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2018年8月14日火曜日

(3)パウロと“ユダヤ教”

2017年に新改訳聖書の新しい訳が出版された。
筆者が購入したのはそれより大分遅れて今年の7月だった。
それ以降「聖書通読」の時にはこの新改訳2017を使っている。

訳文にはかなり大幅な改訂がほどこされた(ような)ことを聞いていたので(かえって)期待して読んでいるのだが、「これは!」と思う箇所は(残念ながら)あまりない。

さて今朝の通読箇所でガラテヤ1章を読んだ。
新鮮に目に入ったのは13、14節だった。
1:13 ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。(新改訳2017)
1:13 以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。(新改訳)
何が新鮮だったか、と云うと引用で強調したように「ユダヤ教」という語が用いられていることだった。
それで旧を見てみると「ユダヤ教徒」とはあるが基本的には変わっていない。

つまり自分の方の受け取り方に従来とは違うものがあったことに気がついた。

端的に言えば、「えっ当時『ユダヤ教』という呼び名が通用するほど一つの宗教としてのまとまり・個別の輪郭を持っていたっけ・・・」という疑問であった。

つまり、使徒パウロの「回心前」と「回心後」の違いを、「パウロとユダヤ教」の関係で表すとどうなるか、と云う問題でもある。

図式化すると大体3通りになる。
(1)回心前=ユダヤ教、回心後=キリスト教
(2)回心前=ユダヤ教、回心後=キリスト教、とユダヤ教
(3)回心前=ユダヤ教、回心後=ユダヤ教、とキリスト教

これでは細かなニュアンスが表せないが、要するに回心後のパウロにとってユダヤ教はどうなっていたのか、という問いである。

「キリストにある」素晴らしさのゆえに、ユダヤ教を誇りに思っていたことはすべて無価値となり、律法も含めて否定したのか・・・。

キリスト者となった後も、自身はユダヤ人として行動したが、異邦人キリスト者にはユダヤ教は必要ないと教えたのか・・・。

そんなパウロ自身の「アイデンティティ」にも関わる問題であり、当然ガラテヤ書やロマ書の理解に大きな影響を及ぼす問いでもある。

英語では、最近 Paul Within Judaism という視点が大分取り上げられるようになってきた。簡単に言うと、パウロは回心後もユダヤ教から出ていない、という見方だ。

興味深いので新改訳2017だけでなく、N.T.ライトの個人訳新約聖書であるKNT(Kingdom New Testament)の訳文を引用しておこう。
13 You heard, didn’t you, the way I behaved when I was still within ‘Judaism’. I persecuted the church of God violently, and ravaged it. 14 I advanced in Judaism beyond many of my own age and people; I was extremely zealous for my ancestral traditions.
[2018/8/14 追加]
※N.T.ライト読書会ブログに「Paul within Judaism」をアップしました。
この記事で書いたことのアカデミック版のようなものです。ほぼすべて英語ですが、ネットで読める関連記事を色々紹介しています。

《関連記事》

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き2)


2017年8月28日月曜日

(4)宗教改革を越えて 最近の読書に見る流れ(続き1)

前回紹介したのは

 (1)ロバート・ウェーバー『コモンルーツ』
 (2)ウィリアム・エイブラハム他編著『カノニカル神論』

の2冊だが、これら二つは宗教改革後の福音主義神学が理性主義に傾きすぎて、教会生活・信仰生活が(日本語でそれらしき表現を使うと)「情操」的に貧弱になってしまったと言う反省から生まれたものと言えるだろう。

その「欠落した」何ものかを宗教改革以前、特に「古代教父時代の遺産」に遡って探したわけである。

この記事は自分が購入して読んだ(読んでいる)本を軸に書いているのだが、それで言うと読んだことがないので話は逸れるが、この時点で紹介しておきたいのがトーマス・オーデンであろう。

彼はリベラル陣営の神学者でありながら、相対する福音派のロバート・ウェーバーとほぼ同時期にウェーバーと同じように「近代」から「古代」へとUターン した人物である。(オーデンの紹介記事としてインターバーシティ出版社サイトCTの記事をリンクしておく。)

この二人を比較対照するのは結構面白いことではないだろうか。

近代プロテスタンティズムの発露として「神学的リベラリズム」があり、それに対抗するように「キリスト教保守主義・正統主義」が位置するわけであるが、構図的には対立するウェーバーとオーデンが神学的には違う経路を辿りながらも、古代教会と云う同じ場所にUターン したわけである。

リベラル神学にせよ、(しばしば反・近代と思われている)福音主義神学にせよ、どちらも近代主義から来る「欠落」があり、それを自覚し、修正を求めて「古代教会の遺産」に向かったと言うことは、現代プロテスタンティズムを考える上でやはり一つの大事な動向であろう。
※当ブログで取り上げたゴードン・T・スミスの『福音派のパラダイム・シフト』⑤では福音派のアイデンティティーの一つである「回心主義」の背景となるリバイバリズムの歴史の見直しが指摘されており、その関連でウェーバーとオーデンが言及されていた。

New Perspective on Paulの地平

宗教改革を越えた地平の一つ目が「古代教会」とすると、次に取り上げる地平は「NPP(パウロ神学への新視点)」ということになるだろう。

NPPに関してはこのブログでも、N.T.ライト読書会ブログでも度々関連記事を書いたのでここでは特に取り上げようとは思わない。

ただ次に紹介する地平「第二神殿期ユダヤ教」に繋げる橋渡し的なことをメモしておきたい。

(1)OP 対 NPP

NPP自体は1970年代からの動向と見たり、W.D.デーヴィスの『パウロとラビ・ユダヤ教』(1948年)やクリスター・ステンダール(1960年代)を含めて言及したり少し幅があるが、新約聖書の背景としてのユダヤ教諸文書の研究の積み上げの中から出てきていることを見る必要がある。

パウロの「義認」理解に関し、宗教改革の伝統的解釈(をOPと呼んだりする)に対して「新しい視点(NPP)」を提案したのは、このアカデミックな研究の積み上げからの一つの例、一つの適用と云う点が理解される必要があると思う。

しかし伝統的解釈の立場の者たち(主にリフォームド)はこれをあたかも「OP 対 NPPの直接対決・全面対決」のような受け止め方をする傾向がある。

その理由は幾つかあると思うが次の二つは大きいだろう。

 (a) NPPはパウロの「義認」理解のために新約聖書正典外 の様々な情報を多く採用する。
 (b) OPの伝統的「義認」理解を支持する者たちは宗教改革以来の聖書解釈原則である「聖書テクストの自明性(perspicuity of Scripture)」)に依拠した神学、教理的解釈に終始する傾向がある。

つまり(a)と(b)はコインの裏表のような関係であり、聖書テクストへの光の当て方において方法論的対立を抱えていると言える。(もちろんそれが全てではないだろうが・・・。)

さらなる対照として、NPPの方はより「歴史的文脈に即した聖書テクスト理解」を志向するのに対し、OPの方は「『義認』に対して与えられている教理的・組織神学的意味を保全する聖書テクスト理解」を目指しているように見える。

以上は昨年「N.T.ライトの義認論」で討論をした当事者としての体験から感じたことで、やはり方法論的アプローチの違いが大きいと思う。

(2)「教理」対「聖書(スクリプチャー)」の関係

パウロの「義認」とその関連語で織りなされている聖書テクストをどう読むかと云う問題は、ある立場から言えば「教会の存立基盤」に関わる最重要教理問題であり、単なる(というと語弊があるが)一聖書テクストの解釈問題では済まないのである。

しかしその認識が強すぎるために、教理的拘束性が聖書テクスト解釈の幅を制限していないか、との問いは立てられてしかるべきだろう。

完成形、と思われた教理的構築物である「(信仰)義認」をもう一度パウロの手紙の中に解き放ち、歴史的文脈が指し示す「地平」(一世紀ユダヤ教の文脈にあるパウロの福音の全体像)を見渡してもう一度再構成する、そのような「宗教改革を越えた」試みが求められているのではなかろうか。


というわけで、次はいよいよ「第二神殿期ユダヤ教」に関わる本の話題に入って行きたいと思います。



2017年5月11日木曜日

(4)第6回 日本伝道会議 2

先日アップした(3)救いについての「教理」でもイントロに書いたのですが、昨年の「第6回 日本伝道会議」 の「事後報告その1」を書いた後そのままになっていました。

その続きを書こうと思うのですが「紀行」としての続きはあきらめて、「救いの教理」について書いた流れを受け、「義認論ノート」として書いてみます。

「ライトの義認論」をめぐる神学討論会のために下準備として読んで「メモした材料」が色々あるのですが、なかなかまとめて紹介するのは骨が折れるので、「義認論ノート」として小出しで発表しようと思います。

と云う構想はかなり前からあったのですが、(そしてある程度までは書き溜めたのですが)、たまたまその呼び水みたいな文章を読んで、ようやくアップすることにしました。


以上が「序」とでも言うべき部分です。

次に「イントロ」が待ち構えています。
経緯と云うものがあるので即「義認論」にはまだ入れないのです。残念ながら・・・。


(1)5月27日のライト読書会
の案内をブログにアップしたばかりなのですが、今度読むライトのテキストは

A Royal Priesthood?
The Use of the Bible Ethically and Politically
A Dialogue with Oliver O'Donovan

に入っているのですが、この「Royal Priesthood」論集はちょうど3年前に購入してブログでも記事にしていました。

この「Royal Priesthood」繋がりで、ジョン・ハワード・ヨーダーの
The Royal Priesthood: Essays Ecclesiastical and Ecumenical
を同じ時に購入していたのです。 

と言うか、こちらの方が「ヨーダー読書会」のテキスト用に必要で購入したわけでした。
そして「最初に紹介した方の論集」はRoyal Priesthood」繋がりでついでに購入したのでした。

ヨーダーのThe Royal Priesthood、はその後読書会で少し読み進めたのですが、まもなく読書会自体がストップしてしまい積読状態になっていたのです。
 

先日、5月のライト読書会の準備も兼ねて、Royal Priesthood」繋がりで「ヨーダーの方の論集」を少しページをパラパラやっていたら・・・「義認論」関連の箇所に出くわしました。
Few assumptions have been more widely shared in Protestant thought than the identification of the messages of Paul and Luther with the promise of a new hope for the individual in his subjectivity. Luther in his rejection of the cultural religion of the Middle Ages, ..., raised as his banner the pro me of the forgiven sinner. That God is gracious to me is the good news that Zinzendorf, Wesley, Kierkegaard, and today both Rudolf Bultmann and Billy Graham ... have derived from Luther and have labored to keep unclouded by any effort to derive from it ... a social program or any other human work. To safeguard the pure gratuitousness of grace, any binding correlation with human goals or achievements must be studiously kept in second place.
     This assumption ... is now being dismantled under the impact of the exegetical theology of this century. ... Today such scholars as Markus Barth and Hans-Werner Bartsch are finding as well even in the writings of Paul, yea even in Galatians and Romans, a hitherto unnoticed dimension of community extending even into the meaning of such words as justification. (P.73 下線は筆者)
この論文の初出は1967年ですから、まだ「サンダース、ダン、ライトらの名前が登場するNPP論争」が始まる前です。

(もっともクリスター・ステンダールの『The Apostle Paul and the Introspective Conscience of the West』は1963年ですが・・・。)

前段落では、ルターの「福音の再発見」が極端に個人的・主観的なものであり、それがジンゼンドルフ伯爵、ウェスレー、キルケゴール、そして不思議な縁(?)ですが、(20世紀を代表する聖書学者)ブルトマンと大衆伝道者ビリー・グラハムに受け継がれている、と指摘しています。

ヨーダーにとっての問題関心は、この「極端に個人的・主観的信仰」を純粋に守ろうとするばっかりに「倫理的側面、社会的な脈絡」を切り離してしまう傾向なのですが、(次段落では) 近年のパウロ研究(釈義学)がこの主観的信仰の土台とも思われた「義認(justification)」にまで「共同体」のニュアンスが含まれていることを見出し始めている、と指摘しています。

この「義認(justification)」への適用に関してヨーダーは「イエスの政治」(1972年)で展開している議論を参照するよう脚注で述べていますが、確かに第11章「恵みによる、信仰による、義認」でこの新しいパウロ研究の視点を紹介しています。

「イエスの政治」を購入して読んだ当時はこのあたりの論争点にはまったくと言っていいほど無知でした。
We could in fact most properly say that the word "justification" ... should be thought of in its root meaning, as a verbal noun, an action, "setting things right," rather than as an abstract noun defining a person's quasi-legal status as a result of a judge's decree. To proclaim divine righteousness means to proclaim that God sets things right; that it is of his nature and the nature of his covenant that he is a right-setting kind of God. (P.229)
と、かなりライトの「義認」解釈と重なると言うか、むしろライトが改革派神学との整合性を保持しようとするニュアンスがあるのに対して、「共同体」ニュアンス方向に舵を切っている印象です。 

(2)マーカス・バルトの義認論
(この続きに関しては「義認論ノート」で、次の機会に・・・) 

2015年6月22日月曜日

(4)断想 2015/6/22

(※《断想》と《雑想》の違いは前者の方が後者より幾分内容的にまとまりがある、という程度のものでさしたる違いはありません。その時の気分で選んでいます。あしからず。)

(1)日本福音主義神学会東部部会の公開研究会
日時:6月15日(月)14:00-17:00
場所:OCC508号室
テーマ:『今、再び人間の罪について考える』
講師:鈴木浩ルーテル学院大学教授
に行ってきました。

講演・・・というよりはトークといった感じでしたね。(ノリがよくなるまで、エンジンがかかるまで、結構時間がかかった感あり。)

(断想と呼ぶだけに軽い感想しか書きませんが・・・。)

講演の要約を掲載するのは勘弁してもらって、内容的にかなり重複する論文が入手できますので、もし興味ある方はそれをご参考までにお読みください。

少し長めの前書き、あるいは、義認論をめぐる環境の変化

また有能な“速記録者のレポート”もあるのでそちらも是非ご参照のほど。



筆者の関心あるポイントは『義認論』なのですが、くしくも昨年の同神学会東部研究会公開講演会でも『義認論』が深く関わ「『パウロ研究』の新しい視点」を紹介していました。(これこれ

今回の講演は『義認論』が宗教改革において中心的な位置を占めるようになった議論の筋道を、アウグスティヌスまで遡ってまとめていました。

宗教改革(主にルター)の義認論は、(主にカルヴァンのポイントである二重予定論とともに)あいまいさの残っていたアウグスティヌス主義神学を徹底したもの、と言う見方がそれですね。

つまり宗教改革をリードしたルターとカルヴァンという二人の神学者は、急進的アウグスティヌス主義者であった、ということ。

そこから引き出されるのは、ルターは原罪論を徹底させたゆえに義認論を確立した、という解釈です。しかし、この歴史的回顧による義認論解釈は、講師のトークの趣旨からするとまだイントロにしか過ぎない。本当に話したかったのは、現代における「原罪」を語ることの難しさ、罪の意識の低さ、ということでしたね。
 「ルターの信仰義認論の前提は、アウグスティヌス的人間論の断固たる再主張であった」というペリカンの命題は、「義認論の前提は原罪論であった」という意味であり、義認論の神学者ルターは、何よりもまず「原罪論の神学者」であり、「原罪論を強化した」ことが義認論の再発見の糸口であった、という意味である。心理学的用語を使えば、義認論は罪認識の深刻さを前提にしており、罪認識の深刻さに対応する教理なのである。言い換えれば、義認論は、原罪論という前提を失うと、その教理的インパクトも、そしてとりわけ、その心理的インパクトも失われるのである。・・・
義認論がその前提である原罪論を失ったこと、言い換えれば、罪認識がかつてなかったほど希薄化したこと、再度言い換えれば、「脱アウグスティヌス的環境」の中に義認論が置かれるようになったこと、それが義認論をめぐる、第三の環境の変化である。そして、それこそが、義認論にとっては、致命的な意味を持っているのである。それは、無論、義認論の再度の再解釈が要請されているということである。

鈴木氏が「義認論の環境」で第三の変化として指摘している「罪の希薄化という『脱アウグスティヌス的環境』」の問題は、福音派ではそれほど意識されていないように思いますが、「神学の文化的環境」という発想とも合わせて検討する必要があると思います。

しかし、そのことの前に、あるいは同時並行でもいいですが、福音派がしなければならない神学作業は、実はスコット・マクナイトが『福音の再発見』で指摘した「救い派(ソテリアン)」の「罪の扱い」ではないかと思うのです。

ルターの「実存を脅かす罪の縛り」の自覚はどこかに行ってしまい、大衆伝道で分かりやすく「救い」を得させるために「地獄」とセットで「個人的罪」が語られ、その処理をする「福音」に矮小化、陳腐化されてきた、という指摘です。


詳論は避けますが、鈴木氏が指摘した「義認論の環境」の第二の変化である(アウグスチヌスの影響を受けていない)東方神学の救済論も興味深いものでした。
図式的に言えば、人間が持つ根本的問題性が「罪の必然性」であるのなら、「救い」とはまずもって「罪の赦し」であるし、同様にその根本的問題性が「死の普遍性」であるとしたら、「救い」とはまずも
ってその克服である「永遠の命」でなければならないということになる。その結果、東方神学は義認論を深めることはせず、西方神学は神化論を深めることはしなかったのである。
東方の神学が「別な視角」を提供する、ということは実際そうで、筆者自身ウェスレアン・アルミニアンの流れに属しながら不勉強なので確実なことは言えないが、ウェスレーの聖化論には東方神学影響が流れていないか・・・を見てみることは必要ではないか。

義認論との関連で言えば、マイケル・ゴーマンがまさに神化論(セオーシス)を組み入れた議論を展開している本が、Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul's Narrative Soteriology.です。

ついでにもう一点。

神学的人間論としては『原罪論』が創世記3章からスタートしているとすると、聖書の包括的ナラティブとしては『神のかたち』(創世記1章)の視点が補われる必要があると思います。(これをやっているのがライトやマクナイトとですね。)

そのようにしないと「救済論」が脈絡を失って教会論や宣教論とシームレスに繋がっていかないのではないかと思います。

この点においても「聖書の包括的ナラティブ」、端的には「創造→新創造」は組織神学の各論が孤立化することを防ぐと思います。


(2)「罪」の復活

ちょっと長くなりますが、ちょうど講演の趣旨と沿うものなのでメモだけしておきます。

鈴木氏の嘆きにもかかわらず、一部の世俗の知識人の中には「罪の意識の希薄化」を指摘するとともにその重要性を認め復興する試みがあるようです。いわば、アウグスチヌスの現代性を発見するもののようです。

デーヴィッド・ブルックス(ニューヨーク・タイムズのコラムニスト)が最近著した本がそのような例の一つのようです("David Brooks: We Need to Start Talking about Sin and Righteousness Again", クリスチャニティー・トゥデー誌、2015年6月号)。
Brooks’s quest to fill that hollowness culminated in his latest book, The Road to Character (Random House). He pairs sketches of historical figures like Augustine and Dwight Eisenhower with analysis of our culture’s retreat from biblical notions of sin and righteousness.
 
 
さて、もう一つ例を挙げておきたいのですが、不十分になると思うのでやめておきます。

2015年2月2日月曜日

(5)マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか、③

さて、ここまで

マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか①
マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか②
とダニエル・ボヤーリンの動画を紹介してきた。

しばらく前、図書館からダニエル・ボヤーリンの『ユダヤ教の福音書』を借りてきた。


既にこの本についてはこの記事で紹介していました。
ようやく手中にしたわけです。

(実はある人との会話で、この本を凄く推薦されたので、購入しようと思っていました。ところがそんな時この動画に出会い、そして購入しようかどうか迷っているうち図書館にこの本を見つけたので先ず借りて読んでみようと思ったのです。)

結論から言うと、「早くこの本を読んでおけば、こんなに悩まなくてよかったのに・・・。」

かと言ってすべての疑問が解けたわけではないのですが。


この動画で解説されていることは、この「ユダヤ教福音書」の(第3章)『イエスは(コシェルを守って)法規定に照らして適正な食物を食べていた』、でより十分に取り扱われているので、その分「なるほど」は増えたましたが・・・。

では先ず肝心な「『コシェル』な食物規定と、それとは別に『浄・不浄』規定がある」と言う指摘の箇所を引用しておきましょう。
 ある食物をコシェル(適正、清浄)と呼ぶことは、(旧約)聖書と後代のラビ文献に照らしてユダヤ人がそれを食べてもよいこと(あるいは食べてはいけないこと)を意味する。・・・ある食材の処理法とそれが他のどのようなものと接触した可能性があるかによって、コシェルであるか否かにかかわらず、どのような場合に食物が清浄であるか否かに関して、別個の一連の規定がある。(123-4ページ、強調は筆者)
引用は長いので、一息つくために中断します。
お読みのように「コシェルを実践しているユダヤ人でないと混乱するような箇所がマルコ7章だ」と言う指摘のようです。

マルコの7章を理解するには、
 『コシェル』な食物規定と、
 『浄・不浄』規定の、
 二つの関連するが異なる規定がある
ことを認識するのが肝心だ、と言うわけです。

筆者ももちろん大してよく分かっていないので混乱したままになっているわけですが・・・。


と言うわけで認識のために、二つの規定のうち、先ず「コシェルとは何か」について記述しているところを引用しましょう。
 一方でトーラーは、決して食べてはいけない様々な種類の鳥や魚や海洋生物や陸上動物の名前を列挙している。
 トーラーはまた坐骨神経を食べること、他の点ではコシェル(適正)な動物のある種の脂肪分の摂取、血を飲むこと、子ヤギをその母の乳で煮ることをも禁止している。
 これらの規制をまとめたものがユダヤ教の食物規定(コシェルの規則)を構成している。
 前記のようにそれらはどこでもいつでもすべてのユダヤ人にあてはまる。(125ページ、強調は筆者)
今引用した部分は、理解のためにわざと改行したのですが、『コシェル』な食物規定
 ①動物の種類、
 ②動物の部位、
 ③処理(調理)法、
の少なくとも3段階で考えられている、と言うことですね。

次に『浄・不浄』規定について説明している部分を引用します。
 浄と不浄ないし汚染[ヘブル語省略] は、これとは異なる生活領域に関わる規則と規制からなる全く別個のシステムで、人間の死体や、人間の死体に触れた後で適切な仕方で身を清めていない人間と接触した様々な物に関する法規と、皮膚病や経血と精液(糞尿は除外)といった体液の流出のような不浄をもたらすその他の原因(これらはトーラーによれば人を「不浄」な状態にするが、道徳的倫理的な非難は招かない)に関する法規からなる。(125ページ、強調は筆者)

さて、この後いよいよマルコ7章、イエスとパリサイ派の論争の「文化・時代的背景」を説明するわけですが、長くなったので次回に譲ることにします。

※またまた終わらなくてすみません。 

2014年6月25日水曜日

(4)雑想 2014/06/25

やはり同じテーマになってしまった。

言わずと知れた「『パウロ研究』の新しい視点」について。

あるブログ記事を読んでいて(賢い読者はすぐにお分かりと思うが)、このテーマを取り扱う環境が果たして日本で整っているのか、と言う懸念が一方であることを知らされた。

筆者のように『パウロ研究』と一応「学術領域での議論」であることを断ったとしても、警戒心を抱く方はおられるのだろう。それは無理もないことだ。

特に今頃、かつて70年代以降90年代にかけて一学術領域で盛んになされた議論(それだけでも約20年前となる)を日本に紹介するのは如何なものか--特にその議論が“福音派”を大いに分裂させた論争的なものであるとするならば--と言う見方も分からないでもない。

筆者のスタンスは「論争が巻き起こることを期待する」ものではない。

どちらかと言うと「第二神殿ユダヤ教」理解の積極的評価の可能性、としての研鑽そして受容である。


ただ、「パウロ研究の新しい視点」に対抗的な学者の方々が少なからずおられるので、その方面のことも最初から紹介しておいた方が宜しいと思う。


前回真っ先に挙げておいたThePaulPage、に「新視点」批判者・懐疑論者たちの論文を纏めたページがある。


ご覧のようにかなり沢山あって、とてもじゃないが読み切れるものではない。


たまたま読んだものを紹介しておこう。(上記ページにはリンクはされていないようだ。同著者のものはあるが。)

Sinclair Ferguson, Justification in Christ



ご覧の画像の本、Justified In Christ: God's Plan For Us In Justification の「少し長いイントロダクション」として書かれた論文である。


ファーガソンはここ50年間にもたらされた「福音」の“誤った再解釈”を嘆いている。

そして特にこの本が論敵にしている「新視点」の影響を危険視している。

もし(この本に寄稿している)批判者たちの「新視点」への懸念や疑念が、ファーガソンがこのイントロ論文でまとめている程度であれば、溝はそれほど深いものではないのだと個人的には思う。

そんな感慨を抱いた部分(論点)を三つ選んでみる。

The authors, it should be stressed, do not believe that salvation is received by a mere affirmation of the doctrine of substitutionary atonement and the imputed righteousness of Christ. But they do believe that unless the gospel is articulated in these terms (or worse, if they are denied) the good news about the Christ who does save and what it means to believe in him is distorted and the gospel is compromised.(強調は筆者。以下同様)
The "New Perspective" began life as a new perspective on Jewish faith and religion around the time of Jesus and Paul. In essence its contention is that the Judaism of this period of the second temple was - contrary to Protestant interpretations of the past - actually a religion of grace. It was most certainly not a religion of "works-righteousness." It did not teach that salvation is earned by self-effort. Rather, it held that salvation, or entry into the covenant community, was entirely a matter of grace. Thereafter obedience to the law was the way of remaining in the community whose principal external "boundary" markers were observing the Sabbath, the rite of circumcision, and the food laws. Consequently the teaching of Jesus and especially of Paul must be read (or re-read) in that light.
For Luther the great personal issue was how a sinful man can be justified before God. The "problem" the gospel solves was essentially that of his guilty condition before a righteous and holy God who abhors sin. Luther held that justification, being accounted righteous before God, takes place when the individual trusts in Jesus Christ who was "made sin for us, who knew no sin, that we might be made the righteousness of God in him" (2 Cor. 5:21). Like Calvin, Luther was awestruck by the wonderful exchange, in which our sins were accounted ("imputed") to Christ on the cross, and his righteousness was accounted ("imputed") to us through faith. For the Reformers, then, this "wonderful exchange" meant that a double imputation lies at the heart of the gospel. Thus justification was seen as "the standing or falling article of the church" (Luther) and "the hinge on which all religion turns" (Calvin).
と言うわけでファーガソンは、「新視点」が、「信仰義認」を再解釈することによって、「福音におけるキリストの贖罪のわざ」を軽んずる結果になっていないか、と言う点を重要視しているのではないかと思う。


やはりなかなか厄介な釈義的問題を孕んでいる、と言う印象。(双方が議論し合うだけでなく、双方の釈義がなぜ噛み合わないのかを説明する「解釈学的」視点も持ち込む必要があるのではなかろうか・・・。)

「新視点」を支持するにしても、伝統的「古視点(少し揶揄した感じでそう呼ばれている)」を支持するにしても、将棋やチェスではないが、双方一挙に形勢有利に持って行こうとしない方がいいのではないかと思う。


ざっとそんな感想を抱いている。