2018年12月31日月曜日

明日の礼拝案内

元旦礼拝

2019年1月1日(火) 午前10時30分

朗読箇所 エペソ 4:1-16
説 教 題 「頭であるキリストに向かって」
説 教 者 小嶋崇 牧師


 頭である キリストに向かって 成長していきます。
     (エペソ 4:15、新共同訳)

2018年12月20日木曜日

クリスマスイブ礼拝案内

クリスマス・イブ
キャンドルライト礼拝
12月24日(月) 夕7時~
 ※礼拝は1時間弱。その後軽食パーティー。
 ※この礼拝が年内最終集会となります。 
 
待降節第四主日 2018年12月23日(日)
降誕節第一主日 2018年12月30日(日)
 は巣鴨聖泉キリスト教会での礼拝はありません

新年は・・・
2019年1月1日(火)の元旦礼拝がスタートとなります。
時間は通常と同じ、10時30分~


以上年末年始の主日礼拝は不規則となりますのでご了承ください。

巣鴨聖泉キリスト教会
牧師 小嶋崇

2018年12月15日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第三主日 クリスマス礼拝

2018年12月16日(日) 午前10時30分


朗読箇所 マタイの福音書 2:13-23
説 教 題 「イエスの父ヨセフ」
説 教 者 小嶋崇 牧師


2018年12月8日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第二主日礼拝

2018年12月9日(日) 午前10時30分


朗読箇所 ルカの福音書 2:8-20
説 教 題 「近くの者たち」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2018年12月1日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第一主日礼拝

2018年12月2日(日) 午前10時30分


朗読箇所 マタイの福音書 2:1-14
説 教 題 「遠くの者たち」
説 教 者 小嶋崇 牧師


2018年11月26日月曜日

(5)(英語)ポッドキャスト、その①

しばらく更新が滞っています。

この「大和郷にある教会」ブログにはシリーズものの記事が幾つかありますが、特に「主に神学ブログ」は日本語のものを紹介してきました。

それより前に「英語圏ブログ」シリーズで、おもに聖書学や神学のブログを紹介して来ました。

しかし時代は変化し最近はブログと共に「ポッドキャスト」と云う形でコンテンツをアップするサイトが増えてきました。(音声を扱うプラットフォームはiTunesとか色々ありますが・・・。)


筆者は日本語のものは殆ど知らないのですが、英語のサイトのものはレギュラーに(ダウンロードして)聞いているものが幾つもあります。それらのサイトを幾つか紹介してみようと思います。

最初に紹介するのは略称LSEと呼ばれる英国の学校です。
London School of Economics and Political Science
ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス・アンド・ポリティカル・サイエンス

とにかく収蔵ファイル数が多いです。
トピックは社会科学系ですが、時事的な話題も旺盛にカバーしています。

提供されている音声ファイル(mp3フォーマット)は同大学で「パブリック講演」のような形で収録されたものが殆どだと思いますが、すばらしいのは講演のあと必ず(と言っていいほど)聴衆とのQ&Aがあることです。

それは付け足しのようなものではなく、聴衆との「パブリック・フォーラム」を意識したような構成になっています。
質問者は学生だけでなく、専門領域の人や、コミュニティの(講演トピックに関する)利害関係者だったりします。
ですからその応答は講演内容にかなり踏み込んだものが多くなります。

ここ数年でもう何十と云う数の講演を聞いてきましたが、最近聞いたものの中で印象に残ったものを紹介します。

Future Politics: living together in a world transformed by tech



スピーカーのジェイミー・サスキンドが著書の内容を紹介するものですが、デジタル時代の政治が色んな点で新機軸・新展開を孕んでいるので、従来の政治に対する姿勢では対応できない、ということを指摘するものです。

ちょうど日本では「サイバー・セキュリティ担当大臣がPCに触ったこともない・・・」というような冗談のような国会での光景を目にしていますが、他人事ではないと思います。

民主主義政治に多大な影響を与えるデジタル・テクノロジーに関して国民側も十分勉強していかなければならないと思います。

彼の指摘したポイントで印象に残ったものの一つは、システム・エンジニア習得の要件に技術的なものだけでなく、その技術によって社会に多大な影響を与える側面を「倫理学(ethics)」からも習得させるようにすべきだ、というものです。


専門職が持つ「パプリックへの影響力」に見合う「倫理的責任」をも教育機関が担当しなければそれは片手落ちである、ということですね。
 


ではまた機会を見つけて、次の「ポッドキャスト」サイトをご紹介したいと思います。



 

2018年11月24日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年11月25日(日) 午前10時30分


朗読箇所 エペソ 2:11-22
説 教 題 「神の家族」
説 教 者 小嶋崇 牧師


エペソ書講解(11)

2018年11月17日土曜日

明日の礼拝案内

収穫感謝 主日礼拝

2018年11月18日(日) 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 14:8-18

説 教 題 「神の恵みと真実」
説 教 者  小嶋崇 牧師


※礼拝後、持ち寄り昼食会があります。

2018年11月10日土曜日

2018クリスマスフェア

クリスマスのアドベント(待降節)第1週
  
 12月7日(金)、11時~15時
 12月8日(土)、11時~15時
  
クリスマスフェアを開催します。


会場は(巣鴨聖泉キリスト教会となり)活水工房です。

クッキー&ケーキ(ホームメード)や
リース(当教会の白樺枝使用)、
木製キャンドル(楓桜挽物北欧風)や
クリスマス雑貨
を用意します。

気に入ったものがあったら購入してクリスマスを盛り上げてください。(売上の一部はチャリティに寄付します。)

お問い合わせは: 03-3946-8035まで

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年11月11日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヘブル人への手紙 3:1-6
説 教 題 「私たちが神の家です」
説 教 者 小嶋崇 牧師

「かなめ石」考(11)
 エペソ書の学び(22)、パウロ書簡(184)

2018年11月3日土曜日

明日の礼拝案内

召天者記念礼拝

2018年11月4日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 13:42-14:7
説 教 題 「恵みの言葉を聞く」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2018年10月27日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年10月28日(日) 午前10時30分


朗読箇所 伝道者の書 9:1-18
説 教 題 「神の御手の中にある」
説 教 者 小嶋崇 牧師


聖書に見る人生観、伝道者の書(9)

2018年10月20日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年10月21日(日) 午前10時30分


朗読箇所 エペソ 2:11-22
説 教 題 「一人の新しい人」
説 教 者 小嶋崇 牧師


エペソ書講解(10)

2018年10月13日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年10月14日(日) 午前10時30分

朗読箇所 Ⅰコリント人への手紙 2:1-16

説 教 題 「信仰が、神の力によるものとなるため」
説 教 者 小嶋崇 牧師

「かなめ石」考(10)
 エペソ書の学び(20)、パウロ書簡(182)


※昼食会があります。

2018年10月6日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年10月7日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ルカの福音書 1:26-38
説 教 題 「イエスの誕生」
説 教 者 小嶋崇 牧師

使徒信条考(7)  
※聖餐式があります。

2018年9月29日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年9月30日(日) 午前10時30分


朗読箇所 ピリピ人への手紙 2:1-11
説 教 題 「神の国の福音とは」
説 教 者 小嶋崇 牧師


現代とスピリチュアル(3)

2018年9月22日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年9月23日(日) 午前10時30分


朗読箇所 伝道者の書 8:1-17
説 教 題 「何が分かったのか」
説 教 者 小嶋崇 牧師


聖書に見る人生観、伝道者の書(8)

2018年9月15日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年9月16日(日) 午前10時30分


朗読箇所 エペソ 2:11-22
説 教 題 「遠くから近くに」
説 教 者 小嶋崇 牧師


エペソ書講解(9)

2018年9月8日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年9月9日(日) 午前10時30分

朗読箇所 Ⅰコリント人への手紙 1:18-31

説 教 題 「宣教の愚かさ」
説 教 者 小嶋崇 牧師

「かなめ石」考(9)
 エペソ書の学び(18)、パウロ書簡(180)

2018年9月6日木曜日

(3)主に神学ブログ、11

意外や意外「次世代教会」を展望して、が1~6まで続いている。

今回はちょっと休憩して久しぶりに「主に神学ブログ」をやってみたい。

こちらは1~10まで連載が終わっている。
念のために「1~8」までは、(2)主に神学ブログ まとめと展望で紹介している。
その後、「9」と「10」までアップした。


今回ほぼ2年ぶりの「主に神学ブログ」記事となるわけだ。

神父の放言
言いっぱなし。そんな風に気楽に語りたいもんじゃ。


とあるようにカトリックの神父の方のブログである。
アーカイブを見ると「2012年3月」から「2015年8月」となっていて既に終了したブログのようだ。

ブログ主の語り口にあるように、すでに引退したので後は(カトリックだけでなく)キリスト教界について言いたい放題語ろう、という趣旨らしい。

たまたま今日発見して10個くらい選んで読んでみた。
さすがベテラン神父、もうしがらみも余りなく、自由闊達にトピックを選んで語っている。
充分知らないことも、慎重にならず、自分の言いたいことをストレートに語っている。

そう言う書き方なので読んでいて肩が凝らない。
気軽に読める。

しかしなかなか啓発に富んだ放言にはしばしば頷かされる。

福音派の躍進

 カトリックの神父たちの中に「聖書学」が浸透してくるにつれ、批評学による懐疑主義の影響が大きくなり、そのことに反発を覚えているようだ。でこんな風に言っている。
福音派の人たちはそんな神学などお構いなしだろう。聖書内の疑問は、聖書内の記述の中で解決する。基本的にはそれでいい気がする。それが昔からの解釈のはずだった。
信じきっているがゆえに、聖書から得る力も喜びも大きい。信じるので神からの返事も大きいだろう。私にはそのように見える。
バブル神学の崩壊、2
 やはり懐疑主義的聖書批評学の問題を取り上げているが、このように釘を刺している。
聖書学はバランスが必要だ。バランスを取り戻せばよいものになるだろう。また、聖書を信じることなしに、聖書学は成り立たない。創作説というのはけっこう疑いや不信から成り立っている。創作説に安易に道を譲るのは、聖書に対する態度として間違っていないか。聖書を信じて読んだ結果、いろんな矛盾や疑いが出てくる、それを解決するのが聖書学のはずだ。創作説に道を譲りすぎるように私に見えるのが現代聖書学の趨勢だ。
興味深いキリスト教新興宗教 「キリストの幕屋」
 変わったものでは幕屋について書いているこの記事。全体に異端とか皆から眉をひそめられたりしているキリスト教グループに対しおおらかな態度で評している。
幕屋についてはこんな感じ。
大和魂、他宗教への敬意、ユダヤへの着目は、大変興味深い。これらはややもすると、キリスト教徒が敬遠しなければならないものと考える人が多いんじゃなかろうか。とりわけ日本では、前者2つは必要だとわたしは思う。手島氏は心から大和魂と他宗教を愛している。それはビンビンと伝わってくる。これがなければキリスト教は日本には根付かないと思われる。本物にもならないと思う。



恐らくもう帰天された神父の方なのだろうと思う。別に著書を出すこともなく、地道に伝道牧会された方なのだろうと推察するが・・・。



2018年9月3日月曜日

(3)「次世代教会」を展望して、6

一応このシリーズの「6」としましたが、実際には「5」の「付け足し」、そして今日のツイート 2018/8/31の「解説」みたいなもんです。

Danté Stewart (Stew)さんはご覧のようにアフリカ系アメリカ人の方のようです。 彼のツイートで引用されている画像の文章の作者は、ある福音派系神学校卒業生ですが、その方が、「世界大にキリスト教の遺産を保存したのは、白人西洋・ヨーロッパ社会のクリスチャンたちだ」 と主張しているんですね。
彼はそれを「人種差別的発言」と受け取られかねないことを承知の上でどうも「白人」と云う部分をあえて強調しているみたいです。

詳細な文脈は分からないので、多分にアバウトな論評から入ってしまいますが、この方には客観的な歴史から見て
(1)正統的キリスト教を保守し、
(2)原語(ヘブル語、ギリシャ語)での旧新約聖書の保存し、
(3)プロテスタント諸派が米国そして世界の隅々に広まる
のに貢献したのは「白人・西洋・ヨーロッパ」のキリスト教社会だ、というわけです。

確かに大雑把な物言いであればこのような見方にそんなに目くじらを立てる人はいないでしょう。問題は「白人」ですね。これが不必要に人種差別トークの印象を強めたと思います。
案の定、このツイートに延々と付けられた「リプ」は人種差別的であることに対する非難と反論です。

しかしここからが本論なのですが、「大雑把な物言い」と云うのはその発言をする人がその「知識分野」についてどれだけ広範で詳細な情報を把握しているかで「信頼性」は全然違ってきます。

私も含めてそうですが、つい関心あるトピックだと話題を拡げるために生半可な知識で大風呂敷なことを言ってしまうもんです。
その後トピックのテーマや内容を絞り、より確実な範囲に意見交換を狭められれば、最初の大風呂敷な物言いも「導入」として許されるのだと思います。

さてこのツイートの後にグレン・パッキャム牧師(英国ダラム大だったと思いますが博士号を取得したばかりです)が反論を試みますが、「礎(ファウンデーション)」という部分を捉えて(白人)ヨーロッパ中心主義的なキリスト教史に楔を打とうとしています。

即ちキリスト教が世界大に進展する歴史を源流まで遡れば、初期数世紀は北アフリカ地域や東方教会の歴史があるわけです。だから新約聖書の時代、使徒パウロのキリスト教から一挙に宗教改革者(ルターやカルヴァン)に飛躍してしまうような神学校の教育は改められるべきだ、というような主張になっています。

さて前回5」で「教会史」の学びは「神学」より優先するのでは、と言いましたがそれはやはり「今」の時代の文脈をどう捉えて神学教育をデザインするかという問題です。

たとえ日本と云うローカルの場で、そしてさらに小グループ信徒伝道者・指導者のための神学教育であっても、わざわざ何十年遅れで「西洋キリスト教」の「神学テキスト」を翻訳して使っていていいのか、という問題です。

現実的には簡単に解決できる問題ではありませんが、「ヨーロッパそして北米」もポスト・キリスト教時代に突入し、キリスト教の勢いが「アフリカ・南米・アジア諸国」に移っている歴史的文脈を考えると、問題意識は持つ必要があるかと思います。

さてこれ以上大風呂敷な発言は控えることにして、上記のツイートに付けられたリプの中から「面白い教材」がありましたので、それを紹介しておきましょう。

マイケル執事(Michael the Deacon)
Michael the Deacon was a deacon in the Ethiopian Orthodox Church in the 16th century A.D.[1]
In 1534, Michael the Deacon travelled to Wittenberg and met with Martin Luther, the founder of the Lutheran Churches and leader in the Reformation.[2][3] During the meeting, the two compared the Lutheran Mass with that used by the Ethiopian Orthodox Church and found that they were in agreement with one another.[1][4] Michael the Deacon also affirmed Luther's Articles of the Christian Faith as a "good creed".[3][1] As such, the Lutheran Churches extended full communion to the Ethiopian Orthodox Church.[5][1]
エチオピア正教会のマイケルさんが、1534年にルターに会いに来たというエピソードです。つまり「新しく出来たルター派教会」と「聖餐」についての神学的共通性を確認しようとした、いわば「エキュメニカルな働き」だったようです。

へー、そんなことあったんだ。全く知らないことが多いです。

(続く)

 

2018年9月1日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年9月2日(日) 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 2:22-36
説 教 題 「主イエス・キリスト」
説 教 者 小嶋崇 牧師

使徒信条考(6)
※聖餐式があります。

2018年8月31日金曜日

今日のツイート 2018/8/31

ちょっと内容的には一般的ではないが・・・


ちょうど「「次世代教会」を展望して、5」で教会史の学びの重要性、必要を訴えたところなのでドンピシャリという感じ。

「次世代教会」を展望して、6
で少し膨らまして見たいと思う。

2018年8月28日火曜日

(3)「次世代教会」を展望して、5

さて今回は「教会史」の学びをどう取り入れるか、について書いてみる。

小グループの信徒伝道者の神学教育で恐らく最も重点がかかるのは「聖書」ではないかと思う。

しかしその次に実際的に必要になるのは(神学ではなく)「教会史」ではないか。そして教会史の学びの中に「神学」、つまり様々なキリスト教グループが存在するようになった理由の一つとして「教理」や「神学」の違いを理解する必要に迫られるのではないかと思う。

ざっくり言って「プロテスタント諸派(教派、デノミネーション)」宣教師団体が、第二次大戦後日本で伝道を展開し(いわゆるキリスト教ブーム)、その後の「高度経済成長期」に合わせて順調に「教勢」を伸ばし、特に1960年代終わりから1970年代にかけて「福音派」が 新改訳聖書や日本福音同盟(JEA)、日本福音主義神学会などを立ち上げて「成長」していた時期(せいぜい1980年代までか・・・?)を過ぎると、全体に停滞から徐々に退潮へ向かって行き、そして21世紀に入ってしばらくするとシリーズ1でも指摘されたように明確な「頭打ち」傾向、「閉塞状況」が意識されるようになった。

ざっくりと書いたが、要するに「今の文脈」を捉えるとき、一つの傾向として「教派」の比重が軽くなったことを指摘したい。

教派間の競合が減っただけではなく、「自由派対福音派」の対立さえも先行き困難な諸教団にとってはかなり意味合いが変わってきた印象がある。

 「困難な日本の伝道をどうするか」、
 「どうやって教会が生き延びるのか」、
という大きな課題の前には優先順位が低くなってきた観がある。

この流動的状況が、今後小グループの信徒伝道者・指導者に及ぼす影響を考えるとメリットとデメリットがそれぞれあると思う。

《メリット》
 教派主義が相対的になり、自由派対福音派の対立を余り意識しなくなることによって神学教育のための「教材選択」がかなり自由になる。つまりテキストの著者の教派的・教理的背景に左右されて選択肢が狭くなる状況は減るだろう。内容が良いテキストを幅広く選べるようになる。
《デメリット》
 反対に「教派的違い」や「教理的特色」に対する、つまり「歴史的キリスト教」に対する意識がなくなり、神学教育のテキスト選択、教材選択の基準がはっきりしなくなる可能性が強まる。

フラットでネット空間のコンタクトから小グループが形成されるようなシナリオを想定すると、集ったキリスト者の相互理解がどのようになされるのか、極めて興味深い状況となるのではないか。

なるべくシンプルな「キリスト教信仰」を志向する機会が増えると同時に、「歴史的キリスト教」の無知無関心の故、かなり偏った聖書解釈や信仰理解に引っ張られていく可能性もある。(ネット情報にはその辺のことを解決してくれる信頼できるリソースがどれくらいあるか。日本語の場合はそもそもキリスト教情報が少なすぎるのでかなり限られているように思う。)

以上の理由で、小グループの信徒伝道者の神学教育で「聖書」の次に重要になるのは「教会史」ではないかと思う。

しかしこの学びをどのように進めるかに関しては工夫が必要だろう。
よく「歴史」を学ぶのに「現代史」から始める意義が言われるが、教会史の場合もそれで良いように思う。
つまり上にざっくり書いた「第二次大戦後の日本のキリスト教、特にプロテスタント史」を軸にして進めて行くのでいいのではないか。

その時さらに強調点として加えると、(教派色が後退しつつある)現代のキリスト者として、(1)「自分のルーツを掘り下げる」方向の学びと、(2)「(分裂・分離を繰り返して)キリスト信者のグループが拡散したのを追跡する」方向の学びと、両睨みの関心を維持することが大事ではないか。

両方とも「少しずつ」深めていけばよい。避けたいのは「タコツボ」にいることに無知な状態てはなかろうか。


(1)ルーツ掘り下げ型
 簡単に言えば、自らがキリスト者になった《経緯・経路》を特定したり、自分の信仰的理解や神学的理解がどのようなキリスト教の歴史的影響のもとにあるのかを見て行く学びである。
 実際は様々な要素が複雑に絡んだことではあるだろうが、たとえば戦後のキリスト教の代表的人物や関心ある著作家の伝記などを通して目ぼしい「運動」「出来事」「人物」など《指標/マーカー》を増やしていけばよいのではないか。そのプロセスで自分に絡んだ事柄が一つや二つ出てくるだろう。




(2)拡散追跡型
 ※本当は「エキュメニカル」を使いたいところだが、「リベラル対エヴァンジェリカル」対立の名残がまだ尾を引いていると思うので、ここでは使わないことにする。

 歴史を学びながら、自らの信仰生活で使用する「言語」や「習慣」にいくらかでも自覚的になり、そのうちの幾つかは「キリスト者に広く用いられている」ものと、そのうちの幾つかは「キリスト者の特定のグループに特徴的である」もの、というふうに「共通点と相違点」にどれだけ敏感になれるかが大事だと思う。
 ただものによってはニュアンスの違いが微妙すぎて「なぜそんな違いに拘泥したのか」みたいなこともあるだろう。つまり「カトリックとプロテスタントの違い」も良く知らない人のレベルからスタートすることになるわけで、「違い」を面白がり知りたがることが大事ではないか。(分散した状態であることをよしとする意味ではないことはもちろんである。)
 これは小グループで集ったキリスト者間での「相互理解」という面で実際的な知識になるだろう。 

以上、次回に続く。

2018年8月25日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年8月26日(日) 午前10時30分


朗読箇所 伝道者の書 7:1-29
説 教 題 「順境の日と逆境の日」
説 教 者 小嶋崇 牧師


聖書に見る人生観、伝道者の書(7)

2018年8月23日木曜日

(3)「次世代教会」を展望して、4

今回は「今日のツイート」みたいな感じで始めたい。



既にご存知の方も多いと思うが、米国ペンシルバニア州大陪審の調査によって当地のカトリック教会の司教・司祭たちによる長年の児童・青少年性虐待が明るみに出た。(カトリック中央協議会

その事態を受けてこのツイートになっている。

まだ日本語で読めるものではこのカトリック教会の一大不祥事(というような表現ではとても収まらない深刻なものに思われるが)の波紋がどの程度のものかは殆ど分からない。

しかし英語で検索すれば事態の深刻さは充分うかがい知れる。
この問題はローカルなものではなく、今後の展開ではおそらく全米各地にその波紋が広がり新たな報告や追及が続いて出てくると思われる。

問題は構造的であり、ヒエラルキー的教会政治構造・独身司祭制度に関わるため「膿を出す」とか「改革を継続する」ような認識で果たして済むのか予測するのが難しい。

かなりの迅速さで改革が進まないと信徒の脱会に歯止めがかからなくなる恐れは充分にあるだろう。

さて今回は「米国ペンシルバニア州大陪審調査報告」に関するものではないので、カトリック教会のことはそこまでにする。

(1)教会の聖化
このツイート主が指摘したポイントは的を射ている。
福音宣教プログラムが充実し、大勢教会に人が来ても、教会が罪にまみれたままなら「ざるで水を掬う」ようなものに違いない。

ホーリネス(聖化)は教会にとって本質的問題であり、いまや窮地に立つカトリック教会だけでなく、新興宗教然の多くのプロテスタントの教会でも苦難に喘いでいる問題である。

(2)「キリスト者の成長」を視野に入れたグループ形成
前回、小グループ指導者として、(1)(キリスト者の)召命、(2)柱となる活動についてヒントとなる聖書箇所を提示した。

詳細は置くが、伝道の困難な時代にあって既存の教団・教会が衰退している中、「次世代教会」が果たさなければならない役割はやはり「宣教(ミッション)」であると思う。単なる生き残りでは「継続の目的」として不十分と言わざるを得ない。

ただ「不振の時代」になってこそ注目が集まるのは「信徒による伝道」や「フラットな人間関係構築とネットワーク形成」、そしてそれを助ける「インターネット環境」であり、それらの要素をヒントにした「信徒指導者のための神学教育」のようなものを今このシリーズで少しずつ考えているわけだ。

最初にカトリック教会という歴史的にも世界的にも巨大な組織にとって、「聖化」の問題がいかに難しいかに注目した。しかし考え違いをしないようにしたい。

教会の歴史で腐敗した(母)教会から分離して新しいグループを形成すれば、その反省を生かして「聖化」の問題をクリアーできるかと言うと、そう簡単ではない。

「聖化」の問題は教会が「巨大」かどうか、「組織的・制度的」かどうか、「教会権威構造がヒエラルキー的」かどうかでは収まらないものであり、キリスト者であることの本質的なことに関わるものであることを肝に銘じておきたい。

ここでもやはり「召命」が問題を捉えるスタートラインだ。

ただ「聖化」を「道徳的純潔」の面だけで捉えると、「世からの分離」に拍車がかかり、「世に出て行く」宣教的姿勢が鈍る傾向がある。

たまたま筆者のフェイスブック友達が「音楽ジャンル」としてロック(特にヘビー・メタルのような)をどう考えるか、みたいな話題を挙げてそれに多くの方がコメントしていた。

悪魔崇拝やドラッグ・カルチャーのような悪影響から教会音楽を守るため排除した方がいいのか。
若者(に限らないかもしれないが)文化の中に入り、クリスチャン・ロックというメディアを作って行く事によって、福音を文化の内側から浸透させる方法もありうるのか。
そんな問題である。

この辺の問題は「聖俗二元論(永遠vs世俗=テンポラル/temporal)」という視点で長年考究されてきた問題で、それこそ教会史を貫くものであり、どっちを選ぶかといったような簡単に片付くものではない。

脱線してしまったが、「聖化」の問題はキリスト者の「召命の『完成』」に関わる問題であり、新約聖書の書簡が繰り返し具体的に取り上げている問題であることをまず認識しておきたいと思う。

ということで小グループ指導者の「神学教育」として、「宣教(アウトリーチ)」と「教会の聖化」は両輪として視野に入れて学ぶべきではなかろうか。
すこし欲張りだが「宣教」的視点から聖書を学ぶことや、「聖化」の視点から新約聖書書簡を学ぶ、みたいな焦点を絞ったコースがあってもいいのではないかと思う。

(続く)


2018年8月21日火曜日

(3)「次世代教会」を展望して、3

前回、「次世代神学教育」みたいなことを話し始めました。

少し続けます。

既に2回引用した中にあった「次世代教会」の形態として
 (1)小グループ、家庭集会型
 (2)専門職を置かない自給型
がラフな特徴として言えると思います。

かなり簡単・曖昧なイメージですが、しばらくこれで引っ張ってみます。

このようなタイプが「次世代教会」の主流になるかどうかは別にして、制度的教会が弱体化し、ネット文化によりますますフラット志向に社会が動けば、このような形態のキリスト者のグループが増えて行くことは充分考えられます。

既に米国その他の地域で、制度的教会に対抗する教会のあり方として「イマージェント」と呼ばれる、いわば草の根運動が1990年代辺りから起こりました。
※ 「イマージェント」については過去の記事で簡単に説明した
 彼らはキリスト教会の様々な制度面に対し否定的態度を取る傾向が強い。
スモールグループで、集会や聖書研究を行い、自分たち自身のキリスト教表現に忠実であろうとする傾向が強い。さらに、「社会正義」「環境問題」など保守的福音派が余り正面から取り組んで来なかった問題に関心が強い。
「イマージェント」のような場合、小グループ型「次世代教会」の指導者になるよう「召命」や「志し」を持つ方は既成の教会に対する幻滅や批判を通して小グループを始める、と言うケースが多いと思います。

そのような小グループから会衆が増え、会堂を取得し、専門ワーカーを雇って「教会」のようになるケースも出てくるかもしれませんが、(日本の場合は殆ど考えにくいので)あくまで小グループのまま存続することを前提して、そのようなグループ指導者となる方に相応しい神学教育はどんなものかを考えて行きたいと思います。

(1)(理想的には)召命(Call)を意識
現実にはなかなか難しいかもしれませんが、(筆者が影響を受けているN.T.ライトさんの主張を活かせば)そのような指導者は「福音」と「召命」を出来る限り明確に意識していることが望ましいと思います。
主イエス・キリストの福音が宣言されるとき、聖霊の自由な働きによって「召命(call)」がなされ、それに応答する「信仰の従順」を出発点とする。
キリスト者のグループはどんなタイプのものであれ、「召命(calling)」に基づいて形成されるのが望ましいと思います。その際「召命(calling)」は教会のために働く専門職に就くという意味での召命ではなく、福音によって「呼び出された者たち」すべてに適用されるものです。

換言すれば、小グループ指導者は、仲間のキリスト者たちと共に、「召命」に対する自覚と理解を深め、「召命」に相応しく生活することを継続的に集って学ぶよう励ますことが出来るよう訓練する必要があると思います。

(2)グループの「柱となる活動」への理解
小グループと云うのは多分に自然な流れで形成される「仲間」のような傾向が強くなるのではないか。アットホーム、くだけた、ナチュラル、親しみやすさ、などグループ形成に多いに長所となる反面、中心となるもの、そもそもなぜ集るのかという目的や使命がいつのまにか曖昧になりやすい。そのバランスが崩れないように敏感にグループダイナミクスの方向を察知し、「中心に戻す」能力が指導者には求められると思います。

つまり、一にも二にも「召命を受けた者たち」のアイデンティティを自らもそして仲間も保持するだけの粘り強さが肝心かと・・・。

そういう意味では活動として中心になるだろう「共同聖書研究」で使徒の働きを読むことが相応しいのではないかと思う。

先ず「グループの柱となる活動」については、使徒の働き2章41~47節を時間をかけてじっくり学ぶことがいい。

次に「アイデンティティ保持」に関しては、使徒の働き20章のパウロの決別説教から多くの示唆を受けることが出来るだろう。

2018年8月18日土曜日

(5)タカ牧師のRR 2018/8/18

多分今度で3回目の「タカ牧師のRR」です。
(RRとは、Recommended Reading、の略です。)

前回、2回目はNYT(ニューヨーク・タイムズ)のコラムニスト、デーヴィッド・ブルックス青年教育のチグハグ(Mis-Educating the Young)(2017年6月25日)を選びました。


今回はかなり長い記事で、趣向も今までとかなり異なりますが、読み応えがあっていいかと思い選びました。


The un-celebrity president
Jimmy Carter shuns riches, lives modestly in his Georgia hometown

(2018年8月17日、ワシントンポスト)
 

「セレブリティ」という語が使われていますが、米国の歴代大統領の中でそれほど評価が高くなかったカーター大統領が「いま」注目されている資質は「品格」的なものです。

それほど「大統領」のイメージは金まみれでセレブ的になり、米国の庶民からかけ離れてきた、と云う感慨が背景にあるようです。

「カーター大統領」が(ある意味)レジェンド扱いされるほど、等身大の人間が大統領になるのが難しくなってきているのでしょうか・・・。
比較は難しいですが、日本で言えば「村山富市首相」に似た感じですかね・・・。

 
記事は長いですが、(父・子)ブッシュ、レーガン、クリントン、オバマ、と最近の大統領やその前の大統領の「人となり」を例に出しながら綴ったわりあい読みやすい文章です。
長いのが大変な人には、2~3回に分けて読めば攻略できるでしょう。


良かったら皆さんもどうぞ。

総ワード数: 2700
英語レベル: 中(5段階の2~3)

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年8月19日(日) 午前10時30分


朗読箇所 エペソ 2:1-10
説 教 題 「豊かな恵みを現す」
説 教 者 小嶋崇 牧師


エペソ書講解(8)

2018年8月16日木曜日

(3)「次世代教会」を展望して、2

さてどの辺りからトピックを立てて行こうか・・・。

ざっと言うと今念頭にあるのは、(恐らく小グループの)信仰共同体をリードする「牧師」にせよ「信徒」にせよ指導者の「神学教育」はどのようになされるのか、と云う課題。

前回紹介したあるブログ記事の引用からスタートします。
既存の教会制度が崩壊していく中で、間違いなく主流になっていくのは、一人一人の信者の自発的な働きによる、ホームチャーチや小グループです。
ネット環境さえあれば、いくらでも聴けるメッセージがあります。何十人、何百人も集めようとしなければ、個人宅で十分です。
一つの教会で、一人の専任の牧師を置くというこれまでのあり方をやめて、自給伝道を中心にしていくならば、経済的な負担も、比較にならないほどに軽減されます。
インターラクティブ・ラーニング

上記の引用で集会のときに聞くメッセージはネットから・・・ということが言われています。
恐らく既に牧師が常駐していない「小さな教会」や「伝道所」そして「家庭集会」のような集会ではそのような方式が取られているのだろうと思います。

しかし問題は「現状の日本の教会が縮小して行く過程でどう対応するか」ではなく、「次世代教会のリーダーシップをどうやって作るのか」という課題です。

簡単に言えば、教団立の神学校でさえ尻すぼみになっている現状でどうしたら神学教育を現代文脈に沿った方で整備できるのかと云う二重の問題です。

一つは日本の神学校の神学教育の現状は「伝統的科目」をこなすことさえ人員・資料/図書館的に不十分・追いついていない、ということです。(日本の神学校で教育を受けたわけではなく、また神学教育に携わったわけでもないので、伝え聞くところと間接的な観察によるところとの印象でものをいっています。)

もう一つより重要なことは「次世代」の教会が担うべき神学的課題をどう把握しどうアプローチするか、という「神学的リーダーシップ・イニシャティブ・イノベーション」が神学教育に携わっている層からまだまだ出てきていないように見受けることです。

そんな中でネット社会が急速に進み、キリスト教界でも「動画を用いたオンライン神学教育」を開発する動きが出てきました。

自前の神学校施設を持たずとも、ネット環境を使ってよりインターラクティブな教育にシフトして行くのではないか、と思います。

神学コース・カリキュラム
せっかくの機会(危機でもあり機会でもある)ですので、伝統的神学教育科目(聖書学・組織神学・実践神学)を「次世代」の視点から再構築するようなアプローチが求められるのではないでしょうか。(いつか考えてみたいトピックです。)

神学リソースと教材
ここでも思うのですが、英語で得られるリソースを組み入れられるのならかなり豊富になるのですが・・・。

読書会
N.T.ライト読書会をリアルでもフェイスブックでも主宰してきた経験から言うのですが、現時点で日本語でのインターラクティブ・ラーニングはやはり「きっかけ」や「入門」の域を出るのは難しいと思います。

もし「次世代」の「リーダーシップ」層を発掘し・コーチするとなるとやはり実際に顔を合わせて「テキストを読み」「ディスカッションする」ことができる「定期的小グループ・ミーティング」を構築する必要があると思います。

おそらく「次世代」というテーマがプルとなって更なる「学習トピックや領域」が見えてくるのではないかと思います。



以上「次世代神学教育」はこんな感じじゃないかなーとおぼろげながら見ていることの輪郭の一部をご紹介しました。

2018年8月14日火曜日

(3)パウロと“ユダヤ教”

2017年に新改訳聖書の新しい訳が出版された。
筆者が購入したのはそれより大分遅れて今年の7月だった。
それ以降「聖書通読」の時にはこの新改訳2017を使っている。

訳文にはかなり大幅な改訂がほどこされた(ような)ことを聞いていたので(かえって)期待して読んでいるのだが、「これは!」と思う箇所は(残念ながら)あまりない。

さて今朝の通読箇所でガラテヤ1章を読んだ。
新鮮に目に入ったのは13、14節だった。
1:13 ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。(新改訳2017)
1:13 以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。(新改訳)
何が新鮮だったか、と云うと引用で強調したように「ユダヤ教」という語が用いられていることだった。
それで旧を見てみると「ユダヤ教徒」とはあるが基本的には変わっていない。

つまり自分の方の受け取り方に従来とは違うものがあったことに気がついた。

端的に言えば、「えっ当時『ユダヤ教』という呼び名が通用するほど一つの宗教としてのまとまり・個別の輪郭を持っていたっけ・・・」という疑問であった。

つまり、使徒パウロの「回心前」と「回心後」の違いを、「パウロとユダヤ教」の関係で表すとどうなるか、と云う問題でもある。

図式化すると大体3通りになる。
(1)回心前=ユダヤ教、回心後=キリスト教
(2)回心前=ユダヤ教、回心後=キリスト教、とユダヤ教
(3)回心前=ユダヤ教、回心後=ユダヤ教、とキリスト教

これでは細かなニュアンスが表せないが、要するに回心後のパウロにとってユダヤ教はどうなっていたのか、という問いである。

「キリストにある」素晴らしさのゆえに、ユダヤ教を誇りに思っていたことはすべて無価値となり、律法も含めて否定したのか・・・。

キリスト者となった後も、自身はユダヤ人として行動したが、異邦人キリスト者にはユダヤ教は必要ないと教えたのか・・・。

そんなパウロ自身の「アイデンティティ」にも関わる問題であり、当然ガラテヤ書やロマ書の理解に大きな影響を及ぼす問いでもある。

英語では、最近 Paul Within Judaism という視点が大分取り上げられるようになってきた。簡単に言うと、パウロは回心後もユダヤ教から出ていない、という見方だ。

興味深いので新改訳2017だけでなく、N.T.ライトの個人訳新約聖書であるKNT(Kingdom New Testament)の訳文を引用しておこう。
13 You heard, didn’t you, the way I behaved when I was still within ‘Judaism’. I persecuted the church of God violently, and ravaged it. 14 I advanced in Judaism beyond many of my own age and people; I was extremely zealous for my ancestral traditions.
[2018/8/14 追加]
※N.T.ライト読書会ブログに「Paul within Judaism」をアップしました。
この記事で書いたことのアカデミック版のようなものです。ほぼすべて英語ですが、ネットで読める関連記事を色々紹介しています。

《関連記事》

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き2)


2018年8月13日月曜日

(3)「次世代教会」を展望して、1

今年に入って更新回数がめっきり減ってしまった。

お世話している読書会や読書会関係の働きもお休み中だ。

そんな状況なので「『次世代教会』を展望して」を連載してみようと思っているが極めてランブリング(rambling)なものになること請け合いだ。

しかしやろうと思うだけの切実な状況はひしひしと感じている。

「『次世代教会』を展望して」これまで考えてきたことをどれだけ整理して一回一回の記事にアウトプットできるかはもう出たとこ勝負でやることにしよう。

しばらく右往左往トピックが変遷するかも分からないが、筆者の頭の中ではそれら乱雑なトピックも一応繋がっているのだろうな、と云う希望的観測の元に読み進めてほしい。

発端はどの辺りに?

 時系列的に見て近い方では以下の三つの記事が今回「『次世代教会』を展望して」を連載することに関わってきます。

隠れキリシタンになる前に 20年後(?)の日本の教会を見据えて(2017/2/19)
隠れキリシタンになる前に 余波1(2017/2/22)
隠れキリシタンになる前に 余波1(続)(2017/3/1)

この最初の記事で取り上げた「某教団の聖職者」が一年経ってあるプロジェクトを開始し、先日その報告のための会を開いた。
詳しいことは書けないが、そのプロジェクトは記事で書いたものとは大分様相が違っていた。
日本全国の教会の現状を現場に赴いてリサーチしそれをまとめる、と云う段階をスキップして、むしろ「次世代教会」のモデル構築に具体的に着手したわけである。

次世代教会とは何か?

 それは一定数の信徒を集め、彼らの献金によって専門ワーカー(牧師とか伝道者とか)が施設(教会堂/牧師館)に定住して宣教する…という《従来型》に対し、農業に従事する共同体を形成して伝道する…という《自給型》だ、と云う説明であった。

 その話を聞きながら「勇気あるなー」「開拓者精神がすばらしい」と心の中で思いながらも釈然としないものも多く残った。

 会の後半の質疑応答で「釈然としないもの」の中の一つは語ったが、もはや問題はその方のプロジェクトの是々非々ではなく、現在日本で伝道に従事している「我々一人一人」がどう「次世代」の教会の課題を引き受けたらいいのか、ということだと思った。

あるブログ記事


 日本基督教団の将来を予測してそれを「2030年問題」として捉え、どのように対応したらいいか、ということをある方が書いています。
 その中で以下のような展望を掲げています。
既存の教会制度が崩壊していく中で、間違いなく主流になっていくのは、一人一人の信者の自発的な働きによる、ホームチャーチや小グループです。
ネット環境さえあれば、いくらでも聴けるメッセージがあります。何十人、何百人も集めようとしなければ、個人宅で十分です。
一つの教会で、一人の専任の牧師を置くというこれまでのあり方をやめて、自給伝道を中心にしていくならば、経済的な負担も、比較にならないほどに軽減されます。
すでに・隠れキリシタンになる前に 20年後(?)の日本の教会を見据えて(2017/2/19)で書いたように、日本の人口動態予測や少子高齢化社会等、構造的変化を見据えればある意味現実的な対応と言えるかもしれません。

ただまだまだ議論の中心に見えてこないのは将来的にキリスト教グループが日本社会に生き延びるとしても、そもそも「何のために生き延びるのか」。生き延びるだけの「使命・ミッションは何なのか」が問われていないように思うのだが・・・。


まずはそんな切り口で始めて行きたいと思います。

2018年8月11日土曜日

明日の礼拝はお休みとなります

巣鴨聖泉キリスト教会での明日、

8月12日の主日礼拝

はお休みとなります。

どうぞお間違えありませんようにお願い申し上げます。


※例年になく厳しい暑さの日々ですが、熱中症等 健康にはくれぐれも留意してお過ごしください。

2018年8月4日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年8月5日(日) 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 10:1-33

説 教 題 「キリストは和解の礎」
説 教 者 小嶋崇 牧師

「かなめ石」考 (8)
 エペソ書の学び(16)、パウロ書簡(178)

2018年7月28日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年7月28日(日) 午前10時30分


朗読箇所 マタイの福音書 9:35-38
説 教 題 「王がない状態」
説 教 者 小嶋崇 牧師


現代とスピリチュアル(2)



そのころ、イスラエルには王がなく、
めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。 
     (士師記17:621:25、新共同訳)

2018年7月21日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年7月22日(日) 午前10時30分


朗読箇所 伝道者の書 6:1-12
説 教 題 「短い人生の幸福」
説 教 者 小嶋崇 牧師


聖書に見る人生観、伝道者の書(6)

2018年7月14日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年7月15日(日) 午前10時30分


朗読箇所 エペソ 2:1-10
説 教 題 「罪のために死んでいた」
説 教 者 小嶋崇 牧師


エペソ書講解(7)

2018年7月10日火曜日

今日のツイート 2018/7/10

「英語圏」限定ではないのですが、米国カンザス州カンザス・シティーで開く「神学会義」に誰か3人神学者を招くとしたら???

ということでツイッターによる市場調査・意見集約をしている感じのツイートです。

多分に人気投票みたいな雰囲気ですが・・・。



リストアップを思いっきり「古今東西」に拡散させたリプも多少あります。

英語圏の方々がどんな(現存)神学者の影響下にあるかが少し分かるような気がします。


2018年7月7日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年7月8日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 6:8-15、7
:48-53
説 教 題 「新しい神殿」
説 教 者 小嶋崇 牧師

 
「かなめ石」考 (7)
 エペソ書の学び(14)、パウロ書簡(176)

2018年6月30日土曜日

今日のツイート 2018/6/30

へー、あの若松英輔さんがこんなのをRTしている



・・・と思って見てみると、なになに Lamb of God?

どうもこのヘヴィーメタルのバンドの歌詞にはやたらと聖書関連のボキャビュラリーが出てくるではないですか。

しばらく調べてみると特にクリスチヤン・バンドではないらしい。

ついでにその流れで検索していたら
Test your knowledge: Heavy Metal Lyric or Bible Verse?
(『知ってるかな? ヘヴィーメタル音楽の歌詞でしょうか、聖書の言葉でしょうか』)

で、このリンクに出てくるクイズをやってみたら結構難しい。
(筆者は16問中13問正解でした。)

興味のある方はどうぞ。

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2018年7月1日(日) 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 13:23-43
説 教 題 「『子』について」
説 教 者 小嶋崇 牧師

使徒信条考(5)
※聖餐式があります。

※梅雨も明け、暑い日が続いています。夏季礼拝時間(正味50分に短縮)を開始します。

2018年6月23日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年6月24日(日) 午前10時30分


朗読箇所 伝道者の書 5:1-20
説 教 題 「神の賜物」
説 教 者 小嶋崇 牧師


聖書に見る人生観、伝道者の書(5)

2018年6月16日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年6月17日(日) 午前10時30分


朗読箇所 エペソ 2:1-10
説 教 題 「救いの事実とその理解」
説 教 者 小嶋崇 牧師


エペソ書講解(6)

2018年6月9日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年6月10日(日) 午前10時30分


朗読箇所 ヨハネの福音書 4:19-26
説 教 題 「ともに御父に近づく」
説 教 者 小嶋崇 牧師

 
※礼拝後、昼食会があります。  
 

エペソ書講解(12)、「かなめ石」考 (6)

それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、 (エペソ2:18-19、新共同訳)
          

2018年6月2日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2018年6月3日(日) 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 14:8-18
説 教 題 「『神』について」
説 教 者 小嶋崇 牧師

使徒信条考(4)
※聖餐式があります。

2018年5月31日木曜日

(5)ジョン・T・ヌーナン(1926-2017)

散歩のときに講演録など音声ファイル(mp3フォーマット)を聞くことは前に何度か書いた。

  (5)ペテロの役割(マーカス・ボックミュール、オックスフォード大教授)  

  (5)現代の英語圏神学者④、ジョン・B・コッブ Jr.

そんな流れで、最近聞いた中で「一番面白かった」ものを紹介したい。 

 

米国ジョージア州アトランタにあるエモリー大学はメソジスト派の大学でデューク大や南メソジスト大と肩を並べる有名校だ。

そのエモリー大の神学部(キャンドラー神学校※)の『マクドナルド・レクチャー』に2002年招かれて講演したのがジョン・T・ヌーナン(John T. Noonan, Jr.)合衆国連邦控訴裁判所判事だ。(彼は第9巡回裁判所判事という肩書きだが、ややこしいことは置いておく。)

※「神学校」はセミナリーの訳として定着している。それに対し大学院の神学部(ハーバードやデュークだとディヴィニティ・スクール、エモリーや南メソジストだとキャンドラー・スクール・オブ・セオロジー、パーキンス・スクール・オブ・セオロジー)は多少性格が異なる。しかし筆者は大抵の場合それらの学校をセミナリーの意味で「神学校」と訳している。しかし日本ではそのような事情が余り知られていないためか、セミナリーと名がついている学校まで(筆者が行ったアズベリーやプリンストンなど)わざわざ「神学大学院」と訳す方がいるので違和感を感じるのだ。

ヌーナンはカトリックの信徒で、判事としての長いキャリアと共に、大学の法科大学院(ロー・スクール)でもカリフォルニア大バークリー校やノートルダム大で教鞭を取り、法学関係の著作も多い。

その『マクドナルド・レクチャー』は2002年の10月28日~31日にかけて計4回行われたが、「イエスと道徳の専門家たち(Jesus and the Masters of Morality)」と題して

(1)「イエスと裁判官(Jesus and the Judges)」

(2)「イエスと銀行家(Jesus and the Bankers)」

(3)「イエスと姦淫の女(Jesus and the Adulterous Woman)」

(4)「イエスと女奴隷(Jesus and the Slave Girl)」

の順になされた。

ヌーナン講演の面白さは何と言っても「法律家・判事」の専門的知識・関心がいかに(資料である)新約聖書(福音書)を「丹念にセンシティブに」読ませるものか、と云うところにある。

筆者のように牧師としてある程度聖書を研究もし時間をかけて読んでいるつもりでも、イエスの教えに関わる制度的なこと(婚姻、利子、奴隷など)は「背景的なこと」として持ち合わせの一般的・常識的知識を前提に読み過ごしやすい。

しかし、ヌーナンは当時の制度がどのようになっていたのか、そして社会的弱者たちがそれら制度の陥穽にどのようにはまって苦しんでいたのか、その状況を克明に浮き彫りにしようと「行間」まで読むのである。

その究明のプロセスでは、自身の法律的知識はもとより、広範な歴史や神学の知識を総動員させる。その徹底した究明の仕方に、人のいのちや運命を左右する法律家・判事としての凄みを感じる。

詳細は紹介できないが、是非4つの講演を聴いてみる事をお奨めしたい。

※音声ファイルは
から入手できる。(もちろん無料だ)

2018年5月26日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年5月27日(日) 午前10時30分


朗読箇所 伝道者の書 4:1-16
説 教 題 「日の下で行われるいっさいのこと」
説 教 者 小嶋崇 牧師


聖書に見る人生観、伝道者の書(4)

2018年5月19日土曜日

明日の礼拝案内

ペンテコステ主日礼拝

2018年5月20日(日) 午前10時30分


朗読箇所 エペソ 1:15-23
説 教 題 「昇天と即位」
説 教 者 小嶋崇 牧師


エペソ書講解(5)

2018年5月15日火曜日

今日のツイート 2018/5/15

久しぶりの「今日のツイート」です。

「キアスムス(交差並行法)」
 旧約聖書によく見られる「文芸的(リタラリー)技法」のことですが、ジェームズ・ジョーダンと云う方が「6書(ヘクスタチューク)」を交差並行法の視点で分析した結果がこうなったというツイートですね。

※「キアスムス(交差並行法)」についてはこの紹介などいかがでしょう。

2018年5月12日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年5月13日(日) 午前10時30分


朗読箇所 ルカの福音書 20:9-18
説 教 題 「礎の石となった」
説 教 者 小嶋崇 牧師

 
エペソ書講解(10)、「かなめ石」考
(5)

※礼拝後、昼食会があります。

2018年5月10日木曜日

2018 友の会バザー

友の会バザーご案内

日時☆2018年6月7日(木)午前11時~12時20分
場所☆巣鴨聖泉キリスト教会
 豊島区巣鴨1-3-19
     活水工房(教会隣り) 豊島区巣鴨1-3-20
※開始時間前に「整理券」が配られます。

出品物:
 * 友の会ならではの吟味された・・・手作りのパウンドケーキ、マドレーヌ、ごませんべい
 * 丁寧に心をこめて作った・・・エプロン、布巾、ピロケース、鍋帽子
 * 恒例の雑貨、中古衣料など

☆収益金の一部は被災地に寄付されます。
 
主催:東京第一友の会 文京方面
 
 

2018年5月5日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2018年5月6日(日) 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 10:34-43
説 教 題 「使徒信条とイエスのストーリー」
説 教 者 小嶋崇 牧師

使徒信条考(3)
※聖餐式があります。

2018年4月28日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年4月29日(日) 午前10時30分


朗読箇所 マタイの福音書 9:35-38
説 教 題 「羊飼いのいない羊たち」
説 教 者 小嶋崇 牧師


現代とスピリチュアル(1)

2018年4月21日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年4月22日(日) 午前10時30分


朗読箇所 伝道者の書 3:1-22
説 教 題 「いつになったら目覚めるのか」
説 教 者 小嶋崇 牧師


聖書に見る人生観、伝道者の書(3)

民の愚かな者よ、気づくがよい。
無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。
耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。

目を造った方に見えないとでもいうのか。
人間に知識を与え、国々を諭す方に/論じることができないとでもいうのか。
主は知っておられる、人間の計らいを/それがいかに空しいかを。
    (詩篇94:8-11、新共同訳)

《説教解説》
 伝道者の書3章1-8節は「すべてのことには時がある」という意味深な詩になっている。
 1960年代、この古代イスラエルの詩(欽定訳)に曲をつけて反戦歌にしたのがピート・シーガーであった。
 彼は詩の最後「戦いのとき、平和のとき」の「平和のとき」に「I swear it's not too late(まだ戦争はやめられる)」と自分の言葉を継いで平和への願いを込めた。
 ピート・シーガーはこのインタヴューで伝道者の書3章1-8節を解説して次のようなコメントをしている。
The world is full of opposites, inter-tangled; [世界は相反するもの同士が絡み合っている。]
good and bad tangling up all the time. [良いものと悪いものがいつも交錯している。]
Nobody knows. God only knows. [(なぜそうなのか)誰も分からない。神だけがご存知なのだろう。]
おそらく3千年(?)前の詩人も似たようなことを人生に感じていたのではなかろうか。



大ヒットとなったバーズ版

2018年4月14日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年4月15日(日) 午前10時30分


朗読箇所 エペソ 1:15-23
説 教 題 「心の目で掴む」
説 教 者 小嶋崇 牧師


エペソ書講解(4)

2018年4月8日日曜日

(3)イクサス・フェスティバル、ラリー・ノーマン、マイク・ペンス

最近ブログを更新する機会が減っている。

時間つぶしの記事でも書いておこう。(としたためてはみたものの未だにアップしていない。)

アズベリー神学校時代(1978-1981)のことになる。

学校のあったケンタッキー州ウィルモアという小さな町の近くに「キャンプ・グラウンド」と云う場所がある。

知っている人は知っている19世紀「信仰復興運動(リヴァイヴァル運動)」華やかなりし頃、野外の天幕集会に大勢の人が集ってキリスト教の説教が延々と行われた。

その野外集会(あるいは天幕集会)のことを「キャンプ・ミーティング」というのだがその場所を「キャンプ・グラウンド」と呼んでいた。

アズベリー神学校の新約学(主にギリシャ語釈義)の教授でボブ・ライオン教授という人がいた。(この記事でも少し紹介した。)

彼は教授陣の中で多少異彩を放っていた。(そう言う教授は他にも結構何人もいたが・・・。)

異彩の放ち方は様々だがライオン教授の場合はクラス外でも若者(というか神学生)たちと一緒にいるのが好きで、さらにそれらの何人かの神学生たちとは「インナーサークル」を作り親密な弟子訓練みたいなことをやっていた記憶がある。

1970年代に入ってだったと記憶するが、ウッドストック・フェスティバルの影響力に感銘を受けてキリスト教でも似たような音楽フェスティバルができないか、とライオン教授の発案で始まったのがイクサス・ミュージック・フェスティバルだった。

アズベリー神学校やアズベリー大学の学生たちは「奉仕者」として登録すればただで参加できた。筆者は3年間のうち少なくとも2回くらいは「奉仕者」として参加したと思う。多分そのうち1回はカウンセラーをやったような記憶がある。

(主に)クリスチャン・ロックバンドの演奏の合間に伝道メッセージや聖書講演がなされ、質問やカウンセリングを受けたい者はいつでもステージの近くの場所でQ&Aやカウンセリングを受けられるようになっていた。

開催時期は毎年5月頃だったと記憶しているが、実は後から知ることになったのだが、アズベリー神学校に入学した1978年のイクサス・ミュージック・フェスティバルは二つのこと(二人の人物)で非常に記憶に残るものとなったのだった。

(1)ラリー・ノーマンのレガシー

一つ目はクリスチャン・ロックの草分けと云うか、比較して言えばボブ・ディランのような伝説的ミュージシャンが出演していた。

彼の名前はラリー・ノーマン。残念ながら2008年2月24日60歳の若さでなくなった。(追悼記事、クリスチャニティー・トゥデーニューヨーク・タイムズ

ところで、1978年5月のイクサスは、筆者はまだケンタッキーの山の中(バイブル・カレッジ)にいて参加できなかったわけだ。

まー参加したとしても、まだラリー・ノーマンも含めてコンテンポラリー・クリスチャン・ミュージックについては殆ど何も知らなかったわけだから、どーってことなかっただろうが・・・。

ユーチューブには1978年のはないが、1984年のがあるので(↓)、それを置いておきます。





(2)マイク・ペンス米国副大統領

もう一人“ニアミス”したのは、現米国副大統領のマイク・ペンスだ。

ペンスについては日本でも「福音派クリスチャン」としてかなり報道されているが、彼はもともと有力なカトリックの家で育った。しかし大学時代にはしばらく信仰から遠のいていたのだが、大学の友人の感化でクリスチャンになった。

しかしまだ“本物”のクリスチャンとなっていないことを自覚し、決心の機会を覚えていたときある伝道集会に参加し、そこで回心したのだった。

その伝道集会と云うのが「1978年のイクサス・フェスティバル」であった。

当時のことをこの新聞記事がまとめている。
VP Mike Pence shares why choosing Christ changed his life
And it was a few weeks later, I went to a, what was a great contemporary Christian music festival in Wilmore, Kentucky called Ichthus in 1978, and I heard lots of great singing, just like I heard this morning, and I heard lots of wonderful preaching.
And Saturday night sitting in a light rain I walked down, and not, ya know, not out of anything other than my heart really finally broke, with a deep realization what had happened on the cross, in some infinitesimal way, had happened for me, and I gave my life, and made a personal decision to trust Jesus Christ as my Savior”.
どうも「ラリー・ノーマン」の名前は出ていないので、それが目当てではなかったようだ。


《追記》

実はラリー・ノーマンについては今年3月伝記が出版されたばかりだ。

By Gregory Thornbury

著者のグレッグ・ソーンベリーはこれまた異彩を放っている人で、ラリー・ノーマンの伝記を書いているだけでなく、1950年代米保守派キリスト教を「ファンダメンタリズム」から「福音派」へと舵を切るのに多大な影響を発揮したカール・F・H・ヘンリーについても著書がある。



今では福音派の中でもカール・ヘンリーの神学的遺産の“限界”をいう人が多い中で、彼のような若手の中からヘンリーを“再発見”する人が出てきているのが興味深い感じがするのだ。




2018年4月7日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年4月8日(日) 午前10時30分


朗読箇所 マタイの福音書 16:13-20
説 教 題 「神殿と教会」
説 教 者 小嶋崇 牧師
 
エペソ書講解(8)、「かなめ石」考 (4)

2018年3月31日土曜日

明日の礼拝案内

イースター主日礼拝

2018年4月1日(日) 午前10時30分

朗読箇所 エペソ人への手紙 5:6-20
説 教 題 「眠っている人よ。目をさませ。
      死者の中から起き上がれ。」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※礼拝後、持寄り昼食会があります。

2018年3月24日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年3月25日(日) 午前10時30分

朗読箇所 伝道者の書 2:1-26
説 教 題 「快楽と労苦の行く末」
説 教 者 小嶋崇 牧師

聖書に見る人生観、伝道者の書(2)

2018年3月21日水曜日

今日のツイート 2018/3/21

「AIと教会」、というタイトルでもつけたらいいかなこのツイート。

2018年3月17日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年3月18日(日) 午前10時30分


朗読箇所 エペソ 1:1-14
説 教 題 「神の栄光をたたえるため」
説 教 者 小嶋崇 牧師


エペソ書講解(3)

2018年3月10日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2018年3月11日(日) 午前10時30分


朗読箇所 ヨハネの福音書 2:13-22
説 教 題 「土台石、ナザレのイエス」
説 教 者 小嶋崇 牧師

 
エペソ書講解(6)、「かなめ石」考
(3)

※礼拝後、昼食会があります。 

2018年3月8日木曜日

(4)自伝的「新約聖書学」最近研究状況レポート、 N・T・ライトを中心に

まもなく「2011.3.11」から7年が経ちます。

たまたま昔書いた(雑誌に寄稿した)小論がちょうど7年前であったことを思い出しました。

この小論は『リバイバル・ジャパン』誌、2011年3月20号の「シリーズ 神学交歓」コラムに掲載されたもので、N.T.ライト読書会ブログ で「ライト入門、のようなものをアップしました」記事でリンクを貼っていたのですが、今はリンクが切れてしまったままになっています。

これを機会に全文をこちらに転載することにしました。
新約聖書学に興味のある方に、そしてN.T.ライトに関心ある方に、何かの手助けになればさいわいです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

 自伝的「新約聖書学」最近研究状況レポート、

N・T・ライトを中心に

巣鴨聖泉キリスト教会牧師 小嶋崇
 
1 はじめに

「新約聖書学」のようなアカデミックな領域について一アマチュアに過ぎない筆者などが報告するのは些か分不相応な気がします。

筆者が敢えてこのような小論を試みるのはN・T・ライト(Nicholas Thomas Wright)に関することなのですが、その著作や講演の欧米での影響の広範さ、深さにも拘らず、日本語圏での紹介は、訳書にせよ(筆者の知りうる範囲では一冊のみ)、評論にせよ圧倒的に少ないという現状です。ライトの著作を英語で読める方々の中には、主に論争家(特にプロテスタントの『義認論』の伝統的解釈を脅かす人物)としてのライトが念頭にあるようで、警戒のためかあまり紹介してくれません。しかし後述しますが、ライトの著作の重要なものは「新約聖書神学」を巨視的・学際的・包括的にアプローチする『キリスト教の起源と「神」問題』シリーズです。(三巻目まで刊行されています。)こちらの方を優先的に取り上げて論評し、ライトに相応しい評価を下すべきだと思うのです。

ですからこの小論の目的は、日本の一般読者にN・T・ライトの主要著作を簡単にですが紹介することにあると思っています。(幾分詳しい紹介は拙ウェッブサイト「N・T・ライト読書会」をご参照ください。何本かライトの論文も翻訳してあります。

2 N・T・ライトとの出会い

筆者が初めてN・T・ライトの名前に接したのは1999年です。牧師の家庭に育ち、大学生の時に“救い”を受け、大学卒業後、献身して米国の神学校に学び、10年余に亘った留学を終えて父の牧する母教会の副牧師になって10年が経っていました。

大学生時の“回心”以来、「自覚的クリスチャン」として過ごしたその約20余年間、決して順調でも安定していたわけでもありませんでした。様々な葛藤・疑問・迷いがありました。しかしそれらは基本的に、小さい時から育てられ、“回心”時から持っていた所謂「福音信仰」の深化という「応用問題」であり、「福音信仰」の根底まで揺さぶるような問題ではありませんでした。

しかし副牧師として説教を始めて暫く経ち、最初は漠然と、しかし次第に深く、「私が保持してきた福音理解で大丈夫なのだろうか?」という不安・疑念が心を占めるようになってきました。説教をしている自分のコアで「何かが足りない」「根拠が弱い」と感じるようになっていました。

そのような時に、ある友人から贈られた1冊の本を通して一筋の光が差し込んできました。ジョージ・B・ケアードの『新約聖書神学』です。この本を端緒にして、次々と福音書の最近の(英文)研究書に触れるようになっていきました。それまでは神学校で学んだ聖書学の貯金を切り崩しながらやっていたような状況で、最新の聖書学を学ぼうという姿勢は全くありませんでした。その暫く後、別の友人からN・T・ライトの名前を聞くことになり、彼の著作を次々とのめり込む様に読むに至りました。

この頃だったと思いますが、福音書を読んでいて、ある“気付き”をしました。それは小さな気付きですが、その後の聖書解釈の取り組みに意識的な変化をもたらすものでした。ちょうど受難の箇所を読んでいた時のことです。イエスが十字架で死を迎えた時、福音書にはその死の意義を説明する、特に私が育てられた「福音信仰」の中核表現である「刑罰代償死」説のような「贖罪論」的説明が一切ないことに愕然として気が付かされたのです。

著作年代から言えば初期パウロ書簡よりかなり後に書かれたと思われる福音書に、なぜ十字架の救済的意義の説明が挿入されていないのだろうか。却って福音書の実際の叙述は弟子たちが師の十字架刑を前にして逃げ去ったことを記しているのです。 

このように福音書を少しずつ“歴史的”に読み解いていくと、自分が育った「福音信仰」における十字架の救済的意義の説明は抽象的・予定調和的に聞こえるようになりました。使徒たちの信仰は、実際にはもっと複雑な歴史的経路を辿って達したものなのではないか。私たちはどこかでその歴史的複雑な部分を捨象し、自分の“個人的な救い”の理解に都合の良い部分だけを掬い取っているだけなのではないか、と思い至りました。特に福音理解の「根拠」部分で、今までの自分の信仰に欠落していたのは「復活」であることを思い知らされました。それまでの「福音」は「十字架贖罪」一辺倒であったと思い至ったのです。

このようにキリスト教信仰の起源を“歴史的視点”から丹念にアプローチする訓練を提供してくれたのがライトの著作だったのです。

3 「史的イエスの探求」

最近の新約学の中でも「史的イエスの探求」は充実した時期を迎えているように思います。近代における「史的イエス」研究は、啓蒙主義の理性主義的キリスト教批判の道具となった「批評的聖書学」の影響に左右されてきた観があります。それは教会歴史の中で「キリストの神性」が強調されることによって見失われがちだった「キリストの人性」、すなわち「ナザレのイエス」という歴史上の人物に対する関心という反動的結果とも言えます。「歴史的関心」という近代理性がもたらした一定の評価がある反面、啓蒙合理主義に影響された新約学は、奇跡の否定も含めて、「事実と信仰」「自然と超自然」「歴史学と神学」「歴史のイエスと信仰のキリスト」等、新約聖書学、特に福音書研究に二元論的な思考を導入し、「ナザレのイエスは弟子たちによって神格化されたただの人」を当然の様に主張するに至りました。

アルバート・シュヴァイツァー、ヴィルヘルム・ヴレーデらによる研究が現在展開中の「史的イエス第三の探求」の起点となっているようですが(ブルトマン、そしてその後のケーゼマンらによる「新しい史的イエスの探求」が間に挟まり)、その約百年の間に外典・偽典研究、死海文書の発見やヨセフス研究、アレキサンドリアのフィロ研究、ラビ文書の研究などが累積してきて、「史的イエス」の背景となるいわゆる「第二神殿期ユダヤ教」研究が分厚くなりました。それで「史的イエス」研究の裾野はかなり広がり、研究者も多士済々の状況が出現しているようです。ベン・ウィザリントンは『ジーザス・クエスト』(1995,1997年)でその研究状況の多様性を七つに分類して紹介していますが、その基本的分類法は各研究者がナザレのイエスをどのような人物プロフィールでアプローチしているか、というものです。

筆者が特に「史的イエス」の問題と関わるようになったのは、共観福音書の講解説教をやるようになってからです。しかし最初は「共観福音書の神学的大テーマは『神の国』である」とおぼろげながら見当を付けたくらいで始まりました。ですからせいぜい『神の国』のワード・スタディーを中心にした手探りのような学びに終始していました。まだまだ「史的イエスの問題」までは視野に入っていなかったのです。

先ほどのウィザリントンは「第三の探求」を“現代”の史的イエス探求として、その研究者たちの中に「ジーザス・セミナー」の者たちまで加えますが、ライトの場合は、特にシュヴァイツァーが提唱した「イエスを終末的預言者」として探求する研究者たちに「第三の探求」を限定します。

筆者の場合、講解説教をしながらたとえ話、奇跡、パリサイ派との論争など、福音書記事を個別に釈義してその現代的適用を模索する説教ではなく、福音書が描写するナザレのイエスがどんな「意図」で行動し、どんな「目的」で十字架を目指したのかという「一貫した視点」でイエスを捉えようとする、ライトのような意味での「第三の探求」に次第に惹かれるようになりました。

この面におけるライトの著作では『キリスト教の起源と「神」問題』シリーズ第一巻目の『新約聖書と神の民』が方法論的問題の整理と、第二神殿期ユダヤ教、そしてそこから出現したキリスト教を「世界観的枠組み」で再構成した「大きな絵」を提示します。「史的イエス研究」(パウロ研究も)の序論的考察です。第二巻目の『イエスと神の勝利』が「史的イエス研究」プロパーで、この「大きな絵」を背景に「終末的預言者イエス」像を「ことば」と「行い」と「象徴」の角度からアプローチし、その十字架の死に至る道程を《統合された意味関連》として解明しようとします。「史的イエス」の再構成は、資料的には共観福音書に限定され、ヨハネ福音書は使用しません。また「復活」も『イエスと神の勝利』では扱わず、第三巻目『神の子の復活』で包括的に扱います。

詳述はできませんが特に筆者が目を開かれたと思うライトの福音書ナレーティブの釈義的論点は以下のようなものです。

先ず初歩的なことですが、ライトの「史的イエス」解釈のまとめ方の大事な点は、イエスの預言者的性格から再構成しているところにあると思います。(クリスチャンが福音書を読む場合、史的イエスではなく、三位一体の第二位格の神を読み込みがちではないかと思います。)

次に、「たとえ話」「警告のメッセージ」といった《言葉の要素》と「癒し」「悪霊の追い出し」「罪人・取税人との食卓の交わり」等《行いの要素》が、断片的エピソードとして味わわれ理解されるのではなく、イエスの歴史的宣教の全体像を構成するよう関連付けられていることが大事だと思います。

イエスの宣教は、洗礼者ヨハネの「終末の預言者」的活動を継続するものでした(「神の国」の到来を宣言)。十二人の弟子を召され「新しいイスラエル」を再構築する一方、イエスはイスラエルに対し繰り返し警告を発しました。それはヨハネの警告を踏襲しただけでなく、「この時代の内に」悔い改めなければ滅びるとの緊急性を帯びた警告でした。当時のイスラエルが待ち望んでいた「主の日」の審きは、イスラエル民族の敵であるローマに対して下されるのではなく、(先ず)イスラエルの悔い改めない者たちの上に臨む、との警告でした。それは個々人を含みますが民族の誇りの象徴であるエルサレムと神殿の上に破壊がもたらされることを、激烈な絵画的表現であるアポカリプティック(黙示あるいは黙示文学的)なメッセージを用いてなされたのでした。

十字架に架けられる最後の一週間、エルサレム入城からイエスのメシヤ的象徴行動はより明瞭になってきます。「神が王」となって「突然、その神殿に来る」(マラキ3・1)、ヤハウェが「エルサレムに戻られる」(ルカ19・44、『神の訪れの時』)、つまり「神の国」の訪れがクライマックスに差し掛かっているのに、イスラエルは気がつかなかったのです。従来「宮きよめ」と呼ばれる神殿での行動も、神殿への神の裁きを象徴するものと捉えられます。そして「人の子」が敵に引き渡された後に栄光を受けるというダニエル7章の預言を背景とした終末的、アポカリプティックな出来事として、イエスは十字架に架けられる道を「メシヤの召命」として受け入れたのです。

換言すれば、福音書の記述は、イエスの復活後の福音書記者の神学的考察によって創作されたのではなく、基本的にはイエスご自身の旧約預言成就の道筋を深く洞察した上で、自己への召命と理解し適用した結果であり、その意味でイエス自身が「神学者」であったとの理解がライトの解釈に反映されています。

さて「復活」の問題はライトの『キリスト教の起源と「神」問題』シリーズにおいて一つの中核的主題を構成しているように思います。福音派の大衆的福音説教は十字架贖罪一辺倒で復活はどこか付け足しのような感が否めない、と述懐しました。十字架は史実問題としては殆んど論証の必要がないほど明らかです。福音説教はその神学的意義の説明に集中する傾向があります。しかし復活はというと、近代の破壊的聖書批評学の影響もあって、史実としてきちんと論証されないままその意味について様々な解釈が一人歩きしてきました。福音派はと言うと、復活の意味を暗黙の了解的に「死に対する勝利」としてイースター説教で声高に叫ぶ程度です。復活の史実性は新約聖書証言の信憑性を強調するだけで、歴史的論証までには掘り下げられずに来たように思います。

ライトはイエスの復活を当時のユダヤ人の期待していた「神の国」の実現のシナリオとはかけ離れた形で、つまりメシヤの死と復活という形で実現した終末的・黙示的出来事として浮き彫りにします。ライトのこのような聖書神学的な解釈は、ルカ24章の弟子たちに対する「聖書全体」からの「イエスの十字架と復活において実現した神の国」の説明を跡付けるものと言えるでしょう。ライトは、このような解釈が使徒たちの「神の国」実現の理解となり、「神の国」は「イエス・キリストの福音」に集約された意味で解釈されている、と見ていると思います。

4 「パウロ研究の新パースペクティブ」

最近の新約学で特に大きな動きがあるのが「パウロ研究」と言えると思います。特にN・T・ライトもその一人に数えられる「パウロ理解のニュー・パースペクティブ(以下NPPと略称)」と呼ばれる論者たちが主張している研究動向です。

第一世紀ユダヤ教研究が進展するにつれ、キリスト教にとっては背景に過ぎなかったユダヤ教に関して歴史的により正確な理解がなされるようになりました。特にパウロ神学の中心的教義であると見られる「義認」の背景となるパリサイ的「律法主義」の見直しがなされるようになりました。

NPPの主要貢献の一つは、それまで主導的であった教義学的釈義の見直しであり、より歴史的に正確な『一世紀ユダヤ教』理解への関心です。この流れに先鞭をつけたのは、NPPが論議されるより約20年近く前です。Krister StendahlThe Apostle Paul and the Introspective Conscience of the Westが代表的です。NPPが論議されるようになった決定的な本は、E. P. Sanders, Paul And Palestinian Judaism (1977)です。名称としてNPPが一般的に用いられるきっかけとなった論文がJames D. G. Dunn, The New Perspective on Paul (1983)です。

NPP以前、パウロ神学は、その中心が『義認』なのか『キリストにある』なのか、と議論されるのが一般的だったようです。どちらにしても『義認』という宗教改革神学原則をパウロに読み込む〝神学的解釈〟優先の問題がありました。プロテスタントの義認解釈の父祖であるルターは、当時のユダヤ教を宗教改革当時の功徳を重んじたカトリシズムに見立てた解釈をしたわけですが、このような解釈はカリカチュアであることをE・P・サンダースの研究が実証しました。

このようにNPPの指導的研究者は、研究対象となる歴史的人物(パウロ、また史的イエスも同様)の歴史文化的背景となる「第二神殿期ユダヤ教」を歴史的に分厚く再構成することで、パウロ神学の新解釈の地平を切り拓いて行ったと言えます。

NPPの主要貢献二つ目に、「パウロ神学のナレーティブ構造理解」を挙げることができるでしょう。
パウロ神学理解に重要な視点を切り開いたサンダースでさえ、それを十分に活かしきれず、まだまだ伝統的神学解釈(『義認』か『キリストにある』か)に回帰する傾向がある、とライトは指摘します。

ライトはNPPを“新鮮な” と言う意味でのNP(ニュー・パースペクティブ)と言い換え、パウロ神学のナレーティブ構造と、その解釈技法を推進するヘイズの業績を高く評価します。Richard B. Hays, “The Faith of Jesus Christ (1983)や”The Echoes of Scripture in the Letters of Paul (1989)など。

パウロのより〝神学的〟な叙述が展開されるローマ、ガラテヤ、ピリピ、エペソなどは、表面上は「教理」と「倫理的勧め」のように、その後発展した「組織神学的叙述」構造のフィルターで解釈されて来ました。そのような解釈では、(旧約)聖書箇所引用はランダムに、プルーフ・テキスト的に見えます。しかしヘイズは、そのような〝神学的〟叙述構造を持つように見える箇所でさえ、実は絶えずその引用テキストが言及する大小の「ナレーティブ(創造、イスラエル、イエス、に関するストーリー)全体の余韻」を含めて喚起しようとするものであることを指摘し、その余韻や響きを「エコー」や「インターテクスチュアリティー」と名づけています。(ヘイズの場合は現代文学批評で用いられる『ナレーティブ』分析手法をかなり参照しています。)

NPPの主要貢献三つ目に、「パウロ神学の政治的コノテーションへの着眼」を挙げることができるでしょう。

近年、発展途上国の国際債務問題に新約学者ライトが度々言及します。啓蒙主義が提唱する「政治と宗教の分離」に対抗する意味もありますが、その背景には、史的イエス研究から出てくる近代的意味での「宗教家」の枠に収まらない「イエス像」も影響しています。神の国の福音は霊肉二元論では片付けられない現実政治へのコノテーション(含意)が確認されるからです。パウロ神学においても当時の政治的現実への視点が掘り起こされ、パウロの福音には「反・ローマ皇帝イデオロギー」の含意があることが主張されるようになってきました。復活したメシヤ・イエスの主権が皇帝に対抗する政治的意義があることを、パウロ宣教の中に見ようとする研究が進展しています。

5 結びにかえて
 この小論で簡単に取り扱った「史的イエス研究」を咀嚼した福音書説教や、「パウロ神学の新視点」以降の「義認論」で論議されている個人救済的な義認理解を拡大する「キリスト論的」「教会論的」枠組みを視野に入れたロマ書講解やガラテヤ書講解はなされているでしょうか。一般の牧師の説教においてこれらの知見が参照されて行くよう期待します。