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2025年1月5日日曜日

キリスト教書の個人販売

スコット・マクナイトの新装改訂版『福音の再発見』(キリスト新聞社、2020年) 
の個人販売もしていますが、その他にも何冊か残部のある書籍をほんの少し割安で販売します。

(1)N.T.ライトの本

『使徒パウロは何を語ったのか』 (いのちのことば社)、2,600円、残1冊
『シンプリー・ジーザス』(あめんどう)、2,700円、残2冊
 ※出版元のあめんどうではもう販売していません。希少。

(2)N.T.ライトやスコット・マクナイトにも通ずる世界観に基づいたアプローチの本
 ポール・マーシャル『わが故郷天にあらず』(いのちのことば社)、1,500円、残1冊

・郵送方法

 クリックポストで郵送しますので送料は185円です。

・支払方法

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 sugamoseisen(アットマーク)gmail.com


以上、ご検討のほど、よろしくお願いします。
2025年1月5日

巣鴨聖泉キリスト教会牧師 小嶋 崇

2018年8月21日火曜日

(3)「次世代教会」を展望して、3

前回、「次世代神学教育」みたいなことを話し始めました。

少し続けます。

既に2回引用した中にあった「次世代教会」の形態として
 (1)小グループ、家庭集会型
 (2)専門職を置かない自給型
がラフな特徴として言えると思います。

かなり簡単・曖昧なイメージですが、しばらくこれで引っ張ってみます。

このようなタイプが「次世代教会」の主流になるかどうかは別にして、制度的教会が弱体化し、ネット文化によりますますフラット志向に社会が動けば、このような形態のキリスト者のグループが増えて行くことは充分考えられます。

既に米国その他の地域で、制度的教会に対抗する教会のあり方として「イマージェント」と呼ばれる、いわば草の根運動が1990年代辺りから起こりました。
※ 「イマージェント」については過去の記事で簡単に説明した。
 彼らはキリスト教会の様々な制度面に対し否定的態度を取る傾向が強い。
スモールグループで、集会や聖書研究を行い、自分たち自身のキリスト教表現に忠実であろうとする傾向が強い。さらに、「社会正義」「環境問題」など保守的福音派が余り正面から取り組んで来なかった問題に関心が強い。
「イマージェント」のような場合、小グループ型「次世代教会」の指導者になるよう「召命」や「志し」を持つ方は既成の教会に対する幻滅や批判を通して小グループを始める、と言うケースが多いと思います。

そのような小グループから会衆が増え、会堂を取得し、専門ワーカーを雇って「教会」のようになるケースも出てくるかもしれませんが、(日本の場合は殆ど考えにくいので)あくまで小グループのまま存続することを前提して、そのようなグループ指導者となる方に相応しい神学教育はどんなものかを考えて行きたいと思います。

(1)(理想的には)召命(Call)を意識
現実にはなかなか難しいかもしれませんが、(筆者が影響を受けているN.T.ライトさんの主張を活かせば)そのような指導者は「福音」と「召命」を出来る限り明確に意識していることが望ましいと思います。
主イエス・キリストの福音が宣言されるとき、聖霊の自由な働きによって「召命(call)」がなされ、それに応答する「信仰の従順」を出発点とする。
キリスト者のグループはどんなタイプのものであれ、「召命(calling)」に基づいて形成されるのが望ましいと思います。その際「召命(calling)」は教会のために働く専門職に就くという意味での召命ではなく、福音によって「呼び出された者たち」すべてに適用されるものです。

換言すれば、小グループ指導者は、仲間のキリスト者たちと共に、「召命」に対する自覚と理解を深め、「召命」に相応しく生活することを継続的に集って学ぶよう励ますことが出来るよう訓練する必要があると思います。

(2)グループの「柱となる活動」への理解
小グループと云うのは多分に自然な流れで形成される「仲間」のような傾向が強くなるのではないか。アットホーム、くだけた、ナチュラル、親しみやすさ、などグループ形成に多いに長所となる反面、中心となるもの、そもそもなぜ集るのかという目的や使命がいつのまにか曖昧になりやすい。そのバランスが崩れないように敏感にグループダイナミクスの方向を察知し、「中心に戻す」能力が指導者には求められると思います。

つまり、一にも二にも「召命を受けた者たち」のアイデンティティを自らもそして仲間も保持するだけの粘り強さが肝心かと・・・。

そういう意味では活動として中心になるだろう「共同聖書研究」で使徒の働きを読むことが相応しいのではないかと思う。

先ず「グループの柱となる活動」については、使徒の働き2章41~47節を時間をかけてじっくり学ぶことがいい。

次に「アイデンティティ保持」に関しては、使徒の働き20章のパウロの決別説教から多くの示唆を受けることが出来るだろう。

2018年3月8日木曜日

(4)自伝的「新約聖書学」最近研究状況レポート、 N・T・ライトを中心に

まもなく「2011.3.11」から7年が経ちます。

たまたま昔書いた(雑誌に寄稿した)小論がちょうど7年前であったことを思い出しました。

この小論は『リバイバル・ジャパン』誌、2011年3月20号の「シリーズ 神学交歓」コラムに掲載されたもので、N.T.ライト読書会ブログ で「ライト入門、のようなものをアップしました」記事でリンクを貼っていたのですが、今はリンクが切れてしまったままになっています。

これを機会に全文をこちらに転載することにしました。
新約聖書学に興味のある方に、そしてN.T.ライトに関心ある方に、何かの手助けになればさいわいです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

 自伝的「新約聖書学」最近研究状況レポート、

N・T・ライトを中心に

巣鴨聖泉キリスト教会牧師 小嶋崇
 
1 はじめに

「新約聖書学」のようなアカデミックな領域について一アマチュアに過ぎない筆者などが報告するのは些か分不相応な気がします。

筆者が敢えてこのような小論を試みるのはN・T・ライト(Nicholas Thomas Wright)に関することなのですが、その著作や講演の欧米での影響の広範さ、深さにも拘らず、日本語圏での紹介は、訳書にせよ(筆者の知りうる範囲では一冊のみ)、評論にせよ圧倒的に少ないという現状です。ライトの著作を英語で読める方々の中には、主に論争家(特にプロテスタントの『義認論』の伝統的解釈を脅かす人物)としてのライトが念頭にあるようで、警戒のためかあまり紹介してくれません。しかし後述しますが、ライトの著作の重要なものは「新約聖書神学」を巨視的・学際的・包括的にアプローチする『キリスト教の起源と「神」問題』シリーズです。(三巻目まで刊行されています。)こちらの方を優先的に取り上げて論評し、ライトに相応しい評価を下すべきだと思うのです。

ですからこの小論の目的は、日本の一般読者にN・T・ライトの主要著作を簡単にですが紹介することにあると思っています。(幾分詳しい紹介は拙ウェッブサイト「N・T・ライト読書会」をご参照ください。何本かライトの論文も翻訳してあります。

2 N・T・ライトとの出会い

筆者が初めてN・T・ライトの名前に接したのは1999年です。牧師の家庭に育ち、大学生の時に“救い”を受け、大学卒業後、献身して米国の神学校に学び、10年余に亘った留学を終えて父の牧する母教会の副牧師になって10年が経っていました。

大学生時の“回心”以来、「自覚的クリスチャン」として過ごしたその約20余年間、決して順調でも安定していたわけでもありませんでした。様々な葛藤・疑問・迷いがありました。しかしそれらは基本的に、小さい時から育てられ、“回心”時から持っていた所謂「福音信仰」の深化という「応用問題」であり、「福音信仰」の根底まで揺さぶるような問題ではありませんでした。

しかし副牧師として説教を始めて暫く経ち、最初は漠然と、しかし次第に深く、「私が保持してきた福音理解で大丈夫なのだろうか?」という不安・疑念が心を占めるようになってきました。説教をしている自分のコアで「何かが足りない」「根拠が弱い」と感じるようになっていました。

そのような時に、ある友人から贈られた1冊の本を通して一筋の光が差し込んできました。ジョージ・B・ケアードの『新約聖書神学』です。この本を端緒にして、次々と福音書の最近の(英文)研究書に触れるようになっていきました。それまでは神学校で学んだ聖書学の貯金を切り崩しながらやっていたような状況で、最新の聖書学を学ぼうという姿勢は全くありませんでした。その暫く後、別の友人からN・T・ライトの名前を聞くことになり、彼の著作を次々とのめり込む様に読むに至りました。

この頃だったと思いますが、福音書を読んでいて、ある“気付き”をしました。それは小さな気付きですが、その後の聖書解釈の取り組みに意識的な変化をもたらすものでした。ちょうど受難の箇所を読んでいた時のことです。イエスが十字架で死を迎えた時、福音書にはその死の意義を説明する、特に私が育てられた「福音信仰」の中核表現である「刑罰代償死」説のような「贖罪論」的説明が一切ないことに愕然として気が付かされたのです。

著作年代から言えば初期パウロ書簡よりかなり後に書かれたと思われる福音書に、なぜ十字架の救済的意義の説明が挿入されていないのだろうか。却って福音書の実際の叙述は弟子たちが師の十字架刑を前にして逃げ去ったことを記しているのです。 

このように福音書を少しずつ“歴史的”に読み解いていくと、自分が育った「福音信仰」における十字架の救済的意義の説明は抽象的・予定調和的に聞こえるようになりました。使徒たちの信仰は、実際にはもっと複雑な歴史的経路を辿って達したものなのではないか。私たちはどこかでその歴史的複雑な部分を捨象し、自分の“個人的な救い”の理解に都合の良い部分だけを掬い取っているだけなのではないか、と思い至りました。特に福音理解の「根拠」部分で、今までの自分の信仰に欠落していたのは「復活」であることを思い知らされました。それまでの「福音」は「十字架贖罪」一辺倒であったと思い至ったのです。

このようにキリスト教信仰の起源を“歴史的視点”から丹念にアプローチする訓練を提供してくれたのがライトの著作だったのです。

3 「史的イエスの探求」

最近の新約学の中でも「史的イエスの探求」は充実した時期を迎えているように思います。近代における「史的イエス」研究は、啓蒙主義の理性主義的キリスト教批判の道具となった「批評的聖書学」の影響に左右されてきた観があります。それは教会歴史の中で「キリストの神性」が強調されることによって見失われがちだった「キリストの人性」、すなわち「ナザレのイエス」という歴史上の人物に対する関心という反動的結果とも言えます。「歴史的関心」という近代理性がもたらした一定の評価がある反面、啓蒙合理主義に影響された新約学は、奇跡の否定も含めて、「事実と信仰」「自然と超自然」「歴史学と神学」「歴史のイエスと信仰のキリスト」等、新約聖書学、特に福音書研究に二元論的な思考を導入し、「ナザレのイエスは弟子たちによって神格化されたただの人」を当然の様に主張するに至りました。

アルバート・シュヴァイツァー、ヴィルヘルム・ヴレーデらによる研究が現在展開中の「史的イエス第三の探求」の起点となっているようですが(ブルトマン、そしてその後のケーゼマンらによる「新しい史的イエスの探求」が間に挟まり)、その約百年の間に外典・偽典研究、死海文書の発見やヨセフス研究、アレキサンドリアのフィロ研究、ラビ文書の研究などが累積してきて、「史的イエス」の背景となるいわゆる「第二神殿期ユダヤ教」研究が分厚くなりました。それで「史的イエス」研究の裾野はかなり広がり、研究者も多士済々の状況が出現しているようです。ベン・ウィザリントンは『ジーザス・クエスト』(1995,1997年)でその研究状況の多様性を七つに分類して紹介していますが、その基本的分類法は各研究者がナザレのイエスをどのような人物プロフィールでアプローチしているか、というものです。

筆者が特に「史的イエス」の問題と関わるようになったのは、共観福音書の講解説教をやるようになってからです。しかし最初は「共観福音書の神学的大テーマは『神の国』である」とおぼろげながら見当を付けたくらいで始まりました。ですからせいぜい『神の国』のワード・スタディーを中心にした手探りのような学びに終始していました。まだまだ「史的イエスの問題」までは視野に入っていなかったのです。

先ほどのウィザリントンは「第三の探求」を“現代”の史的イエス探求として、その研究者たちの中に「ジーザス・セミナー」の者たちまで加えますが、ライトの場合は、特にシュヴァイツァーが提唱した「イエスを終末的預言者」として探求する研究者たちに「第三の探求」を限定します。

筆者の場合、講解説教をしながらたとえ話、奇跡、パリサイ派との論争など、福音書記事を個別に釈義してその現代的適用を模索する説教ではなく、福音書が描写するナザレのイエスがどんな「意図」で行動し、どんな「目的」で十字架を目指したのかという「一貫した視点」でイエスを捉えようとする、ライトのような意味での「第三の探求」に次第に惹かれるようになりました。

この面におけるライトの著作では『キリスト教の起源と「神」問題』シリーズ第一巻目の『新約聖書と神の民』が方法論的問題の整理と、第二神殿期ユダヤ教、そしてそこから出現したキリスト教を「世界観的枠組み」で再構成した「大きな絵」を提示します。「史的イエス研究」(パウロ研究も)の序論的考察です。第二巻目の『イエスと神の勝利』が「史的イエス研究」プロパーで、この「大きな絵」を背景に「終末的預言者イエス」像を「ことば」と「行い」と「象徴」の角度からアプローチし、その十字架の死に至る道程を《統合された意味関連》として解明しようとします。「史的イエス」の再構成は、資料的には共観福音書に限定され、ヨハネ福音書は使用しません。また「復活」も『イエスと神の勝利』では扱わず、第三巻目『神の子の復活』で包括的に扱います。

詳述はできませんが特に筆者が目を開かれたと思うライトの福音書ナレーティブの釈義的論点は以下のようなものです。

先ず初歩的なことですが、ライトの「史的イエス」解釈のまとめ方の大事な点は、イエスの預言者的性格から再構成しているところにあると思います。(クリスチャンが福音書を読む場合、史的イエスではなく、三位一体の第二位格の神を読み込みがちではないかと思います。)

次に、「たとえ話」「警告のメッセージ」といった《言葉の要素》と「癒し」「悪霊の追い出し」「罪人・取税人との食卓の交わり」等《行いの要素》が、断片的エピソードとして味わわれ理解されるのではなく、イエスの歴史的宣教の全体像を構成するよう関連付けられていることが大事だと思います。

イエスの宣教は、洗礼者ヨハネの「終末の預言者」的活動を継続するものでした(「神の国」の到来を宣言)。十二人の弟子を召され「新しいイスラエル」を再構築する一方、イエスはイスラエルに対し繰り返し警告を発しました。それはヨハネの警告を踏襲しただけでなく、「この時代の内に」悔い改めなければ滅びるとの緊急性を帯びた警告でした。当時のイスラエルが待ち望んでいた「主の日」の審きは、イスラエル民族の敵であるローマに対して下されるのではなく、(先ず)イスラエルの悔い改めない者たちの上に臨む、との警告でした。それは個々人を含みますが民族の誇りの象徴であるエルサレムと神殿の上に破壊がもたらされることを、激烈な絵画的表現であるアポカリプティック(黙示あるいは黙示文学的)なメッセージを用いてなされたのでした。

十字架に架けられる最後の一週間、エルサレム入城からイエスのメシヤ的象徴行動はより明瞭になってきます。「神が王」となって「突然、その神殿に来る」(マラキ3・1)、ヤハウェが「エルサレムに戻られる」(ルカ19・44、『神の訪れの時』)、つまり「神の国」の訪れがクライマックスに差し掛かっているのに、イスラエルは気がつかなかったのです。従来「宮きよめ」と呼ばれる神殿での行動も、神殿への神の裁きを象徴するものと捉えられます。そして「人の子」が敵に引き渡された後に栄光を受けるというダニエル7章の預言を背景とした終末的、アポカリプティックな出来事として、イエスは十字架に架けられる道を「メシヤの召命」として受け入れたのです。

換言すれば、福音書の記述は、イエスの復活後の福音書記者の神学的考察によって創作されたのではなく、基本的にはイエスご自身の旧約預言成就の道筋を深く洞察した上で、自己への召命と理解し適用した結果であり、その意味でイエス自身が「神学者」であったとの理解がライトの解釈に反映されています。

さて「復活」の問題はライトの『キリスト教の起源と「神」問題』シリーズにおいて一つの中核的主題を構成しているように思います。福音派の大衆的福音説教は十字架贖罪一辺倒で復活はどこか付け足しのような感が否めない、と述懐しました。十字架は史実問題としては殆んど論証の必要がないほど明らかです。福音説教はその神学的意義の説明に集中する傾向があります。しかし復活はというと、近代の破壊的聖書批評学の影響もあって、史実としてきちんと論証されないままその意味について様々な解釈が一人歩きしてきました。福音派はと言うと、復活の意味を暗黙の了解的に「死に対する勝利」としてイースター説教で声高に叫ぶ程度です。復活の史実性は新約聖書証言の信憑性を強調するだけで、歴史的論証までには掘り下げられずに来たように思います。

ライトはイエスの復活を当時のユダヤ人の期待していた「神の国」の実現のシナリオとはかけ離れた形で、つまりメシヤの死と復活という形で実現した終末的・黙示的出来事として浮き彫りにします。ライトのこのような聖書神学的な解釈は、ルカ24章の弟子たちに対する「聖書全体」からの「イエスの十字架と復活において実現した神の国」の説明を跡付けるものと言えるでしょう。ライトは、このような解釈が使徒たちの「神の国」実現の理解となり、「神の国」は「イエス・キリストの福音」に集約された意味で解釈されている、と見ていると思います。

4 「パウロ研究の新パースペクティブ」

最近の新約学で特に大きな動きがあるのが「パウロ研究」と言えると思います。特にN・T・ライトもその一人に数えられる「パウロ理解のニュー・パースペクティブ(以下NPPと略称)」と呼ばれる論者たちが主張している研究動向です。

第一世紀ユダヤ教研究が進展するにつれ、キリスト教にとっては背景に過ぎなかったユダヤ教に関して歴史的により正確な理解がなされるようになりました。特にパウロ神学の中心的教義であると見られる「義認」の背景となるパリサイ的「律法主義」の見直しがなされるようになりました。

NPPの主要貢献の一つは、それまで主導的であった教義学的釈義の見直しであり、より歴史的に正確な『一世紀ユダヤ教』理解への関心です。この流れに先鞭をつけたのは、NPPが論議されるより約20年近く前です。Krister Stendahl の“The Apostle Paul and the Introspective Conscience of the West”が代表的です。NPPが論議されるようになった決定的な本は、E. P. Sanders, Paul And Palestinian Judaism (1977)です。名称としてNPPが一般的に用いられるきっかけとなった論文がJames D. G. Dunn, “The New Perspective on Paul” (1983)です。

NPP以前、パウロ神学は、その中心が『義認』なのか『キリストにある』なのか、と議論されるのが一般的だったようです。どちらにしても『義認』という宗教改革神学原則をパウロに読み込む〝神学的解釈〟優先の問題がありました。プロテスタントの義認解釈の父祖であるルターは、当時のユダヤ教を宗教改革当時の功徳を重んじたカトリシズムに見立てた解釈をしたわけですが、このような解釈はカリカチュアであることをE・P・サンダースの研究が実証しました。

このようにNPPの指導的研究者は、研究対象となる歴史的人物(パウロ、また史的イエスも同様)の歴史文化的背景となる「第二神殿期ユダヤ教」を歴史的に分厚く再構成することで、パウロ神学の新解釈の地平を切り拓いて行ったと言えます。

NPPの主要貢献二つ目に、「パウロ神学のナレーティブ構造理解」を挙げることができるでしょう。
パウロ神学理解に重要な視点を切り開いたサンダースでさえ、それを十分に活かしきれず、まだまだ伝統的神学解釈(『義認』か『キリストにある』か)に回帰する傾向がある、とライトは指摘します。

ライトはNPPを“新鮮な” と言う意味でのNP(ニュー・パースペクティブ)と言い換え、パウロ神学のナレーティブ構造と、その解釈技法を推進するヘイズの業績を高く評価します。Richard B. Hays, “The Faith of Jesus Christ “ (1983)や”The Echoes of Scripture in the Letters of Paul“ (1989)など。

パウロのより〝神学的〟な叙述が展開されるローマ、ガラテヤ、ピリピ、エペソなどは、表面上は「教理」と「倫理的勧め」のように、その後発展した「組織神学的叙述」構造のフィルターで解釈されて来ました。そのような解釈では、(旧約)聖書箇所引用はランダムに、プルーフ・テキスト的に見えます。しかしヘイズは、そのような〝神学的〟叙述構造を持つように見える箇所でさえ、実は絶えずその引用テキストが言及する大小の「ナレーティブ(創造、イスラエル、イエス、に関するストーリー)全体の余韻」を含めて喚起しようとするものであることを指摘し、その余韻や響きを「エコー」や「インターテクスチュアリティー」と名づけています。(ヘイズの場合は現代文学批評で用いられる『ナレーティブ』分析手法をかなり参照しています。)

NPPの主要貢献三つ目に、「パウロ神学の政治的コノテーションへの着眼」を挙げることができるでしょう。

近年、発展途上国の国際債務問題に新約学者ライトが度々言及します。啓蒙主義が提唱する「政治と宗教の分離」に対抗する意味もありますが、その背景には、史的イエス研究から出てくる近代的意味での「宗教家」の枠に収まらない「イエス像」も影響しています。神の国の福音は霊肉二元論では片付けられない現実政治へのコノテーション(含意)が確認されるからです。パウロ神学においても当時の政治的現実への視点が掘り起こされ、パウロの福音には「反・ローマ皇帝イデオロギー」の含意があることが主張されるようになってきました。復活したメシヤ・イエスの主権が皇帝に対抗する政治的意義があることを、パウロ宣教の中に見ようとする研究が進展しています。

5 結びにかえて
 この小論で簡単に取り扱った「史的イエス研究」を咀嚼した福音書説教や、「パウロ神学の新視点」以降の「義認論」で論議されている個人救済的な義認理解を拡大する「キリスト論的」「教会論的」枠組みを視野に入れたロマ書講解やガラテヤ書講解はなされているでしょうか。一般の牧師の説教においてこれらの知見が参照されて行くよう期待します。
 

2017年8月21日月曜日

(5)義認論ノート、5

義認と教会論: 一世紀のキリスト教会においては

「義認」を救済論との関連で論ずるのを不思議がる人はいないと思いますが、さて教会論との関連 だとどうでしょう・・・。

ということでそもそもの発端である「N.T.ライトの義認論」にまた戻ってみます。


ライトの立場を支持する筆者のテーゼは: パウロの義認の教えは「救済論」と「教会論」(と、ライトは理解している)、というものでした。

用いた資料は義認論ノート、3で紹介したマクゴワン論文と同じ論文集『Justification In Perspective』にライトが書いたNew Perspectives on Paul から引用した特に次のパラグラフです。
このサブセクションの主要論点の第一は、これら二つのこと(罪の赦しを与えられた罪びとを正しいと宣告し、そして、多民族による一つの家族の一員であるこ とを宣告する)はパウロの脳裏では緊密に連携している、ということである。さらに言えば、後者の論点(家族への所属)がロマ書3章やガラテヤ3章ではとて も重要であると主張することが、前者の論点(神の法廷で義と宣言された者の一人とされる)の重要性を軽減するものではない、ということである。

このポイント(契約神学が下敷きになっている)は多少見えにくいが決定的に重要である。すなわち、神がアブラハムと契約を結んだのは、[旧約]聖書の大枠 から言っても、パウロにおいても、アダム来の「罪」とその影響を除去し、良き創造のわざそのものとして完成に導くためである。かくして、神が罪の赦しを宣 言し、また契約の民の一員と宣言することは、詰まる所、二つ別々の事柄ではないのである。
恐らく「厳密に言えば(義認の釈義的許容範囲内に限定すれば)」義認は「罪人を(キリスト・イエスのゆえに)義しい」と赦免する宣言であり、一世紀以降の異邦人キリスト者がマジョリティーとなっていく教会のコンテクストでは第一義的には救済論的に扱われるのが自然になったのだと思います。
 
しかしライトが主張し、指摘しているのは一世紀の教会において、アブラハム契約の祝福を約束された「神の民」はユダヤ人だけでなく、異邦人も含まれており、「アブラハム契約」の視点からそれまでは「ユダヤ人(イスラエル民族)」と「異邦人(諸民族)」という二つの異なる契約関係にある者たちが「キリスト・イエスにあるという原則」において同じ一つの民になる、ということなのです。
 
この契約関係的に「イスラエル民族と諸民族」という二つに分かれていたものが「メシア共同体(メシアのからだ)」を通して一つになったのはいかなる根拠・いかなる原理によるのか・・・を説明するために取られたのが、「律法の行い」ではなく「(福音に対する)信仰」の原理において、という議論であったということです。
 
引用したライトの論文では、この義認に関する「契約関係における民族間の問題」が前面にあることをロマ書3章の次の箇所を指摘してさらに続けて訴えています。
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(ローマ3:29-30、新共同訳)
 
しかし、長い間(約1800年くらい?)キリスト教会からこの「一世紀における二つの民を繋ぐ」問題が消えていました。そのためパウロがロマ書やガラテヤ書で主張した「(信仰による)義認」をこの「民族の契約関係調整」の視点から具体的に考察する機会がありませんでした。
 
「キリスト・イエスにおいて更新された契約」に入る(言わば)長子の権利を主張する(できる?)人々(ユダヤ人) が長い間出てこなかった、とも言えます。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒2:39、新共同訳)
あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」 (使徒3:25-26、新共同訳)
そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。(使徒13:46、新共同訳)
「義認」の教義的理解にとっても最重要であったこの「一世紀の教会における民族関係問題」という歴史的文脈が視界から遠ざかった後は、教会論は次第に義認論の表舞台から退場していったように見受けられます。
 
宗教改革になって救済論が神学的議論の主役を演じるようになると、義認論はもっぱら救済論との関係で論じられるようになり、宗教改革の第二・第三世代以降(プロテスタント正統主義の時代)は、教会論の弱体化も手伝って、もっぱら「個人の救いの体験」(「救いの順序」)における諸懸案(義認と新生、信仰と新生、義認と聖化、など)との関連で論じられるようになったようです。

 
今後の展望
 
「義認」と教会論の関連をさらに論じて行くにあたり、二つの重要な関心事項があります。
 
(1)教会員の資格問題
 中世カトリック教会や宗教改革後の国教会のような「国家社会と教会」が同心円のような関係にあったいわゆる「クリステンダム(キリスト教文明)」の条件の下での「義認と教会」を考察する必要があります。
 
(2)(聖礼典、特に)洗礼と教会員資格問題
 宗教改革以降、聖礼典に与ったような“外面的”な教会員の教会ではなく、救いの体験を持った「聖徒たちの教会」へと改革を推し進めて行く中で「義認と教会」の関係を見て行く必要があります。
 
(3)教会史の流れ
 
 これらの関心事項を以下のような教会史の流れと関連させながら概観して行きたいと思います。
 
一世紀の教会では、ロマ書やガラテヤ書で論じられたように、「義認」はイスラエル民族と異邦人諸民族がどのような原理原則で「一つの神の民」となるか、という問題でした。
 
しかし、二世紀以降、さらにキリスト教がローマの国教なると、ノミナルなクリスチャンと聖徒らしいクリスチャンとごっちゃになったような教会をどうしたらいいか、という方向に「教会員問題」は向かいます。
「教会らしい教会」をと改革運動が進む中で宗教改革が起こります。
しかし、国教会的なシステムでは「聖徒だけの教会」は難しく、再洗礼派のような急進的な改革は一部に限られます。
 
英国国教会から逃れ、新大陸に移ったピューリタンたちが改革路線を進めますが、この時「教会員」を「救いの体験」を証しすることが出来る者に限定する制度が定着していきます。
この流れは「リバイバリズム」運動とも重なって、個人の救いの体験を重視することにより、組織的・制度的教会を軽視しする流れが強まります。
すなわち「パイエティズム・信仰復興運動」の背景を持つ福音派の「教会論」が後退して行きます。
 
このような流れの中で「洗礼」と「義認」の密接な繋がりが見えなくなり、教会の実践において「回心」と「洗礼」が分離していきます。
 
大雑把に言えば・・・中世のカトリック教会的教会形成原理から、宗教改革原理を徹底した自由教会形成原理へと移行して行く中で「義認」の意味・位置が変化して行くことを辿ってみたいと思います。
 
いわば「義認」の「教会論的文脈の変化」を「マクロな(=大風呂敷な)視点」から追跡した雑多な思いつきの寄せ集めに過ぎないですが、例証・傍証取り混ぜながら述べて行きたいと思います。



2017年8月14日月曜日

(3)神学ジョーク、2017年 N.T.ライト


かつて「神学的ジョーク」の冒頭で書いたことですが
ジョークと言うのは英語圏でのパブリック・スピーチにおける必須なものです。
シリアスな内容の講演でも、その導入にちょっとしたジョークを入れることで聴衆の食いつきが良くなりますからね。
その中でも「神学的なもの」となるとやはりTPOになり、どうしても「宗派・教派の違い」をネタにすることが多くなるようです。(アリスター・マグラースの場合は“浸礼派”バプテストでした。)

今年5月の“Discerning the Dawn: Knowing God in the New Creation"という講演の冒頭、ライト師が使ったのが「神論」に関わるジョークでした。


(ジョークは1:00~2:10くらいのところ)

引き合いに出されたのは、John W. Bowker(著名な学者です)。

彼がある時忙しい合間を縫って招かれていた米国のどこかの講演に行ったときのこと。


講演題が・・・『今日の世界で「神」を語る』(Speaking of God in Today's World)・・・みたいな感じのことで、飛行機の中で一応内容をささっとまとめて颯爽と会場に出向き、何とか時間にも間に合い講演を始めました。

講演を締め括るに当たって
If the doctrine of Trinity didn't exist, we'd have to invent it.
と高らかに宣言し講演壇を離れました。

すると聴衆からは雷鳴のごとき拍手喝采。

隣の席の(別の)講演者が、「いやー、勇気ある、踏み込んだ発言でした。」

(ボウカー)「別にそんなこと言っていませんよ。しごく教理的にオーソドックスではないですか・・・。」

(隣席)「いや、ボウカーさん、この会議はユニテリアンですよ。」

(ボウカー)「じゃ、なぜみんな拍車喝采しているのですか。」

(隣席)「いや、ボウカーさん、彼らはあなたのアクセントが気に入ったんですよ。」



というわけで、ライト師のアクセントがアイリッシュか???みたいなところから始まったジョークでした。

2017年5月11日木曜日

(4)第6回 日本伝道会議 2

先日アップした(3)救いについての「教理」でもイントロに書いたのですが、昨年の「第6回 日本伝道会議」 の「事後報告その1」を書いた後そのままになっていました。

その続きを書こうと思うのですが「紀行」としての続きはあきらめて、「救いの教理」について書いた流れを受け、「義認論ノート」として書いてみます。

「ライトの義認論」をめぐる神学討論会のために下準備として読んで「メモした材料」が色々あるのですが、なかなかまとめて紹介するのは骨が折れるので、「義認論ノート」として小出しで発表しようと思います。

と云う構想はかなり前からあったのですが、(そしてある程度までは書き溜めたのですが)、たまたまその呼び水みたいな文章を読んで、ようやくアップすることにしました。


以上が「序」とでも言うべき部分です。

次に「イントロ」が待ち構えています。
経緯と云うものがあるので即「義認論」にはまだ入れないのです。残念ながら・・・。


(1)5月27日のライト読書会
の案内をブログにアップしたばかりなのですが、今度読むライトのテキストは

A Royal Priesthood?
The Use of the Bible Ethically and Politically
A Dialogue with Oliver O'Donovan

に入っているのですが、この「Royal Priesthood」論集はちょうど3年前に購入してブログでも記事にしていました。

この「Royal Priesthood」繋がりで、ジョン・ハワード・ヨーダーの
The Royal Priesthood: Essays Ecclesiastical and Ecumenical
を同じ時に購入していたのです。 

と言うか、こちらの方が「ヨーダー読書会」のテキスト用に必要で購入したわけでした。
そして「最初に紹介した方の論集」は「Royal Priesthood」繋がりでついでに購入したのでした。

ヨーダーのThe Royal Priesthood、はその後読書会で少し読み進めたのですが、まもなく読書会自体がストップしてしまい積読状態になっていたのです。
 

先日、5月のライト読書会の準備も兼ねて、「Royal Priesthood」繋がりで「ヨーダーの方の論集」を少しページをパラパラやっていたら・・・「義認論」関連の箇所に出くわしました。
Few assumptions have been more widely shared in Protestant thought than the identification of the messages of Paul and Luther with the promise of a new hope for the individual in his subjectivity. Luther in his rejection of the cultural religion of the Middle Ages, ..., raised as his banner the pro me of the forgiven sinner. That God is gracious to me is the good news that Zinzendorf, Wesley, Kierkegaard, and today both Rudolf Bultmann and Billy Graham ... have derived from Luther and have labored to keep unclouded by any effort to derive from it ... a social program or any other human work. To safeguard the pure gratuitousness of grace, any binding correlation with human goals or achievements must be studiously kept in second place.
     This assumption ... is now being dismantled under the impact of the exegetical theology of this century. ... Today such scholars as Markus Barth and Hans-Werner Bartsch are finding as well even in the writings of Paul, yea even in Galatians and Romans, a hitherto unnoticed dimension of community extending even into the meaning of such words as justification. (P.73 下線は筆者)
この論文の初出は1967年ですから、まだ「サンダース、ダン、ライトらの名前が登場するNPP論争」が始まる前です。

(もっともクリスター・ステンダールの『The Apostle Paul and the Introspective Conscience of the West』は1963年ですが・・・。)

前段落では、ルターの「福音の再発見」が極端に個人的・主観的なものであり、それがジンゼンドルフ伯爵、ウェスレー、キルケゴール、そして不思議な縁(?)ですが、(20世紀を代表する聖書学者)ブルトマンと大衆伝道者ビリー・グラハムに受け継がれている、と指摘しています。

ヨーダーにとっての問題関心は、この「極端に個人的・主観的信仰」を純粋に守ろうとするばっかりに「倫理的側面、社会的な脈絡」を切り離してしまう傾向なのですが、(次段落では) 近年のパウロ研究(釈義学)がこの主観的信仰の土台とも思われた「義認(justification)」にまで「共同体」のニュアンスが含まれていることを見出し始めている、と指摘しています。

この「義認(justification)」への適用に関してヨーダーは「イエスの政治」(1972年)で展開している議論を参照するよう脚注で述べていますが、確かに第11章「恵みによる、信仰による、義認」でこの新しいパウロ研究の視点を紹介しています。

「イエスの政治」を購入して読んだ当時はこのあたりの論争点にはまったくと言っていいほど無知でした。
We could in fact most properly say that the word "justification" ... should be thought of in its root meaning, as a verbal noun, an action, "setting things right," rather than as an abstract noun defining a person's quasi-legal status as a result of a judge's decree. To proclaim divine righteousness means to proclaim that God sets things right; that it is of his nature and the nature of his covenant that he is a right-setting kind of God. (P.229)
と、かなりライトの「義認」解釈と重なると言うか、むしろライトが改革派神学との整合性を保持しようとするニュアンスがあるのに対して、「共同体」ニュアンス方向に舵を切っている印象です。 

(2)マーカス・バルトの義認論
(この続きに関しては「義認論ノート」で、次の機会に・・・) 

2016年8月24日水曜日

今日のツイート 2016/8/24

生活の細部に(も)宿る「美」を垣間見るには・・・。
 一日の仕事を終えて帰宅する。その日、起こった物語を話す。テレビやラジオでさらに物語に耳を傾ける料理をしたり。食卓を整えたり、家族のために何百と行う、単純でしかも深みのある儀式のことである。そして言う。「これが私たちだ。」「(独身であれば)これが私だ。」「ここがまさに私たちが私たちである場所だ」と。そして一輪の花を飾り、家をきれいにする。折々にそのすべての意味を語り合う。(N.T.ライト『クリスチャンであるとは』第4章「美」から)

2016年1月27日水曜日

ライトについてのインタヴュー

2015年5月、『クリスチャンであるとは』(原題 Simply Christian)を出版した、あめんどう社主のOさんから「ライトについて」のインタヴューを受けました。(12月8日)

そのインタヴューがOさんのブログに3回に分けて掲載されました。

N.T.ライト元年を振り返って(1)

N.T.ライト元年を振り返って(2)

N.T.ライト元年を振り返って(3)

12月に出た『新約聖書と神の民・上』もかなり話題にしています。

よかったら是非。

2015年11月19日木曜日

(4)牧師は神学者か 2

シリーズ2回目となります。
牧師について日頃いろいろ考えていることに触れてくる記事があったので、その記事を紹介しながら何本かまとめていこうと思う。
と(1)で書き始めました。まあ普段から「牧師」とはなんぞや、みたいなことはいろいろ考えてはいるのですが、大体堂々巡りな感じもしないでもない。

さて筆者の堂々巡りの思索は後回しにして主題に入ろう。ヴァンフーザーの『牧師は公衆神学者』テーゼはかの本では十箇条だったらしいが、その後50以上に増殖しているらしい。

その動きを受けてか、現在新約聖書学で博士課程のさなかにいる(このブログでも何度か登場した)アンドリュー・ウィルソンがクリスチャニティー誌上で反論を展開している。
But how feasible is it to be both a scholar and a pastor? 
と、牧師と学問の両立はかなり厳しい、と懐疑的です。


数年前『義認』についてそれぞれ本を著して討論した、ジョン・パイパー牧師と(当時)N.T.ライト主教という当代最も有名な「学者兼牧師」の例を挙げて、片や学術的発表の欠如、片や勝手口の牧会経験の欠如を指摘して、いかに両立が難しいかを主張しています。

不可能というわけではないが、牧師と研究家と二つの召命に応答することは時間的にいって無理ではないかと思っていた、ウィルソン氏。

が、ライト主教のように時間的制限はあってもあれだけ次から次と本を出し、さらに世界中講演旅行するような例があるからには、時間の問題は置いておいて、何が「両立困難」にしているのかを考究して、次の三つの理由にたどりついた。

(1)「専門化」と「一般職化」の間での葛藤
 もちろん研究者が専門化にさらされるわけであり、牧師は一般人のニーズに応えるためあらゆる話題について行かなければならない故狭い領域の専門家にとどまっていられない、というテンションがある。

(2)「実際(問題)」と「理論」の間でのテンション
 2年前、英国新約聖書学会で、ライトとゴーマンそしてバークレーが『パウロ書簡における平和』について大変興味深い討論を行った。しかし中近東での平和樹立という具体的問題が問われたとき、一転静寂が訪れた。とウィルソン氏は述懐する。

(3)(研究機関である)「大学」と「教会」の間でのテンション
 それぞれの環境において、「何をどう発言するか」の意味合いが異なってくる問題。 (片や知的主題・問題についての議論が主体であるのに対して、片や指導や・励ましや・様々な日常的会話のニュアンスを伴い、知的側面はしばしば二義的に過ぎない場合がある、というような問題。)

これらの理由を挙げながら、しかしウィルソン氏は「両立の問題」は解決するのではなく、テンションの中でなんとか「やりくりする(マネージ)」のだという。


この段階ではまだコメントは控えておくが、牧師といっても人それぞれ、得意や不得意など様々ある。

特に「牧師と神学者」のテンションとは繋がらないが、どちらかと言うと「説教が好きで」というタイプの牧師は、説教準備の勉強に結構平気で時間をかけられるのではないか。

でも逆に筆者の周りには「机に向かってお勉強」みたいなのが苦手な方が結構多い感じなのである。とても「神学者」云々のレベルには達していない、とみている。

しかし、そのことについては連載の後の方で。

2015年11月8日日曜日

(4)英国の今時キリスト教事情

英国での「キリスト教」に関する調査(対象数4000余)の結果が先ごろ報告され、一般メディアでも報道されました。(解説は後ほど)

ところで、その中の一つの質問(の結果)についてみなさんに予想していただきたいのですが、
    英国において、「イエスを実在の人物とは思っていない」人は全体の何パーセントだと思いますか。
     ※要するに「架空」とか「伝説上に過ぎない」とかそんなところ。
        1. 10%
        2. 20%
        3. 30%
        4. 40%

結果をお知らせする前に、少し背景をお話しましょう。

元ダラム大聖堂主教、現セント・アンドリュース大学教授で世界的な新約聖書学者であるN.T.ライトの一般的啓蒙書『クリスチャンであるとは』(2006年、邦訳は2015年)は、英国も含む(かつては)キリスト教文明圏であった西欧諸国が脱・キリスト教化している事実を念頭に書かれています。

英国(そして西欧諸国はもっと進んでいる)の現状を
 ①「ポストモダン」、
 ②「ポストキリスト教」、
 ③「ポスト世俗主義」
というキーワードで捉え、現代西洋人のキリスト教との距離(隔たり)をどのように埋めるか、と言うことを『クリスチャンであるとは』の課題としています。

衰退する英国国教会だけでなく、他のキリスト教諸派(特にペンテコスト派を除く福音派)も英国の脱・キリスト教化の深刻さを問題としているのですが、その深刻度を知りたいということで、
 (1)イエスについての認識(perceptions)
 (2)キリスト者に対する認識
 (3)キリスト者による伝道に対する認識
についてのオンライン世論調査をバーナ・グループ等に依頼して実施しました。


そしてこれがその結果です。



この中にも出てくるように

10人中4人が、「イエスを実在の人物とは思っていない」という結果でした。

一体これが何を意味するかはさておいて、一般メディアにとってもこの結果は少しショックだったようです。

BBCニュースは、Jesus 'not a real person' many believe、と見出しを付けています。

この結果に関する、少し詳細な分析がこちらのブックレットに掲載されています。

やはり年齢が下がるほどイエスの史実性への認識は低くなる傾向にありますが、35歳以下でもアフリカ系やアジア系英国人は、逆に79%が「イエスは実在の人物」という認識を持っている結果が出ています。

と、筆者が報告できるのはここまでですが、今後この調査結果全体への時間をかけた分析が行われるでしょうから、その報告を待ちたいと思います。


筆者の「やぶにらみ」として一言添えれば、やはり「イエスを実在の人物とは思っていない」と思っている人が4割を占めるという結果は、「どのような伝道アプローチを取ればいいのか」ということに自ずと方向性を与えるように思います。

2015年11月7日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2015年11月8日(日) 午前10時30分


朗読箇所 Ⅱヨハネの手紙1-13

説 教 題 「歴史のイエスと信仰のキリスト」
説 教 者 小嶋崇 牧師


《現代キリスト教入門》10

 正典福音書はすべて、イエスをその世界から見ることを主張している。・・・イエスと福音書の歴史的な学びが必要な理由のひとつは、この世界だけではなく教会自体も、福音書が本当は何を語っているのかを繰り返し思い起こすことが必要だからである。・・・

 正典福音書は、ずいぶん前にさかのぼれる口伝と記述の両方の資料をまとめたり、それを元にしたりして書かれている。その資料は初期のクリスチャンの時期のもので、イエスの弟子たちがまだ生きて活動していたときであるだけではなく、他のかなり多くの目撃者、反対者、行政官たちが回りにいて、台頭しつつある新しい動きに注目し、広がりつつあるうわさを耳にしたり、それに反対する話が流布したりした当時のものである。(141ページ) 
 N.T.ライト『クリスチャンであるとは』(上沼昌雄訳、あめんどう、2015年)

2015年10月13日火曜日

N.T.ライトFacebook読書会について(2015年版)

2012年3月に始まった、フェイスブック上のN.T.ライト読書会。
 


今年6月、『クリスチャンであるとは』出版以降、入会希望者が増えています。


それで以前アップしたフェイスブック読書会の説明を更新する必要が出てきました。

新たに入会希望の方は、N.T.ライトFB読書会 ver.3.1
をお読みの上「入会申請」にお進みください。 

(フェイスブックに登録をする必要があります。)

2015年8月11日火曜日

(3)英語圏ブログ紹介⑮

すっかり忘れないうちに、このシリーズも追加しておこう。

⑬マーク・コーテーズ
⑭ピーター・ライトハート

と来て、今回は新約聖書学に特化したブログです。

右コラムの「マイブログリスト」にもありますが、
マシュー・モントニーニのNew Testament Perspectivesです。

なぜこのブログを思いついたかというと、最近「のらくら者の日記」ブログにアップされた英国学者主教の伝統のことを書いていたからです。
(記事のタイトルはもっと物騒なものなので書きませんでした。)

ドイツのチュービンゲン学派に対抗する英国の学派は一世紀以上前のダーラム主教を務めたライトフットやウェストコットによって作られた・・・と紹介しています。

今話題となっているN.T.ライトがやはりダーラム主教を務めましたが(2003-2010年)、この記事を書いて以降問い合わせがあり、「・・・日本の福音派の人たちがあまりにも J. B. ライトフットや B. F. ウェストコットらについて知らないことに驚いている。彼らとその業績を知らなくて、どうして N. T. ライトを語れるのだろうか?!」と別の場所で嘆いておられました。


モントニーニのブログはある意味玄人好きのするサイトで、ライトフット、ウェストコットのような昔の学者や現在活躍中の人たちもいろいろカバーしています。

結構渋い名前もあり、とにかく新約聖書学者のフーズ・フー(Who's Who) という感じです。

ちょうどライトフットとウェストコットに焦点が当たりましたが、
Lightfoot did, however, continue to take notes on John's Gospel, which Ben Witherington III discovered at the Durham Cathedral Library in the spring of 2013. With this discovery and its future publication (The Gospel of St. John: A Newly Discovered Commentary; Dec. 2015; InterVarsity Press Academic; 384 pp.), perhaps Lightfoot's name will be placed alongside the pantheon of the great British commentators on the Fourth Gospel.
とのらくら者さんが別なところで紹介していたベン・ウィザリントンⅢアズベリー神学校教授の発見がきっかけで本となる、ヨハネ福音書註解のことを書いています。(Lightfoots Commentary on the Gospel of John)

日本ではとても有名な(故人ですが)F.F.ブルースについても音声ファイルのアーカイブを紹介しています。

まっ個人的には一番スリリングだったのは、N.T.ライトのメンターであった(博士論文指導教官だったが残念ながら完成前に亡くなった)G.B.ケアードの『新約聖書神学』のもととなった講義の音声ファイルが見つかり、公開されている。

この『新約聖書神学』は、筆者にとってとても思い入れの強いものなのです。 

2015年8月5日水曜日

今日のツイート 2015/8/5

どうも夏バテ気味で余り更新する元気がないのだが・・・


このグラストンベリー・トア(Glastonbury Tor)は、
イギリスのサマセットのグラストンベリー近郊にある丘。海抜145メートルで、丘の頂上付近にある屋根が無い旧聖ミカエル教会が特徴的である。ナショナル・トラストによって管理されている。


サマセットの農村地帯に突き出たグラストンベリー・トー
かつてサマセット一帯は湖や湿地帯が広がっており、これらが干拓されてしまう以前は、グラストンベリー・トーは島のように湿地の中に浮かんでいた。古代よりケルト人などの聖地であったほか、アーサー王伝説に登場する伝説の島・アヴァロンをグラストンベリー・トーに同定する説もあり、12世紀末にはアーサー王とグィネヴィア王妃の遺体とされる骨や棺がグラストンベリー修道院長らによって頂上から「発掘」され、修道院に埋葬されたと伝わっている。
となっている。(参照はウィキ)

実はほとんど知らなかった。

ただ最近「ピルグリメージ(巡礼)」が『ポスト世俗』現象(※)として騒がれだし、実際今年になって教会員の知人(フランス出身で北米在住)の方が「四国巡礼」に来日されたお話をうかがったばかり。

グラストンベリー・トアも熊野古道とともにThe 10 Best Pilgrimages for Modern Travellersで紹介されている。

近年日本でも「寺ガール」や「仏像ガール」 、そしてパワースポットやホラースポット等、観光と組み合わさった「スピリチュアル」がブームのように扱われている。


岡本亮輔の聖地巡礼がその辺の事情を解説しているようだ。

ちょうどN.T.ライトの『クリスチャンであるとは』の第2章「隠れた泉を慕って」 でも、一見世俗化したヨーロッパの人がスピリチュアルなものに関心を寄せている事情を捉えている。


※ポスト世俗現象・・・スタンダードな「世俗化論」(宗教社会学の研究対象)では、科学が発達する現代社会では宗教は退潮しやがて消滅するだろう、と予測されていた。

2015年5月29日金曜日

(5)『アポカリプス(黙示)』と『終末』

今年2回目のライト読書会(案内、ガイド1、ガイド2)のテーマがアポカリプス、と言うことで少しランダムにあれこれ書いてみます。


課題論文は"Apocalypse Now?"(1999年)となっていますが、アポカリプスはご存知ヨハネの『黙示録』のギリシャ語名ですね。

フランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1979年)の原題 Apocalypse Nowにかけているわけでしょうね。


課題論文"Apocalypse Now?"は「千年紀末」を迎えて「世の終わり」っぽい言説に溢れてきたところで書かれたものです。

何しろ元はと言えば聖書が出展となっていることですから、聖書学者としては放置できない、と言うことでしょう。


Apocalypse Now?からピックアップすべき点を二つほど挙げてみます。

(1)『リタラル(文字通りな)』と『メタフォリカル(比喩的な)』の区別
※カタカナ表記では『リテラル』とするらしいが

 一応の説明はガイド1を見ていただくとして、「what is literal and what is metaphorical」と言うことなのですが、これがなかなか説明するのがやっかいなのです。

 アポカリプティックに関する例で言えば、「空中で主と会う」(第一テサロニケ4章17節)や、黙示録の「千年王国」が挙げられます。

 リタラル/メタフォリカルの区別はあくまで解釈における第一段階で、実際はもっと複雑な考察が必要とされると思いますが。

 ビブリシズムの問題とも絡みますが、単に文学的表現としてのリタラル/メタフォリカルの区別の問題を越えた「大きな聖書解釈枠」の影響があると思います。

 神の啓示の書としての聖書は、その「普遍的真理性」の前提から、リタラルで常識的な解釈が優先される傾向があること。

 このある意味「決め付け」傾向は、聖書と言う複雑な言語・文学表象を持つリアリティーを「平板に」(そして一律に)解釈する方向に行きやすい。

 換言すれば聖書の文学的複雑性、言語表現の多様性を犠牲にしても、信じ従うべき(命題的)真理形式に置き換えられやすい、と言う問題を生む。

 この「決め付け」傾向の問題に一層拍車をかけたと思われるのが、啓蒙主義以降の「合理主義」との対決。

 人間の「理性」に対抗して「聖書の権威」を強調することによって、必要以上に「科学」に対する聖書の「エピステモロジカル」な優位性を主張することになった。(「特別啓示と一般啓示」の立場から、「信仰対科学」に変わって行った。)

 「創造論」対「進化論」における「六日創造」説は、文学的表現としてのリタラル/メタフォリカルの区別と言うよりも、科学説に対抗するために押し付け(結果歪め)られた「解釈枠」と見ることも可能と思われる。 
 
(2)『黙示(表現・文学)』と『終末論』との混同

 先ず認識に挙げておくべきは「黙示」と「終末」は同じことではない、と言うことではないかと思います。

 黙示(英語はrevelation)とは、端的には、「今まで隠されていたものが明らかにされる」ことです。

 簡単に言えば、新約聖書は旧約聖書が「終わりの日」に起こるであろうと預言していた事柄が、イエス・キリストにおいて実現したことを主張(宣言)するものです。

 その意味で最も中核的な「黙示」的出来事は、イエスの十字架の死と復活、昇天・占座、聖霊降臨、と言えるでしょう。

 しかし、これら一連の出来事は(旧約)聖書の視点からはみな「終末」に属するものでありながら、ナザレのイエスに特定した歴史的出来事としてはその終末性が多くのユダヤ人には明らかではなかった。

 「メシヤの死」がある意味逆理的に「神の義」を啓示した、と主張するのがロマ書であり、その他のパウロ書簡も含め、使徒書簡は「イエス・キリストの出来事」の終末性を噛み砕いて明らかにするもの、と言うことが出来るでしょう。

 しかし、「新天新地」「万物の更新」、つまり「終末」の事柄のうち、「未だ(Not Yet)」に属する事柄、まだ将来に残されている「終末」の事柄があります。

 ここに所謂「キリストの再臨」とそれに伴う事柄が関わってきます。

 上掲、(1)『リタラル』と『メタフォリカル』の区別、の例で挙げた「携挙」や「千年王国」です。

 ところが、再臨、携挙、千年王国、は既に成就した終末の出来事である「イエス・キリスト」の死と復活に「碇を繋」いで展望すべき事柄なのに、どうも「預言/予言の成就」式に「世界史の動向(特にイスラエル国家)」と絡めて追尾し、一喜一憂する傾向が後を立たないようなのです。

 (と、これはかなり個人的な見解かもしれませんが。)

 例えばヨハネの黙示録の破滅的なシナリオを「世の終わり」の出来事として(一方的に)強調する傾向は、ライトが指摘するように、新約聖書を出展としますが、新約聖書の世界観とは異なるものです。

 いわゆる「アポカリプティシズム」は、多分に悲観主義、二元論的思考に影響された逃避主義に特徴付けられ、一つの世界観として整理されうるものです。



《附記ー個人的な回想と感想》

 筆者の属する教会は中田重治が牽引した「日本ホーリネス運動」の流れにあるが、その神学的遺産である『再臨(四重の福音)』や前期千年王国説的歴史的展望や関心(イスラエル国家)とは余り関わりがなかった。

 しかし間接的に「再臨近し」的な言説は聞かれたこともあった。

 昨年ある会話で、「最近、教会内で再臨のことが取りざたされることが殆ど無くなった印象を受けるのだが、どうだろう」と持ちかけたことがあった。

 知人の中にはディスペンセーショナリズムの影響下にあった者たちも結構多い。

 と言うことは日本の教会では、アポカリプティシズムがもたらす影響は現象的には表舞台から姿を消しているように見えるが、そのような「世界観」の要素が消えたわけではない。

 世間では依然として「アポカリプティック・サウンド」とか「世の終わり」とかの「世紀末」を匂わせたり、煽ったりするようなものがサブカル的にも流通しているようである。

※[追記・・・2015/5/30] 適当にサブカルと書いたが殆ど詳しいことは分からないのだが、今日たまたまこんな記事をヒットした。ここまで来るともう何と言ってよいのやら・・・唖然。これだと牧師自らが仕掛け人になっている。これこそもう「世の○○り」みたいなものではないか。

 つまり、「終末」に関する整理されたクリアーな思考との取り組みが始まったわけでも無さそうである。

 今度のライト読書会は、そう言う意味で、「健全な神学(終末論)」を目指す藪漕ぎのようなものではないかと思っている。

2015年5月15日金曜日

N. T. ライト関連、二大できごと

最近は、もっぱらN.T.ライト読書会ブログでライト関連記事をアップするようになったので、こちらではそれらの記事リンクを貼る程度になってしまった。

しかし、今回は二つ重要な発展があったので、こちらにも掲載したい。


(1)『クリスチャンであるとは』がついに発売!!
 待ちに待った、Simply Christian、の邦訳完成です。



『クリスチャンであるとは』(原題:Simply Christian)
 ーーN・T・ライトによるキリスト教入門ーー
 著者 N・T・ライト
 訳者 上沼昌雄
 四六版 並製 344頁
 定価 2,700円(2,500円+税)

 先ず、購入に関してお願いしたいこと。

 おいおい、アマゾン・ジャパンからも購入できるようになると思いますが、できるだけ出版するあめんどう社の直販を使っていただきたいのです。

 小さな出版社であるあめんどうがリスクを負い、読みやすい日本語にするために(出版が遅れるのを犠牲にして)編集に力を入れ、長年愛読されるキリスト教書籍になるよう手塩をかけた、(しかし購入しやすいよう価格を泣く泣く抑えたのが)、この本です。

ぜひ読んでください。

そして友人・知人にオススメください。

お金に余裕ある人はプレゼントしてください。

自分の教会の牧師にもオススメください。

スタディー・グループや読書会でテキストにお選びください。

 予約発売までしばらくお待ちください

(2)第4回 N.T.ライト・セミナー開催
 こちらはそれほど重大ではありませんが、『クリスチャンであるとは』出版を受け、いよいよ「ライト元年」がスタートか、と勝手にアドバルーンを掲げていた筆者にとっては相乗効果を期待する催しです。

日時: 2015年10月5日(月) 13時30分~16時30分
場所: お茶の水クリスチャンセンター・416号室(50名収容)

 
 詳細はN.T.ライト・セミナーでご覧ください。

2015年4月13日月曜日

(5)現代の英語圏神学者①、スタンレー・ハウアーワス余録・続(完)

思わぬ展開で、『余録』とその『続編』と言うおまけが付いてしまった。

余り関心のない読者にはマニアックな話題かもしれないがご容赦を。


今回、完結編ではハウアーワスとヨーダーの関係を取り上げる。

現在中断しているのだが、3年ほど前から出席している「ヨーダー読書会」を通して、The Politics of Jesus、を始め何冊かヨーダーの本を読んでいる。

ヨーダーについては、そう言うわけで、「進行中の人物」でもあり、また「(既に故人であるが)渦中の人物」でもあるので、この記事であまりあれこれ書くことは控えたい。

今回はただハウアーワスとの繋がりで浮上する幾つかの「点と線」について・・・。


ご存知のように、ハウアーワスはヨーダーとともに平和主義者であり、ハウアーワス自身は合同メソジストのメンバーでありつつ、神学的スタンスはメノナイトの伝統から影響を受けている。

ハウアーワスの平和主義神学に最も大きい影響を与えているのがジョン・ハワード・ヨーダーと言って差し支えないと思う。

・・・以上は「点」について。


20世紀の北米「神学と倫理」シーンにおいて、一個人が「平和主義者」であるか、それとも「義戦(正戦)論」に立つ、あるいは「現実主義」に立つ「戦争容認者」であるかは到底「イデオロギーを巡る対立的立場」で済まされる話ではない。

以下に紹介するハウアーワスの師匠(メンター)であった「ポール・ラムゼイ誕生100年記念」パネル・ディスカッション動画にある通り、多くの者たちは「平和主義者」として青年期を過ぎた後「現実主義者」に転向する(せざるを得ない)、と言う曲折を歩んでいる。


※3人のパネラーが、最初、三者三様の「ラムゼイ回顧」をするが、ハウアーワスがラムゼイ若かりし頃の「平和主義」シンパのエピソードを語っている。
 次に「平和主義者」だったジェフリー・スタウトが、イェール大神学部時代にラムゼイの本を読んで自身の平和主義理論武装を「ぶっ壊された」エピソードを紹介している。
※このスタウトの回想スピーチには、アカデミックな世界の人間模様についてかなり赤裸々で感情的なエピソードが含まれていて、幾らか内部事情を知っている者にとっては思わず「胸キュン」となる。筆者が見てきたユーチューブ動画の中でも「ベスト5」に入る内容豊かな一本。秘蔵版だ。

このスタウトの回想後、ハウアーワスが補足を継いでいる部分(35分40秒過ぎ)にヨーダー絡みのものが入っている。

ヨーダーが「キリスト教倫理学会」会長を務めていた時(1987-88)、晩餐会で「To Serve God and Rule the World」と題した(黙示録からの)会長スピーチをした。

ポール・ラムゼイが一緒に席についていたハウアーワス夫妻に、That man was hiding his light under a bushel. と評するコメントをした。

義戦論者で学会の重鎮であり、もう死期も近づいていたラムゼイが平和主義者ヨーダーへの賞賛の言葉として語ったこのコメントが、ハウアーワスには格別思い出深いものだったわけだ。

※ポール・ラムゼイ(Paul Ramsey)については神学遍歴⑨をご参照ください。
ちなみにそこで言及した「・・・デューク大学に寄贈された『ポール・ラムゼイ・コレクション』・・・」について、この動画でハウアーワスがその消息を紹介している。何とプリンストン大学も神学校も寄贈に応じなかったのでデューク大が頂いちゃった、とのことだ。へえー、そんなもんか・・・である。


議論を待つまでもなく、ヨーダーの神学的遺産はやはりThe Politics of Jesusなのだろう。以下にそのテーゼが要約されているように、イエスの倫理と教会論が一体となったキリスト教倫理へのアプローチは当時はユニークで画期的なものであったと言えよう。
His thesis, simply put but thoroughly and eloquently argued, was that Christian ethics begins not by finding ways to set aside the radicalness of Jesus' ethics, but rather by finding ways in community to take those ethics seriously. In other words, the church is to bear the message of the gospel by being that message.... (Mark Nation, John Howard Yoder: Mennonite Patience, Evangelical Witness, Catholic Convictions, p.25. からの引用。元はDavid Weiss, "In Memory of John Yoder...")
ヨーダーのインパクトは最近邦訳されたリチャード・B・ヘイズ『新約聖書のモラル・ヴィジョン』の


第3章「キリスト教倫理に対する史的イエスの意義」などでも取り上げられていますが、N.T.ライトとの関わりについては以下のように述べています。
 第3点ですが、ライトの研究にとって、イエスの関心を現実の世界史の中につなぎ止めることは本質的に重要です。ライトによれば、イエスが思い描いていた未来は、この世界から遊離した天国における彼岸的運命ではありません。それは、イスラエルの民の、この地上で継続する生における具体的な政治的未来なのです。
 その他の点でもそうですが、この点においてライトの構想は、ジョン・ハワード・ヨーダーが『イエスの政治』で描いた描写と深く結びついているように思われます。興味深いことにライトは、ヨーダーについて特に論じているわけでも、彼と対話しているわけでもないようです。(106ページ)
さてヘイズのこの観察にコメントするというよりも、ライトとヨーダーのアプローチに関する大雑把な印象として思うことなのだが・・・。

 ご存知のようにヨーダーはカール・バルトのもとで博士をやったのだが、ヨーダーにとっての「倫理」は教義学と倫理学のような関係(バルト)と言うより、もっとイエスの生とその延長と言うアナバプティスト神学的伝統に基づくものだったのではないか。

 その点においてライトの史的イエスの探求が歴史的・神学的・教会実践的総合の中で提示するあり方と、より近い相貌を帯びたのではないかと思う。

 最後にウォルター・ブルッゲマンとの絡みについても一言。

 ブルッゲマンが『預言者』から取り出そうとしている「モデル」は、「教会の文化幽閉」問題に対する批判であり、カウンター・カルチャー志向であったのではなかろうか。

 彼の場合は旧約聖書学者であったため『預言者』が最も有効なモデルとして提示されたのだが、ヨーダーの場合は『イエス(の政治)』の方が当然より高位のモデルとして位置づけられるだろう。
 
 (蛇足だが、ライトの場合は最早『イエスの政治』はモデルではなく、神の国宣教の終末的実現と、聖霊に推進された使徒・教会の遂行となるわけだろう。)


※長くなりました。これにて完。ようやく「二人目の神学者」を物色できます。

2014年9月6日土曜日

第3回 N.T.ライト・セミナー

久し振りの「N.T.ライト」ねたです。

別サイトの方に、今年で3回目となる、N.T.ライト・セミナー案内をアップしました。
ご覧くだされば幸いです。

今年は
休日(体育の日)
開催といたしましたが、会場探しに苦労し筆者の地元「巣鴨一丁目」となりました。


2014年6月25日水曜日

(4)雑想 2014/06/25

やはり同じテーマになってしまった。

言わずと知れた「『パウロ研究』の新しい視点」について。

あるブログ記事を読んでいて(賢い読者はすぐにお分かりと思うが)、このテーマを取り扱う環境が果たして日本で整っているのか、と言う懸念が一方であることを知らされた。

筆者のように『パウロ研究』と一応「学術領域での議論」であることを断ったとしても、警戒心を抱く方はおられるのだろう。それは無理もないことだ。

特に今頃、かつて70年代以降90年代にかけて一学術領域で盛んになされた議論(それだけでも約20年前となる)を日本に紹介するのは如何なものか--特にその議論が“福音派”を大いに分裂させた論争的なものであるとするならば--と言う見方も分からないでもない。

筆者のスタンスは「論争が巻き起こることを期待する」ものではない。

どちらかと言うと「第二神殿ユダヤ教」理解の積極的評価の可能性、としての研鑽そして受容である。


ただ、「パウロ研究の新しい視点」に対抗的な学者の方々が少なからずおられるので、その方面のことも最初から紹介しておいた方が宜しいと思う。


前回真っ先に挙げておいたThePaulPage、に「新視点」批判者・懐疑論者たちの論文を纏めたページがある。


ご覧のようにかなり沢山あって、とてもじゃないが読み切れるものではない。


たまたま読んだものを紹介しておこう。(上記ページにはリンクはされていないようだ。同著者のものはあるが。)

Sinclair Ferguson, Justification in Christ



ご覧の画像の本、Justified In Christ: God's Plan For Us In Justification の「少し長いイントロダクション」として書かれた論文である。


ファーガソンはここ50年間にもたらされた「福音」の“誤った再解釈”を嘆いている。

そして特にこの本が論敵にしている「新視点」の影響を危険視している。

もし(この本に寄稿している)批判者たちの「新視点」への懸念や疑念が、ファーガソンがこのイントロ論文でまとめている程度であれば、溝はそれほど深いものではないのだと個人的には思う。

そんな感慨を抱いた部分(論点)を三つ選んでみる。

The authors, it should be stressed, do not believe that salvation is received by a mere affirmation of the doctrine of substitutionary atonement and the imputed righteousness of Christ. But they do believe that unless the gospel is articulated in these terms (or worse, if they are denied) the good news about the Christ who does save and what it means to believe in him is distorted and the gospel is compromised.(強調は筆者。以下同様)
The "New Perspective" began life as a new perspective on Jewish faith and religion around the time of Jesus and Paul. In essence its contention is that the Judaism of this period of the second temple was - contrary to Protestant interpretations of the past - actually a religion of grace. It was most certainly not a religion of "works-righteousness." It did not teach that salvation is earned by self-effort. Rather, it held that salvation, or entry into the covenant community, was entirely a matter of grace. Thereafter obedience to the law was the way of remaining in the community whose principal external "boundary" markers were observing the Sabbath, the rite of circumcision, and the food laws. Consequently the teaching of Jesus and especially of Paul must be read (or re-read) in that light.
For Luther the great personal issue was how a sinful man can be justified before God. The "problem" the gospel solves was essentially that of his guilty condition before a righteous and holy God who abhors sin. Luther held that justification, being accounted righteous before God, takes place when the individual trusts in Jesus Christ who was "made sin for us, who knew no sin, that we might be made the righteousness of God in him" (2 Cor. 5:21). Like Calvin, Luther was awestruck by the wonderful exchange, in which our sins were accounted ("imputed") to Christ on the cross, and his righteousness was accounted ("imputed") to us through faith. For the Reformers, then, this "wonderful exchange" meant that a double imputation lies at the heart of the gospel. Thus justification was seen as "the standing or falling article of the church" (Luther) and "the hinge on which all religion turns" (Calvin).
と言うわけでファーガソンは、「新視点」が、「信仰義認」を再解釈することによって、「福音におけるキリストの贖罪のわざ」を軽んずる結果になっていないか、と言う点を重要視しているのではないかと思う。


やはりなかなか厄介な釈義的問題を孕んでいる、と言う印象。(双方が議論し合うだけでなく、双方の釈義がなぜ噛み合わないのかを説明する「解釈学的」視点も持ち込む必要があるのではなかろうか・・・。)

「新視点」を支持するにしても、伝統的「古視点(少し揶揄した感じでそう呼ばれている)」を支持するにしても、将棋やチェスではないが、双方一挙に形勢有利に持って行こうとしない方がいいのではないかと思う。


ざっとそんな感想を抱いている。

2014年5月10日土曜日

(4)最近購入した本とか

また(暫くぶりにかどうか) アマゾン(北米)から本を購入した。

今回は2冊中古本でした。
アマゾン(北米)で中古本を注文したのは初めて。 
Oliver O'Donovan, The Ways of Judgment (Bampton Lectures)
Condition: Used - Good
 
ハードカバーで値段は12ドル。
結局送料・手数料が高くついて、計3900円ちょっと。

4/27に注文確定して、昨日5/7届いた。

まっいいか。

その翌日、今度は中古と言うより新古書かな。
Craig Bartholomew, Jonathan Chaplin, Robert Song, Al Wolters, A Royal Priesthood?
A Dialogue with Oliver O'Donovan
Scripture and Hermeneutics Series, V. 3
これは次に紹介する殆んど同名タイトルの本をネットで検索していてたまたまヒットしたもの。ラッキー!
John Howard Yoder, Michael G. Cartwright, The Royal Priesthood: Essays Ecclesiastical and Ecumenical
これは某所でのヨーダー読書会で今月から読むテキスト。
早く入手できてよかった。
 
つまりこういうこと。
ヨーダーはキリスト教社会倫理で「非戦・平和」の立場を取るメノナイト神学者の勇であったが、彼が論敵としたキリスト教リアリズムのラインホルド・ニーバーとは少し違うが、オリバー・オドノバンは、脱キリスト教化する欧米にあって『キリスト教圏・界(Christendom)』の神学的遺産を言わば修復的に用いようとする点で、ヨーダーの批判者になるわけだ。
 
バーソロミュー等編者がどの程度それを含意してタイトルにしたのか・・・。
ただの偶然の一致なのか・・・。
非常に興味深いところだが、(暫定的に)結論から言うと多分後者。
 
インデックスを見た感じではヨーダーへの言及は殆んど見当たらない。
 
まっ、でもオドノバンに関しては昔から関心あったので、それにこの論文集の中に、N.T.ライトのものも入っているので、よしとしよう。
 
そしてついにそのライトのマグナム・オパス(主著)、
N. T. Wright, Paul and the Faithfulness of God
を入手した。
2分冊で1600ページが5600円余。安い、お値打ち。
 
最後はユダヤ人の新約聖書学者、
Pinchas Lapide, The Resurrection of Jesus: A Jewish Perspective 
この人のことは、ライトが『神の子の復活』で文献評に載せていたので気になっていた。薄い本なのでそれほどのものとは思っていないが、少なくとも立場がはっきり異なる人がナザレのイエスの復活の史実性を打ち出しているので、それが肝心かと。
 
さて他にも色々借りてきたり頂いた本などがあるので、どれだけ集中して読めることやら・・・。 

《追記》
一晩寝てから思い出した。
もう1冊あったのだ。
James K. A. Smith, Imagining the Kingdom: How Worship Works (Cultural Liturgies)
カルヴィン大学の教授だが、ここは例のニオ・カルヴィニズムの方々とは少し違った雰囲気を持つ大学のようだ。
かなり前からN.T.ライトを講師に、それも繰り返し招いている。
 
スミスは最近では(福音派)キリスト者に、カナダの(カトリック)社会哲学者、チャールズ・テイラーの「世俗化の時代」を噛み砕いて紹介しようとしている、なかなか開明的な方と見受ける。