門、のようなものをアップしました」記事でリンクを貼っていたのですが、今はリンクが切れてしまったままになっています。

これを機会に全文をこちらに転載することにしました。
新約聖書学に興味のある方に、そしてN.T.ライトに関心ある方に、何かの手助けになればさいわいです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

 自伝的「新約聖書学」最近研究状況レポート、

N・T・ライトを中心に

巣鴨聖泉キリスト教会牧師 小嶋崇
 
1 はじめに

「新約聖書学」のようなアカデミックな領域について一アマチュアに過ぎない筆者などが報告するのは些か分不相応な気がします。

筆者が敢えてこのような小論を試みるのはN・T・ライト(Nicholas Thomas Wright)に関することなのですが、その著作や講演の欧米での影響の広範さ、深さにも拘らず、日本語圏での紹介は、訳書にせよ(筆者の知りうる範囲では一冊のみ)、評論にせよ圧倒的に少ないという現状です。ライトの著作を英語で読める方々の中には、主に論争家(特にプロテスタントの『義認論』の伝統的解釈を脅かす人物)としてのライトが念頭にあるようで、警戒のためかあまり紹介してくれません。しかし後述しますが、ライトの著作の重要なものは「新約聖書神学」を巨視的・学際的・包括的にアプローチする『キリスト教の起源と「神」問題』シリーズです。(三巻目まで刊行されています。)こちらの方を優先的に取り上げて論評し、ライトに相応しい評価を下すべきだと思うのです。

ですからこの小論の目的は、日本の一般読者にN・T・ライトの主要著作を簡単にですが紹介することにあると思っています。(幾分詳しい紹介は拙ウェッブサイト「N・T・ライト読書会」をご参照ください。何本かライトの論文も翻訳してあります。

2 N・T・ライトとの出会い

筆者が初めてN・T・ライトの名前に接したのは1999年です。牧師の家庭に育ち、大学生の時に“救い”を受け、大学卒業後、献身して米国の神学校に学び、10年余に亘った留学を終えて父の牧する母教会の副牧師になって10年が経っていました。

大学生時の“回心”以来、「自覚的クリスチャン」として過ごしたその約20余年間、決して順調でも安定していたわけでもありませんでした。様々な葛藤・疑問・迷いがありました。しかしそれらは基本的に、小さい時から育てられ、“回心”時から持っていた所謂「福音信仰」の深化という「応用問題」であり、「福音信仰」の根底まで揺さぶるような問題ではありませんでした。

しかし副牧師として説教を始めて暫く経ち、最初は漠然と、しかし次第に深く、「私が保持してきた福音理解で大丈夫なのだろうか?」という不安・疑念が心を占めるようになってきました。説教をしている自分のコアで「何かが足りない」「根拠が弱い」と感じるようになっていました。

そのような時に、ある友人から贈られた1冊の本を通して一筋の光が差し込んできました。ジョージ・B・ケアードの『新約聖書神学』です。この本を端緒にして、次々と福音書の最近の(英文)研究書に触れるようになっていきました。それまでは神学校で学んだ聖書学の貯金を切り崩しながらやっていたような状況で、最新の聖書学を学ぼうという姿勢は全くありませんでした。その暫く後、別の友人からN・T・ライトの名前を聞くことになり、彼の著作を次々とのめり込む様に読むに至りました。

この頃だったと思いますが、福音書を読んでいて、ある“気付き”をしました。それは小さな気付きですが、その後の聖書解釈の取り組みに意識的な変化をもたらすものでした。ちょうど受難の箇所を読んでいた時のことです。イエスが十字架で死を迎えた時、福音書にはその死の意義を説明する、特に私が育てられた「福音信仰」の中核表現である「刑罰代償死」説のような「贖罪論」的説明が一切ないことに愕然として気が付かされたのです。

著作年代から言えば初期パウロ書簡よりかなり後に書かれたと思われる福音書に、なぜ十字架の救済的意義の説明が挿入されていないのだろうか。却って福音書の実際の叙述は弟子たちが師の十字架刑を前にして逃げ去ったことを記しているのです。 

このように福音書を少しずつ“歴史的”に読み解いていくと、自分が育った「福音信仰」における十字架の救済的意義の説明は抽象的・予定調和的に聞こえるようになりました。使徒たちの信仰は、実際にはもっと複雑な歴史的経路を辿って達したものなのではないか。私たちはどこかでその歴史的複雑な部分を捨象し、自分の“個人的な救い”の理解に都合の良い部分だけを掬い取っているだけなのではないか、と思い至りました。特に福音理解の「根拠」部分で、今までの自分の信仰に欠落していたのは「復活」であることを思い知らされました。それまでの「福音」は「十字架贖罪」一辺倒であったと思い至ったのです。

このようにキリスト教信仰の起源を“歴史的視点”から丹念にアプローチする訓練を提供してくれたのがライトの著作だったのです。

3 「史的イエスの探求」

最近の新約学の中でも「史的イエスの探求」は充実した時期を迎えているように思います。近代における「史的イエス」研究は、啓蒙主義の理性主義的キリスト教批判の道具となった「批評的聖書学」の影響に左右されてきた観があります。それは教会歴史の中で「キリストの神性」が強調されることによって見失われがちだった「キリストの人性」、すなわち「ナザレのイエス」という歴史上の人物に対する関心という反動的結果とも言えます。「歴史的関心」という近代理性がもたらした一定の評価がある反面、啓蒙合理主義に影響された新約学は、奇跡の否定も含めて、「事実と信仰」「自然と超自然」「歴史学と神学」「歴史のイエスと信仰のキリスト」等、新約聖書学、特に福音書研究に二元論的な思考を導入し、「ナザレのイエスは弟子たちによって神格化されたただの人」を当然の様に主張するに至りました。

アルバート・シュヴァイツァー、ヴィルヘルム・ヴレーデらによる研究が現在展開中の「史的イエス第三の探求」の起点となっているようですが(ブルトマン、そしてその後のケーゼマンらによる「新しい史的イエスの探求」が間に挟まり)、その約百年の間に外典・偽典研究、死海文書の発見やヨセフス研究、アレキサンドリアのフィロ研究、ラビ文書の研究などが累積してきて、「史的イエス」の背景となるいわゆる「第二神殿期ユダヤ教」研究が分厚くなりました。それで「史的イエス」研究の裾野はかなり広がり、研究者も多士済々の状況が出現しているようです。ベン・ウィザリントンは『ジーザス・クエスト』(1995,1997年)でその研究状況の多様性を七つに分類して紹介していますが、その基本的分類法は各研究者がナザレのイエスをどのような人物プロフィールでアプローチしているか、というものです。

筆者が特に「史的イエス」の問題と関わるようになったのは、共観福音書の講解説教をやるようになってからです。しかし最初は「共観福音書の神学的大テーマは『神の国』である」とおぼろげながら見当を付けたくらいで始まりました。ですからせいぜい『神の国』のワード・スタディーを中心にした手探りのような学びに終始していました。まだまだ「史的イエスの問題」までは視野に入っていなかったのです。

先ほどのウィザリントンは「第三の探求」を“現代”の史的イエス探求として、その研究者たちの中に「ジーザス・セミナー」の者たちまで加えますが、ライトの場合は、特にシュヴァイツァーが提唱した「イエスを終末的預言者」として探求する研究者たちに「第三の探求」を限定します。

筆者の場合、講解説教をしながらたとえ話、奇跡、パリサイ派との論争など、福音書記事を個別に釈義してその現代的適用を模索する説教ではなく、福音書が描写するナザレのイエスがどんな「意図」で行動し、どんな「目的」で十字架を目指したのかという「一貫した視点」でイエスを捉えようとする、ライトのような意味での「第三の探求」に次第に惹かれるようになりました。

この面におけるライトの著作では『キリスト教の起源と「神」問題』シリーズ第一巻目の『新約聖書と神の民』が方法論的問題の整理と、第二神殿期ユダヤ教、そしてそこから出現したキリスト教を「世界観的枠組み」で再構成した「大きな絵」を提示します。「史的イエス研究」(パウロ研究も)の序論的考察です。第二巻目の『イエスと神の勝利』が「史的イエス研究」プロパーで、この「大きな絵」を背景に「終末的預言者イエス」像を「ことば」と「行い」と「象徴」の角度からアプローチし、その十字架の死に至る道程を《統合された意味関連》として解明しようとします。「史的イエス」の再構成は、資料的には共観福音書に限定され、ヨハネ福音書は使用しません。また「復活」も『イエスと神の勝利』では扱わず、第三巻目『神の子の復活』で包括的に扱います。

詳述はできませんが特に筆者が目を開かれたと思うライトの福音書ナレーティブの釈義的論点は以下のようなものです。

先ず初歩的なことですが、ライトの「史的イエス」解釈のまとめ方の大事な点は、イエスの預言者的性格から再構成しているところにあると思います。(クリスチャンが福音書を読む場合、史的イエスではなく、三位一体の第二位格の神を読み込みがちではないかと思います。)

次に、「たとえ話」「警告のメッセージ」といった《言葉の要素》と「癒し」「悪霊の追い出し」「罪人・取税人との食卓の交わり」等《行いの要素》が、断片的エピソードとして味わわれ理解されるのではなく、イエスの歴史的宣教の全体像を構成するよう関連付けられていることが大事だと思います。

イエスの宣教は、洗礼者ヨハネの「終末の預言者」的活動を継続するものでした(「神の国」の到来を宣言)。十二人の弟子を召され「新しいイスラエル」を再構築する一方、イエスはイスラエルに対し繰り返し警告を発しました。それはヨハネの警告を踏襲しただけでなく、「この時代の内に」悔い改めなければ滅びるとの緊急性を帯びた警告でした。当時のイスラエルが待ち望んでいた「主の日」の審きは、イスラエル民族の敵であるローマに対して下されるのではなく、(先ず)イスラエルの悔い改めない者たちの上に臨む、との警告でした。それは個々人を含みますが民族の誇りの象徴であるエルサレムと神殿の上に破壊がもたらされることを、激烈な絵画的表現であるアポカリプティック(黙示あるいは黙示文学的)なメッセージを用いてなされたのでした。

十字架に架けられる最後の一週間、エルサレム入城からイエスのメシヤ的象徴行動はより明瞭になってきます。「神が王」となって「突然、その神殿に来る」(マラキ3・1)、ヤハウェが「エルサレムに戻られる」(ルカ19・44、『神の訪れの時』)、つまり「神の国」の訪れがクライマックスに差し掛かっているのに、イスラエルは気がつかなかったのです。従来「宮きよめ」と呼ばれる神殿での行動も、神殿への神の裁きを象徴するものと捉えられます。そして「人の子」が敵に引き渡された後に栄光を受けるというダニエル7章の預言を背景とした終末的、アポカリプティックな出来事として、イエスは十字架に架けられる道を「メシヤの召命」として受け入れたのです。

換言すれば、福音書の記述は、イエスの復活後の福音書記者の神学的考察によって創作されたのではなく、基本的にはイエスご自身の旧約預言成就の道筋を深く洞察した上で、自己への召命と理解し適用した結果であり、その意味でイエス自身が「神学者」であったとの理解がライトの解釈に反映されています。

さて「復活」の問題はライトの『キリスト教の起源と「神」問題』シリーズにおいて一つの中核的主題を構成しているように思います。福音派の大衆的福音説教は十字架贖罪一辺倒で復活はどこか付け足しのような感が否めない、と述懐しました。十字架は史実問題としては殆んど論証の必要がないほど明らかです。福音説教はその神学的意義の説明に集中する傾向があります。しかし復活はというと、近代の破壊的聖書批評学の影響もあって、史実としてきちんと論証されないままその意味について様々な解釈が一人歩きしてきました。福音派はと言うと、復活の意味を暗黙の了解的に「死に対する勝利」としてイースター説教で声高に叫ぶ程度です。復活の史実性は新約聖書証言の信憑性を強調するだけで、歴史的論証までには掘り下げられずに来たように思います。

ライトはイエスの復活を当時のユダヤ人の期待していた「神の国」の実現のシナリオとはかけ離れた形で、つまりメシヤの死と復活という形で実現した終末的・黙示的出来事として浮き彫りにします。ライトのこのような聖書神学的な解釈は、ルカ24章の弟子たちに対する「聖書全体」からの「イエスの十字架と復活において実現した神の国」の説明を跡付けるものと言えるでしょう。ライトは、このような解釈が使徒たちの「神の国」実現の理解となり、「神の国」は「イエス・キリストの福音」に集約された意味で解釈されている、と見ていると思います。

4 「パウロ研究の新パースペクティブ」

最近の新約学で特に大きな動きがあるのが「パウロ研究」と言えると思います。特にN・T・ライトもその一人に数えられる「パウロ理解のニュー・パースペクティブ(以下NPPと略称)」と呼ばれる論者たちが主張している研究動向です。

第一世紀ユダヤ教研究が進展するにつれ、キリスト教にとっては背景に過ぎなかったユダヤ教に関して歴史的により正確な理解がなされるようになりました。特にパウロ神学の中心的教義であると見られる「義認」の背景となるパリサイ的「律法主義」の見直しがなされるようになりました。

NPPの主要貢献の一つは、それまで主導的であった教義学的釈義の見直しであり、より歴史的に正確な『一世紀ユダヤ教』理解への関心です。この流れに先鞭をつけたのは、NPPが論議されるより約20年近く前です。Krister StendahlThe Apostle Paul and the Introspective Conscience of the Westが代表的です。NPPが論議されるようになった決定的な本は、E. P. Sanders, Paul And Palestinian Judaism (1977)です。名称としてNPPが一般的に用いられるきっかけとなった論文がJames D. G. Dunn, The New Perspective on Paul (1983)です。

NPP以前、パウロ神学は、その中心が『義認』なのか『キリストにある』なのか、と議論されるのが一般的だったようです。どちらにしても『義認』という宗教改革神学原則をパウロに読み込む〝神学的解釈〟優先の問題がありました。プロテスタントの義認解釈の父祖であるルターは、当時のユダヤ教を宗教改革当時の功徳を重んじたカトリシズムに見立てた解釈をしたわけですが、このような解釈はカリカチュアであることをE・P・サンダースの研究が実証しました。

このようにNPPの指導的研究者は、研究対象となる歴史的人物(パウロ、また史的イエスも同様)の歴史文化的背景となる「第二神殿期ユダヤ教」を歴史的に分厚く再構成することで、パウロ神学の新解釈の地平を切り拓いて行ったと言えます。

NPPの主要貢献二つ目に、「パウロ神学のナレーティブ構造理解」を挙げることができるでしょう。
パウロ神学理解に重要な視点を切り開いたサンダースでさえ、それを十分に活かしきれず、まだまだ伝統的神学解釈(『義認』か『キリストにある』か)に回帰する傾向がある、とライトは指摘します。

ライトはNPPを“新鮮な” と言う意味でのNP(ニュー・パースペクティブ)と言い換え、パウロ神学のナレーティブ構造と、その解釈技法を推進するヘイズの業績を高く評価します。Richard B. Hays, “The Faith of Jesus Christ (1983)や”The Echoes of Scripture in the Letters of Paul (1989)など。

パウロのより〝神学的〟な叙述が展開されるローマ、ガラテヤ、ピリピ、エペソなどは、表面上は「教理」と「倫理的勧め」のように、その後発展した「組織神学的叙述」構造のフィルターで解釈されて来ました。そのような解釈では、(旧約)聖書箇所引用はランダムに、プルーフ・テキスト的に見えます。しかしヘイズは、そのような〝神学的〟叙述構造を持つように見える箇所でさえ、実は絶えずその引用テキストが言及する大小の「ナレーティブ(創造、イスラエル、イエス、に関するストーリー)全体の余韻」を含めて喚起しようとするものであることを指摘し、その余韻や響きを「エコー」や「インターテクスチュアリティー」と名づけています。(ヘイズの場合は現代文学批評で用いられる『ナレーティブ』分析手法をかなり参照しています。)

NPPの主要貢献三つ目に、「パウロ神学の政治的コノテーションへの着眼」を挙げることができるでしょう。

近年、発展途上国の国際債務問題に新約学者ライトが度々言及します。啓蒙主義が提唱する「政治と宗教の分離」に対抗する意味もありますが、その背景には、史的イエス研究から出てくる近代的意味での「宗教家」の枠に収まらない「イエス像」も影響しています。神の国の福音は霊肉二元論では片付けられない現実政治へのコノテーション(含意)が確認されるからです。パウロ神学においても当時の政治的現実への視点が掘り起こされ、パウロの福音には「反・ローマ皇帝イデオロギー」の含意があることが主張されるようになってきました。復活したメシヤ・イエスの主権が皇帝に対抗する政治的意義があることを、パウロ宣教の中に見ようとする研究が進展しています。

5 結びにかえて
 この小論で簡単に取り扱った「史的イエス研究」を咀嚼した福音書説教や、「パウロ神学の新視点」以降の「義認論」で論議されている個人救済的な義認理解を拡大する「キリスト論的」「教会論的」枠組みを視野に入れたロマ書講解やガラテヤ書講解はなされているでしょうか。一般の牧師の説教においてこれらの知見が参照されて行くよう期待します。
 

2017年8月30日水曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き2)

宗教改革を越えて、ぼんやりと意識していた地平は「古代教父時代」だったわけですが、その地平はあまり深堀せず次に向かったのが「第二神殿期ユダヤ教」の地平でした。

第二神殿期ユダヤ教については筆者の見えている範囲でちょこちょこと書いたことはあるが、一番まとまっては第二神殿期ユダヤ教 ということになるみたいだ。

前回はこの中で最近(と言っても日本で、しかも保守的なキリスト者の中でということになるが)話題となってきたNew Perspective on Paulについて書いた。

「最近の読書に見る流れ」というタイトルで書いているので、具体的に本を取り上げていこう。

(3) Oskar Skarsaune, Reidar Hvalvik 編著、JEWISH BELIEVERS IN JESUS: THE EARLY CENTURIES (2007)
(4)ダニエル・ボヤーリン『ユダヤ教の福音書: ユダヤ教の枠内のキリストの物語 (2013)
(5)Amy Jill-Levine and Marc Z. Brettler eds., The Jewish Annotated New Testament (2011)



(3)についてはこの記事この記事で少し紹介した。

今回紹介するにあたっての関心事は、初期「キリスト教」と「ユダヤ教」との関係、そして「ユダヤ人キリスト者(民族的にはユダヤ人だがイエスをメシアと信じた者たち)」の歴史だ。

新約聖書時代はキリスト者、特に指導者は総じてユダヤ人であり、パウロの伝道を見ても地中海都市にあったユダヤ人会堂が舞台となっていた。

ざっくり言えばキリスト教はユダヤ教の一派であり、数世紀かかって二つは「分離(the parting of the ways)」したのだ。

原始キリスト教会の「ユダヤ教とキリスト教の関係」そしてある時から「二つが袂を分かった(the parting of the ways)」ことについては、最初にそれとして関心を持ったのは、Graham N. Stanton, A Gospel for a New People: Studies in Matthew を読んだ時だった。

スタントンはこの本の「パート2」でマタイ福音書(マタイ教団)の背景としてユダヤ人会堂からの分離問題を取り上げているのだが、この「分離」がほぼ一世紀中には終了している風な印象を抱いた。

しかしスカルサウネ編論文集を読むと場所にもよるが、その後数世紀に渡って関係が続いたと言うことを知った。

それまでキリスト教会は異邦人世界に浸透するに従い、ユダヤ人信者の存在もユダヤ教の影響も急速に衰退した・・・というイメージだったので、大幅にではないが、二つのグループの相互交渉・影響が数世紀続いたと言うことを知って何かほっとした感じだった。

(4)とボヤーリンについては既に紹介している。(この本は購入してではなく図書館で借りて読んだ。)

そしてその本の中の議論が使われている動画を「マルコ7章16節」問題として数回にわたって連載した。


ある意味この辺から「キリスト教」と「ユダヤ教」の境目が段々と微妙に映るようになって来た気がする。そしてユダヤ人(学者)が福音書に接する時の距離感の近さに対して、(現代の)異邦人学者の距離感の遠さに対する自覚のなさ、みたいなことを思ったりした。


(5)は前々から気になっていてずーっと「ウィッシュ・リスト」に入ったままだったが、「この流れ」が強まってきてついに最近購入した。

編著者の一人、エイミー-ジル・レヴィンについてはここで簡単に紹介している。(発音はレヴァインではなくレヴィンが近い。)

新約聖書についてユダヤ人の学者たちが多数集って「註解」や「関連論文」を執筆すると言うことは(本人たちの弁によれば)画期的なことだという。本当に最近になってから可能になったプロジェクトで、30年くらい前だったら想像も出来なかった、とこのポッドキャストで述懐している。

エイミー-ジル自身、メソジスト系のヴァンダービルト大神学部の教授を務めていて、「時代の変化」を表しているのだが、近年の「史的イエス」研究や「パウロ研究」でのユダヤ人学者たちの貢献はどんどん増えてきており、(いい意味で)刺激を与えているように思う。


いまの所は「へーそんなもんか」でやり過ごしているが、これらのユダヤ人学者たちが「新約聖書文書は(ある意味)ユダヤ教文書でもある」として研究を積み上げてくると、ちょっと意外な展開が将来起こってくるのではないか、とも感じている。


《次回予告》
いよいよ昨年から今年に入って読んできた3冊を紹介する(うち1冊はまだ読んでいる)。
これを書いておかないと「義認論ノート」の終わりの方に書くことがピンボケになるかも知れないので、それでこう言う形で書いて置くことになったわけだ。

2017年7月6日木曜日

(5)義認論ノート、2

去年の今頃は「N.T.ライトの義認論」(第6回日本伝道会議・分科会)の打ち合わせのため、(神学)ディベートの相手となる橋本氏、それから進行役のJEA神学委員の関野氏、佐々木氏とお茶の水で初顔合わせをしていた(7月1日だった)。

夏の間はライト読書会ブログ上で橋本氏と全部で9回、土俵作りと云うか下準備のディベートをやったのだった。

今になって、少しずつ小出しの印象は否めないが、9月の正味45分の(何と短い)討論会を思い返しながら「準備した資料」を点検し整理してアップしようとしている。

それは2017年、宗教改革500周年を迎えて案外タイムリーなことかもしれない。

あらためて、「義認論」の意義は何なのか、と問うこともいいのかもしれない。


さて下記に多少時系列的な「振り返り」となるが、伝道会議・分科会を前にした7月1日の(1回だけとなった)「打ち合わせ会議」のために、筆者が《神学ディベート・分科会》で想定していたというか、「多分現実的な中身はこんなところだろうな・・・」と考えていたことを紹介しておこう。

○○先生

・・・・・・。
僭越ながら、「ライトの義認論」に関し、討論者自身の満足よりも「日本伝道会議で取り上げる『メリット』をいかに多くするか」、と云う視点から少し「討論の枠組み・方向性」を考えてみました。
何はさておき、「討論における(神学議論的)内容」を4人で議論する前に、「全体で90分と云う時間的制約」、そして想定される参加者(信徒も含む)の「ライトの義認論」に対する理解度の問題、いずれも「外的条件・制限」を優先的に考慮せざるを得ない と思われます。さすれば自ずと選択肢は狭まってくる、とそのように考えます。
(1)90分と云う時間的制約
 フロアとの質疑応答に30分取っておくことを考えると、「イントロのような事柄・・・10分」、「討論・・・45分」くらいの時間配分かと予想します。
(2)参加者の「ライトの義認論」に対する理解度
 牧師・伝道師の方々をメインに考えたとしても、やはり「最近取りざたされているNPPとか、ライトとか大丈夫なの?」くらいの関心がスタートラインと想定した方がいいと思います。「義認論」の、つまりロマ書・ガラテヤ書の釈義的問題等に「入る議論」は無理だと思います。基本
 「『義認論』て何なの?」
 「なぜ論争されているの?」
 「それ日本での伝道や牧会に影響あることなの?」

等の質問に概観的な「見取り図」を提供する「一助」、という位置付けでいいのではないかと思っています。
※個人的には恐らく討論のポイントは、「それ日本での伝道や牧会に影響あることなの?」が一番重要ではないかと思いますが。
一応以上の線で考えますと、《討論・・・45分》のポイントは、
(1)宗教改革時の「信仰義認論」と、(NPP)ライトの「義認論」とをどう整理すればいいのか、という課題
(2)以上の課題を日本で「聖書学・神学」に従事したり、関心を持ったりする方々は、どのように取組み、どのように「日本での今後の伝道・牧会」に応用させれば良いのか、という課題
以上の二つの課題を討論ポイントとして扱えばいいのではないかと思います。
以上、私見ですが、今のところの感想まで。
小嶋
さて以上がほぼ一年前考えていたことであった。

アウトラインとしては、9月28日の発表内容はこの時すでに固まっていた。

ただ、終わってみて思うのは、「(1)90分と云う時間的制約」には予想以上だった。

というのも、義認論に関するアカデミックな材料を大胆に薄める代わりに、「伝道・牧会」という応用面への展開を濃くしよう、と欲張ってしまったのだ。

それで思いのほか「発表内容」の論理的繋がりがかなり理解するのに難しくなってしまった印象がある。

しかし「フロアーとのQ&A」を30分確保したことで、「理解しきれない」問題のほんの一部は解消されたのではないかと思う。

今改めて一年後に「義認論ノート」として発表するのも、この負い目と言うか不足分をいくらかでも補えたらいいな、との期待からである。


さて、では「発題1」の文章にコメントしてみよう。

後半、つまり「伝道・牧会への応用」部分が以下のようになっている。
 「パウロにとって義認は救済論と教会論の両方を合わせたもの」とのライトの議論が正しければ、プロテスタント諸派、特に「福音派」の神学と実践に大きな 問題を投げかけます。
 それは、従来の福音派においては、「救済」においても「敬虔」においても個人的で主観的な視点が強いため、「福音」を正しく伝承し保守するために不可欠な「聖礼典」「職制」、いわゆる「教会の外的しるし」を中心とする伝統的「教会論」がかなり弱体化していることです。
 伝道が実を結ぶためには、「福音」の明証性ともに、福音の伝承を媒介する制度的教会に対する正しい見識が必要ではないでしょうか。
この部分がまことに残念ながら「欲張りすぎ」たのでした。とても5分ではポイントさえ提示するのも困難であった、と。(実際的な設問で、イメージ的にはかなり伝えられると思ったのですが・・・。)

ここで提起しているのは、「福音派の神学と実践」に対して、「ライトの義認論」は(ある意味)問題を自覚して分析させ、また解いて行く方向付けを与えるのではないか・・・ということです。

「救済論」と「教会論」とを一つに見るもの、という「ライトの義認論」の意義は、神学的整理としてよりよい(かもしれない)というポイントにとどまらず、教会の伝道・牧会という実践面への視座を与えてくれる、というポイントとして(日本の教会に限りませんが)宗教改革系列であるプロテスタントの中の特に福音派に対して大きな意義を持っているのではないか・・・という議論にしようと思ったのです。

今回「義認論ノート 2」は既に長くなってしまったので、今後の解説の大枠を提示しておくと、
 (1)救済論(特に『救いの順序(オルド・サリューティス)』の問題)
 (2)教会論(特に制度的教会論に対するアレルギー的反応というか、その蓄積でいわば福音派教会論が弱体化したという問題)

となります。

そしてこれら二つを繋ぐのが(特に「義認」に関連付けて言えば)「洗礼論」ではないかと睨んでいます。

但しその場合の「洗礼論」は単なる神学上の議論としてではなく、教会の成員を生み育てる入口としてどのように「洗礼」は役割ずけられてきたか、という(主に西洋のキリスト教会の)歴史的実践から来る「洗礼」の神学的位置付けの問題、ということになると思います。


ということで、「次回へ続く」


2017年6月14日水曜日

(5)義認論ノート、1

第6回 日本伝道会議 2」でお断りしたように、このスレッドは今後「義認論ノート」として継続を試みてみようと思います。

前回は、ジョン・ハワード・ヨーダーが1960年代後半に、つまりまだNPPと称して脚光を浴び始めるる前に、新約聖書学(釈義学)で「義認」の社会・倫理的側面に光を当てる研究が出始めていることを指摘していた、ということをノートしておきました。

その研究の先鞭をつけた一人としてヨーダーが名を挙げているのが(誰あろう、カール・バルトの息子の)マーカス・バルトです。 (前回記事の引用英文を参照)


(1)マーカス・バルト(Markus Barth, 1915-1994)について

マーカス・バルトについては既にこのブログでも1度取り上げています。(この記事

残念ながらネット上には「マーカス・バルト」 で検索してヒットするものはありません。
「マルクス・バルト」で検索すると辛うじて一つ二つ見つかるくらいです。
(※ もちろんドイツ語、英語で検索すればそんなことはありませんが。)

というわけで簡単な紹介ですが、マイク・バード(ユーアンゲリオン・ブログ)の「マーカス・バルト」記事のリンクを貼っておきます。

(2)マーカス・バルトの『義認(Justification)』について

 『バルト父子』でも少し紹介しましたが、昨年の「N.T.ライトの義認論」を準備している間もマーカス・バルトの『義認』は念頭にありました。

 「教会共同体的側面を重視した」ライトの「義認論」が決して特異なものではなく、宗教改革伝統の偏りを矯正する(結構大きな)流れにあることを「マーカス・バルト」を関連付けて指摘したかったのですが・・・。

上記マイク・バードの記事にも紹介されていますが、マーカス・バルトにはこのポイントをズバリタイトルにした論文があります。

Jews and Gentiles:
The Social Character of Justification in Paul,”
Journal of Ecumenical Studies 5 (1968): 241-67

マイクが何箇所かこの論文から引用していますが、ここに二つお借りします。
"For Paul one's justification is closely related to the question of Jewish-Gentile unity." (p. 242)

"For the two themes, justification by faith and unity of Jew and Gentile in Christ, are for him obviously not only inseparable but in the last analysis identical." (p. 258)


さて、Markus Barth, JUSTIFICATION、ですがかなり手の込んだというか、普通と違う論述スタイルを取っています。

Introduction:
 1. Justification as a juridical act
 2. The Old Testament as a methodological key
 3. Narration with wonder and admiration

FIVE ASPECTS OF GOD'SJUDGMENT
 The First Day: The Last Judgment Is at Hand
 The Second Day: The Mediator Is Appointed, Acts, and Dies
   Interlude: Black Thoughts About the Death
 The Third Day: The Judge's Love and Power Reverse Death
 The Fourth Day: The Verdict Is Carried Out
 The Fifth Day: The Last Day Is Still to Come
イントロの3で言っていることが気に入ったので引用します。
The form chosen for the body of this study is meant to correspond to the goal and route of the experiment. Instead of a systematic treatment of justification, an "admirer's narration" of the miracle of justification will be given. The more conventional sort of "scholarly" argument will appear only in the footnotes. The action of justification itself calls for a substantive report that enumerates in sequence the ongoing events and changing situations. The footnotes can take no more than a subordinate role. The more dramatic the forensic action, the more the trial itself and the account of it will come to resemble a drama. (p. 21 強調は筆者)
これはなかなか含みのある言葉です。

ヒント的にしか今はコメントできませんが、「義認」ということを組織神学的に叙述することよりも、義認をもたらすドラマチックな出来事を物語る方がより相応しいのではないか、とのバルトの神学的センスだと思います。

神学的に「説明する」よりも、先ず聖書自体に語らせる方法を取っているのではないか・・・と読んでいて感じます。

(その背景であろうと思われることについてはまた別の機会に譲りたいと思いますが、「組織神学的」なことを脚注に置く、と云う選択が示唆的です。)  

もう一箇所考えさせられた箇所を引用します。 『バルト父子』でも引用したのですが、今回は少し付け足します。
[G]od has "made  him who knew no sin for us become sin," he made him "bear the sins," so that he became a sin offering. Thus God has "condemned sin in the fresh": the judgment was carried out on the body of Jesus Christ, the Son of God and the Son of David. With his death he pays "the wages of sin." By doing this he sums up the history, the guilt, the chastisement of Israel. He is in person the full representative of this people.
   This does not mean that the accursed Christ dies in the place of those whom he represents. On the contrary, when the king who typifies all Israel dies, every one of his servants is "crucified with him." ...In turn, since the Israel that Jesus Christ represents is representative of "all fresh," the whole world, every man is also "co-crucified" with Christ. Whether or not all men know yet of this death, whether or not they believe in God and in the Messiah and witness he has sent, they are legally dead. The delivering over of their advocate is fatal for them. His death is their death. (p.46 下線は筆者)
つまり、一般(大衆的も含め)的にキリストの「代償死」を「本来なら私たちが死ぬべきところを、私たちの代わりとなって」と理解しているのですが、

そうではなく、キリストが死んだのは「イスラエルの、そして人類すべての代表として」死んだので、法的にはすべての人はキリストと共に十字架に磔にされて死んだ、のだと。

それは事後的に知ることとなったとしても、あるいは全然知らなくても、客観的にそうなのだ、というロマ書5章6-8節のロジックも支持している(と脚注で)解説しています。

一般的理解としては、(十字架の出来事を福音書で読みながら)「あー、本当だったら罪人である自分があそこで死ぬはずだったのが、イエス様が私の身代わりになって死んでくださった。私が死を免れ生きていられるのはイエス様のおかげなんだ・・・」みたいなことになるのだと思います。

マーカス・バルトはそうではない、確かにイエスは代表として死んだのだが、それは私たちの代表として死んだのだから、私たちもそこでイエスと一緒に死んだのだ」と解釈しているわけです。

この解釈はやはり義認論・贖罪論の「キリスト代償死」に関わる部分がどこか聖書テキストに沿っていないのではないか、と見直しの必要を示唆していると思います。


以上で今回のところは終わりです。

(次回へと継続して行くと思いますが、今回のように「考えるヒント」を提供するくらいが関の山かと思いますが、関心を持って読んでくださる方があれば幸いです。)

2017年5月11日木曜日

(4)第6回 日本伝道会議 2

先日アップした(3)救いについての「教理」でもイントロに書いたのですが、昨年の「第6回 日本伝道会議」 の「事後報告その1」を書いた後そのままになっていました。

その続きを書こうと思うのですが「紀行」としての続きはあきらめて、「救いの教理」について書いた流れを受け、「義認論ノート」として書いてみます。

「ライトの義認論」をめぐる神学討論会のために下準備として読んで「メモした材料」が色々あるのですが、なかなかまとめて紹介するのは骨が折れるので、「義認論ノート」として小出しで発表しようと思います。

と云う構想はかなり前からあったのですが、(そしてある程度までは書き溜めたのですが)、たまたまその呼び水みたいな文章を読んで、ようやくアップすることにしました。


以上が「序」とでも言うべき部分です。

次に「イントロ」が待ち構えています。
経緯と云うものがあるので即「義認論」にはまだ入れないのです。残念ながら・・・。


(1)5月27日のライト読書会
の案内をブログにアップしたばかりなのですが、今度読むライトのテキストは

A Royal Priesthood?
The Use of the Bible Ethically and Politically
A Dialogue with Oliver O'Donovan

に入っているのですが、この「Royal Priesthood」論集はちょうど3年前に購入してブログでも記事にしていました。

この「Royal Priesthood」繋がりで、ジョン・ハワード・ヨーダーの
The Royal Priesthood: Essays Ecclesiastical and Ecumenical
を同じ時に購入していたのです。 

と言うか、こちらの方が「ヨーダー読書会」のテキスト用に必要で購入したわけでした。
そして「最初に紹介した方の論集」はRoyal Priesthood」繋がりでついでに購入したのでした。

ヨーダーのThe Royal Priesthood、はその後読書会で少し読み進めたのですが、まもなく読書会自体がストップしてしまい積読状態になっていたのです。
 

先日、5月のライト読書会の準備も兼ねて、Royal Priesthood」繋がりで「ヨーダーの方の論集」を少しページをパラパラやっていたら・・・「義認論」関連の箇所に出くわしました。
Few assumptions have been more widely shared in Protestant thought than the identification of the messages of Paul and Luther with the promise of a new hope for the individual in his subjectivity. Luther in his rejection of the cultural religion of the Middle Ages, ..., raised as his banner the pro me of the forgiven sinner. That God is gracious to me is the good news that Zinzendorf, Wesley, Kierkegaard, and today both Rudolf Bultmann and Billy Graham ... have derived from Luther and have labored to keep unclouded by any effort to derive from it ... a social program or any other human work. To safeguard the pure gratuitousness of grace, any binding correlation with human goals or achievements must be studiously kept in second place.
     This assumption ... is now being dismantled under the impact of the exegetical theology of this century. ... Today such scholars as Markus Barth and Hans-Werner Bartsch are finding as well even in the writings of Paul, yea even in Galatians and Romans, a hitherto unnoticed dimension of community extending even into the meaning of such words as justification. (P.73 下線は筆者)
この論文の初出は1967年ですから、まだ「サンダース、ダン、ライトらの名前が登場するNPP論争」が始まる前です。

(もっともクリスター・ステンダールの『The Apostle Paul and the Introspective Conscience of the West』は1963年ですが・・・。)

前段落では、ルターの「福音の再発見」が極端に個人的・主観的なものであり、それがジンゼンドルフ伯爵、ウェスレー、キルケゴール、そして不思議な縁(?)ですが、(20世紀を代表する聖書学者)ブルトマンと大衆伝道者ビリー・グラハムに受け継がれている、と指摘しています。

ヨーダーにとっての問題関心は、この「極端に個人的・主観的信仰」を純粋に守ろうとするばっかりに「倫理的側面、社会的な脈絡」を切り離してしまう傾向なのですが、(次段落では) 近年のパウロ研究(釈義学)がこの主観的信仰の土台とも思われた「義認(justification)」にまで「共同体」のニュアンスが含まれていることを見出し始めている、と指摘しています。

この「義認(justification)」への適用に関してヨーダーは「イエスの政治」(1972年)で展開している議論を参照するよう脚注で述べていますが、確かに第11章「恵みによる、信仰による、義認」でこの新しいパウロ研究の視点を紹介しています。

「イエスの政治」を購入して読んだ当時はこのあたりの論争点にはまったくと言っていいほど無知でした。
We could in fact most properly say that the word "justification" ... should be thought of in its root meaning, as a verbal noun, an action, "setting things right," rather than as an abstract noun defining a person's quasi-legal status as a result of a judge's decree. To proclaim divine righteousness means to proclaim that God sets things right; that it is of his nature and the nature of his covenant that he is a right-setting kind of God. (P.229)
と、かなりライトの「義認」解釈と重なると言うか、むしろライトが改革派神学との整合性を保持しようとするニュアンスがあるのに対して、「共同体」ニュアンス方向に舵を切っている印象です。 

(2)マーカス・バルトの義認論
(この続きに関しては「義認論ノート」で、次の機会に・・・) 

2017年4月26日水曜日

(5)ペテロの役割

ほとんど毎日のように、昼食後1時間程度の散歩に出る。

たいてい散歩のお供となるのが「音声ファイル(mp3)」だ。

音楽ではなく、様々な講演を歩きながら聴く。

ジャンルはある程度限られていて、多分一番多いのは聖書学、特に新約聖書学の講演だ。


今日はベイラー大学(アメリカ、テキサス州)に招かれて講演した、マーカス・ボックミュール教授


という題の講演だ。(聴きたい方は→音声ファイル

これを聴いたわけだが思いのほか面白かったので記事にしてアップすることにした。

ペテロが「イエス伝承」と「パウロ伝承」を繋ぐ役割を持っていたのではないか、ということを4人の高名な研究者(エド・サンダース、ジェームズ・ダン、ドミニク・クロッサン、N.T.ライト)の多大な研究の中からペテロのこの可能性を割り出すための資料を取り出し、それを評価する・・・という内容の講演だ。

個人的な印象を言うと、
新約聖書研究というと幾つかの独立峰的研究課題(ヨハネ文書、黙示録、ヘブル書、など)を除くと、大半は(キリスト教の成立の二大貢献者と目される)「イエス研究」と「パウロ研究」になり、いわばこの二つがメジャー・トピックのようになっている。 

だからボックミュールのこの二大人物を橋渡す役割を果たしたと思われる「ペテロ研究」は、半分メジャーで面白いのではないか・・・などと思った次第。

さて、英語を「聴く」のはダメな方は、この講演の内容が出版された本の1章として納められている。


Markus Bockmuehl,The Remembered Peter: In Ancient Reception and Modern Debate.
(WUNT I 262; Tübingen: Mohr-Siebeck, 2010). 
 
ちょっと専門的な内容なのでなんだが、ざっと概観するだけなら、二つの書評を参考にすると良いのではないか。
 
(1)簡単な方の書評(セメリオス所収) 
 
(2)かなり本格的な書評(このうちの[6]がこの講演に該当するもの)

2016年7月7日木曜日

(5)「イエスの妻」断片、偽造ほぼ判明

一度だけ「イエスの妻」パピルス断片について記事をアップした。

遠からず収束するのではないかと云う観測を立てておいた。

当然「偽造」という線で。

しかしことはなかなか収束しなかった。

パピルス断片や使用インクが「年代もの」ということが専門的検査の結果得られたからだ。

しかし当初から、コプト語の文法や字体については専門家たちは「偽造」の心証を強くしていた。


このように(パピルス・インクの)物理的な信憑性と、(文法・字体の)内容的疑いという反発する二つの面から「決定的なこと」を出せずに時間が過ぎていった。

しかし後から紹介する、The Atlantic誌のアリエル・サバー記者が、このパピルス断片の「来歴・入手経路(provenance)」の面から徹底な調査を行った結果、とんでもないストーリーが浮上することになった。

The Unbelievable Tale of Jesus Wife

残念ながら英語をよく読める人でも、この長文の、入り組んだ「ディテクティプ・ストーリー(推理小説のようなストーリー展開)」をじっくり読むのは大変だと思う。

しかし見返りは大きいと思う。

何しろ登場人物を取り巻く「道具立て」が殆どハリウッド映画並だ。

少しだけ紹介しても、

 (1)ウォルター・フリッツ(断片をカレン・キング教授に持ち込んだ人物で、状況から見てこの人物が今回のドラマを仕組んだ張本人と推定される。)は、旧東ドイツ出身で、コプト語研究でキャリアを得ようとしたらしい。

 (2)しかし上手く行かず、一時シュタージ(旧東ドイツ秘密警察)本部跡に立てられた歴史博物館に勤め(そこに収納されていた物品が幾つも盗難に遭い、その責任を取って辞職、みたいな)

 (3)米国に拠点を置いて、(ポルノを売り物にしたウェブサイト・サービスを運営していた)妻と、「ダヴィンチ・コード」を下敷きにしたような・・・

 (4)キング教授がヴァチカンで初めて断片のことを「イエスの妻」断片と命名して発表するより3週間も前に、その名前でドメイン(www.gospelofjesuswife.com)を獲得し・・・

 以上はほんの少しだけしか紹介できていないが、そして記事が出てから3週間以上も経ち、幾らか記憶も鈍ったので多少詳細な部分では正確ではないかもしれないが、とにかく最後の「あっというエンディング」まで驚きの連続と目くるめくような展開であきれるほどのストーリーだ。


で、筆者が情報収集している範囲(新約聖書学者でネットで盛んに情報提供していたような方々)では、この記事を受けてほぼ大勢は定まったとの見解で満ちている。

幾つか代表的なものを紹介しておく。

 (1)マーク・グッドエイカー、イエスの妻福音書・最終章
  関連するメディア記事(ボストン・グローブ、等)や偽造問題を追跡してきた研究者たちのブログ記事のリンクがまとめられている。

 (2)アリン・スチューさん(コプト語/パピルスの専門研究家みたいだ)のフェイスブック・ページ
  断片がメディアに登場した初期から「偽造」をほぼ確信していたらしいが、「2016年6月17日」のエントリーに、仲間たちの「おめでとう」のようなコメントが並んでいる。

(※フェイスブックの性格上、リンクを貼るのを控えました。ブログの方には関連記事の投稿がないところを見ると、専門家としての発言は本人的には時期尚早ということかもしれません。)

[2016/07/17追記]
 (3) 「ローグ・クラシシズム」ブログの2016年6月24日の記事
 (ウォルター・フリッツにまんまと嵌められてしまった)カレン・キング教授(ハーヴァード大神学部)に多少の落ち度はあったとは言え、学者としては十分情報公開や慎重な審査のもとに発表を進めたとして弁護している。

 この記事のご苦労さんなところは、アトランティック誌記事を時系列にまとめて「流れ」を見やすくしていること。何しろいろいろな思惑で動いているわけだからそれを時系列で追ってみないとポイントがはっきりしないことが多々ある。

 (4)「ジーザス・ブログ」(英語圏神学ブログ、16 で紹介)のアンソニー・ルダンが総括的な記事を書いている。
Now that there is no longer any reasonable reason to argue for the fragment's authenticity, let us devote a bit more time for some self-reflection, shall we? I promise to make this post extra lengthy for your navel-gazing pleasure.
(最早件のパピルス断片の真正性を支持する理由が全くなくなったところで、反省すべきことを探し出して、一体全体何でこんなことになってしまったのか“自分のへそをじっくり見つめるように”振り返ってみようではないか。)
アンソニーはユナイテッド神学校(オハイオ州にある合同メソジスト認可校)の新約学教授で、史的イエス/福音書研究領域で「聖書記者の記憶」に光を当てて福音書記述を研究する比較的新しい研究手法をリードしている一人です。(あのリチャード・ボウカムの目撃者証言の手法とも多分に重なります。)
 
 彼が最後に書いているポイント―― 今やSNSは研究者間の意見交換等、研究発表に不可欠なものになってきた ―― は今回の事件がまさに証明していることなのだと思う。

 ということは研究者たちがブログ等に発表するプロセスに筆者のような素人も含めたパブリックが(多分に野次馬としてだが)参加できる時代になってきた、ということだろう。

 いや、それにしても今回の「イエスの妻(福音書)」断片事件は面白いものであった。



 

2015年10月19日月曜日

(5)無誤論回想二題

聖書無誤論については当ブログでも様々な形で取り上げたが、この記事の導入として
福音主義とは何か(2013年6月)
と題して、福音主義神学会(東部部会)の研究会に出席した感想をあらわしたものを参考にしていただくとよいかもしれない。

行間に「イライラ感」が垣間見られるように、神学会でありながら、何か論争に発展しそうなことを避け、安全運転なトピックを選び続けるのに業を煮やしている観がある。

(1)日本の福音派の中での「聖書無誤論」論争

 さて、今年になって「聖書無誤論」に関して、日本の福音派の中で起こった論争の生き証人的な方々の表白に接する機会があった。

 とても印象深い出来事であった。既にある程度別の記事で文章化したので、そちらを参照していただければと思う。リンク

(2)北米の福音派神学者たちの間での「聖書無誤論」

 ここに紹介するのは、(執筆当時)フラー神学校学長デーヴィッド・ハバードが自身が関わった「福音主義聖書学者・神学者たちの回顧録」である。

Evangelicals and Biblical Scholarship, 1945-1992: An Anecdotal Commentary(リンク
書かれたのは1993年と今から18年前になるが、かっちり整理された歴史と違い、ハバード自身の観察や感慨から、当時の論争の雰囲気がうかがえ興味深い。

 少し抜粋してコメントしよう。


The second factor was the beginning of conversations with members of Fuller's board about the Fuller presidency. These conversations were paralleled by discussions within the Fuller community about the relevancy of "inerrancy" as the means of expressing biblical authority.

旧約聖書学者としてキャリアを積み上げ始めていたハバードが、フラーの学長候補になったことによって、一緒に仕事をしていた幾分リベラル寄りの研究者が論議された経緯を言っている箇所。(この同僚はハバードを配慮して袂を分かったらしい。)

While the work proceeded on the revision of Fuller's doctrinal statement, the issue of the importance and meaning of inerrancy continued to bubble on our campus and across the land. 

フラー学長時代(1963-1968)に「無誤論」の問題が沸騰してきた経緯を言っている箇所。1966年にゴードン(ボストン)のキャンパスでシンポジウムが開催されたとのこと。(おそらく全米での神学論争の口火を切るような会議であったのだろうか。

A memorable debate between Jim Packer and Frank Andersen encapsulated this division. I left Wenham heartened by the common ground among most of the biblical scholars and by my surmise that a number of the theologians were attracted to the term inerrancy more by the desire not to cause division or raise suspicion than by the conviction that it was an essential biblical label.

無誤論に関して、聖書学者と神学者とはある種捉え方の違いがあることをハバードは承知していたが、1966年の段階では見解の相違や不一致に発展するような悲観的な展望は持っていなかったと吐露している箇所。

...Volume 2 of New Testament Foundations in the mid-seventies. The discussion centered on the question of Pauline or Paulinist authorship of Ephesians and the Pastorals. Did we at Fuller want to be first on the block to break with the conservative-evangelical consensus on this? 

 この本を出版するに際し、フラー教師のラルフ・マーティンと「パウロ偽名書簡」問題をめぐって苦悩したらしいことを書いている箇所。

Our main thesis was that inerrancy and evangelicalism were not synonymous. Our chief plea was that evangelicals should unite around our commitment to Scripture and our orthodox heritage and not go to war over any particular word used among us to define Scripture's inspiration.

「無誤(インエランシー)」という語にこだわって亀裂を深めるようなことがないように、とのハバードの願いがあったことを書いている箇所。

Happily, it has led to discussions on the more central question, not how do we describe the Bible, but how do we interpret it. 

「聖書の権威・霊感」の中心的な問題は、聖書がどのような本であるかを定義することではなく、どのように解釈するかにある、という見方であったことを書いている箇所。


北米での聖書無誤論争に関心がある人だけでなく、北米における福音主義興隆期の聖書学がどうであったかを知るにもよい「回顧録」かと思う。

知っている人は知っているあの人やこの人の名前がザクザク出てきます。

2015年10月6日火曜日

(5)英語圏ブログ紹介⑯

第4回N.T.ライト・セミナーが終わり一息ついているところです。

ブログの更新が一月ほど滞っています。

再開というほどのことではありませんが、手始めに『英語圏ブログ』シリーズの更新から。


THE JESUS BLOG、という新約聖書学専門のブログがあります。

寄稿者というか「複数で運営するブログ」の中でも、(新約聖書学で)現在最も充実しているブログではないかと思います。

クリス・キースとアンソニー・ルダンという若手に英語圏ブログ⑫で紹介した、少し先輩のジェームズ・クロスリーも加わり、最新の英語圏研究情報や動向を次々記事にしています。

 ※アンソニー・ルダンは、筆者のアズベリー神学校1年生のときのルームメイトが教えるUnited Theological Seminaryの新約学教授です。

最近(ここ数ヶ月)目に付いた記事の中では、

(1)Richard Bauckham Responds
(2)Hidden from the world in German Higher Education
が目に付きます。



(1)Richard Bauckham Responds

 最初にアンソニー・ルダンが書いた記事が、Are Firsthand Accounts More Reliable?

 そこでアンソニーは、たとえ「目撃者の証言」であっても記憶というものがときに信頼性がないのだから、いつも確かとはいえない。という見方を示します。

 その記事のコメント欄で誰かが、ボーカムの本、『イエスとその目撃者たち:目撃証言としての福音』を引き合いに出したわけです。

 今では重鎮の域に入ったかと思われるリチャード・ボーカムが、「目撃者の記憶の信憑性」を問われたことで、ディスカッションに参入するという面白い展開となったわけです。

 それを後日改めてボーカムの反論コメントを軸に構成しなおして記事にした、というわけです。

 ボーカムは、このブログ記事でも紹介したように、ときどきブログ上の討論に参加することがあります。

 といっても、ハータド(表記はフルタドとしていますが、発音は殆どハータド)のブログにしても、このジーザス・ブログにしても、かなり専門的なものなので、慎重なボーカム氏も登場したわけでしょう。

 こういう学術的な応酬がときどき見られるのが英語圏ブログの面白いところだと思います。

でも、まとめに使われたボーカムのコメントの最後の部分には目を留めておく必要があると思います。
Thank you, Chris, for your detailed attention to my arguments. I'm glad that we are in agreement about a lot of things. As you know, I esteem your work. We are both (and Anthony) facing up squarely to the key question: Where do we go now that form criticism has collapsed?
「様式批評学は倒壊した」という前提をボーカムも、クリスやアンソニーも共有した上で、『記憶』を梃子にした再構成アプローチに前進する、ということなのでしょうね。

 つまり福音書研究、史的イエス研究の方法論的方向の一つとして。


(2)Hidden from the world in German Higher Education

 こちらはジーザス・ブログについ最近加わった、クリスティン・ジャコビ (Christine Jacobi)
の初投稿記事です。

 ドイツ語圏で訓練されたクリスティンのスタンスはブルトマン再興を予感させるものらしいことを言っています。
Being a newcomer and researching, hidden from the world, in German higher education, I was able to meditate on and investigate these and other exegetical, theological and philosophical questions and surprisingly, many of my insights turned out to be very close to the theses of this famous man shown above. So I find myself asking: Are we living in a Bultmann-revival-era?
彼女がこれからどんな記事を発表するのか、今後注目したいと思います。

2015年8月11日火曜日

(3)英語圏ブログ紹介⑮

すっかり忘れないうちに、このシリーズも追加しておこう。

⑬マーク・コーテーズ
⑭ピーター・ライトハート

と来て、今回は新約聖書学に特化したブログです。

右コラムの「マイブログリスト」にもありますが、
マシュー・モントニーニNew Testament Perspectivesです。

なぜこのブログを思いついたかというと、最近「のらくら者の日記」ブログにアップされた英国学者主教の伝統のことを書いていたからです。
(記事のタイトルはもっと物騒なものなので書きませんでした。)

ドイツのチュービンゲン学派に対抗する英国の学派は一世紀以上前のダーラム主教を務めたライトフットやウェストコットによって作られた・・・と紹介しています。

今話題となっているN.T.ライトがやはりダーラム主教を務めましたが(2003-2010年)、この記事を書いて以降問い合わせがあり、「・・・日本の福音派の人たちがあまりにも J. B. ライトフットや B. F. ウェストコットらについて知らないことに驚いている。彼らとその業績を知らなくて、どうして N. T. ライトを語れるのだろうか?!」と別の場所で嘆いておられました。


モントニーニのブログはある意味玄人好きのするサイトで、ライトフット、ウェストコットのような昔の学者や現在活躍中の人たちもいろいろカバーしています。

結構渋い名前もあり、とにかく新約聖書学者のフーズ・フー(Who's Who) という感じです。

ちょうどライトフットとウェストコットに焦点が当たりましたが、
Lightfoot did, however, continue to take notes on John's Gospel, which Ben Witherington III discovered at the Durham Cathedral Library in the spring of 2013. With this discovery and its future publication (The Gospel of St. John: A Newly Discovered Commentary; Dec. 2015; InterVarsity Press Academic; 384 pp.), perhaps Lightfoot's name will be placed alongside the pantheon of the great British commentators on the Fourth Gospel.
とのらくら者さんが別なところで紹介していたベン・ウィザリントンⅢアズベリー神学校教授の発見がきっかけで本となる、ヨハネ福音書註解のことを書いています。(Lightfoots Commentary on the Gospel of John

日本ではとても有名な(故人ですが)F.F.ブルースについても音声ファイルのアーカイブを紹介しています。

まっ個人的には一番スリリングだったのは、N.T.ライトのメンターであった(博士論文指導教官だったが残念ながら完成前に亡くなった)G.B.ケアードの『新約聖書神学』のもととなった講義の音声ファイルが見つかり、公開されている。

この『新約聖書神学』は、筆者にとってとても思い入れの強いものなのです。 

2015年6月10日水曜日

(5)タカ牧師のセブン-3

これで3回目になります。

もう少し続けば慣れてくるかな。

では今回は日本語も3本です。

1. Adela Collins: Overcoming Obstacles to Shed Important Light on the Bible
  『アデラ・コリンズ:女性聖書学者、壁を乗り越え聖書学の前進に貢献』
  最近ではこのブログでも何度か取り上げたと思いますが、エイミー-ジル・レヴィン(ヴァンダービルト大)やベヴァリー・ガベンタ(ベイラー大)など性別に 関係なく尊敬されている学者が出てきています。いわばそのパイオニア的存在のアデラ・コリンズ教授(イェール大神学部引退教授)の紹介記事。

2. Interview: Elizabeth E. Shively
  『エリザベス・E・シブリー教授インタヴュー』
  Women Biblical Scholarsというサイトです。その名の通り、女性の聖書学者をフィーチャーしたサイトです。シブリー教授などは第3世代ということになるのでしょうね。

3. Why Sermons Often Bore
  『なぜ説教がつまらなくなってしまうのか』
  ニューヨークの有名牧師、ティム・ケラーの説教ワークショップに参加した方のレポートです。TGC(ザ・ゴスペル・コーリション)という改革派の人たち中心のグループなので、どっちかと言うと「頭でっかち」な説教してしまうのに対し、もっと「ココロ」に語りかけましょう、と言う方向をオススメしているようだ。

4. Best and Worst Graduate Degrees for Jobs in 2015
  『修士・博士学位別将来収入ベスト/ワースト2015年』(フォーチューン誌)
  学位獲得後の収入を学位別で調べた結果を報告している。収入が良いのは統計学やコンピューター関係。良くないのはばらばらだが、神学はワースト11位だって。これが日本だったら・・・。

5. 集団的自衛権はコスパが悪い
  今国会で論戦たけなわの話題に関する記事です。少し古いですが。元防衛官僚の目から見た政府案の疑問点を具体的に取り上げています。

6. 祝!国際アンデルセン賞受賞。担当編集者が語る上橋菜穂子(前編)
  読んでそのままの記事です。結構読み応えあります。たまたまフェイスブックでR大卒と知ってから読み始めたのですが、上橋さん、なかなか面白い人だと思います。

7. 後編
  一つズルした感じになりますが。ごめん。


以上です。

2015年6月1日月曜日

(5)リチャード・ヘイズ日本講演、4

これがシリーズ最終となります。

Did Moses Write about Jesus?

The Challenges of Figural Reading

モーセはイエスについて書いたのか?

比喩的読解の挑戦

は、4月28日、立教大学(キリスト教学研究科主催)を会場に行われた講演です。
講演については主催者サイトで以下のように説明されています。
 本講演は、四福音書の著者たちが、イスラエルの聖書をイエスのアイデンティティーに関する証言として解釈した、その驚くべき仕方について例証し、探求することを目的とする。
 内容的には、最近のヘイズ氏の著作である "Reading Backwards: Figural Christology and the Fourfold Gospel Witness, Waco: Baylor University Press 2014"で探求された、いくつかの解釈学的提案について要約的に報告し、省察を加える予定である。
となっている。

Reading Backwardsに関してはこちらのサイトで簡単にライトの推薦文を紹介しておいた。

With his characteristic blend of biblical and literary scholarship, Hays opens new and striking vistas on texts we thought we knew--and, particularly, on the early church's remarkable belief in Jesus as the embodiment of Israel's God."
--N.T. Wright, Professor of New Testament and Early Christianity, University of St Andrews

講演を通訳した河野師は英語テキストの翻訳もしてくれて参加者に配られた。今回の講演三つともまるで英日両語テキストを比較しながら聞くようなインターリニヤー状態でした。(笑)

ではアウトラインだけ英語のまま掲載します。

I. Introduction: The Evangelists as Retrospective Scriptural Interpreters
 A. The Multivocality of the Gospels
 B. Mark: Figuring the Mystery of the Kingdom
 C. Matthew: Torah Transfigured
 D. Luke: The Story of Israel's Redemption
 E. John: Refiguration of Israel's Temple and Worship
 F. The Challenges of Diversity
II. Gospel-Shaped Hermeneutics?
多分以下の部分を引用するだけでも輪郭がうっすらと感じられると思います。
...the four canonical Gospels are hermeneutically intertwined with the Scriptures of Israel. The more closely I have studied this phenomenon, the more I have been drawn to the conclusion that the OT teaches us how to read the Gospels and that--at the same time--the Gospels teach us how to read the OT. The hermeneutical key to this intertextual dialectic is the practice of figural reading: the discernment of unexpected patterns of correspondence between earlier and later events or persons within a continuous temporal stream.
四つの正典福音書がイスラエルの聖典と解釈学的に絡み合っている仕方について、・・・私は、この現象についてより詳細に研究すればするほど、旧約が私たちにどのように福音書を読むべきかを教えている、との結論へと導かれてきました。この間テクスト的弁証法に対する解釈学的な鍵は、比喩的読解( figural reading) の実践にあります。それはつまり、連続する時間的な流れの中における、先の出来事と後の出来事、あるいは先の人物と後の人物との間の、予期せぬ対応関係のパターンを識別するということです。
比喩的読解についてエリッヒ・アウエルバッハの考察をベースにしているのですが、その部分を続いて以下に(日本語翻訳だけ)引用します。
比喩的解釈においては、間テクスト的な意味論上の効果は、双方向に流れることができます。つまり、先のテクストが後のテクストを照らすとともに、その逆もある、ということです。しかし、ある比喩的対応関係の二つの極の、時間的に秩序付けられた連結は、その比喩の把握(the comprehension of the figure)ーーエリッヒ・アウエルバッハが intellectus spiritualis (霊的洞察)として描写した理解の行為ーーが、回顧的 (retrospective) でなければならないことを要求します。特に、この講演の主題との関連で言えば、旧約の比喩的・キリスト論的読解は、イエスの生、死、および復活の光において、ただ回顧的にのみ可能である、ということです。したがって、律法と預言者はイエスの生涯における出来事を意図的に予告している (predicting) 、といった読み方は、比喩的解釈の視点からすれば、解釈学的な大失敗ということになるでしょう。(強調は筆者)

ここでヘイズによって主張されていることを少し強引に説明してみます。

「旧約(預言)は新約のイエスにおいて成就した」と言う時の単純な《時間的関係》での《意味関係》を、解釈学的な関係で捉え直せば、実はそのような理解は回顧的解釈によって可能になることなのだ、と言うことだと思います。

少し体験的な例を用いて説明してみましょう。

ルカ24章に以下のような箇所があります。
さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(24:44-47、新共同訳)
昔ここの箇所を読んで、「次のように書いてあります」とあるので、旧約聖書のどの箇所だろう、などと思ったことがあります。

実際にはダイレクトにそのように言及されている箇所はない(と言うのが筆者の理解です)が、何箇所かそれに近いような箇所はあります。

《キリストの受難》で言うと有名なのが、イザヤ書53章の『苦難の僕』です。

昔は聖書の真理性を説明するのに、「ほらここにはキリストの苦難の予言が書いてあるでしょう。これは何とそのことが起こる600年前に既に書かれていたのですよ」みたいな使い方があったようです。

これだと、《時間的関係》で先(古い)のものが、後に来るものの意味を明示(予告)していた、と言うかなりダイレクトな対応関係となります。

一般の聖書読者は「聖書預言」をそのようなダイレクトな対応関係のパターンとして理解しているのではないかと思います。

しかし、ヘイズは(預言に限らず)むしろ「予期せぬ」ものであったり、「逆であったり」する間テクスト関係が(四福音書と旧約聖書の間に)成り立つことを論証しているわけですね。

特に「イエス・キリスト」と言う歴史の出来事と旧約聖書(と言う書かれたテクスト)との間に成り立つ関係で言うと、福音書の中で度々弟子たちの「無理解」や「戸惑い」で例証されるように、目の前でイエスが行っている出来事の意味や意義は、その時点では明らかでなかったが、イエスの死と復活の後に「ああ、そう言うことだったのか」と言う風に理解されるパターン、がそうであったということです。

例えばこの箇所が最もよくその点を指摘していると思います。
イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。 (ヨハネ福音書2:19-22、新共同訳)
また、イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入場した出来事も同様に解説されています。
イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」
弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。 (ヨハネ福音書12:14-16、新共同訳)
これらは言ってみれば福音書記者(弟子の視点)のそっと挿入された自画像的説明で、読者への解釈法的ヒントにもなるものです。

ヘイズはこのような解釈視点を、エリッヒ・アウエルバッハの文学理論的洞察を援用しながらシステマティックにやっているのだと思います。


ではここで、ヘイズ日本講演、1で説明を延期した「神学的な解釈」の第9ポイントに少し触れます。
9. Theological exegesis thereby is committed to the discovery and exposition of multiple senses in biblical texts. Old Testament texts, when read in conjunction with the story of Jesus, take on new and unexpected resonances as they prefigure events far beyond the historical horizon of their authors and original readers. The NT's stories of Jesus, when understood as mysterious fulfillments of long-ago promises, assume a depth beyond their literal sense as reports of events of the recent past. Texts have multiple layers of meaning that are disclosed by the Holy Spirit to faithful and patient readers. 
ここで言われる、multiple sensesmultiple layers of meaningを聖霊の啓示によって発見して行くのが神学的な解釈であり、それを四福音書の読解で実践しているのが、Reading Backwards、あるいはそのダイジェスト版報告であるこの講演、と言うことになるかと思います。


かなり洗練された内容の講演の報告ですので、本当に本の一部しか言及できませんでしたが、Reading Backwardsを購入して読んでいただくか、または下記の動画で各福音書について講演したものがあるので、それを参照して頂くとよいかと思います。

1. Torah Reconfigured (マタイ福音書)