2010年8月19日木曜日

言葉と性格

先日英語で書いたブログ・エントリーに、楽天の「会社内英語公用化」について取り上げました。

最近の「英語」関連話題としてもっと重要なのは、「小学校での英語導入」ではないでしょうか。
もうこのことが公式に取り上げられてから数年経つと思いますが、相変わらず「プロ(賛成)」「コン(反対)」の図式での議論が続いている感じがします。

思えば「英語」を公用語にしようと提案したのは、明治維新期、当時の文部大臣森有礼だったと思います。その頃は文明開化政策で「英語公用語」が本気で論じられていたと思うのですが、現在の小学校での英語導入は、それと比較すればもっとマイナーな問題ではないかと思います。

既に日本語で成人し、英語が第二外国語であることが明瞭である場合と、まだ思春期前の子供が英語を学習する場合とでは、「英語を身につける」意味が少し違う、と筆者は思っています。

大人の場合だと、ビジネスやその他の必要から、英語を「コミュニケーション・ツール」と言う視点で捉えるのが圧倒的だと思います。
実際「必要は発明の母」で学習目的がはっきりしているほど、学習意欲も上がりますし、向上も早いと思います。
それは英語を「コミュニケーション・ツール」として自覚する限りにおいての話です。

では小学生児童の場合はどうか。

小学校における英語学習は、ある程度までは「コミュニケーション・ツール」としてですが、学習内容に盛り込まれそうな、歌やゲームなどを考えると、多分に「文化的エクスポージャー(他文化に触れる体験)」なものになるのだと思います。

実質的には“お遊び”程度の学習に過ぎなかろうと予想しますが、まともに実践すれば、このような「文化的エクスポージャー」 の方が、児童の性格や情緒に及ぼす影響は深いのでは、と筆者は考えます。

筆者の本格的英語体験は二十歳の「バスによる米国横断一人旅」に遡りますが、三ヶ月間の米国滞在で少し性格が変わった、と自覚しました。「より開放的、自由な自分」になったような気がしました。
その後の十年余の留学体験から言えることは、使用する言語によって同じ人間なのに性格が微妙に変化する、と言うことです。
日本語表現は社会に適応するよう、敬語や控えめな言い回しが支配的で、性格もそれに合わせたものになっています。
英語表現はより直截的な物言いが普通で、相互にファースト・ネームで呼び合うように、概してカジュアル(普段着的)な雰囲気が会話を支配します。
相手によって表現の丁寧度が微妙に変化する度合いは、日本語と比較すれば英語の方が遥かに低いと思います。
話者として使用言語によって性格が変化するのを自覚するようになったのはかなり後のことですが、この経験から、「英語は単なるツール」では済まされないと思います。

筆者は英会話講師もしている経験上、「小学校での英語導入」は実際面で困難が多く、どちらかと言えば反対の立場です。
ただ、英語が単なるツールではなく、多文化の人がどういう感じで物を言ったり、行動したりするのかを身をもって体験する学習と位置づけるのであれば、音楽や図工など知的教科ではない情操を育む教科として、学習意義があるのではないかと思います。

もちろんそこまで配慮して指導できればの話ですが・・・。

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