2015年4月13日月曜日

(5)現代の英語圏神学者①、スタンレー・ハウアーワス余録・続(完)

思わぬ展開で、『余録』とその『続編』と言うおまけが付いてしまった。

余り関心のない読者にはマニアックな話題かもしれないがご容赦を。


今回、完結編ではハウアーワスとヨーダーの関係を取り上げる。

現在中断しているのだが、3年ほど前から出席している「ヨーダー読書会」を通して、The Politics of Jesus、を始め何冊かヨーダーの本を読んでいる。

ヨーダーについては、そう言うわけで、「進行中の人物」でもあり、また「(既に故人であるが)渦中の人物」でもあるので、この記事であまりあれこれ書くことは控えたい。

今回はただハウアーワスとの繋がりで浮上する幾つかの「点と線」について・・・。


ご存知のように、ハウアーワスはヨーダーとともに平和主義者であり、ハウアーワス自身は合同メソジストのメンバーでありつつ、神学的スタンスはメノナイトの伝統から影響を受けている。

ハウアーワスの平和主義神学に最も大きい影響を与えているのがジョン・ハワード・ヨーダーと言って差し支えないと思う。

・・・以上は「点」について。


20世紀の北米「神学と倫理」シーンにおいて、一個人が「平和主義者」であるか、それとも「義戦(正戦)論」に立つ、あるいは「現実主義」に立つ「戦争容認者」であるかは到底「イデオロギーを巡る対立的立場」で済まされる話ではない。

以下に紹介するハウアーワスの師匠(メンター)であった「ポール・ラムゼイ誕生100年記念」パネル・ディスカッション動画にある通り、多くの者たちは「平和主義者」として青年期を過ぎた後「現実主義者」に転向する(せざるを得ない)、と言う曲折を歩んでいる。


※3人のパネラーが、最初、三者三様の「ラムゼイ回顧」をするが、ハウアーワスがラムゼイ若かりし頃の「平和主義」シンパのエピソードを語っている。
 次に「平和主義者」だったジェフリー・スタウトが、イェール大神学部時代にラムゼイの本を読んで自身の平和主義理論武装を「ぶっ壊された」エピソードを紹介している。
※このスタウトの回想スピーチには、アカデミックな世界の人間模様についてかなり赤裸々で感情的なエピソードが含まれていて、幾らか内部事情を知っている者にとっては思わず「胸キュン」となる。筆者が見てきたユーチューブ動画の中でも「ベスト5」に入る内容豊かな一本。秘蔵版だ。

このスタウトの回想後、ハウアーワスが補足を継いでいる部分(35分40秒過ぎ)にヨーダー絡みのものが入っている。

ヨーダーが「キリスト教倫理学会」会長を務めていた時(1987-88)、晩餐会で「To Serve God and Rule the World」と題した(黙示録からの)会長スピーチをした。

ポール・ラムゼイが一緒に席についていたハウアーワス夫妻に、That man was hiding his light under a bushel. と評するコメントをした。

義戦論者で学会の重鎮であり、もう死期も近づいていたラムゼイが平和主義者ヨーダーへの賞賛の言葉として語ったこのコメントが、ハウアーワスには格別思い出深いものだったわけだ。

※ポール・ラムゼイ(Paul Ramsey)については神学遍歴⑨をご参照ください。
ちなみにそこで言及した「・・・デューク大学に寄贈された『ポール・ラムゼイ・コレクション』・・・」について、この動画でハウアーワスがその消息を紹介している。何とプリンストン大学も神学校も寄贈に応じなかったのでデューク大が頂いちゃった、とのことだ。へえー、そんなもんか・・・である。


議論を待つまでもなく、ヨーダーの神学的遺産はやはりThe Politics of Jesusなのだろう。以下にそのテーゼが要約されているように、イエスの倫理と教会論が一体となったキリスト教倫理へのアプローチは当時はユニークで画期的なものであったと言えよう。
His thesis, simply put but thoroughly and eloquently argued, was that Christian ethics begins not by finding ways to set aside the radicalness of Jesus' ethics, but rather by finding ways in community to take those ethics seriously. In other words, the church is to bear the message of the gospel by being that message.... (Mark Nation, John Howard Yoder: Mennonite Patience, Evangelical Witness, Catholic Convictions, p.25. からの引用。元はDavid Weiss, "In Memory of John Yoder...")
ヨーダーのインパクトは最近邦訳されたリチャード・B・ヘイズ『新約聖書のモラル・ヴィジョン』の


第3章「キリスト教倫理に対する史的イエスの意義」などでも取り上げられていますが、N.T.ライトとの関わりについては以下のように述べています。
 第3点ですが、ライトの研究にとって、イエスの関心を現実の世界史の中につなぎ止めることは本質的に重要です。ライトによれば、イエスが思い描いていた未来は、この世界から遊離した天国における彼岸的運命ではありません。それは、イスラエルの民の、この地上で継続する生における具体的な政治的未来なのです。
 その他の点でもそうですが、この点においてライトの構想は、ジョン・ハワード・ヨーダーが『イエスの政治』で描いた描写と深く結びついているように思われます。興味深いことにライトは、ヨーダーについて特に論じているわけでも、彼と対話しているわけでもないようです。(106ページ)
さてヘイズのこの観察にコメントするというよりも、ライトとヨーダーのアプローチに関する大雑把な印象として思うことなのだが・・・。

 ご存知のようにヨーダーはカール・バルトのもとで博士をやったのだが、ヨーダーにとっての「倫理」は教義学と倫理学のような関係(バルト)と言うより、もっとイエスの生とその延長と言うアナバプティスト神学的伝統に基づくものだったのではないか。

 その点においてライトの史的イエスの探求が歴史的・神学的・教会実践的総合の中で提示するあり方と、より近い相貌を帯びたのではないかと思う。

 最後にウォルター・ブルッゲマンとの絡みについても一言。

 ブルッゲマンが『預言者』から取り出そうとしている「モデル」は、「教会の文化幽閉」問題に対する批判であり、カウンター・カルチャー志向であったのではなかろうか。

 彼の場合は旧約聖書学者であったため『預言者』が最も有効なモデルとして提示されたのだが、ヨーダーの場合は『イエス(の政治)』の方が当然より高位のモデルとして位置づけられるだろう。
 
 (蛇足だが、ライトの場合は最早『イエスの政治』はモデルではなく、神の国宣教の終末的実現と、聖霊に推進された使徒・教会の遂行となるわけだろう。)


※長くなりました。これにて完。ようやく「二人目の神学者」を物色できます。

4 件のコメント:

  1. これはこれは、実に圧巻。すごい補助線いただいた気がしました。
    うーん、まさかライトまでかましてこられるとは。恐れ入りました。

    心から感謝しつつ。

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    1. どういたしまして。
      時にはお題をいただくのもいいですね。
      今度は私がオネダリする番でしょうか・・・。

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  2. いやぁ、いかなごのくぎ煮とか、関西甘味とか、NTらいとせみなーのじむかたなら、いつでもどうぞどうぞ。

    大頭先生のおねだりにこたえて、こんなサイトのコンテンツくらいなら、2日くらいで。(サイトは実作業1日)

    https://bible12session.wordpress.com/

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  3. (以下のコメントはメールでいただいたものだが、支障ない範囲で抜粋して掲載させていただこう。)

    いつもホーム・ページ楽しく読ませてもらっています。
    いい学びになります。

    さて 今回お書きになった ハウアーワスですが 日本に
    来られた時に講演を何回か聞く機会がありました。
    彼の講演を聞くために予習してそれから出かけたことを
    思い出します。

    「新約聖書のモラル・ヴィジョン」まだ読んでいなかったので
    早速読んでみたいと思っています。
    訳者の東方敬信先生はハウアーワスの翻訳もしておられ
    ます。この次の日曜日(16日)経堂緑岡教会の
    教会創立85周年記念の礼拝説教をしてくださる予定で
    おあいできると思っています。

    もう一人の訳者河野克也牧師は日本ホ-リネス教団
    中山教会の協力牧師です。お父さんがその教会の主任牧師
    です。日本ホ-リネス教団の中からもデューク大学で神学を
    学ぶ人が出てきたことは興味深いです。

    私はカ-ル・バルトの説教集や著作集は一応読みましたが
    現在改めて「教会教義学」を学習して(三回目)います。

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