2011年6月29日水曜日

井の中の蛙

「信仰の他流試合」と言う記事を先日書いたら、「親子別教会という選択」の元記事を書いた「命と性の日記」ブログに『「親子別教会という選択」からの発展記事の紹介』と言う題で紹介された。
このブログで紹介されると何しろ購読者がたくさんいるのであっという間にページ・ビューが跳ね上がることになる。

当方のように毎日のページ・ビューが50を越えるか越えないかと言うプログにはインパクトが大きく、『信仰の他流試合』記事はあっという間に『人気の投稿』のトップ5に躍り出てしまった。

さて、二匹目のどじょうを狙っているわけではないが、ちょっと関連したことを書こうと思う。

過去に「教理と政治歴史的文脈」「非キリスト者による信仰論」「『犠牲』と『贖罪論』の問題性」で東大教授で哲学者の高橋哲哉氏の「信仰理解」「宗教理解」に一定の可能性を感じたことを述べた。

また、先日、「生きる意味:柳澤桂子」でも、非宗教的信仰のあり方を模索している様子を垣間見た。

このように、「福音派」と言う殻で信仰なり、キリスト教なりを考えてきた筆者としては、「信仰の他流試合」で書いたように、自分の信仰を相対化した上で客観視する現代的文脈はどんどん広がっていることを感じている。

暫く前から「宗教間対話(英語では"interfaith"と表現される)」と言うことを思わされるようになってはいたが、ついぞ本腰を入れてこのテーマに手をつける機会を得ないままで来てしまった。

もうそろそろ何か始めなくては、と自問してみて、筆者の弱点として本気に他宗教のことを理解しようとしていないことを思わされた。

てなわけで、飽きっぽい性格なのでどこまで本気なのかは分からないが、先ずは手元に本を置いてみることから始めようと、図書館で本を借りてきた。

宗教の棚を探索しながら、イスラム研究の大家、文明思想家としても「巨人」と呼ばれている井筒俊彦の名前を思い出し、彼の「コーランを読む」(岩波セミナーブックス1)を借り出して読み始めた。

もう一冊は少し本題から外れるが、東大宗教学教授、島薗進の「ポストモダンの新宗教:現代日本の精神状況の底流」(東京堂出版)を借りてきた。

最近50代後半になってとみに思うのは、おつむの働きがかなり緩慢になってきたと言うこと。余り深く考えられなくなってきた。テーマは良いが遅きに失した感があるかもしれないがちょっとでも「信仰の他流試合」の宗教間的文脈、ポストモダン的文脈での思考をしておこうと思う。

そんな中今日はキリスト教の中では異色の立場と言える流れに属する伝道者の方と会話をしてきた。そしてその立場の歴史や人物、キリスト教に関する立場などの話をお聞きしてきた。
ご自身が若い時入信の自覚なく洗礼を受け、その後教会を飛び出し、禅宗や曹洞宗など仏教に入り込んだが「救い」は得られず、たまたま昔買っておいたその流れの著名な人物の本を読むことで現在の信仰的立場に至った経緯も興味深く伺った。


筆者の場合には自己の立場に悩みながら「宗教間」を模索するわけではないが、現代において「福音派対リベラル」のような内輪の対立を唯一の信仰の対立軸とするような視野狭窄を卒業し、少しでも広い視野で「信仰」の問題を深められるようになりたいと・・・。

まーちょっとそんなことを感じている今日この頃です。

2011年6月27日月曜日

『教会における聖書の解釈』⑤

カトリック教会の教皇庁聖書委員会の文書「教会における聖書の解釈」(和田幹男訳)のコメントの五回目です。

今日は『第4部 教会の命における聖書』についての感想です。

毎回感じることですが、文章は細部に渡って解説が必要なほど濃いものです。簡単なコメントを幾つか言って終わるにはとてももったいない内容を持っています。
残念ながら今回もほんの一部だけ選び出してコメントするに留めます。

では第4部のアウトラインを載せてみます。
A.現在化(Actualization)
  1. 原則
  2. 方法
  3. 限界
B.文化内順応(Inculturation)
C.聖書の活用
  1. 典礼における聖書
  2. 聖なる読書(Lectio Divina)
  3. 司牧宣教活動における聖書
  4. 教会一致運動(Ecumenism)における聖書
聖書は「神のことば」として、すべての時代、すべての文化の壁を越えて語られなければならない、と言う確信のもとに、「現在化」と「文化内順応」の原則、又その適用における陥穽や具体的間違いが述べられています。

その方法について書いてある部分をちょっと抜き出してみると、例えば「現在化」が示唆している事柄を垣間見ることが出来るでしょう。
 解釈哲学に発想を得れば、解釈の行程にはつぎの3段階がある。1.現在の状況にあって、そこから御言葉を聞く。2.聖書本文が照らし出したり、問題にしたりする現在の状況の諸側面を識別する。3.聖書本文の意味の充満から、キリストにおける神の救いの意志と整合性があって、現在の状況を実り豊かに発展させることができる要素を汲み取ること。
現在化によって、聖書は現実にある数多くの問題を明るみ出している。たとえば、教会の役務の問題、教会の共同体としての次元、貧しい人々の優先的選択、解放の神学、女性の社会的条件がそれである。現在化によって、現代人の意識が日増しに認めるようになった諸価値に関心が高まるようになることもあるかもしれない。そのようなものとして、人権、人命尊重、自然保護、世界平和への希求がある。
新しい歴史的文脈とその時代が包摂する課題に対して「神のことば」が当てはめられ、聖書の真理が教えられるよう「現在化」が目指されている、と言う考え方が良く分かります。

「C.聖書の活用」においてもプロテスタント側から学ぶことが出来る様々な示唆のある文章が散見されます。
プロテスタントのカトリック教会に対する固定観念としては、カトリックはミサ(典礼)中心で、プロテスタントはみ言葉の教えに重きをおく、と単純化しやすいです。
しかし、「典礼における聖書」に書かれているように、第二ヴァチカン以降の典礼改革の中に礼拝の中に聖書を重んずる、あるいは機能的に用いる取り組みが、ミサ時の「説教」や「三年周期の聖書朗読」に見られるのではないかと思います。

「聖なる読書(Lectio Divina)」はプロテスタント側のパイエティズム(敬虔の育成に用いられる聖書の学びと祈り)の伝統と重なるものがあるように思います。

「教会一致運動(Ecumenism)における聖書」では、諸教会の立場を超えて「聖書」を共にする(例えば、エキュメニカルな翻訳聖書作り)ことで具体的な道が見えてくるような気がします。

色々示唆に溢れた文章が続くので途中でどこかを切り取ってコメントするのは難しいのですが、あくまでプログに掲載する程度の軽いものとしてコメントを読んで頂き、読み通す気力のある方は是非本文の方をお読みください。

2011年6月25日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

6月26日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:1-31
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:7
説 教 題 「子であり、相続人でもある」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(62)
ガラテヤ人への手紙(50)
・4:1-7 子であり、相続人である

2011年6月22日水曜日

信仰の他流試合

いつものように定期巡回しているブログの一つ、「一キリスト者からのメッセージ」を読んでいた。
今日の記事はいやに長いなーと思いながら、いつものようにお得意の映画評論を絡めて書いているなー、と文章を読んでいた。ところが最後になって、
そういえば、いつも楽しく拝見させていただいている大和郷の教会の小嶋先生は、3世代目だそうであるが、http://sugamo-seisen.blogspot.com/2010/08/blog-post_22.html
この他の教会に行く、という選択について、どうお考えなのか、お考えをお伺いしたい気もします、とおねだりしてみようか、と思うミーちゃんはーちゃんなのでした。
とあったので一瞬虚を衝かれ、慌ててしまった。

「罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ」と題されたその記事は、「クリスチャン二世の信仰形成」あるいは「信仰継承」の問題をクリスチャンホームや教会という環境要因の面からどう捉えるか、ということを考察する文章であるように思う。

この考察は一部「命と性の日記」ブログのシリーズ記事
「親子別教会という選択肢」(1)
「親子別教会という選択肢」(2)
「親子別教会という選択肢」(3)
に触発されてのものでもあるので、その問題意識、問題提起を意識しながら以下に思いついたことを書いてみようと思う。

「命と性の日記」ブログのシリーズ記事の方は、二~三世代同一教会に通う「クリスチャンホーム」が一見理想的に見えるようで、子供の信仰的、人格的自立を阻む要素もあるのではないか。その視点から敢えて「親子別教会」という選択肢があるのではないか、と問題提起し、その具体的選択肢を幾つか提案している記事、と読んだ。

筆者の個人的経験の範囲では「信仰継承」の課題は、青少年の「救いの確立」という形で筆者の教会グループ指導層が取り組んだ経緯がある。
筆者が育った教会グループの青少年たちは、殆んどがクリスチャン二世で、青少年時に回心してクリスチャンになった者はごくごく少数であった。
だから「救いの確立」の問題とは、「回心したんだかどうかあやふやな青少年」たちに自分の救いを自覚できるようなよりピンポイントな教育、指導をすることであったように思う。

と言うのも筆者だけではないと思うが、多かれ少なかれ「罪」と「悔い改め」そして「イエス・キリストの十字架の死による赦し」は子供の頃から叩き込まれてきたのであり、ただそれが親主導の信仰ではなく、主体的な、自立した信仰になるように、と言うのが指導層の願いであった。
筆者のグループはそれを「親子別教会」と言うような形でではなく、グループ全体の青少年伝道事業として、セミナーやキャンプのプログラムを通して具体化したのだった。

このような試みはその後青年たちが自主的に青少年セミナーを企画・運営するような形で進展し、「信仰の自立」と言う課題に対し一定の成果を挙げた、と言うことができると思う。言ってみれば「hi・b.a.」(超教派高校生伝道団体)」やKGK(キリスト者学生会)のような働きをグループ内で自前でやっていたような気がする。

と、ここまでは「命と性の日記」ブログのシリーズ記事が言及している範囲での「信仰の自立」問題であると思う。

しかし「一キリスト者からのメッセージ」ブログの方は、実はもうちょっと欲張りな「信仰継承」「信仰の自立」問題を提起しているのではないかと思う。

その部分を端的に表す部分をちょっと長くなるが二箇所引用してみよう。
多様なキリスト者集団があり、それぞれ、独特なパターンがあるという認識を持つため、そして、自らの信仰の姿を見直すという意味で、信仰者の短期及び長期留学制度としての、親子での別教会という選択は、一つの考え方ではないか、と思う。もし、子供がそのことを望むのであれば、親としては、教会内での立場があったとしても、結果としての信仰の幅、人間としての幅をつける機会として、信仰者の短期留学制度としての別教会というのはあってよいと思う。いずれ、子供は独立する時期がくるのである。そのための親の練習としても、そのような機会はあってよいのではないか、と思う。自派だけが『正しい』キリスト教だ、という思い込みがどこかキリスト教会に集まる人々の中にないだろうか。あるいは、自派が正しいことだ、と思い込んでいることに対する反省をさせるためにも、他の教会という環境にあえて触れさせてみることも、キリスト者教育だと思うのですけれども。
このような観点からも、信仰継承問題と親子別教会の問題を考えることは重要かもしれない。そもそも、信仰継承問題とは、イエスがキリストあるいはメシアであるということに対する信仰の継承問題であり、自派の信仰理解の継承という狭い基準についての問題ではないはずである。キリスト者2世が、イエスはキリストであるということを認め得れば、カトリック教会に行っていようが、ギリシア正教会であろうが、プロテスタントのどのグループに行っていようが、信仰は継承されたと、ミーちゃんはーちゃんは思うのですけど、あまりにエキュメニカルすぎるかなぁ。
このようにこの記事の標題にも使ったが「信仰の他流試合」をして自分の信仰的基盤を形成した教会文化を客観視させる機会として「信仰継承問題と親子別教会の問題」が考察されている。

筆者の個人的な体験に照らし合わせると、「自覚的な救いの信仰」を確立させたのは筆者が20才の時であった。しかしそれは自分が育った教会文化(敢えて最近筆者が使用する言葉で言えば「大衆的福音派信仰理解」)の中での自立であり、その文化内での通過儀礼に過ぎない面があることをその後の在米留学経験、及び牧師になってからの福音理解の深化から反省的に言うことができる。

筆者は全部で4校、11年に及ぶ在米留学経験を持つ。一番最初の学校はバイブルベルトにあるかなり保守的な聖書学校。次は同じ州にあったこれも福音主義と言う共通基盤を持つがその中では保守的な傾向の強い神学校。そして次は東部エスタブリッシュメントの老舗神学校で、もはや「福音派かリベラルか」と言う線引き問題には一定の距離を持っていた。そして最後の学校はプロテスタント(ルーテル派、長老派、バプテスト、聖公会、ユニテリアン、など)、カトリック修道会(イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会)、仏教研修所(浄土真宗だったかな?)などが連携した、超リベラルとも、超エキュメニカルとも形容してもいい神学校だった。

言ってみれば右から左までのかなり広い幅の神学的背景の中で勉学してきたわけである。
その間最初は自己の信仰的あり方、福音理解、神学理解を断固維持しようとがんばっていた時もあったが、次第に良い意味で自己の立場を相対化しながら、自分とは違う立場や考え方の人からも学ぶことが出来ることを習得するようになった。

さて話を「人格的自立」と「個人的信仰の確立」に戻してみると、「親子別教会と言う選択肢」は自覚的選択である場合と言っても、摂理的(人間関係や社会的)要因など色々あると思う。
別教会が選択が可能な都市部とそうでない地域の問題も指摘されていた。

筆者がこれに加えて懸念材料とするのは信仰や礼拝形式等に対する「世代間ギャップ」の問題である。
「選択肢」と言うと聞こえはいいが、大衆消費社会の中では自分の感性に合った「礼拝音楽や説教スタイル」を選ぶ消費者行動的な基準で教会を選択する可能性もある、と言う点。

もう一つの懸念は既に北米などで明らかになってきているように、従来の福音派が抱合する「キリスト教」の枠組みに満足できない若い世代のキリスト者たちが、「進化論」の扱い方、「ホモセクシャリティーに対する態度」、「社会正義の問題や環境問題との取り組み」などで、親世代教会から離れ、制度的にもよりゆるい、コミュニタリアンなクリスチャン・グループ形成をしている傾向である。
イマージェントと呼ばれるこの運動は、一時的「親子別教会」ではなく、親世代教会文化に対するカウンター文化的な運動と位置づけることが出来る。

以上まとまらない文章を書いてきてしまったが、「信仰継承」を目指した「自立」支援でも、「イエスはキリスト」と言う神学的問題の枠で収まりきらない様々な政治的・社会的・倫理的問題での意見や立場の対立・分離に発展する可能性があることを指摘しておきたい。

子世代が信仰的に自立する時、親世代とは広範な分野で異なるライフスタイルや政治的、思想的立場を取る様になり、それが世代間での「キリスト教理解」に大きな溝を作ることが予見される。
この世代間ギャップは現在の北米福音派内における深刻な対立の縮図と見ることも出来よう。

日本の福音派においては未だ若い世代の親世代教会文化に対するチャレンジのような動きは露見していないようだが、もしそのような形で発展した場合「親子別教会という選択肢」の新たな、そして文化的対立と言う問題を含んだ局面を迎えることになるのだろう。

(※「みーちゃんはーちゃん」様、果たしてご期待に沿った返答になったでしょうか。それともピンボケになったでしょうか・・・。何か考えていたことに共鳴する部分があったらそれでよしとご勘弁ください。)

2011年6月20日月曜日

ゴシキドクダミ

当教会が位置する「大和郷」は、大正時代に広い宅地を持つモデル住宅街として分譲された。
300~400坪の敷地に草木や花が茂る広い庭、と言うのが魅力だ。
だが残念なことに殆んどの豪邸は高い塀を張り巡らして通りがかる人に素晴らしい庭を見せてはくれない。

だが教会の前庭は殆んどオープンな感じで開放されており、通りすがりの人が足を踏み入れることもたまにある。
庭木や花の手入れをしていると通りがかりの知らない人が声をかけてくることもある。

またご近所さんとの会話のネタにもなる。

先日道路に面している部分に咲いている赤い色の斑が入ったドクダミでひとしきり話が咲いた。「買ったのか。」
「もとから咲いているのか。」
「何ていう名前なんだ。」
と言ったような会話だった。


こちらは植物の名前はからっきしだめなので、買ったもので、建替えの間は裏の方に放り出しておいたものをまた植え直したら、こんなに増え広がったのだ、と言うようなことを話した。

その会話から暫く経った今日、その斑入りのドクダミの名前が載っていたよ、と新聞の切抜きを持ってきてくださった。

その部分を引用すると、
花だけでなく、品種によって葉も楽しめるドクダミである。ゴシキドクダミという日本産のドクダミは赤やクリーム色に斑(ふ)入りの葉を変化させるのが欧米で人気となり、「カメレオン」の異名で広がった。地味ながら海外にもファンをもつ日本のスーパー雑草である。

何と購入したものなので海外のものかと思っていたら、日本産であるらしい。
ゴシキドクダミが「カメレオン」か。
何か名前の通り変身だなー。

帰りしなにそのご婦人、「白い十字の花だから教会にぴったりよねー」と言ってくれた。
なるほどねー。
持って来てくれた毎日新聞の「余録」コラムの最後にはこの俳句が紹介されていた。
どくだみや真昼の闇に白十字 川端茅舎
(※毎日新聞『余禄』、6月14日)

2011年6月18日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

6月19日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:1-31
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:6
説 教 題 「アバ、父と呼ぶ御子の御霊」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(61)
ガラテヤ人への手紙(49)
・4:1-7 子であり、相続人である

2011年6月16日木曜日

生きる意味:柳澤桂子

柳澤桂子の「いのちの日記ーー神の前に、神とともに、神なしに生きる」(小学館、2005)を読み終えた。
その感想を書こうと思う。

柳澤桂子(ウィキ)の名前は耳に入っていたが、ついぞちゃんと読んだことはなかった。
新聞コラムでも度々お目にかかったはずだが、記憶に残るような読み方はしていなかったらしい。

実はこの本を求めて読んだわけではなかった。
読みたかったのは「いのちと放射能」の方であった。

3.11原発事故後ネットで色々読む中、あるブログ記事「毎日新聞が『脱原発』へ転換&柳澤桂子『いのちと放射能』」(気まぐれな日々)でこの本が紹介されていたので読みたくなったのだ。

その後暫く経ってようやく近くの図書館に仮予約を入れてみたら、案の定先に予約している人が四人もいた。で、この本はあきらめ、同著者の他の本を検索しているうちに興味を引いたのが「いのちの日記」であった。
もちろん目を引いたのは副題の「神の前に、神とともに、神なしに生きる」だった。彼女の宗教観、信仰観については全く知識がなかったのでミステリアスに響いたのだった。迂闊にもその副題がディートリック・ボンヘッファーからの引用だとは本を読むまで気が付かなかった。

まえがきに「しかし、私の半生を貫いて宗教観を述べた個人的“通史”といえるものは、本書がはじめてである。」とあるように、主に病の中を通して探索、思索した「宗教・信仰」の履歴と言える。

そのすぐ後「科学と宗教は、ものごとの両極端にあるようにいわれるが、私はそうではないと思っている。決して別のものではない。宗教も科学と同じように、人間の脳の中の営みである。いずれ科学がすべてをあきらかにするであろう。」と書かれているように、人類が達した宗教的叡智を科学的知見と紡ぎ合わせながら書き綴っていく。

引き続く病の中で柳澤さんは元薬師寺管長の橋本凝胤師の「人間の生きがいとは何か」を手にして読み始める。その時の『神秘体験』をこう綴っている。
 白く浮かび上がった障子を眺めていた私は、突然明るい炎に包まれた。熱くはなかった。ぐるぐると渦巻いて、一瞬意識がなくなった。気がついてみると、それまでの惨めな気持ちは打ち払われ、目の前に光り輝く一本の道が見える。
私は何か大きなものにふわりと柔らかく抱きかかえられるのを感じた。その道はどこへ行くのか分からなかったが、それを進めばよいことだけははっきりわかった。
しかし柳澤さんはこの神秘体験を仏教でも他の宗教的伝統でもなく、科学的な枠組みで説明しようとする。
 一般に、動物が強いストレスにさらされたときに、脳内快感物質が出るということは十分に考えられることである。たくさんの快感物質が出たときに、岸本氏の挙げているような感覚が生じても不思議ではない。神経の過度の緊張は、火となって感じられる可能性がある。
従って、「神秘体験」は、神秘ではなく、科学で十分に説明のつく現象であろうと私は考える。いわゆる宗教的な奇蹟体験の事例についても、おなじようなことが考えられる。
しかし柳澤さんの探求は病の進行とともに深くなっていく。
それは「教会の日曜礼拝に行って、牧師さんのお話を聞くような宗教」でも、「法事や年中行事で仏壇やお墓にお経をあげていただけば気がすむような宗教」でもなく、「深い宗教」であり、これは個人的に思索、探索するしかないと結論なさった。

そして手にしたのがエックハルトの「神の慰めの書」や暁烏敏(あけがらすはや)の「歎異抄講話」だったという。

柳澤さんの探索はさらに「般若心経」や深層心理学を経て「リアリティー」を一元的に捉える「心」の構造、宗教的に言えば「悟り」へと進む。 それをこんな風に表現している。

 宗教学では、このように信仰が進化すると言う考えは否定されているようだが、生物学的、進化学的に見ると、この仮説は捨てがたいものである。私自身は、人格神や特定宗派の教義にこだわらない信仰の形がありうると信じている。
しかし、アリエティやウィルバーが述べているように、私たちは「一次過程」の認識にもどるのではない。「二次過程」の認識を超越して、よりスピリチュアル(霊的)な精神作用を生み出す「三次過程」の認識に進化しなければならない。
もはや特定の宗派や教祖に頼っても必ずしも救いが得られるわけではない・・・・・・そんな“神なき時代”において、「悟り」という至高体験を得られる境地にたどり着くためには、私たち自身の力で、自らの心を耕し続けるしかない。たとえば読書をし、思索を深め、音楽や絵画などの優れた芸術作品に数多く触れることも大切だろう。
このような思索の流れの中で柳澤さんはボンヘッファーに出会い、「神なしの信仰のありよう」を彼の著作の中で共感を持って取り入れるようになる。
副題の「神の前に、神とともに、神なしに生きる」という部分を『獄中書簡集』の中から紹介している。
道徳学的・政治学的・自然学的な作業仮説としての神は、廃棄され、克服された。だが、哲学的・宗教的な作業仮説としての神も同様だ(フォイエルバッハ!)。これらの作業仮説を倒れるにまかせ、あるいは、とにかく可能な限り広くこれらを排除することは、知的誠実さの一つなのだ。(アンダーラインは筆者)
 これを柳澤さんはボンヘッファーが、「苦しみぬいて、イエスから脱出した。」と捉えている。そしてこうまとめている。
 再奪還されたボンヘッファーの内なる神は、苛烈な運命に翻弄される我が身の無力さを許し、不運につきまとう嘆き、呪い、絶望から救ってくれたにちがいない。内なる神からの癒し・救済によって、罪悪感と悔恨に満ちた自分を認め、許すすべを身につけること。そして得られる、病や老いや死などの運命と向かい合い、穏やかに折り合いをつけて生きていくための、こころの成熟
それは、限りあるいのちを生きるものにとって、最善の知恵なのかもしれない。絶対神に依存しないで、おのれの心の中に、自分を救い、自分を許し、いのちの再生を果たしてくれる存在を見出した偉大なる思索。ボンヘッファーの逆説を、私はそういうふうに理解したい。(アンダーラインは筆者)
 筆者の感覚ではこれはやはり柳澤さんの「神なき時代」を生きる者のための「最善の知恵」としての「スピリチュアリティー」の形なのだと思う。そのような形にボンヘッファーの非常にコントロバーシャルな一節を多少強引に解釈したものと考える。
ボンヘッファー解釈としては面白い部分もあるが、彼の思想全体の中で実証するのはかなり困難だというのが筆者の印象である。
(彼の獄中書簡はそれまでの神学的著作と違いかなりオープンな、解釈が多様な思索の発露であることは確かだ。しかしだからと言ってボンヘッファーが獄中という極限状況の中で柳澤さんの言うような「イエスから抜け出る」ほどの離れ業をやってのけたとは筆者には想像つかない。)


柳澤さんの「深い宗教」は、以前取り上げた高橋哲哉氏他の『殉教と殉国と信仰と』に関して述べた記事(これこれこれ)でも感じたことだが、大衆の宗教的必要をカバーする既成宗教とは距離を置いた、個人的に信仰のあり方を掘り下げ、純化しようとする「知識人の宗教的アプローチ」に通じているように思う。
筆者の勘では「非宗教的な信仰」の模索は今後より広く浸透していくだろうが、大衆的なというか既成宗教はそれと並行して維持されていくものと予想している。

とまあ引用が多く感想は少なかったが、興味深く読ませていただいたことは確かだ。

2011年6月13日月曜日

『教会における聖書の解釈』④

カトリック教会の教皇庁聖書委員会の文書「教会における聖書の解釈」(和田幹男訳)のコメントの四回目です。

今日は『第3部 カトリック聖書学の諸特徴』についての感想です。

前回は内容が絞られててコメントし易かったのですが、今回は第一部と同様内容テンコ盛り。適当に選んでコメントしなければとてもカバーできません。やれやれ。

では第3部のアウトラインを載せてみます。
A.聖書そのものの伝承におけるその解釈
  1. 再読(Relectures)
  2. 旧約聖書と新約聖書の関係
  3. 若干の結論
B.教会の伝承における解釈
  1. 正典の形成
  2. 教父たちの解釈
  3. 聖書解釈における教会の様々な成員の役割
C.聖書学者が果たすべき任務
  1. 基本方針
  2. 研究活動
  3. 教育活動
  4. 出版活動
D. 神学の諸分野との関係
  1. 神学と聖書本文の先行理解(precomprehension)
  2. 聖書解釈と組織神学
  3. 聖書学と倫理神学
  4. 異なる視点とその相互交換の必要性
この中で個人的に、プロテスタントとして、興味深いのは「B-3 聖書解釈における教会の様々な成員の役割」というところだ。
プロテスタントは聖書の解釈権を平準的に捉えることによって宗教改革時のカトリック教会の教導権に対して抵抗したわけであるが、それから今日まで5世紀近く経ってこの文書を読んでみると、大分プロテスタントに近寄ってきたような印象を受ける。
 それゆえ、このように教会のすべての成員に聖書を解釈するということにおいても役割がある。司教たちは、 自分たちの司牧的任務を実行する中で、使徒たちの後継者として、時代毎に聖書の解釈がなされてきたその生きた伝承の第一の証人であり、 保証人である。・・・司教の協力者として、 司祭たちには第一の義務として御言葉の宣教がある。・・・聖体祭儀共同体の司式者と信仰の養成者として、御言葉の奉仕者たちは、主要な責務として単に教えを授けるだけでなく、信徒たちが聖書を聞いて瞑想するとき、彼らを助けて神の言葉がその心に語りかけるものを聞いて、識別するようにしなければならない。
中世においてカトリック教会は「教える教会」と「教えられる教会」に二分されていたが、この文書では聖書解釈において「個々の信徒の役割」をどう捉えているかと言うと、
 聖霊は、当然キリスト教徒各自にも与えられており、彼らが自分の個人的生活の文脈の中で祈り、聖書を祈りながら学ぶとき、彼らの心が「中で燃える」(ルカ24:32参照)ようになることができるようになさる。・・・このように聖書を読むことは、まったく個人的性格のものとは言えないことを指摘する必要がある。信徒は教会の信仰の中で聖書を読み、また解釈し、つづいてその聖書を読むことの実りを共同体にもたらし、共通の信仰を豊かにするからである。
近代を潜ったカトリック教会は聖書解釈において歴史的批判的方法や、信仰共同体を豊かにするあらゆる近代的視点やアプローチを受け入れる用意がある、と言う開明性を備えている。問題は教導権をどのように処理するかと言う点であるが、プロテスタントが個人的聖書解釈権の原則に立ち分裂の連鎖を続けてきたのに対し、やはり教会の信仰の一致と言うことで教導権を保持することは妥協しないようである。
 すでに述べたように、聖書が教会全体の財産であり、司牧者と信徒たちすべてが「保ち、信仰宣言し、協力して実践に移す信仰の遺産」の一部をなすとはいえ、「書にされたものにしても伝承されたものにしても、神の言葉を権威をもって正しく解釈する任務がただ教会の生きた教導職に委ねられており、その権威はイエス・キリストの名において行使される」(『デイ・ヴェルブム』、第10項)ということも、依然として正しい。それゆえ、このように最終的には、教導職には聖書解釈が正真正銘であることを保証し、万一の場合、ある具体的な特殊な解釈が正真正銘の福音とは相容れないことを示す任務がある。教導職はキリストの体としての心が通う(KOINONIA)中で、この任務を果たすのであり、教会に奉仕するために教会の信仰を公に表現する。教導職は、この目的で神学者や聖書学者その他の専門家に諮問するが、それはその正当な自由を彼らに認め、彼らとは「自由を与える真理の中で神の民を守る」という共通目的をもって相互に関係し結ばれているからである(教理聖省『神学者の教会的召命に関する指針』、第21項)。
筆者の知る限り、聖書の個人的解釈権から派生するプロテスタント諸派の安定性のなさから、北米などではカトリックに改宗したり、聖書解釈中心より典礼的な要素の強い正教に改宗する者たちが増えている印象がある。
カトリック教会の教導権の主張はそう言う時代背景からは改めて強みになる可能性があるように思う。
逆を言えば聖書解釈で泡沫的になってしまうプロテスタント教会の中に、どのように「教えの一致」を保つ機能を発揮するかも問われているように思う。

とまあ、ほんの一部についてしかコメントできませんでしたが、カトリック教会の柔軟さと剛健さが両方垣間見られたように思います。

2011年6月11日土曜日

明日の礼拝案内

ペンテコステ主日礼拝

6月12日 午前10時30分

説教箇所 ルカによる福音書 7:11-17
説 教 題 「もう泣かなくともよい」
説 教 者 後藤亮兄弟

※礼拝後昼食会があります。

2011年6月9日木曜日

アダムとイブの史実性の問題、追記

昨日ポストした記事に「はちことぼぼるの日記」ブログのはちこさんから、ツィッターでレスを頂いた。

昨日のCT記事でも名前が挙がっていたティム・ケラー師のCreation, Evolution, and Christian Laypeople (pdf) をはちこさん(中村佐知さん)が翻訳してネットで公開されているのを教えてくださったのだ。

一読してケラー師が、「進化論(科学)と信仰(聖書解釈及び聖書の権威)」の問題に、信徒の悩みや疑問に答え導く牧師としてこの文を書かれていることに感銘を覚えた。

牧師として、科学、聖書解釈、神学の専門家ではなくとも、それらを読みこなし、専門家の知見と信徒の疑問との橋渡しをする責務が牧師にあることを指摘されていた。

筆者はそのような牧会的局面に殆んど立たされたことはないが、彼が感ずるこの牧師の責務の大変さの幾分かは、昨日の記事で懸念として表明させていただいた。

さて「アダムとイブの史実性の問題」にティム・ケラー師の「創造と進化ーー牧会者の視点から」
はかなりの紙面を割いてその受け止め方を書いている。
ケラー師は「聖書の権威」を保持する保守的な考え方の持ち主とお見受けするが、科学(進化論、特に生物学的進化論)と聖書箇所、特に創世記の調和のさせ方は柔軟であり、対立的な立場を取らず可能な限り「自然啓示」と「聖書啓示」とをバランスさせようと努力しておられる方である、と見た。

結論としてはケラー師は「アダムとイブの史実性」を保持する調和のさせ方を選択するが、そのような立場をとっても当該聖書箇所の解釈の仕方には幾通りかの選択肢があると指摘している。

是非お読みになって、昨日の筆者の物足りない文章に対する消化不良を解消してください。

(※それにしてもこのような文章の翻訳をボランティアしてくださるはちこさんに感謝です。)

2011年6月8日水曜日

科学と人類の始祖アダムとイブ

「クリスチャニティー・トゥデー」誌でこの問題が最近の福音主義論争において大きな火種になりそうであることを伝えている。

The Search for the Historical Adam

一般のキリスト者は依然として創世記1-3章を歴史的叙述として読むことに慣れている。
人類の祖先であるアダムとイブが歴史的な存在であることも余り議論せずに受け入れていると思われる。

しかしここに来て人類ゲノム解析や進化論的科学が立証するデータが、「アダムとイブ」が人類全体の唯一の祖先、つまり歴史個人的存在として理解するのは困難である、との見方が勢力を強めている。
「アダムとイブは神が直接創造された人類全体の祖先」とする保守的福音主義信条が最早議論抜きでは多くの知的福音主義キリスト者に通用しなくなってきている。

その推進力になっているのが国立衛生研究所長官、フランシス・コリンズ氏と、コリンズ氏が創設した「バイオ・ロゴス財団」だ。



とまあそんな書き出しでまとめられている記事だが、筆者は何しろ門外漢なので内容の細部に渡っては論評できない。是非読んでみて最近の動向を理解して頂くしかない。

そもそも一時代前の「科学と信仰の調和」は、「科学」と「信仰(神学)」との対等な関係を前提にしていたようだが、福音主義クリスチャンでありながらダーウィンの進化論を主張するコリンズ氏やその仲間たちは「科学的証拠」を伝統的な聖書理解を左右する根拠にしている、と筆者には思える。科学がリードしている。その意味で二者は最早対等ではないのではないか、との印象をもってしまうのだ。

「アダムとイブが人類の最初の夫婦」と言う概念は科学的証拠からは残念ながら肯定できない、とするコリンズ氏たちの主張は伝統的キリスト教教義の再考を促すことになる。
「神の像」「原罪」「堕落」「イエスの系図(ルカ)」「人類全体を覆うキリストの贖い(パウロ)」もそのインパクトを受けるだろう、とリチャード・オストリング記者は推測する。

「ヤングアース創造論」「オールドアース創造論」「インテリジェント・ディザイン」の立場すべてをコリンズ氏と「バイオロゴス研究所」に関係する学者たちは否定する。そして最新の科学的データに合致する知的に洗練された「神論的進化論」福音主義を推進する。
勢い関連する聖書箇所の解釈でも科学的データを重視する態度が強いように思う。

この論争はまだ学者・識者間での論争だが、一般信徒のレベルまで降りてきたらどうなるのだろうか。相当の混乱を引き起こすことが予想される。
伝統的な解釈に留まろうとする力と、科学的に開明的な理解を取り入れようとする力が個々人の心のうちで拮抗するようなことになるのだろうか。

科学的誠実さと信仰とは両立する、とはコリンズ氏の信念だが実際においては一般信徒はコリンズ氏のように科学的データをコントロールして信仰と両立させるすべを持っているわけではない。
世は(科学的)専門家の意見、それも対立する意見の間を行ったり来たりせざるを得ないのではなかろうか。

信仰的に柔軟であることは、伝統的聖書解釈や教義的信仰を変更する開明さを持ち合わせている。
しかしオストリング記者が指摘するように、これが神学的人間理解の根幹を揺さぶるとなると、果たして体裁のいい調和は可能だろうか。むしろ「科学的実証的データ」を優先させる立場に立たないと終始一貫しない、ということにならないだろうか。
「科学」と「信仰」を調和させると言うのはこの段階まで来るとそう簡単ではないように見える。

そんな懸念を覚えながらこの記事を読んだ。

2011年6月6日月曜日

もしこのブログが非公開だったら

このブログを始めて11ヶ月が過ぎた。
ブログは個人のダイアリーのようなもので、非公開に出来るし公開して不特定多数の読者にも読んでもらうことができる。
筆者は最初から「大和郷にある教会」とタイトルを付けてしまったので、個人的な側面は余り考えていなかった。
ツィッターを始めたのでその翌日勢いに任せてブログも始めてしまったのだ。

当初の意図はツイッターもブログも「教会の伝道」ツールのようなイメージで考えていた。
多少その線で頑張っていた時期があったが、公開ブログを継続して読んで貰うためには更新が欠かせない。
多少なりふり構わず「ネタ」を探して書いているうちに、いつしか牧師の個人的雑感のようなブログになってしまった。
そのこと自体はそれほど悪いこととは思っていないが、それならばブログのタイトルもしかるべく改名すべきなのだろうがそのままにしてある。

牧師と言ってもいろいろで、筆者が普段読んでいる「牧師のブログ」を書いている牧師たちはなかなか関心が広い方が多いようである。
うらやましい限りである。
こちらは引き出しが少ないので「ネタ」につまってしまう。
頑張ってもどっちみち聖書や神学関係が多くなってしまうのだ。

そんな時「非公開ブログ」であったらもっと自由に書けるであろうに・・・と夢想する。
別に自由に書きたいことを書けばよいではないか、と言われても筆者は余り器用に書き分けられない。
いや器用に書き分ける、と言うのがあるいはおかしなことなのかもしれない。
でも筆者の場合は説教でもそうなのだが個人的なエピソードを余り持ち込まない、いや持ち込めない方なのだ。
だから「非公開ブログ」であっても恐らくそれ程は自分をひけらかすと言うか、自分の心の中をつまびらかにすることはしないであろうと想像する。

一日の中で様々な想念、情念、記憶のフラッシュバックなど、もし書き付けようと思えばいくらでもあるはずである。
しかしそれを何かに書き付けると言うことは取捨選択のフィルターがかかってしまい、どうしても内容が抑制されてしまうのである。

読むのは楽だが書くのは苦痛だ、とはそんなことも関係しているだろう。

ジェンダーと言う語があるが、自分の心の赴くままに語れるのは女性の方が得意なのではないだろうか、とよく思ったりする。
男性は、と言うと妙にプライドや「沽券」に引きずられ、表現が抑制されたり慎重な物言いになってしまったりするのではなかろうか。
そんな肩肘張った物言いから解放され、あっけらかんと物を書けたらどれほど楽だろうに、などと勝手に思ったりする。
そうすれば書いたそばから(記事を公開した後から)あれは書かなきゃ良かった、とか、あの部分の発言はもうちょっと内容をチェックしてからにしておけば良かった、とか、未練がましい思いをしないで済むのに、と思ったりする。

さて、今日は「ネタ」なしにいくらか自由に書くことが出来た。
別に何ということは無い戯言だ。

これで記事になるかどうかは読者の判断にお任せしよう。

2011年6月4日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

6月5日 午前10時30分

説教箇所 ヨハネの福音書 15:1-10
説 教 題 「もっと多く実を結ぶために」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。
※次週、ゲスト説教者、後藤亮兄です。礼拝後昼食会があります。

2011年6月3日金曜日

「ミツバチの羽音と地球の回転」

標題タイトルの自主上映ドキュメンタリー映画を早稲田奉仕園で見てきた。

映画のオフィシャルサイト

鎌仲ひとみ監督のドキュメンタリー映画としては三作目のようだが、「ヒバクシャ -- 世界の終わりに」「六ヶ所村ラプソディー」に続く原爆、原発から来る被爆の問題群を一貫して追跡している映画である。

今回の映画の構成は二つになっている。
メインは中国電力・上関原発反対運動に島をあげて取り組んでいる祝島の人々の生活ぶりである。漁業と農業で暮らす高齢化の島。島と島を取り囲む環境に対する島民の思いがひしひしと伝わってくる。そこに無理やり原発を持ち込もうとする大企業と島民との闘争。力関係から圧倒的不利なのだが、島民は一致団結して反対運動に体を張って取り組んでいる姿が感銘を与える。

間に挟まれているのは人々の生活と密着したエネルギー政策を地域の人々が主体的に選択しているスエーデンの村の様子。またエネルギー転換や節電、エコを推進することで企業価値を高めようとする試みなどが紹介されている。自分たちが使うエネルギーを自分たちで選択する、というスエーデンの姿が原発問題を抱える日本の将来にヒントを投げかける。

監督の原発に対する姿勢は明確だが、映画はそんなイデオロギーがかったものではなく、島の生活を、島に生きる人々の考えを丹念に描いている。彼らの反対運動は真剣だが、四六時中眉間にしわ寄せているだけでなく、ユーモアや人間性を感じさせる場面が幾つも描かれている。

2時間15分はちょっと長い気もするが、全体に「人が生きる」原点を随所で考えさせてくれる点ドキュメンタリー映画の強みではないかと思った。

上映後は鎌仲監督の30分を越えるトークがあり、福島第一原発による内部被曝の危険などに関して、今までの自身の映画製作を通して蓄積された被曝に関する薀蓄を披露してくれた。
来場者の中には問題意識の高い方も結構いたであろうし、既に既知のことも多かったであろうが、監督の啓発的でいて機知に富んだトークは聞いていて気持ち良いものであった。

このブログで取り上げた原発問題に関する情報源となった人々(小出裕章、後藤政志、田中三彦、藤田祐幸、石橋克彦、広瀬隆、広河隆一、等)は今や多くのメディアに取り上げられるようになった。
鎌仲監督も日本の今後のエネルギー選択を考える上で映画の中でも取り上げた飯田哲也氏や田中優氏などの名前を挙げていたが、代替エネルギーにせよ内部被曝の危険にせよ、とにかく私たち自身が必要な情報を自分で確保する大切さを強調されていた。

※入場料1,000円はすべて義援金として寄付されるそうである。
【義援金送付先団体】
測定器47台プロジェクト(リンク)    
母乳調査・母子支援ネットワーク(リンク)

このような草の根的啓発運動が今後も市民の原発問題への意識を高め、選択できる社会へと変えていく力となることを願う。

是非皆さんも機会があったらご覧ください。

2011年6月1日水曜日

『教会における聖書の解釈』③

カトリック教会の教皇庁聖書委員会の文書「教会における聖書の解釈」(和田幹男訳)のコメントの三回目です。

今日は『第2部 解釈学の諸問題』についての感想です。

先ず前回と同じように第二部のアウトラインを載せてみます。第一部と違って分量は少ないので混み入ったアウトラインではありません。
第2部 解釈学の諸問題   
A.現代哲学の解釈学
1. 現代の展望
2. 解釈する場合の有用性
B.聖霊の息吹を受けた聖書の意味
1. 字義的意味(The Literal Sense)
2. 霊性的意味(The Spiritual Sense)
3. より充足した意味(The Fuller Sense、Sensus Plenior)
第一部では聖書を解釈する時の様々な方法論やアプローチが紹介され、評価されました。
第二部ではこれらの方法論やアプローチをどう取り入れるかどうかに拘わらず、テキストを解釈することに伴うより大きな「枠組み的な問題」に関して、『解釈学』と言う哲学が果たしてきた役割と、それによってテキストが持つ様々な意味の次元、聖書のテキストで言うと三つの次元を紹介します。

『解釈学』の祖として名前が挙げられているのは、シュライエルマッハー、ディルタイ、ハイデッガーですが、ここではそれをさらに発展進化させた、ブルトマン、ガダマー、リクールの業績が簡潔に紹介されています。

筆者が「(哲学的)解釈学」に出会ったのはプリンストン神学校での、ギブソン・ウィンター(Gibson Winter)教授の授業からでした。ウィンター教授は社会倫理の専門でしたが、特に社会理論、社会学の限界性を克服するような意図で解釈学、特にハイデッガーの理論を授業に持ち込んでおられました。
当時はちんぷんかんぷん、と言う感じでしたが、解釈学の持つ影響は深いものだと感じていました。解釈理論は伝統的には古典テキストを解釈する際の諸問題を扱うディシプリンだったのですが、現代では哲学や人文科学など広範囲にカバーするものになりました。

当時ウィンター教授に「解釈学入門」として推薦されたのは、Richard E. Palmer のその名もずばり「ハーメニューティックス」です。副題は、Interpretation Theory in Schleiermacher, Dilthey, Heidegger, and Gadamer、となっています。

『教会における聖書の解釈』では、「テキストと解釈者の時代的・文化的距離の問題をどう乗り越えるか」、と言う視点でブルトマン、ガダマー、リクールの3人の視点を紹介していますが、ブルトマンの場合は解釈哲学と言うより、ハイデッガーの実存的解釈哲学の聖書解釈への応用と言う意味でその影響が大きいのでガダマーやリクールらと並べられているように思います。

聖書はつぎつぎと続くすべての時代のための神の言葉である。したがって、文学批判、歴史批判の研究方法を、より大きい解釈の模型の中に組み入れることを可能にする解釈学の理論を無視することはできない。問題は、聖書本文の著者とその最初の宛先人の時代とわたしたちの現代という時代の距離をいかに克服し、キリスト教徒の信仰生活を養い育てるために、いかに聖書本文のメッセージを正しく現在化すればよいのかにある。すべての聖書解釈は、現代の意味での「解釈学」によって補完されるよう呼びかけられている。
と言うわけで聖書テキストの解釈は、解釈学的洞察を要請することになるわけだが、対象となる聖書テキストは次のような特殊な解釈対象であるという。
聖書解釈は、 すべての文学的歴史的文書一般の解釈と同じであるとしても、 同時にこの解釈にとって独特なケースでもある。 その特殊な性格はその対象から来る。 救いの出来事とそのイエス・キリストの人物における成就は、 全人類の歴史に意味を与える。 新しく歴史の中でなされる解釈は、 その豊かな意味の開示であり、 明示でしかありえない。 これらの出来事を伝える聖書の叙述は、 ただ理性だけでは完全には理解されない。 教会共同体における生きた信仰と聖霊の光のような、 特殊な前提事項がその解釈を左右する。 霊における命の成長と共に、 聖書の読者の中で聖書本文が語る現実の理解も成長する。
第二部では聖書テキストの意味(センス)を引き出す解釈として従来あった「字義的意味」と「霊性的意味」と言う捉え方に対し、歴史的批判的方法が「単一の意味」に限定しようとしたのが、ここにきて意味論的また哲学的解釈論の立場から「意味の多義性」が受け入れられる状況になっている、と指摘する。
その上で聖書のテキストを、三つの「意味(センス)」、すなわち、「字義的意味」「霊性的意味」そして「より充足した意味」で捉えられることを示そうとする。

字義的意味は、聖書テキストの著者がその時代の読者に対して意図した意味で、歴史的批判的方法によって解釈されるべき優先的な意味であるが、しかし聖書のテキストはその時代的制約に拘束されるものではない。

新約聖書がしばしば旧約聖書をキリストの出来事、聖霊の現実の光の下で新しい意味で解釈されるように、そのようにキリスト教は旧約聖書を「霊性的意味」で理解しているものである。

「より充足した意味」とは後代の聖書著者がある聖書テキストをその意図した字義的意味を超えて啓示的により十分な意味を付与するような解釈のことである。(例、マタイ1:23とイザヤ7:14の関係)

とまあ、簡単に三つの「意味」の簡単な説明を試みてみた。
説明的には「霊性的な意味」と「充足した意味」とを「字義的意味」から区別することはできるが、それは単にテキスト解釈の範囲に限定されるものではなく、テキストの新しい時代への適用、応用と言う実際的な関心から出てくるのではないか、とも思われる。新約聖書における「(旧約)聖書」の具体的扱い方を追跡していくと、様々な牧会的、宣教的文脈において聖書テキストの意味の開放性が見て取れる。
別な新約学の視点から言えば、それは聖書テキストの相互関連性(インターテキスチュアリティー)にも通じるものではないだろうか。