2010年8月31日火曜日

無神論

現在活躍中の著名な無神論者ご存知ですか?

日本で沢山の訳書がある神学者のアリスター・マグラスが近年対談した相手、リチャード・ドーキンスなどはその筆頭でしょう。(「ドーキンス対マグラス、パート1」)
その他、良く名前を聞くのが、クリストファー・ヒッチェンスや、少々古いですが、マデリン・オヘアー女史など。

近世ヨーロッパでは、啓蒙主義が覇権を握り、科学興隆後はキリスト教信仰を始め宗教は没落する、と言う世俗化論が一般的でした。
この見方では無神論が増々市民権を強めるはずでした。
しかしポストモダンの文化状況で既成宗教は弱体化を示していますが、広範なスピリチュアリティーへの関心は高まるばかりのようです。

ドーキンスのような攻撃的無神論者はこの状況に大分いらだっているようです。

さて、筆者はツィッターを始めてから、色々な人をフォローしてますが、その中に無神論者を名乗る方がいます。
沢山ツイートをする人で、ユーモアとウィットも感ずる人で、面白く読ませていただいています。
でも信仰者には手厳しい、と言うか毒舌っぽく聞こえるのは致し方ないですね。

昨日、やはりツイッターの情報から、30代くらいの男性が「無神論者は増えている」と言う記事を読みました。(「セキュラー・ヒューマニズムの将来は明るい」
記者のお国はアメリカだと思いますが、20代から30代の若い人たちの中に増えている、と言う報告をしていました。
キリスト教国アメリカで肩身狭い思いをしてきた無神論者が気軽に“カミングアウト”出来る状況になっていると報告していました。

このような「宗教者(神の存在を信ずる人)」対「無神論者(神の存在を否定する人)」の構図は、日本には少し縁遠い感じがします。
そもそも「神論」が盛んではないからです。
日本では「無宗教」で事足ります。敢えて論ずるまで関心が無いように見えます。

筆者が多くのことを学ばせていただいている、カナダの哲学者・社会学者、チャールズ・テイラーは、先ほど掲げたような単純な世俗化論ではなく、ポストモダンの文化状況では、宗教者も、一定の枠に収まらないスピリチュアリティー関心者も、そして無心論者も、市民社会で共存するような社会が到来していることを、著書「世俗化時代(A Secular Age)」で分析しています。

異宗教間対話も難しいですが、無神論者との対話も今後必要になってくると思います。
日本においては無宗教と言う、その獏とした宗教性をお持ちの方々との対話と言う、また次元の違った難しさもあります。

イエスかノーかの議論ではなく、なぜそのように考え、そのように行動するのか、相手の懐を理解しようと言う意思から始めなければならないでしょう。

宗教者が自分の蛸壺の中で自己の宗教を実践する時代から、市民的対話、市民社会、へと開放されていく時代が来ているのではないでしょうか。

2010年8月30日月曜日

ブログとは何か

最近はツイッターの方が話題になっているようです。

筆者がツイッターを始めたのはつい二ヶ月前です。最近ようやく「ついっぷる」というアプリでリツイートにコメントするのを覚えたり、ネットアドレス、URLを短縮するアプリを知ったり、まだ使ったことはありませんが、「ツイットピック」と言う簡単にツィッターで画像を添付するアプリがあるのを知ったり・・・、まさにまだノーヴィスとしては、ツイッターの世界は筆者にとってワンダーランドです。

さて同時期に開始したブログですが、こともあろうに、O型の筆者がほぼ連日ブログをポストしています。(血液型と性格の関係については本ブログに『性格と品性』と言うタイトルでポストしました。)

これは予想もしなかった夏の珍事です。

そんなに毎日書くこと無いだろうと思ってはいるのですが、PCに向かい、少し気持ちを向けると、何かしら書くことを思いつきます。

牧師ですから、放っておくと信仰とか教会とか、宗教的な話題になってしまうかと思いきや、そうでもありません。トピックが似たり寄ったりにならないよう少し自制していますが・・・。

さて筆者にとって「ブログとは何か」

「大和郷にある教会」のタイトルが示すように、主に教会を紹介したり、教会とその回りにある社会(世間)とのインターフェイスを目指しています。

ですからトピックは一方で社会にある「教会」の自己確認です。
『福音』『伝道』などのラベルのついたポストは、そのような意味合いで書かれています。

もう一方で、個人のブログにとって一般的トピックである『身辺雑記』のようなポストも織り交ぜています。

教会の身辺雑記より、牧師個人の身辺雑記の方が多いかもしれませんが、この辺はうまくバランスを取っていかなければなりません。

木工に関するポストは、そう言う訳で、筆者のパーソナルな『身辺雑記』の一部です。

ブログを始めて二ヶ月経とうとしていますが、他のブログにも“遊びに行く”ようになりました。
つい先日は、かの有名な『はちことぼぼるの日記』ブログにお邪魔して、初コメントを残したら、丁寧なご返事と、『NTライト読書会』をブログリストに掲載していただく、と言うお土産まで頂戴しました。

キリスト者間の交流としてはこれも益なのですが、筆者はツイッターでクリスチャン同士の相互フォローがかなり高い印象を受けていますので、もう少し雑種交流にも手を伸ばせないかと思っています。

英語ではBlogsphereという表現がありますが、徐々にブログスフィアーの『奥地』や『秘境』探検にも出かけたいなー、とまあ今のところは思いだけですが・・・。

今後も読者諸氏、よろしくお願いします。

2010年8月29日日曜日

福音書の朗読

どの教会の礼拝式でも「聖書交読」「聖書朗読」があると思います。
個人的に「デボーション」や「聖書通読」で聖書に親しんでいる場合でも、公同の礼拝で共に聖書を読んだり、聖書の朗読に耳を傾けることは大切なことです。

伝統的な教会ではその主日に読まれる聖書箇所が予め決められている場合があります。
英語でレクショナリーと言う習慣は、ある人たちにとっては退屈なものかもしれません。

長い教会の伝統から“自由に”なって礼拝を守る教会グループは、逆にその時その時聖書箇所が選ばれることになるでしょう。
これも場合によっては聖書の一部だけに偏る弊害があると言えるでしょう。

やはり教会は聖書全体を受け止める姿勢が必要だと思います。


さて「福音書の朗読」、また特定の福音書の朗読に限らず、キリスト者が旧新約聖書全体を朗読する時、どのような自覚が必要なのかを考えて見ます。

それは「実現した」と言う自覚です。
神が(旧約)聖書で約束し、預言者によって証しされていた事柄が、ナザレのイエスにおいて「実現した」と言う自覚です。

これは先ず主イエスご自身の自覚でした。
ルカ福音書4章21説によれば、イエスは会堂で、手渡された巻物(イザヤ書)の中にある「ヨベルの年の解放」を朗読された後、聴衆に対してこの御言葉があなた方の中で「実現した」と宣言されたのです。
有名な「ガリラヤ宣教マニフェスト」と呼ばれる箇所です。

イエスは神の国は、特にイザヤ書40-55章的解釈による神の国は到来した、あるいはご自身のわざにおいて到来している、と同福音書の中で主張されています。

私たちは「まだ」と言う面も承知しながら、神の国が「既に」到来した、神の約束は「実現した」、と言う自覚のもとに聖書を朗読する必要があります。

2010年8月28日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

8月29日 午前10時30分

朗読箇所 マタイの福音書 1:18-25
説 教 題 「福音書の朗読」
説 教 者 小嶋崇 牧師

聖書と朗読セミナー(4)
※礼拝は通常通り午前10時30分から。通常より短い礼拝です。
  礼拝後、用意したマタイ福音書1:18-25を使って朗読練習をします。

2010年8月27日金曜日

夏休み子供木工体験教室

昨年建物の方は一応完成した活水工房。しかし内部の建具は完成までまだ少し。

未完成ながら、一応工房は見切り発車。
木工教室の希望者には試験的に対応している。

夏休みは格別子供の宿題を何とかして欲しい親の希望もあり、今回の企画ができた。
小学生三人、どう言う訳かみな女の子。
作るものは『抽斗付き小椅子』。
殆どキット状のものを、部分的に鋸、鑿、鉋、インパクト・ドリル・ドライバーを用いて製作する。

一回目、二人組みの方は、木のパズルや、蝉の抜け殻や、に気を取られて製作が滞りがち。
一応出来て記念写真。

二回目、小学三年生の小さな女の子。最初は恐る恐る道具を扱っていたが、慣れると結構器用に作る。
こちらは一人なので一緒に遊ぶ子がいない分、木工に集中。
予想ペースを上回って完成。

夏休み課題は学校に展示されるらしい。
まあまあの出来だから、大丈夫でしょう。

みんな抽斗には何を入れるのかなー。

2010年8月26日木曜日

発声準備

あえいうえおあお
かけきくけこかこ
させしすせそさそ
・・・・
わえいうえをわを

牧師の仕事の一つ、と言うか
プロテスタントの教会では「説教」がメインである。
別に礼拝に集う人々が「説教」を聴きにやって来る、と言う意味ではない。
ただ礼拝時間に閉める説教の割合は大きい。
最近では説教が短くなる傾向だが・・・。

聴衆に声が届くための条件は幾つかある。
特に当教会のようにPAがないと、肉声で届かせなければならない。
声量、滑舌、間・・・など。

どれ一つ満足にできるものはない。
声量が足りない。
ちゃんと腹式で発声していない。
滑舌が悪い。

毎回注意されるわけではないが、自分でも少し意識して、礼拝前の時間、準備する。
冒頭のように繰り返し何回か発声してみる。
少しは違いがあるようである。

声はその場の空気を震わせて、相手の耳に届く、と言う物理的な面がある。
しかし声量だけで聞く人の心に入るわけではない。
(説教中、睡魔が襲う場合もある。)
聴衆が説教者に対して耳を傾けていると、説教者の声から微妙にその時の心理や気合を聞き取るものである。
ちょっと準備不足で自信無げだな・・・。
内容のまとまりが悪いな・・・。
力入っているな、聴き所だな・・・。
などなど。

説教はその時・その場限りの“旬”のものである。
原稿だけでない準備も必要と思うようになってきた。

2010年8月25日水曜日

酷暑

猛暑、炎暑、酷暑

どの表現がお気に入り?

「冗談もいい加減にしなさい、このくそ暑い時に!」
と、言われそうですね。
とにかく暑さが付きまとっている今日この頃、暑さを意識しないではいられません。

ちょっと昔話を一席。

米国留学開始時、先ずは語学研修から、と行った先は米国カンザス州。町の名前はピッツバーグ。
いえ鉄で有名なペンシルヴェニア州ピッツバーグではありません。

バスでピッツバーグに着いたのはちょうど真昼間。気温はまさに猛暑のレベルでした。
大学に向かって適当に勘で歩き出したまでは良かったが、何十分歩いても目的地に着きません。
もう一度バス停留所のある町の中心部に戻り、今度はちゃんと見当をつけて歩き出し、無事に大学に着くことができました。
全部で要した時間は二時間ほど。炎天下二時間の歩行は苦行でした。
でもまだ新しい地、新しい経験のスタートで緊張していたのか、それ程暑さで参るということはありませんでした。

カンザス州はアメリカのほぼ中西部に位置し、北からの冷たい気流と南からの暖かい気流がぶつかりやすい平地に位置します。
それはトロネード(竜巻)が起こりやすい土地柄、ということです。

滞在していた七月、八月は夕方になると突然空が真っ暗になり、間もなく土砂降りの雨。という毎日でした。

そんな中、八月だったか、突然サイレンが寮の建物中に響き渡りました。
全員地下室に避難しろ、と言うことでした。
ついに「トロネード警報」発令に出くわしたのです。

初めてのことで筆者はただ皆の後を追って行動するだけ。
トロネードを見たことも、被害に遭ったこともない筆者としては、ただきょとん、という感じでした。

地下室に避難すること約一時間、警報は解除されました。

今地球上で酷暑の地や、洪水の地や、異常気象にさらされているところが多くあります。

日本の炎暑被害も、熱中症による死亡者数などかなりの数に上っています。

暑さにはかないませんが、何とか被害なく過ぎこしたいものです。

2010年8月24日火曜日

求道者と究道者

改めて教会内通常用語である「求道者」という用語を考えて見ましょう。

教会に初めて来られた方が、“勝手に”自分を「求道者」と呼ばれることには違和感があると思います。普通は「新来会者」と呼ばれることと思います。
しかし「求道者」と呼ばれることに相応しい方もいます。
「信者」と「求道者」を区別する意味でなく、真にキリストを、キリストの教えを求めておられる方は、「求道者」と呼ばれるのに相応しいと思います。

新約聖書、使徒の働きには、キリストを信じる者たちの共同体を核として、このグループとの距離感で区別される者たちを「神を恐れる者たち」と呼んでいます。
未だキリスト共同体には加わらないが、ある意味親近感を持って取り巻いている者たちです。
彼らの中から共同体に加わる者たちが出てきたようです。

使徒の働きには、私たちが通常使う「クリスチャン」「キリスト者」「信者」たち、の他に次のような表現が使われています。
「ナザレ派」「道の者」
この「道の者」が「求道者」を使う上で大切な表現だと思います。

そうです。イエス・キリストを信ずることは単なる脳内決断でおしまいなのではなく、既に確立している「道」に入り、その「道」に従うことなのです。
キリスト教は単なる「教理の寄せ集め」に対して知的に同意することでは済みません。
The WAYに従う者たちなのです。

ナザレのイエスを、「メシヤ」「主」として信じるのは入り口です。
その後には弟子の道が続いているのです。
Following The Wayの者たちがキリスト者なのです。

ですから入信前の「求道者」を半人前に扱うのは正しくありません。
確かに実際に道に入る前はその予備軍ですが、姿勢においては「求道者」と呼ばれることは相応しいことなのです。

問題は求道が“持続”し、“結実”するかにあります。
その意味で「求道者」は「究道者」に移行していく必要があります。

教会が「信仰者の母」と呼ばれるに相応しいためには、教会が包括的に「道」を示しているか、実践しているか、という条件があります。

単なるその“教会の伝統”で満足してはならないでしょう。
その“教会の伝統”が真正に The WAY を反映していなければならないでしょう。

2010年8月23日月曜日

投資

無駄な投資と価値ある投資の違いは何でしょう。

筆者は大学は経済学部出身ですが、少しマルクス経済学に偏っていて、履修した科目にも原因があるのでしょうが、実体経済について勉強した憶えは殆どありません。

そんな経済音痴の筆者ですが、最近株主になりました。
いえ、上場企業の株を買い付けたとかそう言うものではありません。
新進木工家の先行投資として、僅かの出資をさせていただいた、というところです。
北欧で家具製作の訓練を受け、これから本格的な家具を製作する、と言う方です。
その方のライフスタイルも含めた木工との取り組みに、一口乗らせて頂いた感じです。

筆者自身は趣味で木工をしています。
工房も構え、木工教室も細々とやっています。
簡単な雑家具の注文にも応じます(この場でPRしているわけではありません)。
でも事業として本格的に家具製作するには、それなりの木工機械がないと無理です。経営的には成り立ちません。

趣味の木工のいいところは工作過程を楽しむことにあります。
ゆっくり木と、工具と向き合えることです。

本題に戻ります。
「無駄な投資」とは、丸っきり損をすると言う意味ではありません。
むしろ短期で投資に対するリターンを期待するやり方を、敢えて「無駄な投資」と言わせてもらいましょう。

「価値のある投資」とは、少し長いスパンで見て益が出る、実が成るような投資のことです。
この新進木工家への投資は、私にとっては「価値のある投資」です。
すぐに配当が出なくてもいいのです。
健全に事業が育ち、仕事をする人、その仲間、彼らの家族が自信を持って生業に従事できる環境が整うことが、投資の目的です。
その事業自体が、社会に対し、環境に対し、責任ある仕事が出来るようになることが、投資の目的です。
事業が繁栄し、配当金が出てくるようになったら、それはおまけのようなものです。

投資家は、配当目当てではなく、社会に貢献する事業に投資したいのです。
それが「価値ある投資」だと思います。

Sさん、ゆっくり、着実に前進してください。

2010年8月22日日曜日

私の祖先

(新約)聖書の一番最初にマタイの福音書がなかったら、聖書を読み続けるのに躓かなかったろうに・・・、とよく言われる。
ご存知のようにあの系図があるからだ。知らない人の名前がカタカナで延々と続くのである。(聖書を読み始めの人には長すぎるのだろう。せいぜい一ページ我慢するだけなのだが・・・。)

筆者の祖先と言ってもせいぜい四代前くらいまで遡れるくらいである。
躓くほど名前の数は多く出てこない。

父方の曽祖父は茨城、鹿島の出。明治期に百姓から醤油問屋に転じ、広く関東一円にその醤油を売ったと言う。
その頃はキッコーマンの前身もライバル程度であったらしい。
とにかく小嶋家においては「立志伝中の人」である。
その息子、つまり私の祖父は商才が余りなく、株に手を出し大損したらしい。父が手がけた家業を傾けてしまった人物となっている。

筆者の知る祖父は最早引退した、人のいいおじいさん、であった。
エピソードとしては、競輪がプロスポーツ化する以前、関東の一人者であったらしいこと。新物好きで、当時既にハーレー・ダビッドソンのバイクを乗り回していた人だとか・・・。

母方の方はと言えば、曽祖父は生地佐渡島から友人と手漕ぎ船で蝦夷(北海道)に渡ったのだとか。当時開拓地であった北海道の石炭鉱山ででも働こうとしたらしい。彼もやはり明治の人、皆と同様一攫千金を狙い、名を成そうと血気盛んであったのだろう。
しかしうまくいかず酒に溺れてしまったと言う。

そのような父の姿を反面教師にしたのか、筆者の祖父は、生真面目な性格で、勉学もでき、級長にもなり、やはり青年の志を持って東京に出てきた。
最初は大工からスタートしたが、書生にでもなってゆくゆくは政治家にでもなろうと思っていたらしい。
しかし彼はクリスチャンになり、牧師になったため、筆者が牧師三代目となったわけである。

そんなDNAを受け継いでいる筆者は、野心や功名心には縁遠く、特に自覚して目指しているわけではないが、低燃費人生を送っている。暢気なのである。

しかし人生50代後半ともなると、残りの人生でどれだけのことが出来るか現実的に考えなければならない場面が出てくる。
ちょっと憂鬱になりそうだが、まだしばらくは場当たり的に進んで行くかもしれない。

2010年8月21日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

8月22日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 3:1-29
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 3:18
説 教 題 「約束による相続」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(45)
ガラテヤ人への手紙(33)
・アブラハムへの約束「一つの家族(スペルマ=子孫)」 3:15-18

※説教、礼拝時間とも、夏時間で10分短縮しています。
※次主日、8/29は 『聖書と朗読セミナー』 です。礼拝は通常通り午前10時30分から。
  短い礼拝後、用意したマタイ福音書一章からの抜粋を使って朗読練習をします。

2010年8月20日金曜日

巣鴨にある教会

宗派も教派も、いわゆるキリスト教に何の区別もなかった初代一世紀、教会はどこどこにある教会と呼ばれていた。
例えばガラテヤ地方にある諸教会、アジア(現在のトルコ)の諸教会、ローマにある教会、と言う風に・・・。

その後二千年のキリスト教会歴史の中で、どの宗派、教派、教団の流れに属すか、と言うことがその教会のアイデンティティーを表すようになってきた。

ちなみに巣鴨聖泉キリスト教会は
「日本聖泉キリスト教会連合」に属する単立教会で、
プロテスタントで言えば、英国国教会から派生した「メソジスト」の流れを汲み、
さらにこの運動を始めたジョン・ウェスレーが高調した「ホーリネス運動」の一展開である。

当教会の歴史的ルーツはそうだが、初代教会のように「地域」で表すとどうなるか。

「巣鴨にある教会」

そうだが、巣鴨にある教会は一つではない。
実際、地域名の「巣鴨」を冠するキリスト教会は少なくとも現在他に二つある。
日本基督教団巣鴨教会
日本キリスト教団ときわ教会
ややこしいことに、このうち巣鴨教会は、現在は巣鴨ではなく南大塚に所在する。

先日、心に重荷を負っていた女性が教会を探そうと、巣鴨駅前交番に駆け込んだ。
お巡りさんに言われた方向は当教会であった。
彼女はただ「教会」を尋ねて来たかったので、宗派、教派、教団の区別に関して、自分は全く無知であること申し訳なさそうにしていた。

精神的にアップアップしていたところだったので、そんな区別など関係なかったのだ。
とにかく自分を支えてくれる場所が教会だと思って、探して来たのだった。


「巣鴨にある教会」は、どの流れに属する教会であれ、そんな方の突然の来訪に応答できる教会でありたいと思う。

2010年8月19日木曜日

言葉と性格

先日英語で書いたブログ・エントリーに、楽天の「会社内英語公用化」について取り上げました。

最近の「英語」関連話題としてもっと重要なのは、「小学校での英語導入」ではないでしょうか。
もうこのことが公式に取り上げられてから数年経つと思いますが、相変わらず「プロ(賛成)」「コン(反対)」の図式での議論が続いている感じがします。

思えば「英語」を公用語にしようと提案したのは、明治維新期、当時の文部大臣森有礼だったと思います。その頃は文明開化政策で「英語公用語」が本気で論じられていたと思うのですが、現在の小学校での英語導入は、それと比較すればもっとマイナーな問題ではないかと思います。

既に日本語で成人し、英語が第二外国語であることが明瞭である場合と、まだ思春期前の子供が英語を学習する場合とでは、「英語を身につける」意味が少し違う、と筆者は思っています。

大人の場合だと、ビジネスやその他の必要から、英語を「コミュニケーション・ツール」と言う視点で捉えるのが圧倒的だと思います。
実際「必要は発明の母」で学習目的がはっきりしているほど、学習意欲も上がりますし、向上も早いと思います。
それは英語を「コミュニケーション・ツール」として自覚する限りにおいての話です。

では小学生児童の場合はどうか。

小学校における英語学習は、ある程度までは「コミュニケーション・ツール」としてですが、学習内容に盛り込まれそうな、歌やゲームなどを考えると、多分に「文化的エクスポージャー(他文化に触れる体験)」なものになるのだと思います。

実質的には“お遊び”程度の学習に過ぎなかろうと予想しますが、まともに実践すれば、このような「文化的エクスポージャー」 の方が、児童の性格や情緒に及ぼす影響は深いのでは、と筆者は考えます。

筆者の本格的英語体験は二十歳の「バスによる米国横断一人旅」に遡りますが、三ヶ月間の米国滞在で少し性格が変わった、と自覚しました。「より開放的、自由な自分」になったような気がしました。
その後の十年余の留学体験から言えることは、使用する言語によって同じ人間なのに性格が微妙に変化する、と言うことです。
日本語表現は社会に適応するよう、敬語や控えめな言い回しが支配的で、性格もそれに合わせたものになっています。
英語表現はより直截的な物言いが普通で、相互にファースト・ネームで呼び合うように、概してカジュアル(普段着的)な雰囲気が会話を支配します。
相手によって表現の丁寧度が微妙に変化する度合いは、日本語と比較すれば英語の方が遥かに低いと思います。
話者として使用言語によって性格が変化するのを自覚するようになったのはかなり後のことですが、この経験から、「英語は単なるツール」では済まされないと思います。

筆者は英会話講師もしている経験上、「小学校での英語導入」は実際面で困難が多く、どちらかと言えば反対の立場です。
ただ、英語が単なるツールではなく、多文化の人がどういう感じで物を言ったり、行動したりするのかを身をもって体験する学習と位置づけるのであれば、音楽や図工など知的教科ではない情操を育む教科として、学習意義があるのではないかと思います。

もちろんそこまで配慮して指導できればの話ですが・・・。

2010年8月18日水曜日

FEBC

Far East Broadcasting Company、がフルネームだけど通称FEBCでオーケー。

何を隠そう筆者とFEBCとは少なからず縁があるのです。

今からはもう30年近くも前になりますが、筆者がアメリカ、サンフランシスコ・ベイエリアに留学中のことでした。
当時の記憶は少し怪しいが、FEBCは、当時支局と言うのか、ベイエリアから録音したものを日本に送って、それを放送していました。

確か渡辺さんと言う女の方が、ベイエリアのコーディネーターのような仕事をしていて、彼女にベイエリアの話題をニュースにしてまとめてくれないか、と言う話を頂いたのです。

筆者は当時、 Graduate Theological Union と言う学校の博士課程で学んでいました。
今となっては内容は思い出せませんが、学校がUCバークリー校の北に隣接していて、多分カリフォルニアの中でもひときわ特徴のあるバークリーのキャンパスや街についてリポートしていたのだと思います。
勉学がなかなか大変な中でしたが、今は楽しい思い出として残っています。
途中一時帰国した時には、放送局でインタヴューされると言うこともあったっけ・・・。

と言うわけで、今は別に何のご縁もありませんが、昔々放送のお手伝をいしたことがあるので、ご紹介します。

その後、ベイエリアからは撤退し、今は日本から放送しているだけのようです。
インターネットでも様々なコンテンツが流されています。

お面白いことに、もともとは“福音派”のメディアだった様ですが、現在はかなりカトリックの神父によるコンテンツが増えています。

日本FEBC

キリスト教会の話題に興味がある方どうぞ。

2010年8月17日火曜日

夏と言えば海。

でも海に入らなくなってかなりになる。
毎年教会連合のサマーキャンプ会場は海辺の国民宿舎。
その気になれば海に入ることは出来るが、殆ど宿舎の中で涼んで終わってしまう。

私は母方の祖父から数えて、キリスト教の牧師三代目。
高校の時、祖父の田舎である佐渡の外海府、相川からしばらく北に行った戸地へ連れて行ってもらった。いや、筆者が望んだわけではなかった。祖父が自分の田舎を見せたかったのだと思う。

佐渡の海、特に外海府の海は透明度が高い。楽に30メートル下の海底を見ることができる。
何と言ってもこの海の楽しみは、潜ってサザエや鮑を取ることだ。
「取ったどー。」の世界である。

ところが最初海草うじゃうじゃの海に戸惑ってしまった。気持ち悪くてしょうがないのだ。
でもそうこうするうちに慣れ、潜りに夢中になった。
少し慣れてきたところで胸が痛くなった。
酸素を十分取らずに潜りを続けていたためだろう。
自然いっぱいの佐渡の夏、帰りは自分で取ってためておいた鮑の塩漬けをお土産に持ち帰った。残念ながらちょっとしょっぱすぎた。
でも夏の海の良い思いでだ。

大学の頃は素潜りに憧れ、南洋の海に潜りたいと思っていた。
そんな映画も見に行った。
足ひれも買い、クレッシー・サブの水中マスクも買った。
夢は適わなかったが、南洋の海の夢は良く見た。

あれから何十年。すっかり海とはご縁がなくなってしまった。今や海は眺めるだけ。いやそれさえもあまりしなくなった。
(その後は奥多摩を中心に山に興味を持つようになり、低山ハイキングをするようになったのだが・・・。)

2010年8月16日月曜日

主日礼拝は宣教である

久し振りに“キリスト教”的な話題。

キリスト者が、日曜日教会へ行って礼拝することには色んな意味があると思います。

信徒にとっては“お勤め”のようなものに感じられているかもしれません。
少なくとも「日曜日に礼拝へ行く」ことは、殆どのキリスト者にとって“普通”のことに思われているに違いありません。
もちろん最近では数日前のブログ・エントリー『1%の壁』で書いたように、教会に行かない、礼拝に通わない、“クリスチャン”も大勢いることが分かってきましたが・・・。

私たちの小さな教会では、集まる人数は少ないですが、できるだけ「公同の教会の礼拝」であることを意識しようとしています。
同時期に持たれている世界中のすべての礼拝が祝されるように、主の臨在が伴うように、お祈りしています。

もう一つ大事なこととして自覚しようとしていることが、「礼拝は宣教である」と言うこと。

どう意味でそうなのでしょうか。

それは、私たちが礼拝に集うと言う行為において、私たちは共同で、公けに「イエス・キリストを『主』と宣言」しているからです。回りの人たちがそれに気付いているどうかの如何に関わらず、そうなのです。

そもそも初代のユダヤ人キリスト者たちがイースター後、ごく初期の頃から、「週の初めの日」に礼拝に集まるようになりました。
これは私たちが想像するよりもはるかに画期的なことだと推察されます。
何しろ「安息日(土曜日)」遵守を、異邦人たちと自分たちを区別するアイデンティティーの根幹のようにしていた人たちが、その安息日ではなく、主の復活日である週の初めの日、つまり日曜日を礼拝の日と定めるようになったからです。
その意義は復活の主を宣言することにあったに違いありません。

私たちはこのような初代ユダヤ人キリスト者の「変革された世界観」に基づく「日曜礼拝」を踏襲しているのです。
残念ながらその意義を深く捉えているとは言いがたいですが・・・。

しかし第二バチカン公会議以降、カトリック教会も「ミサ」の語源である「ミッシオ」に宣教的な意義を見出し、その意義を回復しつつあります。
聖体拝領時に発せられる言葉「ミッサ」から、主イエスが愛されたこの世に再び「遣わされる」のだ、という意識を持つように指導されてきているからです。

どちらの意味にしても、どちらの礼拝の仕方にしても、主日礼拝は宣教であり、宣教に遣わされる時であることを自覚することは、現代を生きるキリスト者にとって大事なことではないかと思うのです。

2010年8月15日日曜日

今日の礼拝案内

主日礼拝

8月15日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 3:1-29
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 3:17
説 教 題 「四百三十年後にできた律法」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(44)
ガラテヤ人への手紙(32)
・アブラハムへの約束「一つの家族(スペルマ=子孫)」 3:15-18

※説教、礼拝時間とも、夏時間で10分短縮しています。

2010年8月13日金曜日

デザイン

巣鴨聖泉キリスト教会の新会堂建築の時、お世話になったのが設計士の今井俊介氏
ちなみに活水工房となった平屋の古家を改修した時もお世話になりました。

2000年4月だったでしょうか、新会堂の設計を頼むことになってから、竣工までの約一年半(その後も色々と親交に与っていますが)、特に基本設計と実施設計の期間は頻繁な時は週一回ペースでミーティングでした。

それまでの民家改造の教会からしか発想できなかった私たちに、とんでもない建物設計図が示され、びっくりしたことを思い出します。

「デザイン」は、設計の大局から詳細に至るまで絡んできます。

数十回のミーティングで、筆者は「デザイン」について学ぶことができました。デザイン自体を学んだと言うよりは、デザインに敏感になるよう訓練された、と言った方が良いでしょう。

設計士にとって建物をデザインするとは、そこで何がなされるか、どんな暮らしをするか、を建物と言う具体的な形にデザインすることです。

しかし詳細においては取手の形や照明等、機能プラス形状や色など美的センスを組み込む場面が出てきます。この面において、ミーティングにおいて「あーでもない、こーでもない」とやっているうちに、美的な面への関心・感性を掘り起こしていただいた、と思っています。

木工でも同じような事柄が関連して出てきます。
家具をデザインする時、先ず考えるのは機能とそれを満たすに足る材料、そして材料を組み上げた時の強度などです。
装飾的な方は後回しになってしまいます。

ただデザインを美的な面から捉えた時、建物でも家具でも、もっとも大切な要素の一つは、寸法、バランスだと思います。
これは材料に彫りを入れたりするような装飾的デザインより重要だと思います。

暮らしをデザインする。
仕事をデザインする。
生活をデザインする。
余暇をデザインする

デザインは形あるものだけでなく、「バランス感覚」、「寸法」や「間」のセンスを必要とするあらゆる場面に登場するものだと思います。

2010年8月12日木曜日

1%の壁

あなたが日本の教会に通っているクリスチャンなら、“耳にたこ”ができるほど聞いたことでしょう。
「日本のクリスチャン人口は1%」と言うことと、いつまで経ってもこの1%の壁が破れないでいる、と言うことを。

筆者の率直な反応は「だからどうだって言うの・・・。」 です。(ちょっと挑発的に聞こえてしまうかもしれませんが・・・。)

そもそもこの数字の重要性がイマイチ明瞭ではないと思います。

もちろん鸚鵡返しにこのことを言う人たち(教会指導者)は、絶対的に“少ない”ことを強調したいに違いない。だから「壁」を破りたいのでしょう。

では人口に占める割合が2%か3%になったら、もう「壁」はなくなるのでしょうか。数字の話はトーンダウンするのでしょうか。

数字に関心の高い人たちは、あるいは人口の10%を超えるくらいになったら、社会へのインパクトが違うのではないか、と期待しているのでしょうか。
また、「クリスチャンになる」、「教会に通う」ことが、少数者意識から抜け出せるようになる、と考えているのでしょうか。

今から数年前のギャラップ社による日本の宗教人口調査では、キリスト教に関心ある、好意的である、と言う人の比率が全体の6%、と言う結果が報告されています。
さらに青年層ではその比率は7%であることも報告されています。

「1%」と「6%」の数字の開きには、どんな事情があるのでしょうか。

そもそも「1%」と言う数字は、教会礼拝出席者数から割り出されている数字であろうと思います。だとすると1%の壁とは、毎年毎年教会礼拝に加わる人数と、流出する数字がほぼ均衡を保っている、と言うことではないかと思います。
教会員高齢化による召天者数比率の増加を考えると、むしろ微増なのかもしれません。

次に、教会とは特に関係を持たないが、キリスト教に関心を持ち、あるいはクリスチャンと自認している人口の方が、礼拝出席者数より圧倒的に多い、という現象が浮かび上がります。
こちらの方がよっぽど教会指導者たちが考えなくてはならないことではないでしょうか。

どちらにしても筆者の思いは、「いい加減『1%の壁』の話題はやめにしようよ。大して生産的ではないから・・・。」です。

2010年8月11日水曜日

涯しなさ

タイトルがおかしい?

要するに「限りなく遠い感じ」「えんえんと続く感じ」「一体いつになったら着くのだろう・・・みたいな感じ」について。

一体今の子供たちは“この感じ”をどのように体験しているのだろう。

先ずは私の体験から。

①小学校一年生の時だったか、当時はまだ珍しかった海外旅行(確かアメリカ)へ行った先生の話を図書館の付属室で、スライドを見ながら聞いた。アメリカはとても遠くに感じられた。その先生が、まるで月に行って帰ってきた人のように思えた。それ程アメリカは遠くに感じられた。

②やはり小学校低学年だったか、「安寿と厨子王」のアニメ映画のようなものを学校で見た記憶がある。 どこかの場面で、小船に乗った二人が、母とだったか、安寿と厨子王それぞれがだったか、別れ別れになる。あの時の切なさ、一生巡り合えない様な別離の時の「はてしなさ」を子供心に深く印象付けられた。

③小学校高学年になってからだったか「源平盛衰記」を読んだ。謀反に加わったとして俊寛僧都が喜界ヶ島に流刑にされるが、そのとき他の流刑者から一人島に取り残される俊寛の気持ちに思わずジーンとなった。あの時の感じが「はてしなさ」だったと思う。

④大学卒業後、アメリカに留学した。四年は帰国しないと思うと、その四年という時間の長さに押しつぶされそうになったことを覚えている。四年と言う期間は、日を指折り数えて待つには長すぎた。あの「はてしなさ」も子供の時物語で感じたものとは少し違うが、“自分が待つ”体験としては十分にはてしなかった。

こうしてみると、日常では得がたい情感を、文学を通して体験することの大切さを思う。

今の子供たちにはアメリカは近いだろうなー。
ネットに慣れていると、「世界は繋がっている」と感じるだろーなー。

彼らは一体どうやって「はてしなさ」を体験しているのだろう・・・。

2010年8月10日火曜日

南北問題

国家間の経済格差が、「富める北半球の国家」と、「貧しい南半球の国家」との間で、激しくなってきたことを指して、南北問題と呼ぶ。

1993年、筆者は、マニラで持たれた「世界福音同盟(WEA)」総会に出席した。

アジアやアフリカ等、地域ごとの分科会で「討議されるべき問題」に盛りこむものがあったら言って下さい、と参加者は問いかけられた。

日本からの参加者30人ほどの中で、一番若輩の方であった筆者は、この「南北問題」を検討するよう「アジア分科会意見書」に提案した。

あれから17年、状況はより深刻化しているのではないか。

私見では、「南北問題」を解決する鍵を握るのは、キリスト教が退潮している西欧圏の国家である。ところが啓蒙主義以降のキリスト教は、アメリカのような特殊例を除いて、一般的に政治問題に対して発言力がかなり低下している。

福音主義キリスト教が興隆しているアメリカでも、発言は保守主義と結びついた特定の政治問題に集中する。
社会正義や経済問題、最近では環境問題への発言は、保守的キリスト教からはタブー視されてきた。

背景の一つには、「政治と宗教の分離」と言う啓蒙主義的(近代的)価値観がある。これは聖書の解釈にも知らず知らず影響を及ぼしている。

最近ブログの読者から、岡田大司教の説教を知らされた。

大司教は説教の前半を、ごく簡単に次のようにまとめられた。

今日の第1朗読はコヘレトです。「伝道の書」とも呼ばれ、人生の空しさが繰り返し述べられ、「すべては空しい」といわれています。この世と被造物は人間の心を満たすことはできないのです。
本日のルカの福音では倉を壊して大きな倉を建てる金持ちの話です。金持ちは多くの財産を大きな倉に入れて安心を得ようとします。しかしその金持ちの命はその計画を立てたその夜に取り去られてしまいます。いくら財産をつんでも心からの安心と幸福を得ることはできないのです。

ところが説教後半を次のようにしめくくっている。

わたしたちはこの世界を、この社会を、わたしたちの教会をもっとよくしたいです。新しく造り変えたいです。でもそれは簡単ではない。難しいです。他の人を変えるのも難しい。人を変える前に自分を変えてください。人のせいにしないで自分を変えて生まれ変わらせることができますように。どうか主よ、わたしたちに聖霊を注ぎ、知恵と勇気をお授けください。アーメン。

ここには、現在のカトリック教会が深い関心を持つ「社会正義」への関心が示唆されている。
しかし、前半のルカ福音書の解釈は、コヘレトの言葉が持つ厭世的な世界観に引きずられたものになっている。

大司教の説教は、一方で「この世に、富に、執着するな(それらは空しいから)」と言う、この世からの退避的な世界観を示唆している。

もう一方では「社会正義」に向けて、この世の問題に取り組む世界観を示唆している。

これら二つの世界観を調整するのは理論的には難しい。

大司教の真意は、信徒個人に向けては前者を奨め、教会の姿勢としては後者を奨めているのではないかと思う。

筆者は、この世界観の分裂は、ルカ福音書の読み方に問題があるのではないかと思う。
確かにこの箇所は「貪欲」を戒めている。

しかし、この箇所は、経済活動に対する軽視や、富の空しさを意図したものではない。そう読むことも出来ると思う。

大収穫に与った富者に致命的に欠けていたものに焦点を当てて見よう。

貧者への配慮である。

ユダヤ社会においても、どんな社会においても、富者は貧者を援助する道義的責任を持つ。

地の産物が神からの祝福であることを世界観とするユダヤ人富者が、大収穫にあたってその全収穫を、貧者に分け与えることもなく、蔵に収めるなどと言う暴挙を考え得ること自体、この人物の愚かさを暴露している。

この富者は「天に宝を積む」ことを、これっぽちも思わなかった。

ナザレのイエスが富について教えているのは「富の空しさ」だけではない。

積極的に「貧しい者に施し」、「神の国」、つまり、正義とシャロームの住む世界の実現を教えている。

南北問題は「小さな親切」や「余裕からの慈善」では解決しないだろう。

南半球の貧者の国々が神に向かって「正義」を叫んでいる姿を私たちは想像できるだろうか。

「神よ、正義の神よ、この富の不公平な分配を正しく裁いてください」と叫んでいる姿を。

北半球の富める国は慈善ではなく、正義の問題として自らを律しなくてはならないだろう。

2010年8月9日月曜日

木工教室

教会の隣に木工房がある、のが「大和郷にある教会」の面白いところ。

宮沢賢治ではないけれど、そのうち教会の玄関に「今、工房にいます」みたいな看板を用意しておこうかな・・・。

まだ工房は内部が未完成にもかかわらず、教会と工房のジョイント・パンフレットができてしまったので、取りあえず配り始めている。現在木工教室の生徒は定期が1名、不定期が1名。

またこの夏は子供の夏休み宿題のため(だと思うけど)の「夏休み子供工作教室」も二つ予定している。

今日はまた木工教室の問い合わせが一件あった。

現在製作中の工房とティーコーナーを分ける間仕切戸(3枚引戸)を早く完成させなければ・・・。

2010年8月8日日曜日

First blog in English

Why in English?

Well, there is no convincing reason why we have to make our blog entry in English. The intended readership of our blog is limited to Japanese.

Is it really?

Actually, when most Japanese people say "Japanese, " they mean ethnic Japanese.
In other words, by more or less exclusively using the term, they almost unintentionally forget about the fact that it is really defined by nationality, or citizenship.

I always wondered like when a plane crashed, a Japanese reporter might say "there seems no Japanese on board the plane."
How can you tell? By looking at the list of passengers and finding no Japanese-sounding names?
Have they thought about there are many Japanese citizens with non-Japanese names?

This is one example of how we are naive about using the term "Japanese."

What I want to say is that there may be a readership of Japanese blogs whose native language is not Japanese.
That readership should be so tiny that we may not think about it at all.
At any rate, the net browser offers translation tools if they need.

Now, when I started Twitter, I thought I'd tweet in English occasionally so that my twitter wonderland may become more interesting, being connected with English users all over the world. My expectation is being realized somewhat.

Let's come back to the language barrier problem that we Japanese are habitually setting up ourselves.
We inadvertently shut ourselves up and limit the extent of communication, so we think, within Japanese(-speaking) twitterers, bloggers, etc., if we hold fast to the naive idea of the Japanese as exclusively ethnic and Japanese-speaking people.
This way of thinking is not healthy in the present hugely enlarging internet world. It's basically cosmopolitan, multicultural, multilingual, inter-faiths communities including atheists.
Even though we write in Japanese, we should be aware that our readership, potentially at least, is this entire internet community. (I'm half serious saying that!)

Recently, it is reported that Japanese top selling internet retail company, Rakuten, decided to make English the language to be used in the company from top to bottom as long as there's one non-native Japanese present in a meeting room.
A bold step! But in the business world, a company intending to have world-wide presence, the choice is not so outrageous. It's just that it sounds outrageous to Japanese employees.

Now our first entry in English is to show we are here to engage with people of all languages. But we expect that to have real communication both have to do their part in overcoming the language barrier. (I do not mean the English language alone solves the problem, though it helps to clear it immensely.)
We tried to show a tiny bit of effort.
Hope someone somewhere gets the message.

Tomorrow, we'll go back to Japanese.

2010年8月7日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

8月8日(日)、午前10時30分より

ヘブル書の学び(14)

聖書箇所 ヘブル人への手紙 2:14-15
説 教 題 「受肉の目的‐キリストの死・人々の解放」
説  教 小嶋彬夫牧師


※礼拝は一時間くらいです。
※礼拝後、「食の日」はおやすみします。『食の日募金』もお休みとします。

2010年8月6日金曜日

N.T.ライト、翻訳論文

N.T.ライトの翻訳論文、第6本目となる『初期伝承とキリスト教起源』をアップしました。
初期伝承とキリスト教起源

N.T.ライトの「紹介・入門」については以下をクリック。
http://www014.upp.so-net.ne.jp/NTW-dokushokai/introindex.htm

決して読み易くない英文を難儀しながら訳しました。拙い訳なので読みにくいかと思いますが、読んだだけの益は必ずあると思います。
日本においてはまだまだ知名度が低いのですが、英語で読む方々も結構増えてきているのではないかと推察しています。

「はちことぼぼるの日記」
と言うクリスチャン仲間の間では“有名な”ブログにも、今年の6月頃だったか、 N.T.ライトのことが話題になっていました。
その時のブログの書き入れコメントに、ライトが「敵を作りやすい人」、「挑発的な発言で、論争を起こす人」、と言うような残念な書入れがありました。

直接その場でコメントすることはしませんでしたが、自分のブログでライト主教のために弁明したいと思います。

私が残念に思うのは、ライト主教が「論争家」として有名になってしまうことです。
確かに挑発的な表現を用いることは少なくないのですが、基本的には誰とでも議論を楽しむことができる、それも相手の主張をできるだけ受容した上で是々非々を議論する方だと私は思います。
決して敵を作ろうなどとして自論を展開する方ではありません。

コメントで指摘されていたように、特に「義認論」に関し伝統的宗教改革的な解釈とはかなり離れて見える立場を取られています。
(神学的立場からそうなったのではなく、ロマ書の釈義的結果また、パウロ研究の蓄積の結果としてそうなったと私は理解しております。)
それが北米改革派の一部に危険視・異端視(?)される結果となっています。

自由主義神学からも保守主義神学からも非難されるほど、ライト主教は幅広く立場の違う人と議論されていることが、逆に彼の懐の深さを示していると私は思います。

最後にライトの著作のうちどれから読むかに関して。

一般的な読者の場合(ノンクリスチャンを含め)Simply Christian

霊肉二元論的な立場に対する原始キリスト教信仰の姿を今日に弁証するものとして、Surprised by Hope

After You Believeはその後に読む方が論点の方向として繋がりやすいのでは・・・。

The Challenge of Jesus はライトがPrivate Spiritualityのようなあり方を非難している理由を知るには好適かも知れません。
私が考えるにライトの矛先は敬虔主義的信仰者の霊性ではなく、その信仰がどう現実の世界に立ち向かうのか、と言うことです。

イエスの神の国宣教、十字架、復活、・・・すべて歴史=公けな場における出来事です。
真にイエスの弟子となろうとすれば、信仰の公け性から逃避することはできない、と言うのがThe Challenge of Jesus に含意されていると思います。

(公けvsプライベートと言う対立図式で理解していただければ、ライト主教がパーソナルな霊性に否定的な方ではないことは、彼が如何に教会人として祈りと礼拝を重んじていることで説明がつくと思いますが・・・。)

2010年8月5日木曜日

大和郷

大和郷、「やまとむら」と読みます。

その昔、三菱の岩崎氏がモデル住宅用に分譲した、名勝六義園を囲む一帯です。
殆どの住宅には広い庭があり、緑が豊富です。
ただし高い塀に囲まれていて、道路から庭を眺めることはできませんが・・・。

六義園には多種の鳥たちが棲息しているようです。
緑が豊富なので、それなりに昆虫も。

夏は蝉ですね。
教会の庭でも、梅雨明けから、先ず油蝉がジーと鳴き始めました。
まもなく、みんみん蝉。
数日後には、早くも、ツクツク法師。
今日の夕方には、ヒグラシの鳴き声も聞こえました。

教会の庭は塀で遮られることもなく、開けっぴろげです。
雑草が生い茂っていても、「お庭きれいになさっていますねー。」と褒められてしまいます。
もっと手を入れなければと思いつつ、ありがたく聞いています。

2010年8月4日水曜日

性格と品性

血液型でその人の性格がある程度分かる。
と思っている人は案外多いと思います。
実際どの程度まで信じるかは別として、血液型と性格を結びつける話題には事欠きません。話題として入りやすいですし・・・。

筆者はO型です。よく言われるのは、O型は大雑把。何事もきちっと決めるのではなく、“いい加減”にして置くのを好む、と。
対照的なのがA型。几帳面。きちっ、きちっとしていないと気がすまないタイプ。

血液型で性格を判断できるのはかなりあいまいな範囲まで。後は個人差や、一個人に別の性格タイプが共存するのが普通ではないかと思います。
性格は遺伝的に受け継いだもの(血液型はその一つ?)もあるでしょうが、やはり後天的なものの影響も強いはず。

そこで話題にしたいのが「品性」。

最近キリスト教会で度々話題に上がる「牧師不祥事事件」は、個人の人格的欠点や性格の問題に還元するだけでは不十分です。
不祥事を起こしていない牧師も、そしてキリスト者も、等しく「品性」の問題が問われている、と筆者は感じています。

キリスト者の品性は本で学ぶのではなく、人から学ぶことが殆どです。
模範となるべき人物の品性を学ぶのです。
たとえ「キリスト者の品性の模範はイエス・キリストである」としても、実際に対人関係にあるキリスト者たちが模範となるべきです。
その点牧師の品性は重要だと思います。

牧師が目指すべき「キリスト者の品性」のエッセンスは何でしょうか。

恐らく最も抱合的な品性は「愛」だと思います。
しかし、「愛」は実に多面的で、時に捕らえどころのない、あるいは恣意的に解釈される品性でもあります。

筆者は、「愛」を具体的人間の模範となる品性として考える時、次の三つの要素を考えます。

①寛容
人に対して寛容であると言うことは、相手を様々な弱点や欠点を持つにもかかわらず、一個の人格として尊重できる、と言うことではないかと思います。

②忍耐
寛容は時に忍耐と言う「態度」、として持続されることを要請します。愛が相手を建設的に受け容れようとする場合、欠点の多い者同士必要になるのはしばしば忍耐です。

③謙遜
これが最も判定しがたい愛の品性ではないかと思います。しばしば謙遜は自己満足の範囲に留まりがちです。自分が謙っていることに関心が向き、相手を建て上げるために、自己を制御するような謙遜にならないことが多いのではないかと思います。

筆者は牧師としてどれだけ、寛容と、忍耐と、謙遜を持って兄弟姉妹に仕えているでしょうか。

皆さんの教会の牧師たちはいかがでしょうか。

一歩進んで、牧師だけでなく、お互い教会の兄弟姉妹が、どれだけ、寛容と、忍耐と、謙遜を持って仕え合っているでしょうか。

私たちの品性を磨くために他者が必要なのではありません。私たちの品性が磨かれるのはあくまで結果です。もちろん目標にすることは結構なことですが・・・。

大事なのは、お互いを建て上げる、つまり主の体である教会が建て上がるために、寛容と、忍耐と、謙遜が必要とされていることではないでしょうか。

2010年8月3日火曜日

暑中お見舞い申し上げます

昨日はヘビーなブログ・エントリーだったので、今日は軽く。

巣鴨聖泉キリスト教会は2001年会堂建替え前も、建替え後も基本的にエアコンは使っていない。
今年のような夏はエアコンが欲しくなる。

ちょっと後悔もある。(でも予算的に無理だったから仕方ない。)
頼りは屋上緑化と風通しである。
自然の力を利用して涼しくしたいのだが、これには限界があるのは分かっている。

それで考え付いた方法。
礼拝時間を短縮する。

牧師が勝手に決めていいのかどうか・・・。
でも暑い中集まっている聴衆の負担を軽減するため、礼拝時間を(主に説教時間を)10分短縮。

今年の夏は短縮説教で乗り切ろう。

2010年8月2日月曜日

ポストモダンと福音

ポストモダンという言葉・設定は、ポストモダンという語で括られる現象の広大さ曖昧さの故に、議論にある種の胡散臭さを与えてしまうだろうと思います。
しかしモダニズム的「『真理』の論理性・言語的明晰性・実証性に対する無垢な信頼」の時代が過ぎ去っていることは、少しきちんと物事を考える個々人の心に深く受け止められているだろうと思われます。
そう言う時代にあって、教会堂を持ち決まった順序で礼拝をする、牧師あるいは聖職者が管理する宗教組織である「教会」は“既成”宗教団体とみなされます。
ポストモダンの時代を生きる“個人化した”“主観的”スピリチュアリティーを模索する人々はこのような“規制教会”に殆ど期待しないだろうと思われます。

教会は歴史的に形成された『使徒的福音』を現代に宣教する務めを担っていますが、「聞く耳を持たない」「笛を吹いても踊らない」人々に向かってどのように福音を携えていけるのでしょうか。

モダニズム的福音宣教は「福音の言葉」を伝達すれば、後は聞いた人がそのメッセージを“信ずれば救われる”としてきました。
最早そのような『福音伝達』はポストモダン時代の人々の“心”には届きそうもありません。

筆者が考える「教会が今福音宣教のためにできること」は二つあります。

一つ目は、「使徒的福音の回復」です。
モダニズム的福音宣教をポストモダンに適合しようとしても、既にメッセージ内容が時代的に限定されているので、無駄なことではないかと思っています。
むしろ原初に立ち返り、使徒たちが伝えた「真正な福音」を単なるメッセージ内容だけでなく、「世界観」と「生活原理」ともども教会の中に回復することが先決だと思います。
このために必要なアプローチは“歴史的”探求です。
聖書学、神学、宣教学、教会論は徹底的に使徒的福音の世界観の意味地平から探求される必要があると思います。
時間がかかりますがエッセンシャルな要素だと思います。

二つ目は、ポストモダン時代を生きる人々の心の有り様を良く掴むことです。
“個人化した”、孤独で、疎外されやすく、主観的なスピリチュアリティーを形成する人々の心。
彼らの既成宗教の枠外で形成される「心の組み立て」を理解することです。
その脆弱性、一過性、混合性、などの弱点を理解することも必要です。
反知的に“霊性”や“伝統”に没入する危険性も理解する必要があります。
ポストモダン霊性は「何でもあり」です。
異端やカルト、オカルトや呪術的なことも、スピリチュアリティーという枠組みの中では並列状態です。
霊的に渇いた心は、「何でも癒してくれそうな」ものを正邪の区別をつけずに取り込もうとします。

どこに使徒的福音との接点が形成されるか

難しい問題です。
決まったパターンと言うのはないでしょう。
自分の主観や感性に頼るポストモダン霊性探求者と「真の会話・対話」を獲得する状況を得ることが大切だと思います。

それはどのように、どんな場所で起こりうるか。
この時代に遣わされた地域教会の個別的条件を良く考えながら編み出されていくべきではないかと思います。