改めて教会内通常用語である「求道者」という用語を考えて見ましょう。
教会に初めて来られた方が、“勝手に”自分を「求道者」と呼ばれることには違和感があると思います。普通は「新来会者」と呼ばれることと思います。
しかし「求道者」と呼ばれることに相応しい方もいます。
「信者」と「求道者」を区別する意味でなく、真にキリストを、キリストの教えを求めておられる方は、「求道者」と呼ばれるのに相応しいと思います。
新約聖書、使徒の働きには、キリストを信じる者たちの共同体を核として、このグループとの距離感で区別される者たちを「神を恐れる者たち」と呼んでいます。
未だキリスト共同体には加わらないが、ある意味親近感を持って取り巻いている者たちです。
彼らの中から共同体に加わる者たちが出てきたようです。
使徒の働きには、私たちが通常使う「クリスチャン」「キリスト者」「信者」たち、の他に次のような表現が使われています。
「ナザレ派」「道の者」
この「道の者」が「求道者」を使う上で大切な表現だと思います。
そうです。イエス・キリストを信ずることは単なる脳内決断でおしまいなのではなく、既に確立している「道」に入り、その「道」に従うことなのです。
キリスト教は単なる「教理の寄せ集め」に対して知的に同意することでは済みません。
The WAYに従う者たちなのです。
ナザレのイエスを、「メシヤ」「主」として信じるのは入り口です。
その後には弟子の道が続いているのです。
Following The Wayの者たちがキリスト者なのです。
ですから入信前の「求道者」を半人前に扱うのは正しくありません。
確かに実際に道に入る前はその予備軍ですが、姿勢においては「求道者」と呼ばれることは相応しいことなのです。
問題は求道が“持続”し、“結実”するかにあります。
その意味で「求道者」は「究道者」に移行していく必要があります。
教会が「信仰者の母」と呼ばれるに相応しいためには、教会が包括的に「道」を示しているか、実践しているか、という条件があります。
単なるその“教会の伝統”で満足してはならないでしょう。
その“教会の伝統”が真正に The WAY を反映していなければならないでしょう。
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