2010年8月29日日曜日

福音書の朗読

どの教会の礼拝式でも「聖書交読」「聖書朗読」があると思います。
個人的に「デボーション」や「聖書通読」で聖書に親しんでいる場合でも、公同の礼拝で共に聖書を読んだり、聖書の朗読に耳を傾けることは大切なことです。

伝統的な教会ではその主日に読まれる聖書箇所が予め決められている場合があります。
英語でレクショナリーと言う習慣は、ある人たちにとっては退屈なものかもしれません。

長い教会の伝統から“自由に”なって礼拝を守る教会グループは、逆にその時その時聖書箇所が選ばれることになるでしょう。
これも場合によっては聖書の一部だけに偏る弊害があると言えるでしょう。

やはり教会は聖書全体を受け止める姿勢が必要だと思います。


さて「福音書の朗読」、また特定の福音書の朗読に限らず、キリスト者が旧新約聖書全体を朗読する時、どのような自覚が必要なのかを考えて見ます。

それは「実現した」と言う自覚です。
神が(旧約)聖書で約束し、預言者によって証しされていた事柄が、ナザレのイエスにおいて「実現した」と言う自覚です。

これは先ず主イエスご自身の自覚でした。
ルカ福音書4章21説によれば、イエスは会堂で、手渡された巻物(イザヤ書)の中にある「ヨベルの年の解放」を朗読された後、聴衆に対してこの御言葉があなた方の中で「実現した」と宣言されたのです。
有名な「ガリラヤ宣教マニフェスト」と呼ばれる箇所です。

イエスは神の国は、特にイザヤ書40-55章的解釈による神の国は到来した、あるいはご自身のわざにおいて到来している、と同福音書の中で主張されています。

私たちは「まだ」と言う面も承知しながら、神の国が「既に」到来した、神の約束は「実現した」、と言う自覚のもとに聖書を朗読する必要があります。

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