課題に挙げていたのはライトの説教で、教会奉仕者(牧会補助者)を任職する際のものである。
Comfort, O Comfort My People
時奇しくも東日本大震災後、慰めのメッセージと具体的支援が人々の一大関心事になっている時であった。
ライト主教は、牧会補助者となる者に三つの役割を、イザヤ40-55章全体を流れるメッセージから導き出した。
①悩む者の傍にいる友(waiting companions)
②賢い証言者(wise witnesses)
③傷ついた癒し人(wounded healers)
特に③の説明で、イザヤ40-55章が「苦難の僕」に焦点が絞られ、主イエスご自身の“代償的な”受苦にキリスト教において結び付けられていることを指摘して言う。
Part of the point of Isaiah 40—55 is that the people of God are suffering the pain and desolation which somehow brings into focus the pain and desolation of all the world, so that their exile is the focal point of the world’s exile and their suffering is the dark centre of the world’s suffering. The Servant, representing Israel, comes to the place where that suffering is at its worst, and takes its full weight on himself so that first Israel and then the world may be comforted, may be assured that exile is over, may receive as fresh good news the promise of new creation.ライトのここにおける「苦難の僕」のキリスト論的解釈は「イスラエルとの契約」の枠組みにおける解釈であり、イスラエルのストーリーがイエスの十字架の死(捕囚)と復活(捕囚からの帰還)において、申命記28-30章の契約の《呪い》と《回復》が実現したことを、イザヤ預言成就に見ているのである。
その意味で「イエスの死」は象徴的であり、その「代償的意義」は第一義的にイスラエル、しかしイスラエル自体が神の贖いの計画において、世界を代表する意味での選びであるから、その象徴的意義の中には普遍(世界)的意味が含まれる、と言う二重の代表意義なのである。
そしてさらに「イエスの死」は単なる象徴的解釈ではなく、歴史的にローマという敵国による捕囚を具体的事実として持っている。
ライトの「イエスの死」の解釈は抽象的贖罪論ではなく、イスラエル契約の枠組みと、ローマによる被支配という政治史に沿ったものなのである。
先日のポストで「のらくら者の日記」さんにエール送り、「是非今後も、現在の『福音派の福音』が『聖書の福音』に照らしてどのように逸脱しているのかを検証していただきたい」とお願いしたが、早速答えていただいて、「『聖書の福音』への手探り」と言う文章を掲載して頂いた。
以前何回かブログ誌上討論みたいなものをさせていただいたが、「もう振ってくれるな」とのことなのでモノローグとしてこの文章を書いているが、その文章の中で「十字架の矮小化」の問題を指摘されていた。
これは実は不思議なほど福音派自身で神学的に検証されていない大きな問題である。
筆者の表現を使わせて頂けば、福音派の「イエスの死の救済的意義」理解は、①至って個人主義的であり、②イスラエルの契約の歴史とは接点がなく、③著しく非歴史的な理解になっていると思う。
先ずこの点に気付き、しかる後に、①聖書(特に福音書)に沿って、②実際のイエスの歴史に沿って、「イエスの死の救済的意義」、特にその「代償意義」の理解を深めて行って欲しいと願う。
斯く言う筆者もライトなどを助けにしながら、歩みは遅いがずーっとそのことと取り組んでいる。
のらくら者さん、牧会で忙しいこととは思いますが今後も「聖書の福音」についてブログ読者を啓発してください。(これって「振って」ないですよね。)
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