2011年4月29日金曜日

『教会における聖書の解釈』

ローマ・カトリック教会の「教皇庁聖書委員会」が1993年までにまとめて公表した文書が『教会における聖書の解釈』である。
同文書を和田幹男神父が翻訳しネットで提供してくれている。(リンク先

聖書と言えばプロテスタント教会において、あたかも神ご自身の次に権威の座についているような印象を与えるが、ローマ・カトリック教会でも第二バチカン公会議以降、聖書の存在意義が高まっている印象が筆者には感じられる。

カトリックにおいては「教皇による信仰に関する教え」は無謬であるとの教義(papal infallibility)があるが、(福音主義)プロテスタントでは聖書自身に無謬性を置いている。

最近読んでいる本で、William J. Abraham 編の、Canonical Theismと言う本があるが、逆にこのプロテスタント神学者は聖書の位置を公同教会の遺産である様々な「キャノン」の一つとして相対化する試みをしている。
彼の見解には「聖書を無謬と前提して真理の源泉とするアプローチ」は健全なものではないと言う観察が見られる。

いずれにしても、カトリック教会の聖書に対する関心と、アブラハムに代表されるような、聖書と言う単一の文書群より広い「公同教会の遺産(信条、典礼、教父)」へのプロテスタントの関心は、興味深い交錯、と筆者の目には映るのである。

と言う前置きで、これから何回かこの文書に対する感想を述べてみようと思う。

勿論内容が内容なので簡単なコメントでは間に合わない。
かといって練り上げられた文書の内容を論評するほどの力も筆者にはない。

ただこの文書が教皇庁の指示による教会文書としてランドマークであり、指導的地位を与えられている、と言う意味で現在簡単コメント連載中の「佐藤優『キリスト教神学概論』」とは比べ物にならない重要性を持つ。

佐藤の書いたものは個人のものであり、しかもかなり記憶や個人的印象による走り書き程度のものだが、こちらは複数の学者たちによる共同作業の結果であり、しかも教会に対する責任ある文書としての重みがある。

てなわけで佐藤の方も時々は帰ってくるかもしれないが、こちらの『教会における聖書の解釈』の方をじっくり学習させて頂こうと思う。

(※連載までは予定しないし、定期的に書くつもりもないが、今後何回か感想を載せたいと思う。)

2011年4月27日水曜日

「安全神話の崩壊」?

3.11以来「安全神話の崩壊」という言い方がよくされる。

地震対策、津波対策等は過去の経験に照らしてそれなりの「安全の構築」がなされてきたはずだった。
建築物の耐震強化や、防潮堤の造成、避難訓練など。
しかし3.11の津波はやすやすと「安全の壁」を破って甚大な損壊をもたらした。
「想定外」と言えばそうだ。
ただ明治三陸津波まで遡れば経験値(知)としてはあったのだ。
だから人々は3.11の地震や津波に対しては「安全神話の崩壊」は余り言わない。

「安全神話の崩壊」が最もよく使われるのは東京電力福島第一原発事故に対してだ。
しかし事故の徹底的な検証がなされるまでは、このような物言いがどれだけ「3.11原発事故の全体像」をついた表現かどうか良く分からない面があるのではないか。

①「神話」と言う語感について
神話と言う語はこのような文脈で使われる時は、「作り事」「絵空事」のような語感がある。最も厳しくみれば「虚偽」だろう。
特に今回もそうだが「安全」はタテマエで、実際に事故などが起こると事実を出来るだけ隠蔽したり、事故の深刻度を出来るだけ軽微に見せようとしたりしてタテマエである「安全」を維持しようとする。

②原発の安全性とは
『原発への警鐘』(1982年)の著者、評論家の内橋克人氏によれば原発の「安全神話」とは、原発を国民に受け入れさせる「PA(public acceptance)戦略」であったと言う。(「原発安全神話」
このPA戦略がどんな方策を用いたかと言うと、
・電気事業連合会が行ってきた言論に対する抗議戦略
・小学校低学年から中学・高校までエネルギー環境教育という名の原発是認教育を授業として実施
・有名文化人を起用していかに原発は安全かを語らせるパブリシティ記事をメディアを使って展開
だと指摘する。

こうしてみると、原発の「安全神話」とは国策としての原発を国民に浸透させるための一大プロパガンダに位置づけられることになる。

少し比較するのもなんだが第二次大戦に突き進む国家政策を髣髴とさせる。

暴力的・威圧的な言論統制こそ用いないが、民主国家にあって取れるメディア戦略、世論誘導を可能な限り強力に推し進めた結果国民に浸透した「安全神話」と言うことになってくる。

第二次大戦中は「皇国史観」「現人神」や「神風」のようなより神話的に素朴な言説で国民を誘導したわけだが、原発国策では「クリーンで安全」と言う科学技術に対する信頼を醸成するより世俗的言説が国民に根付いたと見られる。

第二次大戦突入時、一部の識者は客観的に見て勝ち目がないことが分かりながら大っぴらな反戦言論を展開できず、沈黙しなければならなかった。
そして敗戦の事実によって「皇国神話」は倒壊転覆し、戦争をリードした識者も含めて国民はあっという間に民主主義に転向した。

では原発「安全神話」はどうか。
福島第一原発の苛酷事故は敗戦のように「安全神話」を崩壊させたか。
3.11後の地方選挙の結果を見る限りまだ崩壊したとまでは言えないだろう。
多くの国民が疑義を抱き始めた、とは言える。

第二次大戦時のプロパガンダ対策との比較もこのくらいが限度だろうか。

現在各地の放射線量が毎日テレビや新聞で報道されている。
ある種の「非常時」を実感させるものではある。

しかし「安全神話」では披露されなかった、想定される原発事故時の対処に必要とされる科学的知識(被曝線量の閾値、外部被曝と内部被曝の違い、放射能の拡散に伴う避難対策など)に関して国民は遅ればせながら自ら学習しつつある。

原発推進勢力の「安全」言説や政府によるパニック鎮静言説(「直ちに健康に影響のある値ではない」etc.)など錯綜する情報空間の中で、国民は「どの程度なら安全なのか」と言うより現実的で相対的な「安全」認識に向かっている、と言えるのではなかろうか。

2011年4月25日月曜日

教会の「司牧」と原発問題

受難週からイースターにかけて「原発問題」ポストから遠ざかっていたが、学習は進めていた。

東日本大震災から「東京電力福島第一原発問題」だけ切り離してポストを続けるのは心苦しいのだがそれだけ今論じられるべき問題だと思うからである。
被災地の復興もある意味日本という社会の将来の見取り図を変えるような意義を持っているが、原発エネルギーもまた大きく社会のあり方を変える意義を持つ問題だと思う。

筆者の見渡したところキリスト者や牧師、教会のブログで継続的に原発問題に警鐘を鳴らしてきたのはやはり「小海キリスト教会牧師所感」だろう。
水草牧師がどのような経緯で原発問題と取り組むようになったのかその経緯を知らないが、これだけ量も質もこの問題の啓発のために文章を書いておられる方(キリスト者、牧師)は珍しいのではなかろうか。

最近ある方がこのブログを読んで以下のようなコメントを寄せた。
 神の前にでる備えが各自できているかどうかが大切と説くキリスト者の方が、同時に、現在の原発事故の事態を傍観するのではなく、現実を直視して、通信してくださっていることに感謝いたします。
 人々の生活と故郷を奪い、動物や自然を傷つける放射能と原発を容認してしまっていることに対して、日本人として責任を逃れられる人は一人もいないのだと思います。
 神の前でのどう生きるかを問うからこそ、この問題を語ってくださっているのだと思って、ブログを拝読しました。
これに対して水草牧師は以下のようにコメントを返している。
 イエス様が私たちにくださったもっとも大切なご命令は、全身全霊をもって神を愛しなさいというこ とと、隣人を自分自身のように愛しなさいということです。そして神への愛と隣人愛は不可分だと主イエスは教えてくださいました。原発問題ということも、こ の二つで一つの愛の戒めに誠実に応答しようとすれば、どうしても傍観しておくわけに行かないなと感じています。
このコメントを読みながらあらためて「キリスト者として『原発問題』と取り組むスタンス、アプローチとはどうあるべきか」と言うことを考えさせられた。
水草牧師は既にはっきりと反原発あるいは脱原発の態度を取っておられ、浜岡原発即時停止のアッピールもしておられる。

筆者の場合はこの度の苛酷事故が起きるまで、ぼんやりとした反原発の立場であったが、人々を啓発したり、アッピールしたり、と言うところまではこの問題に対する考え方、立場を煮詰めて来なかった。やっと遅まきながら原発の問題が孕む様々な諸相を学習し始めたに過ぎない。

このブログにおいても原発問題の深刻性を訴えることはしているが、神学的、倫理的に議論するまでにはまだ至っていない。
そんな中で教会の働きとして最近三つのことが連関して想起されている。
①礼拝
②司牧
③宣教

特に原発問題に関連しては「司牧」と言うことばが想起されている。プロテスタントでは「牧会」と言うことばがよく使われるが、これはややもすると教会内に限定されがちである。
しかし教会が社会との関連を余儀なくされた歴史の中では「司牧」の範囲は社会全体、教会が位置する共同体全体に広げられる。

このような視野をよく表しているのがカトリック教会ではないかと思う。
カトリック教会の社会正義の問題との取り組み、特に経済的弱者や社会的弱者への目配りはある種分離主義に傾き、伝道を社会との唯一の接点としやすいプロテスタント福音派教会が学ばなければならない手本だと思う。

カトリックのイエズス会が出している「社会司牧通信」の第158号(3月15日号)にちょうど原発問題を扱った鎌仲ひとみ監督のドキュメンタリー映画『ミツバチの羽音と地球の回転』が紹介されている。

日本の小さな島の原発との戦いと、スエーデンでの脱原発の取り組みが紹介されているものだそうだ。やはり住民が原発と言うものをよく理解し、自分たちの未来(子孫)にどのような社会・文化を遺産として残して行くか、と言う視点が大事なのだと思う。

先ほどの水草牧師の『隣人愛』と言うことで言うと、その対象は今の世代だけでなく遠い将来にわたる隣人、そして生態系も含まれるのだと思う。
原発問題はそのような長いスパンでの視野に立つ選択を必要とする問題ではないだろうか。
そして教会の「司牧」の働きもそれに合わせて視野が広げられる必要があるのではないだろうか。

2011年4月23日土曜日

明日の礼拝案内

イースター主日礼拝

4月24日 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 23:50-24:35
説教箇所 使徒の働き 24:32
説 教 題 「心はうちに燃えていた」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※礼拝後、持寄り昼食会があります。
※今週、29日(金)連合総会があります。














(カラバッジョ「エマオ」)

2011年4月22日金曜日

グッド・フライデイ(聖金曜日)

クリスマスほどではないが、イースター(復活祭)もキリスト教の大きなお祭りである。
(「お祭り」と言う表現は個人的には余り好きではないが。)

イエスの死と復活

それは「天に上げられる」ことに関わる(ルカ9:51)
それは「神の国の成就」に関わる(ルカ22:16,18)
それは「新しい契約」に関わる(ルカ22:20)
それは「世界を支配する」ことに関わる(ルカ22:29-30)

イエスの復活は「死者からの復活」
イエスの復活は「死者の復活」の初穂
イエスの復活は、十字架刑に処せられたイスラエルの預言者に対する、「義しい」との神の宣告

2011年4月20日水曜日

イエスの死、キリストの死

ナザレのイエスの死は単一の歴史的出来事である。
しかし新約聖書はその出来事を多様に描写している。
ほ殆んど解釈なく事象的な描写もあれば、神学的解釈、しかも濃密なものまで。

以下に、ジョージ・B・ケアードが「聖書の言語と表象」で抜粋したものを掲げる。
受難週に「イエスの死を」瞑想するのにも良いと思う。

①マルコ15:37
しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
②使徒の働き2:23
このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
③Ⅰコリント15:3
すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
④マルコ10:45
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
⑤ローマ8:32
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか
⑥ルカ22:37
言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。
⑦Ⅰコリント5:7
いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。
⑧Ⅰペテロ1:19-20
きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。
⑨コロサイ2:15
そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。
⑩ガラテヤ2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

2011年4月18日月曜日

受難週

昨日は棕櫚の聖日。
ナザレのイエスが、ロバの子の背中に乗ってエルサレムへ入城し、人々が道に棕櫚の葉を敷いて、「ダビデの子、ホサナ」と歓待した日だ。

勿論イエスの行動の背景となっているのは、ゼカリヤのメシヤニック預言だ。
娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者。
高ぶることなく、ろばに乗って来る。
雌ろばの子であるろばに乗って。
(ゼカリヤ9章9節)
この四日後には群衆は「イエスを十字架につけろ」と、まるっきり手の平を返したような仕打ちでイエスに対する。
昔はその落差に対して群衆心理というもののいい加減さ、不安定さを思ったものである。
そして「普通の人間だったら人気の絶頂から突き落とされる大変なショックだったろうな・・・」などと考えたものである。

今はそのような感慨で受難週の時この福音書の記述を読むことはなくなった。
それはこの時の群衆と同じように表層を見ているように思うからだ。

ナザレのイエスはイスラエルの預言者としてエルサレムで死ぬ覚悟で入京した(ルカ13章33-35節)。
イエスの弟子たちは「いよいよイエスが王となって、自分たちも相応しい地位につけるかも」と期待していただろう。

しかしイエスの心情はかつてエルサレムの破局を預言したエレミヤのように嘆きで満ちていた。
イエスは見通していた。最早エルサレムが壊滅的な打撃を被ることを。
エルサレムに近づき、都が見えたとき、
イエスはその都のために泣いて、言われた。
「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。
しかし今は、それがお前には見えない。
やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、
お前を取り巻いて四方から攻め寄せ
お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、
お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。
それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」(ルカ19章41-44節)
エルサレムがローマ軍に包囲されている光景を髣髴とさせる。

この後、翌日イエスは所謂「宮きよめ」と呼ばれる行動を示した。
これも、以上のような流れから、「神殿の破壊」を象徴する預言者的な行動、と言う新約学者たちの解釈が説得的であるように今は思う。

その後、イエスは弟子たちに、エルサレムを見下ろすオリーブの山から、「世の終わり」に関するオリブ講話をする。
「世の終わり」に関しては、福音派は依然キリスト再臨後の文字通りの「天地の破滅」をイメージする方が多いと思う。
シュヴァイツァーもその線で解釈していた。

しかし、マルコの表現を注意深く読むとどうだろう。
「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。(マルコ13章14節)
文字通りの「天地の破滅」であれば、近くの山に逃げても所詮無駄なことである。

ルカはマルコの謎めいた表現をより明確に、具体的に示している。
「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、
その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。
田舎にいる人々は都に入ってはならない。
(ルカ21章20-21節)
ルカは「エルサレムの滅亡」に関するイエスの預言を、近未来のローマによる軍事的侵攻によるもの、と解釈していることが伺える。

さて、イエスはエルサレムの滅亡が最早避け得ないもの、との展望で入城されたのである。
そして「ユダヤ人の王」として、その民の受ける受難の前触れ、警鐘として十字架刑を受けられた。

受難週はこの歴史的なシナリオを、神の救済のドラマの枠組みの中で「贖い(新しい出エジプト)」の出来事として成就したことを福音書の記述に味わう時である。

感傷的、皮相的な「私たちのために十字架にかかって死んでくださった」から一歩出ようではないか。

2011年4月16日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

4月17日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 3:1-29
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 3:29
説 教 題 「約束による相続人」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(58)
ガラテヤ人への手紙(46)
・3:23-29 一つの信仰、一つの民

2011年4月15日金曜日

3.11とメタノイア

キリスト教ではメタノイア(『悔い改め』)を個人の行った罪責に対して悔い改める、と理解されている。所謂「罪の悔い改め」で、カトリックで言えば「懺悔」になるのかな。

しかしイエスの宣教において「悔い改めよ。神の国は近づいた。」と言う時、それは個人的な罪の悔い改め以上のニュアンスがある。少なくともその可能性がある。

それは「方向転換」と言うニュアンスでなされた。
イエスは、ローマの支配に武力を持って抵抗するユダヤ人(特にサウロのような国粋主義的パリサイ派の中のシャメアイ・グループのような急進派)に対して「メタノイア」と方向転換を迫ったのだ。(山上の垂訓における「愛敵の教え」も同様のニュアンスで捉えることができる)。

3.11、東日本大震災、特にそのうちの東京電力福島第一原発事故は、この国にメタノイアを突きつける深刻な意味を持つものであると思う。
政府・産・官・学が一体となって推進してきた原子力エネルギー政策が大きな岐路に立たされている。そういう重大な方向転換の時であるという受け止め方が要請されている。

この巨大な推進力に抗ってきた僅かな識者や市民グループが今ネット上では注目をされている。しかしマスメディアを牛耳る巨大な推進力は「原子力は安全」神話で彼らの警鐘や警告を押しつぶしてきた。
この度の深刻な事故でやっと国民(の一部)が彼らの声に耳を傾け始めているような印象である。
斯く言う筆者もついぞ聞いたことがなかった。

一体これだけの「過酷事故」を起こして、政府が、電力業界が、その他これを推進してきた「原子力ムラ(飯田哲也「原子力村の解体と市民社会の再構築」参照。月刊誌『論座』からの転載のようです。)」の人々が、原子炉発電に対する根本的見直し、メタノイアをしないで済まされるだろうか。

しかしその一部がこの度の事故に対して一定の「悔い改め」を表明した。
主要メディアでは言及されるぐらいで全文掲載はされなかったようだ。
原子力行政に加担した責任ある人たちの連名での謝罪文として一読の価値がある。
筆者も原発問題に対して無関心であったことを悔い改めて日々学習の毎日であるが、この文章、「福島原発に関する緊急建言」を、Peace Philosophy Centre と言うNGOに行き当たって読むことが出来たのだが、以下に紹介する。(是非この提言を出すよう進言した安斎育郎さんの文章も共にお読みいただきたい。リンク

福島原発事故についての緊急建言

はじめに、原子力の平和利用を先頭だって進めて来た者として、今回の事故を極めて遺憾に思うと同時に国民に深く陳謝いたします。

私達は、事故の発生当初から速やかな事故の終息を願いつつ、事故の推移を固唾を呑んで見守ってきた。しかし、事態は次々と悪化し、今日に至るも事故を終 息させる見通しが得られていない状況である。既に、各原子炉や使用済燃料プールの燃料の多くは、破損あるいは溶融し、燃料内の膨大な放射性物質は、圧力容 器や格納容器内に拡散・分布し、その一部は環境に放出され、現在も放出され続けている。

特に懸念されることは、溶融炉心が時間とともに、圧力容器を溶かし、格納容器に移り、さらに格納容器の放射能の閉じ込め機能を破壊することや、圧力容器 内で生成された大量の水素ガスの火災・爆発による格納容器の破壊などによる広範で深刻な放射能汚染の可能性を排除できないことである。

こうした深刻な事態を回避するためには、一刻も早く電源と冷却システムを回復させ、原子炉や使用済燃料プールを継続して冷却する機能を回復させることが 唯一の方法である。現場は、このために必死の努力を継続しているものと承知しているが、極めて高い放射線量による過酷な環境が障害になって、復旧作業が遅 れ、現場作業者の被ばく線量の増加をもたらしている。

こうした中で、度重なる水素爆発、使用済燃料プールの水位低下、相次ぐ火災、作業者の被ばく事故、極めて高い放射能レベルのもつ冷却水の大量の漏洩、放射能分析データの誤りなど、次々と様々な障害が起り、本格的な冷却システムの回復の見通しが立たない状況にある。

一方、環境に広く放出された放射能は、現時点で一般住民の健康に影響が及ぶレベルではないとは云え、既に国民生活や社会活動に大きな不安と影響を与えて いる。さらに、事故の終息については全く見通しがないとはいえ、住民避難に対する対策は極めて重要な課題であり、復帰も含めた放射線・放射能対策の検討も 急ぐ必要がある。

福島原発事故は極めて深刻な状況にある。更なる大量の放射能放出があれば避難地域にとどまらず、さらに広範な地域での生活が困難になることも予測され、一東京電力だけの事故でなく、既に国家的な事件というべき事態に直面している。

当面なすべきことは、原子炉及び使用済核燃料プール内の燃料の冷却状況を安定させ、内部に蓄積されている大量の放射能を閉じ込めることであり、また、サ イト内に漏出した放射能塵や高レベルの放射能水が環境に放散することを極力抑えることである。これを達成することは極めて困難な仕事であるが、これを達成 できなければ事故の終息は覚束ない。

さらに、原子炉内の核燃料、放射能の後始末は、極めて困難で、かつ極めて長期の取組みとなることから、当面の危機を乗り越えた後は、継続的な放射能の漏 洩を防ぐための密閉管理が必要となる。ただし、この場合でも、原子炉内からは放射線分解によって水素ガスが出続けるので、万が一にも水素爆発を起こさない 手立てが必要である。 

事態をこれ以上悪化させずに、当面の難局を乗り切り、長期的に危機を増大させないためには、原子力安全委員会、原子力安全・保安院、関係省庁に加えて、 日本原子力研究開発機構、放射線医学総合研究所、産業界、大学等を結集し、我が国がもつ専門的英知と経験を組織的、機動的に活用しつつ、総合的かつ戦略的 な取組みが必須である。

私達は、国を挙げた福島原発事故に対処する強力な体制を緊急に構築することを強く政府に求めるものである。

平成23年3月30日

青木 芳朗   元原子力安全委員
石野 栞     東京大学名誉教授
木村 逸郎   京都大学名誉教授
齋藤 伸三   元原子力委員長代理、元日本原子力学会会長
佐藤 一男  元原子力安全委員長
柴田 徳思   学術会議連携会員、基礎医学・総合工学委員会合同 放射線の利用に伴う課題検討分科会委員長
住田 健二   元原子力安全委員会委員長代理、元日本原子力学会会長
関本 博    東京工業大学名誉教授
田中 俊一   前原子力委員会委員長代理、元日本原子力学会会長
長瀧 重信   元放射線影響研究所理事長
永宮 正治   学術会議会員、日本物理学会会長
成合 英樹   元日本原子力学会会長、前原子力安全基盤機構理事長
広瀬 崇子   前原子力委員、学術会議会員
松浦祥次郎   元原子力安全委員長
松原 純子   元原子力安全委員会委員長代理
諸葛 宗男   東京大学公共政策大学院特任教授
このような文章が、これまで反原発の立場で研究や啓蒙活動を続けてきた少数の識者からではなく、推進してきた側の立場からの発言として重く見る必要がある。
危機的現状の把握も概ね反原発の立場の識者の見方に近い。

既に紹介した「小出裕章」「広河隆一」「広瀬隆」らのビデオの他にお奨めは以下のビデオ。
落ち着いた語調でことの重大さ、深刻さを伝えている。
2時間ぶっ通しの講演と質疑応答で、トータル2時間半くらいだが、是非「メタノイア」の状況に私たちが立ち会っていることをよく自覚して見てもらいたい。

藤田祐幸2011年4月9日湯布院講演「今、福島原発でなにがおきているのか」

2011年4月13日水曜日

ロブ・ベル「ラブ・ウインズ」

東日本大震災後、数えてみたら10本くらいこのことについてポストしてきたようだ。

ちょっと一回区切りをつけて全然違う話題について。

アメリカの若手牧師でロブ・ベルという名前を聞いたことがあるだろうか。
筆者も別に詳しいわけではないが、福音派の中でも保守的な神学について行けなくなった世代的に若いキリスト者を大雑把に括るレッテルに《イマージェント》と言う運動がある。

イマージェントを代表するような牧師として例えばブライアン・マクラーレンがいる。
まっ余り日本では紹介されていないのでそれほど詳しく述べても意味がなかろうと思うので、この場ではイマージェントと言うレッテルで自分たちを紹介し、又他のグループから同じレッテルを貼られる、そのような棲み分けが現在アメリカの広義福音主義キリスト教の中にある、とだけ言っておこう。

さて、そのイマージェントの一人と目されるロブ・ベル・牧師が「ラブ・ウインズ(Rob Bell, Love Wins: A Book about Heaven, Hell and the Fate of Every Person Who Ever Lived.)」と言う本を著した。

実はこの本が出版される前から大論争を巻き起こし、それだけで売り上げを格段に伸ばしたかもしれない。
筆者は手に取って読んでいないので外野からの眺めだが、主に論争の焦点となっているのは、ベル牧師の「地獄観」がユニバーサリズム(普遍救済説)になるのではないか、とのことである。

保守的な立場からこの本の内容について執拗に追求しているブログとしてはデニー・バーク氏がいる。(彼のブログの2/26記事くらいから現在に至るまで何回も取り上げている。)

大体神学的に一致団結しているバプテスト神学校校長のアルバート・モラーや、このような神学論争では近い立場のジョン・パイパー牧師(彼はイマージェントの牧師たちに否定的な見方を持っている)やジャスティン・テイラーなとが盛んにベル牧師とその著書を槍玉に挙げているようだ。

もう少し穏健で、イマージェントに一定の理解を持つジーザス・クリードのスコット・マクナイト教授はブログ上でこの本について連載記事を書いている。(現在進行中。4/13は第六回目のポスト)

3月14日の「クリスチャニティー・トゥデー・コム」にもマーク・ガリがRob Bell's Bridge Too Far: The controversial pastor raises crucial questions, but offers answers that may sabotage his goals.
と言う趣旨の記事を書いている。

大震災関係の記事を書くためこれらのポストには殆んど目を通していないので非常に雑駁な感想しか書けないが、筆者としてはベル牧師がイエスの宣教メッセージあるいは宣教スタイルを本質的に性格付けるのは「愛」であり、「地獄の火」で心理的に恐怖に陥れるような福音提示はイエスの福音に相応しくない、と主張しているのだと思う。
次にここが反論者の気になるところなのだが、そのような地獄を中心に置く様な福音伝達は結局人々は耳を貸さない、宣教的に非生産的だ、と言う二次的な主張も含んでいるようなのである。
この辺を「文化に迎合的で、正統的神学を妥協する」様に見られる面ではないかと思う。

ベル牧師がユニバーサリズムの立場に結果的に立つのかどうか、と言う微妙な神学的問題については筆者にはコメントしようがないが、彼が、そして「ラブ・ウインズ」が、福音主義保守派とイマージェント世代のキリスト者の溝を深める可能性はかなりあるように思う。

2011年4月11日月曜日

危機における情報管理

東日本大震災から一ヶ月。
今日も大きな余震があった。


今回の震災、特に原発事故に関する政府、原子力安全保安院の情報開示の仕方についての疑問。

どっちが国民の「安全・安心」に配慮した情報開示なのか。
①国民を不安に陥れないように、事故の確実な情報がきちんと整理されて報告されるまでは「分からない」としておく仕方。
②想定される危険を適切な範囲で可能な限り速やかに、予断を含んだ見通しも合わせて逐一開示する仕方。

今回政府官邸が取った仕方は①であった。
その姿勢は保安院の中村審議官が事故の翌日に「溶融の可能性もある」との発表を嫌って更迭した、との記事があるようだが、そうだとすると隠蔽とまでは言えなくとも、如何に国民の間にパニックが起こるのを恐れて情報を制御しようとしたかの表れと見える。

現在溶融進行停止策は一進一退であり、最悪のシナリオだと水蒸気爆発によりこれまでとは桁違いの量の放射能が空中に放出される可能性が考えられる、と言う。(京大、小出裕章助教、「福島原発で再臨界の疑いが濃厚に」

安全対策として適切なのは、
①過剰な反応を起こさないようにし、現れた事象に対応してその都度適切な安全対処をするのか、それとも
②予め可能性のある最悪の事態に対応して準備し、事象の危険度が低くなるにつれて避難・退避の指示、警告、勧告を解除していくのか。

どっちの方法が今回の原発事故に相応しいのだろうか。

そのことを今考えている。

政府は現在①を取っている。原発からの退避も最初は数キロ圏内から次第に20キロ、30キロ、そして同心円ではなく、風向きなどで放射線量が変化することを考慮するものに変化してきた。

放射線被曝の危険について十分な知識もなく、政府(お上)の指示に従順に従う国民性の国では、日本政府の取っている方法は「徒に危険を意識させない」と言うことではパニック回避として合っているのかもしれない。

自分の安全は自分でなるべく守る・・・と言う国民性の国の場合は、はっきりと客観的危険性についての情報を開示される方が合っているのかもしれない。

それで現下の危機に関して筆者が感じることは、これまでの「原子力安全神話」をかなり刷り込んできた経緯を顧慮すると、最悪のシナリオに沿った危機管理をするのは困難ではないか、と言うことである。
ただ自分で情報を利用し的確な危険回避行動を個人で取れる人には、現在の政府の情報開示の仕方は不十分と言わざるを得ない。

しかし、どちらにしても、政府は国民の人命を第一にした危険回避対策を採ってほしいと思うのである。国民もお上任せにしないで必要な情報や知識を積極的に取り入れる姿勢が必要ではないか。

2011年4月9日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

4月10日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 3:1-29
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 3:28
説 教 題 「キリスト・イエスにあって一つ」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(57)
ガラテヤ人への手紙(45)
・3:23-29 一つの信仰、一つの民

2011年4月8日金曜日

地震と原発

原発についてのポストが連続している。
これで三本目だ。

今回の「東北大震災」は地震と津波と原発事故の三重災害だったといえる。
しかし自然災害である地震と津波の人的・物的被害は仮に「想定外」であったとしても、原発事故に関しては同列に論じられない様々な人為的災害の面が露になったと言って良いと思う。

①東京電力福島第一原発は震災の被害者か
確かに設備等が被災し、事故処理のために東電社員や自衛隊員、消防隊員など多くの人命を危険に晒した意味ではそうだ。
しかし広域な地震・津波被害の救援を国家レベルで立ち上げるべき時に、一電力施設の事故処理のためにどれだけ多くの国家的救援能力が削がれたかと思うと、過剰なアンバランスを思わざるを得ない。

これは何を物語っているだろうか。
原子力発電所のエネルギー供給能力停止の深刻性か。
当然ノーだ。
明らかに地震・津波がもたらした原子炉冷却機能喪失によるメルトダウン、放射能漏れという事態がいかに深刻か、と言うことだ。

しかしこの深刻な事態に対し東京電力も、原子力安全保安院も、政府もごく初期の段階から危機意識を持って対応したかどうか非常に疑わしい。
マスメディアのニュースに登場した識者・専門家の方々も疑わしい数値や比喩を操って正確な危機認識を国民に伝えることを阻害した可能性が強い。

私たちは当初国外退避する外国人を過剰反応のように考えていたが、むしろ原発事故の深刻性を考えると彼らの行動の方が正しい。
要するに彼らの方が放射能汚染の危険に対するより正しい認識に基づいて行動しているのであり、私たちの方が東京電力や原子力安全保安院も、政府や、マスコミのいい加減な報道にごまかされている可能性が高い。

現状を正しく把握している人は、つまり現下の危機に関する正しい認識を持っている人は、ツイッターやユーチューブなどのメディアに出ている。
少なくとも筆者の印象では、このような市井の知識人は、マスコミで「安全」の空気を醸成するようなコメントや解説をする人ではない。
それは実際に聞いたり見たりして頂けば、危機の全体構造に対する把握力や危機意識によく現れていると思う。
必見 広瀬隆、広河隆一「福島原発現地報告と『原発震災』の真実」

②原子力エネルギーは本当に必要なのか
計画停電が実施されると言われていたが(一部地域で実施されたが)、東京電力は原則実施しないことを発表した。(東京電力トップページ
京都大助教の小出裕章氏によると、原子力発電を除いた現在持っている火力、水力等発電所で十分賄えると試算している。(小出裕章「原発なくても電力足りてる」
つまり「絶対的に危険な原子力発電」に依存しなければならない客観的状況にはない。

原子力発電は「産・官・学」が共同で推進してきたもので、決して国民全体の「インフォームド・コンセント」のもとに継続されているものではない。
私たち国民は原子力発電の危険に対する正確な知識を提供してもらう代わりに、「安全神話」を信じ込まされてきたように思う。
原発事故は既に何回も経験しているが、結局今度の大惨事が起こるまで原発の危険性に対する国民的議論は起こらなかった。

今はまだ危機進行中だが原発の是非を国民的議論として問うべき機会ではないか。

巨大地震が近未来に来るとの予測に対して国民的な自覚があると思えるのに、なぜ同じ国民がそのような地震国に多くの原子力発電所を稼動させているのを許容しているのだろうか。
今こそ冷静に原子力発電所が本当に必要なのかどうか、増え続ける使用済み核燃料処理施設を一地方行政体に押し付けるようなあり方で良いのかどうか、本当に原発のリスクを国民全体で背負う覚悟があるのかどうか、深く考えてみる時が来ている。

2011年4月6日水曜日

安全の構築

先ポスト「原発問題とどう向きあうのか」の続きのようなものです。

その文章で「使用済み核燃料の管理の問題」が一番引っかかる、と書きました。
もともと科学的知識が足りないので、今回の東京電力福島第一原発事故に端を発した「放射能汚染危機」が時間を追ってどの程度深刻になっているかの客観的な判断も出来ません。
ただ原発の「安全」というものが実際にどのように担保されていたのか、という事の脆弱性は自然災害(地震、津波)と人為的対応(危機の深刻さの把握、初動対応の遅れ、地域住民に対する安全確保、など)の両面で十分目の当たりにしたように思います。

それで改めて「安全の構築」と言うことを考えてみました。
文部科学省による「『安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に関する懇談会』報告書」と言うものがあります。
この報告書は、社会を脅かす様々な危険・災害・リスクに対して科学技術的見地からどう言う施策ができるかを分析検討しています。
一応目を通してみましたが、十分常識的で包括的な視野で検討されていると思いました。

原発事故はどのような位置づけになっているかと言うと、『大分類』中の『事故』に分類され、『中分類』 中の一つとして「原子力発電所の事故」となっています。(分類表
ちなみに同列に置かれている「事故」には、「交通事故」「公共交通機関の事故」「火災」「化学プラント等の工場事故」などがあります。

『報告書』の第一章「検討の背景と目的」では以下のようなことが述べられている。
(2)安全・安心に関する我が国のこれまでの状況
安全・安心に関して、我が国がこれまでどういった状況であったかについて考えてみたい。
まず、総論として、我が国では社会生活一般において、安全について深く考えなくとも、一定レベルの安全・安心が得られてきたことが挙げられる。これは、 同質性、相互扶助の精神といった日本社会の特性、戦後獲得した高い経済力や比較的小さな所得格差、国際的協調の枠組み等の恩恵であろう。
次に、安全・安心に対する国民の受け止め方については、ある程度の安全が得られてきたことを背景に、安全は自ら努力せずとも与えられるという受動的な態度と、災害や事故に遭遇してもそれは運命もしくは宿命であり、やり過ごせば自然と復旧するといった「宿命論」ともいうべき考え方が歴史的に存在する。この ような安全への受動的な態度と危機に対する「宿命論」的な考え方が妨げとなって、訪れた危機への対応を経験として蓄積し防止策を見直す、危機に対して2 重・3重に防御策を講じる、といった危機管理体制が我が国には根付きにくくなっている
この観察が現在の危機をどれだけ正確に描写しているだろうか。
放射能汚染の拡散が報じられた時、在日外国人が急遽国外退去したり、遠隔地に退避したりしたのに対して、日本人の多くは不安を持ちながらも極めて受動的だった、と言えるのではないか。そういう点では結構当たっている様に思う。

この『報告書』に関し、牧師と言う「一宗教家」として興味を持ったのは「安全」「安心」がどう定義されているか、であった。
1 安全とは 
安全とは、人とその共同体への損傷、ならびに人、組織、公共の所有物に損害がないと客観的に判断されることである。ここでいう所有物には無形のものも含む。
1安心について 
安心については、個人の主観的な判断に大きく依存するものである。当懇談会では安心について、人が知識・経験を通じて予測している状況と大きく異なる状況にならないと信じていること、自分が予想していないことは起きないと信じ何かあったとしても受容できると信じていること、といった見方が挙げられた。
さて今回の東京電力福島第一原発事故の場合この定義から言うとどうなるだろう。

①『安全』の破られ方
原発は発電所設備の損壊は勿論、人的、環境的、また東京電力という大会社の信用と言った無形のものも含む。しかし最も大きな損傷は「原子力発電によるエネルギー政策に対する根本的疑義」と言う政治社会システムへの損傷だろう。
現在の危機がいつ収束するか不明だが、「原発はクリーンで安全なエネルギー」と言う社会的信頼は大きく揺らいだ。今後根本的な見直しは必至だろう。

②『安心』の破られ方
放射線漏れによる「大気汚染」「水道水汚染」「野菜・魚など食品汚染」に対する安心の度合いは人によって幅があるみたいだ。過剰に(?)に反応する人もいれば、普段使われない数値で「安全」範囲を言われてもよく理解できないので、一応(?)政府や専門機関の指導・指示を信じている人も多い。ただ異なる様々な「安全」「危険」情報に対する反応を見ていると非常に揺れていて、不安が拡大・拡散する可能性はあるように思う。
ツイッターと言う限られた社会空間での観察だが、これだけの大災害が及ぼした心理的動揺はかなり長い期間収束しないと推測される。

他人事のようなポストになってしまったが、「安心立命」を担うべき宗教者の連携・ネットワークはかなり限定的に見える。
キリスト者として被災者の痛みを幾分かでも分かち合いつつ、先ずなすべきことは祈りとみことばの宣教と思う。たとえそれが内向きで無力な行為に見えても。



2011年4月4日月曜日

原発問題とどう向き合うのか

現在進行中の危機、東京電力福島第一原発の問題は、原子力発電が一旦「想定外」の事故を起こした時、どこまで深刻化するかを見せつけている。

筆者は原発推進論者でも原発反対論者でもない。
ただ直観的に「原発はもう要らない、安全ではない」と思ってきた。
たまたま遺産として譲り受けた東京電力株の株主総会で、マイノリティーの「原発反対グループ」の対案に賛成票を投じてきたことくらいがせめてもの意思表示であった。

現在深刻化する問題の中で多くの国民は「原発」に対しこれまでにない恐れと不安を抱いていると思う。
近年報道された原子炉事故は幾つかあるが、人々の危惧は一過性でしばらくすると関心から消えて行ったように思う。
しかし今回は未曾有の自然災害と同時並行で深刻な事態となったため、国民の原発に向ける厳しい目は一気に沸騰した観がある。当然といえば当然だが。

東日本大震災以来毎日目を通すツイート(ツイッターのメッセージ)は日増しに原発に関するものに集中してきているような感じがしている。(筆者がフォーローしている数はほんの少しなのでその印象は限られたものだが。)

毎日これを読め、あれを読め、新たな放射線測定値だ、東電の会見の様子だ、などなど。
なるべく目を通すようにしているが、改めて「原発問題とどう向き合うのか」を考えさせられている。
直感的には「ノーモア原発」なのだが、政治的選択としてはどうなのか。今回の事故による政権及び東京電力の不始末、対応のまずさ、処理能力のなさだけで決めてしまっていいのだろうか。

既に結論ありきとしても冷静に考えて検証しておくべきことが沢山あるのではないか。
そういうものを一つ一つ拾いながら「改めて考えていく」ことが求められているのではないだろうか。

①「安全」という“ことば”を具体的に担保するものは何か
原子力の平和利用としてその危険を認識しながら構築されたとする二重三重の安全対策はどうだったのか。
「東京電力福島第一原発の何が問題だったのか」
「福島原発は欠陥工事だらけ」
「原発がどんなものか知ってほしい」
「(動画)原子力保安院の大ウソ暴露(関東エリア未放送)
これらの文書やビデオが総じて指摘するのは、安全を保障し監視する側の「ことば」「設計」「手続き」「約束事」が机上のものであるということ。
実際は高レベルに複雑な施設を施工管理し運営するにあたって人為的なミスが当然の如く起こるが、それを修正したり改善したりするシステムが脆弱らしいということ。

②原発は民主政治の政治的選択の対象なのか
例えばツイートの中にこんな提言があった。
「現下東京電力の株価は449円。100株買って株主総会で原発推進をストップさせることも夢じゃない」
「原発を国民投票に」

ドイツでは原発推進反対デモに25万人が参加したという。(ウイキ
日本の現状を考えると、今回の事故で情報開示が不十分と感じられる背景には、原発が国家と電力会社の専権事項的な意識が強いのではないか。
民主的な統治の対象として構想されていないことがあるのではないか。

③最も気になること
今回の事故で改めて思い知らされる事となった事実の中で最も気になったのは多量の使用済み核燃料の管理の問題。
これは国債を発行して赤字財政を継続し、結果として多額の債務を後々の世代に負わせることと似ている。
東京で賄う電力を他県の過疎地で調達し、原発の危険をひとまかせにすること自体問題だが、使用済み核燃料処理がちゃんとできるかどうかの確認は現在電力の恩恵を受けている私たち世代では検証できないほど先のことである、という問題。これが最も引っかかる。
原発をたとえ今安全に運転できたとしても、その後始末まで自分たちで保障できないエネルギー技術は持続可能(サスティナブル)なのか・・・。

原子力の科学技術と真摯に取り組んでおられる方々は多いと思う。
今回の事故でも独自に大気中の放射能測定して発表してくれた研究機関の方々がおられた。
だから今回の問題の根幹は国のエネルギー政策という事になるのだろう。
国民一人ひとりが原子力に対する正しい科学的知識を持ち、果たしてその平和利用の範囲はどこまでか、と叡智を集めるときではないか。

以上科学的知識に乏しい一市民の戸惑いつつ感じたことをまとめてみた。

2011年4月2日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

4月3日 午前10時30分

説教箇所 ルカの福音書 1:1-11
説 教 題 「あなたがたは力を受けます」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《聖霊と教会》②

2011年4月1日金曜日

佐藤優「キリスト教神学概論」②

一回目に断ったように、軽いジャブ程度の扱いで、ちゃんとした神学的論評ではありません。ゆるーく読んでください。

今回は、
第3回 「神の場所(3)-イエス・キリストとは誰か」
第4回 「神の場所(4)-日本のキリスト教」
第5回 「神の場所(5)-神はどこにいるのか」
第6回 「神の場所(6)-「救い」とは何か」
をカバーします。
(ウェッブサイトはここ。後はページ末の「次へ」をクリック。)

第3回 「神の場所(3)-イエス・キリストとは誰か」
ちなみに、イエス自身は、自らをキリスト教の創唱者とは考えていませんでした。あくまでも忠実なユダヤ教徒と考えていました。・・・
キリスト教の創設者は、パウロです。パウロは、生前にイエスと会ったことは一度もありません。むしろ、キリスト教徒を弾圧する側にいたのですが、回心して、イエスを教祖とするキリスト教という宗教を創るのです。
それから、イエスは知識人ではありません。・・・しかし、類まれな洞察力をもっていました。そして、その洞察力によって「神の子」であることを自覚したのです。
キリスト教の創始者をパウロとするのはリベラルな学者では昔よくあったことらしいが、今でもそんな単純な見方が通用するのか定かではない。
佐藤氏はここで少し混乱している。イエス自身の自己認識が「忠実なユダヤ教徒」であるのか、それともメシヤニックな意味でか、神的な意味でか、「神の子」と自己を捉えたのか、二つの自己認識の間には大分開きがある。

イエスの自己認識は「忠実なユダヤ教徒」だけであるとすると、12弟子を召し、預言者的なわざ(癒し、悪霊の追い出し、など)を行い、「権威ある教え」で師と呼ばれ、最後エルサレムで預言者的言辞を残し、ロバの子に乗って入城し、“宮清め”をし、オリブ講話を残し、「ユダヤ人の王」として十字架に処刑されたことを記す福音書は福音書記者の創作、と言うことにならないか。

第4回 「神の場所(4)-日本のキリスト教」
いくつかの偶然が重なり、プロテスタンティズムの主流派は啓蒙主義をうまく取り込みました。その結果、自由主義的プロテスタンティズムというものが生まれます。・・・日本に入って来たプロテスタンティズムは、このような自由主義的プロテスタンティズムなのです。
筆者の印象では、明治初期に入ってきたプロテスタンティズムは正統的かあるいはただ正統的だけでなくピューリタン的な色合いの濃いものであった。まっ余り詳しい知識はないので深入りはしない。

第5回 「神の場所(5)-神はどこにいるのか」
信仰と歴史的実証は、基本的に別の問題です。私は、一人のキリスト教徒として、1世紀始めにイエスという男がいたと信じています。しかし、それが実証されないということならば、そのことはそれで率直に認めなくてはなりません。その上で、イエスが語ったこと、行ったことの意味を見極めます。私にとって重要なのは、イエスが救済主(キリスト)であるという「物語」なのです。
ここにはブルトマン以降取られた、「歴史のイエス」と「信仰のキリスト」に分離し、その上で多分実存主義的なケーリュグマ的メッセージへの傾斜が見られると思う。

第6回 「神の場所(6)-「救い」とは何か」
 では、「救済」、「救われる」とはどういうことなのでしょうか。これは一種のトートロジー(同語反復)になりますが、キリスト教の表象からすると、終わりの日に永遠の命が得られる、という考え方です。・・・仏教では対照的に、これは輪廻転生の世界から永遠に抜け出せないような、迷いの極めつきの状態です。
ただし、現在は救いに向けた中間時なので、最後の救いの瞬間になるまで、われわれには具体的な像はわからないのです。そうすると、最後の瞬間に火に焼かれず、保全されるほうのリストに自分が選ばれているという確信を持つことこそが「救い」です。キリスト教の内在的論理だと、そうなります。
これを受け入れるかどうかは、究極的には各人の趣味の問題です。キリスト教のように有の論理を取るか、仏教のように無の論理もしくは空の論理を取るかという立場設定の問題なのです。つまり、どちらが正しいかを争っても意味はありません
 客観的に二つの見方の真理性を判断する土俵がないので、つまり「キリスト教の救い」と「仏教の輪廻転生観」は比較のしようがないのでどちらを選択するかは、各人の「趣味」と言うことか・・・。趣味ということばちょと軽いと思うが、言わんとすることは分かる。

でも「イエスが救い主であるということを、あれこれと手を変え品を変え説明することが神学の仕事なのです。」と言うのであれば、キリスト教神学概論を書く立場として、一キリスト者として、「仏教の世界観には救済がない」と弁証する必要があるのではないか。
もし争わないと言うのであれば、それぞれ固有の宗教的世界観を多元主義的に承認する立場を取っていることになるのではないか。

仏教には大乗仏教と小乗仏教があるが、佐藤氏のキリスト教は「小乗キリスト教」的立場からの救済観で、恐らく「宣教」と言うモメントは出てこないように見受けられる。

(※では又別な機会に続きを・・・。)