ちょっとネタ探しをしている所で、たまたまネット上で読める「キリスト教概論」なるものを見つけた。
で、読んでみた。
マス・メディアは彼のことを結構面白い表現で持ち上げているのでさぞかし鋭い分析が読めると思ったら当てが外れた。
ただ、忙しい中殆んど走り書きのようにして書いた「概論」なのではないかと思う。
余り内容を期待せず、「キリスト教神学」に関する彼自身のメモ程度と捉えておいた方が失望は少なくなるのではないか。
著者略歴では
1960年生。起訴休職外務事務官・作家。同志社大学神学部卒業。同大学院神学研究科終了。緒方純雄教授に師事し、組織神学を学ぶ。となっている。同志社神学部のことは余り知らないが、書いてあることを読むとやはり同志社の神学的伝統を汲んでいるのだろうな、と推測する。
失礼ながら、余り本格的に内容を吟味する気はないので、適当にジャブを入れてみたい。
第1回 「神の場所(1)-はじめに」(ページサイト)
率直に言うと、全世界的に見て、キリスト教自体が「斜陽産業」なのです。近代の特徴は、聖なる領域がだんだん狭まって、俗なる領域に移行していくところにあります。キリスト教神学や、宗教学では、この傾向を世俗化と言います。欧米諸国に関しては世俗化は進んでいると言える。しかし問題はその定義だ。彼の「世俗化」の定義は啓蒙主義、科学主義に影響された近代史観による単純な図式だ。
ヨーロッパが脱・キリスト教文明時代に突入していることは明らかだが、スピリチュアリティー(霊性)も含めたポストモダンの宗教の在りようはそう単純ではない。(Charles Taylor, A Secular Ageの分析を読むことをお勧めする。)
キリスト教の聖書は、27巻の新約聖書と39巻の旧約聖書から構成されています。実は、それ以外に11巻のユダヤ教関連文書があるのですが、これを聖書に入れるか否かについては、キリスト教の教派間で見解の対立があります。この旧約聖書続編をあわせて読んだ方が、ユダヤ教とキリスト教の連続性がよくわかります。旧約聖書続編は、筆者が神学生の頃は「中間時代の神学」のような名称のコースで勉強したものだ。現在は先日もポストした「第二神殿期ユダヤ教」資料として(正典に入れないプロテスタントのキリスト者には)重要である。
第2回 「神の場所(2)-キリスト教とは何か(ページサイト)
私は、「教会に行くな」と言っているのではありません。私は、いまの日本の教会に行っても、私はそこに神を感じることができなくなってしまった、つまり教会の建物の中に入っても救いを感じないので教会に行っていないという自分の気持ちを素直に述べているだけです。しかし、私は、イエス・キリストを頭とする「見えない教会」の一員であるという意識は強くもっています。このように最初の二項は佐藤氏のキリスト教信仰遍歴のような事柄が多く書かれていてそれはそれで興味深い。
なぜ、私がこのようなことをくどくどと述べるかというと、キリスト教は、個人の救済を基本とする救済宗教だからです。キリスト教の本質は、教義、神学、道徳、倫理、文化などではなく、キリスト教を信じると言うことで「救われた」と感じることにあるのです。
「キリスト教は、個人の救済を基本とする救済宗教」は宗教学的な定義で通るが、キリスト教の自己認識とは言えない。特に聖書全体の思想から言えば、「死者の復活」(身体のよみがえり・・・使徒信条)も一個人に起こる出来事ではないし(キリストにある死者全体)、「秘造世界全体の贖い(新天新地)」が視野に入っているからである(ローマ8章)。
(※又暇な時、ネタがない時、戻ってくることにしましょう。)
始めまして,
返信削除ニックネームでよければ三休(sankyuusan@gmail.com)と申します。偶々、パネンバーグの日本語の翻訳を探していたら、こちらの教会が、サーチに係り,覗かせて頂句と、「科学」と「信仰」などというテーマのお話を為さる牧師さんが居られると言う事で興味を持ちました。実は、最近、The Physics of Cristianityという本を読んで、とても興味を持ったので、その箇所で少しコメントを出しました。それで、今日又子のページを開けてみると、「佐藤 優」さんの名前が見えたので、又興味を覚えました。実は、私と家内は春秋以外は南カリフォルニアに住んでいるのですが、3年ほど前から春秋には琵琶湖畔の膳所に滞在しています。その膳所教会で去年の秋、偶々佐藤 優さんが見えて話されたので覚えていたのです。膳所教会の牧師さんと同志社の神学部の同級生だったと言う事でした。その程度しか佐藤さんの事を知らないので、何ともコメントも出来ませんが、何か日本のキリスト教会に新風を齎せて下さる牧師さんかなと思い、このページに興味を持ちました。ところで、The Physics of Christianityをお読みになりましたら、御意見をお聞かせ下さい。アメリカの物理学教授が自分の学者生命を賭けて、「キリスト教は量子力学と相対性理論と標準分子物理学と矛盾しない」と言ってのけたのを読んで、自分の長年のキリスト教に対する疑問ー神の顕現、キリストの復活、永遠の命ーがやっと晴れて、解放された感じを抱いたと共に、21世紀のキリスト教はもう一度(ガリレオの天文学を認めた様に)、近代科学と一緒に歩まなければ成らないと思った次第です。
三休さん、コメントありがとうございます。
返信削除たまたまご関心の話題が重なったと言うことでしょうね。私が書くことは大して深くまで行きませんのでさらっと読んでいただけたらと思います。
目が開かれたと言う御本、ネットで書評など見てみましたがなかなか大変な内容、私などとても難しそうで読めそうもありません。ただキリスト教の根本的教義に対してこれほど熱心に科学の立場から論究しているのは珍しいかもしれませんね。
科学と宗教の対話は従来の対立の図式から対話へと大きく舵を切ったように思いますので、これからも興味深い本が出てくることでしょう。