2011年4月27日水曜日

「安全神話の崩壊」?

3.11以来「安全神話の崩壊」という言い方がよくされる。

地震対策、津波対策等は過去の経験に照らしてそれなりの「安全の構築」がなされてきたはずだった。
建築物の耐震強化や、防潮堤の造成、避難訓練など。
しかし3.11の津波はやすやすと「安全の壁」を破って甚大な損壊をもたらした。
「想定外」と言えばそうだ。
ただ明治三陸津波まで遡れば経験値(知)としてはあったのだ。
だから人々は3.11の地震や津波に対しては「安全神話の崩壊」は余り言わない。

「安全神話の崩壊」が最もよく使われるのは東京電力福島第一原発事故に対してだ。
しかし事故の徹底的な検証がなされるまでは、このような物言いがどれだけ「3.11原発事故の全体像」をついた表現かどうか良く分からない面があるのではないか。

①「神話」と言う語感について
神話と言う語はこのような文脈で使われる時は、「作り事」「絵空事」のような語感がある。最も厳しくみれば「虚偽」だろう。
特に今回もそうだが「安全」はタテマエで、実際に事故などが起こると事実を出来るだけ隠蔽したり、事故の深刻度を出来るだけ軽微に見せようとしたりしてタテマエである「安全」を維持しようとする。

②原発の安全性とは
『原発への警鐘』(1982年)の著者、評論家の内橋克人氏によれば原発の「安全神話」とは、原発を国民に受け入れさせる「PA(public acceptance)戦略」であったと言う。(「原発安全神話」
このPA戦略がどんな方策を用いたかと言うと、
・電気事業連合会が行ってきた言論に対する抗議戦略
・小学校低学年から中学・高校までエネルギー環境教育という名の原発是認教育を授業として実施
・有名文化人を起用していかに原発は安全かを語らせるパブリシティ記事をメディアを使って展開
だと指摘する。

こうしてみると、原発の「安全神話」とは国策としての原発を国民に浸透させるための一大プロパガンダに位置づけられることになる。

少し比較するのもなんだが第二次大戦に突き進む国家政策を髣髴とさせる。

暴力的・威圧的な言論統制こそ用いないが、民主国家にあって取れるメディア戦略、世論誘導を可能な限り強力に推し進めた結果国民に浸透した「安全神話」と言うことになってくる。

第二次大戦中は「皇国史観」「現人神」や「神風」のようなより神話的に素朴な言説で国民を誘導したわけだが、原発国策では「クリーンで安全」と言う科学技術に対する信頼を醸成するより世俗的言説が国民に根付いたと見られる。

第二次大戦突入時、一部の識者は客観的に見て勝ち目がないことが分かりながら大っぴらな反戦言論を展開できず、沈黙しなければならなかった。
そして敗戦の事実によって「皇国神話」は倒壊転覆し、戦争をリードした識者も含めて国民はあっという間に民主主義に転向した。

では原発「安全神話」はどうか。
福島第一原発の苛酷事故は敗戦のように「安全神話」を崩壊させたか。
3.11後の地方選挙の結果を見る限りまだ崩壊したとまでは言えないだろう。
多くの国民が疑義を抱き始めた、とは言える。

第二次大戦時のプロパガンダ対策との比較もこのくらいが限度だろうか。

現在各地の放射線量が毎日テレビや新聞で報道されている。
ある種の「非常時」を実感させるものではある。

しかし「安全神話」では披露されなかった、想定される原発事故時の対処に必要とされる科学的知識(被曝線量の閾値、外部被曝と内部被曝の違い、放射能の拡散に伴う避難対策など)に関して国民は遅ればせながら自ら学習しつつある。

原発推進勢力の「安全」言説や政府によるパニック鎮静言説(「直ちに健康に影響のある値ではない」etc.)など錯綜する情報空間の中で、国民は「どの程度なら安全なのか」と言うより現実的で相対的な「安全」認識に向かっている、と言えるのではなかろうか。

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