2017年7月6日木曜日

(5)義認論ノート、2

去年の今頃は「N.T.ライトの義認論」(第6回日本伝道会議・分科会)の打ち合わせのため、(神学)ディベートの相手となる橋本氏、それから進行役のJEA神学委員の関野氏、佐々木氏とお茶の水で初顔合わせをしていた(7月1日だった)。

夏の間はライト読書会ブログ上で橋本氏と全部で9回、土俵作りと云うか下準備のディベートをやったのだった。

今になって、少しずつ小出しの印象は否めないが、9月の正味45分の(何と短い)討論会を思い返しながら「準備した資料」を点検し整理してアップしようとしている。

それは2017年、宗教改革500周年を迎えて案外タイムリーなことかもしれない。

あらためて、「義認論」の意義は何なのか、と問うこともいいのかもしれない。


さて下記に多少時系列的な「振り返り」となるが、伝道会議・分科会を前にした7月1日の(1回だけとなった)「打ち合わせ会議」のために、筆者が《神学ディベート・分科会》で想定していたというか、「多分現実的な中身はこんなところだろうな・・・」と考えていたことを紹介しておこう。

○○先生

・・・・・・。
僭越ながら、「ライトの義認論」に関し、討論者自身の満足よりも「日本伝道会議で取り上げる『メリット』をいかに多くするか」、と云う視点から少し「討論の枠組み・方向性」を考えてみました。
何はさておき、「討論における(神学議論的)内容」を4人で議論する前に、「全体で90分と云う時間的制約」、そして想定される参加者(信徒も含む)の「ライトの義認論」に対する理解度の問題、いずれも「外的条件・制限」を優先的に考慮せざるを得ない と思われます。さすれば自ずと選択肢は狭まってくる、とそのように考えます。
(1)90分と云う時間的制約
 フロアとの質疑応答に30分取っておくことを考えると、「イントロのような事柄・・・10分」、「討論・・・45分」くらいの時間配分かと予想します。
(2)参加者の「ライトの義認論」に対する理解度
 牧師・伝道師の方々をメインに考えたとしても、やはり「最近取りざたされているNPPとか、ライトとか大丈夫なの?」くらいの関心がスタートラインと想定した方がいいと思います。「義認論」の、つまりロマ書・ガラテヤ書の釈義的問題等に「入る議論」は無理だと思います。基本
 「『義認論』て何なの?」
 「なぜ論争されているの?」
 「それ日本での伝道や牧会に影響あることなの?」

等の質問に概観的な「見取り図」を提供する「一助」、という位置付けでいいのではないかと思っています。
※個人的には恐らく討論のポイントは、「それ日本での伝道や牧会に影響あることなの?」が一番重要ではないかと思いますが。
一応以上の線で考えますと、《討論・・・45分》のポイントは、
(1)宗教改革時の「信仰義認論」と、(NPP)ライトの「義認論」とをどう整理すればいいのか、という課題
(2)以上の課題を日本で「聖書学・神学」に従事したり、関心を持ったりする方々は、どのように取組み、どのように「日本での今後の伝道・牧会」に応用させれば良いのか、という課題
以上の二つの課題を討論ポイントとして扱えばいいのではないかと思います。
以上、私見ですが、今のところの感想まで。
小嶋
さて以上がほぼ一年前考えていたことであった。

アウトラインとしては、9月28日の発表内容はこの時すでに固まっていた。

ただ、終わってみて思うのは、「(1)90分と云う時間的制約」には予想以上だった。

というのも、義認論に関するアカデミックな材料を大胆に薄める代わりに、「伝道・牧会」という応用面への展開を濃くしよう、と欲張ってしまったのだ。

それで思いのほか「発表内容」の論理的繋がりがかなり理解するのに難しくなってしまった印象がある。

しかし「フロアーとのQ&A」を30分確保したことで、「理解しきれない」問題のほんの一部は解消されたのではないかと思う。

今改めて一年後に「義認論ノート」として発表するのも、この負い目と言うか不足分をいくらかでも補えたらいいな、との期待からである。


さて、では「発題1」の文章にコメントしてみよう。

後半、つまり「伝道・牧会への応用」部分が以下のようになっている。
 「パウロにとって義認は救済論と教会論の両方を合わせたもの」とのライトの議論が正しければ、プロテスタント諸派、特に「福音派」の神学と実践に大きな 問題を投げかけます。
 それは、従来の福音派においては、「救済」においても「敬虔」においても個人的で主観的な視点が強いため、「福音」を正しく伝承し保守するために不可欠な「聖礼典」「職制」、いわゆる「教会の外的しるし」を中心とする伝統的「教会論」がかなり弱体化していることです。
 伝道が実を結ぶためには、「福音」の明証性ともに、福音の伝承を媒介する制度的教会に対する正しい見識が必要ではないでしょうか。
この部分がまことに残念ながら「欲張りすぎ」たのでした。とても5分ではポイントさえ提示するのも困難であった、と。(実際的な設問で、イメージ的にはかなり伝えられると思ったのですが・・・。)

ここで提起しているのは、「福音派の神学と実践」に対して、「ライトの義認論」は(ある意味)問題を自覚して分析させ、また解いて行く方向付けを与えるのではないか・・・ということです。

「救済論」と「教会論」とを一つに見るもの、という「ライトの義認論」の意義は、神学的整理としてよりよい(かもしれない)というポイントにとどまらず、教会の伝道・牧会という実践面への視座を与えてくれる、というポイントとして(日本の教会に限りませんが)宗教改革系列であるプロテスタントの中の特に福音派に対して大きな意義を持っているのではないか・・・という議論にしようと思ったのです。

今回「義認論ノート 2」は既に長くなってしまったので、今後の解説の大枠を提示しておくと、
 (1)救済論(特に『救いの順序(オルド・サリューティス)』の問題)
 (2)教会論(特に制度的教会論に対するアレルギー的反応というか、その蓄積でいわば福音派教会論が弱体化したという問題)

となります。

そしてこれら二つを繋ぐのが(特に「義認」に関連付けて言えば)「洗礼論」ではないかと睨んでいます。

但しその場合の「洗礼論」は単なる神学上の議論としてではなく、教会の成員を生み育てる入口としてどのように「洗礼」は役割ずけられてきたか、という(主に西洋のキリスト教会の)歴史的実践から来る「洗礼」の神学的位置付けの問題、ということになると思います。


ということで、「次回へ続く」


0 件のコメント:

コメントを投稿