しかし新約聖書はその出来事を多様に描写している。
ほ殆んど解釈なく事象的な描写もあれば、神学的解釈、しかも濃密なものまで。
以下に、ジョージ・B・ケアードが「聖書の言語と表象」で抜粋したものを掲げる。
受難週に「イエスの死を」瞑想するのにも良いと思う。
①マルコ15:37
しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。②使徒の働き2:23
このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。③Ⅰコリント15:3
すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、④マルコ10:45
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。⑤ローマ8:32
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか⑥ルカ22:37
言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。⑦Ⅰコリント5:7
いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。⑧Ⅰペテロ1:19-20
きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。⑨コロサイ2:15
そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。⑩ガラテヤ2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
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